2019年08月18日

残暑の季節に出会った晩秋の音楽

FM放送などでふと耳にして、どこかで聴いた覚えのあるなつかしい曲なのに、俄には誰の何という曲かわからなくて、ホゾを噛まされることがよくある。曲の終わりに「ただいまのは……」とアナウンスしてくれるかも知れないという淡い期待も打ち砕かれて、もうそうなるとあとは記憶から遠離るのを待つしかない。たいていはそういう結末を迎える。先日も同じようなことがあって、ああまた今度もかと初めから諦めていて、実際もう半ば忘れかけていた。ところが、偶然というのか必然というのか、その曲に巡り会えるという稀有なことが起こったのである。
いつもイヤホンで音楽を聴きながら寝るのだが、いつもは数曲聴くか聴かないかで寝就いてしまうのが常なのに、その時はめずらしくCDの終わりまでいってしまった。半ば眠ったような状態のまま、iPhoneで次のアルバムを探そうとした。なぜそのアルバムを選んだのか、その時の心の動きは自分でも明らかにできないのだが、ともかくそのアルバムの、しかも初めからではなく、特定の1曲を選んだのだった。そのアルバムを選んだのも偶然、その中の途中にあるその曲を選んだのはさらに偶然……。
温が木が静かに流れ出す。すぐにはあの曲だとは気付かなかった。しかし、なつかしさが徐々に満ち溢れてくる。ああ、諦めていたあの曲だ! 心が満たされてくるのがわかる。ああ、あの曲に違いない、このあいだのあの曲だ。ラジオから流れてくるのを聴いた時と同じ心の満たされる体験を、半分寝ながらではあるけれど味わっていた。そのままぐっすりと寝に就いたのだった……。

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その曲は、ブラームスの間奏曲イ長調。作品118の6つの小品の、2曲めに収められた5分たらずの曲である。感情をうちに秘めながら、それを抑えて静かに展開する。中間部で短調に移行し一瞬思いを吐露しそうになりながら、長調との間を行きつ戻りつしながらそれをそっと抑えて、何事もなかったかのように終結の長調に戻る。
今回、この間奏曲にイ長調に出会ったCDは、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・シュヌアーの弾くブラームス・ピアノ作品集である(MM2146)。大江健三郎さんの本で知り、主題と変奏曲ニ短調作品18をめあてに求めたものである。曲が曲だけに、そうしょっちゅう耳を傾けてるような曲ではないし、作品118と作品119の小品集が一緒に収められているのはわかっていたが、一通り聴いたあとは、あまり食指は伸びないアルバムだった。
最初に聴いたのが誰の演奏だったのかはもう覚えていないけれど、このブラームス晩年の小品集が珠玉のような作品であることは記憶していた。猛暑の季節になぜこの晩秋そのものの音楽を聴きたくなったのかは定かでないが、半分眠った状態の神経が、ひとときの安らぎを求めたとしかいいようがないだろう。
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・シュヌアー.ブラームス・ピアノ作品集(MM2146).jpg
〔フリードリッヒ・ヴィルヘルム・シュヌアー、ブラームス・ピアノ作品集(MM2146)〕

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不思議なのは、けっして2曲目のこの間奏曲イ長調を意図して選んで聴こうとした訣ではなかったことである。シュヌアーのCDに晩年の小品集が入っていることは覚えていたから、それを聴きながら癒やされて寝たいと漠然と考えたものらしい。ところが、並んでいる曲名をタップする際に、「6つのピアノ小品作品118間奏曲」、と書かれた行が第1曲であるのに、次の行の「間奏曲」と書かれただけの第2曲に先に目が行ってしまったらしい。寝ぼけ眼で選曲したために、まさに運命の作品118-2と出会うことになったのだった。
1曲の違いだから、118-1を選んでいたとしても、次に118-2は出て来る訣だから、遅かれ早かれ耳にしていた可能性はあるのだけれど、そこまで目覚めていたという保証は全くない。2曲めが流れ出す前に寝てしまっていた可能性が高いのではないかと思う。この曲を聴くために、まるで曲に導かれるがままに、無意識のうちに操作していた、そんな風にしか考えられないのである。
FMで耳にして、曲名を明かさぬままそれが消えてしまったとき、誰の曲だろうかと考え、シューマン、ブラームスは真っ先に候補に上った。しかし、あまり聴いたことのないドビュッシーの前奏曲とかの可能性はないのかとかと考えたとき、ああもうこれは探し当てられる可能性は限りなく小さいなと、諦めてしまっていたのだった。それがこんなふうに解決を見ようとは!

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ブラームスの音楽は、一言でいえば晩秋の音楽である。気持ちの昂揚しているときに聴く音楽ではないだろう。常に愛聴するような音楽でもない。しかし、ふと、聴きたくなるときが必ずある、そういう音楽である。暗いのは確かだろう。それを諦観と呼ぶとすれば確かにそうなのだが、それはけっして諦めではない。確固たる信念に支えられた、先を見据えた思い、それは一つの境地といってよいものだろう。
繰り返すが、毎日耳にしたいと思う曲ではない。しかし、この曲を存在を知っていることが、人生のさまざまな場面で必ずや何かしらの意義をもつであろうことを確信できるのだ。バッハやモーツァルトのもつ普遍性とは異質といえようが、ともに人類の至宝であるのは敢えていうまでもあるまい。
ラベル:音楽 CD 季節
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2019年08月14日

敗戦の日を迎える前に

明日はもう敗戦の日。鎮魂の夏を締め括る一日、のはずである。しかし、日増しに悪い方へ悪い方へと動いているようにしか思われない世の情勢に、暗澹たる気持ちを禁じ得ない。あれだけの犠牲を強いておきながら、どうしてまた同じ道を歩もうとできるのだろうか? 権力とは怖ろしいものだ。この人は、人としての心を持っていないのだろうか、と唖然とする発言が当たり前になってしまっている。なんと身勝手で愚劣、幼稚な政治家の多いことか。
そんな中での一抹の救いは、人の良心を示す言葉に接する機会が多いことだ。手をこまねいてばかりはいられない。

田上富久長崎市長の言葉(2019年長崎平和宣言)
http://www.city.nagasaki.lg.jp/heiwa/3020000/3020300/p033237_d/fil/japanese.pdf
原爆は「人の手」によってつくられ、「人の上」に落とされました。だからこそ「人の意志」によって、無くすことができます。そして、その意志が生まれる場所は、間違いなく、私たち一人ひとりの心の中です。

越前屋俵太さんの言葉
https://twitter.com/echizenya_hyota/status/1157141760427999232
偉そうな社長、偉そうな政治家、偉そうな公務員、偉そうな大学教授、偉そうな新聞記者、偉そうなお笑い芸人。彼らはなぜ威張りたがるのか? よほど昔に馬鹿にされた事があったのだろうか? それとも自分は他の人間より優れているとでも思っているのだろうか?そんな人間のいる国に平等なんて存在しない。

中村洋子さんの言葉
https://blog.goo.ne.jp/nybach-yoko/e/1deb5d1b98ef0bb927ef07818456db63
https://blog.goo.ne.jp/nybach-yoko/e/84b6d368b90bee2997e2d4868fe05b9c に再掲)
本日は、J.S.BACHバッハの命日です。1685年3月21日に生まれ、1750年7月28日に、亡くなりました。天変地異の続く日本に、住んでいますと、人間にとって、地球はかけがえのないものですが、地球にとって、人間は本当に、かけがえのない存在であるのか、疑問を感じる毎日です。
環境を破壊し、傍若無人に振舞っている人類ですが、負の部分ではない、真の価値は何か、と考えれば、「私たちは、バッハの音楽をもっている」ということです。

うれしい出来事はたくさんあった。今も現に感謝してもし尽くせないことが起きている。しかし、それらを迎えるこれから先の世の中のことを思うと、あまりに切なく、自分の言葉をまとめようという気力が起きず、2週間も文章を書けずにいた。勇気を与えられ救われた言葉をこんな形で並べるだけで済ませてしまうことをお許し願いたい。
細々と聴き続けているバッハのカンタータ、今日はBWV45をリリングで聴いた。第1曲の合唱のなつかしく優しい響きに、思わず涙腺が緩み、中村洋子さんの言葉をかみしめた。失念していたけれど、昨年は淡々とこの曲の聴き比べをやっていた。こんなに身に滲み入る曲であったとは!

敗戦の日の明日は台風の上陸が予測されている。ゆっくり鎮魂の日を送ることも許されないのか。いや、きっとそうではないのだろう、これは天の怒りのように思えてならない。
いずれにせよ、数年前に紀伊半島に大きな水害をもたらした台風に似通ったコースを北上する台風10号。大きな被害が出るようなことがないよう心から祈りたい。
ラベル:バッハ 言葉 日常
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2019年07月31日

BWV76の聴き比べ(その2)

BWV76の聴き比べ(その1)よりつづく)今日で7月もおしまい。本格的な夏の到来に、ある意味ホッとしている日々である。でも、この暑さもここ数日がピークのようで、その先は予報によるとなにやら南海上が慌ただしい様相を呈してくるらしい。予断を許さない夏になりそうだ。
さて、暫く間が空いてしまったが、BWV76の聴き比べのつづきを記す。ヴェルナー、リヒター、リリング、アーノンクールの4種類の演奏である。

ヴェルナー
1: 5′42″ (但し始まりは0′05″から)おおらかなトランペットの響きが心なしか懐旧の念を催させるしっとりとした演奏。合唱が丁寧に優しく語り交わすフーガも心に響く。
3: 4′40″ 快速だが、レガートで音をつなぐため比較的穏やかで早さをほど感じない、ヴァイオリンのオブリガートがソプラノを引き立てて、出しゃばらないが限りなく美しい
7: 2′39″(2′34″)ゆったりとしたテンポで進む暖かな合唱が印象的。それを先導するトランペットの朗々とした響きが美しい。
8: 2′29″ 中庸の速度のオーボエとチェロの対話が印象的。
12: 3′52″ タイムはガーディナーや鈴木よりも速いが、アルトのしっとりとした語りかけが美しい。
14: 2′41″(2′28″) 第7曲よりも幾分速めのテンポで曲全体を締める。やはりトランペットが効いている。最後の合唱の盛り上がりはただごとではない。

リヒター
1: 4′32″ 速めのテンポで真っ直ぐに突き進む真摯な演奏。分厚いハーモニーの前進力に勇気をもらう思いがする。フーガの部分の独唱のはずのところが全て合唱で分厚く歌われている。
3: 6′36″ ソプラノのゆったりとした優しい語りかけが光る演奏。第1曲との緩急のバランスがガーディナー や鈴木・BCJとは正反対。これはよくあるパターン。なお、他の演奏では、オブリガートのヴァイオリンと通奏低音のチェロの掛け合いが雄弁に聞こえるが、リヒターではチェロの代わりにオルガンが微かにポロンポロンと響くだけ。この演奏の独特の静謐さの要因はここにあるようだ。
7: 2′34″(2′27″)テンポ感はヴェルナーに近いが、アクセントのある合唱が厳しい響きが印象的で、マタイを思い出してしまった。
8: 2′54″ しっとりと湿り気のあるゆったりした合奏が美しい。
12: 4′18″ タイム上は結構遅いが、ヴェルナーとほぼ似たような速さに感じる。あるいは気分の昂揚にしたがってだんだん速度が落ちていっているのかも知れない。
14: 2′39″(2′27″)基本は第7曲と同じだが、さらに大見得を切る感じに終わる。

