2012年07月23日

壇ノ浦PAの位置と記憶の連鎖

人並みの方向感覚はもっているつもりだけれど、それでも乗った電車が思っていたのと反対方向に動き出してビックリ、などという経験もないわけではない。とはいえ、この場合はすぐに気付くわけだから、即座に方向入力を180度変換できるからまだよい。この間気付いた入力ミスには我ながら恐れ入ってしまった。本当に思い込みというのは怖ろしい。

九州に向かう夜行バスが、朝最初の休憩地として壇ノ浦パーキング・エリア(PA)に停車する。走ってきた高速の高架橋をはるか頭上に見上げる近代的な光景の中に放り出される。前回はこの光景に驚き、用を足すだけでバスに戻ったのだが、今回は雲が垂れ込めてはいたものの既に明るかったので、壇ノ浦を見てみようと思い立った。
前回は暗くて気付かなかったが、パーキングスペースの頭上の高架橋は、意外なことに海峡を横断する優雅なブリッジからつながってきていて、海を渡ってすぐの所にこのPAは立地している。あの橋を渡って来たのか、と深い感興を覚えたのだった。

壇ノ浦PAの朝.jpg
〔壇ノ浦PAの朝〕

今にして思えばすぐに気付いてもよかったのである。あの橋を渡って来たのなら、PAは九州側に位置していることになる。ところが、ぼくはあのブリッジが架かる海峡が、まさに本州と九州の間の関門海峡であるということに気付いていなかったのだからお笑い草だ。ふと思い立って壇ノ浦PA位置を確認し、あれもしかしたらと気になって、それでも俄には信じられなくて、グーグルの写真でさらに確かめてみて、自分がとんでもない思い違いをしていたことに気付いた。あのブリッジはこれから渡る九州への入口だったのだ。
地図を調べてみると、本州と九州の間に関門海峡がどのように位置しているか、自分がどれだけ無知であったか思い知らされた。まずは、橋の架かる向き。北東から南西へ海峡を渡って九州に入るものと思い込んでいたが、実際には意外にもむしろ北西方向から南東方向に横断して門司側に達していた。そして関門海峡がこれほどあたかも川のように細長く続く海峡であることを知らなかった。こうした思い込みが、自分がどこにいるのかについての思い込みをも助長していたわけである。
地図はむしろよく見る方である。車での移動でも地図を片手に現在地を確認していないと気の済まない性分だ。ナビがあればよいではないかと思うがそうではない。全体と部分を同時に確認できるのは地図ならではの機能である。ところが悲しいかな夜行バスである。眠る妨げにならないようカーテンは閉めたまま。鉄道ならば、寝台に横になっていて景色を見ていなくても、音で橋を渡っているかどうかくらいは判断できる。しかし高速道路ではどうしようもない。PAを出たあと、まさか海峡を横断していようとは夢にも思わず、思い違いに気付きようもなかったのだ。

          §          §          §

自分の居場所の判断を人はどのようにやっているのだろう。もちろん体内に磁針を完備している人も多いこととは思う。でも移動してきた過程が大きな判断材料になっているのは間違いない。そこに断絶があると、ぼくのようにコロリと騙されることになる。

子どもの頃の不思議な感覚を思い出す。数日でもよい、自宅を離れて過ごす機会がある。もちろん自分の位置を確認しながら日々を過ごしているはずである。そうして帰宅する。すると、自宅が自宅だとはどうしても思えない感覚を覚える。なにかよそよそしい。何かが違うのだが、何か違うのか言い表せない。この感覚は、こんな時にも味わうことがある。例えば、正月に伯母一家が年始に来て、従兄弟たちと大はしゃぎにはしゃぐ。まだその余韻があるうちに一家が帰ってゆく。残されたぼくは、今自分がどこにいるのかわからなくなる。よその家に放り出されているような感覚、これは旅行から帰った時の感覚と同じである。この感覚は10代に入った頃からはもう味わうことができなくなったような気がする。この時の感覚、よく思い出せないのだが、自分が自分でないような感覚も伴っていたような気がしてならない。自分がふんわりと自分から遊離してしていきそうな感じ……

記憶の断絶がもたらした壇ノ浦の180度の思い違いと、子どもの頃のこうした感覚とが関係するのかどうかはよくわからないけれど、記憶の連鎖と自己の位置の認識はけっして無関係ではないだろうとは思う。
ラベル: 記憶
posted by あきちゃん at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2012年07月21日

朝比奈隆のモーツァルト集を聴く

朝比奈隆が倉敷音楽祭で指揮したモーツァルト集(TBRC0008-2)が届き、少しずつ聴いている。臨時編成の小オーケストラ(とはいってもメンバーにはソリスト級の人たちが多数集められている)を指揮したものだが、演奏はずっしりと腰の据わった品の良さにあふれたもので、大編成のオーケストラを指揮する時よりも、朝比奈隆の個性がよく表れているような気がする。重からず軽からず、速からず遅からず、何の小細工もなく一音一音慈しむように進んでいくが、モーツァルトそのものを感じさせてくれる自然な音が流れていく。音楽そのものが鳴っている。けっしてロマンチィックではないけれど、ほのかな香気が匂い立ってくるから不思議だ。アプローチは全然異なるものの、今まで聴いてきた中では、ブルーノ・ヴァルターのモーツァルトを思い出させる。

朝比奈隆のモーツァルト集.jpg
〔朝比奈隆のモーツァルト集〕

          §          §          §

朝比奈隆を最初に聴いたのはNHK交響楽団を指揮したブルックナーの9番で、これは名演だった。9月の定期公演のうち、なぜかぼくの聴きに行っていたチクルスだけ朝比奈の客演で、偶然の巡り合わせだった。時折東京のオケにも客演する機会も多かったので、その後朝比奈隆のブルックナーといえば、見付け次第聴きに行くようになった。中でも文化会館での8番は思い出深い。ディスク・ジャンジャンから出ていた全集をやっと手に入れたのはそれからだいぶん後のことだ。
ちょうどブルックナーとマーラーの長大な作品が、全然質は違うのにもてはやされるようになった頃で、朝比奈の演奏もそれに一役買ったわけだが、今こうして朝比奈のモーツァルトを聴いていると、ブルックナー以外の朝比奈を聴いておけばよかったとつくづく悔やまれる。朝比奈でさえ、日本のオケのコンサートはそれほど高価ではなかったのである。
あの頃は、今思えば多くの日本人指揮者が活躍していた。秋山和慶、尾高忠明、小林研一郎、山田一雄、渡邉暁雄、若杉弘、そして忘れてはいけない岩城宏之…… N響にしょっちゅう客演していた秋山・尾高・岩城は何度も聴いたが、若杉はN響への客演をたった一度(それがマーラーの大地の歌!)、山田・渡邉は一度も聴かずじまいに終わってしまった。
小林研一郎は、ぼくが最初に聴いたコンサートの指揮者だった。中2の冬の正月早々の東京文化会館。スメタナのモルダウ、チャイコフスキーのピアノ・コンチェルトの1番(独奏は弘中孝?)、そしてドヴォルザークの新世界という、まあ何とも贅沢なプログラムだった。炎のコバケンの異名を取る前の若き日の姿である。

          §          §          §

朝比奈隆の指揮するモーツァルトは本当に珍しいという。晩年に至り、ジュピターから逆に一年に一曲ずつ遡って演奏していった心境はどんなであったのだろう。ベートーヴェンの若い方からの演奏との組み合わせで演奏され、ベートーヴェン最後の第九の年にはモーツァルトは演奏されなかったため、前の年の34番で終わったわけだが、CDを聴く限り、けしてモーツァルトはベートーヴェンの前座としての演奏ではない。最後の年はベートーヴェンの8番との組み合わせで曲が小粒だったためか、ハ長調のピアノ・コンチェルト(21番)という願ってもない贈り物が加えられている(独奏は江尻南美)。朝比奈の伴奏するこんな名演が残されたことに心から感謝したい。
朝比奈とモーツァルトというこの意外な組み合わせ。いろんな意味で音楽という芸術の奥深さを改めて感じさせるかけがえのない記録だ。
posted by あきちゃん at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2012年07月16日

めぐり来る夏を想う

今日も澄んだ青空にモクモクと涌き上がる入道雲がよく似合う、まさに梅雨明けを思わせる一日だった。天気図上にはまだ前線が残り、台風の来襲も予想されているが、それ自体が梅雨明けの予兆でもある。先週思いがけない光景を目にした小道のU字溝には、一昨日の朝は打って変わって一滴の水も流れていなかった。金曜日に東京で親戚の通夜があり、取って返した翌日のことである。失礼させていただいた告別式があと1時間ほどで始まろうとしている時刻だった。
亡くなったのは伯母の連れ合い。3年に及ぶガンとの闘いだったが、最期は伯母に看取られて家で亡くなったという。大阪万博の少し前に転勤で千里に引っ越し、多くの親戚・知人に拠点を提供することになった一家である。ニヒルな笑いが印象的ながら、ちょっとはにかみ屋でいたずら好きだった伯父は、大勢でワイワイガヤガヤと賑やかなことの大好きな伯母と傍目にもお似合いの夫婦だった。万博の夏、久し振りに大阪で会った時、気苦労が多かったのであろう、ちょっとの間に急激に髪が薄くなっていたのが子どもながらに印象的だった。とはいえ、髪がふさふさだった伯父は全く記憶にないから不思議だ。
昨年11月の三回忌では元気な顔を見せてくださっていただけに、覚悟していたこととはいえ気が滅入る。でも、これでまた暫くは親戚が顔を合わせる機会が数年は続く。慶弔の時だけの付き合いというのは味気なくはあるけれど、毎年顔を合わせる機会を持ち続けたいという死者の粋な計らいようにも思える。

          §          §          §

それにしても偶然はあるものだ。最近ずっと三浦綾子さんの本を読み続けていて、偶々往きの新幹線で呼んでいたのが西村久蔵氏という類稀な信仰者(三浦さんの信仰形成に大きな役割を果たした人物の一人でもある)を描いた伝記小説『愛の鬼才』(新潮文庫)である。55歳の若さで逝った氏の一生は、同じ三浦氏が『ちいろば先生物語』で描いた榎本保郎牧師とはまた違った意味で凄絶である(『愛の鬼才』も『ちいろば先生物語』も、ともに三浦さんが文字通り身命を賭して書き残してくれた伝記である。独白体をとるため、『母』や『岩に立つ』とも通じるところのある『夕あり朝あり』〈白洋舎の創設者五十嵐健治氏を描く〉も、稀有の信仰者の伝記として三部作を構成するともいえる作品)。
その西村久蔵氏の通夜・告別式が、伯父のそれと同じ7月13日・14日(1953年)だったことを、まさにこれからぼくが向かおうとしている新幹線の車中で知った時の驚きを、いったい何と表現したらよいだろうか? 偶然の積み重なりに過ぎないと言えばそれまでだが、そこには人知を超えたものを感じないではいられなかった。

          §          §          §

夏がもうそこまで来ている。暑さも寒さも自然のままに受け入れる心の余裕を失ってしまったのはいつからだろうか? ぼく自身、そうした気持ちをもてぬまま大人になってしまった。が、本当に遅まきながらではあるが、また暑い夏がやって来ることがどんなに幸せなことか、この年になって少しずつわかりかけてきたような気がする。
1953年に逝った西村久蔵氏はぼくの祖父より1年早い1898年の生まれで享年55歳、7月12日にロサンゼルスに向かう機内で吐血し、彼地で1977年7月27日に客死した榎本保郎牧師は、父より5歳年上の1925年の生まれで享年52歳だった。そうしためぐりあわせとともに、ぼく自身が榎本牧師の昇天の年齢に達している事実に愕然とする。しかし、ぼくにはまだまだこの世でやらなけければならないことが残されていることを、素直に感謝しなくてはと思う。
東京の盆は新暦が普通だ。通夜の朝、母はベランダで迎え火を焚いたという。一昨日以来、日毎に夏が近づいているのを実感する。夏休みの開始を告げる、生きていれば82歳になったはずの父の誕生日ももうすぐだ。2012年の夏が、夏らしい平穏な夏であることを心から祈る。
ラベル:季節 記憶 読書
posted by あきちゃん at 21:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2012年07月08日

梅雨の中休みの小径で

昨日は七夕。例年なら梅雨の真っ最中、梅雨末期の集中豪雨の時期でもある。年に一度の織姫と彦星の逢瀬もお流れになることが多いが、今年は好天に恵まれた。朝方の大雨がウソのよう。埃が洗い流されたせいか、空気が澄み、午後からの晴れ間は汗ばむ陽気だったが、日が沈むとともに心地よい風が吹き始め、涼しいくらいである。20℃は割っていたことだろう。爽やかといってもよい空気の中を、汗もかくこともなく、犬の散歩を終えることができた。
主役の織姫(ベガ)、彦星(アルタイル)と、白鳥のおしり(デネブ)がつくる夏の大三角が天上に美しく、少し下に目を移すと、左上から差し出された柄杓から右下に流れ落ちる風情で北斗七星が輝いている。西の空には乙女座のスピカと、あれは土星だろうか、二つの星が斜めに並んでいる。街灯の明かりさえなければ、天の川も見えるに違いないほどに空が澄みわたっている。冬の空かと見紛うばかりの透明さ。
今年の梅雨はメリハリがきいている。雨は結構降っている。しかし、しとしとじめじめという降り方ではなく、比較的まとまって降り、あとはからりとしている。といってあまり暑くない。この時期としてはむしろ涼しい方ではないか。特に朝晩の涼しさが印象的だ。計画停電をちらつかて原発再稼働を実現させた向きの思惑を見透かしたかのような天候だ。自然が率先して節電に励んでいるそんな趣さえある。

昨日の朝方の雨は、雷を伴ってかなりの雨脚だったらしい。朝起きた時にはもうほとんど小止みになっていたが、1週間に1度通る道で、10時前ではあったが思わぬ光景を目にした。雨はもう完全に止み空も明るくなってきていたが、まだどんよりしている。
何ということはない道路のU字溝なのだが、朝方の雨を集めて水が勢いよく流れている。と、同じ視界の中で、何かキラキラと瞬きながら目に飛び込んでくるものがある。一瞬理解できなかったのだが、それはその流れに水滴が滴っているのだった。U字溝の反対側が苔生している。深さ25㎝弱のU字溝の側面の中程まで垂れ下がっている。その先端から、ポタポタと水が滴っているのである。
まあるく形をなしては重みに耐えかねて、ちぎれて落ち続けている。それが何カ所も続いていて、交互に落ちかかるものだから、あたかも連続して水滴が流れて滝のように見える。そしてその水滴が流れに達するまでの間に、明るくなった空からほんの一瞬だけ光を受けてまたたく。それがキラキラ光るしかけだった。
苔が水滴を保っているのだろうか、それとも脇の崖から流れてくるのだろうか。それはよくわからないが、思った以上の量の水が供給され続けていて、水滴の落下は規則的に続き、終わる気配もなかった。
普通に歩く速度で通り過ぎる目が、ほんの少しの間この景色を足下に追いかけたに過ぎかったのだけれど、水滴とともに心が洗われていく思いがした。心底美しいと思った。
去年の春初めて通り始め、春のタンポポ、のげし、初夏の木々の芽吹きから、ちょうど今頃の合歓の花、あるいは丸い不思議な形の実がたくさん落ちているのを、おやっと思って通った道である。ところが今年もはそれが剪定でひどくさっぱりしてしまっていて、ようやく、わずかの合歓の花が散り敷くのを見付けただけだった。それだけに、予想外のプレゼントをもらったような、そんな気さえする。団地の間のどうということはない道だが、今のぼくにはかけがえのない道になった。
しかし、ここを通るのもあと2回だけになってしまった……
ラベル:季節 天気
posted by あきちゃん at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2012年07月01日

『嵐吹く時も』を読む

天売・焼尻の二島を望む漁村苫幌(苫前を念頭に置いた架空の地名)と旭川を舞台に、明治・大正の社会を背景に展開する二つの家族の物語である。海岸の雑貨商カネナカの中津順平・ふじ乃夫婦と一人娘の志津代、同じ漁村の山手で旅館山形屋を営む長吉・キワ夫婦とその三人の息子、恭一、文治、哲三。ともにごく普通の家族として物語はスタートするが、実はともにそこに至るまでに大きな物語があった。
身売り寸前のところを買い取られる形で14歳も年上の順平に嫁いで佐渡から苫幌にわたったふじ乃、自由民権運動の活動家として投獄された監獄を脱走し、止宿した山形屋で西館長吉としてその娘キワとともに新しい人生を歩んだ佐藤文之助。そうした過去が、本書のスタートと同時に回転し始めた時の中に、大きくまた小さくさまざまな影を落としていく。
後に志津代が三人の娘たちを見ながらふともらした言葉、「三人の歳がいつまでの今の歳ならどんなにいいか」。時の回転はしかし、けっして止まらない。一人の人間の何気ない言動が歯車となって、思わぬところで別のさまざまな歯車を回転させてしまう。よかれと思ってしたことでも、それがどんな結果をもたらすかは誰も予測できない。ましてや罪を犯すことなくして生きて生きない人間のことである。三浦綾子さん自身があとがきで述べているように、ひとりの人間の生き方が、どんなに周囲の人々を幸福にしたり、不幸にしたりするかわからないのである。

三浦さんの小説には、二つの家族の関わりが描かれることが多いけれど、これはあくまで例示に過ぎないのではないかと思う。実際の社会では、歯車はいくつもの家族の間で複雑に絡み合って回転するのである。二つの家族の描写は、その一面をわかりやすく切り取って見せてくれている。しかし、単純化されている分だけなおさら、そこには家族の深淵が明確な形で提示されているともいえる。『嵐吹く時も』のキーポイントは、ふじ乃が順平の里帰りの間に苫幌に行商に来た増野録郎と、一夜の過ちを犯したことにあるが、より大事なのは、ちょうどそれと時を同じくして彼女が妊娠し、新太郎を産んだことにある。新太郎が不義の子である可能性を背負いながら、ふじ乃が生きていかねばならなくなったことこそが重要なのであって、新太郎の父親が誰であるかが問われているのではないのである。
哲三と同級生であった志津代はその兄文治に引かれるが、長兄恭一も志津代には好意を抱いていたし、文治を思う気持ちは志津代の同級生の医者の娘八重も同じだった。上巻は新太郎を増野の子だと思い込んだ順平の苦悩と、互いに引かれながらもなかなか結ばれるに至らない志津代と文治の心の葛藤を軸に展開する。
志津代が女性の身体について母ふじ乃から聞かされ、今夜のことを自分は一生忘れないだろうと志津代に思わせた風呂の場面は印象的だ。ふじ乃が家を飛び出し、その奔放な生き方を募らせることになったのが、まさにその晩だっただけになおさらだ。志津代はその後、母とともに結果的に父順平を死に追いやってしまう。一方文治は、志津代の気持ちを察してカネナカでの奉公を勧めた順平の申し出を断って東京に出て、体調を崩して苫幌に戻ったあと、八重の父の木村医師から八重との結婚を条件に出された進学援助の申し出を断る。最後は、志津代と文治が結ばれるが、これがまたまた思わぬ方向に物語を展開させ、下巻で舞台は旭川へと移っていくのである。

旭川に移ってからの物語の展開は、前半とはかなり違う印象を受けるが、途中で10年の時の経過が入っていることや、一気に時間を進めた上で、回想で物語を追う手法で書かれている部分があることも影響しているのだろう。物語全体の構成としては、ややバランスを欠く印象も感じられないではないけれども、そんなことお構いなしに読者をぐんぐん引っ張っていってくれる筆致は見事だ。
恭一の妻となり、旭川で八一旅館を営むことになった八重の生来の人なつこい性格が、恭一の心に疑心暗鬼を生み、その解消に一役買った文治が今度は妻志津代から八重との仲を疑われる羽目に陥る。善意の行動が全く思いもよらないところに思いもよらない結果をもたらす。しかし、三浦さんはそれをけっして否定的には描かない。増野録郎との再婚のために新太郎を連れて東京に出奔したふじ乃が増野の先妻の子どもたちから予想外に暖かく受け容れられること、新太郎が長吉の恩人でもある北上宏明の影響もあって、自分自身の存在を客観的に見つめることのできる人間に成長して描かれることなど、随所に人間を信頼する目が光っている。上巻における、長吉を助け、私生児となったいたその三人息子たちの認知を申し出る北上宏明の描き方もそうだ。
終わりの場面での新太郎の描き方は、不自然だと思う向きもあると思う。しかし、新太郎の言葉として語られていることをこそ三浦さんは描きたかったのだと思う。
「そして、ふっと思ったのは、お姉ちゃんも俺も、親父とおふくろが同じだってね。そう思ったら、喚きたいほどうれしくなってさ……うれしかったなあ。どうしてこんなにうれしいんだろう。妙なもんだねえ、お姉ちゃん。」
「人間って、弱いもんなんだよなあ。あやまちを犯さずには、生きていけないもんなんだよなあ。」
本書末尾の解説では、新太郎は脇役だとして片付けられてしまってるが、彼はけっして脇役ではない。描写自体はそれほど多くはないけれど、新太郎の存在そのものが、『嵐吹く時も』の根幹であることは間違いない。新太郎の存在がなければそもそも『嵐吹く時も』の物語は始まらなかったのであり、それを根底から太い幹として支え続けているのである。

それだけに、真野から去ろうとする志津代たちの回想の中で語られる結末は衝撃的かつ感動的だった。一読したときは、なにもここでという切ない思いを強くもった。しかし、よくよく考えてみると、新太郎の存在が『嵐吹く時も』も通奏低音であった。そうであるならば、それを終わらせるには、彼を神のもとに届けることが是非とも必要だったのだろうと思い直すに至った。志津代と文治夫婦、増野録郎とふじ乃夫婦、恭一と八重夫婦、そして夫婦になったであろう哲三と鈴、彼らが本書が終わったあともさらに新しい人生を歩んだこと、いわば回心した新太郎の他界はそのことを示唆しているのだろう。
こうした結末について、不自然だとか、強引だとか言う見方がもしかしたらあるかも知れない。筋の展開や全体構成についても、いろいろと突っ込みどころがある可能性もある。しかし、本書から受ける感銘はそうした点を補って余りある。
忘れてならないのは、舞台となった幌前のモデル幌内が、三浦さんの父祖の地であったことである。登場人物たちはいわば三浦さんの分身ばかりなのである。感情移入の避けられない登場人物で成り立っているところに感銘の一つの要因があるのだろう。そしてもう一つ、あとがきの三浦さんの言葉は象徴的である。
「いつも小説を書く度に思うことだが、人間は何と罪を犯さずには生きていけない存在であろう。誰もが罪を犯す存在であってみれば、誰もが許してもらわねば生きてゆけぬ存在でもあると言える。許すということは、聖書にあるとおりきわめて大きな人間の義務なのではないか。人の命をいとおしむということは、人を赦し、人を受け入れるという、実に重いことなのだと、私は思う。」こうあとがきに書かずにはいられなかった三浦さんの気持ちが、キリスト教信仰という枠組みを超えて、ひしひしとこちらに伝わってくる。そこのこそ本書の与える感動の大きな源泉があるといってよいだろう。
三浦綾子『嵐吹く時も』上・下(新潮文庫).jpg『嵐吹く時も』上・下(新潮文庫)
ラベル:読書
posted by あきちゃん at 02:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする