2018年04月14日

春の名残のヤマザクラ

4月上旬があっという間に過ぎ去り、もう折返し点が近づいている。何という速さだろうか。それにひきかえ月が替わるとともに出始めた風邪の症状が、悪化しないで済んではいるものの、いつまでもぐずぐずとしてスッキリとは恢復せぬままでいる。
天気はダイナミックな周期変化を繰り返しているが、寒暖の差が著しく、また朝晩の気温差も大きい。日中汗ばむ陽気で上着を脱いでいると、夕方の冷え込みに思わぬしっぺ返しを喰らう。
ソメイヨシノはとうに葉桜になり、続いてはヤマザクラの季節。しかし、今年はどうもヤマザクラがパッとしなかった。葉も一緒に芽吹くのでソメイヨシノに比べたら目立たないのは仕方ないとしても、今年はいつにも増して地味な気がする。咲いたのだかどうかさえわからないままなのだ。
近所のバス通りの街路樹の間に1本だけ植わっているヤマザクラがある。去年も紹介したけれど(2017/4/23今年のサクラの美しさについて)、いつからあるのか記憶が定かでなく、まだ背丈の低かった頃は、街路樹のプラタナスが芽吹いている間はその間に埋もれてその存在するわからなかった。それが冬枯れでかつ剪定された街路樹の列に様子の違う気が1本だけあるのに気付き、さらにこれがプラタナスの遅い芽吹きをよそに、白といってもよいごく薄いピンクの花を付けるに及んで、ようやくヤマザクラであることを知ったのだった。
このヤマザクラは、毎秋強く刈り込まれるプラタナスと違って一切剪定されずに放っておかれているので、最近では、街路樹から抜きん出た姿を示すようになってきた。それが見事な花を付けるのである。バス停までの道行きに植わっていることもあって、毎年ほころび始めるの楽しみにしていたのだった。
ところが、今年はちょうどその時期にたまたま車で通勤する日が続いてしまい、気が付いたらもう大方のヤマザクラも葉ザクラになりかけてしまっていた。それで、ほぼ一週間ぶりにバスで通勤した先日の朝、半ば後悔しつつ半信半疑でバス停に向かったら、幸いにもまだ見事な花を咲かせている姿を見せてくれたのだった。去年よりは一週間早いけれども、散らずに咲き誇っていてくれた姿は、可憐でかつ堂々としていて美しかった。

街路樹のなかのヤマザクラ.jpg
〔街路樹の中のヤマザクラ。去年とほぼ同じアングル。実物はもっと白っぽかったと思う─去年の写真の方が実物に近い色合いのように思う─けれど、曇ってるせいか、ピンクが濃く写っている。このあと雨が降り出している。今年もそろそろ見納めかも知れない〕

街路樹の中のヤマザクラ2.jpg
〔反対側から道路を挟んで撮った写真。上の写真と同じ日の朝の様子。淡い青空をバックにしているが、これも去年よりは色が濃いように思われる〕
ラベル:日常 季節
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2018年04月08日

無為に過ごした木の芽時の1日

午前中用事を一つこなして帰宅したあと、イヌたちを交替で庭で遊ばせ、少しだけお気に入りのおもちゃで遊ぶのに付き合う。昼ごはんを簡単にパンで済ませると、まだ風邪で本調子でないこともあるようだが、もう眠くなる。朝がいつもと同じ時間だったうえに、午前中は花が粗方散った後の花冷えの外仕事だったためか消耗が著しく、すぐにウトウトし始めてしまう。こんな事ではいけないと思いつつ、比較的楽にできる作文仕事を一つ。
しかし、気の赴くままに筆を走らせると、原稿用紙4枚以上の分量になってしまい、これを3枚弱まで切り詰めるのに頭を悩ませる。2/3にするのは容易なことではない。個別には大事な情報であっても、話の筋には関係のないものは思い切って刈り込む決断をしないととても収まらない。要らない情報をあれもこれもと盛り込むと、筋が錯綜して論旨が明瞭でなくなってしまうのである(このブログの記事のように!)。
コーヒーを淹れる。犬たちを交替させるのに足を洗ってやる。他にもやるべきことがいくつかあるのに、なかなかそれをやろうという気にならない。さっきの作文だって、結局そのやるべき事を後回しにするための方便だったに過ぎないのではないか? 自己嫌悪に陥るものの、どうしてもそれに着手することができぬまま、午後を無為に過ごしてしまった。
夕食はカレーにする。昨晩、夕食後、妙に体調がおかしくなって、少しのつもりで横になったらそのまま寝てしまい、気付いたら12時を回っていた。胸焼けもせず、痛みもなく、吐き気がある訣でもない。それなのにこの上のない不快感。どこがどうなっているのかよくわからぬまま、取り敢えずは胃薬をのみ、念のため整腸剤も服用したあとのことではあるけれど……。
今晩も昨日と似たような食事だったが、今日は何とか持ちこたえた。これはありがたいと思ったものの、それでもやるべきことをやる気持ちになれない。これではまるで木の芽時の病ではないのか。齢を重ねてここ数年サクラを心から美しいと思えるようになったが、若いときはいつも春が憂鬱だったのを思い出した。サクラが嫌いだったのではなかったのだ。単に春になると気持ちが不安定になっていたたに過ぎないのではないか。そんなことに今になってようやっと気付いたのである。
時ならぬ寒さに、遊び終えたイヌたちを家に入れたあと、暖房をつけることになった。本を読んでも文章を追えない。すぐに目が脱落してしまう。音楽を聴こうとすると、気が付けばいつのまにかもう別の曲が鳴っている。毎週見ているドラマを見るともなく見、再び机に向かうものの、結局そうした結果、認めた文章がこれ、という訣だ。
まあこういう日もある。明日やればよい。そう思って寝ても、明日やれる保証がないのが最近の傾向。昨日までの咳き込みもなくなって、やっと恢復してきているから、むやみに風邪のせいにもできない。自分のだらしなさが全てなのである。最近こんな気持ちに陥って二進も三進もいかなくなることが増えてきたような気がする。
明日は明日でまたやらねばならないことが山程ある。今日持ち越したことが明日やれるという保証は今のぼくには全くない。
とまあここまで書いて、結局投稿せずに寝てしまった文章である。自らの戒め(そうなるかどうかもあやしいけれど)のために、今日の仕事はまずこの記事の投稿から始めよう。もう朝も10時を回ってしまった……
ラベル:日常 季節
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2018年04月05日

季節の進み行きに翻弄される

満開のサクラに彩られた年度末、年度初めを迎えた。今年はどこもかしこもサクラ、サクラ。こんなにたくさんのサクラがあったのかと驚くほどだった。サクラの数が変わる訣はないから、一斉に咲き揃ったということなのだろう。まさに春爛漫の週末だった。
先々週の土曜日はまだ蕾が堅そうな感じだったが。その後先週初めにかけて急激にほころび始め、折しもの好天に恵まれてほぼ一週間花見日和が続くこととなった。雨が降らず風も吹かず、日中はそこそこ気温は上がるものの、朝晩は適度に冷え込む。そんな気象条件が功を奏してか、一斉にほころんだサクラが10日近くもの間咲き誇っていた。
週が明けて、さすがに散り始めたものの、雨が降らなかったから、はらはら、さらさらという感じで、至って清潔で美しく散り敷いている。しかも穏やかな陽気で風に舞うこともない。サクラの花が生を全うしようとしている、ちょうどそんな感じがする花の終わりである。
ここのところ例によって寝付きはたいへんよいのだが、明け方に変に早く目が覚めることが多い。2時に床に就いて5時とか、3時で4時半とか、いう具合である。しまった、寝過ごしたか!、目覚ましをかけたのに、と思って慌てて時計を見ると、まだそんな時間なのである。幸いなのは、それから再び睡眠に戻れず起床時刻まで鬱々とする、というようなことが全然ないことだけれど。

          §           §           §

週明けとともに新年度を迎えて2日めの晩、鼻の奥に違和感を覚えた。そのまま就寝までの間にあれよあれよという間に悪化し、一昨夜はひと晩のどの痛みに苦しんだ。先週末あたりから異常な鼻水に悩まされ、花粉がきついのだとばかり思い込んでいたのだけれど、どうもそうではなかったようだ。花粉症の薬が効かず、昨日は一日中鼻水とクシャミに悩まされ、おまけに時折悪寒もする。花冷えとは程遠い五月の陽気にもかかわらず、しかもこんな年度初め早々に風邪を引くとは我ながら情けない。
仕方なくまたI女史の所に駈け込んで薬を処方していただき、そして今日、のどの痛みはかなりおさまってきたものの、鼻水・くしゃみは相変わらずで、花粉症がきついと会う人には説明しているけれど、その実これは明らかに風邪である。熱は出ないが、だるさはひとしおで、気持ちを張りつめていないと、ヘナヘナと倒れ込んでしまいそうな状況で一日を過ごした。
おまけに、夜に入ってポツポツと来て、急激に冷え込んできた感じがする。予報では寒の戻りとのことで、北日本では雪も予想されているらしい。サクラはもうかなり散って葉ザクラの様相、季節は行きつ戻りつしながらではあるものの、着実に進行している。
ああそれにしても、厳しく長かった冬を風邪ひとつひかず潜り抜けてきたというのに、年度初め早々の風邪とは! サクラも一斉に咲き誇った割には、いや一斉に咲き誇ってしまったからというべきか、今年はあまり美しいという感懐を抱かずに過ごしてしまった。
サクラを愛でている精神的余裕がなかったことも一因だが、それほどに昨年のサクラは美しかった。それにつけてもその最中に伐り倒されてしまったサクラの無念を改めて思うのである。季節の進み行きに翻弄され続けている年度初めである。
最期のサクラたち(昨年4月9日).jpg
〔最期のサクラたち(昨年4月9日。昨年は今年より10日もサクラの季節が遅かった)〕
ラベル: 季節 日常
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2018年03月26日

花の季節に伐られたサクラたちの形見として

東京のサクラがもう満開だという。奈良のサクラもようやくほころび始めてきている。今年の冬は長く厳しかった。今月に入ってからは比較的暖かな日が多くなってきたものの、それでもサクラは開花が少し遅れると思い込んでいた。冬の寒さの影響は残るだろうと思っていたのである。
ところがあに図らんや、思いの外に開花が早く、東京は史上三番目の早さだという。聞くところでは、冬がしっかりと寒く、春の気温の上昇が明瞭で、いわば天候にメリハリがあると、植物は敏感に反応して花を咲かせるのだという。暖冬が開花を早めるとばかりは言えないらしい。
北国ではウメとサクラをはじめ、春の花が一度に咲くという。今年の奈良はちょうどそんな感じで、満開になったばかりのウメ(ウメの開花はかなり遅かった)を追いかけるようにサクラが咲き始め、春を告げるコブシやモクレン、レンギョウにユキヤナギ(ユキヤナギはかなり早いような気がするが)と、それこそ色とりどりに花々が競いあっている。
わが家ではまだクリスマス・ローズも咲き残っており、春を告げるスイセンもようやく咲き揃ってきた。スイセンには冬の寒さの影響があったのか開花が遅く、またどうした訣か今年は花芽が少なくやや寂しい。ただ、そうであればなおさら、数少ない黄色のラッパ形の花を、イヌたちの危害を被ることもなく咲き誇らせているさまは可憐でもある。

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こうしてサクラの季節を迎えようとしていると、思い出したくはないけれど思い出してしまうことがある。毎年咲くのを楽しみにしているわが家の近くのサクラが何ヵ所かあるが、そのうちの最も美しかったサクラたちが、去年その花がまだ咲き終わらぬうちに、何の予告もないままに伐り倒されてしまったのである。
サクラ、ことにソメイヨシノの寿命は比較的短く、60、70年程度であるというから、あのサクラたちもそろそろ寿命に近づいていたのかも知れない。開発との共存が難しいのならそれもいたしかたないことと、気持ちを納得させようとはしたのだけれど、いかんともしがたく、ただ時間の経過によって忘れるのを待つしかなかった。しかし、サクラの季節がまた廻ってきて、どうして、という気持ちがまたふつふつと湧いてきてしまったのである。
そのサクラたちは、砂利敷きの駐車場の北側を彩る形で並んでいた。まだ見事な花を付けている時期に、それらは無残に根元から伐採されてしまった。駐車場に何か建物が建つのだろうか、せめて花の季節が終わるのを待つことはできなかったのだろうかと思ったのを覚えている。そこには何ができたか。
砂利敷きの駐車場はそのまま舗装されて駐車場になった。サクラのあった場所はどうなったか。そのままだった。駐車場に取り込まれる訣でも何でもなかったのである。そうだったのなら、なぜサクラを伐ったのか。駐車場と共存させることはできなかったのか。春に見事な花を咲かせるサクラが片側にある駐車場ではどうしていけなかったのか……。
もちろん当事者にはそれなりに理由のあることではあろう。他人の土地のサクラを花の季節だけ楽しませてもらっていた者がとやかく言える筋合いのものではない。しかし、あれだけ見事な花を毎年咲かせてきたサクラである。毎年楽しみにしてこられた方もたくさんいられるだろう。あのサクラから生きる勇気を与えてもらった人も多いに違いない。みんなに愛されてきたサクラではなかったのだろうか?

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去年は今年と違ってサクラの開花が遅かった。伐採が花のあるうちになってしまったのはあるいはそうした事情があるのかも知れない。サクラたちが伐られる少し前の去年の4月上旬のある日、少し遠出になるけれどもうちのイヌたちを交替で散歩に連れて行き、満開の花の下で写真を撮った。夕暮れ時にかかっても、満開のサクラのもとはほんのりと明るく、イヌたちも心なしか上気して、花見を楽しんでいるかのようだった。去年のサクラはことのほか美しかったが、自らの運命を知っていたのか、枝が見えないほどに鈴なりの花を付けたここのサクラの美しさは、言葉に尽くせぬほどだった。
今年はもうイヌたちにあのサクラを見せることはできない。言っても詮ないことであり、去年は敢えて書かずにおいたことではあるけれど、花の季節を迎えようとして書かずにはいられなくなってしまった。そのように愛されたサクラたちだったことを、記憶に留めておくよすがとなればと思う。
ラベル:季節 日常 奈良
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2018年03月21日

