2011年11月15日

忘れ物をして思い出したこと

バスの中に忘れ物をしたことに気付いたのは、仕事場に着いてからだった。どこに置いてきたか、直ちに確信した。営業所に問い合わせてみると、運転手さんが気付いて保管してくださっている由。しまった、と青くなって硬直していた肩の力がへなへなと抜けた。こんな経験は初めてだ。よく持ち歩く勤め先の名の入った手提げ袋だが、普段から忘れそうだなあと思うこともしばしばあって、その都度注意してきたつもりではあったが、とうとうやってしまった。でも世の中けっして捨てたものではない。気が付いてくれた人がいたことにほんとうに感謝! バスが車庫に戻るのは15時過ぎだという。まだ6時間も走り続けるのだ。

忘れ物なんて初めて、と思い始めた途端、過去の記憶が甦ってきた。忘れ物が見つかったこの安堵の感覚、何だか覚えがある。そう、41年前、EXPO70の夏のこと。両親と初めての関西旅行で、奈良に2泊したあと、生駒を超えて大阪に出て、当時千里山にいた叔母の家へ向かうために、梅田から阪急に乗った。ない! と気付いたのは、淀川を渡って十三を過ぎた頃ではなかったか。確かお土産にと持ってきていたはずの荷物がない。梅田の切符売り場ではないか。そう確信して問い合わせると、少し時間をかけて調べてくれたが、やっと調べが付いて、幸運にも届いているという。そこで再び淀川を渡って梅田の駅事務室に取って返したのだった。淀川の鉄橋の長かったこと! 十三という耳慣れぬ読み方の駅名とともに記憶の片隅に刻みつけられたのだった。それが甦ってきたのである。

仕事に関わる大事な書類が入ってはいたのだが、まさか仕事中に抜け出して受け取りに行くわけにも行かず、24時まであいているというので、帰宅時に荷物を保管してくれているバスの営業所に寄って帰ることにした。ところが、この営業所、車ならわけのない距離だけれど、いざ公共交通機関でとなると、どう行ったらよいのやら、なかなかいい行き方が思いつかない。経験的に、こういう時は考えれば考えるほど不適当な方向へ導かれていくものなので、もう考えないことにした。帰り道とは違う方向だが高の原まで電車で行って、そこからバスで旧居の近くまで行って、歩くことにした。知らない地域ではないはずだ。とはいっても夜道でもあり、行ったことがあるわけでもない。当てずっぽうに方向を定めて歩き出したのだが、勘が当たってうまく営業所に行き着けた。

帰り道は、最初は同じルートを戻るつもりだったが、とにもかくにも行動を起こすと、不思議なもので、次の一手を自ずと思いつくのである。営業所から最寄り平城山駅まで歩き奈良へ出る。そうすればいつも乗っているバスで家に帰れる。まだ行き着けるかもわからないバスを降りたばかりの段階で、この一筆書きルートを思いついた時は、我ながら膝を打った。ルートを悩んでいたのがウソのようだ。こうなったら、なにがあってもうまくいくものだ。そんなわけで昨日は、思いがけず普段乗っていない電車に乗れる幸運にも恵まれ、無事荷物も引き取って、ちょっとした小旅行の末、思っていたよりも早く帰宅できたような次第。忘れ物も悪いことばかりではない。

失敗や不運を歎いている暇があったら、とにかく次の行動を起こすこと、そうすれば自然と行く手も開けてくる。考えていても始まらない。これが裏目に出ることもあるにはあるけれど、その時はその時にまた考え直せばいい。適度に考えたらあれこれ思い悩まないうちにとにかく動く。立ち止まるのは単なる休符ではない、次の一手に向けた「ため」、そう、ルフトパウゼなのだ。
タグ:日常 記憶
posted by あきちゃん at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2011年11月13日

ぼくの読書の始まり

自分の読書遍歴を振り返ると、それはそれでかなり偏りのあるのは否めない。小学生のぼくが感想文の提出のために慌てて読書をするような子だったことは前に書いた。母が買い与えてくれた本は面白くなかった。本を選びに本屋へ行くと、学校の図書館で既に読んだことのある本をほしがったりした(長い長いペンギンの話〈理論社の大型本が好きだったが、これがなかなか見つからなかった〉など)。新しい本を開拓するのが下手くそだったし怖くもあった。自分で言うのも変だけれども、読書にはやはり機が熟すのが必要なのだ。
ぼくの場合、中1の夏休みの国語の宿題がその契機になった。4月の入学以来、ひと月に最低1冊は本を読み感想文をノートに書くことをM先生の国語の宿題で課され、確か4月に呼んだのが坊ちゃん。これは辛かった。家にあった旧字・旧仮名の岩波文庫である。読めない漢字も多く、仮名遣いにも面喰らいながら、親を時々質問攻めにしながらの悪戦苦闘だった。その時には吾輩は猫であるを角川文庫で買ってもらってあった(初めて買ってもらった文庫本!)が、分厚いのをためらってか、まずは薄くて読み易そうな坊っちゃんからとなったような気がする。が、そうは問屋がおろさなかったのである。猫ももちろん後年岩波のハンディーな全集本で読み直した時に比べれば、表面をなでるだけの読書だったのだが(漱石も鴎外も、やはり書かれた当時の文字遣い・仮名遣いでないと、本当のよさはわからない。常用に改めたものは、原著と似て非なる物と言っても過言ではない。漱石の場合、宛字の妙というのもあるのだけれど、ことは宛字だけに限るものではない)、それでもあれだけの分量を読み通すだけでも忍耐のいることで、この読み通せたという満足感が次への大きなステップになるのである。
その点で言えば、一番辛かったのは、中2の時だったと思うが藤村の夜明け前だろう。木曽路はすべての山の中という書き出しと青山半蔵の名くらいは覚えているけれど、今ではもうひたすら長かった記憶しかない。それでも読破した経験は何物にも代え難い経験だった。そして夏休みの次郎物語五部読破。当時角川文庫(最初に買ってもらったのが角川文庫だったのがここでも尾を引いている。当時の角川文庫は、新潮文庫よりもいい本がそろっていた)の次郎は上下2分冊で、これがまた分厚かったものの、ストーリー性があるので読み易く、夏休みの読書には最適だった。無計画の計画を果たしてどこまで理解できていたかは心許ないが、これには夏休み明けに読書感想文コンクールへの応募を勧められるというおまけもつく。草枕・二百十日あたりもこの夏休みの読書だったような気がする。
その後、虞美人草、三四郎、それから、門、彼岸過迄、行人と進み、年末年始に寝転がって読んだ記憶があるのが、こころ。列車に飛び乗って先生の分厚い遺書を読み始める私。ちょうど年末の夕暮れで、2階のぼくの室で、夕闇が迫って薄暗くなってくるなか電気も付けるのを忘れて没頭していたことをよく覚えている。行人の、兄の死ぬか気が違うか宗教に入るかの選択、どれもぞっとすると感想文を書いた記憶があるが、漱石があれを書いた年齢を思うと、いろいろ思うところもある。、
漱石と並んでは、この国語の先生が勧めてくれた孤高の人に始まる新田次郎の一連の山岳もの、短編の名手戸川幸夫の一連の動物文学(新潮文庫に戸川幸夫動物文学という3冊があった)、そして氷壁やある落日(八ヶ岳山麓の雪原の名場面!)に行き着く井上靖の、多くは新聞連載だった恋愛もの(天平の甍などの歴史ものは面白くなかった)、そして蒼い描点、影の地帯、Dの複合、点と線など松本清張の社会派推理小説。思うにずいぶん不思議なしかも偏った展開を遂げていったものだと思うが、それこそあさるように読書を貪るようになったのだった(海外ものに食指が動かなかったことは前に書いた。翻訳という過程を挟むことで、結局別ものになってしまうのだ)。
こうした1冊1冊が、今のぼくの精神の血となり肉となっているのかと思うとちょっと妙でもある。方向を定めてもらったこともあったが、本屋で偶々手に取った1冊が自分の精神形成を担ったのかと思うと、感慨深い。でも、本当にそれが偶然だったか。赤い糸を思わないではいられない。娘から、この本いいよなどと勧められるのは、たとそれがぼくの趣味に合わない村上春樹(カタルニアのスピーチには感動したが)の本であっても、本当に親冥利に尽きる。
タグ:読書 記憶
posted by あきちゃん at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2011年11月06日

都電荒川線の花電車

都電、なんと懐かしい響きであろう。今でも荒川線が残っているので、ご存じの方もいられると思うけれど、実は荒川線は当時都電の中では異端だった。専用軌道をもたない都電は、交通量の増大に伴って次第に邪魔者扱いされるようになり、ぼくが小学校に入った頃からだったと思うが、次々に姿を消していった。早稲田車庫から三ノ輪橋までを結ぶ荒川線は、専用を軌道をもつ、つまり路面電車ではなく普通の電車だった。目白にいた親戚の家からよくお参りに行った鬼子母神のそばを通っていたこともあり、よく知ってはいた。しかし、都電全盛期も、そしてその存続が決まってからも、ぼくの生活圏とは離れた地域を通っていたこともあって、乗る機会はなかった。当時西ヶ原四丁目にあった東京外語大の学祭に行くのに大塚から乗ったのと、一度物好きにも早稲田車庫まで乗りに出かけたことがあったように記憶しているくらいで、ほとんど荒川線には縁がなかった。
ぼくにとって、都電といえば、12番だ。この路線は新宿と両国を結んでいたが、わが家が乗る区間は決まっていて、最寄り駅の一口坂から、市谷見附(市ヶ谷駅なのだが、けっして市ヶ谷駅とはいわない。あくまで江戸以来の「見附」なのである。四谷見附も同じこと)、本塩町、四谷見附、四谷二丁目、四谷三丁目、四谷四丁目、新宿一丁目、新宿二丁目、新宿三丁目、四谷三光町と辿る目的地は、新宿伊勢丹だった。そう、年に二度、お中元とお歳暮を出しに行くのに合わせて、買い物に行くのが都電12番だったのである。東方向へ乗った記憶は全くない。東方向へ出かけるようになったのは、既に都電が廃止されてバスが通るようになってから。当時もう渋滞が慢性化していて、なにせ右折レーンなどというものはない時代、右折車がいると途端に電車も動かなくなる。軌道上にも構わず車は入ってくる。新宿まで、40分程度かかるのが普通だったように思う。しかも乗ってしまえばまだいいのだけれど、待っている時間がまた途轍もなく長かった。道の真ん中の細くて狭い停留所でいつ来るとも知れぬ都電を待つのは、子どもにとっては苦痛以外の何ものでもなく、都電はつまらないものの代名詞だった。
しかし、勝手なもので、想い出にすればみな懐かしい。時が苦痛をも感傷に変える。そんなわけで、ある機会に大塚から王子まで荒川線に乗ってみたのである。昔と違って車掌もいないワンマン運転でちょっと味気ない。まあしかし、大塚からの専用軌道の電車の旅をのんびり楽しむか、といった趣だったが、王子駅が近づき、飛鳥山公園が見えてきたところで長い信号待ちがあり、それを越えた途端、都電が道路上を走り始めたではないか。そうだった、この感覚に違いない。道路敷きを走るかつての都電の感覚である。ここから王子駅の京浜東北線のガードを越えるところまでは、道路敷きと共用だったのである。しかもここはかなりの急勾配で、ブレーキをかけながら慎重に下っていくが、結構なスピードが出てしまう。渋滞の中を止まっては走り走っては止まりした思い出の中の都電とはだいぶん違うが、そのスリルとともに懐かしい感覚を思い出していた。これでこそ都電だ。

都電荒川線の花電車.JPG
〔王子駅前にて2011/10/23夕方〕

この間、本当に偶然だったが、王子の駅前で、都電の花電車に出くわした。カメラを構えた人が大勢出ているので何事かと思ったら、これから花電車が通るらしい。東京都交通局100周年のイベントだそうである。本当は春に走らせる計画だったのが、震災で延期になったのだという。昔も結構花電車が走る機会はあっらしいが、一度も見たことがない。カメラももっていなかったが、思わずケータイをかまえて撮ったのがこの1枚。少しズームをかけたのが災いして、頭とお尻がちょん切れてしまったけれど、真ん中に収まってくれただけでもよしとしよう。右端部分ちらっと見えるこの黄色いボディーに赤い線、丸い車体は、懐かしの12番そのものだった。
タグ:東京 記憶 鉄道
posted by あきちゃん at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2011年11月04日

過去が生きているということ

今年秋の京都の非公開寺院公開リストに孤篷庵の名を見つけたのは、僅か一週間の公開期間が過ぎてからだった。一瞬、次の公開はいつのことだろうという思いも去来したが、これでよかったのだという気持ちがふくらんだ。
     §                   §                   §
過去の日記から
「2009年2月7日(土)
過去が生きているとはどういうことなのか。ブローデルの『ヴェネツィア』を遅まきながら読んだ。先週末に届いた大竹昭子氏の『須賀敦子のローマ』、それに岡本太郎氏の『須賀敦子のアッシジと丘の町』を受けてのこと(いや逆のような気もする)。ことにローマは須賀作品の解釈論としても一級で、後半の盛り上がりがすごい。ハドリアヌス帝の離宮訪問を背景にした須賀の作品論は圧巻だった。
人は死ねば過去の存在となる。死が記憶の領域に入る境目がはっきりしている。それによって完結するという須賀の議論もよくわかる。しかし、建物はどうなのだろう。日本の遺跡のように完全に地中に埋もれてしまえば、それは過去の領域に入った状態といえるだろう。だが、そうなる過程、あるいは建物だけが残った状態は、過去といえるのだろうか。建物が記憶の領域に入るのは、やはりそれを使う、そこで生活し働く人々がいなくなったときなのだろう。別の人であっても、そこで生きる人がいる限り、その建物は生きているともいえるだろう。それならば、中世の建物がそのまま現代に受け継がれ、そこで現代の人が生活しているヨーロッパの多くの町は、また日本でも江戸の町並みが残っているような所では、過去が生きているのではなくて、建物が過去になっていない、記憶の領域に入っていないことになる。過去になりきっていないともいえる。でもそれはやはり少し変だ。やはり、そこにかつて生活していた人が死ぬことはその建物が過去になったことにならないのだろうか。建物が記憶の領域に入るのは、生活していた人の死と密接にかかわるのではないか。人と空間、その両輪の一方が欠けたとき、その生活者の時代は過去になったといえるのだろう。過去が生きているというのは、現在存在しない人の生活していた空間が、別の人々の生活空間として存在し続けていることをいうのだろう。
それならば、生活者をもたたくなった遺跡や廃墟はどうなのか。須賀は廃墟で自分の記憶の領域の内面を確かめる手応えを得たのだ。」
     §                   §                   §
30年以上も前、大徳寺の孤篷庵を訪れたことがある。案内書の写真でしか見たことのなかった忘筌と直入軒が、すぐ目の前にあった。その凛としたたたずまいだけでなく、生きた建物のもつボリュームに圧倒された。見ているという感覚ではない。どう表現したらよいのかよくわからないが、強いて言えばひとけのない空間に包み込まれているとでも言おうか。自分がそこにいることすら忘れてしまう不思議な感覚だった。
この感覚をもう一度味わいたくて、数年後たまたま京の冬の旅の非公開寺院の公開に孤篷庵の名を見つけ、矢も立てもたまらなくなって出かけたことがあった。しかし、絶望に打ちひしがれて門を出ることになった。失望感を味わっただけだった。来なければよかった。確かに忘筌も直入軒もそこにあった。けれどそれは案内書に載っているちゃちな写真と一緒だった。余所行きの顔を見せてくれるだけで、ぼくを包み込むこともなく、ただそこにあるだけだった。特別混んでいたわけではない。バイトの学生と思しき受付の面々が閑そうにストーブにあたっていた。何が違うのかわからない、でも何かが全然違っていた。
去年の秋の非公開寺院の公開の時、真珠庵と大仙院(ここは常時見られる)を拝観した。結構混んでいたが、ごく普通に違和感なく感動を味わうことができた。もしかしたら、余所行きの顔だけ見てきただけなのかも知れない。それでも素直によかったと思えた。孤篷庵の失望感はいったい何だったのだろう。
この時、石畳を西へ、孤篷庵まで出かけてみた。大きな閉じた門が冷たくそこにあった。とりつく島もないとはこのことだろう。夕闇が迫る門前にしばし佇んだ。ここから僅かな距離に、忘筌も直入軒もある。それでよかった。
二度目に見た時の忘筌は、過去としては生きていたかも知れない。ちんまりと観光客の視線に耐えていたのだろう。しかし、小堀遠州は過去の人になっても、その子孫の方々の生活空間として、忘筌も直入軒も山雲床も生き続けている。過去が生きている姿そのものなのだろう。過去になりきるのを拒絶する姿、それをぼくは一度目の訪問で見てしまったのかも知れない。建物はやはり生活者のものなのである。外から見てわかるものなどではけっしてない。
posted by あきちゃん at 01:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする