佐藤正英著『故郷の風景 もの神・たま神と三つの時空』(ちくまプリマー新書145。筑摩書房、2010年9月刊)をタイトルに釣られて買ったのは、刊行間もない去年のことだったと思う。最近ようやく読む機会を得て、何とも不思議な読書経験を味わった。なぜもっと早くに読まなかったのか……
軒下の巣にかわるがわる餌を運ぶ二羽の親燕、夕方から出てきた風になる裏の雑木林、海のかなたを一瞬青白く照らす音のない稲光、沖合から伝わってくる地を這うような海鳴りの重く沈んだ響き、軒先に吊した干し柿を照らす朝の日射し、底冷えのする参道や露天の屋根を打つ突然の霰……、どの頁をめくっても、そんなどこにでもある(あった)何気ない日本の風景が散りばめられている。
1頁を割いてささぶねの作り方を図解した頁がある。これならぼくでもよく知っている。誰に教わったのかもわからないが、こんなに簡単に船ができるんだと驚き、感激したことだけはよく覚えている。今の子たちにはこの気持ち、わかるだろうか。
時折、「わたし」にとっての大きな出来事が挟み込まれる。でもそれも日常を彩るごく自然な時間の一コマに過ぎない。鎮守の森や池、きらめく大川の川面、街道の町並みや火の見櫓、そして波止場に停泊する汽船や岬の灯台の向こうにかすむ水平線を見た阿弥陀ヶ峰への全校遠足、まだ暗いうちに起き出して地蔵堂の祖父(母方の祖父をこう呼ぶ)に連れられて外海に漕ぎ出した和船に乗る経験。帰り際にすんでのところで雷雨に見舞われそうになった、みい小母さんに連れられて行った岬の妙見菩薩へのお参り。

〔「わたし」の故郷の風景―本書の挿絵から〕
春に都会から転校してきた鈴見さん。家族で往き来し、阿弥陀寺の縁日や海水浴に出かけたりもする。茄子や胡瓜のトゲにのことをちょっと得意げに鈴見さんに注意する「わたし」。この本の終わりで、彼女がまた都会へ戻ることが告げられる。「わたし」が感じた鈴見さんのよい匂いが、「わたし」の鈴見さんへの気持ちを暗示するけれど、何事も起きない。この本の中では鈴見さんも一つの風景にすぎないのだ。「わたし」の淡い恋心さえも。そして、「流れのおっちゃん」の突然の死や、「わたし」の父の口を通して語られる「流れのおっちゃん」の過去でさえも。
著者は、記憶なので適宜美化され感傷に彩られていると謙遜するけれど、著者の筆致はけっして感傷におぼれて崩れたりすることがない。そこが小説として読むには平板で面白くないという印象も与えかねないのだろうが、厳しく抑制された清潔な筆致であればこそ、故郷の風景を価値観に邪魔されることなく描き切ることができたのではないか。
中高生向けに書かれた本にしては文章が硬いとか(「…である。」「…のである」が多い)著者がこだわる「もの神」と「たま神」(著者が真に伝えたかったのは実はこのことなのだが)がなかなか理解しにくいとかいうことはあるだろう。また、故郷を流れる三つの時間の説明も、ぼくの頭にはなかなか理解できない。けれども、そんなことは抜きにして、春の章、夏の章、秋の章、冬の章と季節の足取りに託して語られる、淡々とした叙事詩のような文章を素直に読み、日本の原風景を感じ取ればそれでよいのだと思う。何度も読み返すうちに、著者の真意を理解できる日もきっと来るに違いないという気にさせる何かをこの本はもっている。「私」とは何かを考える手がかりが得られそうな予感がこの本にはある。
町の理髪店の二階に下宿している先生に連れられて出かけた町のお花見の話の中で、さりげなく語られるエピソードがある。江戸時代、お花見の日に町を襲った津波の犠牲者のたまをまつる塚がある。跡形もなくなった町にただ一つ残った枝垂れ桜。この町のお花見がひときわ賑やかで、人々が桜の花を大切にしているのは、お花見の日が犠牲者のたまをまつる日でもあるからだと先生が語る。津波の記憶は、故郷の原風景とともに日本人の脳裏に刻まれていたはずなのだ。
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