リリング
1: 5′13″ 合唱・独唱・合奏の一体感の強い演奏。
3: 4′34″ 実際のタイムも印象的にも最も速い。ヴァイオリンが先へ先へと走る感じ。粘りそうな曲で突っ走る時のリリングの典型だが、メリハリは確かだ。
7: 2′28″(2′20″) 出だしの印象も途中の展開もガーディナーよりもむしろ速く、速めのテンポで前のめりに進むリリングらしい推進力を感じる演奏。最終的にガーディナーよりタイムが長いのは、終止の部分で大きくリタリダンドをかけるタメが大きいからだろう。ことに大見得を切る終わり方は感動的だ。
8: 2′41″ リヒターよりは幾分速いが、ゆったりとたゆたいながら奏でられるオーボエのしっとりとした響きがメロディーが心にしみる。
12: 2′55″ このアリアも速さが際立つ。まさに疾走する悲しみで、何かに急かされているような、悲しみにくれるのを避けるために立ち止まるのを恐れているような感じがする。古楽ではないリヒター・ヴェルナー・リリングのアプローチがそれぞれ違うのが面白い。
14: 2′23″(2′16″)第7曲よりさらに推進力のあるテンポで曲をまとめている。

アーノンクール
1: 4′49″ トランペットのややくぐもった響きが独特。タイムは速いが、さほど速い印象は受けない。
3: 4′49″ ボーイソプラノ、快速、オブリガートのヴァイオリンがリズミカルにスタッカートで技巧的に響く。
7: 1′56″(1′49″) 飛び抜けて快速な演奏だが、なぜこんなね急がねばならないのかよくわからない。非常に忙しなく、ヴァイオリンが、タタータのリズムのターの部分にアクセントつけるのもわざとらしくて、下品な感じを否めない。最後の気の抜けた終わり方もいただけない。
8: 2′26″ 疾走するくぐもったオーボエが美しい。
12: 3′14″ このオーボエもくぐもって聞こえる。タイムは快速だが、そんなに急いでいる感じはしない。楽器や独唱がしっとりと響くからだろうか。
14: 2′08″(1′54″)基本は第7曲と同じ、叩きつけるようにリズムをさらに強調しつつ驀進、最後はあっけなく終わる。

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アーノンクールにはちょっと違和感を覚える部分もあったが、どの演奏もそれぞれにすばらしいく、どれか一つを聴けばいいという訣にはいかない。しかしいつも6種類全部を聴く訣にもいかない。そこで、曲ごとにぼくのベストを選んだみた。
1: リリング
3: リヒター
7: リリング
8: 鈴木雅明・BCJ
12: ガーディナー
14: ヴェルナー
これもかなり無理をしてでの話である。どれもみな捨て難いのは明らかだ。速ければ速いで、遅ければまた遅いで、それぞれに味わいがある。曲自体が素晴らしければ、どう演奏してみたところで曲はは生きる、演奏を選ばないのだ。

今回で通し番号で483回めとなったようだ。ケッヘル番号でいうと変ホ長調コンチェルト(K.482)を越えて、イ長調コンチェルト(K.488)に向かうところ。どうでもいい比較ではあるけれど、数字の比較はこんなところにも愉しさが潜んでいる。
posted by あきちゃん at 21:21| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2019年07月20日

BWV76の聴き比べ(その1)

教会暦に従ってカンタータを聴き始めてもうだいぶんになるけれど、ちょっと油断すると、暦はどんどん先に行ってしまい、取り残されて呆然としている自分に気付くことになってしまう。もう何度ほぞを噛む思いを味わったことだろうか。
しかし、最近はもう、聴けるときに聴けばいいや、といういわば開き直りの気持ちも芽生えてきて、随分と楽になったような気がしている。
これから紹介するBWV76も、今年は6月30日だった三位一体節後第2日曜日のカンタータである。もう3週間も聴いていることになる。

1723年6月6日の三位一体節後第2日曜日のために作られたカンタータBWV76「もろもろの天は神の栄光を語り」は、バッハがライプツィヒに移った直後の、いわゆる第1年巻冒頭を飾る記念すべきカンタータ群の一つである。
2部14曲から構成される大作で、それだけ力の入った曲で、ちょっと理屈っぽさを感じる部分もあるけれど、14曲もある割には比較的コンパクトにまとまっている。曲調も前の週の第1年巻冒頭のBWV75に比べると、ずっと親しみやすい感じがする。とはいえ、14曲はやはり骨がある。そう簡単にはいかない。

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第1部の第1曲はのびやかな大合唱。フーガの主題は、つぶやくような印象的な旋律で、法会の呪文を明るい長調にしたような感じで面白い。
第2曲はテノールのちょっと切迫した感じのレティタティーポ。最後は長調に転じてアリオーソとなる。
第3曲はソプラノのアリア。このカンタータの白眉といってよい長調の美しい曲。第2部の終わりから3曲め(第12曲)の短調のアルトのアリアとちょうど対になっている。
第4曲はバスの再び短調に戻ったレティタティーポ。最後は長調に転じて、第5曲に受け継がれる。
第5曲は続けてバスが輝かしいアリアを歌う。中間部は短調となり、一旦終始して長調に戻る。トランペットが大活躍する。
第6曲はアルトのしっとりとした短調のレティタティーポ。静かに閉じられ、その気分のままコラールへ。
第7曲はコラール、Es woll uns Gott genädig sein (願わくは神我らを恵みて)。トランペットに先導された激動のコラール。
第2部の始まり第1曲は心に残るシンフォニア。オーボエ・ダモーレとヴィオラ・ダ・ガンバが活躍する。コンチェルトのようだ。
第2曲はバスのレティタティーポ。
第3曲はオルガンの先導するちょっ怪しい感じのテノールの激しいアリア。
第4曲はアルトのレティタティーポ。
第5曲は続けてアルトの深沈とした趣のアリア。
第6曲はテノールのレティタティーポ。
第7曲はコラール。基本的に第1部第7曲と同じもので、同じコラールで閉じられるごとで、曲の一体性を強く印象付ける素晴らしい効果を発揮している。

今回は、レティタティーポ6曲、及び男声のアリア2曲(これらはいずれも難しい)を除いた、第1、3、7、8、12、14の6曲に焦点を絞って書いてみることにする。
聴いたのは、ガーディナーのカンタータ巡礼、鈴木雅明・BCJ、ヴェルナー、リヒター、リリング、アーノンクールの6種類の演奏である。

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ガーディナー
1: 3′50″ トランペットの軽快な導入によって軽やかに歌う。合唱の澄んだ響きが印象的。次第に速度を上げて驀進というか、飛翔せんばかりに駈けぬけるフーガも鮮やかだ。
3: 5′47″ レティタティーポで急ブレーキをかけた流れが継続する。リズミックだが、語りかけながら、確かめ確かめ歩むようなところがある
7: 2′24″(2′ 15″) タイムはリリングよりわずかに速いが、出だしの印象はむしろ遅い。それなのにタイムが短いのは、しだいに速めのテンポで前のめりに進む印象があることや、その一方で淡々としていて(リリングのような)タメがないこととも関係しよう。
なお、機械的なタイムを信用すると、思わぬ失敗をする。これまでにもそういう例はあったが、ガーディナーの第7曲では、曲の終わりに9秒近い余白がある。勿論、単なる余白ではなく、指揮者がタクトを降ろす前の演奏の継続している時間に属するとみられるが(ガーディナーのはライヴだから、それを重視したのかも知れない)、演奏のテンポを考えるには間違ったデータを与えるので、実タイムを括弧内に表記
8: 2′31″ 出だしはたっぷりと歌わせるが、主題に入った後は一気に駈けぬける。オーボエのくすんだ音色が心に響く。
12: 3′57″ アルトのしっとりとしたかつ澄んだ語りかけが美しい。
速い曲と遅い曲のメリハリのあるガーディナーらしい演奏。
14: 2′22″(2′16″) 基本は第7曲と同じだが、トランペットがより朗々と吹いているのと、終曲であるのを意識してか、合唱にメリハリを感じる。

鈴木雅明・BCJ
1: 4′15″ (但し始まりは0′05″から)速めだが、ガーディナーよりは厚みのある明晰な合唱の響きがことのほか美しい。
3: 5′35″ 弾むリズムの中で音を続ける以外はガーディナー に似る。粘らずサラサラとした印象があるが、じっくりと歌わせる美しい演奏
7: 2′37″(2′25″) 幾分速めのテンポで淡々と進む。金管の響きが独特で、合奏・合唱との調和が美しい。ただ、タタータのリズムのターの部分を伸ばして強調するヴァイオリンがやや違和感がある。
8: 2′31″ 出だしのオーボエの沈んだ響きが印象的。主題に入ってからも一貫して弱音で奏でられる響きが独特。
12: 3′57″ 雄弁なチェロやオーボエに乗って、アルトが淡々と清潔に歌う。
全体に比較的速めだが、速すぎることなく、良い意味で中庸な安心して聴ける演奏だ。
14: 2′52″(2′27″)基本は第7曲と同じ。最後は終曲らしくたっぷりとした余韻を残して終わる。
(以下、(その2)につづく)
ラベル:CD 音楽 バッハ
posted by あきちゃん at 20:02| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2019年07月18日

「誰よりも自分を信じて、疑え」

どうも最近、自分で自分が信用できなくなってきた。なんということはない、自分でやったつもりでいたことが、その通りには実行されていないという事態に、よく遭遇するようになったのだ。

あれはここにしまったはずだ、と思って探すのだが、いくら探しても見付からない。変だなぁと思いつつ、見落としもあるかもと淡い期待を抱きつつ、もう一度探す。

それでも出て来ず、半ば諦めて、ふとしまったはずのところの隣を探すと、あるはずのないところにそれがある。探している間に、たまたま移動した? いやそんなことがあるはずはない。初めからそこに片付けたのに違いないのだ。

そこにしまったのに、それとは違うところに片付けたつもりになっている。どの時点からなのかはよくわからない。でも、どこかに思い込みの始まりはあるはずなのである。それがまたよくわからない。

案外片付けた当初からなのではないかと、そんな気がしてならないのだが、まだ確証は得られない。まだ尻尾をつかませてくれてはいない。向こうもさるものではあるのだ。

ことは片付けだけではない。メモしたはずのところに書いてない、済ませたはずのものが中途半端なままになっている、一事が万事この調子なのだから、ほんとうに始末が悪い。

自分ほど信用できない者はいない、それはもう確信に近いものになってきたのである。それならそれでそういうものと思って付き合うしかない。そう覚悟を決めることにした。


「誰よりも自分を信じて、疑え」は、映画「新聞記者」の主人公吉岡エリカが亡くなった父から与えられた遺訓だ。ほんとうにそうか? 違うんじゃあないか? 第六感を大切にするのと同時に。一歩引いて問い直してみる、その繰り返しが基本だ。自分は信じられないと信じて、常に自らを疑ってかかるべきだと、ぼくの場合は読み替えなければいけないようだ。

それはそうと、「新聞記者」や「主戦場」のような映画を見ると、もう少し人を信じてみたい、そんな思いが湧いてくる。主戦場の徹底したリアリズムと、新聞記者のフィクションとから、どちらも今の日本の異常な姿がくっきりと浮かび上がる。

見ていて恥ずかしくなるような幼稚で短絡的な思考の人たちに、この世を牛耳られてなるものか。まだ手遅れではない! そんな確信と希望を抱かせる力作だ。

選挙前のこの時期に公開にこぎつけた良心がまだ残っていた、などという風には思いたくないが、そう思わされてしまうほど、今の状況は深刻だ。ごく当たり前のことに勇気が必要だなんておかしい。


呆れた記事を見た。韓国の文大統領が新聞記事を批判したのは、言論統制だというサンケイのネット記事だ。確かに、大統領の発言としては問題はあるかも知れない。しかし、それを取り上げるサンケイのまさに厚顔無恥! よその国のことをとやかくいう前に、自国の首相について言うべきことがあるだろうに! 御用新聞の本性丸出しの記事に、こちらがむしろ恥ずかしくなってしまったくらいだ。理性のかけらもないのだろうか? 臆面もないとはまさにこのこと。この手合いには、自分のことを棚にあげるという特性があるらしい。あの過度の自信はいったいどこから生まれるのか? まぁ、サンケイをジャーナリストの端くれだなどと思っていた方がどうかしていたのかも知れない。

自分に対してはともかくとして、他人に対しては、信じるべきものと疑うべきもの鑑識眼に、もっと自信をもっていいのかも知れない。

posted by あきちゃん at 20:54| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする