2011年05月30日

金沢で出会った堀辰雄夫人

昨年4月、堀多恵子さんが96歳で亡くなった。堀辰雄夫人である。新潮文庫版の堀辰雄の6冊の内のどれかに、軽井沢の家での写真が載っていたが、写真も不鮮明な上に印刷も悪く、ほとんど表情がわからない。でも、凛とした、それでいて優しさにあふれた方に思えた。
亡くなったのを知ったのは本当に偶然。ネットで何かの拍子にニュースに出くわしたのである。堀辰雄といえば、戦後はほとんど病床にあり、高度成長期を迎えるだいぶん前に他界した作家だから、夫人が21世紀の今まで存命だったと聞いて驚く人もいるかも知れない。でも、本当によくぞ今まで生き抜いてこられたと思う。
堀辰雄の小説、好きだ。『美しい村』と『風立ちぬ』の入った文庫の1冊は何物にも代え難い宝だ。特に、美しい村の軽井沢は、本当に美しい。いざ生きめやも! 生きることが堀辰雄の文学の全てであるという。死と隣り合わせでも、なお生きねばならない。そこ堀辰雄に引かれる根源があるのかも知れない。
ぼくの堀辰雄との最初の出会いは、考えてみれば悲惨だった。『大和路・信濃路』の「樹下」に、国語の試験問題として出くわしたのが最初だったのである。問題の難しさが、文章そのものを難しくしてしまった。小説家ではなく、亀井勝一郎に近い随筆家かと思った。でも、きっかけは覚えていないが、その後、遠回りではあったがほとんどの小説に傾倒した。王朝ものはやや敬遠しがちだったが、『菜穂子』の未完の美しさにも大いに惹かれた。文庫のカヴァーに書かれてあった、釈迢空の異様ともいえる『菜穂子』への讃辞を理解しあぐねたのもなつかしい。回り道をしても、めぐりあうべきものにはめぐりあうのだ。
堀の没後、多恵子夫人は少しずつ堀との想い出を語り始める。稀代の随筆家となっていった。芯の強い人である。去年、これも本当に偶然だったが、生まれて二度目という金沢行きが実現し、限られた空き時間どこへ行こうか悩んだ末に出かけた室生犀星記念館で、たまたま流れていたビデオによって、多恵子夫人の生前の肉声に接することができたのである。80歳を優に超えてからのインタビューであろうか。堀の伝えたかったことを忠実に守って生きてきた姿を拝見しいると、ああこんな風に生きられたら、そう思った。生きなければだめよ、そう励ましておられるようだった。堀の分まで生きただけよと言いたげだったけれど、そんなことはない。一人の女性としてのすばらしい人生がそこにはあった。堀辰雄もその中に包み込まれていたのではないだろうか。
それにしても、何が金沢でぼくを堀夫人に引き合わせてくれたのだろうか。見学を終えて辿った、まだ蒼い白山を遠望する小春日和の犀川の水面が眩しかった。

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初めて見る犀川
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2011年05月28日

ディケンズとのめぐりあい

数年前、ディケンズの翻訳をかなり集中的に読んだことがある。ディケンズが面白いことは、学生時代の英語の授業がたまたまディケンズの大家であったK先生(温厚でしかもユーモアのあるいい方だった)にあたり、いろいろと教わってはいた。でも、当時はそんな多くの入手しやすい翻訳がなかったのか、あまり本気になって読もうという気にはならなかった。
その後、ディケンズ傾倒するきっかけになったのは、多分、辻邦生氏と水村美苗氏との『手紙―栞を添えて』の文庫版(朝日文庫)との出会いだろう。この往復書簡からなる文学案内は、朝日新聞の日曜版か夕刊の文化欄かに連載されたものだったが、結局最後まではつきあえなかった。それがどういう契機からか文庫本になっているのを知り、入手したのである。
コパフィールドを絶賛してあり、K先生のことを思い出し、それでは、となったのである。あとは至福の時間の連続だった。夜行寝台のベットでも寝る時間を惜しんで読んだ。アグネスの純粋な優しさには本当に心を打たれた。作り話だからとは承知しつつも、心底うつくしいと思った。リトル・ドリッド、荒涼館のエスタ、理想の女性たちに、次々と心を奪われた。稀代のストーリーテラーの術中にまんまとはまってしまったのである。
ぼくの読書遍歴は、なぜか翻訳物を一切避けたものだった。翻訳によって、原典の味わいが損なわれないはずがないという思い込みがあったのだろう。しかし、よい翻訳に出会えば、それが杞憂であることだけは、一連のディケンズ体験でよくわかった。ディケンズの場合も、ピクウィック・クラブとチャズルウィットだけは手に取った翻訳がどうもいただけず、結果的に評価を下げてしまったが、そのほかは概して読み易く、特に小池滋氏の翻訳はよかった。翻訳家がどれだけの日本語の使い手であるかは、翻訳の評価にとって決定的だ。日本語としてこなれていない不自然な訳は、それがいかに原典に忠実であったにせよダメなのである。よい訳書にあたれば、海外文学でも最高の読書経験を得ることができるのだ。
確かにそうだ。思い出したことがある。読書感想文のためにしか読書をしない子だった小3のぼくがめぐりあったのは、母が級友の親から借りてきた何かの全集に収められた一冊のうちの「ドリトル先生アフリカへ行く」だった。これはその意味で失敗訳だったのだろう。4・5年になって、秘密の湖や緑のカナリアから初めて12巻全部読み切ったのは(最初はずいぶん遠いと感じた図書館から借りてきた。その後は近くの本屋に註文したが、なかなか届かず、既に持っている本が届いてしまったりもしたが、届いたらそれこそ寝食を忘れて読みふけった)、岩波の井伏鱒二訳だった。ロフティングのこのシリーズも、井伏の名訳がなかったら、果たしてこれほど普及していたかどうか。「アフリカ行き」が全く別の本に思えたものだ(ドリトル先生シリーズの翻訳だけでも井伏の名は不滅だろう。「山椒魚」や「黒い雨」は、確かにすごい。名作である。しかし、それでもなお、そこには何かしらの大人の打算を感じるのである)。

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  岩波版『ドリトル先生と緑のカナリア』のなつかしいデザイン

だがしかし、それでもなお、最初に出会った本の印象は強烈なのである。アフリカにいる両頭の動物を、井伏は「オシツオサレツ」と名付けた。確かにすごい訳である。これ以外には考えられない。しかし、ぼくが最初に読んだ本には「ソレオセソレヒケ」とか何とかと命名してあった。どうかと思う名付けである。それにもかかわらず、ぼくはずいぶん長いことオシツオサレツに馴染めなかった。融通の利かない子どもだったのかも知れない。でも、最初の出会い、それは子どもにとって本当に忘れがたいものなのである。これは真実恐ろしいことだ。
タグ:読書 記憶
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2011年05月27日

心に残る歌

 「天は御神の栄光を語り、空は御手の業を示す。……」そのあとの歌詞はすぐには思い出せないけれど、ハイドンの天地創造の合唱の一節である。なんとなつかしいメロディー!もう、そう今から40年も昔、6年生だったぼくらが心を込めて歌った歌詞だ。5年生の時は、ヘンデルのメサイアの、例のハレルヤコーラス。そして6年になって配られたのが、この天地創造の楽譜だった。いったい、何枚続くのだろう。わら半紙に印刷された三部合唱の、永遠に続きそうな音符の連なりに、心が高鳴った。Y先生、こういうの好きだなあ。小学生にこれを歌わせるなんて、すごかったと思う。でも、教科書にあるような簡単な歌ばかりじゃ絶対にいけないんだ。子どもを甘く見たらいけない、もっともっと歌えるんだから、が先生の持論だった。
 今にして思えば、音楽が好きになったのは、このハレルヤと天地創造の影響が一番だろう。声変わりしてしまっていたぼくは、メゾソプラノを歌うのはしんどかったけれど、中間音を拾って微妙に揺れ動くメゾにほんのときたまめぐってくる主旋律を力一杯歌うのがどんなに楽しかったことか。高校に入っても迷わず音楽を選択して、けっして音程はよくないにもかかわらず(当時は自分の音程が怪しいことに気付いていなかった幸せ!)声を張り上げて歌った思い出は、本当に何者にも代え難い。受験をそれで乗り切れたような気さえする。歌うことは、最高の受験ストレスの発散だった。
 その根源にあるのが、「天は御神の栄光を語り、空は御手の業を示す。……」。こわくてまだ原曲は一度も聴いたことがない。聴いてみたいと思いつつ、クラシックにはまるようになってからもずっと手を出さずにきた曲だ。原語のドイツ語だと、「は天!」の語順だから音が高くなるのに対応していて「天」が強くなってちょうどいいんだけれど、日本語だと「天は!」で「は」にアクセントがついてしまって意味とあわないんだ、そうY先生は教えてくれたけれど、それでもぼくにはやっぱり「天は!」なのである。
 Y先生との出会いは幼稚園年長の花小金井への芋掘り遠足にまで遡るのだから、もうまもなく半世紀にもなる。たまたま音楽の先生が幼稚園児に付き合ってくれたという偶然! Y先生と、そして怪しい音程で声を張り上げるぼくを暖かく見守ってくれた高校時代のN先生(級友達にも迷惑をかけただろうね)には、本当に感謝してしきれるものではない。残念ながらN先生は先年他界されてしまったてもうお礼も言えなくなってしまった。Y先生には、恥ずかしくてなかなかお礼など言えないけれど、いつか気持ちだけは伝えたいと思う。自分が自分であり続けるるために。
タグ:記憶 音楽
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2011年05月16日

音楽とのめぐりあい

どの演奏で最初に聴くかで、その曲そのものに対する評価、好き嫌いが左右されてしまう。本当は魅力的な曲がそう響かないのは勿論悲劇だけれど、いい曲だなと思うのはよいとして、そのよさが一面的なものに固定してしまうのもまた悲劇以外のなにものでもない。だから曲との出会いは、本当に一期一会といっても過言ではない。
前者の経験としては、モーツァルトのニ長調のピアノコンチェルト26番戴冠式。リリー・クラウスのステレオ録音を買ったのが最初だった。晩年の最小限の音に沈潜する様式の先駆けともいえるこの曲は、面白くないという評価が高い上に、クラウスの演奏が今一つピンと来なかった。オケも下手くそに聞こえた。この曲の素晴らしさに目を開かれたのはバレンボイムの旧番。天衣無縫の極みで、1楽章のカデンツァでフィガロが鳴り響くに及んではもう驚くやら呆れるやら、いい意味で本当に打ちのめされた(ただ、このカデンツァ、実はバレンボイムの自作ではなく、ランドフスカの作なのだということが、あとからわかった)。
後者の経験としては、同じモーツァルトでいうなら、ハ長調のシンフォニー41番ジュピターだろう。最初に聴いたのは、ブルーノ・ワルターのステレオ版。特に4楽章のフーガは圧倒的だった。最後の自然に流れるようなブレーキをかけない終わり方。もうこれ以外は受け付けなくなってしまった。同じワルターのニューヨークフィルとのモノラル版さえである。宇野功芳氏がステレオの41番はワルターに残してほしくなかった演奏だ、などというのを全く信じられない思いで読んだものだった。ましてやベーム=ベルリンなど問題外だった。これもワルター=コロンビアの方がむしろ例外なのだとわかった今でも、ジュピターのフーガといえば、やはりワルター=コロンビアなのである。最初の出会い、それが全てなのだ。
最初にどの演奏を手に取るかを決めるものはいったいなんだったのだろう。人の評価だったり、値段だったり、偶々その店にあるかどうかだったり。一生の宝となり得る曲との出会いが、もしもそんなことでねじ曲げられているのだとしたら…… でもそれも、それはそれでその曲に対するぼく自身の運命なのかもね。そしてもう一つ忘れてはいけないもの、それはその時のぼく自身の心のありかだ。実は案外それが一番大きくものをいっているのかも知れない。いろんな偶然が積み重なって、評価は定まっていくのだ。もうそうなると、偶然ではすまされない、必然なのだという気さえしてくる。後に評価を変える契機になる演奏に出会うかどうかも……

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ブルーノ・ワルターのモーツァルト40番・41番のCDのジャケット。LP時代のままのデザイン。

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これはリリー・クラウスのモーツァルトピアノソナタ全集のものだが、当時24番とカップリング(懐かしい言葉!)していた26番も、確かこのジャケットだったような気がする。今CDカタログにはには23番と組んだものしか見当たらないが、当時はどうだったのだろう。他のカップリングもあったような気がするが……
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2011年05月07日

あこがれの奥多摩

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惣岳山から奥武蔵方面を望む

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木漏れ日の中の大岳山

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御嶽駅にて

東京が望岳郷であることは、意外なほど知られていない。山を振り仰ぐ心のゆとりがないのと、実際問題として山が見えにくくなっているのが一因だろう(最近は一時よりずいぶんマシになったらしいけれど)。
でも、東京から富士山までわずか100㎞、東京は富士見の地名に事欠かない。江戸時代にはもっとよく見えたのだろう。もしそうでなかったとしても、地名の多さは、江戸の人々がいかに富士に関心を持っていたかを教えてくれる。
ぼくの通った中学も富士見の地にあった。入試直前の空っ風の吹きすさぶ屋上で、休み時間のたびにみんなで受験の憂さを晴らすように走り回った手つなぎ鬼。その歓声とともに、快晴の冬空の彼方にいつも富士はあった。
富士ほど目立たないけれど、そのずっと右手にやさしく広がる山塊がある。奥多摩だ。目を凝らせば、馬の鞍のような独特の山容をもつ大岳山が指させる。奥多摩はぼくにとって、母なる山だ。
登った回数はけっして多くない。高尾山はちょっと措くとしても、両親と登った高水三山、陣馬山、御嶽山、七ツ石山(雲取への日帰りをめざして鴨沢から登ったが、歩き出しからの急坂での父の足取りが意外なほど遅くて、七ツ石までの往復になってしまった)、数馬からの三頭山、御前山、日原からの鷹の巣山、浅間尾根。父と行った馬頭刈尾根からの大岳山、川乗山。単独行の大岳山から天地尾根。戸倉三山にも出かけたし、親戚総出で大騒ぎしながら高水三山に登ったこともあったっけ。
しかし、考えてみれば、大岳や高水三山以外は二度極めた山頂は数少ない。けれど、奥多摩はぼく心の中にしっかりと生きているのだ。両親が越した先のベランダから、これらの山々を遠望できた時、奥多摩への思いはふつふつと甦ってきていた。それが、一昨年父が亡くなってから、奥多摩への思いはなお一層募るようになった。
昨年の連休、思い立って母と高水三山に出かけた。昔よく乗った早朝4時45分市ヶ谷発、6時8分立川発という中央線・青梅線をひたすら西行するルートではなかったが、40年前に逆戻りする思いを味わった。高水山は春の真っ盛り。やまざくらと新緑が美しい。大岳山も指呼の間。御前山も、三頭山も、六ツ石山も、棒の折山も迎えてくれた。でも一番感激したのは、高水山の山頂近くにあった、ベンチ状の根曲がりの木だった。この木で写真を撮った記憶がかすかに残る。山頂は40年前のままだった。
タグ: 東京 記憶
posted by あきちゃん at 21:22| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする