2013年02月22日

夢のかけら―夢の記憶6

2月もあと一週間余りになったというのに、今日もニワカ雪の降る真冬の天気。周期変化になってきたかと思ったのもまさに束の間で、北海道では大雪で列車ダイヤも乱れているという。お水取りが済むまで春は来ないというのがやはりあたっているのだろう。あと三週間の辛抱である。でも、季節の足取りは立ち止まっているように見えても、春は着実に近づいてきている。
寒さなどものともしない犬を連れて毎日ほぼ同じ時間に散歩に出ると、直立していた北斗七星の柄杓がもうかなり左に傾き始めている。刺すような冷たさは相変わらずだけれど、季節は着実に動いているのがわかる。犬がリードをあらぬ方に引くと思ったら、左手の茂みで「キューン」とも「ケーン」ともつかない甲高く短い動物の叫び声が聞こえる。そしてガサゴソと茂みを遠ざかっていく音がする。鹿である。奈良公園にいるはずの鹿がこんな所までやってきているのだ。猟犬を先祖にもつ種類の犬だから血が騒ぐのかも知れないが、うちの犬には野ねずみか野ウサギがいいところで、鹿などもってのほか。鹿に出くわしたりすることのないよう、リードを引いて道を急ぐ。
毎日同じ時刻といえば、朝の娘の送りもそうで、今朝は明るさに驚いた。ついこの間まで、点灯して出かけていたのがウソのようだ。天気の悪い日が続いたあと久し振りに晴れた朝を迎えたりすると、余計に日の出の早くなったことを実感するのだろう。冬が完璧に居座っている中にも、季節の着実な歩みがそこここに感じ取られるのである。

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それにしても今朝の夢はおかしな夢だった。最近も相変わらずよく夢を見るが、記憶に残らない。面白い現実離れした夢もあるし、現実の続きのような夢もある。しかし、忘れてしまう。今朝の場合は、どうも長かった夢の最後の部分を覚えているらしい。目覚める直前に見ていた部分だけが記憶に刻まれているようなのである。
畝を何本も設けた畑にいる。畝と畝の間は深い溝になっている。鮮やかな光景である。知らない男子学生が2、3人いて種蒔きをしているらしい。ボールかザルかよくわからないが、どうもステンレス製の容器のようで、それをもって後ずさりしながら、手でボールから少しずつ溝の部分に向けて掴んでは蒔き、掴んでは蒔きしている。大事そうに少しずつ丁寧に蒔いているのが印象的だ。何を蒔いているのかと思ってよく見ると、どうもそれは塩のようである。いや,純白の白い塩だと断言している自分がいる。ちょうど石灰を蒔いているようなそんな風情なのだが、ちゃんと芽が出るということを意識している。
そうこうするうちに、最初の学生よりもずっと年上でオーバードクターのY君がやって来た。彼は一人で同じようにバックしながら塩を蒔いていく。ところがその蒔き方たるや大雑把なもので、塩を鷲づかみにしてひどくいい加減に蒔いている。あれあれそんな蒔き方じゃあダメだよ、芽が出なくなっちゃうよと気が気でないこちらの気持ちをよそに、Y君はさっさとボールの中味を全部蒔いてしまい、最後はボールを逆さまにしてトントンと少しも残さず全部蒔いてしまった。これじゃあ本当に芽が出ないよ、と呆れてしまう。よく覚えていないが、どうして芽が出ないかの説明も自分なりに付けている。塩なのだから芽など出るはずはないのに、そんなことは全く不思議に思わないでいる。ただ、それだけの夢である。というか、それだけしか覚えていない夢なのである。
少しまえに見た夢も、全く脈絡はわからないが、一つの場面だけよく覚えている。久し振りに父が夢に現われ、しかもかなり長いこと話をしていた。当然生きているときの父である。こんなによく話す父を見たことがないというくらい豊富な話題の会話をぼくと交わしている。そうするうちに、父がふと「何々したんだってなあ」というような感じで、このブログにしか書いていない(と夢の中で思っている)最近のぼくの身の回りの出来事(それも実際のことではなくて夢の中だけでの架空のもの)を訊ねてきた。そうか、父もこのブログを読んでいたのか、意外といろんな人が見てるのかも知れないなあと、父の言葉から妙に納得してしまっている自分がいた。これもまたただそれだけの夢である。前後の続きが確実にあったはずなのに、一部だけ切り取られているので、これだけでは自分でも何のことだったかさっぱりわからない。まあ、夢とはそんなものなのかも知れないけれど。

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春が待ち遠しい反面、花粉症持ちとしては、不安も大きい。今日はどうもむずむずと落ち着かない一日だった。飛び始めているのだろうか。しかも今年は例のPM2.5の問題もある。10年ほど前にこの季節に西安に一カ月滞在したことがあった。その間に青空が見えたのはたった2、3日しかない。どんよりと曇ったうっとうしい日が続く。てっきり黄砂の影響だと思っていたが、今にして思えばこれももう微粒子の大気汚染の影響だったのかも知れない。
花粉症はまだ免疫の問題だからまだしも、PM2.5は確実に身体を蝕むのだから怖ろしい。ぼくらの世代が子どもの頃は、川崎や四日市の大気汚染が悪名高かったたし、大都会では光化学スモッグが猛威を振るっていた。だからまだ免疫があるだろう。しかし、そうしたことが歴史になってしまった時代に生まれた今の子どもたちに悪影響を及ぼすないか心配である。食品添加物にしてもそうである。甘味料のチクロが禁止されたときのことをよく覚えている。いろいろと言われるようになったのは、このあたりからであり、ぼくらの世代が一番危ない物を食べて育った世代のように思う。その世代がそれらの影響を受けて早死にするのか、はたまたそれによる免疫でその後のさまざまな因子に対する免疫ができて長生きするのかどっちなのだろうか。
いろいろと思いめぐらすことは尽きないが、とまれこの冬ここまで風邪も引かずに無事過ごさせていただいていることに感謝したい。
ラベル:日常 季節
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2013年02月17日

出雲再訪と伯備線の旅

42年ぶりに出雲を訪れた。今回出雲市から一畑電鉄を乗り継いで出雲大社前まで行く旅程を立てながら、その頃大社線があったことさえ記憶から抜け落ちていた。昼間の熱気の残る立秋直前の日の夕刻、京都に向かう上りの夜行各駅停車を待った出雲市駅は、味気ない高架の駅に変わっていた。
1971年8月のことである。前年の関西行きに続き、1日遅れの7月29日の夜行寝台急行「出雲」に乗って、両親とぼくは山陰に旅立った。前の年の急行「紀伊」と同じく客車3段式のB寝台で、ぼくは上段に乗った。6時過ぎに奈良に着く「紀伊」違い、ぼくらの目的地鳥取でさえ到着は9時過ぎ。寝台車の連結された今にして思えば豪華な編制で、竹野、香住あたりから、浜坂にかけての日本海を絶景を眺めながら朝食を食堂車で朝食をとった。まだ健在だった余部鉄橋の案内放送も食堂車にいたときではなかっただろうか。
鳥取では、観光バスで湖山池(当時はまだ遊覧船があった)や鳥取砂丘、そして白兎海岸に行った。暑い日だった。鳥取から上井(今の倉吉。当時の倉吉駅は山陰本線ではなく支線の駅だった)まで列車で移動し、いかにも温泉地と行った風情の三朝温泉に泊まった。
翌日はバスで大山寺に登り、大山北壁に望み、下って米子の皆生温泉に泊まる。3日めは境港線で境港に行き、船で美保関に渡る。生まれて初めてリフトに乗ったのもこの時だ。白木みのるの出身地という大根島を見ながら松江までのバス旅は長かった。この日は玉造温泉泊だったが、山陰線の南に川沿いに展開する温泉街ではなく、宍道湖近くに建ったばかりの玉造国際ホテルとい宿だった。駅からタクシーで行ったのをよく覚えている。
そして次の日は大社線で出雲大社・日御碕へ。その帰途がはじめに書いた各駅夜行の旅となる。京都を朝から回る予定だったが、当時千里にいた叔母の家に寄らないわけに行かなくなって午前中は大阪へ。昼過ぎに漸く京都に戻って南禅寺に行った。疏水のアーチを見たのはこの時だ。楽しみにしていた京都見物が半日になってしまったのは心残りだった。
途中、苔が見たいという父のたっての希望で苔寺と鈴虫寺に行ったもこの時だったろうか。いや、鈴虫寺も夕方の記憶があるから、次の年だったかも知れない。次の年ならば8月末、同窓会で広島まで行っていた父と、東京から夜行急行「長州」で母と京都まで行って合流した翌年のことかも知れない。このときは大覚寺に泊まった。いくつかの宿坊に往復葉書で宿泊を申し込み、いずれもOKの返事が来てしまい、申し訳ないが他をお断りした記憶がある。3年続けての京都行きが、この後ぼくが京都に熱を上げるきっかけとなる。
さて、1971年というと、まだ山陽新幹線は開業前で、新幹線は新大阪までしか行っていなかった。DISCOVER JAPANの最盛期で、「ひかりは西へ」のキャッチフレーズがいわれ始めた頃ではなかったか。岡山までの開業は翌1972年のことだった。その後、出雲は特急に格上げ、新幹線も徐々に西に延伸していく。しかし、岡山からの伯備線経由が出雲までの通常ルートになるなど想像もできなかった。
伯備線の「やくも」は岡山から出雲市まで約3時間の長丁場である。今回これに乗るのは2往復めだが、前回は松江までだったので、「やくも」で出雲市まで行くのは初めてとなる。あとから聞いた話では、伯備線はよく揺れるので普通は電車酔いしない人でも酔う人が多いとか。トンネルで最短距離を行く最近の路線と違い、迂回してでも経費のかからないルートで結ぶ方針で建設された古い路線であることが影響しているという。
しかし、この旅は愉しかった。前回は往復とも夜だったので、景色を愉しむこともなかったが、今回は期待していなかったこともあってか、存分に列車の旅を満喫することができた。穏やかな景色だが、いかにも日本のふるさと、というような風景がこれでもかといわんばかりに展開する。応接の暇もないとはこのことである。景色を愉しむにはトンネルがほどほどなのが何よりもうれしい。「しなの」走る中央線・篠ノ井線に匹敵する旅といってよいかも知れない。
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〔伯備線の車窓から〕

分水嶺のトンネルを越えて鳥取県に入り生山駅、根雨駅を過ぎたあたりだっただろうか、車窓に三脚を構えた人たちが並んでいるのが眼に飛び込んできた。何ごとかと思ってそのカメラの先を見て驚いた。白銀に輝く神々しいばかりの大山が異様な大きさで迫ってきているのである。そう、この列車「やくも」を大山をバックにして撮影しようというテッちゃんたちなのである。大山は進行方向右手とばかり思い込んでいたので、左手にしかもこれほどのスケールで大山が望めるポイントがあろうとは思いもしなかった。進行方向右手の席だったので、シャッターチャンスはあろうはずがなかったけれど、かえって座席越しに反対側の窓から望んだ山容が目に焼き付いている。当然見えると思ってその後右手の車窓から大山の出現を待ったが、手前の山地に遮られて思うように望めず、姿を現したときには、秀麗ではあるもの先程目に焼き付いた大きさの半分にも満たぬものでしかなかった。
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〔伯備線の車窓からの大山〕

帰途は雨が降り出していたが、それでも大山はその優美な姿を車窓に見せてくれた。2月半ばを迎えて思いの外に日脚が延びていて、前回同様景色のない揺られるだけの伯備線の旅を覚悟していたので、これは意外な贈り物だった。窓の開かない特急で走ってさえこれほど充実した車窓の景色に恵まれるのである。ローカル線の旅はこれだから愉しい。夜の闇が訪れて景色のなくなったを機に、ノートパソコンを取り出して少し仕事をと思ったら、あろうことかシャットダウンされておらず、バッテリーが完全にあがってしまっていた。仕事などせずに旅を愉しむようにとの思し召しのようである。心地よい揺れと列車の響きを満喫して3時間の「やくも」の旅を終えたのだった。
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〔雨の出雲市駅で発車を待つ特急「やくも」〕

そうだった、伯備線といえば、D51の三重連で名を馳せたところではなかったか。小学生の頃、D51三重連の記念切符を郵送で求めたことを今思い出した。1972年の山陽新幹線の岡山までの開業がSL運転の終止符だったはずだから、記念切符を買ったのはそれよりも前のはずである。石灰石の搬出がSL運転のメインだったという。今回も石灰岩採掘場の異様な山容は記憶に残っている。ようやく、記憶と今の映像がフォーカスされて一つにつながってきた。
ラベル:鉄道 記憶
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2013年02月11日

たたなづく青垣を望む車窓の旅

立春を過ぎているから寒の戻りというのだろうか。先週の金曜日は本当に寒かった。時折北西の空が灰色になってきたかと思うと、急に風が募ってきて白いものが舞い始める。雪雲の通過である。日中も3℃程度までしか上がらなかった。恐らくこの冬一番の冷え込みとなるだろう。土曜日も最高気温は6℃ほど、今日(日曜日)は随分ましだがそれでも9℃くらいで、これでやっと平年並みである。
今年の冬は、やって来るのも早かったし、気温からいえばこれまでのところ寒冬といえるだろう。しかし、その割に意外と過ごしやすく、それほど寒さに震える思いをした覚えがない。スキー場では結構雪が積もっているようだが、日本海側でも平地ではむしろ雪は少ないという。先日も若狭の方から、今年は雪が少なくて助かっていると、いう話を伺った。思い当たるのは、寒くても風が比較的弱い日が多かったことである。それで体感的にはさほどの寒さを感じないでこれたということなのかも知れない。
土曜日の晩、例のごとく犬と散歩に出たら、ついこの間まで柄を下にして直立していた北斗七星の柄杓が少し左に傾き始めていた。北天の低いところに左に柄をのばし満々と水を湛えた柄杓を見ていたのはついこの間のような気がするのに、あれからもう90度以上回転したことになる。いつの間にやら季節はどんどん進んで行っている。南天に目をやると、オリオンがもう傾きかけている。北斗七星の位置はなかなか季節感と結びつかないけれど、オリオンの位置を見たら納得した。寒さももうあと少しの辛抱である。三寒四温の季節というわけだが、予報を見るともっとめまぐるしく、しかもアップダウンが極端のようである。北アメリカ東部で暴風雪が報じられている。不思議と日本の寒さと北米・ヨーロッパの寒さは連動するようで(偏西風が蛇行して三箇所に寒波が吹き降りるのだそうだ)、日本もまだ寒の戻りの傾向が続きそうだ。

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今日(日曜日)、5年ぶりの免許の更新に行ってきた。奈良は県庁が最北端にあるからか、運転免許センターが盆地南部の橿原市にあって結構遠い上に、最寄り駅が各駅停車しか停まらないので、奈良市内からだと結構時間がかかる。5年間無事に無事故無違反で過ごせたので、最寄りの警察署でも更新できるのだが、講習と交付は後日で二度手間になるし、日にちの指定がある。そうそう勤めを休むわけにもいかないので、日曜日の更新に出かけてきたというわけである。
奈良に住んでいてもなかなか盆地の南に出かけることがない。しかも出かけるときはたいてい車なので、景色を愉しむ余裕はない。今日は別に期待して電車で出かけたわけではなかったのだけれど、たまたま進行方向右手の席に座ったら、空いた電車の窓から大和盆地の東を限る山々の刻々と変わる雄姿を眺めながらの移動を愉しむことができた。大和盆地を囲む山々の景色は盆地のどこにいるかで大きく変わる。盆地西側の大和川の出口を扼する二上山は雄岳・雌岳は二峰からなることで著名だが、けっしてどこからでも二つに見えるわけではない。盆地北端からもしかり。二上山が二つに見えるところこそが、真の大和の国中(くんなか)なのだという。二上山が一つになってしまう所などは大和盆地の外れに過ぎないというわけである。
盆地北端にいると、若草山が圧倒的な迫力を持って迫り、その南側を高円山が抑える。昨年の夏、女人大峰ともいわれる稲村ヶ岳に登ったとき、金剛・葛城から二上山、生駒山に至る山並みを遠望することができた。霞んでさえいなければ、盆地北部を見晴るかすこともできたのではないか。それで、昨秋逆に平城宮跡から盆地南部の山々を遠望してみたことがある。盆地の左手には大きな三角形の山が見える。その奥にギザギザに見えるのが吉野から大峰に続く山並みではなかろうか。そこから右手に連なる山並みの中に稲村ヶ岳も見えているに違いないけれど、残念ながら山名の同定には至っていない。
平城宮跡から盆地南部の山々を望む.jpg
〔平城宮跡から大和盆地南部の山々を望む〈2012年9月撮影〉〕

さて、電車が盆地を南に下るにつれ、若草山は次第にその存在感を失っていく。ちょうど山焼きの直後なので特徴的な黒色を呈しているため若草山が見分けやすい。筒井あたりまでくると、若草山はもうどうということはない山並みの端っこに過ぎなくなってしまう。山の名を識別できないのが残念だが、盆地の東には若草山の比ではない山々が、それこそ「たたなづく青垣」のように連なっている。
そうした変化を辿る中、盆地東端の山々が少しくぼんで、その向こうに特徴的な山容の山々が見え始めた。あれはどこの山並みだろうと思っているうちに、それほどもしないうちに再び高まってきた山並みに飲み込まれてしまった。筒井の高架付近のほんのいっときのことではなかっただろうか。それを隠し東の空に高く聳え始めたのは、山の辺の道の名峰龍王山である。この山は以前、長岳寺のところから登ったことがある。500mの弱の標高差があり、けっこうな山登りを愉しめた。そんなことを思い出しながら眺めていると、今度は龍王山の向こうにやや茫洋とした円い山容が見えてきた。さてどこだろうと思っていると、みるみる全貌が現れ始め、記憶にある優しい姿にまとまってきたではないか。三輪山の秀麗な姿であった。耳成山も見え隠れしはじめ、盆地の南にやってきたことを実感する。
山を眺めるのは愉しい。電車から見る山の愉しさを教えてくれたのは、もう30年近くも前に刊行された、山村正光さんという中央線の車掌として永らく勤務されていた方が書いた『車窓の山旅―中央線から見える山―』(実業之日本社)という本だった。これに比べたら奈良盆地を囲む山々は標高差も小さくまことに穏やかな山容である。でもこの包み込むような優しさはいったいなんなのだろう。大和は国のまほろば、とは真実よくいったものである。
それにしても、これほどに「たたなづく青垣」の山々の景色が変化するものとは知らなかった。まことに迂闊な話である。山の名まえがわかったからといってどうというわけではないのだけれど、それでも名まえがわかれば愉しさは何倍にも膨らむ。山頂からのパノラマに山の名を与えていくのはよくやることだが、それでさえ結構難しい。ましてや観察点が刻々移動していく電車からの景色の山名同定はさらに高度な作業となるだろう。しかし、遙か昔、湖であったというこの盆地の東を優しく縁取る山々が、こんなにも変化に富む山容であったことを知ったことだけでも、今日の収穫は大きい。電車でとことこと出かけてきた甲斐があったというものである。

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大和盆地をめぐる山々が昨年来ずいぶんと身近な存在になってきた。今回の経験はこれをさらに深めるきっかけになりそうである。
蛇足ながら、「たたなづく青垣」は奈良山の分水嶺で一旦途切れるけれども、山並みとして大局的に見ればさらに北に続く。奈良から京都に向かう右手(東側)にもずっと山並みを望むことができるわけである。その意味で、大和盆地と山背盆地を南北に縦断する近鉄京都線は、少し大袈裟かも知れないが見る人にとっては近畿でも稀な長大な望岳鉄道ということができるだろう。
比叡山はそのどんつきということになるが、その途中南から見ると円錐台のような特徴的な山容を示す山がある(京都線から見えるかどうかは未確認)。役行者の草創と伝える修験の道場金胎寺を擁する鷲峰山(しゅうぶせん)である。平城宮跡からそのストンと切れ落ちる円錐台の片方を望めるので、30年来ずっと気になっている。一度見たら忘れられない、登ってみたい山の一つである。
二上山が二つに見える位置のこと
ラベル:奈良 季節
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2013年02月09日

音の本棚を開く

音楽はもっぱらケータイのLISMOで聴いている。ケータイをもつようになったのは、父が亡くなった年のことで、最後の入院の前に一度重篤になって恢復した際、こういうときのためにと仕方なく重い腰を上げたのだった。海外出張中に母から父の最期の知らせを受けたのもこのケータイだった。ケータイをもったのは両親の方がよほど早かったのである。
今では使用頻度はCメールが圧倒的に高く、Eメールでも重宝しているが、一番世話になっているのはなんといってもLISMOだ。ウォークマンがわりに使えるというのはケータイをもった思わぬ効用で、父の病気がぼくに再びクラシックを身近なものにしてくれたわけだ。

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機種の古いぼくのケータイでも、マイクロSDカードを使うとCDで何十枚分かを入れられるけれど、それでもいっぱいなってしまって久しい。聴きたい曲があれば、折角入れた曲だがどれかを消去して入れ直すしかない。それを繰り返すうちに、消されずに残される曲が徐々に固まってきた(Ipodを使っているうちの娘など、いっぱいなったから新しいIpodを買えなどと平気でいう。勿体ないとかは抜きにしても、そういう取捨選択に悩むことは、どうでもいいことかも知れないけれどある意味大切なことだと思う)。
中でもゼルキン=アバドのモーツァルトのピアノコンチェルト集は不動の地位を占めている。ゆったりとしたテンポが曲のコンチェルトの魅力を一層引き出しているが、その中で16番、19番の愉悦が忘れられない。かつてはバレンボイムがイギリス室内管弦楽団を弾き振りした旧版全集も常連だった。5番、22番、26番、27番などは今でも時折復活するけれども、今は一応ペライアの全集に席を譲っている。ペライアのモーツァルトはその昔レコードで聴いた時、確かにきれいな演奏だがさほどの魅力を感じなかったものだから、永らく取り付かずにいたのだけれど、ボックス・セットが出たの機に求め、改めて聴き直している。一曲一曲それぞれによく考えられた個性的な演奏というのが正直な感想で、意外とはまっている。総じて番号の若い曲が溌剌とした演奏で(例えば5番や、ルプーとの7番など)、後年の曲になるほどゆったりとした深い趣を湛えるようになる(例えば19番や23番など)。アンダの弾き振りの全集の6番、11番、ハイドシェック=ヴァンデルノートの23番、25番、カザドシュ=セルの15番、26番、カーゾン=クーベリックのライヴの24番、カーゾン=バレンボイムのライヴの10番(2台のコンチェルト)、ゼルキン=シュナイダーのライヴの21番、ハスキルの13番、リヒテルの22番、27番、ランドフスカの26番なども、今は入っていないけれども忘れられない演奏である。あと愛惜措く能わざるものに、グルダがある。特に晩年の弾き振りのライヴはすばらしく、椅子のきしみまでリアルに聞こえる20番は心に迫る。
モーツァルトと並んで分量が増えてきたものにバッハがある。リヒテルの平均律第1集と第2集、ケンプのゴルドベルク変奏曲(これは本当に癒しの音楽である)や、フランス組曲第5番をはじめとする名曲集、それにカール・リヒターのマタイ、ヨハネ、ミサ曲ロ短調など長尺物がいつしか不動の地位を占めるようになった。物理的にも精神的にもそうそう頻繁に聴ける曲ではないけれど、到底消してしまえる曲ではないし、聴きたくなる曲なのである。最近ではシェリングのヴァイオリン・ソナタとパルティータを入れた。ケーゲルの東京ライヴのアリアの凄演は初めに入れたままではなかろうか。
最近増えてきたものにもう一つ、シューベルトのソナタがある。以前はハスキルの21番をよく聴いたが、今ではケンプの全集から少しずつ選んで聴き始めている。ハスキルの次に聴いたのはリヒテルだったが、ものすごい集中力に面喰らってしまい、今では少し敬遠気味だ。特に18番のト長調ソナタの第1楽章は想像を絶する演奏である。この楽章はまさに祈りの音楽なのだが、踏みしめるように噛みしめるように弾かれていく一音一音が意味をもってぐんぐん迫ってくる。1楽章だけ聴き終わって、2楽章以降はもういいという気持ちにさえなる。ところがケンプで聴くとこれがまた軽やかに歌う。とても同じ曲とは思えない。しかし、経過句などで聴かれるたたみかけるような激しさはリヒテルにはないもので、あっと驚かされる。
シューベルトといえば歌にあふれた曲を書いた人だが、そうした歌の合間にぽっかりと人生の深淵がのぞかれるから怖ろしい。なんといっても未完成の2楽章を書いた人である。いきなり深みに突き落とされる恐怖感は喩えようもない。むしろこの恐怖感の方がその本質ではないかとさえ思える。例えば、グルダ晩年の作品90の即興曲集(TOCE-13091)。怖ろしい演奏である。パックリと口の開いたクレバスの底を見続けるような音楽である。もっとロマンティックに、例えばリリー・クラウスのように弾くことも可能なはずである。でもグルダの演奏を聴いてしまうと、それはみんな絵空事に見えてくる。グルダ自身が即興曲集のライナーノートに書いている。「シューベルトの作品の根底には、脱落と別離、病と死に対する極めてウイーン的な思い、そしてウイーン人にしか本質を理解できない、微笑みながら自殺するといった感覚が流れている。」どこまでも楽観的に振る舞っていたグルダの言葉だけになお怖ろしい。しかし、そうしたグルダの生き方自体がまさにグルダの言うウイーン的な感覚に裏打ちされていたのは確かのようである(グルダついでにいえば、グルダのモンペリエリサイタルの2枚組CD(Accord classic 4761894 )は秀逸。グルダの全てのが味わえる。中でも自作の「アリア」には泣かされる。わざと弾きとちるなどサービス満点なのだが、それもまさにこのウィーン気質の故なのだ。1枚目のベートーヴェンのソナタの合間に飛行機のプロペラ音が入るが、これも演出かと疑わせるほどのすてきなコンサートの記録だ。同じグルダの「グルダ・ノン・ストップ」というコンサートの記録もあり(SONY SICC335)これも素晴らしいが、ぼくはモンペリエの方が会場の臨場感があってより愉しめると思う。拍手を切ってしまってはダメなのだ)。シューベルトといえば、魔王を中学生時代に聞かされたけれども、あんな怖ろしい曲を子ども達に聴かせていいものなのだろうか。
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〔フリードリッヒ・グルダのシューベルト4つの即興曲・楽興の時のジャケット。余白に収められたグルダの「ゴロヴィンの森の物語」はヨハン・シュトラウスへのオマージュで、これがまた泣かせてくれる〕

少し話題が横道にそれてしまった。話をLISMOの中味に戻すと、ショスタコーヴィチの平均律も残してあるが、音の振幅が大きくて、乗物の中で聴くのは少ししんどい。これは夜中にひっそりと聞くのに相応しい。ふと聞きたくなることがあるシュターダーの歌声はそっとそのままにしてある。人間の声とは不思議なもので、同じ音ではあるのに、楽器とはまた違った癒しを受けるものである。気が付くと声を求めていることがある。バッハの受難曲やミサに引かれるのも、不遜なことではあるがそこに一因があるように感じる。人の声に浸ることで心が満たされるのである。その意味で、シューベルトの歌曲の森には恐くてまだ分け入ったことがないが、偶々知ったバーバラ・ボニーの歌声に引かれて入ったリヒャルト・シュトラウスの世界はひそかな宝物になっている。グルヴェローヴァ=ハイダー、それにフィッシャー・ディースカウ=ムーアのかけがえのない演奏がある。そして、ヤノヴィッツの4つの最後の歌は、カラヤンの好き嫌いを超えて認めざるを得ない至宝だと思う。歌ということでは当然オペラの世界にも魅かれるのだが、ミサと違って筋を聴こうとしてしまう結果、なかなか本気では取り付けない。モーツァルトはそれなりに聴き、コジ・ファン・トゥッテの四人の織りなすアンサンブルは大好きだが、リヒャルト・シュトラウスのオペラにはなかなか本気で取り組めないでいる。まあこれも縁があればいつか聴く機会もあるだろうと、のんびり構えて待つことにしよう。そうそう、キマグレンも1曲だけだが残してある。若い頃熱中したさだまさしも、いつかもう一度と思っているが、いまだ果たせていない。ぼくにとっての永遠の名盤「夢供養」をいつかCDで入手して聴きたいと思っている。
さて、変わったところでは、三浦綾子さんが『ちいろば先生物語』で描いた榎本保郎牧師の説教集のCDがある。1977年に52歳の若さでロサンゼルスで客死するという凄絶な生き方をした榎本牧師の肉声の説教を聴けるCDである。榎本牧師が世光教会と今治教会を離れる際の訣別の説教という貴重な記録でもある。
もう一つ珍しいところでは、山の詩人尾崎喜八が自作を朗読し、リコーダーを吹き、歌うのを収めた放送録音を入れたCDがある(『尾崎喜八―音楽への愛と感謝―』)。学生時代に偶然大学生協で見付けて即座に買い込んだ逸品である。普通のCDがまだ3,500円もしていたCD曙光期の遺産だが、よくぞまあこんなCDを出してくれたものである。
とまあ、この手の話は尽きるところがない……。

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以前車で通勤していた頃は、通勤時間の車内がもっぱら音楽を聴く時間だった。ケータイが中心の今と比べてみると、聴く曲がかなり変わってきたことに気付く。車ではオーケストラ曲、ことにシンフォニーが多かった。ハイドンやモーツァルトはもちろんよく聴いていたが、ブラームス、マーラー、ブルックナーに至る比較的大音量の曲を好んで聴いていた。音量の小さい曲、繊細なメロディーの曲は車の中では聞きにくかったという事情もあるのだろう。もちろんケータイでも電車やバスで聴くぶんには状況は同じだが、イヤホンで聴けるのが、器楽曲へシフトしてきた(というよりはむしろシフトできた)要因なのだろう。
同じ曲を繰り返し聴く傾向は以前と変わりないが、入れ替えの手間もあって、この傾向はさらに拍車がかかってきているようである。考えてみれば、平均寿命まで生きられたとしても、残された30年にも満たない程度の間に聴ける曲の数や回数など高が知れている。それならばお気に入りの曲を繰り返し聴きたいと思う反面、いまだにめぐりあっていない曲があるのではないかという思いもある。しかし、こればかりは人知の及ぶところではないのだろう。リヒャルト・シュトラウスの歌曲との出会いにしても、バッハへの回帰にしても、けっしてそうしようとしてこうなったわけではない。必要なものは与えられる。今後どんな曲とめぐりあえるか、楽しみにしているところである。
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2013年02月01日

京の冬の旅を思う

「京の冬の旅」が今年で47回めを迎えるという。普段は非公開の寺社や施設を期間限定で公開し、冬場のオフシーズンに観光客を呼び込もうというイヴェントである。昔は都合のついた寺社がアトランダムに選ばれていた感が強かったが、最近では特定の地域に偏らない配慮やテーマを設けた選択など、いろいろに趣向も凝らされるようになった。
今年は大河ドラマの「八重の桜」に因んだ新島八重ゆかりの寺や、門跡寺院・尼門跡寺院の旧御所を中心とした14箇所の施設が公開されている。学生時代に京都をよく訪れていた頃は、冬の旅の特別拝観料が結構割高に感じられ、また公開施設がせいぜい8箇所程度とあまり多くなかったこともあって、別段冬の旅を宛にして京都を訪れるわけでもなかった。しかし、今でも拝観料は昔とほとんど変わらぬ600円で(もしかしたら以前より安くなっているかも知れない)、むしろお得感に溢れている。また、拝観者への配慮の充実にも目を瞠らされる。ことにボランティアの方たち(結構年配の方が多い)のパネルまで動員しての解説はまことに至れり尽くせりで、受付のアルバイトの学生さんが寒そうに火鉢に当たっていただけの頃とは今昔の感がある。一人でゆっくりと京の冬を満喫させて欲しいと思わないでもないけれど、説明に耳を傾けた後でこちらの気持ちの赴くままに端座しておれば、2度目、3度目の説明にも時折耳を傾けつつ、とびきり上等の時間を過ごすことができる。
思えばずいぶん京都には通った。当時は東京・京都間が新幹線ひかりで2時間50分ほど。朝6時の始発の新幹線で東京を発てば、9時前には京都に着ける。夕方の拝観時間ぎりぎりまで過ごして京都駅に戻り、19時頃の新幹線に乗って日帰りという旅行を、高校時代に何度かやった。大学に入ってからは、数泊の小旅行を企て、思う存分羽を伸ばしたものだった。別段これといった冒険をしたわけではないけれども、京都で過ごす一人の時間は何物にも代え難かった。当時はまだ地下鉄がなく、もっぱら移動はバスで、その頃刊行されたばかりのバスの乗物案内(今でもあるだろうか。どこからでも目的地へ向かう最寄りのバスを検索できる便利な本で、これがたいへん重宝だった)と首っ引きで、京の町を縦横無尽に歩き回ったものだった。一人で京都を愉しむのが勿体なくて、一人旅の初めに祖父母を連れて二泊したこともある。祖父がまだ充分な視力のある頃で、これは思い立ってよかったと今でも思う。
宿泊は岡崎にある気軽な観光客向けのホテルを利用することが多く、ツインの部屋を一人で使うのだから結構贅沢ではあった。2月に一度だけここが満室で、河原町近辺の民宿に泊まったことがある。なかなか年季の入った文字通りの町屋の建物で、夕食なしの約束だった。泊まったのはしんしんと冷え込む晩。隙間風に震えていたら、宿のおばちゃんが傾いた階段を上がってきて、何かと思ったら無愛想な顔で鮭の粕汁を置いていってくれた。魚が苦手で粕汁など食べたこともなかったぼくだったが、折角のもてなしだからと意を決して口にしたこのおばちゃんの粕汁には本当にうならされた。おいしかったのである。身体の芯から本当に温められたのだった。
夜半には雪になるかもという予報に期待して寝み、翌朝起きると一面の銀世界。さて、雪が一番映えるところはどこだろうか。川端康成の『古都』の印象の強い北山杉の里に行こうかとも考えたが、随分思案してその日ぼくが出した結論は、ありきたりのようにも思える鹿苑寺金閣だった。着く頃には雲も切れ始め、金閣が朝日に燦然と輝いていた。選択は間違ってはいなかったとは思うけれど、今ならもっと別の選択肢もあっただろう。京都で一番雪の似合うところはどこだろうか?

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さて、今年の14箇所からまず選んだのは妙心寺東海庵だった。旧御所にはあまり魅かれるものがなく、庭を見たさの選択である。禅寺の庭は、実際に降り立てるわけではないけれども、縁に佇んで過ごすひと時は贅沢の極みである。
昔ならバスを利用したものだが、妙心寺ならば多分15分と歩くこともなかろうと、京都駅で山陰線ホームに駆け込んだ。ちょうど普通が出たばかりだったが、各駅は20分に1本ある。折り返しの電車が意外に早く着き、本を読むうちにじきに発車。二条を出て、90度左に大きくカーヴして、昔はなかった円町を過ぎ、次第に高架の線路の北側に山が近づいてくると、まもなく花園駅。思った通りそこから妙心寺南門まではわずかだった。行き当たりばったりの旅がうまくいくのは愉快だ。
東海庵の方丈南庭は、三方を築地塀に囲まれた百坪ほどの庭である。あるのは片隅の棗型手水鉢一つのみ。あとは箒目で調えられた白砂が広がるだけである。まさに禅寺の庭の極地といってよい。無の境地ともいえようが、逆に取り付く島もないといえばまさにその通りである。ここからいったい何を思い描けばよいのか……。
かげっていた太陽が一瞬顔を出す。と、コントラストのついた白砂に四つほどの凸凹があるのがふと目に止まった。ネコの足跡だろうか。確かに大きさこそちょうどそんなものだけれど、待てよ、どうやってあんな庭の真ん中にだけ足跡を残せるのだろう……
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〔東海庵方丈南庭と箒目の乱れ〕
全体からみればどうということのない面積ではある。けれど、この箒目の乱れに気付いた途端、ちょうど穴の開いた風船のように、緊張感がここから抜け出てしまった。しかし、そのおかげで逆になんともいえない親しみ深さが醸し出されて、庭が身近に感じられてきたから不思議だ。
石を据えると石は視線を集めるから、敢えて何も置かない庭を造ったのだという説明があったけれど、自ら定めるにせよ、偶然のしからしむるところにせよ、一定の視点で見るなら、その視点に応じた無限の可能性をこの庭は秘めているのである。
これに対しわずか七坪しかない書院南庭は、波紋のような円形の箒目に調えられた白砂の中に、七つの石が浮かぶ。真ん中の石を軸に回転しているような錯覚にとらわれる動きのある庭である。石もネコの足跡と同様に箒目を乱す存在であることにはかわりがない。しかし、けっして視線は石だけには向かない。石は箒目と渾然一体となって一つの宇宙を形作る。それしかないという世界である。ここでは他の視点は成り立ち得ないのである。これに対し方丈南庭は、即興的というかフリーハンドというか、偶然性に富んだキャンバスを提供してくれていた。空間の大きさや開放性の有無にもよるのだろうが、書院南庭の小宇宙を見ながらそんなことを考えていた。
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〔東海庵書院南庭―北西から〕

東海庵にはもう一つ庭がある。書院西側の「東海一連の庭」と呼ばれる枯山水庭園である。こちらもかなり象徴性をもった思索的な庭ではあるけれども、木々の緑があるせいか、白砂と石だけの二つの庭を見た目には心に優しく響く。この庭は南半分は渡り廊下に面しているので、書院の西側に座ると庭の北よりの位置から全体を眺めることになる。これも意図された視点なのだろうか。面白かったのが、南庭の東端から南庭と渡り廊下越しに遠望する西庭の景色。建物と二つの庭が溶け込んで、南庭の緊張感が和らいでくる。また、説明の方が個人的な感想だがと言って説明してくださった、書院の屋根瓦の作り出す幾何学模様それ自体の動きと、それらが南庭の同心円と作り出す対比も面白かった。見る人それぞれのいろんな視点があり得るものと感心した次第。
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〔渡り廊下越しに書院南庭から書院西庭を望む〕

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東海庵を出て花園駅に戻る途すがら、今度いつ来れるかわからない、あとで後悔するよりはと思って、看板に引かれて同じ妙心寺の退蔵院の庭を訪れた。ああ、それは30年前に見た庭だった。陰の庭、陽の庭と名付けられた白砂と黒砂の二つの庭。西日が斜めに差し込む拝観終了時刻間際に訪れた誰もいない庭、それが今目の前に広がっていた。30年の月日はいったいなんだったのだろう……。
その奥には余香苑と呼ばれる庭が広がっていた。自分の足で懐に飛び込んで行ける回遊式の庭はやはり親しみやすい。昭和の作庭で、しかも冬枯れの景色ではあったが、禅の厳しい庭を見てきたせいもあってか心にしみた。それなのにこちらは全く記憶が甦って来ないのはなぜなのだろう。
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〔退蔵院余香苑の冬景色〕
ラベル: 京都
posted by あきちゃん at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする