2012年01月29日

木曽路を鈍行で行く―列車の旅の楽しみ

今では急行列車の窓を開けて慌てて駅弁とお茶を買い込むなどという経験はできなくなってしまった。駅弁は、売店か車内販売で買うものになってしまった。窓を開けるのは結構コツがいる。両手で左右のカギを押し下げながらバランスよく開けないと窓はなかなかすっとは上がってくれない。左右交互にガタピシ言わせながらなんていうのも思えば懐かしい。数分の停車時間である。あちこちで呼び寄せるわけだから、タイミングが難しい。お釣りをもらい損ねたりなんていうことにもなりかねない。でもそこはそこはうまくできたもので、列車はそんなに急には動き出さない。あちらも商売である。動き出しても、売り子さんも一緒に走ってくれるのだ。
たまに特急に乗ると、窓が開かない。これは味気なかった。ホームに降りて売り子さんを呼び止めねばならない。発車ベルの鳴る中、いつそれが止まってを自動ドアが閉まるか、冷や冷やしながら弁当の受け渡しをする。まことに忙しない。でもそれも一興だった。今では、駅弁を買おうと思ったら、しかるべき位置のドアまで車内を移動して、売店に駆け込まないといけなくなった。しかし、これも最近では在来線の特急に乗ることも滅多になくなり新幹線ばかりになると、早めに出かけて売店で弁当を物色なんていうことになる。意外に凝った弁当があって、楽しみと言えば楽しみでもある。でもそういう弁当は早々に売り切れる。車内販売の弁当はまず絶対に買わない。ありきたりのものばかりであとで後悔するのが常だからである。

新幹線での移動といっても、たいていは京都―東京ばかりなので、食べる弁当も限られる。でも京都の駅弁はおいしいものが多い。中でも萩乃家の弁当は別格で、どれもみなおいしい。特にお気に入りは精進弁当。かつては2段重ねだったが、今では八角形の一段の折だが、一緒に入っている食事の偈などを読みながら食べると、何だかとてもありがたく得した気分になる。ごく普通の二段重ねの幕の内もいけるが、見つけるとよく買うのが新撰組ゆかりの幕の内弁当。これと缶ビールを買い込んで、夕方6時20分発の日本海のB寝台上段に乗り込むのがぼくのささやかな幸せだった。じっくり時間をかけて弁当を食べ、眠くなるまで本を読む。列車の振動が本当に心地よい。目を覚ますのは不思議と発車する時なのだが、労なくしてまた眠りに落ちる。あの汽笛の音に続くガクンという最初の振動がもう味わえないのかと思うと寂しい。そんな楽しみももう夢なのだ。
今の子たちは、そんな列車の楽しみを知らないのだろうか。車の運転は嫌いではないが、運転する方はそれなりに楽しめるからよいが、運ばれているだけの方は味気ないだろう。列車と車の違いはどこにあるのか、うまく説明はできなけれど、列車の場合、車と違って自分が運転している気分が味わえるような気がする。それを支える大事な要素が、恐らく線路の継ぎ目によるあの軽快な音なのだと思う。ロングレールが増えて快適になったというのは、ぼくにとっては真実ではない。継ぎ目の音がどれほどの振動を起こしているというのか。音がなければ、レールの上を走っていても道路を走っていても、変わりないではないか。

去年2月の甲府からの帰り、塩尻で松本から来る特急の待ち時間が思いの他長い。待合室はあるにはあるが、ボケッと待っているのも面白くないなと思っていたら、普通の上りがあるではないか! そうだ、これで最短の待ち時間で目的のしなのに乗り継げるところまで行ってみよう。上松まで行けることがわかった。早速駅弁を買い込んで鈍行に乗り込むことにした。鈍行(なんと懐かしい響き!)とはいっても立派な電車である。ガラガラなのが勿体ないくらいだ。一駅一駅確かめるように止まっていく。駅弁は特に名のあるものではなかったけれど、ほっこりとうまかった。年配の夫婦が乗って来る。時たま会話を交わすだけだが、二人の年輪が得も言われぬぬくもりを醸し出す。女子高生と思しきグループが乗り込んで来る。今時の子どもたちである、ケータイで楽しそうにやりとりしている。箸が転げてもおかしい年頃の子たちだ。たわいのない話に笑いこけている。空いた車内に結構響き渡る。でもうるさくない。曇ったガラスを指でぬぐってみる。列車の明かりを受けて、線路脇の林に積もった雪が白く浮かび上がる。外はしんしんと冷えているようだが、何だかこちらの心まで温まってくる。乗り換えて良かった、心底思った。

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〔上松駅でしなのを待つ〕

上松で鈍行を降りる。特急は隣のホームだという。鈍行はここで特急に抜かされるのである。暫くして、何の前触れもなく、しなのが滑り込んできた。室内がまぶしい。でも、何だか急に都会に来たような、現実に引き戻された気がした。後ろ髪を引かれる思いだった。気が付いたら、隣に止まっていた鈍行はもう見えない。木曽路はもう終わりだ。

(追記)萩乃家の弁当が買えなくなっていたこと(2012/2/1記す)
タグ: 鉄道 記憶
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2012年01月26日

犬と星を見る

夕方西の空に、ちょうど先月見たのと同じくらいの、細筆でひと掻きしたようなか細い月がかかっていた。かかっていたといっても、下半分の円弧だから、天空に必死に何かを支えている、そんな趣である。あれからもうひと月が過ぎたのだ。
21時半過ぎに帰宅して犬の散歩に出る。この冬一番の寒波が来つつあるというが、寒さもなんのその、散歩に喜ぶ犬の姿にこちらまでうれしくなる。見上げれば南天に冬の大三角。もうオリオンが少し傾きかけ、シリウスが南天を席捲している。夜空で一番明るい恒星の白い輝きは純真そのものだ。それに比べると、老年の星で醜く巨大に膨らみ始めたベテルギウスの不健康な赤さが一際目立つ。それと対角にあるリゲルの澄んだ青白さもまた印象深い。オリオンのベルトの位置にある三つ星は地平線から上る時、縦に一列に並んで顔を出す。オリオンが見え始めると冬が近いことを思い、オリオンが傾き始めると春の到来を夢見る。サソリに追われていて、けして同時に現れないというのも面白い。

星をじっくり見なくなってから久しい。子どもの頃の東京は今よりはむしろ大気の汚れはひどかったのではないか。それでも二等星までは充分見えた。自分の部屋の北向きの窓から、北斗七星の柄杓やカシオペアのW字を頼りに北極星を見つけることができた。
清里で満天の星を見上げたことがある。夜空にこんなにも星があったのかと思うほど、散りばめられた星たちが瞬いていた。まさに星の数ほどの星だった。天の川が本当に川のように見える。そして流れ星。消えないうちに何かを祈らなくてはと思うが、いつも間に合わなかった。願い事を決めて待っていると、けして流れてくれない。そのうち、流れた星が本当に流れたのかどうかさえわからなくなってくる。自分は流れ星の錯覚を見ただけではないのか。次第に夜空に飲み込まれていく自分がそこにはいた。
一つの星座を構成している星たちが、実は近い星、遠い星によって組み合わされていることを知った時の不思議な感動が今も忘れられない。星を見ていると、人間の世界のことなどもうどうでもよい気がしてくる。今自分が見ている星が、今この瞬間にどうなっているかは、誰にもわからないのだ。

リードを引く力がふっと強くなる。家が近づいてきたことを犬に教えられて、星空から目を話すと、急に寒さを覚えるから不思議だ。寒さなど物ともせず、常に前へ前へと進む犬の力の源はいったいどこにあるのだろう。もしかしたら星にエネルギーをもらっているのかな、ふとそんなことを真面目に考えたくなるほどの犬の愚直さが羨ましい。
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2012年01月15日

なくした手袋

一昨日帰宅する時に、手袋を片方なくしてしまった。この冬使い始めたばかりの物で、少しがさばるけれどもゆったりと手を包み込んでくれる頼もしいやつだった。何としたことか! 電車で座ってカバンを膝の上に乗せ、中から文庫本を取り出して読み始めた時、右手(だったと思う)の方を外して座席の身体の右側に置いた。暫くして、このままでは忘れるといけないと思い、どこかにしまった。もう片方はポケットに入っていると思って。
電車が駅について手袋を付けて降りようとしたとき、ポケットに片方の手袋があるのに、もう片方が見当たらない。さっきしまったはずの片方がどこにもない。落とした? よくあることなので座席の回りを見渡したが影も形もない。いったいどこにしまったのだろう。カバンの中も総ざらえし、コートのポケットいうポケットも全部探してみたが、ない。どこかに引っ掛かっているのかと思ってみたがやはり見当たらない。
もうこうなると、いかんともしがたい。ポケットに入っていた片方がいつからポケットに入っていたのかさえ疑わしく思えてくる。さっきしまったのが、今ポケットに入っている片方なのではないか? もう片方は電車に乗る時には既になかったのではないか? でもそれならば、いったいいつ片方を外したのか? 本当に情けない話だが、全くもってわからない。座席から拾った片方をどこにどうしまったのかが皆目思い出せないのである。しまい損ねたのなら、電車の中に落ちているはずだし、本当にしまったのならカバンかポケットに入っているはず。しかし、今しがたの自分の行動がもう記憶にないのである。もうこの冬は寒い思いをすることもなくなったと安心していたのに、寒中にとんだことになってしまった。

こんなことを言うのは変な話だけれど、なくしたのはもらい物の結構上等の手袋で、こんなのをはめているのはぼくには勿体ないなあと思いつつ、なぜかそれをはめていることに優越感と違和感の入り交じった思いを抱いていたところだった。罰が当たったのかも知れない。分不相応の身に馴染まないものは、早晩離れて行くということか。そう思い込むことで、自分のだらしなさを棚に上げて、と言われてしまいそうだが、ともかく情けないのを通り越して呆れてしまう。
手許に残っている片方は左手だった。そうすると、やっぱり電車の中でしまい損ねたのだろうか? それとも電車に乗る前に買い物をした時、もう既になかったのだろうか? たった今の行動の記憶が飛ぶのは、年のせいとはいえ困ったものだ。手袋をなくすのは、自分が困るだけだからまだマシだけれど、そう、今週は初っ端から会議の予定をすっぽかしたことから始まったのだった。それも気付いたのが水曜日だったというからお粗末至極。

でも今回はこうして気付いたものの、なくしたことさえ気付かずにいる物って、案外多いのではないか。必要がないから気付かないといってしまえばそれまでだが、物の場合はまだ諦めが付く。しかし、気持ちや思考はそうはいかない。これっていつか考えたことがあったような、と記憶が甦ることがよくあって、なのにそれが心に浮かんだことなのか、誰かに聞いたことなのか、あるいはまた本で読んだことなのか、それさえわからない。心に浮かんだことを忘れ、その時筋道を立てて考えついたことを忘れている。その筋道が正しかったかどうかを検証するすべもない。でもどこかで頭の片隅に刻み込んだ記憶が確かにある。
まあよい。そうして思い出すということは、自分にとって必要ということなのだ。必要なことは繰り返し考え直せばよい。もう一度じっくり考える機会を与えられたと思って、思い出したことに感謝することにしよう。
タグ:日常
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2012年01月04日

平城宮跡と冬の月

長女が帰省し、受験の長男と普段は正月スキーの家内も今年は家にいるので、クリスマス前から正月過ぎまでスキー合宿の次女を除き、珍しく家族の揃う正月となった。ここ何年かは4匹の犬たちとの散歩や読書三昧で過ごす正月が続いていたので随分と勝手が違うが、年内にいろんな方の顔を思い浮かべながら年賀状を書き終え、のんびりとした新年を迎えることができた。2012年が平穏無事な1年であることを切に願う。
年賀状を拝読しながら、こうして元旦にきちんと全国から年賀状が届けられることのすごさを今さらのように思う。賀正と刷り込むことを躊躇いつつ、天災・人災のかなたに曙光が望めることを願って新年を迎えることにしたと書かれた方、2011年は感謝することの大切さを教えられた年だったと感慨を綴られた方、どうしても年賀状を書く気になれないからと、年内に無事の近況報告をくださった仙台の方もある。2011年をかみしめながら、2012年こそは夢と希望のかなえられる年であってほしいという願いはみんな一緒だ。

元旦、2日と、遅い昼食のあと、2匹ずつ交替で平城宮跡に出かけた。広大な空間を思う存分楽しんだ犬たちは、短い時間ではあったけれど、大満足の様子。犬に引っ張られて走る人間にとっても清々しく、特に2日は時折時雨気味にはなるものの、キリリと引き締まった空気が心地よかった。
もう4時過ぎなのに、正月らしくまだたくさんの凧が揚がっていた。第二次大極殿の基壇に座って糸を操る人がいる。でも凧が見当たらない。ああ、あれかと思ったのは、よくよく見ると上弦を過ぎた昼の月だった。本物の凧は、それよりも高いところ、雲の切れ目に点のように浮かんでいた。家内に言われてやっと気付いたその位置を長女に教えてやる。糸の斜め具合からみると、上空は結構風があるらしい。
三日月よりもさらに細い月、よく長女の目のようなと譬えたものだが、それを見たのがついこの間のような気がする。数えてみるとちょうどイヴの晩だったらしい。復原された第一次大極殿の右肩に、刷毛で描いたような丸い輪郭が見えたのが月だった。新月の翌日だったのだろう。さらに目を凝らしてよく見ると、その細い輪郭が上の方にうっすらと円を描いて廻って閉じている。まるで写真で見る金環食のようだ。考えてみれば、丸い光源をすっぽり隠しているのは同じことだから、輪郭が見えても不思議はないのだけれど、まさかこんな風に見えるものとは思わなかった。ライトアップによって浮かび上がる大極殿の巨大なシルエットと、か細く光る月のコントラストが見事だった……

帰り道、生駒山よりもずっと南に沈んでいく夕陽を3人と2匹で見る。西に向かって歩いているせいもあってか、秋ではないけれども釣瓶落としの言葉通り、あっという間に山の端に輪郭が消えていった。茜色に暮れ残る夕空に向かって、黄色い明かりが点る電車の窓が過ぎっていく。散歩の終わりが近づいたのを知る犬たちが引くリードの手応えが急に増した。南天を振り仰ぐと、月がもう凧とは紛う方なく皓々と輝き始めていた。
posted by あきちゃん at 02:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする