2012年11月18日

冬の訪れ

例年文化の日の連休が過ぎて一週間、恒例の正倉院展が閉幕すると、奈良の秋もいよいよ深まってくる。11月の半ばはまだ小春日和を経験することが多いけれど、20日過ぎには木枯らしが吹いて、月末には晩秋の趣が濃くなる。我が家の紅葉が色付くのもこの頃で、だいたい12月の第1週には毎朝紅葉の葉を掃き集めるのが日課となる。
ところが今年はどうも季節の足取りがおかしい。例年になく秋の訪れが遅いと思っていたのに、金木犀の花が終わったと思ったら一気に晩秋の気配である。ことに14日水曜日の天気図の縦縞模様はすごかった。12月半ばの春日若宮のおんまつりの最中の12月16日、一年に一度開扉される三月堂の秘仏執金剛神を拝観したあと、二月堂から奈良の雪景色を見たことがある。あの時でさえ例年になく早い寒波の到来といわれたものだったが、それよりもさらにひと月も早いこの季節では、まず滅多にお目にかかれないくらいの本格的な冬型である。北京に大雪を降らせたという寒気が、火曜日の夕方の前線通過とともに到来したらしい。ただ、天気図をよく見ると、縦縞模様が大陸の高気圧の方に回っていかず、低気圧の渦に収束している。広く言えば低気圧の圏内にすっぽり入った冬型なのである。春先によくあるような形だが、しかし、低気圧が急速に発達した、いわゆる引きの季節風ともちょっと違う。等圧線の間隔が低気圧から高気圧まで比較的均等で、これは低気圧はそこそこ強いものの、むしろ高気圧、というより寒気の強さを示している。
11月14日と11月15日の天気図.jpg
〔11月14日と15日の天気図〈気象庁発表〉〕
15日木曜日、低気圧が少し遠ざかるに従って、日本付近の縦縞模様は高気圧の領分になった。寒気がたいしたことがなければ低気圧が東に去るとともに縦縞が緩んでくるものだが、今回はむしろ縦縞がしっかりしてきた。まさに真冬の冬型そのものである。さすがに地上に熱が残っているせいかまだ冷え切ってはいないので雪にはならなかったが、一日ずいぶん時雨れた。同じくらいの寒気でもこれがあとひと月遅ければ、多分に雪になったことだろう。3週間遅れていた季節の進みが一気に加速し、逆に3週間早まった感がある。
しかし、そこはまだこの季節の寒波であった。16日金曜日には高気圧が移動性となって通過して寒さが緩み、そのあとからは深い気圧の谷がやってきて、今日17日土曜日は一転して吹き降りの荒天となった。先週も週末日曜日が荒れたけれど、一日ずれたものの今週も週末が雨に祟らることになった。まあ済んでみれば周期変化ではあるのだけれど、ここまで変動がダイナミックなのも珍しい。
あまり冬の到来が早いと、寒気が長続きせず、暖冬になることが多いものだが、今年はさてどうなることだろう。一気の冷え込みで、今年は紅葉がことに美しいというけれど、木々の色づきを愛でる余裕がないくらいの寒さではちょっと寂しい。秋の大峰山.JPG
〔秋の大峰山―八経ヶ岳(左)と弥山〕

北海道で遅い初雪
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2012年11月10日

ショスタコーヴィチの平均律のことなど

秋の訪れが遅いと思っているうちに、一足飛びに冬が目の前に来ていた。いつもの年なら、移動性高気圧と気圧の谷が交互に通る周期変化が1、2ヵ月は続くのに、北日本の気圧配置が突如縦縞模様に変わっていた。偏西風が弱く、かなり蛇行しているのだろうか。
今週火曜日の明け方の雷には驚かされた。寒冷前線の通過である。もっとも、驚かされたのはぼくよりもむしろ犬たちの方だったようだ。1匹が落ち着かなくピョンスカピョンスカし始めると、それに呼応して遠吠えを始めるのがいるかと思うと、食い意地が張ったのがもう朝かと思ってごはんの催促を始める始末。残りの1匹は雷などどこ吹く風でクークー寝ていた。そんな犬たちの騒ぎでぼくは眼を覚ましたのだった。もっというと、それで雷が鳴っていることを知ったのである。ぼくは雷鳴を一度しか聞かなかったから、犬たちが雷が鳴って騒ぎ出したのか、その気配を察して落ち着かなくなったのか定かではないが、もしもあとの方だとしたらすごいことだ。
朝7時少し前、まだ雨は降っていたが、西の空に水色の部分が見え始めたかと思うと、あっという間に空が青く澄み渡ってきた。雷雨も突然だったようだが、回復もまた早かった。そして夜は久し振りに星降る夜の犬の散歩だった。空気が洗われている。木星がいつの間にかあんなに高くなっているとは知らなかった。それもそのはずである。カシオペアがいつの間にか「M」になっている。ケフェウスどころかぎょしゃの五角形が既に天高く上っていた。しばらく星空から遠ざかっている間に季節は確実に進んでいた。そしてその右下には、まさかあんな位置に見えるとは思ってもみなかった星が輝いていた。ベルトの三つ星を直立させて地上に現われたオリオンの雄姿である。冬の役者がもう顔を揃え始めているのだった。
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〔秋の峠道〕

          §          §          §

先日おかしな夢を見た。どこかの書庫である。今まさに扉を開けてそのへやに入ろうとしていた。書架がずらっと並んでいるはずだった。ところが眼に飛び込んできたのは、書架のずっと先の明るい縦長の窓と、その前に崩れている本の一群。あれ、書庫のはずだったのに、そう思って手前を見ると、書架がなくなっている。左手にさらに扉で区画された一画が見える。見覚えのある空調の効く貴重品庫らしい。そんなことを認識したのはすべて扉を開けた一瞬のことなのだが、ほぼそれと同時に、書庫の中から誰かがスッとぼくと入れ替わりに書庫の外に出ていった。誰だろう? 黒い人影であるだけで、よくわからない。気付くとぼくは犬の散歩の時に持ち歩く犬が用を足したときに持って帰るビニール袋を手にしている。こんなものを持って書庫に入ってどうするのだろうと思いつつ、捨てる場所を探しているが、そんな場所はあろうはずががない。諦めて書庫から出ようとした。その時、また入れ違いにさっきの人影が今度は逆に書庫に入ってきた。扉を閉めた音と同時にそのことに気付いたので、もう誰だか確認しようもなかった。
その夢はまだ続きがあった。今のはほんの初っ端だったような記憶があるのに、先が思い出せない。それなのに、この部分は記憶が薄れず、数日前の夢なのにまだ鮮明に覚えている。目覚めたとき記憶の反芻をした覚えはあるので、その効果だろうか。

          §          §          §

バッハの平均律に倣ってショスタコーヴィチが24の前奏曲とフーガというピアノ曲集を書いている。この曲集もバッハと同じように長調・短調合わせて24の調性について、それぞれプレリュードとフーガから構成されている。バッハが同主調で半音階ずつ挙げていくのに対して、ショスタコーヴィチは平行調でシャープを一つずつ増やしていく。バッハに倣っていながら、それに飽きたらず独自性を出そうとしているところがショスタコーヴィチらしいといえばらしい。
しかし、始まりの第1番はハ長調で一緒である。そこまでバッハを逸脱しようとはしなかった。バッハの、特に第一集のハ長調は、曲集を代表する根源的な響きの曲だが、ショスタコーヴィチのハ長調第一番も静謐な美しさに溢れた曲である。ぼくは、ショスタコーヴィチ自身の演奏で聴いたのが最初である。自作自演のピアノ協奏曲集の余白に入っていたのだけれど、協奏曲、特に第一番の、いかにも彼らしい斜に構えた曲調とは打って変わった清明とも言える響きに一聴魅了されたのだった。

シチェルバコフの「ショスタコーヴィチ24の前奏曲とフーガ」.jpg
〔シチェルバコフの「ショスタコーヴィチ24の前奏曲とフーガ」〕

全曲が聴きたくなって求めたのが、ナクソスから出ているコンスタンティン・シチェルバコフの演奏である。実に丹念にじっくりと聞かせてくれる演奏である。一曲一曲はそれほど長いものではないけれど、一つひとつに無限の宇宙が広がっていく、そんな感じがする。とりわけ初めの1番を聴いて愕いた。プレリュードからして一音一音噛みしめるような足取りで進む。フーガになるとさらに顕著で、テンポを落としてじっくり弾き込んでいく。曲の深層にはまり込んでいくそんな趣さえある。シチェルバコフのひたすら真面目な演奏を聴いてから、ショスタコーヴィチの演奏に帰ると、悪く言えば投げやりな、よくいえば情緒的な演奏に聞こえてくる。特にフーガでは、段々テンポを上げ、次第に熱く激してくるのがわかる。音を外すことも意に介していない。どうして最初に気付かなかったのだろう。ショスタコーヴィチ特有のイロニーにまんまと騙されてしまったということなのだろうか。
シチェルバコフの演奏を聴くことによって、ショスタコーヴィチ自身の演奏の意味が見えて来たわけである。要は、どこに基準を置いて物事を判断するかということなのだろう。その基準がぶれなければ、その人にとって絶対的なものにもなり得るが、その時の気分や環境に左右されやすい。何度か聴いているうちに、平均的な線引きができあがり、概ね判断が固まってくるわけである。これは人それぞれであるから、真の絶対的な評価は難しくなるのだろう。シチェルバコフの演奏は、その線引きをさりげなく移動させてくれたのである。
とはいえ、曲の真の姿を最も深く表現できるのは作曲者自身かというと、必ずしもそうではない。どうしても主観的な解釈に傾く場合が多いだろう。一旦主観から解き放ち作品をそれ自身として自立させることができると、思っても見なかった姿が浮かび上がることがある。シチェルバコフは、徹底的にショスタコーヴィチの演奏とは別の方向を目指しながら、かえってショスタコーヴィチ自身の演奏以上に曲の本質を抉り出すことに成功したのである。
この曲集は音の振幅がかなり大きいので、乗り物の中で聴くのには不向きで、家でじっくり聴くしかない。バッハの平均律、ことにリヒテルの演奏は多少の雑踏はものともしない。ところがショスタコーヴィチの平均律は、ものすごくデリケートで砂糖菓子のように壊れやすい。バッハと違って魂に染みこんで来るというのではなく、魂をもっていかれそうになる危うさを秘めている。だから、強いてお勧めはできないけれど、これも秋の夜長の友とするに相応しい曲のように思われてくる。
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2012年11月03日

田舎、この異次元への列車の旅

この旅は毎年繰り返されたような気がするけれど、考えてみると間があくこともあり、ぼくが中学に上がった頃までには夏の恒例行事ではなくなっていたから、10回とは続かなかったはずである。旧盆前後の1週間、母の実家の山形に過ごしに行く旅であった。

上野を出るのは確か9時10分過ぎ頃ではなかったか。ディーゼル急行ざおう1号、山形行きである。もっと前は2往復あったこともあるし、51号など50番台の臨時列車が出ることもあった。指定席もあったのかも知れないが、発車の1時間くらい前までには行って並んだものである。従兄弟たちと大勢で行くことが多かったけれど、たいていボックス席を二つ確保できた。座れなかった記憶はない。乗車券のほか、自由席だと山形までの急行券300円で乗れたのである。
座席を確保するとあとは発車を待つだけだが、その前に必ず買ってきたのがお茶と冷凍みかん。上野で駅弁を買った記憶はない。お茶はプラスチックの土瓶を象ったもので、格別おいしいものではなかったが、今と違って缶入り飲料やペットボトルなどない時代のこと、それも一つの贅沢ではあった。それにしてもなぜ駅で冷凍みかんだったのだろう。網の袋に入った5個入り程度のものだが、田舎への旅にはなくてはならないアイテムだった。みかんの季節から遠く隔たった真夏に食べるのは、これまたちょっとした贅沢でもあったのだ。

赤羽、ここはまだ東京のうちである。従兄弟は家の関係で帰途はここで降りて赤羽線で帰ることもあったが、往きは必ず上野から一緒だった。荒川を渡ると埼玉県。旅の始まりである

大宮、ここまでは京浜東北線が来ているが、ここから先はいよいよ東北本線で、旅に出た感が漂い始める。栗橋を過ぎると程なく利根川鉄橋である。5歳の時、近所に絵を習いに行って最初に描いたのが、田舎に行くときに渡るこの鉄橋だった。鉄橋を渡る列車の雄大な響きは憧れの的だったのだ。

小山、というと、遊園地の宣伝が子ども心にも耳についていたけれど、一度も行ったことがない。伊東のハトヤのコマーシャルと同じで。あれほど広く知れ渡っていながら、どれほどの集客効果があったのだろうか。

宇都宮まで来ると、いよいよ関東平野も見納めである。黒磯に向けて列車は那須野が原を駆け上がっていく。西那須野には初めは停車した記憶がない。いつの頃からか、臨時停車が始まって、定着したように思う。那須の山並みを見えたであろうが、あまり記憶がない。この頃にはそろそろお腹がすき始めているのである。待ちに待った駅弁タイムだ。

黒磯、その名はもう九尾の釜めしとともにあるといっても過言ではない。ぼくが初めて食べた駅弁である。食べ終わったあとの釜を後生大事に持ち帰る、といっても田舎まで持って行き、再び家まで持ち帰るのである。結構がさばるし重たいのだが、大事に持って帰って底に穴を開けて植木鉢にしたりする。味のほどは、子どもの舌にはただ列車で駅弁が食べられるというだけで舞い上がっていて、うまいまずいを超越したものだった。後に横川の釜めしを食べるようになると、味は横川の峠の釜めしに軍配を挙げざるを得なくなったが、要は味ではなかったのである。
あと、忘れてならないのは、窓を開けて居ながらにして売り子から座席で駅弁を買う醍醐味である。両手で左右対称に力をかけないと窓はうまく開かない。客が多いとなかなか自分の所までやって来ない。でも停車時間も結構あったし、仮にドアが閉まってもまだまだ余裕はある。お釣りを投げてよこされたりしたこともある。駅弁を渡すだけ渡して代金を取りそびれた売り子もきっといたことだろうし、その逆もあったに違いない、でものんびりとした時代だった。特急に乗れるようになったとき、まず何よりも、窓が開かないことに抵抗感があったのである。

白河、ここからはいよいよ陸奥国である。駅の大きさの割にがらんとした寂しい駅という印象が残る。日中なのに、なぜこんなに人がいないのか。駅はどうも町外れにあるらしい。街を大きく迂回して列車はさらに喘ぐように登っていく。再び期待が膨らんでいく。

郡山、複線ではあるが谷状の狭い部分を通って行くと、突然視界が開けて線路が扇形に拡がっていく。そしてポイントを通る音を心地よく響き渡らせながら列車は大きな駅に滑り込んでいく。ここのお目当ては柏屋の薄皮饅頭である。薄いビニルに包まれたこしあんの饅頭で、底の部分に餡が透けて見え、そこに薄いオブラート状のものがかかっている。餡の好きな子どもなど少ないはずで、ぼくも和菓子には見向きもしないくちだった。ことに粒餡はダメだった。しかし、薄皮饅頭は漉し餡で、しかもほんのりした甘さが絶妙、九尾の釜めしを食べ終えた頃に薄皮饅頭のデザートはうってつけだった。のちに東京のデパートでときおり薄皮饅頭を見かけるようになったが、それはまるで夢のようだった。遙々列車に乗って初めてめぐりあえる味に、まさか東京に居ながらにして会えるとは……。
福島までは単調な丘陵地帯が続くが、途中下り線と上り線が段違いになったり、分かれたりする部分がある。単線時代の名残なのだろう。適当にトンネルもあって変化があり、景色が単調な割に面白かった。安達太良山とか吾妻連邦とかの遠望もあったのだろうがあまり記憶がない。たまに二本松に臨時停車することもあったが、これは恒常化することはなかった。郡山の手前の須賀川も同じだ。

福島、モモやブドウなどの色取り取りの看板やのぼりなどが眼に浮かぶ。お盆の頃出かけるのが普通だったから、ちょうどこうした果物の季節にあたることが多かったのだろう。でも福島駅で買うことはなかった。田舎に着けば、飽きるくらい果物を食べることができるのである。なにも途中で仕入れる必要もなかったし、帰りはもう既に抱えきれない程のお土産を持っての旅だったのだから。
福島で列車は奥羽本線に入る。笹木野、庭坂の駅を通過しながら、葡萄や桃の果樹畑の続く扇状地をゆっくりと登ってゆく。最後に大きく右にカーブすると列車はいよいよ谷間へと入っていく。ここは下りもまた気持ちの良いところだったが、板谷峠越えにかかるここからの道筋ほど心躍るものはなかった。これからスイッチバックの駅が4つも連続するのである。
スイッチバックは鉄道好きにはたまらない施設である。東京近辺にはスイッチバックの駅は既になくなっていたので、ぼくがスイッチバックを実際に体験できるのは、板谷峠越えの機会しかなかったのである。板谷峠越えの4駅がなかったら、山形への旅の魅力は随分と減じていたことだろう。もっとも、当時でも通過列車はスイッチバックを通らずに、真っ直ぐ通過できるようになっていたので、急行列車でさえスイッチバックを体験できることは滅多になかった。それでもなお、スイッチバックの駅を通過しているというただそれだけで満足だった。引き込み線や駅への行き止まりの線路を確認しては悦に入っていっていたものだった。
4駅それぞれに顔があった。最も福島よりの赤岩駅は、福島から近づくと列車の右手に高い崖が現れる。次第に登り詰めていってその段差がなくなると、その崖の上が実は赤岩駅だったことがわかる。進行方向左手にスイッチバックの引き込み線が伸びている。次の板谷駅は山形からの帰途臨時停車して偶然じっくりと駅を味わった経験がある。今と違って臨時停車しても車内放送があるわけでもない。いつ動くかもわからない列車を降りてホームを散策したり、さらには駅前に出てみたりと、なんともまあ牧歌的な時代だった。
峠駅で印象的なのは、引き込み線がトンネルになっていることである。元々スイッチバックの核心部が雪避けシェルターの中にあるのだけれど(今はそこに駅が設けられているという)、そこにぽっかりとレンガ積みのトンネルが口を開けているのである。夏でもヒンヤリとするトンネル内の空気の感触が忘れられない。最も米沢よりの大沢駅は、板谷峠を下っていくと右下に見える長大なシェルターが印象に残る。急勾配であるとともにここは雪深い地域なのである。大沢を過ぎると列車はもうブレーキをかけつつ降る必要もなくなってか、途端に元気になって直線的な下り坂をひた走る。関根を過ぎると米沢ももうすぐだ。
小学校最後の年であったか、福島で急行を降り、13時過ぎの福島始発の奥羽線の鈍行列車にわざわざ乗り換えたことがあった。もちろん目的はスイッチバックの4駅に行くことである。物好きと言えばそれまでだが、急行だと40分程度で越えられる板谷峠を1時間半もかけてのんびりと越えたのだった。こんな贅沢な旅は今はもうできない。各駅で線路の構造の見取り図を作る念の入れようだったが、残念なことにこの時作った4駅の線路の図は今はどこかへいってしまった。きっと何かの本で調べればデータはあるのだと思うが、自分の眼で調べたありのままの線路のつながり方の図は、なにものにも変えられない宝だった。

米沢、山形県に入って最初の停車駅である。米沢牛の駅弁が弁当があったはずだが、食べたことはない。九尾の釜めしと薄皮饅頭をを食べたあとではもう無理なのである。列車は稔りの季節の置賜盆地を軽快に走る。
日も傾き始めて列車の影が稲田に大きく映る。稲田に段差があると、列車の影が浮いたり沈んだりする。もうもう穂が出て黄色くなりかけている田もある。そんなに広くはない盆地を限る向こうの山の麓まで稲田が続く。畦が一本一本近づいては遠ざかり、近づいては遠ざかりしていく。彼方の山の一点を軸に回転運動しているようでもある。ぼくにとっての日本の原風景はと問われたら、この稲田の風景は間違いなくそのひとつだろう。佐藤正英さんの『故郷の風景』(筑摩プリマーブックス)という本があるが、あの本を読んで思い浮かべたのは、まさにこの置賜盆地の景色だった。
列車はディーゼルなのでずっとエンジンがうなっているわけではない。一旦速度にのりさえすれば暫くはエンジン音を立てずに軽やかに降っていく。線路の継目の通過音だけが盆地に響き渡る。エンジンブレーキがかかるときの音は微妙に違うのでよくわかる、駅に近づいたことがわかるその音の変化がまた旅情をそそるのである。

赤湯上ノ山まで来ればもうすぐである。糠野目(今は高畠というようだ)などに臨時停車することもあった。上ノ山を過ぎればもうあと少し。右手には蔵王の山並みが望まれる。

山形に着くのは16時近かったのであろう。鈍行列車の乗り継ぎに1時間近くあったのだろうか。堅い直立した木の背もたれがあり、黄色い電灯が薄暗く点る。遙々やってきたことを実感するのはこの時であった。田舎に近づくに従って、だんだん時を遡っていくような錯覚に襲われる。
錆色か色の褪せた紺色の客車である。最後尾は連結部分に鎖が架かってはいるものの、後ろが丸見えである。お手洗いがついてはいるが、至って単純なつくりで、下に線路の石が見えるのである。「停車中は使用しないでください」と注意書きあるのも肯ける。この鈍行列車に1時間程揺られて漸く目的の駅J町に着く。18時前後のことである。
そこはもう子どものぼくにとって別世界、異次元に過ごす1週間の始まりだった。それを象徴するのが、ぼくを迎えてくれる家の玄関先の大きなひまわりの花だった。丈はせいぜい1mほどしかないが、大きいのは径30㎝にはなろうかというその花だった。このひまわりも早々にぼくの画材の一つになった。田舎への旅の終着点には、いつもこのひまわりがあった。そんなひまわりに迎えられて異次元の世界に飛び込んでしまうぼくは気付く由もなかったことだが、そこは母の実家であったから、毎年繰り返されるこの旅が母にとってどんなにか大きな安らぎをもたらすものであったか。父が一緒だったこともあり、また途中から父が来たこともあったが、父にはけっして気安い場所ではなかったようだ。
線路を逆にたどって自分の家に戻ったとき、違う世界に連れ戻されたことを肌で感じたものだが(この妙な違和感はなかなか言葉では表現し尽くしがたい。この感覚を味わう機会は子ども時代特有のような気がする)、母にとってもまた舅姑のいる現実の生活が待ち受けていた。

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長ずるにつれ、田舎へ行く機会も夏の帰省ではなく、時々の季節に分散するようになった。列車も窓の開く急行から、開かない特急になり(山形行きの「やまばと」〈こだま型の電車特急〉、秋田行きの「つばさ」〈これはなつかしいディーゼル特急〉)、さらには東北新幹線経由に変わっていた。そうしたあとの記憶で上書きされている部分も多く、思うように記憶の糸を手繰れないのがもどかしい。
急行列車の旅を存分に楽しむなどというのは、今ではかえって贅沢なのかも知れない。車で出かけることの多かった子どもたちに、鉄道の旅の愉しさを理解してもられるかどうかもあやしい。郷愁に過ぎないといえばそれまでだが、それを知らない子どもたちが可哀想でもある。新幹線が当たり前の時代では、古いものへの郷愁もなければ、新しいものへの夢も育たない。「夢の超特急ひかり」といわれた高速化の時代に育ったぼくらの世代の憧れには、新しいものに対するのと古いものに対するものの両方があるはずである。変化の時代に育ったからこその特権なのかも知れない。
タグ: 記憶 鉄道
posted by あきちゃん at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする