2011年07月28日

41年前の旅立ち

今から41年も前の今日7月28日のことである。両親とぼくは、初めての関西に、初めの夜行寝台に乗って旅立った。従兄弟たちとも連れだって山形の母の田舎に行くのを除けば(これはこれで急行列車に8時間近くも揺られ、最後は鈍行の数十分が付く楽しい旅だった。利根川の鉄橋、黒磯の九尾の釜めし、郡山の薄皮饅頭!)、一週間に及ぶ旅行も初めてのこと。夏休みがこれほど待ち遠しかったことはなかった。夏休みに入って一週間、待ちに待った日はやって来た。
当時、紀伊という夜行急行寝台列車があり、名古屋で紀伊勝浦と鳥羽行きと切り離され、関西線経由で奈良を経て大阪の湊町に向かう、今では考えられないような列車だ。東京タワーのイルミネーション(東京に住んでいても小学生にはけっして身近な存在ではない)にも心を浮き立たせながら、上中下三段式のB寝台が繰り広げる夢のような世界にぼくは浸りきっていた。上段へのハシゴを何度も上り下りし、夢でないことを確かめる。ベットに横になっても眠れるわけがないし、また眠ろうとも思わなかった。眠ってなどいたら、折角の時間がもったいないもの! 名古屋での切り離しの停車もよく覚えている。名古屋からは進行方向が逆転する。柘植駅の看板を見、うとうとしながら木津駅を過ぎると、まもなく6時を過ぎたばかりの早朝の奈良に降り立つことになる。勿論奈良も始めてである。その後人生の半分近く(いずれ半分を越えることだろう)を過ごすことになるなどとは夢にも思うはずがない。この時の奈良のことはまた改めて書こう。
この旅行の目的はいろいろあったが、なんと言っても一番も目玉はEXPO70、大阪万博見物である。千里丘陵で繰り広げられたEXPO70は、今にして思えば良くも悪しくも戦後日本復興の総決算だったのだろう。でも小学5年のぼくにそんなことはわかろうはずはない。世界各国が集まる文字通り夢の祭典だった。最近廃刊してしまった学研の*年の学習、*年の科学という雑誌があったが、それらの特別編集としてEXPO70の特集号刊行のちらしが届き、小学生たちはみんなで競い合って註文し、届いた分厚い最先端の科学や万国旗にあふれる雑誌を読みあさったのだった。春の開幕からずっとこの本を読んで憧れ続けた太陽の塔やさまざまなパビリオン。それらをこの目で見ることができる。まんまと乗せられたといえばそれまでなのだが、でも本当に夢のような世界だった。
     *      *      *
信じられないのは、EXPO70が敗戦後25年の節目だったことである。ぼくの世代がもの心ついた60年代後半は、戦後わずか20年だったのである。EXPO70から今日までに経過した月日は41年。子どもだったぼくは、祖父母から戦争の話(それも同じ話ばかり、しかも戦争時代を懐かしむ話ばかり)をいやというほど聞かされた。聞いているぼくにとって、それは大昔の話に等しかった。戦前と明治はほとんど一緒の世界だった(当然両親は祖父母と時間を共有していたはずだが、なぜか両親はそんな大昔の存在ではなかった。両親は戦争の昔語りをしなかったからかも知れない)。しかし、実は敗戦からわずか15年でぼくは生まれたのである。それよりもずっと長い時間をその後ぼくは生きてきている。身体で感じている時間の推移と、実際の客観的な時間の推移の齟齬に唖然とする。
まあこれは、子どもの頃の時間に比べて大人になってからの時間が何倍も速く過ぎてゆくのと同じ理屈なのではあるだろう。人間はそれまで生きてきた時間と比べることによってしか、時間の長さを観念できない。つまり、50年生きてきた人間にとっての1年は、総人生時間の50分の1にしか過ぎないけれど、まだ10年しか生きていない子どもの1年はそれまでの総人生時間の10分の1。だから感覚的には5倍の違いがあるという、わかったような理屈である。
昔のことはよく覚えているのに、1、2年前のことどころかついさっきのことはもう忘れている(うっかりすると、今何を書いていたか、書こうとしていたかさえ)。自分でも情けなくなるくらいだが、人生の出来事を一つ残らず記憶しているとしたら(その恐ろしい話が、最近読んだもう一つのアンソロジー、『生の深みを覗く』〈岩波文庫〉)に載っていたっけ)、年取ってからの人生はますます空虚なものになるだろう。適当に忘れるからこそ、人生、楽しみもある、なんて強がってみたりしているのだが…… 41年前、両親とぼくを乗せて西に向かっていた寝台列車は、今頃東海道のどのあたりを走っていたのだろうか。
ラベル: 記憶 読書
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2011年07月23日

台風と若草山の遠望

今年は季節のうつろいがひと月近く早いと思っていたら、7月早々に梅雨が明け、例年ならようやく夏本番となる終業式の時期(ぼくの夏休みは、一昨年逝った父の誕生日とともにやってくるのだった)に、迷走台風の襲来を迎えることになった。
こんな経路をとった台風は、50年の人生、ぼくもいろんな台風を見てきたけれど、知らない。発生場所もどちらかといえばやや珍しく、やや北東に偏するマリアナのずっと東方だった。最初はほぼ西に進み、140度先を越える当たりから北西に向きを変え、北緯25度で真北に。まあこの辺までは普通の動きだ。夏台風ならこのあたりで動きが遅くなってやきもきさせることも多い。しかし、この台風6号、そのまま着実な足取りで北上し、北東に向きを変え、足摺岬を掠めたあと、徳島に上陸。そのまま北東にいくのかと思いきや、今度は真東に向きを変え、和歌山県南部を通ったあと、あろうことか南東に進路を取って、鳥島近海まで南下し、その後真東に移動。145度線付近で再び鎌首をもたげて北上中である。
以上を線で辿ると、いわゆる鯨の尾の太平洋高気圧の縁に沿って通っているのが歴然。でもここまで素直なのも珍しい。迷走台風というのもあたらない。ほとんど時速20㎞程度の速度を守り、停滞したり、思わせぶりな動きをしたりは全然していないから。今もまだ順調に(?)に北上中で、990ヘクトパスカルと弱ってはきたものの、日本の南東海上で台風として健在だ。
台風が日本を掠めると同時に、これまで姿を見せなかったオホーツク海高気圧が勢力を伸ばしてきたのにも驚いた。事実は逆で、オホーツク海高気圧が台風の進路を阻んだのかも知れないが、真夏の台風とオホーツク海高気圧という取り合わせも妙だ。もう一つ驚いたのは、台風の予測進路がたいへんよくあたっていたこと。天気予報の精度の向上も飛躍的だが、ここ10年ほどの間の気象予報の進歩には目を瞠らされるものがある。
太平洋高気圧が強いから夏が早く開けたのか思っていたのだが、そうではないのかもしれない。少なくとも台風のコースを見る限り、太平洋高気圧の勢力は弱い。来週は猛暑がぶり返すという予想だが、どうなるのだろう。確かにオホーツク海高気圧は、天気図の形を見る限り、もう夏の高気圧に変化しつつある。

今年の夏がいつもと違うと感じるのは、若草山の見え方である。例年真夏にはもっと霞むことが多い。もちろん遠望できるのだが、今年ほどくっきり見える日の多い夏はなかったような気がする。高気圧が南から覆う例年の夏は、湿気が高くて遠望が効かない。それに対し高気圧が列島上ないし北からおおう時は、湿気が低くカラリと晴れて見通しがよくなるのである。
台風6号の直撃予報だった水曜日、南東進した台風の影響はほとんどなく、かえって澱んだ空気を吹き払ってくれた。夕日を浴びて金色に光る大極殿。これにはもう驚かなかったけれど、目を右に転じて目を疑った。大仏殿と二月堂の三角屋根が黄色く輝いている。宇奈多理の森の上で、二つの三角屋根は神々しかった。デジカメを取りに走ったが、構えるまでもなくもういつもの景色に戻っていた。あたりにはもう夕闇が迫ってきていた。

今日は日射しこそ真夏そのものだが、空気はまだ少しひやりと心地よい。週明けはまた暑くなりそうだ。でも、暑くてこその夏である。自然の力ならば、それはそのまま素直に受け入れられる。暑さを味わう心のゆとりをもちたい。今はこの瞬間しかない。

大仏殿二月堂遠望.JPG
〔台風一過の夕闇が迫る大仏殿と二月堂の三角屋根〕
ラベル:天気 季節 奈良
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2011年07月17日

奥多摩の山々を望む

奥多摩には名山が多い。二〇一七mを誇る東京都の最高峰、雲取山の頂は、残念ながらまだ極めたことはないのだが、奥多摩の山々は、少し大袈裟にいうなら、ぼくの精神形成に深く関わったといっても過言ではない。
都内からでもそれとわかるユニークな鞍状をなす名山大岳山、その西に優美に裾を引く御前山、奥多摩有料道路で周囲が一変してしまったが数馬集落の奧に聳える名峰三頭山。主脈に並ぶこれらの三山は奥多摩の代表格だろう。
大岳山の入口に当たる御嶽山、多摩川をはさんでその北側に優しく対峙する高水三山もコンパクトながら充実した山旅を楽しめる。
氷川集落の北に本仁田山を従えて屹立する川苔山は、名瀑百尋の滝をもち、さまざまなコースにも恵まれた名山だ。
雲取山からの主脈に並ぶ七ッ石山、鷹ノ巣山、六ツ石山もそれぞれに異なる顔をもち、尾根上のピークとして通り過ぎるだけでは何とも勿体ない。日原からの鷹ノ巣山への登山道は、ワサビ田を見ながら登るきついが味わい深い道だ。六ツ石山の丸いドームは爽快この上ない。
そして秋川南岸の戸倉三山、三頭山に連なる明るいかやとの尾根の浅間嶺や、大岳山から伸びる長大な尾根上の馬頭刈山なども外せないだろう。人によっては棒ノ折山や蕎麦粒山などに指を屈するかも知れない。
最初に大袈裟なことを言ったが、これらの山々に登った経験は、実はけっして多くない。少ないところはたった一度きりというのもある。雪のある様子を知っているのも川苔山くらい。でも、その一度の実現にどれだけの気持ちが費やされたことか。その一度の実現がどれだけ多くの豊かな稔りを心にもたらしてくれたことか。そして事前の計画と事後の記録、そして遙か遠くからこうして憧れを募らせる時間、そこにも山歩きの醍醐味はある。

奥多摩の山々.jpg

真夏というのに、先日奥多摩の山々を遠望できた時には、思わず心が躍った。凸型の鞍をいただく大岳山、その左手に御前山の優美な緩やかな三角形、そしてさらに左奧に文字通り山型の山容を刻む三頭山。不断の夏なら湿気で霞むことが多いのだが、高気圧が北偏し、適当に風の吹く時には、こうしてカラリと山容を現わすことがある。居ながらにしてこの三山を名指せる幸せは、ほんとうになにものにも代え難い。

空気の澄みわたった日に若草山を遠望し、大仏殿と二月堂の屋根が鮮明に見晴るかせた時に感じる感覚も、きっとこれに類するものなのだろう。自身のルーツといってもよい、身に滲みついた感覚なのだ。
ラベル: 東京
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2011年07月15日

アンソロジーの作法

岩波文庫で最近出た『この愛のゆくえ』というアンソロジーを読んだ。文字通り再読・三読した愛おしき掌編、読んだことがあるという程度の短編、タイトルは知っていたけれど読む機会に恵まれなかった小編、そして全く未知の佳編まで、ほんとうにいろとりどりで楽しめた。どれがどれだかは、ここでは敢えて触れない。
編者の中村邦生氏によれば、アンソロジ-は結局排列の妙なのだという。まさに言い得て妙である。傑作はそれだけで充分輝くのだけれど、排列によってはさらに輝きを増したり減じたりもする。単独ではどうということのなかったものが、前後の並びによって意外な輝きをもち出したりする。
これは何も小説の世界だけの話ではない。音楽だって同じことだ。ハスキル節が鼻について、というわけでもないのだが、別にどうということのなかったモーツァルトの第9番のピアノコンチェルト。それが、たまたまケンプのゴルドベルク変奏曲の最後のアリアが終息し、ふーっと息を抜いた時に何気なく始まった。いったいこれはどうしたのだろう、なんと心にしみわたってきたことか。一瞬何が始まったのか、この曲はいったい、と思うまもなかった。気持ちの隅々にまでメロディーがじんわりと潤ってゆく、そんな得も言われぬ感覚を味わった。こうでなくてはならないと初めから決まっていたように、何の違和感もなく音が自然に流れてゆく。こんな癒される演奏だったなんて…… ケンプが少ない音符で淡々と奏でるゴルドベルクの余韻が、ハスキルの優しさと何重にも共鳴するのだ。
翻ってこの人生だって同じこと。日々生起する出来事も、その順序によっては気持ちを落ち込ませもするし、奮い立たせもする。違うのは、その排列を自らは操作できないこと。でも操作できないからこそ、人生はこれみな排列の妙ともいえるのだ。アンソロジーを編むように人生を編めたならいいなとは思う。生起したことに応じて梶をとり、絶妙なアンソロジーを奏でるように努力できたらなおよいのだけれど、そこまでは無理であってもせめて、人生という絶妙のアンソロジーを満喫できるだけの、心の余裕がもちたい。
アンソロジーの作法はまさに人生そのものと作法といえるのだ。
ラベル:読書 日常 音楽
posted by あきちゃん at 22:17| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2011年07月01日

記憶の糸を紡ぐ1

家までの長い道
小学校のプールの長い方の辺に匹敵するほどの長さの通路の奧に、ぼくが今までの人生のまだ半分を超える時間を過ごした家はあった。一度巻き尺でもって測ってみたことがある。二二m何十センチだかはあったと思う、後にその北半分を舗装して駐車場にしてしまったが、それまでは道路に面した北端から、二mくらいの高さの引き戸方式の木戸を開けて入るようになっていた。外からは隔絶した空間になっていた。
その木戸を入ったすぐ左脇には、一本の柳の木があった。我が家最初のカラー写真である、ぼくが三輪車に片足をかけた状態の冬の写真を撮った場所だ。ひどく青っぽいカラー写真である上に、ぼくの来ていたのが青いジャンパー。左右のファスナーを合わせるのがひどく難しかったやつだ。手には両手が紐でつながれた水色の毛糸の手袋。そばには、変に分厚いセルロイドの縁の眼鏡をかけた母がいたはずだ。小学校時代だったか、この柳の木に郵便局の依頼で赤い郵便受けが釘付けされることになる。
家まではコンクリートのたたき状の幅七十センチくらいのコンクリート。その両側は土で、祖母の空間だったが、時にぼくが進出していくこともあった。ここには実にいろんな植物が植わっていて、家の前からいうと、まず家に向かって左手の鬼門の部分には、ねずみもちとやつで。ねずみもちにはよく蛾が卵を産み付けた。その南にかなり大きくなった棕櫚の木が一本。その南側を家の東側の通路が延びて来て、玄関からのたたきからの舗装道と接続する。その角は何だっただろう。はっきりとは思い出せないが、あるいはジンチョウゲだったか。次がハクチョウと祖母が呼んでいた春先に白い小さな花が咲く木、そしてその北はつるバラがかなりの面積を占める。次が、これは結構後から植えたものだが、大きなボタンが一輪あり、その北はアジサイではなかったか。アジサイはかなり多くて、最後の頃は巨大になって随分と無茶苦茶に切ったものだったが、生えている場所によって花の色が違い、たいていは赤っぽくなるのに、一ヵ所だけ青い花の咲くのがあったのを覚えている。ただ、どれがどこだったかは記憶が曖昧だ。だいたいこの辺りで道路までの半分だろう。ここまでは玄関から少し傾斜が付いていたが、ここから先は比較的平らな道が木戸まで続く。こどもの意識としては、この傾斜変換点あたりを境に、道路を南北二つのブロックに分かれていた。
西側もこれと似たり寄ったりの状況だが、東側よりも幅が狭かったので、もっとごちゃごちゃしていたよう気がする。カンナとかダリアとかも植えた。コンクリート舗装にする前はさまざまな大きさの平たい石を適当に敷き並べてあって、結構隙間もあって、三輪車や自転車をガタンゴトン言わせながら走ったように記憶している。この舗装になったのが、小学校一年生の時。隣というか我が家の前を塞ぐ形のパン屋との境界の板塀をブロック塀に改修するのに合わせて直したのである。工事の人にお茶やお菓子を出さなくてはいけないから、ママは出かけられませんと、いうような作文を一年生の国語の時間に書いたのをよく覚えている。夕方までかかってコンクリート打ちが終わり、丁寧に平らにしてあとは乾くのを待つだけになり、折角きれいにしたのだから気を付けてというわけで、木戸を入ったところにロープを張って、注意を喚起したのにもかかわらず、ひと足踏み込んでしまって永久に残る足跡一、二歩を刻んだのは、その晩飲んで帰った父だった。ここまでやっておけばまさかパパでも大丈夫ね、と言った矢先の出来事だったから、ずいぶんと父の株は下がった。
木戸から玄関までのこの幅二、三mの空間は、子どもにとって、家でもない外でもない特別の意味をもっていた。自転車に乗るようになってからも、ここを随分と往復したものだ。
家に入るための、そして外へ出るための橋がかりのような役割を果たした場所だった。でも、祖父母にとっては、パン屋に道路に面した方を分けてさえいなければ、という痛恨の敷地だったし、父にとっては迂闊に手入れの手出しをして祖母の機嫌を損ね、二度と関わりたくなかった土地でもあったのだ。でも、こどもだったぼくにとって、この空間の存在が、どれだけ心を落ち着かせてくれたことか。今になってみれば本当によくわかる。待ち焦がれた手紙の到着を期待して足を何度も何度も運んだのもこの通路だった。
     *     *     *
ひどく鮮明な部分と曖昧な部分とが交錯する、子どもの頃の想い出。記憶の中で紡がれてきたこともごっちゃになって、真実はもしかしたらだいぶん違うかも知れない。でも忘れないうちにできるだけの糸は紡いでおきたい。書くことによって取り戻す記憶もあるだろう。そんな気持ちで、時折書き止めていくことにする。
ラベル:記憶
posted by あきちゃん at 23:32| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする