2011年10月28日

コンサートを聴く

コンサートから足が遠のいて久しい。音の出る前のあのピンと張り詰めた緊張感と、音の出た後の演奏者と聴衆とが作り上げる一体感は本当に何物にも代え難い。一般的にいって、聴き手の積極的な働きかけがなければ、聴き手にとっていいコンサートは成立しない。もちろん演奏の良し悪しは確かにあるのだけれど、演奏だけではダメなのである。いくらいい演奏でも、聴き手がそれと一緒に燃焼しなければ、その演奏はその聴き手にとって最高の演奏とはならない。それを聴き一緒に燃焼しきるだけのコンディションが整わなければ、聴き手にとってのいいコンサートは成立しないのである。
でも、本当に素晴らしい演奏は、自ずと聴き手を完全燃焼させてくれるものである。全く予期せぬ感動を生むことがある。聴き手を完全燃焼に導いてくれる演奏との出会い、それは聴き手にとってまさにの一生ものの宝となる。いいコンサートはだから、体力を消耗するものである。

CDやレコードでも似たような経験はできる。でも根本的に違うのは、演奏と時間を共有できても、空間を共有できないことである。スピーカーやイヤホンが作る疑似空間に入り込むことはできない。聴き手は、再生装置で聴く音楽には、働きかけることができない。燃焼はできても、単なる一方通行に終わってしまうのである。もっとも、燃焼せずに聴くならば、コンサートも再生音楽も変わりはなくなる。コンサートも単なるBGMに過ぎなくなってしまう。そこが難しいところだ。燃焼しない(できない)コンサートよりは、燃焼できる再生音楽の方がよほど感動は大きくなるだろう。
コンサートから足が遠のくようになったのは、ウォークマンやipod、あるいはケータイによって、再生音楽をいつでもどこでも聴けるようになったことが大きい。ポータブルCDプレーヤーも普及しかけたが、やはり持ち運びには不便だった。ミニコンポも持って歩くわけにはいかない。カセットデッキでは音が悪い。結局再生音楽でも、それを楽しむにはそれなりの準備が必要だった。そうした障碍がきれいさっぱり取り払われてしまったのである。それともう一つ、自分の生活時間を遮断して、時間に身を委ねられる物理的なゆとりと心のゆとりがなくなってきたのも大きな原因であるだろう。
とはいえ、体力を消耗し、時間に都合を付ける必要があるコンサートではあっても、その魅力にはやはり抗しがたいものがある。ぼくの少ない経験の中からだが、理屈を抜きにして、忘れ得ぬコンサートをいくつか書き留めておきたい(今書いておかないと、忘れてしまうものも増えてきそうなので)。

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東京文化会館で聴いた朝比奈隆のブルックナーの8番。オケは覚えていない。確か1月末の寒い日で、夜から雪の予報が出ていた。それが的中し、壮麗な伽藍をじっくり一歩ずつ登り詰めていった音楽の余韻を、雪片が優しく包んでくれた。雪に祝福されたコンサートは後にも先にもこのときだけだ。ただ、惜しいかな文化会館は余韻を楽しむには上野駅から近過ぎる。

ゼルキンが弾いた皇帝。オケはN響、場所はNHKホール、指揮はギュンター・ヴィッヒ。20世紀の巨匠の一人でもう80を越えていたであろうゼルキンを聴けたことだけでも感動ものだが、演奏がまたすごかった。小柄な人なつっこそうなおじいさんで、恥ずかしそうに弾き始めるのだが、音が出るや背筋のピンと通った強靱な音が、慈しむように紡ぎ出されていく。

これも東京文化会館で聴いた内田光子の弾くモーツァルトのハ短調ピアノコンチェルト。オケは東フィルだったか。指揮者は忘却。内田の重量感のある音と、木管の掛け合いの美しさに魅せられた。特に第二楽章がレコードで聴いていたこの曲とは見違えるようだった。やはり実演でなければこの木管とピアノの掛け合いはわからない。

若杉弘とN響で聴いたマーラーの大地の歌。厭世的な音楽とだけ思っていたこの曲が、実は壮麗な人生賛歌であることを認識させてくれた。最終楽章の最後の転調のあと、とこしえに、と繰り返し歌うアルトの絶唱が、現世肯定的な音楽に聞こえてきて驚いた。生きねばならぬ、生きねばならぬ、生きればきっと光明が見えるに違いない、と繰り返しているように感じて、不思議な感動を味わった。

神奈川県立音楽堂で聴いたオイゲン・ヨッフムのベートーヴェンの6番・5番。オケはバンベルク交響楽団。月並みなプログラムで全く期待せずに(などといったらヨッフムに失礼だが、曲目が、である)出かけたが、バンベルクのいぶし銀のような音と、円熟期を迎えたヨッフムの暖かい棒が、味わったことのない深い感動を生んだコンサートだった。

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聴いた回数は会員だったN響が多いはずなのだが、印象に残るコンサートはけっして多くない。定期的に用意されたメニューを味わうというところからして、聴き手の働きかけの度合いが弱いのかもしれない。でも、そうしてお膳立てされたプログラムで聴くのでもなかったら、一生聴け(か)なかったに違いなかった曲と出会えた例が多いのも事実だ。レパートリーを増やすには、強制的に聴かされるのもありだと思う。

そんな中では、ラヴェルのト長調ピアノ協奏曲は白眉の一曲。残念ながら演奏者は覚えていないが、第二楽章は意外中の意外な音楽だった。当時はボレロくらいしか知らなかったラヴェルがこんな静謐といってよい曲を書いていたとは。2拍子なのに3拍子に聞こえる凝ったリズムで始まり、妙になつかしい郷愁を誘うメロディーが歌い出す。しっとりと湿っている。音がそこに吸収されていく。でも単に静かななのではない。モーツァルトばりの長調の恐ろしさが顔を出す。静謐さの中に、人間の心の奥をのぞくような深淵がパックリと口を開けるのである。
矢代秋雄のピアノ協奏曲もその一曲。日本人、しかも現代曲は敬遠気味で、尾高賞受賞作品を聴かされる3月の定期は毎年辟易だったが、これは目から鱗だった。尾高本人のフルート協奏曲も秀逸だった。

同じN響でも、わざわざチケットを買って出かけたマタチッチ最後の来日時の演奏はすごかった。ベートーヴェンの2番と7番、ブルックナーの8番ほか。特にブルックナーはもう二度と聴けない演奏だろう。あの感動をもう一度味わいたいとさえ思わない、そんな一期一会といってもよい凄絶な演奏だった。そういえば、ゼルキンも、定期で通ったCチクルスとは別に購入したのだった。今はどうだか知らないが、Cは2日目の土曜日がマチネということもあって、A・B両チクルスよりも普通のプログラムになることが多く、ソリストも有名どころはA・Bにもってゆかれることが多かった。マチネはやはり緊張感という点で、糸の張り詰めが不足しているというか、夜のコンサートよりはだいぶん落ちるのは否めない。気楽に聴けるのはありがたいが、夜のコンサートのハレの場の気分が羨ましいのも事実だった。
ラベル:音楽 日常 記憶
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2011年10月21日

バスで席を譲る

一昨日の朝、バスで老人に席を譲る機会があった。空いていれば、前乗りのバスに乗ってすぐ右側、運転手と反対側の左側一番前の、前方の見晴らしのよい高い座席に座ることが多い。一昨日もいつもの座席に腰掛けてまだ眠い目をこすっていた。あるバス停に止まる直前、老人が歩道をバスと同じ方向にやや覚束ない足取りでバス停に向かうのが見えた。扉が開いて何人かお客が乗った後も暫くバスが動かないのでどうしたのかと思っていたら、さっきの老人が乗って来られた。ちょうどその前の日にも見かけた老人で、その時は気が付いたら運転手の真後ろの席に向かって手すりつかまって立っておられたが、そんなご老体だとは気付かず、駅で降りる時になって初めてかなりのお年寄りだったとわかったが、後の祭りだった。そのご老人が乗って来られたのである。
恥ずかしい話だが、この年になるまで乗り物で席を譲った経験はほとんどない。そういう場面に出くわさないのも確かなのだが、それ以上にいつも余計な荷物をいろいろ持っていたり、くたびれて居眠りをしていたり、あるいは本を読んだりということが多いものだから、ついつい機会を逸してしまう。譲る気がないのだと言われたらそれまでのことが多かったのである。それにまわりでもっと若い人たちが全く行動を起こさないのを見ていると、なにもこの年の自分が動かなくてもなどと、変な理屈が行動を思いとどまらせてしまう。
しかし、この日はためらうことなく席を立つことができた。いやいいですよ、とはおっしゃったが、やはり内心はホッとしておられた様子で、高い席なのでちょっと心配もあったが、ごく自然に座っていただくことがきでた。ぼく自身も前の日のことがあったから、罪滅ぼしができたような安堵感があった。
ところが、それでも、やはり人の視線が気になるのである。当たり前のことをしたはずなのに、いい格好ばかりしてとか、変わるならもっと早く声をかければいいのにとか、思われていやしないかと気になる。本当にこれで良かったのだろうかという不安が消えないのである。もっと自分に自信を持ったらいいのにという、もう一人の自分の声が聞こえてくるのだけれど、また別の自分が行動の不的確さをなじり始める。
結局駅まで、さっき譲ったばかりの席の前に立っていることになった。晴れ晴れとした気持ちがある一方で、短い時間ではあったが辛くしんどい時間だった。電車だったらそっと隣の車両に移ることもできるのだが、バスではいかんともしがたい。なぜこんな気持ちになるのだろう。
思いつくのは、考えるともなく他人の評価を気にしているのではないかということだ。いいことをしていると思った瞬間、それは他人の評価をあてにした行為に変じ、行為の価値そのものが失われてしまう。いいことだからやらねばならないと思って行動を起こすうちは、まだダメなのだろう。打算のない無私の行為が自然に生まれてくるようになるにはまだまだ程遠い自分を実感してしまう。
そういえば、何だか何かにせき立てるように席を立ったような気がする。そこに何かしら不純なものが混じっていなかったとだれが断言できようか。そもそもこんなことをここに書くこと自体が、自分のしたことの正当性を誰かに認めてもらい慰めてほしいからなのではないのか、と囁くまた別の自分がいるのも確かだ。まだまだ人としての修行が足りないな……
ラベル:日常
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2011年10月13日

ホタルの最後のかがやき

生き物の世界では、ほんとうに人間の想像もつかないことに出くわすことがある。中学生の頃、動物の体内時計とか、アユの話とか、そうした生き物の不思議を教えてくれる本にいろいろ出会い、彼らの底知れぬ力に驚いたものだが、いつの間にかそうした感動とも無縁な生き方をするようになってしまっていた。そのことにさえ気付かずにいた。

少し前、見るともなく見ていたテレビの画面には、日本一の清流といわれる仁淀川の風景が映っていた。途中から見たようなので、筋も何もわからないのだが、ふだん地味な色をした魚が、仁淀川の澄み切った水に生えて輝く、その色を求め続けるカメラマンの映像で構成する番組だった。清流の映像に心が洗われた。
話題がいつの間にかホタルに移っていた。番組にとってホタルはメインではなかったようだが、ぼくにとってはまさかと思える映像が待ち受けていた。ホタルの光といえば、ほのかなもの、はかないものの代名詞のように思っていた(野坂昭如の『火垂るの墓』のイメージがどうしても頭から離れない)。でもそれは人間が勝手にそう思い込んでいるだけに過ぎなかったのかも知れない……
一週間という短い命の続く間、精一杯光って交尾を終えた成虫のホタルは、最後は力尽きて水面に浮かぶ。しかしそれでも光り続けているのだ。もう相手を求める必要もない、死を待つだけの、水の流れに身を委ねるしかないホタルが、精一杯生きたことを歓喜するかのように、かがやき続けているのである。カメラマンが長時間露光で捉えたそのホタルの最後の軌跡は、神々しいばかりだった。いったい何のために、などと考えるのは無益なことなのだろう。かがやくこと自体が生きることであり、かがやくことそのものが存在の証しなのだ。かがやきが終わるとき、ホタルはその生命を終える。いわば死ぬために生きる(かがやく)のである。精一杯生きることが死ぬことなのだ。なんと純粋無垢な生きざまであろう。神の摂理としかいいようがないものをそこに見たような気がした。
ラベル:日常
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2011年10月01日

記憶の糸を紡ぐ3

庭の木々と季節の移り変わり
この時期になると町中がこの匂いに包まれる。決まって10月1日頃。数日とずれることがない。季節の動きが何週間もずれることがあった今年もこの匂いに関する限り、測ったようだ。金木犀の開花である。わが家でも庭の南東隅に植えた1本が、10月の到来を律儀に教えてくれる。
10月の到来を告げる金木犀.JPG
〔10月の到来を告げる金木犀〕
町中がこの匂いに包まれるようになったのは、そんなに古いことではないような気がする。ぼくが生まれ育った周囲では、この匂いで季節の到来を知った記憶はない。季節の変化は都会の子にはなじみの薄い感覚だったろう。でもぼくが住んでいた家の庭は、今考えてみると季節の変化を表すものに満ちあふれていた。それは当たり前過ぎてほとんど意識しなかったといってもいいのかも知れない。
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わが家の庭と、南側の一段高い崖の上の敷地(崖の上と下とでは番地も異なっていた)の間は、ちょうどテラスのようになっていて、山と呼んでいた(確かに、記憶にある限り、山のように鬱蒼とそして雑然としていた)。言葉では説明しにくいけれど、崖の上下の境界線は、西隣の学生寮からわが家の南東隅まで来たところで少し北へ出っ張ってカギの手になり、西隣の土木事務所の方へと続いていた。つまり、わが家の庭の奥は、ちょうど崖の入り隅になっていて、その部分にだけ崖の高さの半分くらいの土を持ってテラス状の山が設けられていたわけである。
さて、池の西側には葡萄棚があった。種のある酸っぱい葡萄がなったことがあったような気がするが、ほとんど棚の用はなしていなかった。ここには林檎箱で作ったぼく専用のブランコが釣り下げられたことさえあった。その下を通って敷地の西端から池の南側を池に添って東に向かって登って行けるように段々が設けられていた。段々の南側のテラスの上は何株かの躑躅(ツツジ)が植わっていて、5月には大輪のピンクの花を咲かせて見事だった(一番ありふれた品種ばかりで、白いのでも少しはあればいいのにと思っていた)。段々の中程のテラス側にあった庭常(ニワトコ)の木は、小1、2年生の頃だったろうか、大きくなり過ぎてか自然に枯れてだかは覚えていないが伐られてしまった。その切り株に木耳(キクラゲ)が出て、最初何だかわからず、近所の町会で世話になっていた人にそれが中華料理の食材になる美味のキノコだと教えられたのを祖母が話していた。
池の南西岸には1本のもみじの木が生えていた。葉の切りこみの深いもみじで、毎年晩秋の紅葉がきれいだった。その東側には、庭で一番目立つ柿の木があった。この木は池の岸ではなく、岸から南に立ち上がる石垣の上に根元があって、あんなところからとよくもまあ、と思うような位置から枝を広げていた。甘柿で春先に緑色の目立たぬ花をたくさん咲かせたが、実は毎年申し訳程度につくだけだった(ヘタのところを食う虫のせいだと本で読んだが、結局確かめずに終わった)。柿より一段高い段々を上りきったところには枇杷の木があり、これはいつの間にかどんどん伸びて、伐る伐らないで祖母とやり合ったこともある。その東側、山の南東隅近くには、春になると庭で真っ先に白い花を咲かせる木蓮(恐らく辛夷〈コブシ〉)があった。わが家ではめずらしく清楚な花だった。
その南、庭の本当の南東隅には、背の低い山椒の木が一本植わっていた。ここからはO女子中・高のグランドのある崖上へ、ひとがんばりすれば上れる高さで、子どもたちの抜け道になっていた。それはそうとこの山椒、棘と匂いでよく覚えている。料理に使うこともあったが、むしろこの木に卵を産み付けるアゲハのエサになった。黒い見映えのしない幼虫がオレンジの角のある青虫になって、キアゲハに成長していくのを知ったのは、虫嫌い(というより怖かった)だったぼくの精神構造を根本から変える結果になったといっても大袈裟ではない。家の中で幼虫を飼い、夜中に虫籠から出て室内を這い回っても全然平気になったのだから。
枇杷の足下からツツジの南側にかけてのたいらなところには、蕗が群生していて、春先になると祖母と一緒に取ってきて、筋取りをしてはゆがいて食べたものだが、このあたりはだんだん紫陽花(アジサイ)が跋扈していったような気がする。その西、庭常が生えていた真後ろのあたりには確か黄色い花を咲かせる連翹(レンギョウ)があり、その西に並んであまり花は多くなかったが、小さい赤い花びらに黄色い雄蘂の花が咲く木瓜(ボケ)の木があった。そのボケとツツジの間を西に抜けると、山の西端に少しばかりの畑があって、苺が植わっていたり、玉蜀黍(トウモロコシ)を植えたりしたこともあった。ここは祖母の畑で、西日がよくあたった。西側の学生寮側は石垣で、ストンと落ちていた。その崖際に植えてあった梔子(クチナシ)の実は、正月のお節の栗きんとんを黄色に染める材料として貴重だった。崖の上に住んでいた小学校の同級生が夏みかんを落としてくれたのもちょうどこの辺りだった。グランドど同級生の住んでいた大使館の敷地は当然崖上の地続きなのだが、どうも段差があったようで、しかも大使館には崖際に高い塀があり(もっとも一度大使館の中から見たことがあるが、実際には塀越しにわが家が見下ろせる程度の高さしかなかった)、とても上っていける高さでもなかった。
池の葡萄棚と反対側、つまり東側には物置があって、物置と池の間を石垣に向かっていくと、どんつきに八重桜があった。伐ってはいけないサクラを勝手に伐るものだから、あまり枝振りは良くないし、元気でもなかったが、毎年染井吉野が葉桜になる頃に、ちゃんと花を楽しませてくれた。その手前、池の北側(つまり我が家と間)には、桃の木があった。崖の上に生えていた柿と同じくらいの高さだったようだが、これもきちんと手入れをするわけではないから、花もろくに咲かないし、稔ったのをまともにみたのは一度あるかどうかだった。桃の根元には、祖母しか食べない茗荷が植えてあり、いつか父が雑草と勘違いして抜いてしまい、祖母にさんざん怒られた。
きっともっといろんな木々や草花が庭を飾っていたことだろう。アマリリスや鉄砲百合などをふと思い出すが、そうアマリリスの回りには、南瓜を植えたこともあった。1㎏もある南瓜が実ったのをよく覚えている。葡萄棚の手前に学生寮に抜ける裏木戸があって、そこから裏へ回って蔓がどんどん伸びていった。小学校3年の時のことだ。
それにしてもまあよくもこんなにいろんな果樹が植わっていたものだが、よくよく考えてみると、苗木を植えたというような代物でなく、これは食べたものの種から自然に芽生えた物ではなかったろうか。要するに吝嗇な祖母ならではの庭木いうことなのだろう。
20年以上も過ごしたのだから、庭木も全体としてかなり伸びたはずである。植木屋を入れるわけでもない、祖父母がそれこそ適当に伐っていただけで、雑然とした庭ではあったが、それほど木が伸び過ぎたというような印象はない。小さい頃山で撮った写真にはO女子学院の校舎が写っていたりしているので、最初の頃は木もまだ随分小さかったのだろう。でもぼくがものごごろついて記憶にあるのは、もうボウボウで手に負えなくなった状態の山ばかりだ。祖父母がここに越してきた時、山はどんなだったのだろう。祖父母にそれを尋ねておかなかったのが悔やまれる。
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数えてみると、生まれ育った家でぼくは、これまで生きて来た人生のほぼ半分の時間を過ごしていたことになる。そんなことが気になり出したのは、その後の時間がもうそろそろあの家で過ごした時間を超えることに気付いたから。時間の濃さからいったら、これまでの人生の後半は、前半に遙かに及ばない。それなのに、その薄い時間の方が長いなんて俄に信じられなかったのである。あの家を離れたのはつい昨日の事のようにさえ思える……
これもよくよく考えてみると不思議なのだが、あの家(庭)にとっては、ぼくの記憶にある時間の方が、ぼくの記憶にない時間よりも実はずっと短いのである。ぼくが生まれたのは、この家に祖父母が越してきてからまだ10年と少ししか経っていない頃だったというのがちょっと信じられない。
わざわざ書き立てるほどの物でもない、どうということのない草木の一本一本が、ぼくの精神に根付いているから不思議だ。今となってはもはや夢のような世界だけれど(もうあの庭はこの世に存在しない)、夢の記憶と違って鮮明な部分は明確な輪郭をもって浮かび上がってくる。いろんな木々や花に囲まれて育ったのは、ぼく自身本当に幸せなことだったと最近しみじみと感じずにはおられない。
ラベル:記憶
posted by あきちゃん at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする