2013年08月30日

夏風邪をひく

夏風邪である。盆明け後、昼間なんとなく喉の調子が悪く、いがらっぱくておかしいなあと感じる日が何度かあったものの、それ以上は悪化せずにすんできたのだけれど、昨日の昼間また同じ症状が出て、あ、またかと思っているうちに、これまでと違って夕方にかけてどんどん悪化して痛みを覚えるようになった上に、気だるさも加わってきて、これはいけないという状態に陥ってしまった。
こうなったらI女史のところに駆け込むしかないと覚悟を決めたものの時既に遅く、診察時間をとっくに過ぎてしまっていた。諦めてともかく売薬でこれ以上の悪化を防ぐしかないと心に決めたら、水曜日であることを思い出した。水曜は夕方の診察がなかったのである。症状に変化があろうはずはないのに、なぜかホットしていわば諦めがつき、いつもの葛根湯処方の内服液に頼ることにした。それと喉の痛い時用と称する漢方製剤を見付けて合わせて購入した。
早速これらを服用したものの、床の就く前には、唾を飲み込むのも痛くて勇気がいるくらいの状況で、ちょうど手許に残っていたアズノールうがい薬でうがいをすると滲みることといったらない。自分では気が付かなかったが、うがいをしてみると、結構痰もでていることもわかった。明日起きる時にはいったいどんあ様子になっていることやら、と覚悟を決めて昨晩は就寝したわけであるが、寝苦しさといったらなく、一晩苦しんだ感がある。

苦しんだ甲斐があってか、今朝は思ったよりもすっきとした目覚めであった。日中もなんとか普通に過ごせた。喉の痛みをさほど感じない。しかし、これも薬が効いているのであろうと思っていると、案の定夕方にはどことなく怪しい気配。予定通りにI女史のところに出かけることにした。さすがにこの夏場のことでもあり、空いている。すぐ順番が回ってくる。熱を測ると37℃ちょうど。平熱は比較的高い方だが、それでもで微熱気味である。抗生剤と漢方を処方してもらい、アズノールうがい薬がよく効くというと、口中に含んで溶かすタイプのアズノールも処方してくれた。昼間うがいに行けない時はこれをふくむといい、2時間くらいはもちます。ただ、気を付けないと口が青くなるからとのこと、まあそんなことくらい平気ですから、とすっかり良くなった気分でI女史のもとを辞した。
こないだ若い人たちが、入れ替わり来てくれましたねぇ。帰省した娘と息子がどうも犬の毛のアレルギーの気があるらしく、帰って来るやクシュンクシュン、コンコンを始める。たまらなくなってI女史のもとに駆け込んだのだった。若い人に来てもらうと、力をもらうみたいでといいとI女史。お礼を言わねばならないのはこちらの方なのに、先にお礼を言われてしまい言うべき言葉も出ずじまいに終わってしまった。全く情けない話である。

娘や息子たちと同じような経験をぼく自身もしたことがある。結婚して実家から離れて暫くしたあと、たまに実家に帰ると喘息が起きるのである。はじめ偶然体調が悪い時が重なったのだろうと思っていたが、どうもそうではない。実家に帰ると途端に咳が止まらなくなる。実家から戻って程なくすると恢復する。原因はどうも結婚前から実家で飼っていたネコにあったらしいのである。住んでいた頃は何でもなかったのに、暫く離れているうちに免疫がなくなってしまうのだろうか、たまに実家に帰るとひどくアレルギー反応を起こすようになったわけなのである。自分の実家でどうして? と思ったが、いかんともしがたかった。今また同じことを子どもたちが繰り返している。
I女史に症状を伝え、診察を受けているうちに、だんだんと気持ちが軽くなってきて、悪かった体調も恢復してきているような気になるから不思議である。悪いところを診てもらうということ以上に、いつも元気をもらって帰って来れるのである。患者はとかく医者に上から目線で診ていただくという関係になってしまうことが多い。I女史にはそういうところが全くない。常に患者の目線で話をしてくれる。それがほんとうにごく自然に感じられる、患者と医者の関係を忘れて信頼できるのである。ちなみにI女史のご主人がまたいい味を醸し出している。薬の説明などを担当していられるのだが、愛想も何もないくらいぶっきらぼうなのだ(失礼!)が、I女史に力をもらって診察室から待合室に戻り、ご主人から薬の説明を受けると、なんだかさらに一倍の勇気が湧いてくるのである。

Bが逝ってから明日で2週間。早いのだか遅いのだかよくわからない。Bが、パパさん、たいしたことなくてよかったですね、と今もすぐそこでワンワン、ピョンピョンしているように思えてならない。Bが力をくれたのだろうか。Bが逝った夏が今、過ぎ去ろうとしている。
タグ:日常
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2013年08月24日

夏を悼む―聴いた曲とBの死―

今年の夏は、異常気象という言葉は使いたくないけれども、やはり異常だったいうべきなのだろう。
まずこの気温。35℃は当たり前、場所によっては40℃を超す日々が何日も続いたりもする。最高気温の記録も久し振りに更新され、全国2位になってただの暑いところになってしまったというぼやきもあるという。
そして突然どこでどれだけ降るかわからない、時間雨量100㎜を超すような強烈な雨。アメダスの観測網が整備されてデータが捕捉されやすくなったばかりともいえないだろう。ゲリラ豪雨も短時間ならまだいい。これが数時間も続くのだからたまらない。これまでよくあった梅雨末期の集中豪雨が、猛暑が続く一方で頻発したわけである。太平洋側の猛暑と日本側を中心とするゲリラ豪雨とは、表裏一体の側面もあるのだろう。
前にも書いたように記憶するけれど、これはまさに熱帯の気候の特徴である。日本はこの夏確実に熱帯以上に熱帯らしい日々を経験したのだった。

この夏聴いた音楽。LISMOに最近入れたものを新しい順に辿ってみよう(スマホの普及によって、LISMOももう過去のものになってしまったことを知り、やや茫然自失の感がある。LISMOのリスの可愛い動きはお気に入りだったのに……。でもぼくにとってはまだまだ現役である)。
ヘルマン・シェルヘンの「フーガの技法」(ARPCD0251-2)。これは中村洋子さんのブログ「音楽の大福帳」で紹介されていたもの。矢も楯もたまらなくなって早速入手した。まさに中村さんのいわれるとおり、第二次大戦の凄絶な体験に裏打ちされておればこその限りない優しさをもった名演である。いや、名演などという言葉で尽くされるほど生やさしいものではない。演奏であることを忘れさせられてしまう、そう、限りなく大きな時空の広がりの体験である。
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〔ヘルマン・シェルヘンのバッハ「フーガの技法」のCDジャケット〈ARPCD0251-2〉〕
バッハのフーガの技法は、LP時代にも購入した記憶がある。でもどんな楽器で演奏したものだっただろうか。ハープシコードだっただろうか。そもそも誰の演奏か、それすら覚えていないけれども、ひどく難解で、晦渋で、そして暗い音楽という印象しか残っていない。当然聴きこむレヴェルまでには至らなかった。
ところが、このシェルヘンのオーケストラ盤で聴くと、音が真っ直ぐに耳に飛び込んでくる。けっして明るい音楽ではないのは確かである。しかし、暗く沈みこむ音楽ではないし、ましてや難解でも、晦渋でない。がっしりと聳え立つ壮麗な殿堂建築のようでありながら、聴く者を優しく包み込んでくれる奥行きの深い慈愛に満ちた空間がどこまでも広がっている。勇気の湧いてくる音楽である。

一つ前に入れたのは、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」。これもLP時代に聴いた音楽である。それはブルーノ・ヴァルター=ニューヨーク・フィルのモノラル盤だった。でも当時のぼくにはこのヴァルター版をもってしても、そのよさがわからなかった。最近はブラームスの音楽は、うまい表現ではないかも知れないけれども、油分が多過ぎて敬遠しがちで、滅多に食指がのびない。徹底した純音楽路線のヴァルター晩年の第4交響曲を再聴したい願望に駆られることはあるけれども、ニューヨーク時代の分厚いこってりとしたハーモニーに彩られたブラームスは、願い下げの感が強い。LPで聴いたドイツ・レクイエムはまさにその真骨頂といってよい演奏だったはずである。
今LISMOに入っているのは、ヘルベルト・ケーゲルが振った演奏(BRL94353)。随分前に入手したものの、ほとんど聴かずにいたものである。それがなぜか聴きたくなったのである。もともと合唱指揮者だったケーゲルが振るこの手の曲は絶品であり、変に甘ったるくならずにピンと張り詰めた演奏は、余計な油分がなくて今のぼくにはたいへん好ましく、この演奏を聴いて初めてドイツ・レクイエムのよさがわかった気になった。でも、ケーゲルの厳しい演奏を聴いていると、ヴァルターの分厚く優しい演奏をもう一度聴いてみたくなるのもまた正直なところではある。
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〔ヘルベルト・ケーゲルのブラームス「ドイツ・レクイエム」〈BRL94353〉〕

もう一つ前には、グルダの弾き振りのモーツァルトのイ長調とニ短調のピアノ・コンチェルト(NDR10072)。イ長調23番は、3楽章こそ比較的速いテンポで弾かれるものの、1・2楽章はじっくりと噛みしめるようなテンポが印象的で、この曲の本来の魅力からするとやや違和感もあるのだけれど、秋風を感じさせるグルダ晩年の境地がまことに味わい深い。
ニ短調20番は、厳しい音楽である。ハッシと打ち込まれる音にはっとさせられる瞬間を何度経験することか。それにライヴならではの椅子のきしみが、雑音である以上に緊迫した臨場感を添えている。しかし、聴き終えて感じるのは全体として限りなく聴き手を包み込むような音楽に仕上がっていることである。ただ厳しいだけなのではなく、独特の憧れに充ちた節回しが随所に聴かれ、心魅かれる演奏である。アバド=ヴィーン・フィルとの演奏とよく似ていると思うが、よりまろやかに熟成され、完成度は格段に高い。尖ったところのないグルダを彼らしくないと見る向きもあろうが、それを全て含み込んだ晩年の境地は貴重である。

この夏入れたCDはあと1枚。ランドフスカのモーツァルトのニ長調コンチェルトほかの入ったもの(CDBP9738)。戴冠式は、バレンボイムが旧版で使っていた天衣無縫のカデンツァを、作曲者ランドフスカ自身が弾いている、言わずと知れた名演奏。
ほかにヘンデルやハイドンが入っているが、聴いていてひどく感心したのがハイドンのコンチェルトだった。ハイドンのハープシコード(ピアノ)コンチェルトはアルゲリッチのピアノの弾き振りで聴いてきたが、実はランドフスカのこの演奏を今回久し振りに聴いて、最初誰の曲か全然思い出せなかった。こんな生き生きと溌剌とした、しかも奧の深い音楽を書いたのは誰なのだろう、聞き慣れたピアノではなくハープシコードであることにもよるのかも知しれないが、ずいぶん長いこと考え込んでしまった。
もっともこの経験は実はこれが初めてではなく、アルゲリッチ版でも同じことをやったような気がする。モーツァルトでもベートーヴェンでもバッハでもショパンでもなく……。なかなか思い出せなかったのはハイドンには申し訳ないことだけれども、この1曲だけでもハイドンは不滅といえる音楽だと思う。曲のすごさは勿論のこと、今でも全く色褪せることのないランドフスカの演奏はまことにすばらしい。ひょっとしたら戴冠式以上の名演かも知れない。

          §          §          §

フーガの技法を聴き始めた日、一緒に星を見た我が家の犬Bが、ひと月あまりの闘病の末に昇天した。享年9歳3ヵ月。あまりにもあっけなかった。偶々帰省していた子どもたちに看取られての最期だった。
そんなこともあって、最初この曲(フーガの技法)を聴くことはもう2度とあるまいと思った。しかし、もしここで諦めたら逆にBが浮かばれないのでは、という気持ちになぜかなってきて、Bへのレクイエムのつもりで最後まで聴いた。最後の未完のフーガが心にしみこんできて、悲しみを超越した宇宙を見せてくれた。今では、Bがぼくにこの曲を教えてくれたような気持ちがしてならず、かけがえのない曲になった。
それにしても、ドイツ・レクイエムといい、フーガの技法といい、グルダ晩年の境地を伝える演奏といい、なぜ? という気がしないでもない。でも今にして思えることは、これらがけっして死を悲しんでばかりいる曲・演奏ではないということである。そう割り切ることが、9年間の心優しい日々を与えてくれたBに対する最大の供養、感謝であるように思えてならない。Bの死についてはもう少し書いておきたいこともあるけれど、今はまだその時期ではない。

いずれにしても2013年の夏は、ぼくの一生の中でも特に忘れられない夏になるだろう。
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2013年08月15日

伯備線からの伯耆大山

車窓の景色は旅に欠かせぬ醍醐味の一つ。中でも刻々と移り変わる山の眺めは何物にも代え難い喜びを与えてくれる。名だたる山々が応接の暇のないほどに展開する中央線は別格として、どこの路線であっても、初めて見る名もなき山々であっても、季節に彩られた車窓の山旅には格別の愛着を覚える。

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〔岡山駅に入線するやくも5号〕

初めて381系の特急やくもで出雲を訪れた日、分水嶺を越えて日野川水系に沿って走る列車の左手に並ぶ三脚の列に出会った。はて、なんだろうと訝しげに視線を投げた先にあったのは…… 真っ白に雪化粧した伯耆大山の雄姿だった。大山に近づいていることは知っていた。米子側から大山北壁が見えるであろうことは予測していて、車窓からも望める可能性があることも考えてもいた。しかしである。伯備線は大山の西側を日本海に向かって下ってゆく。それで進行方向右手の車窓から見えることはあっても、まさかぼくの座っている左側の窓から大山が望めるとは全く思っても見なかったのである。
多分あそこがビューポイントになっていたのは、通過するやくもを入れた大山の景色を捉えられるからでだったのだろう。より正確に言えば、雪化粧した大山の雄々しくも端正な姿をバックに、381系やくもの疾駆する姿を撮影できる絶好のポイントだったのだと思う。
2回目の訪問のとき、雪の季節はとうに終わり、大山は青かった。分水嶺を越えてから注意深く車窓を眺めていた。しかし、果たせるかな根雨の近辺だったことは覚えていたけれども、その前後どちらかだったか記憶が混濁していた。それで、もしかしてあれかと思う山容が見え始めた時、なかなか確信がもてなかった。あんなにすっきりと絵のような山容だったか……。少し待ってようやく大山に違いないという確信した時既に遅く、大山はすぐに前山に隠れてしまった。そしてその前山は、山陰線にだいぶん近づいて平野に出るまで、ずっと避けてくれることがなかった。三脚の列を見かけることもなく、一瞬大山を見かけた地点は、記憶していた三脚の地点とも違っていたように思う。
3回目の今回は往復とも西側の窓側で、前2回のリベンジを試みたよとばかりの座席だった。残念ながら三脚ポイントは絞れずじまいだったが、前山が切れて大山が顔を出す2回目に一瞬見たポイントはおさえることができた。根雨を出て少し行ったところである。乗った列車は正規には根雨に止まらないが、そこは単線のありがたさ(?)である、行き違いで止まってくれたから、万全の構えで待つことができた。しかし、なんともはや、晴れているのに湿気を多く含んだ夏の澱んだ空気がその眺望を奥ゆきのないものにしてしまっていた。前山は見えるのに、その向こうに聳えているはずの肝心の山が霞んで見えないのである。
帰途は夕方だった。今度は何とかと望みを託し、開かない窓から後ろを振り返るように凝視して待つ。まもなく根雨である。まだ余熱の残っているものの、日中のうだるような暑さは収まって、ホットしたような風景が広がっている。根雨の少し手前で遠方の視界が開けた。あ、見える!、大山の豪快な山容の立ち上がりが目視できる。何とかカメラに収めようとの一心で、慌ててシャッターを切る。肉眼でこの程度だし、この暗さである。それに線路脇の電線も邪魔をしている。どうなることやらと思いつつシャッターを切り、撮れた写真がともかくもこの1枚である。何とか西側の裾野のスカイラインは写っているが、ケータイのカメラシャッタータイミングの悪さの悲しさよ! ちょうど電線が下がった位置でシャッターがおりてしまい、山頂部分がよくわからなくなっている。しかし、目にしっかりと焼き付いた山容はもう離れることはない。

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〔伯備線車窓からの伯耆大山〕

帰宅してからネットで調べてみると、伯備線の車窓からの伯耆大山の見え方を研究した素晴らしいサイトがあることがわかった。藤本一美さんという方の、「伯備線車窓の伯耆大山―ビューポイントを探る―」というものである。車窓からの伯耆大山を克明に追いかけ、要所要所をスケッチで紹介している。まさに圧巻である。そこに、ぼくが脳裏に焼き付けたのと同じ絵があるではないか! 「(C)地点より」と題されたスケッチである。藤本さんもベストビューポイントとしたいところ、とされている地点である。
このようなすばらしい研究成果が惜しげもなく公開されているのである。これだけの貴重な情報を手軽に共有させていただけるというのは、本当にありがたい時代になったものだ。藤本さんのご教示に心から感謝申し上げたい。これ以上は考えられないほどの最良のガイドを得て、次回の伯備線乗車が今から待ち遠しい。
タグ: 鉄道
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2013年08月03日

夏が来れば思い出すことなど

8月である。再び猛暑の予報が出ているが、もう虫が集き始めている。季節は確実に動いているのである。昨日の夕方、日中の気温を調べてみて驚いた。最高気温が33℃を超えている。昨日も日射しは確かに強かったが、風がとても心地よい1日だった。とりわけ湿度が低いというわけでもなく、蒸し暑さを感じない理由がよくわからないのだが、夜の空を見上げて納得がいった。星が瞬いているのである。空気が澄んでいるのだ。
思い当たることがある。一昨晩の雷雨である。21時までの1時間に20㎜を超す雨が降った。実際の降雨時間は30分そこそこだったから、時間雨量にすると50㎜近いのが降ったことになる。
この雷雨に遭遇したのだからたまらない。北の空が光ってるな、と思ったのも束の間、ゴロゴロ言い出したかと思うと、もう豪雨になっていた。坂道を厚みをもった水が流れ下ってくる。一瞬で川の中を歩いているような状態になり靴はぐしょぐしょ。傘を持ってはいたが何の役にも立たず、瞬く間に全身ずぶ濡れである。自転車で平均律の第2集を聴きながら走っていたのだけれど、停めている余裕などなく、そのまま走るしかなかった。辛うじて左腕にはめていた腕時計をポケットのしまえた程度だった。
恐ろしかったのは雷である。イヤホンを耳に入れていてさえあの大音量である。いつ雷鳴に打たれてもおかしくない状況だった。回りに樹木や電柱があるから直撃を喰らうことはないだろうとは思っていたが、一ヵ所視界が開けて橋を渡るところがある。ここで落雷に遭ったらお終いだなと思いながらも、それこそ一か八かで駆け抜けた。渡り終えて、まだ命はあった。ふうっとペダルを踏む力が抜けた。
家に着く頃にはもう小止みだったが、ずぶ濡れなどという生やさしいものではなかった。着たままシャワーを浴びたようなもので、身体からカバンから傘から水が滴っていた。普通だったらこれだけ雨に打たれれば、寒気の一つもしてくるだろう。ところが、週初めに冷房が壊れたままの仕事場で散々汗をかいて残業した上での帰途なので、まさに打って付けのシャワーだったのである。
最近は雷雲の消長や移動もかなり正確につかめるので、念のため大丈夫であることを確認してから出たのに、あとから見てみると予想もしないところで急に雷雲が発達して近辺を通過していったことがわかる。まさに青天の霹靂、後の祭りであるが、雷の恐怖を除けば、恵みの雨だったと強がれなくもない。
湿気を押し流した雷雨ら一夜明けた昨朝は、どちらかといえば結構湿っぽかった。しかし、日中の風の爽やかさには秋の気配をさえ感じた。一週間もせずに立秋である。秋風の立つ日も近いのである。

          §          §          §

朝、市立高校の前を通ると観光バスが1台停車していた。回りには思い思いのボストンバックを用意したジャージ姿の高校生がたむろしている。部活の夏合宿の出発を待っているのだろう。そんな季節である。
ふと、40年近く前の高1の夏を思い出した。お盆をはさんだ10日間程度だったと思う。ぼくも軟庭部の山中湖での合宿に参加することになっていた。全くの初心者同士の級友とペアを組んだばかりだった。1年の部員はこのT君とぼくだけなのだからしかたがない。あとは前衛・後衛の割り振りだけ。T君が後衛、ぼくが前衛となり、2年のK・N両先輩のペアの指導を受けることになる。今思えば部を潰さなくて済んだという功績はあるものの、T君はともかくぼくは上達というものを知らない困った部員であったことだろう。それでもいろいろ大目に見てくれた両先輩には全く頭が上がらない。
さて、その最初の合宿が近づいた頃、ぼくは数日熱を出して寝込んでしまった。合宿直前の練習にも参加できずにいたが、なかなか熱が下がらない。一向に恢復しない。そのうち熱がさらに上がり、湿疹が出始めた。ぼくはなんと高1にして麻疹に罹ってしまったのである。
今でこそ大学生の間での流行が騒がれたりしているが、当時麻疹は子どもの病気である。ぼくには麻疹に罹って休んだ記憶がなかったが、いつも間にか済ませていることもあるので、もう終わっているのだろうと高を括っていたのが甘かった。結局全治まで3週間程度、8月の大半を寝床で過ごすことになったのである。
この時大汗をかき続けたお蔭で、多い時は65㎏近くあった体重が58㎏台にまで落ち、その後元に戻らないどころかさらに減って今に至っている。この時、体質まで変わってしまったとしか思えない。余程合宿に行きたくなかったのであろうか。そんな消極性が病気を呼び込んでしまったようである。
翌年も、合宿にはできれば行きたくなかったけれども、今度は病気もせずに参加することができた。3年になると夏前に早々に受験で引退していたから、後にも先にも2年での合宿は、ぼくにとって1度きりの経験となった。

          §          §          §

8月3日といえば、以前にも少し書いたことがあるが、小学校の5・6年の夏に両親と出かけた寝台列車での旅行から帰京した日である。2年とも帰りは京都から新幹線だった。夕方には京都を発つまことに健全な行程である。最初の年の新幹線が、ぼくの新幹線初乗車だった。もちろん今はなき100系の鼻の丸い新幹線ひかりである。3人掛けに横一列に家族で並んで座るのが、それまではボックス席が当たり前だったから何だか妙に不思議で、旅行ももう終わりというあの倦怠感からぼくを救ってくれた。
5年の時の奈良・大阪(万博)・京都、6年の時の山陰、いずれも同じリング綴じの紺色の表紙のノートに地図や写真を貼り込んだ旅行記を作り、夏休みの自由研究の一つにした。作文は嫌いではなかったけれど、何かないと書かない質で、これはまたとない機会であった。子どもの頃、これほど楽しんで文章を書いたことも少ない。
次にまとまった文章を書いたのは、中1の夏の感想文であろう。最低5冊本を読み、ノートに記録を書くという夏休みの課題が出た。この時読んだのが、下村湖人の次郎物語で、これだけでノルマは果たせたようなものだが、角川文庫版は確か分厚い上下2冊で、冊数が課題をクリアできない。そこで、入学直後から出ていた毎月1冊という同様の課題で読み始めていた漱石にも挑戦し、坊っちゃん、吾輩は猫であるなどを受けて、草枕・野分、三四郎などを読破し、5冊を確保したような記憶がある。
それならば部ごとに1冊に仕立てられていた新潮文庫版の次郎物語にすればよかったようにも思うが、これにはちょっとした経緯がある。それは一言で言うなら、ぼくが最初に買った文庫本が角川文庫だったという、ちょっとどうでもいいような理由である。というのは、角川文庫版の『吾輩は猫である』が、ぼくが最初に買った文庫本だったのである。角川文庫がまだ正統派の文庫だった頃(角川春樹がスパークする前)のことである。当時文庫といえば、岩波、角川、新潮しかなく、岩波は活字も小さくてハトロン紙のかかった表紙も取っつきにくく、新潮は逆にやや派手め、それで中庸をいく角川に手が伸びたというわけである。一度角川を買うと、角川版がある限り角川を買うという、律儀というかこだわりぶりのある子で、新田次郎の『孤高の人』あたりが角川以外のを求めた最初であったろうか。違う文庫の同じ本を読み比べてみたりしてもよかったのかも知れないが、お小遣いも少なくてそうも行かない。坊っちゃんなど、家にあった歴史的仮名遣いの旧版の岩波文庫で読み、仮名遣いと旧字(正字)がわからなくて、一々母に尋ねながら読まねばならない羽目になった。ちなみに2度目に漱石を読んだのは、大学時代、岩波の小さい方の漱石全集が復刊した時である。もちろん原著のままの仮名遣い・用字だが、漱石を本当に味わうには、原作通りの版で読まなくてはと実感したものだった。
ともあれ、文庫で日本の小説を読み出したことが、余分にお小遣いをもらいバスで神保町界隈に本を買いに出かけるようになった始まりである。渋谷とお茶の水の間を走っていた都バスのうち、麹町回り(もう一方は四ツ谷回り)と称するバスがその交通手段である。ぼくはバスがどちらかというと苦手ではあったものの、ほんの短時間ではあるけれども乗物での一人旅は魅力に溢れていた。15分に1本程度は少なくとも走っていたはずだが、雨でも降ろうものなら20、30分待つのはざらで、さらに乗っても渋滞で30分以上もかかるこがある。
このバスに乗るようになった最初は、4年の夏に駿河台の坂の途中にあったYWCAの水泳教室に通ったのが最初で(小3の夏に犬かきで25m泳いでいたぼくがクロールを覚えた最初の機会となった)、秋には平泳ぎの教室にも通った。講談社版の日本の歴史を毎月1冊ずつ三省堂に買いに行くようになったのもこの頃のような記憶があるが、たいていは母に連れられてのことだった。ちなみにぼくは、YWCAから坂を登れば御茶ノ水の駅田ということは知っていたけれど(次のバス停である)、それがあんなに近いということも知らない小学生だった。
そんなこんなで、一人での文庫目当ての神保町通いは、ぼくの大きな楽しみになっていった、近所に本屋もあるにはあったが、註文しないと買えないことが多く、手にとって買うなど夢であった。それになによりも歩いて行ける近所の本屋は魅力に乏しかった(いかにも本屋の主人というおやじさん夫婦で切り盛りしていたが、ほしい本がいつも並んでいるわけではなかった)。当時書泉がグランデとブックマートに改修した直後で、あの界隈の最先端を行っていた。特に、書泉グランデでもらえる動物を象った栞は、いろんな色のさまざまな動物があって、文庫本を買う大きな楽しみの一つにもなっていった。あんな粋なサービスをしてくれた書店は、ぼくの狭い行動範囲では後にも先にも書泉グランデしか知らない。
その後この神保町通いは、高校時代にはレコードを求めた秋葉原の石丸電気にまで行動範囲を広げた上で、大学時代まで延々と続き、ぼくの人生のかなりの部分を占めることになる。それは物理的にだけではなくて、今のぼくという人間を形成する上で大きな役割を担ったといってよいかけがえのない時間だった。

          §          §          §

とまあ、8月を迎えたのに事寄せて、あれこれと思い出すことは尽きない。大半は自分史の意味しかもたない、いわばどうでもよい事柄ばかりではある。けれども記憶の海に浮かんでは沈み、沈んでは浮かびしているそれらの事どもを掬い取ってやれるのは自分しかいない。こうして書き止めておくことで、それらに命を与えることができるのだとしたら、それはそれでまた一興ではあるだろう。
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