片付け下手とブログの効用─ねずみのたわごとの7年─

物持ちのよい方である。自分の行動に関わるものは、なかなか捨てることができない。旅先で入手した観光案内のちらし、駅弁の包装紙やお品書き、いただきものの能書き、そして手紙やハガキなどなど。もっとも、結構捨ててもいるのである。こちらの意思と無関係に届けられるちらしやダイレクトメールの類は端からゴミ箱行きだし、能書きは取っておいても、お菓子の箱を取っておく趣味はない。
ただ、だいぶん前にも書いた(「片付け下手の言い訳と感謝」)ことだが、基本的に片付けができない。物持ちがよいというよりも片付けが下手、いやむしろ片付けができない気質であるという方が正解かも知れない。片付けられないから、ゴミ箱行きを免れたものは整理されぬままにどんどん身の回りにたまっていく。旅行であるとか、何かの行事であるとか、一定量のまとまりのあるものは、それでひとまとめにできるからまだよいのである。しかし、単発的に手許にやって来るさまざまなアイテムは、何の脈絡もないままに積み重ねられゆく。

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もっとも、それだけならばまだマシなのである。時系列に沿って重なっているのだから、下から順に古いものから新しいものへと、明確な流れが見出される。これはこれでひとつの整理のあり方だと自負している。ところが、ここに攪乱が入ることがあるから厄介なのだ。というのは、ある程度の間隔を置いてではあるけれど、必要なものが見つからない事態が出来し、物探しが発生する。そうすると、整然と(!)積み重なっているアイテムたちの順序が乱されるのである。
通常上から順に掘り起こしていくから、掘り起こされたものたちは、元の山の隣に逆に新しいものを下にして積まれていくことになる。そして、探し物が終わったとき、この新しい山が元の山に積まれることになるから、元あった山の一部分だけ順序が逆転する訣である。これが繰り返されたらどうなるかは、火を見るより明らかであるだろう。
さらに悲惨なのは、物探しの時はたいてい次第に頭に血が上っているから、ただでは済ますされないことが多い。つまり、こんな物まで取っておくから肝心なものが出て来ないのだ!、とばかりに、山の構成要素の一部がゴミ箱に放り込まれることになる。その時は冷静に要・不要を判断して隣の山か、ゴミ箱か、行き先を決めていると思っているけれど、捨てたものに限って後日必要になることが多いのである。それを探し始めても見つからなくて、そんなはずはないと散々探し回った挙句、ふと捨てていたことを思い出し、臍を噛むのである。そうなることはわかっているのに、何度これを繰り返したか知れない。

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似たような状況が職場と家で起きている。以前なら、こうしてエントロピーが増大して極限に達すると、半年に一度とか一年に一度くらいの割合で大片付けを行って、リセットしたものだ。このリセットは物探しの必要に迫られてではなく、自らの意思で率先して要・不要の判断を実施して、極力物を捨てるのである。ところが、齢を重ねるにつれて、だんだんそれが億劫になってきて、初めは家から、そして最近では職場でもほとんど大片付けが行えなくなって久しい(ちなみにこの状況はPCの中も全く同じ。PCも時系列を基本に、その中に項目ごとにフォルダーを設けている。PCの場合はがさばらないのが不幸中の幸いだ)。
家内に言わせると、これは発達障害の症状であるという。確かにそうかも知れないと思う反面、単に怠惰なだけなのかも知れないとも思う。自分で自分の個性として認識して、ある意味で自分で言うも変だが、妙に開き直っているところもあるのだ。発達障害の症状で当てはまると思うのは、計画性のなさと、大事な事柄を後回しにしてしまいがちであることで、あとこれは年のせいかも知れないけれども、ここ数年約束事を失念してしまう苦い経験が多発していることがある。

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何にせよ無理が利かなくなってきているのは紛れもない事実だ。ストレスを溜めないのが個性のひとつだと思って開き直って生きてきたけれど、目に見えないところでストレスを抱え込んではいないかという不安が過ぎらぬでもない。定年まであと2年。少なくともその時点では職場は片付けなければならない。跡を濁さず立てるようにするには、今から周到な準備が必要だ。しかし、今のぼくにはそれを始める気力もまた時間的余裕もない。
このブログを書き始めてもうすぐ丸7年を迎える。この記事が400本目の投稿であるのも承知はしているのだが、どうもパットしない話になってしまい恐縮である。でも、それもぼくらしいのかなという気がしないでもない。時には全く記憶にないことが書いてあったりと、整理が苦手なぼくとしては、時系列に沿ってその折々の思いが書き綴られているこのブログは貴重な財産となりつつある。
ラベル:日常
posted by あきちゃん at 19:11| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする