2011年08月17日

夢の記憶

2年前の日記から
「2009年2月15日(日)
昨日の暖かさの名残が感じられる穏やかな日曜日。
(中略)
夢はどうしてこう覚えていることが難しいのだろう。それを承知で床から起き上がる前に夢の反芻を態々やってみているというのに、それでもなお忘れてしまう。起きたら直ぐにメモを残そうと思っていたことさえ忘れてしまう。夢は記録してはいけないことなのだというみたいに。それをこうして記憶を何とか呼び起こしてつなぎ合わせる作業として書き止めることは、何かに対する冒涜なのだろうか?
今は亡き小学校時代の友人のS君とどこかに出かけた。ずいぶんいろんなところに出かけ、泊まりもし、なぜか温泉にも入って戻って来る。なぜか、大きな布団を持って帰って来る。朝のようだ。どうやって帰って来たのだろう。バスの待合のようなところで荷物を下ろしている。地面は濡れていて、布団を置く場所を考えている。8時半だ、時間がない。もうすぐでないと10時何分だかに間に合わないと気が急いている。その後家に戻ったような覚えがある。母が出てきた。急ぐ必要はなさそうだと思った記憶がある。あとは何だかもう思い出せない。なぜS君なのだろう。小学校時代の幼かった彼ではなく、すらっと細く伸びてしまった後の中学時代の彼だった。死んだ彼のことを最近思い出したことはある。本の間に、彼が外国からよこした手紙を見つけたことが頭のどこかにひっかっているのかも知れない。家に戻ってからの続きがずいぶんと長かっただが、長かったことしか思い出せない。
起き抜けに彼の夢をかんで含めるように思い出しているうちに、何故か今度は別の夢を見てしまったらしい。N寺であると意識していたことを覚えている。尋ねていくのだが門に鍵がかかっていてあかない。あれこれ動かしてみる。あかない。しかし、いつの間にか鍵があく。中に入ろうとすると、知り合いの一行が丁度現われ、一緒に門から中に入っていく。中から女性が現われ一瞬いぶかしげな顔をするが、構わず挨拶して上がり込む。一行の先頭に何故か大学の先輩のMさんがいる。鍵が開いてしまったので入りましたみたいな言い訳をぼくがしている。向かう先は、庫裏のような所を抜けた本堂というか、不思議な空間。でもこれで慣れたところに来たという安心感の感覚がある。いつもの部屋と考える所に入ると、先程の一行がいる。FさんとO君のようだ。彼らは何かを食べている、そんな記憶がある。隣の部屋のガス台があり、なべが二つかかるる。多分手前の方で、何かが焦げている。こんなに焦がしてしまって、不用心なと思った記憶。中身はさっき彼らが食べていたものに間違いないと思ったことを覚えているが、何だかは思い出せない。そして奧のもう一つのガス台。こちらにも何かおかしなものがあって、彼らを非難したのを覚えているのに、何だったか全くわからない。この話も反芻した記憶があり、さっきのS君との旅行の話と比べてストーリー展開が結構複雑だなあと思った記憶があるのだけれど、どっちのストーリーもこれ以上には思い出すことができない。これでもあとのN寺の話はほんのわずかだがこれを書き始めてから記憶に蘇ってきたから、何とかここまで書けた。前の話の母が出てくる家での部分、悔しいけれども覚えていない。
反芻しているときは、ああこれとこれははこうしてつながるんだな、脈絡がないようでいてちゃんと脈絡があるんだ、と自分なりに納得できたのだけれど、起きてしまうとそれが全然だめになる。脈絡が付いたつもりになっていただけなのか、無理に付けてしまっていたのか、それとも間にあったはずの脈絡を付けていた事柄がすっぽり抜け落ちてしまったのか、それすらもよくわからない。わかるのは、現在の記憶ではつながりがよくわからないということだけ。でも理屈ではないのだ。原因と結果として不自然でなく理解できたという事実が大事なのだ。たとえ夢の中でとはいえ、自然な事として認識できたこと、それを大切にしたい。
(中略)
夢を記録することが良いのか悪いのかわからない。今年の初夢であったはずの夢を書いた記憶はあるのだが、何を書いたのか、データ自体が飛んでしまった今となっては、どうすることもできない。」
ラベル: 記憶
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2011年08月14日

君は君のために生きていく

泣きたくて 笑いたくて ホントの自分、ガマンして伝わらなくて……

そんな歌詞を乗せて流れる軽快なメロディーが耳について離れなくなった。ああそうなんだ、そうだったんだと、心から思った。自分のことを言われているようで、すごく共感した。

でもこの歌のすごさは、ホントの自分、ガマンして伝わらなくて、仕方ないね、と諦めてしまうわけではないところ。

僕らの住む世界はいつもとてもウソだらけ
自分殺して 笑顔作ってる


と、ぼくの心を見透かした後、

泣きたくて 笑いたくて ホントの自分
ガマンして伝わらなくて
君は君のために生きているの?


と、問いかける。

そして、

愛、自由、希望、胸にそっと懐かせて
この世に君は 生まれてきた
生きる意味探す旅を 日々君続けるよ
命 運ぶ方へ 進めこのLIFE


なんと勇気づけられることだろう。あっけらかんとした歌詞とメロディー。なのにこんなすごい言葉を、押しつけがましくもなく、サラリと言ってのける。現実を冷めた眼で直視した後、それでも自分のために生きなくちゃという呼びかけを何度か繰り返す。直球をずばりと投げてくる。

最後は、

泣きたくて 笑いたくて ホントの自分
ガマンして伝わらなくて
言いたい事 言えないけど ココにいるよ
泣きたくて 笑いたくて ホントの自分
ガマンして伝わらなくて
君は君のために生きていくの


ココにいるよ! には、年甲斐もなく思わずホロリとさせられた。人が何て言おうと、自分らしい生き方ってあるだろう? 自分に正直に生きなくちゃ! もちろん自分勝手の勧めなんかではない。みんながもっと自分の気持ちに正直に生きられたら、この世は多分もっと住みよくなるだろう。

キマグレン、という若い2人組のユニットの歌である。出会えてホントによかった。軽快なリズムが一歩一歩しっかりとした足取りで響きわたる……
ラベル:音楽 日常
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2011年08月13日

記憶の糸を紡ぐ2

子どもだったぼくの狭くて広い領分
家の木戸を出て右(東)方向へは、多分100mもなかっただろうと思うが、O女子大学の交差点が子どものぼくの世界の終点。交差点の角の魚屋へは滅多に買いに行くことはなかった。魚屋からそのまま横断歩道を渡れば、文房具屋のS口さん。ここへはよくノートや鉛筆を買いに行ったけれど、信号を渡って行くここは、同じ町内ではあっても、一つ別の世界だった。その先にはO女子中・高があり、ここに通っていたぼくのいとこ姉妹が母の所に寄っていくことは珍しくなかったが、ぼくには異次元の世界でしかなかった。文房具屋から交差点を北へ渡った魚屋の斜向かいに当たる角は、O女子中・高のグランドの入口。しかし、交差点のここの側へはほとんど行くことがない。ここから家の方向、つまり西に渡り返したところはO女子大学の正門。3階建ての重厚な建築だった。でもここへも滅多に行かなかった。
魚屋の手前には喫茶店というかスナックがあり、その手前がA山さんという八百屋。屋号は八百H。ここには小さなおじいさんがいたが、割と早くに亡くなって、あとはおじさんとおばさんで切り盛りしていた。飼っているダックスフントが珍しかった。おばさんは優しかったが、おじさんはちょっとぶっきらぼうで怖く近寄りにくかった。我が家は最初この八百屋を使っていたが、後に「車の八百屋」が階段の下に来るようになると、たいていのものは車の八百屋で買うようになり、足が遠のいた。でも、日清のチキンラーメンとエースコックのワンタン麺しかなかった即席麺の世界に、駅前ラーメンというのが新発売になり、一時我が家を席巻したが、それを最初に買ったのが、このA山さんだった。八百屋といっても、乾物なども置いていたのだろう。木戸の右手は、やはりこの八百屋に代表される世界で、言ってみれば「八百屋の方」、とでもいうことになるだろう。
八百屋の手前には建て売り風の家が数軒、そして長い塀で囲まれたお屋敷が1軒(ここは暫く空き地になっていたこともあったような気がするが、後にマンションになった)、その隣が、我が家に隣接する区の土木事務所だった。土木事務所にはコンクリ造りの2階建ての宿舎があり(1階は駐車場)、ここにはよく遊んだK子ちゃんという女の子が住んでいた。台風か雷雨か何かの時にどういう経緯かよくわからないが暫く避難させてもらったことがあり、ブドウをごちそうになり、ぼくが恥ずかしいくらい食べたと母や祖母によく言われたものだ。本人は全く何も覚えていない。ここには仕事柄さまざまな珍しい車の出入りが多かった。運が良ければロードローラーなども見られ、ちょっと怖くもあったが冒険心をかき立てる世界が広がっていた。土木事務所の建物はちょうど家の通路のすぐ脇にあり、敷地自体はずっと奧の崖下までずっと我が家に接して続いていた。土木事務所の裏の物置は我が家の庭と隣り合わせで、庭の南東隅にあったサクラの木は、物置の屋根にハラハラの花びらを散らせていたものだった。
一方、八百屋の方の道路の北側、つまりO女子大の側は、大学の建物が結構西まで延びていて、南側のお屋敷の反対側あたりのY野先生という剣道の先生の家の隣まで続いていた。Y野先生の家はちょっと鬱蒼としていて、その西側から北へ入っていく細道があり、突き当たって西に折れるようになっていた。西に折れて少し行ったところには、ぼくが絵を習いに行ったK藤先生のお宅があった。なおも西に行くとK段小学校の北東の隅のところに出る。ここから右(北)へはN七通りへ抜ける階段、左はK段小学校の東側の講堂に添う道で、我が家の木戸を出て西に行った道に出るようになっている。この小学校こそ、ぼくの母校で、ぼくの活動範囲の西の限りを構成する施設だった。
K藤先生のところ通い始めたのは1965年の10月1日。都民の日で幼稚園は休みだったと思う。帰って来てからだったのだろうか、三輪車で我が家の木戸に向かって、反対側の床屋の前から道路を横断しかけたぼくは、家の前でバイクにはねられた。幸いたいした怪我ではなかったのだが、この交通事故のショックは結構大きかった。壊れた三輪車は真新しい新品に弁償してもらったようだが、新しい三輪車の乗った記憶は全然ない。その後も錆び付いた古いガタガタのに乗り続けた。八百屋のところからトラックが来るのが見えた。でも随分遠いから大丈夫だろう。そう思って母の後をついて渡ったぼくをめがけて、突然湧いてきたとしか思えないバイクが突進してきた。四ッ谷の方のクリーニング屋の若い配達員の運転だったらしい。夕方から降り出した雨に見通しも悪かったのかも知れない。夜遅く、店主に連れられて見舞いに来てくれたのをよく覚えている。こんな子のために面倒なことになってしまった配達の青年は、今にして思えば気の毒だった。
家の木戸から左(西)は、言わば「学校の方」。木戸を出てすぐ左には、まず我が家の前にあるパン屋のS南堂。小さい頃パン食は滅多になかったが、買うときはいつもここだった。元々祖父母が戦後まもなくに買った細長い土地のうち、道路よりの部分を、ご主人に泣きつかれて分けてあげたという曰く付きのところで、祖父母、特にに祖母にとっては痛恨だったらしい。パン屋の隣、ということは我が家とも接しているのだが、そこにはT寮という学生寮があった。戦争に焼け残ったのではないかとさえ思える古い鉄筋の3階建ての昔ながらの学生寮で、ここの管理人の子もぼくの遊び相手の一人だった。M実ちゃんという男の子。ぼくよりはいくつか下だったが、一人っ子のぼくは、ちょうど弟のようによく遊んだものだ。その頃もうK子ちゃんはいなかったのだろう。その隣は魚屋のK村さん。ぼくは覚えていないが、うちの魚は生きているんだぞと言っておじいさんが庖丁をさばいていたそうだ。ぼくはおばあさんのことしか記憶にない。その孫にあたるHちゃんはぼくより3つ下で、この子ともよく遊んだ、彼が小学校に入学した時、弟のようにうれしく、いろいろと世話を焼いてあげた。同じ魚屋でも、八百屋の隣の魚屋より店先がきれいだったが、それでも遊びに行くと、家の中は魚の臭いが染みついていた。魚の嫌いだったぼくがそれを気にしなかったのはなぜだろう。その西隣はS野ビルという、会社と住居を兼ねた鉄筋のビル。ここにもよく遊んだ女の子が住んでいた。1階から2階の踊り場を挟んで真っ直ぐに住居のある3階まで昇る階段で、3階のどんつきに置いてあったオマルが何だかわからなくて、開けてみはしたものの、慌ててひっくり返してしまい、恥ずかしい思いをしたっけ。後で怒られもしなかったのが、かえって恥ずかしかった。
その隣には南に延びる横町があって両側に数件の家。スピッツのいる家やお巡りさんの家など、不思議な横町だった。魚屋さんの玄関は横町の側にあった。横町の隣は、0学園のグランド。その手前あたりから北に入る道が、さっき書いたK段小学校の東端の塀に沿う道となる。O学園のグランドが始まるあたりから小学校の通用門に向かって横断歩道があり、本当は家の木戸からここまで南側をあるいて横断歩道で道を渡って学校に行くのが正規の通学ルートだったはずだが、たいていは、そこまで行かないうちに道路を北に横断するのが常だった。木戸の向かいは床屋(これもさっき書いた)。その隣は洋服屋(ボタン屋?)。その隣は金属加工などをやっていたらしいM田さんのお店。その西には北へ延びる細い路地。これをまっすぐ行くと、K藤先生の家の前の道に突き当たる。そこにも級友が住んでいた。始業式の日など、よく彼を誘って一緒に学校に行ったものだ。なぜって、いつもと登校時間が違う日は、一人で行くのが不安でならなかったから…… 家の前の道路に戻ると、M田さんから先には普通の家が数軒あって、そして小学校の東辺に添う道(階段に向かう道)の角にはO橋ビル(著名な芸能人がオーナーだったという)。階段に向かって、もう1棟ビルが続く。1階が楽器屋さんになっているビル、上には同級生がいた。
ところで、家の前の道路はちょうど学生寮のあたりで、道路が少し西で南に折れていて、ここで斜めに道路を横断するのが楽しかった。家の前の道を真っ直ぐに西にたどると、自然と道路の北側にたどり着いているのである。いつか、斜め横断をしてつかまった歩行者の話を先生に聞かされて、自分もいつか捕まるのではという恐怖感を覚えたのが懐かしい。多分、交差点の斜め横断(その頃はやり始めていたスクランブル交差点の渡り方)をいうのだろう。
小学校の東辺に添って北に歩くと、K藤先生の方から来る道を右手から合わせてすぐ、カギの手に折れる階段に行き当たる。子どもの世界の出口といってもよい。この階段から外に出ることはしかし、けっして珍しくはなかった。なぜなら、都電に乗る時には必ずここを通って行ったし、そして何よりもその先には、生活に欠かせないある施設があったからだ。それはK湯というお風呂屋さん(銭湯)だ。我が家にはぼくが子どもの頃には内風呂がなく(当時は全然珍しいことではなかった)、この階段を登って、家から5分はかかる銭湯に通っていたのだ。春先、東京に雪の降った日の夕方お風呂やさんに行くと、もうもうと湯気が立ちこめて、ちょっと温泉気分が味わえた(もっとも温泉がどんなものか、小さかったぼくは当然知るよしもない)。確か午後3時からやっていたはずで、日曜日など父と早いお風呂に出かけると、母と行く夜の疲れたお風呂やさんとは違う新鮮さがあった。お湯が凛としていた。10日に一度休みがあり、その時は駅に近いもう1軒のUの湯に行くこともあった。K湯とは全然違う雰囲気のお風呂屋さんで、脱衣場の裏にあった坪庭がなつかしい。K湯にはない飲み物がいろいろあったのも楽しい。母との時は滅多に飲ませてもらえなかったが、祖父はよく飲ませてくれた。祖父とお風呂屋さんに行く楽しみは、湯上がりの飲み物にあったといってもよい。ことに滅多にない祖父とのUの湯行きは、子どものぼくにとって夢のようだった。
東は八百屋のすぐ先の交差点まで、西は小学校まで、北は階段まで。小さい頃のぼくの生活空間(領分)は、ほんとに狭いものだった。でも、狭いなどと感じたことはない。無限の広がりをもつ世界だった。南はどうだったか。我が家の南はすぐ石垣の崖で、西半分は大使館の敷地、東半分はO女子中・高の別のグランドだった(ここにも後に高級マンションが建つ)。グランドへは、我が家の裏の山から、石垣を登って行くことができたが、大使館の方は塀に囲まれていたから下から眺めるだけ。でも大使館の北東角には、夏みかんの木があって、我が家へよく実を落としてくれたものだが、これがまた途轍もなく酸っぱかった。大使館に住み込んでいた運転手の子がぼくの同級生の一人で、塀の上と崖下で話をしたりしたこともあった。とはいうものの、南は我が家の山で、抜け道はあるにはあったわけだが、一つの「方」を構成するものではなかった。山のことではいろいろ思い出すことも多く、この山と、そこへ登る手前の池のある庭は、ぼくの原点のような気がするのだが、走馬燈が駆け巡るばかりで、なかなか一つの落ち着いた像を結ばないのがなんとももどかしい。
ラベル:記憶 東京
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2011年08月04日

台風と若草山の遠望2

昨日書こうと思っていたことを、今日はもう一つ続けて書いておきます。

また台風です。今度はかなり大回りしそうで、本州に近づくことはなさそうですが(予報がどんどん西寄りになっていきます。今度は中国に出かけるみたいです)、お蔭で風が結構あって、朝晩も結構涼しく、空気が澄んでいます。
昨日、前回ご紹介できなかった若草山の芝地も含めたもう少し鮮明な写真が撮れましたので、ご紹介します。こんな感じです。8月3日の夕方の様子です。

若草山と東大寺遠望.jpg
〔若草山と東大寺遠望〕

先週は天気が安定せず、いつどこで夕立があってもおかしくない状況でしたが、今週に入ってようやく落ち着いてきました。よくあることですが、台風が夏の高気圧を強めるはたらきをしたみたいです。台風自身は高気圧の縁に沿って大回りし動きも遅くなります。自分で進路を塞いでいるかのようで、自業自得の気味はあるのですけれど。
台風が沖縄に近づいています。どうか呉々もご注意ください。インターハイに出た息子の応援に沖縄に出かけたのは去年の今頃でした……

沖縄・名護の万国津梁館にて.JPG
〔沖縄・名護の万国津梁館にて。2010/8/2〕
ラベル:天気 季節
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『空罐』を読む

岩波文庫のアンソロジー『生の深みを覗く』の最後に、『空罐』という作品が収められている。アンソロジーの掉尾を飾る作品に選ばれるくらいだから、相応の作品なのだろうとは思っていた。でも、空罐という言葉のもつ語感はさほど重くない。ぼくらの世代にとって空罐といってまず思い浮かべるのは、子どもの遊びの定番だった缶蹴りの主役だろう。鬼の隙を狙って蹴飛ばしに行く、あれである。缶切り(これも最近はほとんど死後に近い)でフタを開けて中味を食べた後の空き缶なら、どこのうちにも転がっていた。缶に直接印刷したものが多くなってはいたが、北洋で直接缶詰にされた鮭缶とか蟹缶(どっちも滅多にお目にかかれる代物ではなかった)、あるいはパイナップルの缶には、紙に印刷して巻き付けてあるものがまだ結構あった。光沢のある亜鉛のブリキ缶である。今では空き缶自体がほとんどゴミといってもよいものだから、その中に入れるものはゴミも同然で、想像力を働かせる余地がなかった。
電車の中で何気なく読み出して、廃校になる母校を30年ぶりに訪れた5人の級友たちの過ぎし方を淡々とかつ的確に描いていく気取りのない筆致に、いつしか時を忘れる。しかし、いつまでたっても肝心の空罐は現われない。原爆病院から離れた離島への赴任を心配する大木の話から、ふっとベットがあいてガラスを抜くために急遽入院することになって来られなくなったというきぬ子のことへと話題が移る。女学生時代のきぬ子を知らないと思い込んでいた私に大木が、さも当然のことのようにきぬ子の空罐にまつわる話を語り出す。空罐は、きぬ子が両親の骨を入れて、肌身離さず持ち歩き、授業中も机の上に置き、一緒に過ごすためのものだったのである。
ぼくがタイトルから描いていたイメージは、とんでもない見当違いだった。空罐の用途として、考えもしなかった事実が淡々と語られる。作者はけっして泣こうとはしない、ましてやそのことで読者を泣かせようとはしない。明日からは家に置いてくるようにいう若い書道教師の言葉を描くことにより、むしろ突き放して見ている。被爆者としての自己を努めて客観的、というより批判的に見る眼が貫徹しているのである。
けっして上手な文章だとは思わない。技巧的でもない。読者に媚びることなど全くない。でも、その淡々とした文章が積み重なった時に全体としてもつ言葉の重み、読み手の心を揺さぶらずには置かないこのエネルギーはいったどこから生まれてくるのだろう。
事実の重み? いや違う。作者はノンフィクションを書こうとしているのではない。あくまで小説に徹している。ディケンズのあの到底現実にはあり得ないようなシチュエーションにぼくらは涙するではないか。天使のようなアグネスやリトルドリッドやエスタに心惹かれ惚れ込むではないか。私たちの琴線に訴えかけるのは、事実そのものではなく、事実に裏打ちされた描写の力なのだろう。林京子という著述者を得て初めて、事実が重みを発揮するのである。
矢も楯もたまらず、昔買ってあったはずの『祭りの場 ギヤマン・ビードロ』(講談社文芸文庫)を書棚から探し出してきて、読んだ。『祭りの場』は、長崎での被曝によって二つめの生を生き始めた林京子の記念碑作品ではあるが、それに続く12篇からなる『ギヤマン・ビードロ』こそは、まさに不朽の名作である。これほど言葉をかみしめ慈しみながら読んだ本は本当に稀だ。終わりが来るのが本当に怖かった。その冒頭を飾るのが、『空罐』なのである。88年に出た初版を購入したのはどうしてだったか思い出せないが、せっかく買ったのに、20年も読まずにいた不明を恥じずにはおられない。

ギヤマン・ビードロ.JPG
〔講談社文芸文庫版『祭りの場 ギヤマン・ビードロ』の88年8月初版本のカヴァー〕

今ここにこうして『空罐』に、そして『ギヤマン・ビードロ』に真に出会えたことに、ただひたすら感謝したい。大震災と福島の事故の年に、 しかもまもなく原爆忌を迎えようとしているこの時期の邂逅、それはやはり偶然のなせるわざだったとはとても思えない。林京子の作品の多くが、数年前に刊行された全集でしか手に入らず、文庫で出ていたものも多くが品切れ状態であるというのが今の現実なのだけれど、『祭りの場 ギヤマン・ビードロ』が30刷以上もの版を重ねているのを知り、少しだけ気持ちが静まる思いがした。かけがえのない小説に、また一つ出会えた。
ラベル:読書
posted by あきちゃん at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする