2013年05月26日

2つの天路歴程

今年の春は本当にお天気が続く。1週間に1度程度の気圧の谷の通過はあってそこそこ降ってはいるのだけれど、週中は好天が続き、しかもここのところは夏を思わせる陽気である。気温の高い記録が更新されたところもあるようだ。一方で北日本には季節外れの寒気が流れ込むこともあって、遅い積雪のニュースも報じられた。全般として寒暖の変化の大きなメリハリのある春だったということになるだろう。
そんな陽気もここに来て変わりめのようである。来週は曇りや雨マークが並び、いよいよ梅雨の気配が濃い。今年はどんな夏になるのだろうか。普通に暑い夏であってほしいと心から思う。

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最近も相も変わらず通勤のバス電車の中は、音楽を聴き本を読む時間になっている。どうしようもなくて仕事を取り出すこと日もないではなかったが、なにせ短時間でもあるので(特に電車の方はそう。バスは渋滞すればモーツァルトの後期のコンチェルトでも1曲優に聴けるくらいの時間がかかるが、通勤にとってはけっしてありがたいことではない)詰めた仕事には不向きである。むしろ最近は仕事に充てるより、気が付いたら居眠りの時間に充てられてしまっていた、ということの方が多いかも知れない。
家で机に向かっている時もそうだが、この眠気というやつは、突然に襲ってくる。それまでかなり理詰めの読書をしていたはずなのに、急に論理が辿れなくなってあっと思うともうダメである。その瞬間は突然やって来る。若い頃はこんなことはなかった。睡眠を切り詰めて仕事をするのは常套手段だったし、それができた。それが肉体的にも精神的にも難しくなってきているのを感じる。肉体の衰えが気持ちの衰えを呼び、それが肉体を支えきれなくなる、要は年なのである。でも問題やはり気持ちの張りが続かなくなってきたことで、これは辛い。それを年のせいにしているのは心の甘えであるといわれればそれまでなのだけれど、それがわかっていてもダメなのである。

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そんなわけであるから、読書の方は勿論、音楽の方もなかなか身を入れて聴くことができないのであるが、最近聴き始めて、これは、と思った曲がある。レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(RVW)の天路歴程である。指揮はエイドリアン・ボールト。CD2枚近い4幕に及ぶ音楽劇で、特に最初と最後が圧巻である。単に優雅なだけでない、真に力に溢れた天上の音楽である。天から降ってくるような、という形容を目にしたけれど、まさにそうであった。
イギリスはなかなか傑出した作曲家が出ず、一癖も二癖もあるタイプが多く、その中でもヴォーン・ウィリアムズはいろんな意味で図抜けていて、美しいメロディーが流れるかと思うと、変に依怙地なところがあり、また誇大妄想的になる部分もある、ともかく一筋縄ではいかない音楽を書いた人である。イギリス人らしいといえばイギリス人らしい音楽である。
ヴォーン・ウィリアムズの交響曲を1度だけだが生で聴いたことがある。海だったか南極だったかと思うのだが、何番だかさえ忘れてしまっているほど、ひたすら渋い曲だった。だからこの天路歴程もあまり最初は期待していなかった。
ではなぜそれを聴く気になったかといえば、ジョン・バニヤンの天路歴程を読んだことに尽きる。昨年初めに岩波文庫の復刊で見かけてずっと気になっていて、1年近く考えて復刊本も品切れになっては、と思ってやっと購入はしたものの、そのまままた本棚で眠っていたのである。それを最近折角だからと取り出してきたのであった。
1678年という今から330年以上も前にイギリスで出版された本である。巡礼の旅に出たクリスチャン(この本の登場人物は性格や属性をそのまま名にしている場合が多い。ホウプフルとかバイエティとかバイ・エンヅとか)という男が天国に至るまでの工程を私が夢に見るという設定で、登場人物の対話形式で綴られている。夢を見ている私が時折顔を出したり、筋書きに矛盾があったり、あるいはどうしてそうなるのか理屈がよくわからない部分も多々現れる。今の基準でいったら文学としてはあまりに粗削りの謗りは免れ得ない。しかし、そこに息づくのはバニヤンの真摯な信仰であり、生き方である。少しも説教くさくなく、木訥で純真な語り口に魅了され、クリスチャンその人とともに天国をめざして巡礼の旅に向かっている自分を発見するのである(クリスチャンと一緒に心を磨くことができればバニヤンの目的は果たされるのであろうが、そこまではなかなかであって一喜一憂しながらついてゆくのが関の山という、はなはだ信心深くない読者ではあるが)。旧仮名遣いの翻訳は、あるいは若い読者には抵抗があるかも知れない。しかしなにせ初版から60年を経ていることでもあり、致し方のないことだろう。版面も比較的きれいで活字も読み易い。訳文そのものもそれほど時代がかったものではなく、実際に読んでみてあまり大きな違和感は感じなかった。
ヴォーン・ウィリアムズはこの壮大な物語に曲を付けたのである。この期待に違わぬ音楽であったのは先ほど書いた通りである。交響曲の渋さでこの天路歴程を敬遠していたとすれば、これは本当に勿体ない話であった。そして、曲の素晴らしさはもちろんだけれど、さらにこのCDを不滅のものにしているのは、ボールトの指揮ぶりである。この曲でもっと劇的な効果を狙った演奏をしようと思えばけっしてそれは不可能ではないと思う。しかし、生粋のイギリス人紳士エイドリアン・ボールトは、けっして激さず、身体から滲み出てくるような滋味溢れるヒューマンな音楽を奏でる。数多いボールドの遺産の中でも最高峰に位置付ける人がいるのが肯ける、そんな演奏であった。
実は、このCDに対するその評価を読んだ時、ああこれはと食指を動かしかけたことがあった。数年前のことである。ところがこのボールトの演奏、ほどなく品切れになってしまい、買おうにも買えない状態が暫く続いた。それがここへ来て復刻され再び入手が可能になって安心してはいたのだが、それでも買う決断までには至っていなかった。そのあと押しをしてくれたのが、岩波文庫版天路歴程の読書経験だったというわけなのである。もっともそれさえ読み始めるには結構な時間がかかっている。そのきっかけはなんであっただろう。しいていえば、ここ1年読み続けてきたヒルティの『眠られぬ夜のために』であり、榎本保郎牧師の一連の著作であったのだろう。そのまた背景には三浦綾子さんとの出合いがある。不思議な歯車である。そのなかでまさに機が熟すのが待たれていたような感がある。

ボールト・RVWの天路歴程とバニヤンの天路歴程.jpg
〔ボールト、RVW天路歴程(EMI CLASSICS 7 64212 2)のジャケット(左)とバニヤン天路歴程(岩波文庫)のカヴァー(右)
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というわけで、ぼくのケータイには今このボールトの天路歴程が新しく入っており、それとバッハのインベンションとシンフォニア、これはアンドラーシュ・シフの演奏だが、平均律の世界をさらに凝縮したような音楽である。もっとも以前聴いたシフの平均律はあまり感心しなかったので、これは是非他の人の演奏を聴いてみたいと思っている。リヒテルにはこの曲の録音がなく、全く聴いたことがないのだが世評の高いグールドの演奏はどんななのだろう……。あと、相変わらずゼルキンペライアのモーツァルトのコンチェルトを行ったり来たり。バレンボイムとアンダの全集にも愛惜措く能わざるともいうべき演奏が多々あるのだが、残念ながら余白の関係で、一部を除いて今はケータイからは除かれている。
そう、ボールトの天路歴程でこれまた思わぬ収穫があった。リハーサル風景である。全部で25分ほどなのだが、各所にわたるリハーサルが断片的ずつながら収録されている。意外に甲高くビンビン響く声のボールトが、騒々しい楽員たちを相手にユーモアを交えつつ和気藹々の稽古を付けている。時折自分でも歌って表情を付けながら進めていくボールトの指揮ぶりは本当に若々しく、とても当時80歳になっていた人とは思えない。
大指揮者のリハーサル風景としては、比較的有名なものに、ブルーノ・ヴァルターのリンツ交響曲を初め、ブラームスの2番・3番、ベートーヴェンの4番・5番・7番・9番、マーラーの9番、ワーグナーのジークフリート牧歌などがあった。時折、Sing!歌って!、と表情を付けさせる(しかもiにはアクセントはないのである。書き写すなら、むしろ平板にシングーであろう)くらいで特別のことは全然していないヴァルターの指揮ぶりの中で、これまたヴァルターの若々しい肉声がことに印象的だった。
また、ヨーゼフ・クリップスがモーツァルトの交響曲(33番だったか)を振っているリハーサル風景を聴いたことがある。これまた甲高い(これはなんとなく風貌から予想が付いたのだが)声が印象的だった。逆に意外だったのはボールトと同じイギリス人指揮者のバルビローリである。低めのガラガラ声で、でもよくよく考えてみると、あのいわゆるバルビ節の粘っこさには相応しいのかなと思ったりしたものだった。
リハーサルでその人の音楽を云々するのは邪道ではあるのだろうが、やはり完成品が美しい人は、声の良し悪しは別にして、リハーサルも美しいというのを実感したものである。
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2013年05月24日

オレンジ色の101系―夢の記憶8

101系のオレンジ色の電車への思いはどう表現したらよいのだろう。特にそれが中央線快速電車として走る姿は、ぼくにとって何物にも代え難い、まさに初恋のような郷愁を誘うのだ。
それは必ずしも色への憧れなのではない。快速電車の運行時間帯を過ぎると、総武線の黄色い電車はお茶の水で折り返しになり(例えばその頃の夜の場合、総武線平井駅を22時5分に出る電車が最後の直通となる。ああこれも懐かしい話!)、東京駅からやってくるオレンジ色の電車が、お茶の水から緩行線を走る(実際に緩行線に入るポイントは、水道橋の手前、上り快速のトンネル入口の少しお茶の水よりの辺りだったとように記憶する)。その時のオレンジ色の電車の姿は正直言って、あまり憧れの対象とはならなかった。なんだか恥ずかしそうに走っているようにさえ思えた。大阪環状線にも、オレンジ色の電車は走っている。昔中央線を疾走していた細い眼の103系のなれの果てにお目に掛かったりすると、思わずご苦労さんと声をかけてやりたくなる。しかし、環状線を走る姿はけっして格好いいとは思えない。やはり、中央線快速でなければダメなのである。

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お茶の水から新宿までの、あの快速の線路を疾走してこその憧れの対象なのだ。何にそんなに魅かれるのだろう。思うにここには単なる線路ではない異次元の空間に満ち溢れているのである。
一つ、市ヶ谷と四ツ谷の間で快速電車が緩行線の下を潜るトンネル。立体交差するだけではない。何と言ったらよいのか、緩行線を通りながら見ると、菱餅を半分に切ったような、というか、そう正三角形を2分した、1:2:√3の方の三角定規のような形をしたコンクリートの構造物が両側に2つずつある(線路側が2の辺。外側に直角が来る)。トンネルの出口の屋根部分である。緩行線を斜めに横切るための設備なのだろう。ここはしかもトンネルとして外側部分が塞がれているのではない。快速で通るとわかるけれど、外側はちょうど透かしのような構造で明かりが入るのである。交差させるだけなら、鉄橋にしてしまえばよいのであって、別にこんな手の込んだことをする必要はないのだが、それを態々こんな風にしているとしか思えない、遊びの部分を感じるのである。上を走るのが複線だからなのだろうか。例えば、単線が複線を越える代々木・新宿間の緩行下りと山手線の交差、これは単純な鉄橋になっていて、面白くもなんともない。新宿を出た山手線が快速上下と緩行上りの3本を跨ぐところも同じである。
二つ、水道橋からお茶の水への快速上り線のトンネルである。そのお茶の水側の出口がやはり同じような三角定規構造になっている。ここもやはり斜めに神田川沿いに飛び出す部分である。
三つ、四ツ谷・信濃町間のトンネル。ここは緩行下りだけが独立していて、レンガ造りだったことからみても、多分これだけが古いのだと思うが、あとの3本はまとめて作られている。ここはこの辺の緩行線では唯一胸のわくわくする場所だった。
こうしてみると、どうもトンネルというのが憧れの対象になっているのは間違いないらしい。以前書いたことのある奥羽線の福島・米沢間も、スイッチバックというとっておきのアイテムを別にすれば、ここを彩っているのは延々と続くトンネルだった。20はあったはずなのだが、線路改良やらなにやらで、最後の頃には10いくつかに減ってしまっていた。トンネルの数を数えながら、というのが旅の醍醐味なのだったのに。
でも、トンネルでない場所で中央線の忘れられない場所がある。飯田橋・市ヶ谷間の牛込見付・新見附・市ヶ谷見附にかけての土手際というか、濠端の線路である。祖父に手を引かれて通い詰めた場所である。どれだけ行き先表示の看板に心躍らせ、武蔵小金井の文字を待ち望んだことか。50年も前のことなのだ。もう一台来るまで見ていこうよと、なかなか来ない下り電車を待つ。東京行きばかりなぜか何本も通り過ぎる。やっと下りが来たかと思うと、ありふれた高尾行き、次は武蔵小金井かも、だからもう1台、ね。また高尾だ、今度は豊田、たまに立川行きも混じる。それでもそれが愉しいのだった。至福の時だったのである。

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…………そんな濠端の複々線の線路とは似ても似つかぬ単線の線路。車さえ滅多に通らない踏み切りだが、列車はもっと通らない。陽炎だけが立ち上るうだるような音のない夏の午後。額縁にはめ込まれたような、空港に向かう道の踏み切り。真っ直ぐに伸びた2本の線路と軌道の砂利、そして忘れられたように線路脇に映えている雑草(線路はやはり狭軌でなければばらない。標準軌道は全く旅愁を誘わない。だから、近鉄の線路は面白くない!)。数日前鈍行列車でここを通って母の実家にやってきたはずなのに、本当にここを列車が通るとはとても思えない、時間が止まったような真夏の午後。時折、彼方の鉄路が陽炎で揺らいで見える。揺らいでいるのはむしろ自分? 目の前の線路の砂利までもが揺らぎ始める。そして砂利が足元の視界を流れ始める……。暑い! 鈍行列車はこの踏み切りの真上をも通り抜けて行ったんだという感慨が過ぎる。流れていく砂利の視界がだんだん狭まって来る。丸い穴の向こうを流れていく砂利。穴の底から列車の規則正しい音が響き渡ってきたのが耳について離れなくなる。垂れ流しの鈍行列車のお手洗いだ。自分はいったい今どこにいるのだろう。いつの間にやらホームの端に立っている。そしてその自分を見つめている自分がいる。目白駅のホームの端のようだ。向こうに引き込み線が見える。線路に降りてそれを横切り、草むらに分け入ってゆくぼく。3歳くらいのぼくが、そこにいる。ホームにはいっぱいの人がいて電車を待っている。ぼくは我慢しきれなくなって草むらで用を足そうとしているらしい。そして、あ!、と、パジャマの生暖かさで目を覚ますのである。これは子どもの頃よく見た定番の夢だった。小2頃だろうか、最後のおねしょもまさにこれだった。いや、その時のこれは夢なのかも知れない。
四ツ谷駅の快速のホームの東京方面行きの番線。トンネルを抜けてくる電車は、かなりの左カーヴを描いて視界の右奥からこのホームに滑り込んでくるから、このくらい傾いていてもいいんだろう、でもそれにしてはなぜか目の前に架線が見える。これではあんまり傾きすぎではないか。ああそうか、ここはもう閉鎖されているんだっけ。反対側だけになったんだった。納得してぼくは、あろうことかホームの端に立って、その架線めがけて用を足し始めたのである。…………

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さすがにもう失禁に至ることはないけれども、この年になるまでこうした線路のある光景で用を足す夢をよく見る。そういえばこのホームから、快速で東京駅に向かったことがつい最近あったのである。近くに住んでいた頃はあり得なかった経路である。濠端を挟んで憧れのトンネルを二つとも通れる夢のコース。その時見た光景とダブってくる。
夢のあとだったか先だったか定かではないけれど、本屋で思わず買ってしまった本がある。『中央線オレンジ色の電車今昔50年―甲武鉄道の開業から120年のあゆみ』(JTBパブリッシング、キャンブックス)。それはもはや夢でしかなかったぼくの50年がびっしり詰まったような本だった。もっとも、駅に着目した記事で構成されているので、残念ながらさっき書いたような駅間の見所の写真はほとんどない。二つのトンネルも写っていない。

中央線オレンジ色の電車今昔50年.jpg
〔中央線オレンジ色の電車今昔50年―甲武鉄道の開業から120年のあゆみ』(JTBパブリッシング、キャンブックス)のカヴァー〕
しかし、である、何十年来の疑問を解消してくれた写真がいくつも載っていた。例えば、四角いベンチレーターのオレンジ色の101系。丸い大きなベンチレーターが特徴の101系の中に、ごく稀にベンチレーターの四角いオレンジ色の101系を祖父と見た記憶があったのである。201系が最初に四角いベンチレーターで登場した時、ぼくは時間が逆戻りしたような驚きを覚えたものだが、101系にもそれが本当にあったことがやっと確認できた。あるいはまた、両端だけ黄色で中の8両がオレンジ色の混合編制の緩行線電車。この写真を見た時は、そんなのウソだろう、と思ったのだったが、じわりじわりとそれが記憶の彼方から現実となって押し寄せてきたのである。疑問に思ったことすら忘れていたわけだが、ちょうど大学時代だっただろう。実際にそれを見て、まさかと目を疑った日のことがまざまざと記憶に甦ってきたのである。
もうこうなると際限がない。その結果が、恥ずかしげもなく書いてしまったこの記事である。記憶の糸を手繰るというか、記憶の丼鉢をひっくり返してくれたような本であった。
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2013年05月12日

雨を楽しむ―奈良と東京の雨

昨日(10日)の昼過ぎに降り出した雨が上がったのは今日(11日)の夕方近くになってから、結局丸一日降り続いたことになる。パラパラ程度になる止み間もあるにはあったが、奈良には珍しく長時間の降水であった。

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東京と奈良の雨の降り方の違いを初めて実感したのは、今からもう30年近くも前のことである。奈良でひと月半生活したことがあって、その初めの日朝9時過ぎであっただろうか、猛烈な雨が降って、これは今日1日どうなることやらと気をもんでいたら、パタっと止んでもう日が射し始めている。夏の夕立ならいざ知らず、朝の雨である。東京での似たような経験はそれまでにたった1度だけしかなかった。70年代半ばの高校時代のことであるが、その時は、梅雨のシトシト降っていた雨が強まって集中豪雨の様相を呈し、時間雨量35㎜というぼくがそれまで経験したことのなかった降り方になったあと弱まって、1日じゅうグズグズしていた。これに比べると奈良の雨は、本当にあっけらかんとしていて、ザッと降ってパッと晴れる。その後奈良に住むようになって、益々この風土の違いを実感するようになった。
東京の年間降水量は1500ミリほど、奈良は1200ミリほどであろうから、量自体が8割程度である。しかし、数字以上に雨が少ないという印象がある。それは今言った降り方に原因がある。降り方が陽性なのである。短時間に集中的に降って上がってしまうケースが多く、長時間降り続くということが少ない。
近畿地方全般に雨というような天気分布の場合でも、なぜか奈良盆地を雨雲が素通りしていくことがままある。西から進んできた雨雲が、生駒山にぶつかってそれを越えられずに分裂し、 淀川を遡る部分と大和川を遡る部分に分れてしまい、奈良盆地は雨雲の隙間になってしまうのである。北から流れてくる雨雲は(冬の北西風に乗ってくる場合など)は京都盆地南部までですっかり湿気を落としてしまって奈良まで届かず、逆に南から流れてくる雨雲は奈良盆地南部までで水分を落とし切ってしまって盆地北端には届かずじまいとなる。最近は雨雲の動きをリアルタイムに近い状態で追えるようになってきたのでそれがよくわかる。
雨雲がかかる場合でもシトシトと根気強く降るということがない。今日のような長時間の降雨は本当に珍しい。もっとも今日のような雨でさえ、東京の雨とは随分と印象が違う。今シトシトと書いたばかりだけれども、実はそのシトシト感に乏しいのである。ジメジメした感じ、雨粒の密度というか、雨粒の細かさというか、それがやはり根本的に違うのである。
東京だと明け方降り出し雨が一日中ずっと降り続くなどというのは日常茶飯事である。ところが奈良ではそういうことはそう滅多にあることではない。特に東京でよくある北東風が入って関東地方だけが雨になるようなケース、今ではどうかわからないがかつては予報官泣かせだった(晴れの予報が雨になることさえあった)あのような雨の降り方は奈良には全くない。やはり奈良は盆地なのだなということを痛感するし、東京が海の影響を受けやすい気候なのだということを改めて思うのである。
これは場所による天気の癖でもあって、東京を含む関東で雨が降りにくくなる型もある。低気圧が日本海に入った場合である。近畿だと低気圧の通過位置が余程北でない限り、低気圧の南側でも雨雲が通ることが多いのに、関東は低気圧の南側に入って南風の領域になると、雨どころか雲も切れてしまうことがある。何がこの違いを生むかというと、その原因は要するに盆地か海に面しているかということに尽きるわけで、大きく見れば北側に山をもつことは共通であるから、近畿にあって関東にないものはといえば、豊かな雨に潤う紀伊半島の存在が大きいのであろう。
温暖化の影響もあってか、どの地域でも極端に集中豪雨が起きやすくなって来ているという。東京でも、時間雨量100ミリなどという昔ならば到底考えられなかったような降り方も珍しくない(900ヘクトパスカルを大きく下回るような猛烈な台風がこれまで以上に発生しやすくなってきているという話も同じ伝であろう)。
もっとも、これもどこまで本当なのだろうという気がしないでもない。というのは、近年のアメダスの観測網の整備で、これまでにない精度(観測密度)で雨の降り方が把握できるようになった結果に過ぎないのではないのか、つまりこれまでも同程度の雨は降っていたのだが、観測精度がそこまで追い付いていなかっただけではないか、そういう要素もあるのではないかということである。極端な気象現象が起きやすくなっているのは確かのようではあるけれども、必ずしも同じ精度で観察を続けているわけではないという点は若干の割引が必要なのかも知れない。それはある意味ぼく自身の観察にもいえるわけで、これはなにも天気の観察に限ったことではなく、年齢を重ねるに従って、視点自体が微妙に変化していることは常に意識しておく必要があるだろう。

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降り出しが随分早まった分、上がるのも早くて昨晩には弱まると予報ではいっていたのに、結局今日(11日)日中いっぱい雨模様が続くことになった。傘を出して出かけるのまた一興、雨は雨でまたよいものである。今年の春はこれまで雨が極端に少なかったから、まさに恵みの雨の一日であった。

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2013年05月06日

『報恩記』を読み解く

芥川龍之介『奉教人の死』(新潮文庫)を読んだ。芥川という作家は、『蜘蛛の糸』『杜子春』『トロッコ』など小学生の教科書によく登場する童話風の作品、『羅生門』『鼻』『芋粥』などの歴史物や『蜜柑』など中学生の教科書に載る作品などで、常に身近な存在であったし、何よりも芥川賞の存在がその名を忘れがたいものにしている。ぼく自身、中学の卒業文集の卒業に当たってのひとことの欄に、『侏儒の言葉』の「我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。」を無理して引用した、そんな記憶がある。しかし、それ以上ということになるとひと通り読んだという以上ではなく、けっしてそれほど親しんで来たわけではない。知られている割には教科書以上には読まれない作家ということが、一般的にもいえるのではないだろうか。
『奉教人の死』(新潮文庫)のカヴァー.JPG
〔『奉教人の死』(新潮文庫)のカヴァー〕

ことにこのキリシタン物を収めた『奉教人の死』は、内容もさることながら、独特の文体で書かれた作品が多いため、特にそういう側面が顕著な1冊であろう。ぼく自身敬遠してきたせいか、読み通した記憶がない。少し前に三浦綾子さんの『細川ガラシャ夫人』を読んだ時に、ガラシャ夫人つながりで『糸女覚え書』を収めた文庫本として求めていたものを、今回思い出したように読み始めたのである。その結果、40年近い敬遠はまことに不幸なことであったと痛感したけれども、時満ちて読んでこそという感がないでもなかった。
特に『奉教人の死』の1編は、非の打ち所なく完成された珠玉の1編で、そのストーリー展開には息を飲んだ。少なくとも教科書的に親しんで来た最初に掲げたような諸編の上に位置付けられるべき名作であると思うが、古典に親しむ前の中学生の読書では、その真価を読み取るのは難しかっただろう。
それと並んでここで特筆したいのは、『報恩記』という1編である。キリスト教に帰依した人物が登場し、伴天連や「まりや」様に対する独白の形式を取るのでキリシタン物に分類されている。それで『奉教人の死』の中に収められた結果、、ごく普通の文体で書かれていてたいへん読みやすいのにもかかわらず、この作品との出合いが遅れることになった。まことに不幸なことではあったが、逆に埋もれていた作品を見出した歓びは大きい。

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20年前の阿媽港(あまかわ。マカオのこと)で、当時船頭だった弥三右衛門は、唐人を殺して追っ手のかかった若者を救った。若者はその後阿媽港甚内と呼ばれる名代の盗人となり、弥三右衛門は京でも名の知られた北条屋の身代を築いた。
2年前、時化が続いて持ち船が沈み、抛げ銀が皆倒れる不運が重なって、北条屋は没落の危機に陥った。ある凩の真夜中、弥三右衛門は茶室で妻と語らい、明日こそは雇い人に暇を出すことを決意する。全てをイエス・キリストに委ねる祈りを捧げる弥三右衛門夫婦であったが、一抹の心残りがあった。店の金を使い込んだため勘当した倅弥三郎が居てくれたら……。いや使い込んだ金だけでもあったならば……。
2人の様子を伺っていた男がいた。ひと稼ぎしようと北条屋に忍び込んだ阿媽港甚内である。甚内は主人の顔を覗き見て驚いた。20年前危うい命を助けてくれた船頭の顔がそこにあったからである。昔の恩を返す時が来た、甚内は北条屋に素性を明かし、3日のうちに6000貫の用立てを約束する。
約束の3日めの夜は雪になった。甚内を心待ちにして聞き耳を立てていた弥三右衛門は、突然茶室の外庭で二人が組み合う音を聞いた。弥三右衛門が障子を開けて行燈を差し出すと、一人は相手を突き放して慌てて塀の方へ逃げ出して行った。残ったのは阿媽港甚内で、約束の金子を残りを持ってきたのだった。大半は既に茶室の床下に隠してあったのである。
逃げ出した男、それは博打の元手欲しさに実家に盗みに入った弥三右衛門の息子で勘当された弥三郎だった。舞い戻って父と甚内の会話を盗み聞きした弥三郎は、相手が阿媽港甚内だったことを知る。功名心に駆られた弥三郎は甚内の後を追い、一家の恩を返すという名目も手伝って、甚内の手下になって働きたいと申し出る。しかし、甚内は、貴様の恩など受けぬ!、親孝行でもしろ! と激しくこれを拒絶する。
それから2年というもの、弥三郎は阿媽港甚内に恩、というよりも憾みを返すことばかりを考えて苦しんだ。吐血の病に冒され日毎に痩せ細る弥三郎に、「まりや」様のお導きかと思う一策が閃く。顔の知られぬ阿媽港甚内になりすまして曝し首になるというのである。甚内の身代わりになって死に、盗人としての甚内を抹殺して憾みをはらすと同時に、甚内の罪を滅ぼして返すことのできない恩を売る。弥三郎にとってそれは願ってもない最期であった。愉快を感じた弥三郎を微笑みをたたえて曝し首になる。親不孝とはいえ、そこには北条屋の一家が受けた恩を父に代わって返せたという自負もあった。
阿媽港甚内によって危急を救われた北条屋弥三右衛門は、盗人に金を施してもらったという罪の意識に苛まれながら、人知れず甚内の仕合わせを「まりや」様に祈願する日々であった。ところが、阿媽港甚内が戻り橋に曝されているということを聞く。積悪の報いであり、むしろこれまで天罰を受けずに来たのが不思議と思ったものの、せめてもの恩返しに回向してやりたいと思った弥三右衛門は、戻り橋のほとりへと向かうが、阿媽港甚内と思って見た首に立ちすくんでしまう。それは若き日の自分の首……、息子弥三郎の曝し首であった。妙に締まりがなく微笑に近い物をたたえた唇に、弥三右衛門は息子の改悛を思い、一家の大恩を返した息子のけなげさに涙ぐむ。そして、宗門に帰依し「ぽうろ」という名さえいただいていた息子は、阿媽港甚内に大恩さえ蒙らなければ生きていたかも知れない……。弥三右衛門はともすれば大恩人甚内を憎みそうになる自分の心に気付き、救いを求めるのだった。
身代わりの弥三郎が曝し首になった後、甚内は日本では姿を晦ませることを決意する。阿媽港の空には輝いていても日本の空には見られない大十字架の星(南十字星)の光のように。そしてある晩教会に忍び込み、伴天連に、「ぽうろ」弥三郎の供養のための「みさ」を願い出る。そして、恩人「ぽうろ」のために、一切他言を慎むよう付け加えるのだった。

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ストーリーを時間軸に沿って並べ直すと、概ねこのようなことになる。しかし、芥川の取った語りの手法は、これを3人の当事者、阿媽港甚内、北条屋弥三右衛門、「ぽうろ」弥三郎の独白を連ねて構成するというものである。つまり、「阿媽港甚内の話」(①)、「北条屋弥三右衛門の話」(②)、「「ぽうろ」弥三郎の話」(③)の3部からなり、①と②は伴天連に対して、③は「まりや」様に対して語られる形式を取る。これらは実は語りの時点に微妙なずれがあり、①と②は弥三郎の曝し首のあと(①と②の前後関係の決め手はない)、③は当然その直前である。①②③と読み進むに従って、20年前の話と「みさ」の依頼、6000貫の用立てと息子の曝し首、甚内の拒絶と身代わりの決心、という具合に、話は過去と現在から弥三郎の身代わりの決心に向かって明らかにされていく。
3人の当事者の間には、それぞれに「恩←→報恩」の関係が結ばれいる。つまり、当事者はそれぞれ2組の「恩←→報恩」の関わるのである。そしてこの3組の関係が微妙に絡み合う。また、「恩←→報恩」は、相互関係ではなく、「恩」が発端となり、「報恩」はこれを受けて発生する行為となる。具体的に整理するならば、次のようである。
 阿媽港甚内―北条屋弥三右衛門
  恩 :北条屋弥三右衛門→命を救う→阿媽港甚内
  報恩:阿媽港甚内→6000貫用立て没落から救う→北条屋弥三右衛門
 阿媽港甚内―「ぽうろ」弥三郎
  恩 :「ぽうろ」弥三郎→身代わりに曝し首になる→阿媽港甚内
  報恩:阿媽港甚内→供養のための「みさ」→「ぽうろ」弥三郎
 北条屋弥三右衛門―「ぽうろ」弥三郎
  恩 :北条屋弥三郎→勘当→「ぽうろ」弥三郎
  報恩:「ぽうろ」弥三郎→阿媽港甚内一家の恩を返す→北条屋弥三郎
北条屋父子の関係はややわかりにくいかも知れないが、勘当は父から子への愛情の裏返しである。弥三郎が感じている親不孝をしているという意識も、親の恩に報いていないという気持ちから生まれるものであり、北条屋一家の恩を返したという意識は、この恩に対する報恩と理解してよいであろう。
さて、こう考えると、3人それぞれが関わる2つの「恩←→報恩」関係について、阿媽港甚内は2つとも恩の客体(受け手)で報恩の主体、北条屋弥三右衛門は2つとも恩の主体で報恩の客体、「ぽうろ」弥三郎は恩の客体・報恩の主体、恩の主体・報恩の客体が1つずつということになる。ここで大事なのは、「ぽうろ」弥三郎の場合、報恩と恩が、阿媽港甚内の身代わりになって曝し首になるという行動によって同時に行われていることであろう。しかも弥三郎の行為を、阿媽港甚内が文字通り恩として認識しているのに対し、弥三郎自身はむしろ憾みを返して恩を売っていると考えているのである。そこら辺の微妙なすれ違いが、この小説の醍醐味でもある。
さらに面白いのは、盗人として最も罪深い悪人のはずの阿媽港甚内が、受けた恩を最も純粋に受け入れ報恩に及んでいる事実であろう。逆に最も善人であるはずの北条屋弥三右衛門が、自分の施した恩に対する報恩によって苦しむのである。そこには悪人の報恩は受け入れるべきかという大きな命題も隠されている。「ぽうろ」弥三郎に対する「みさ」の執行を申し出た甚内の願いは、果たして聞き入れられたのだろうか。そこにはキリスト教に傾倒しながら、最終的にはそれを受け容れることができなかった芥川のキリスト教感が反映しているのであろうが、それを全面的に展開する余力はぼくにはない。『奉教人の死』の見事さに感動する反面、『糸女覚え書』に見られる秀林院(細川ガラシャ)の覚めた描き方などからは、芥川にとってのキリスト教はあくまで文学の手段に過ぎなかったのではないかとの感を強くするのであるが……。
それはともかくとして、『報恩記』の小説としての完成度の高さは超一級である。複数の証言で構成する手法には名作『藪の中』があるが、『藪の中』が証言が食い違いそれこそ真相が藪の中にあって、読者の想像をふくらませる面白さがある。これに対し『報恩記』は、証言が歯車のようにかみ合い、事実は動かしようがなく、そういう遊びの余地はないけれども、完成度の高さとともに、3組の「恩←→報恩」関係が絡み合い、確定した事実に対して個人の意識が微妙なズレを見せる人間関係の綾の総体としての『報恩記』の小説としての面白さは、『藪の中』に勝るとも劣らないものがあると思う。まだまだ分析の余地は大きいと思うけれど、作品との出合いを素直に喜びたいと思う。
タグ:記憶 読書
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2013年05月01日

世紀の大脱走―その顛末と感謝

「今日は少しばかり冒険をして来ました。生まれて9年このかた、こんなことはまだ2度目です。普段は家の中に住んでいてつながれているわけではありませんし、昼間お庭に出してもらってのんびり昼寝をしたり、夜道のお散歩に連れて行ってもらったりすることも多いので、そんなにストレスがたまっていたわけでもないと思います。なさぬ仲の娘のAGと同じ部屋にいてカリカリしていた頃のことを思えば(あの子は悪い子ではないのですが潔癖症で、わたしがのんびりしているとすぐなんやかんやとお節介なことを言ってくるのです)、ご主人の部屋での今の生活は夢のようです。でもやっぱり自分の行きたいところに自由に行ってみたいという願いがないといえば、それはウソになるでしょう。
連休初日の今日、ポカポカとお天気も良かったので、午前中からお庭に出してもらっていました。わたしの産んだ3人の娘のうち、PPとACの2人と一緒です。ACにとってもAGは天敵なので(ACはAGに耳元を囓られて、ご主人に病院に連れて行ってもらい何針か縫ってもらったことがあります。姉妹なのに不思議なものですね)、わたしやACがお庭に出ているときは、AGは出してもらえません。でも不思議なことに、PPだけは誰とでも仲良くしていられる、というか全然動じませんので(「気は優しくて力持ち」なのです)、AGがお庭の時は、いつもPPがお付き合いさせられているようです。もっとも、PPもけっして好きでそうしているわけではなくて、なんであたしだけいつもAGと一緒なの? と内心不服ではあるようです。
さて、ACもPPも2人とも庭を駆け回るのが大好きで、生垣の外を他所のお散歩犬が通ろうものなら、遊ぼ、遊ぼとそれはそれはたいへんなはしゃぎようで吠え回ります。子どもたちが遊びに出てきても大騒ぎです。特に自転車に乗った子どもは好きみたいです。生垣を隔ててのことですから、一緒に遊べるわけはないのですけれど、仲間に加わっているつもりなのですね。わたしは、というと、もう年のせいかも知れませんが、のんびりお日様に当たっているのが一番。カマキリとかチョウチョウとか、余程の獲物でも飛び込んでこない限りはゆっくりと時間を過ごしています。時折、芝生の草引きに出てくるご主人がボール投げをしてくれるので、娘たちはものすごい勢いでボールを追いかけては銜えてくる遊びに熱中していますが、わたしは昔からあんまりボールには興味がなくて、いつも知らん振りをしています。わたしの種類のご先祖は猟犬ですから、わたしにもその血は流れているはずなのに、わたしは獲物を見ないことにはなかなか血が騒がない質のようですね。でも、急にむずむずして走りたくなることもあって、そんな時はいつもはわたしと同じようにのんびりしているお隣のAZに声を掛けて、フェンス越しに一緒にかけっこをします。AZはわたしが誘うと、いつもウンと言ってくれる優しい女の子です。とっても愉しいです。でも、お隣はフェンス際に花壇があるのですが、大丈夫なのかしら……。
そうそう、今日のことでしたね。午前中はご主人が何度も草引きに出てきたり、近所の犬が散歩に通りかかったりで忙しい時間を過ごしましたが、午後からはご主人も部屋に閉じこもって出て来なくなり(お仕事でしょうか、それともまた居眠りでもしてたのでしょうか。ご主人は最近よく本を読みながらスースー言っています)、わたしたちも暇を持てあますようになりました。わたしはひなたぼっこを決め込んでいたのですが、子どもたちは何か面白いものはないかと探し回っていました。好奇心の塊みたいなのがわたしたちの種類の特徴ですから……。
ふと気が付くとPPが玄関の方への出入口の脇を塞いである木の板で爪研ぎをしています。いつもご主人が出入りしているところです。あんなところから出られるわけはないしと思っていたら、ACもやって来て2人で面白そうに木をガリガリやり始めました。そのうちACは飽きてしまったようですが、PPはいつまでも粘り強く続けています。彼女は体格もいいので力も強く、身体ごとアタックして夢中でガリガリやっています。するとどうでしょう、木の板がパカンと向こう側に外れてPPが外へ飛び出してしまったではありませんか。PP自身も何が起きたかよくわからないでいる様子でしたが、外へ出られるのです。出てみない手はありません。いつもは首輪とリード付きでないとお外には出してもらえないわたしたちです。目の前にわたしの大好きなお花の植木鉢も並んでいます。気が付くとわたしはもう走り出していました。どこに向かっているのでしょう。
なんだか前にも一度こんな事があったような気がします。大きな太鼓の音に驚いたら急に身が軽くなっていて、走って走って、いつの間にか道路も横断して、気が付くと売店のおばちゃんの手からお菓子をもらっているわたしがいました。随分経ってから、泣きそうな顔のご主人がやってきて、抱きしめくれました。別にお菓子めがけてまっしぐらだったというわけではないのに、このときからわたしは食いしん坊の異名を取るようになったのでした。わたしには訳がわかりませんでしたが、わたしは何か悪いことでもしたのでしょうか。
さて、今日も気が付いたら、大きなお店の前にいました。中に入れない大きな犬が、街路樹につながれてお利口に待っています。その鼻先を通ったら吠えられてびっくりしました。あれ、Bじゃない?、と声を掛けてくれた女の子がいましたが、そのうちどこかへ行ってしまいました。さあ、どうしようと思いましたが、折角ですから一人でお散歩もいいかなと思って、お店の所から離れました。このへんはあんまりお散歩にも来たことはないところですが、知らないところではありません。あちこちからいい匂いもしてきます。歩き回ってみるのも面白そうです。目に入る景色がみんな新鮮です。リードを引っ張っていくときの苦しさもありません。それにお散歩は夜のことが多いので、こんなに明るい町の景色は本当に久し振りです。なんだか浮き浮きしてきました。
あ!、危ない。もう少しで自転車にひかれるところでした。そうそう、いつもお散歩の時ご主人に、道路を渡るときは止まって車が来ないか見てから渡るように、と言われてたんでしたっけ。あんまりびっくりして、今どこにいるのかわからくなってしまいました。もうそろそろ帰らないといけないのに、どっちへ行ったらいいんでしょう……。見ると、目の前をわたしより少し大きな犬を連れたおばちゃんが歩いています。「あれ、あなたひとりでお散歩? 車にひかれると危ないわよ。どこから来たの? 首輪もしてないけど……。」「ちょっとついて行ってみようかしら。」「困ったわねえ、どこのうちの子かしら。」おばちゃんが信号の角を曲がってお店の方に行くので、ついて行ってみました。あ、ここならわたし知っているわ、と少し元気を取り戻しておばちゃんの前に出たときでした。向こうからトボトボと泣きそうな顔のご主人がやって来るではありませんか! わたしを呼ぶご主人に向かってわたしは飛びついていきました。ご主人はわたしに、いつも食べているごはんを何粒かくれました。正直に言うと、どっちが先立ったのかよくわかりません。わたしは呼ばれてもすぐには行かない質の犬なのですが、食べ物には弱くていつもついつい釣られてしまいます。それで食いしん坊だといつも言われてるわけですが、この時ばかりはごはんが目当てではなくて、わたしを探してくれていたご主人に会えてうれしくて飛びついていったつもりでした。もう少し遊んでいたい気もありましたが、おやつをもらったわたしはご機嫌でした。
ご主人はおばちゃんに何度もお礼を言って、わたしを抱っこして家に連れて帰ってくれました。あとから聞いたところでは、PPとACは外に出たのに、どうしようどうしようというばかりで、遠くには行かずにずっと家の前に座っていたそうです。折角出られたのだから少し冒険でもしてくればいいのに、2人とも少し好奇心が足りませんね。意外と勇気がないのでしょうか。まあ、そこが2人の性格の良さなのかも知れませんが。このわたしの娘とは思えません。
でも、もしあそこでご主人に会えなかったら、わたしはどうしていたでしょう。あそこでご主人と会えたのは神様のお蔭としか思えません。全部で30分くらいのことだと思います。わたしはまだまだ平気だったけれど、ご主人は随分探し回ってくれていたようです。ご主人は、わたしには脱走して売店に行った前歴があるからわたしが行くとすれば食べ物のある方かも、と思ってお店の方にも足を向けたのだそうです。ご主人のお祈りが神様に通じたのでしょう。ご主人がお店の方に探しに行ったのも、犬を連れたあのおばちゃんがお店の方に曲がったのも、偶然というには出来過ぎています。まさに神様のお導きなのでしょう。ご主人の顔にそう書いてありました。もしかしたら、わたしが今日こんな冒険ができたのも、神様のお導きなのかも知れませんね。神様って優しいな! でもみんなに心配をかけてごめんなさい。(B、2013年4月27日)」

          §          §          §

以上は、連休初日に大脱走をして、無事帰還したわが家の母犬Bの手記である。Bにはどうやら悪いことをしたという意識が少しはあるらしいが、PPとACにはそんな気はサラサラないようである。どこへも行かずに玄関の前で待っていたというのが、いつも素直で悪びれたところのない2人らしい。
それにしても今こうしてこんなもの書いていられるというのが大げさではなく本当に夢のようである。Bを見かけて心配してくださった方は他にもいられるようである。さまざまな歯車がかみ合って、3匹、ことにBは戻って来ることができた。正直言って、Bは糸の切れた凧のような犬なので、半ば諦めかけていた。でも、もしやという気がして必死に祈った。祈りが通じたことへの感謝をどう表現してよいかわからないが、そこには何か大きな歯車の回転を見せられた思いがする。3匹が無事だったことへの改めての感謝と、多くの方にご迷惑をかけたお詫びと、自分自身の不注意に対する反省の意味で、この一文を記す。感謝と怖れを感じた一日であった。犬たちにとっては、神様の小粋なお計らい満喫した1日だったのかも知れない。
タグ: 日常
posted by あきちゃん at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする