2011年12月31日

『氷点』『続氷点』と出会う

『氷点』『続氷点』を読み終えた。こんなにすごい小説があったのである。三浦綾子という作家の名まえや代表作を知ってはいたが、これまでなぜか読む機会がなかった。
『氷点』は1964年末から65年、『続氷点』は1970年から71年にかけて朝日新聞に連載され、ともに一世を風靡したというが、我が家は読売を取っていたこともあってか家で話題になった記憶もない。前者は東京オリンピック、後者は大阪万博とほぼ重なり、戦後を抜け出して高度成長に踊っていた時代にあたる。そうした時期だからこそ人間の存在そのものを問うこのような作品が書かれ得たのかも知れないが、時代を超越した普遍的な問いに正面から渾身の力を込めて立ち向かう力作である。
登場人物に寄り添う形で叙述が進められ、作者の主観的な解釈によって行動が説明されることが多いため、やや無理を感じる部分がないでもない。また、その寄り添い方が微妙にスライドしていくのも否めない。しかし、そんなことが些細に見えるほど、力のこもった叙述によって、読者をぐいぐいと引っ張っていく。
陽子、啓造・夏江夫婦、息子の徹、辻口病院の眼科医師村井、啓造の旧友の医師高木、辻口病院の事務員だった松崎由香子、夏江の親友の藤尾辰子、徹の先輩の北原邦雄、陽子の実の母三井恵子とその夫弥吉、その息子の潔・達哉兄弟、佐石土雄の娘相沢順子…… けっして多くはない登場人物それぞれの心の襞が、丹念に描かれていく。
どの人物も特別の存在ではない。ごく普通にいる人たちである。しかし人間として生まれながらの原罪を負う存在として描かれる。そしてそのことに気付き反芻しながら生きている。氷点の中で一人原罪から免れているかに見えた陽子が、自己の存在に潜む罪を意識するようになり、罪の許しを求めて自殺に追い込まれるのが『氷点』のクライマックスであり、その陽子が燃える流氷を見て真に人間の罪を許し得る存在は誰なのかに気付き、母恵子を受け容れるまでを描くのが『続氷点』である。
極めて人間的な登場人物群像の中で、ディケンズの小説にでも出てきそうな純真無垢な陽子像に、初めはちょっと現実離れ感を抱かないでもなかったが、いつの間にか懸命に生きようとする陽子を応援しつつ、息もつかせないストーリーの中に引き込まれている自分に気付いた。
しかし、そうした読み易さの中に語られている内容は極めて重い。なぜ人を許さなければならないか。それは、人を真に裁くことができるのはひとり神のみであって、人が人を裁くことは神の領域を冒涜することになるからである。いかに人間が罪深いかを描く文学は他にいくらでもある。しかし、その罪深い人間はいかに生きるべきかを語り、生きることができるという希望の灯を点してくれるこれ以上の文学をぼくは知らない。それを可能にしているのは、人は人を裁くことはできないという著者の強い信念である。キリスト教の教えをぼくは理解しているわけではないけれど、著者のこの信念には深い共感を覚えた。
与えられることよりも与えることに、許されることよりも許すことに、愛されることよりも愛することに、人間の真実の価値は存在する。陽子の心を開く契機になった「愛は意志だ」という啓造の言葉は、啓造自身それを実践できているわけでは必ずしもないけれど、原罪を負う人間ひとり一人が心がけるべき言葉としてずしりと響く。父としての啓造の愛が、陽子の未来を開く導きの糸となったのだった。
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『氷点』を読む契機になったのは、あさのあつこ編著『10代の本棚―こんな本に出会いたい』(岩波ジュニア新書698)に収められた畑谷史代「いつでも帰れる場所」との出会いである。13人の著者がそれぞれの10代の読書を語るこの本は、50代のぼくが読んでも面白く、自分の10代の読書を振り返りつつ、一々納得し共感しながら読んだ。こんな読書案内を気軽に読める今の10代が本当に羨ましい。
書店でこの本を手に取ったのは、あさのあつこ氏のインタビューを偶々テレビで目にして引きつけられた記憶があったからである。偶然の出会いが呼んだこれまた本当に偶然の出会いだった。ただただ感謝。
ラベル:読書
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2011年12月27日

協奏曲の魅力―モーツァルトのピアノコンチェルト

モーツァルトのピアノ・コンチェルトへの特別な思いを、言葉でどう表したらよいのだろう。素人ゆえ、音楽のここの部分がこうとは明確には示せない悲しさ、そしてその魅力を表現するには致命的な語彙不足。なんともはやもどかしいばかりだ。
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ぼくが最初に聴いたモーツァルトのピアノ・コンチェルトは、カザドシュ-セルのコンビの21番ハ長調と23番イ長調の組み合わせのレコードだった。セルのキリッと引き締まった、過ぎるくらいに明晰な棒に乗って、カザドシュが玉を転がすような全く力みのない軽やかな音楽をサラサラと楷書で奏でてゆく。セルの伴奏のレガートをかけずに刃物で切って落としたような感触に、もう少し歌ってくれたらなとは思わないでもなかったが、余計な感情移入を排した清潔な音が心地よかった。
次に聴いたのはリリー・クラウスの24番ハ短調と26番ニ長調の組み合わせ。ただ、これがどうもいただけなかった。両曲に関する限り、当時あまりよい印象を持てなかったことは、前にも少し書いたことがある。
その次は何だっただろう? 27番変ロ長調だったとすれば、それはFMで流れたベーム-ギレリスで初めて聴いた。ギレリスはカザドシュ以上に楷書の演奏だったが、一音一音かみしめる響きが独特で、ことに2楽章のゆったりとしたテンポは、一種彼岸の趣きさえあった。思うに、これはベームの指揮によるところも大きかったのではないか。ベーム-プリンツのクラリネット・コンチェルトの2楽章の雰囲気をそのまま醸し出す演奏だった。この演奏は永らくぼくの27番観を縛ることとなり、諦観ばかりが27番の魅力なのではないことをなかなか理解できなかった。一聴してすぐ惹かれるというのではないけれど、噛めば噛むほど味が出るバックハウス―ベームや、カーゾン―ブリテンなどを聴くのはずっとあとのことだ。
20番のニ短調コンチェルトは、最初ブルーノ・ワルターがヴィーン・フィルを弾き振りした名高いEMI版で聴いた。しかし、今思うと理解できないことだが、これも正直親しめなかった。それまで聴いてきた演奏に比べると、纏綿と歌わせるロマンティックな表現に抵抗感を覚えたこともあろう(ワルターの弾き振りは名盤ではあるのだが、やはりワルター節が濃厚すぎるきらいはある)。音の悪さに辟易したのもか知れない。しかし、ニ短調の曲そのもののもつ暗さと革新性に面喰らったというのも否めない。今ではもう一つグルダ晩年の弾き振りというこれまたかけがえのない演奏があるけれど、ニ短調は名曲であるのを認めた上で、どうしても引いてしまうところがある。
その次は多分カまたザドシュ―セルの15番変ロ長調と17番ト長調のレコードだったと思う。これはN響定期にイングリード・ヘブラーが17番を引っ提げて登場するのに備えたもので、その頃一番親しんでいたカザドシュのステレオ録音の存在を知ってのチョイスだった。ただ、ト長調コンチェルトの愉悦性がまだ充分には馴染めなかったし、ヘブラーの実演も何だかコロコロと不思議な音色だったのは覚えているが、けっしていいとは思えなかった。
9番変ホ長調と13番ハ長調はハスキルで聴いた。特にハスキルがステレオで残してくれた13番の1楽章の上品でなめらかな演奏には魅せられた。後に他のピアニストで聴いて、これがいかにハスキル独特の風合いであるかがよくわかった。確かにハ長調の壮麗さを芯にもつ曲ではあるけれど、ハスキルを聴いてしまうと、行進曲風なリズムの強調からはこの曲の本当の感興は生まれない。
2台のピアノのためのコンチェルト変ホ長調のレコードでは忘れがたい演奏が3つある。一つめはカザドシュ夫妻のもの、二つめはギレリス親子のもの、そして最後はハスキルとアンダのもので、これはたまたま輸入盤を見ていて見つけた。今でこそCDで入手しやすくなったものの、当時これを聴けたのは本当に偶然だった。近いところでは、バレンボイム―カーゾンの演奏も宝物の一つになっている。3台のピアノ・コンチェルトヘ長調では、カザドシュ親子のもので聴き、ドイツの首相をつとめたシュミット(アクセントは「シュ」ではなく「ミ」にある〈shには母音がないからアクセントは来えない〉と、クラス担任だった音楽に造詣が深かった大学のドイツ語教師が強調していたのを思い出す)が第三ピアノを受け持つ演奏もよかった。
6番変ロ長調は、FMで流れたサヴァリッシュのN響弾き振りが素晴らしかったあまり、レコードを探したが、単売のレコードになかなかいいのがない。選択の余地もなくアシュケナージの演奏を買ったが、これは優等生的な演奏ではあるのだが魅力に乏しく、後に求めた全集に含まれていたアンダの弾き振りで、ようやくサヴァリッシュの感動を新たにすることができた。アンダの演奏は一時1枚1000円のシリーズでバラ売りされていたが、あとで全集でまとめて入手することになる。バルトークのコンチェルトの名盤を残したアンダのモーツァルトは、けっして古典的にとどまることのない、むしろ現代的な演奏だ。ちなみに全集はペライアのものも買ったが、美音と言われるペライアの弾き振りにはあまり心を動かされることがなかった。ぼく自身の耳の未熟のためかもしれないが、CDになってからペライアを聴き直す機会もなく、まだ聴こうという気も起きない。

ゼルキンのモーツァルト・ピアノコンチェルト集.jpg
〔ゼルキン晩年のモーツァルト・ピアノコンチェルト集のジャケット〕

ゼルキン―アバドの演奏は、もしゼルキンがもう少し元気でいてくれたら、全集になったかもしれないシリーズで、レコードが発売されるのを追いかけるように買い求めていった。しかし、当時はゼルキンの年齢ばかりが気になって(自分の祖父のような感覚)、老大家の余技(そう思い込んでしまったのは全く浅薄としか言いようがない)をハラハラしながら聴いたものだが、一つひとつの音を慈しむように奏でるゼルキンの演奏に、なぜか今ひとつ浸りきることができず、むしろ聴くのに疲れた記憶が鮮明にある。しかし、録音時のゼルキンとの年齢差が縮まった現在、それが全然気にならなくなり、むしろお気に入りの一つになっているから不思議なことだ。
モーツァルトのピアノコンチェルトから離れられなくなったのはそう昔のことではない。数年前、久しぶりにイ長調コンチェルトを聴いて感激したのがきっかけだった。その後ゼルキン―シュナイダーのライブのCDに21番ハ長調コンチェルトの大交響曲にも匹敵すべき壮麗な組み立てを知り、かつて聴いたゼルキン―アバドを聴き直してみたくなって、ボックスセットを求めたのだった。その結果、若い頃感じていた印象は全て払拭されることになる。中でも彼らの最後の競演となった16番ニ長調の若々しい魅力が突破口になった。どれもみなゼルキン晩年のすばらしい演奏だが、最近では今までさほどの魅力を感じなかった25番ハ長調が実はプラハやジュビターなど後期のシンフョニーに匹敵する傑作であることを確信するに至る。
10番台のコンチェルトもまた隠れた名曲の宝庫だ。20番台の完成度には及ばないかも知れないが、みなキラ星のような曲たちで、それを知らしめてくれたのはゼルキンだった。ゼルキンが10番台にも多くの録音を残してくれたのは、まさに天恵としか言いようがない。19番ヘ長調は、レコード時代にはあまり好きな曲ではなかったが、ゼルキンを聴き直し、その溌剌とした演奏を見直した。3楽章などとても老大家の演奏とは思えない。むしろ他の演奏よりも快速なくらいで、これでこそこの曲は生きると思う。8番ハ長調も忘れがたい。ことに3楽章のあの人なつこいメロディーが一層胸に迫る。ゼルキン―アバドが惜しいことに録音を残さなかった14番変ホ長調には、シュナイダーとのライブがあるのがうれしい。13番ハ長調はゼルキン版はないものの、ハスキルのステレオ版の上品の極みともいうべきなめらかな演奏があり、その渇を癒してくれる(ただ、けっして駄作ではないと思う26番ニ長調を彼らが残してくれなかったのは痛恨の極み)。
若い頃にゼルキンの演奏を特に遅いと感じ、聴くのに疲れる印象をもったのはどうしてなのだろうか。特にそれを強く感じたのは23番イ長調だったと記憶するが、確かに速くはないものの、今ではこの演奏を共感をもって聴くことができる。ゼルキンの芯のある硬質かつ暖かい美音を心ゆくまで味わうことができる。遅いという点では22番変ホ長調の2楽章以降、特に3楽章の遅さが顕著で、確かに流れはあまりよいとはいえないかも知れない。しかし、これとてもゼルキンのピアノの音についていくならば、遅い分だけ余計に充実した時間を過ごすことができ、今ではさほど気にならない。
最近のお気に入りとしては、これも以前触れたバレンボイムの旧版全集がある。宇野功芳氏が激賞する22番変ホ長調を聴いたのは、再発見後のことだが、テンポもリズムも節回しも全てがこうあらねばというように流れていく。これは本当に素晴らしい。宇野氏の言うバックハウスに色つけしたような27番変ロ長調も、カデンツァの終結の上行音階だけで打ちのめされたし、宇野氏が落ちるという23番イ長調もけっして悪くはない。26番ニ長調もバレンボイムを聴かなければ見直すこともなかっただろう。無造作な中にもモーツァルトが自分で演奏しているような天衣無縫さが溢れた演奏で、心ゆくまでモーツァルトの愉悦に浸ることができる。いじいじ、じぐじぐばかりでは、モーツァルトは死んでしまう。今泣いていたと思ったら次の瞬間もう涙を吹き飛ばして大笑いをしている、いつも先回りして次の気分に対する受け応えを用意してくれる、そんなあっけらかんとしたと気配りがモーツァルトの信条なのだと思う。他の作曲家だったら余計なお世話に思えることが、モーツァルトだったら何でも許せてしまう、そんな人なつっこさが感じられないと、モーツァルトの音楽は一面的でしかなくなってしまうのだ。バレンボイムの演奏は、そんないい意味でのいい加減さに満ち溢れている。言葉を換えれば融通無碍なピアノだ。ゼルキンの演奏も、実はこの融通無碍というのがよく当てはまるのではないか。融通無碍とは対極に位置する剛直なピアノと思われがちだが、元々美しい音の持ち主だった上に、年齢を重ねた分だけ熟成したワインのような芳醇な味わいが加わっている。しかもそのコクはけしてしつこくならない。
カーゾン―クーベリックの21・23・24・27番の4曲のライブ版、カーゾン―バレンボイムの27番と2台のコンチェルト、カザドシュ―シューリヒトの3楽章の変奏がまるでバッハのように響く24番、ケンプ―ライトナーの8番、2楽章のカデンツァに突如パックリと口を開けた深淵をみるアンダの11番ヘ長調、リヒテル―ブリテンの22・27番のライブ版(ことに27番の1楽章では、何とあのリヒテルが余程あがっていたのか、1楽章の第1主題を初めから繰り返しのフレーズで弾いてしまう。一瞬音の進行がこわばるものの、何事もなかったかのようにその音型をもう一度繰り返して事なきを得る。これには本当に唸らされる)、ハイドシェック―ヴァンデルノートの23番・25番・27番など、挙げればきりがない。
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モーツァルトのピアノ・コンチェルトの何に惹かれるのかと尋ねられても、明確な答えはいまだに用意はできない。モーツァルトの他の楽器のコンチェルトはどうか、交響曲ではダメなのか。オペラは、弦楽四重奏曲は、ミサ曲は…… そのどれもが癒しと希望を与えてくれる音楽であることに変わりはない(ぼくにとっては、一緒に泣いてはくれる音楽は多いが、希望を与えてくれる音楽はモーツァルトとバッハを措いてほかにないといっても過言ではない)。でも、それを承知の上で、やはりピアノ・コンチェルトにはモーツァルトのもつ魅力の全てが注ぎ込まれているような気がしてならないのである。それには10番台初めの曲でも、ケッヘル番号の400番台という、比較的後年(とはいえ、モーツァルト27、8歳の作)に書かれているということも影響しているかも知れない(後期6大交響曲の初っ端を飾るハフナー交響曲でさえ、K.385! イ長調の12番コンチチェルトのK.425よりも若い)。けれど、それだけでは説明しきれない何かがあるように思う。同時期の交響曲の印象に比べると、ピアノ・コンチェルトは遙かに円熟の度合いが深い。
何はともあれ、愛惜措く能わざるというのは、月並みではあるけれどまさにぼくのモーツァルトピアノ・コンチェルトへの今の思いを言うためにある言葉のような気がする。モーツァルトのピアノ・コンチェルトだけあればあとは何も要らない、とまではまだ見得を切る自信はないけれど(まだまだ他のいろんな曲を聴きたい!)、さっき書いたように、ピアノ・コンチェルトにこそモーツァルトの魅力の全てが詰まっているというのは、ぼくの正直な感想だ。オーケストラと対等にわたりあうというのではないけれど、さまざまな楽器と受け渡し(対話)をしながら流れていくメロディーの対話の絶妙な美しさは言葉では表現しようがない。ピアノとオーケストラの各楽器との何重唱といってもよい。モーツァルトよりもあとになると、ピアノはオーケストラを向こうに回してわたりあうようになり、オーケストラの中では逆に孤立を深めていく。その点で、時には勝手なおしゃべりも交えつつも、基本はオーケストラの楽器との対話で音楽が進んでいくモーツァルトのピアノ・コンチェルトは、後にも先にもない本当に独特な音楽であるのがわかってくる。文字通り、そしてこれでこそ「協奏」曲なのである。
いずれまた折に触れ書いていけたらとは思うが、今はもっともっと言葉がほしい……
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2011年12月11日

晩秋の山科を歩く

山科駅に貼られていた紅葉のポスターに釣られて、毘沙門堂へ行ってみた。学生時代に京都はずいぶんあちこちめぐり歩いたけれど、毘沙門堂は行ったか行かなかったか記憶が定かでない。候補に挙げながら、行かなかったような気もする。思い立った時に行かないと、次はいつ行けるかもわからない。というわけで、もう足は毘沙門堂に向いていた。
山科駅から東へ京阪電車に沿って暫く行き、踏みきりのところで左へ。あとは東海道線のガードをくぐって一本道。道が狭く、追い越していく車にカバンを引っ掛けられたりしながらゆっくり辿って15分ほど。どんつきが毘沙門堂だった。少し遅くはあったが、木々に散り残る紅葉と散り敷かれた紅葉が見事で、いかにも晩秋の風情に満ち溢れていた。ゆっくりと建物を回り、襖絵や庭園に心を落ち着かせる。
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〔毘沙門堂にて〕

帰りはそのまま駅に向かうつもりだったが、疏水の雰囲気がすてきで、南に橋を渡ったところで思い返し、西へ山階疏水を辿ってみることにした。ジョギングコースになっているらしく、時折ランナーに抜かれたりすれ違ったりしながら、急ぐあてもない道を風景をかみしめながら歩く。ほとんど水平な道なのに、疏水の流れは思いの他に速い。歩く速度よりも余程速いようだ。
左手下に東海道線が見える。線路はかなり盛土をした堤状の高いところを走っているのに、今歩いている疏水は線路の北側の山際を、その線路よりもかなり高い位置を流れている。不思議な光景だ。どうしてこんな高い位置をしかもこんな勢いで水が流れるのだろう。なお目を疑ったのは、疏水を潜る深い谷川があったこと。左手に流れ下る川が見えたので、あれ?と思い、どこから流れてくるのだろうとあたりを見回してみて驚いた。右手の山側に深い谷があるではないか。何のことはない。疏水がこの谷川をまたいでいるのである。谷川に疏水の橋が架かっていると考えたらよい。南禅寺で見たことのある琵琶湖疏水のアーチを思い出した。木の間越しに東山トンネルへと向かう東海道線の高い線路堤が見える。いつもはその堤を走る電車の中から見ている尾根の突端のあたりにいるらしい。疏水は山の端を等高線に沿って再び大きく右へ迂回していく。
何も考えずにひたすら風景に見守られながら歩を進めるののなんと心地よいことか。自然そのものの道ではないのだけれど、庭園を歩くような感覚でどっぷりと景色に浸る。少しずつだが暮れかかりつつあるのがわかる。もう16時をまわった頃だろうか。けれども何時だろうとそんなことはもうどうでもよい。時折時雨れる中、この道がどこまでも続いていってくれれば、と思った。景色の中に溶け込んでいたい。
右手に門を閉ざした安祥寺をみやり、天智天皇の御陵の裏手を通り過ぎたあたりで疏水から離れ三条通りをめざす。地図も持たず、全くの勘で低い方へと道を選んでゆくうちに、最後はあっけなく大通りに飛び出した。天智陵の入口を求めて東へ向かうと、東海道線のガードの直前の交差点から左手に延びる参道に行き着いた。誰もいない夕暮れの道を拝所へと向かう。ここも以前来たことがあったかどうか、毘沙門堂と同じで、来たという確証は持てなかった。まあよい、今日来られたことを大切にせねば。

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〔晩秋の山科疏水〕

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家の紅葉も大方葉を落とした、散り敷く紅葉の風情を大切にしたいところなのだが、そうもいかない。今時分恒例の落葉掃除に精を出す。お向かいの玄関付近ばかりか、ゴミ置き場にまで出張って行ったわが家の紅葉をかき集める(既に誰かがかき集めてくれた痕跡があるが)。せめて紅葉の根元に散り敷く葉っぱだけでも残しておいてやろう。
ラベル:季節 京都
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2011年12月06日

父の写真と記憶の中の風景

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〔都電の一口坂停留所〕

父の遺品の中になつかしい写真があった。都電12番の一口坂の停留所の写真である。ぼくの記憶にあるのとはちょうど正反対の南西方向からの写真で、靖国通りの南側から一口坂停留所を収めている。停留所は思っていたよりもさらに狭く、車の通行量がそれほどではなかったにせよ、電車を待っているのは怖かっただろうなと改めて思う。そういえば、来ない電車を歩道で待ち、電車が近づいてきてから停留所へ渡る人もいたような気がする。これだけ見たら、戦後まもなくの頃のような気もする写真だけれど、これでも間違いなく60年代後半の風景である。こうしてみると、これ以後の変化の著しいことといったらない。戦争を遠い過去のように思いながら育ったのだけれども、実は高度成長期にかかるぼくの少年時代でさえ、まだまだ戦後に過ぎなかったことがよくわかる。
正面に写っている信号機から向こうへ坂道を下れば新見附。牛込見附と市谷見附の中間に位置する場所で、今でもそうだが複々線になっている中央線の線路をこの道はまたぎ、さらに堤を通って外濠の向こうへ抜けられるようになっている。ここの堤は見晴らしがきいて本当に気持ちがよい。一方、中央線の線路の手前は土手になっていて、ここには遊歩道が設けられていて、春はお花見で賑わう。
新見附から土手に登り、少し市谷寄りに行ったあたりがちょうどぼくが3つ、4つだった頃、電車を眺めに行くビューポイントになっていた。家からどのくらいかかっただろうか。ゆっくり歩いても15分とはかかるまいが、ぼくは祖父に連れられてよくここまで電車を見に来た。中央線の101系の橙色の快速電車が土手の手前側、総武線から中野迄乗り入れていた中央線の緩行線が外濠側を通る。その頃はまだ緩行線は茶色い電車が走り続けていた。後に黄色の101系に入れ替わるが、当時それはまだ山手線に使用されていて、後に山手線に黄緑の103系が導入されて初めて緩行線に黄色の電車が廻ってきたように記憶する(60年代半ばのことである。山手線の黄緑色の電車に初めて乗った時の高揚は忘れられない)。
土手からの電車見物ほど楽しいものはなかった。左手から来る上りの橙色は全て東京行きで面白くないのだが、一番手前を右手から走り抜ける下りの快速は、行き先がさまざまで、次はどこ行きだろうかと見定めるのが楽しく、いつまで見ていても飽きるということがなかった。最も遠くまで行くのが高尾行き、ついで豊田、立川、武蔵小金井、三鷹などが、入れ替わり立ち替わりやってくる。なかでもぼくのお気に入りは武蔵小金井で、祖父にせがんで、武蔵小金井まで用もないのに往復したことが何度あったことか。普段市ヶ谷から電車に乗ることがあっても、たいていは緩行線ばかりで、橙色の快速電車に乗ることは滅多になかったから、この目的のない祖父との武蔵小金井行きは、子どものぼくにとってまさに夢の世界への旅だった。
緩行線も下りは中野行きだけだった(後に三鷹まで延伸されて、交互に来るようになった)が、上りは千葉、津田沼、幕張などとヴァリエーションがあり、けしてつまらなくはなかったはず。しかし茶色い電車の行き先表示は、101系のような正面上部の行き先表示窓ではなく、行き先表示板を挟み込む旧式のものだったから、読みにくかったということもきっとあったのだろう。また、千葉・津田沼よりは、高尾・豊田・立川・武蔵小金井の地名に引かれるものもあった。そちらに奥多摩の山々が広がることは当時まだ知らなかったはずだが、何かしらそれを予感させる魅力のようなものを感じていたのかも知れない。

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〔新見附の土手から〕

父の写真の中に、偶然にもその新見附の土手から線路を眺めた一枚があった。これはまさにぼくの心象風景そのものといってよいカットだ。電車が写っていないのが残念ではあるが、紛う方なきぼくの原風景といってよい一枚だ。父がぼくの原風景を写真に残していたこと、やはり親子なのだろう。
しかし、これも母から聞いたことだが、父は晩年の引っ越しのとき、これらの写真の貼ってあるスクラップブックはもういいよ、と言ったのだそうな。父がそう言った気持ちもわからないではないけれど、それらを捨てるに忍びなく引っ越しの荷物に紛れ込ませた母に感謝しなくては。ぼくの想い出の品などは、思いっきり捨ててきたに違いない母なのだが。
ラベル:記憶 東京 鉄道
posted by あきちゃん at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2011年12月03日

髪を切りに行く

残業に入る前、仕事の引け際に思い立って髪切りの予約を入れた。二ヵ月に一度は切りに来るといいですよと言われ、自分でもそう思いながら、忙しさにかまけ、けして安くない費用も考えると、ついつい足が遠のいてしまいがちになる。
そうはいっても一定程度伸びると、どうにもうるさくなる段階があって、それをうちやって過ごすとまた暫くは大丈夫でも、やはり四ヵ月が限度のようで、別に日にちを測っていくわけではないけれど、今回もほぼ四ヵ月が経っていた。
髪切りは思い立った時に無理にでも時間を作ってでも出かけるのが鉄則。今回もまさにその通りで、週末のしかも受け付け終了間際、19時半の客となった。さぞかし迷惑だろうにな、とつくづく思う。
でも、今日改めて思ったのだけれど、髪を切ってもらっている時間ほど幸せな時間はないのである。どんなに忙しかったとしても、髪を切っている間は、絶対にじたばたできないし、しても始まらない。何も考える必要のない、最高に贅沢な時間を味わうことができる。それを考えるならば、カットの費用もけっして高くはないのかも知れないなと、今日切ってもらいながら思った。こうして何にも束縛されずに気持ちをまっさらにできるのは、お風呂の湯に浸かっている時間と、この髪を切っている時間しかないような気がする。まさに命の洗濯である。
きれいさっぱりとなって(この年になったらもう変わりようもないのだけれど、少なくとも気分だけは)、来年もよろしくお願いしますと言われ、次は花の便りが届く頃になるかも知れないなと内心思いつつ店を出た。年に数回しか来ない客のこともよく覚えてくれている。商売とはいえ、本当にありがたいことだ。お金を払って、なおかつこちらからありがたいと思うのはそうざらにあるものではない。髪を切ってもらっている今ほど幸せな時間はないのですよと、喉まで出かかって言い出せなかったのが、今にして思えば悔やまれる。
ラベル:日常
posted by あきちゃん at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする