2013年07月31日

理容師Nさんの独立

明日はもう31日。まもなく8月を迎える。初春以来の少雨傾向そのままに5月末に早々に梅雨入りしたものの、7月初めにはさっさと明けてしまい、そして猛烈な暑さ。ここへ来て梅雨末期に戻った感があり、日本海側を中心にゲリラ豪雨に見舞われる天候が続くが、暑さはさほど和らぐ気配もない。穏やかな日本の季節変化はどこへ行ってしまったのか。そんな溜息が出るくらいの激烈な気象現象が続く。まさに熱帯の陽気である。
例年だと、8月6日の広島、9日の長崎の原爆忌の頃が暑さのピークで、夏の甲子園が開幕して一週間余り経って敗戦の日を迎える頃には、晩夏の気配が漂い始める。真夏は今から旧盆までのもうあと2週間ばかりで、夏の暑さももう先が見えていることになるだろう。そうなると、あと少しの辛抱というよりも、暑さが行ってしまうのを惜しむ気持ちの方がむしろ強くなってくる。それに若い頃に比べて、暑さがさほどこたえなくなってきたような気がする。汗をかかない程度に身体の動きを抑える術を心得てきたということでもあるのだろう(もちろん動かなくなってきているという面もある)。

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先週末に久し振りに髪を切りに行った。大型連休前以来だから、約3ヵ月ぶりである。土曜日は混むことが多く、朝電話しても希望の時間が取れないことが多いので、金曜のうちに予約を入れておいた。まだそれほどうるさくなってきてはいなかったが、これもタイミングの問題で、思い立った時に行かないと、次はまたひと月先などということになってしまう。前にも書いたように、髪切りはまたとない命の洗濯であって、癒されに行くようなところが多分にある。
こちらが予約しようとした日に担当のNさんがお休みで、振られてしまうということが何回か続き、まもなくそれはNさんがパパになったためだと知れた。その時も素直におめでとうございます! が、口をついて飛び出したのだったけれど、この日もまた思わず「よかったですね、おめでとうございます!」と言わずにはおれないことがあったのだった。Nさんはこの10月に独立するのだという。照れ臭そうに、しかし嬉しそうにそう告げるNさんの手の動きが、いつにも増して心地よく弾んでいる。
実は理容師さんの独立は、お客のぼくにとって必ずしも嬉しいこととは限らない。それはたいていその人に髪を切ってもらうのは、これで最後ということを意味するからである。普通一般にどうなのかは知らないが、ぼくの場合は、髪を切る人はできることならかわらないでほしい。同じ人に切ってもらう安心感は何物にも代え難いのである。
ぼくの場合ザッと数えて生まれてこの方、Nさんで6人めである。この地に来てからだと3人めである。そんなことをNさんに話したら、それはそうですねと納得してくれた。思うように切ってもらえるようになるまでには時間がかかるので、再度同じような説明をするのが面倒だというのがぼく自身の論理だけれど、どう切って欲しいかがなかなかわかってもらえないという点も意気投合してくれた。それにNさん云わく、お客さんとの距離が近いということもありますね。確かに息がかかるほどの、心臓の鼓動が聞こえるかも知れないほどの距離である。目の前でカミソリや刃物を振るうのである。ましてや顔剃りをしてもらいながら居眠りをしていることだってあるのである。まさに命を預けているといってもけっして言い過ぎではない。安心感が一番であるのは確かにいうまでもないことであろう。
そうであるから、最初に独立の話をNさんが口にした時、ああ、また理容師さんに捨てられる、と、ちょっと大袈裟に言えばそんなショックを隠せなかった。しかし、次に出たNさんの言葉にホッと、というか、ヘナヘナと座り込まされる思いだった。ぼくの心配は杞憂だったのである。すぐそこですから、是非来てください! なんと今の店の目と鼻の先に開店するらしいのである。「おめでとうございます!」が心から飛び出したのはその時である。そんならそうと早く言ってくれなくちゃあ……。
帰りがけ、Nさんは店の外までぼくを送って来がてら、ほらあそこですと新しい店を教えてくれた。ぼくの今のペースからすると、次の髪切りはNさんの新しい店でになるのはまず間違いないだろう。Nさんの新しい店はどんなところだろう。どんな名まえを付けるのだろうか。髪切りに行くのがいやでいやで、自分で切って親にこっぴどく怒られたことがあるというNさん。それならば逆に自分で切ってやろうと今の職を志したんです。ポツリポツリと語るNさんの言葉は、控えめでありながら確信に溢れていた。
Nさん、おめでとう! 年4回しか行かない不義理な客ですけれど、蔭ながら応援しています。どうかすばらしいお店を作り上げてください。
タグ:日常 天気 季節
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2013年07月24日

ハトとシカと時計のハリと

羽音に驚いてそちらに顔を向けると、たくさんのハトが一斉に舞い上がるところだった。奈良公園に土バトというのはあまりピンと来ないのだけれど、最近結構な数が棲息しているらしい。それは、集まってくるハトに業を煮やした警備員が、被っていた帽子を振り下ろしてハトを撃退しようとしたところなのだった。ほとんどのハトは羽音とともに埃を巻き上げて驚いて飛び立ったが、2、3羽まだポッポといいながら悠然とその辺をつついているのがいる。全く人間を意に介していないのだ。
ぼく自身は土バトが群れている神社の参道に慣れていたし、そこを通って3年間中学に通っていたくらいだから、ハトに対する嫌悪感は全くない。あの神社に平和の象徴のハト、というのは皮肉以外のなにものでもないのだけれど、ハトに対してはむしろ親近感をさえ抱いていたといたといってもよい。ハトに豆をやることはあっても、帽子で驚かせて飛び立たせたりなどということは考えもしなかった。それにハト自体が今のようにそうあちことにいるようなこともなかったように思う。最近では駅の構内に巣を作る土バトがいて、糞の始末に四苦八苦している。エサをやらないようにという看板もよく見かける。いつからこんなに増えてしまったのだろうか。

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いつから増えたのかわからないといえば、奈良にはつきもののシカもそうである。春日大社のお使いとして大事にされてきたらしいのだが、奈良時代にシカが闊歩していたという話は聞いたことがない。我が家の近くにいるシカたちまでカウントしているのかどうか定かではないけれど、頭数の変動をきちんと把握しているらしい。驚くのは、毎年結構な数のシカたちが、交通事故の犠牲になっていることである。確かに悠然とバス道路を横断しているシカをよく見かけはする。
さて、ハトの羽音に驚く少し前、道端のシカせんべい屋のおじさんとシカの、微笑ましい一コマを目にした。おじさんがシカを団扇で扇いでいるのである。大好物のシカせんべいを前にしておあずけをさせられているような様子にも見えた。
真夏のうだるような暑さの朝など、シカたちが道路端のU字溝の中にすっぽりはまって角だけ出しているのをよく見かける。U字溝に水があるとは思えないから、何のためにあんなことをしているのかいまだによくわからないが、涼しいのだろうか。しかし、この日は朝方幾分気温が下がってシカたちも比較的活動的になっていて、そのうちの1頭が、シカせんべいを狙ってか、せんべい屋のおじさんのところに挨拶に出向いたものらしい。
シカせんべいを食べたいシカも、実力行使に出てシカせんべい屋のおじさんの不興を買うよりは、おじさんと仲良くして少しでも平和裡に多くのシカせんべいの分け前に与る方が得策と心得ているのだろう。一方おじさんの方も、シカを小突いて観光客にそっぽを向かれるよりは、シカと少しでも仲良くしているところを見せて、たくさんのシカせんべいを買ってもらえる方がいいのだろう。両者の利害が一致したところで、シカとシカせんべい屋のおじさんは仲良くしているのか知らんと理解した。
とはいえ、シカはなんにせよシカせんべいを食べられればいいのだし、おじさんも商売道具を無闇に食べられて歩留まりが多くなり過ぎては商売が成り立たなくなるだろう。もしかすると、あれは単におじさんがシカを追い払っていただけなのかも知れない。ハトを追い払う警備員を見ていて、自分の解釈があまりに牧歌的に過ぎたのではないかと思わせられたことだった。微笑ましいなどと言ったら、シカにもおじさんにも怒られてしまいかねない。

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いずれも登大路を下るバスの中から見た光景であった。投票日の朝のことである。
そして暗澹たる思いで新しい週を迎えている。時計のハリが半世紀戻ってしまったようにさえ感じる。いやそれよりももっと状況は悪いかも知れない。敗戦があり、60年安保があり、そうした経験に根差した良心があの頃はまだあった。どうして理想を現実レヴェルに落とさなくてはならないのだろうか。どうして現実の方を少しでも理想に引き上げようと努力しようと考えないのだろうか。
これだけの災害が現実のものとなっても目を覚まさない国である、それなら戦争に巻き込まれる事態を迎えさせてやらねば、ともし神が思し召しているのだとしたら……。いや、そんなふうに考えるのは冒涜というものだろう。むしろ今こそ良心の真価が問われているのかも知れない。

今日も暑かったが、ここへ来て戻り梅雨の気配があるという。稀にみる冷夏であった今から20年前、1993年の夏をふと思い出す。そんなことにならないのを切に祈るばかりである。
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2013年07月19日

告別式を迎える夢―夢の記憶11

ぼく自身の告別式だという。どうしてだか、そのためにぼく自身があたふたとしている。回りの人たちもみな慌ただしくしている。式場は普通の斎場のようでもあるが、もっと大きな場所にも見え、コンサートホールのような雰囲気もある。正装した人々が大勢ロビーにたむろしている。
ぼくは式が始まったら自分はどこにいればよいのだろうかと考えている。さすがに人に見られる場所はまずかろうと思っている。それに式の始まる前の今だって、あまり人目に付くのはよくないだろうと感じている。
それで、楽屋の方へ舞台に向かって左手の奥へと入ってゆく。楽屋へ抜ける扉がある。しかし、そこを通って行くと、通路の奧からなぜか2階席に上がれるようになっている。オーケストラの向こう側の、指揮者の顔が見られる席である。しかし、そこには椅子席はなくて、舞台に方に向かっていくぶん傾斜した、畳敷きかどうかは覚えていないが広間のような空間になっている。そこに大勢の人が思い思いの姿勢、方向で座っている。横になっている人もいる。ぼくも隙間を見付けてやれやれと身体を横たえる。ああこれなら下からも見えなくてちょうどいいと納得している。ここなら告別式の最中に見つかる心配もない。でもよくよく考えてみると、ここは後ろ側から舞台が見える席なのだから、告別式の参加者からこちらが見えないはずはないのである。祭壇越しに丸見えのはずなのだ。
いったいぼくは今生きているのだろうか、か死んでいるのだろうか。告別式が行われるというのだから死んでいるはずなのに、こうしてふらふらと会場を歩いているし、自分を意識しているぼくがいる。相応の数の人にも見られているけれども、別段不思議な眼も向けられないでいる。でもやっぱりここにいてはまずいだろうという意識はある。柩の中に横たわっているべきなのだろうか。

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なぜこんな夢を見たのだろうか。直前に、サントリーホールで行われたコンサートの映像をテレビで見ていたことは関係しているだろう。会場の設定はこれを踏襲しているらしい。でも自分の告別式を見ている自分というのは、まず考えもしないシチュエーションである。ヴィーンの名ピアニスト、フリードリッヒ・グルダは生前、自分が死んだというデマを流して人々を散々からかって楽しんだという。そんな記憶がどこかにあったのかも知れない。
でも、告別式場に本人が現れてしまったら、バレバレではないか。それともぼく自身は、人から見えないところを求めていたけれど、ぼくの姿は実は誰からも見えなかったのだろうか。命とは、いったいなんなのだろうか?

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〔線路の記憶〕

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遺伝子の解読技術が驚異的なスピードで進歩しているらしい。どこの部分の遺伝子が普通と違っているから、特定の病気になりやすいということがわかる、ある病気になる可能性がどの程度あるかが、簡単な検査でわかるのだという。これは当然治療にも応用できる。夢のような話である。難病やガんの治療に画期的な成果をもたらすかも知れない。
しかし、そうした将来の病気のリスクが事前にわかってしまうことは、さまざまな選別を生む。体外受精した卵のうち、最も病気を発症する可能性の低いものを育てるようなことが、もう現実のものになっているらしい。恣意的に同じ傾向の人間を作る、例えば知能指数の高くなる遺伝子配列をもつ子のみを選別したりすることも可能になるのである。
さまざまな個体がいるからこそ、その種としての強さが生まれる。みな類似した遺伝子配列であったなら,何かの拍子に絶滅してしまうことも起き得る。遺伝子のしくみを知ってしまったなら、それを利用しないではいられないのが人間である。病気の治療という名目ならば許されるのではないかとついつい思ってしまいがちだが、命の根本原理に触れることは、やはり許されるべきことのではないのではないか。あくまでそれは神に預けおくべきことなのではないか。
考えてみれば、遺伝子組み換えの食材が提供されるようになって久しい。最初の頃こそ神経質になったものの、何を今さらといわれるかも知れない。けれども、慣れっこになってしまうことは本当に恐ろしいことである。慣れていいこととそうでないことはあるはずである。神を冒涜している、まさにそう呼ぶに相応しいところまで人間は既に到達してしまったのである。神はそんな人間をさえも許してくださるのだろうか? 番組は論評を加えずに比較的中立の立場で作られていたが、見ていてそこまで考えさせられてしまった。
タグ: 日常
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2013年07月06日

さくらんぼの季節とセミの命

伐採された松の木の根元の乾いた土から、セミの幼虫が顔を出していた。どうもまだ外に出るつもりはなかったらしく、何度も自分が出てきた穴に戻ろうとしているけれど、うまくいかない。
7年間土の中で暮らしてきたセミが、成虫の時期を迎えるために地上に這い出す季節を迎えた。もう梅雨明けも間近のようだ。そういえば、この日この夏初めてのセミの鳴き声を聞いた。だから、さっきのセミもけっして早まったのではないのかもしれないけれども、まだ日中である。どうもこの子の動きを見ていると、外の世界の眩しさに当惑しているとしか思えず、迷い出てきてしまった感に満ち溢れている。

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普通セミが眠りから目覚めて羽化に向かうために地上に這い出すのは夕方のことである。多分外敵を避けるためなのだろう、木の幹などある程度の高さの所まで上り、慎重に安全を見極め体勢を整えた上で、じっと羽化を待つ。
どのくらいの時間であろうか、殻を破って羽化するセミの懸命な様子は、感動的でさえある。そして、命がけの営みを終えた疲れを休めているかのように、ほんのり薄緑色に透き通ったまだ湿った羽根が固まって茶色くなるまで、抜け殻につかまってじっとしている。羽化の体勢に入ってから、ちょっとでも邪魔が入って動きが中断してしまうと、再開することができなると聞いたことがある。7年間の地中での生活が生かされることなく終わってしまうのだという。
子どもたちは、そんな羽化寸前のセミの幼虫を大事に家に持ち帰って、カーテンの裾にそっとつかまらせてやる。そうすると、暫く様子を伺っていたセミは、少しずつカーテンを上へ上へと昇り始める。そして、子どもたちの眼の高さあたりまで、中にはそれよりずっと高いところまで昇るのもいるけれども、昇って動きが止まると、そこで羽化が始まる。夜のうち、つまり子どもたちの寝る時間までには、透明な羽を休める先ほどの体勢にまで辿り着く。まさに命の神秘を感じる時間である。
ぼくが子どもの頃を過ごした都心の家の庭でもセミは山ほど鳴いていた。しかし、ぼくにはこんな経験はなかった。ぼくは自分の子どもたちとともに、このセミの羽化を初めてこの目で見る経験をしたのだった。もう20年も前のことである。翌朝、家じゅうに響き渡るセミの鳴き声で目覚めたことが昨日のことのようになつかしい。

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地上に這い出すタイミングを誤ったことは、この子にとって致命的なことになりかねない、どうしてこんな所にこんな時間に出てきてしまったの? と声をかけても詮ないことだが、羽化の過程に乗り直してくれればと思い、木の根方に連れて行ってつかまらせてやる。何とか木に昇ってくれればいいのだが。それがダメなら木の根方ででもよいから、とにかく7年の総決算の時間を無事迎えさせてやりたい……。
少し後で見に行くと、その子は木の根元でひっくり返って足をばたつかせていた。元に戻る体力がもう残っていないのだろうか。表に戻して地面に置いてやる。もしもこの子に生命の力が残されているのなら、羽化を全うさせてやりたい……。
この日の夕方、突然の雷雨が襲った。翌朝、その子の抜け殻を見付けることはできなかったが、幼虫の姿もなかった。命とはいったいなんなのだろうか、ぼくが余計な手をかけたりしなければ、もしかしたらこの子の命の全うの仕方もあるいは変わっていたかも知れない。
7年の地中の生活が長くて、7日の地上の生活が短い、というのは、あくまで人間の尺度でのことに過ぎない。だから余計な感傷を差し挟むいわれはないと片方ではわかっていても、一方でやはり不条理を感じてしまう。また今年も夏がやってきた。さくらんぼの季節である。今年のさくらんぼはとりわけ味が濃く、甘酸っぱさが際立っている。
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〔ひときわ甘酸っぱさの際立つ今年のさくらんぼ〕
タグ:日常 季節
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2013年07月03日

村井康彦『出雲と大和』を読む

岩波新書といえば、かつては超一流の著者が学問の神髄を堪能させてくれる、ずっしりとした手応えのある名著揃いで、そう気軽に読めるものではなかった。井上光貞『日本国家の起源』、桑原万寿太郎『動物の体内時計』、吉田洋一『零の発見』、斎藤茂吉『万葉秀歌』、宮地伝三郎『アユの話』、アインシュタイン・インフェルト・石原純『物理学はいかに創られたか』、E.H.カー『歴史とは何か』など、挙げればきりがないが、著者が精魂傾けた文章をじっくり読み学ぶことができた。一般向けとはいえ、読者にいたずらにおもねることなくあくまで格調高く、少し背伸びをして学問の最先端に触れられたことから受ける喜びは、たとえようもなかった。規模の大きな新書としては、ほかに中央公論社の中公新書がある程度で、こちらにも名著は多かったが(例えば、森浩一『古墳の発掘』などは、他のどの新書よりも好きだった)、なんといっても新書としての格が違い過ぎた。
思えば岩波新書がそうした格へのこだわりを失い始めたのは、黄版が出始めた頃からではなかったろうか。もちろん黄版以降にも名著は多い。しかし、いかにも岩波新書、と思わせるような作品はけっして多くはない。時代の趨勢でもあろうし、新書を書ける人が増えたということもあるだろう。それにこれはあまりいわれないことかも知れないけれど、編集者の力量もあるのではないか。一流の著者を相手にある意味丁々発止とやっていける編集者の存在、これが大きかったのではないだろうか。
そんなわけで、最近の新書には、岩波新書も含めて読み応えのあるものはあまり見かけなくなった。充実した読後感の残るもの、まして再読、三読せずにはいられないようなものには滅多にお目に掛からなくなって久しい。ぼく自身の意識の中で2、3時間で読み切れる程度の軽い雑学の読み物、といった存在に、新書は成り下がってしまっているのである。

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最近再読を終えた村井康彦さんの『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて―』(岩波新書新赤版1405)は、そんな永年の鬱積した思いを吹き飛ばしてくれる作品だった。村井さんといえば、やはり岩波新書の『茶の文化史』がある。堀口捨巳、中村昌生といった建築史の分野からの茶室・茶の湯研究に惹かれながら、それに飽き足らなかったぼくの眼を開いてくれた、歴史の分野から中世茶の湯の文化を究めたすばらしい作品として記憶に残っている。村井さんが、同じ岩波書店から『古代国家解体過程の研究』という研究書を出しておられ、実は日本古代史の研究者として出発された方だということを知ったのは、だいぶんあとのことである。そのことを最初に知った時、まさか同じ人だとは信じられない思いだったことをよく覚えている。
その村井康彦さんが、本書で日本古代史の難題中の難題に挑まれた。いや、それをまとめて片付けられたといっても過言ではない。古代史の研究者であるならば、別段邪馬台国論に口を出したところで何も不思議はないはずだけれども、村井さんのご専門は平安時代以降が主であるようだから、この新書のタイトルは少々意外でもあった。だから今年1月に刊行されて本屋で見かけた時も、へぇーとは思ったけれども、それほど食指は動かなかったのである。それが先日来出雲とご縁ができて、そういえばそんな新書が刊行されていたっけとふと思い出し、遅まきながら入手したのである。

いやなんでこの本をもっと早くに読まなかったのかと、悔やまれてならないが、それ以上にこれほどの書物にめぐりあえた幸せを今、ひしひしとかみしめているところである。内容の面白さと格調の高さ、読者を引きつけて止まない確かな構成力と文章のうまさ、全く間然とするところがない。カメラを担いで足で稼いだ数々の知見、その説得力の高さは見事というほかない。旅行記としての面白さにも溢れ、本書を道案内として出雲路を訪ねることをもう夢みている。
邪馬台国の所在地について、これまで長い間、畿内説と北九州説がしのぎを削ってきた。しかし、最近では誰の眼から見ても畿内説の優勢は揺るがない。纏向遺跡発見の衝撃はそれほどに大きかったといってよいだろう。それを期待して本書を読んでいくと、読者の期待はひらりとかわされてしまう。邪馬台国は畿内にあった、しかし纏向ではなく、唐古い・鍵遺跡の周辺、田原本町にあるのだというのである(田原本に大字のない地域があることはぼくも知っていた、田原本町***番地という住所をみたとき、大字名を書き落とした誤植だと思い込んでしまったのだった)。しかも、それは日本海沿岸から丹後・丹波を通って山背から大和にやってきた出雲勢力の連合体が作り上げた国だというのである。そしてそれは大和朝廷とは直接はつながらず、大和朝廷は西方から大和に侵攻した勢力が打ち立てた国であって、その投影が神武東征であるというのである。日本書紀や古事記は大和朝廷の創始を邪馬台国以前の時代にまで古く遡らせるようと不自然な時代配分を行っているが(欠史八代などがそのための作為であることは認めてよいのだろう)、絶対年代は別として、事実としては認めてよいと考えているようである。
いつも疑問に思っていたのは、日本書紀や古事記の編者たちが、ワカタケル大王や、邪馬台国の時代についての記憶が曖昧なのはどうしてなのだろう、ということだった。しかし、村井さんにいわせれば、彼らはそれを百も承知だったのである。承知の上で、現在の王権と直接関係のない邪馬台国の歴史をいわば抹消しようと図ったのであった。
奈良時代、出雲国造が天皇の代替わりなどに行う神賀詞(かむよごと)奏状という儀式がある。普通、服属儀礼と説明されるけれども、村井さんによれば、これは意宇郡の郡司を兼ねることにより政治的な発言力を増した出雲国造が、時の国司と語らって実現させた、いわば出雲のアイデンティティ表明のための儀式ということになる。だからこそ、都が出雲系の神々の鎮座する大和盆地を離れた時、それは意味を失って廃絶に向かうのだという。また、733年に完成した『出雲国風土記』は、出雲国造が心血を注いでまとめあげた出雲ナショナリズム昂揚の書であるという。諸国の風土記の多くが散逸した中で、出雲国風土記が完全な形で残ったことにはそんな背景があったわけである。いずれもなるほどと思う。
それにも増して目からウロコの思いを味わったのは、出雲大社創建についての新しい仮説の提示であった。村井さんはそれを、飛鳥の巨大な石造物や、たぶれ心の溝の掘削に代表される大土木工事で名高い斉明天皇の行った事業とみる。それは全くの空想などではない。659年の『日本書紀』の記事に、「出雲国造に命じて、神宮を修厳せしむ」とあるのである。村井さんの論を読んでいると、なぜこの明確な記事を出雲大社の創建と解してこなかったのかが不思議にさえ思える。
いわゆる国譲りの際、ヤマト王権が大国主命の願いである大きな社殿を建造するという約束をしながらこれを果たさなかったため、垂仁天皇の皇子本牟智和気命がものを言えなくなってしまったという伝説がある。斉明は、天智の子で本来だったら皇位を約束される星の下にあるはずの孫、建皇子が、「ものいわぬ皇子」であることを不憫に思う一方、そこに本牟智和気命の伝説を重ねたのであった。
村井さんはいう。「「もの言わぬ皇子」の物語は、虚が実を生み、神話が歴史を編み出した典型的な事例であったといえよう。」けだし名言である。

私には村井さんが本書で展開した仮説の当否を論じることは到底できない。しかし、東征勢力の実態など、なお論じ足りない部分をあげつらってみても始まるまい。壮大、かつ魅力的、そして蓋然性の高い仮説であることは間違いないだろう。『宮都の風景』というタイトルで書き出したという本書が、このような形で公刊されることになったことを、心から喜びたい。岩波新書の新たな名著の誕生である。
タグ:読書
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