2013年09月30日

夢のかけらたち―夢の記憶13

踏み切りで線路を横断して渡り終わろうとしたところである。後ろにいた母が、もうすぐ電車が来るよ、と教えてくれた。別に警報音が鳴っているわけではない。そこはちょうどトンネルの中のようになっているところで、右を向いて振り返ると遠くにトンネルの入口らしい明かりが見える。そこから電車が近付いて来ていた。理屈から言えば逆光だし、今ぼくは暗いトンネルの中にいるのだから、明かりがなければ何も見えないはずだけれど、こちらに向かってくる電車の先頭がよく見える。ああこれならいい電車の写真が撮れる、と思いつつファインダーをのぞいてみると、母と並んで歩いていた父が電車の手前右にうまく並んでいる。これはいい写真が撮れると思ってシャッターを切る。なぜか縦位置で撮ったことを覚えている。デジカメのようで、撮れ具合をすぐに確認できる。今書いたようなカットがまさに思い通りにうまく撮れていて安心する。それを見て父が何か言っていたようだが覚えていない。

何処かへ出かけようとしている。子どもの頃住んでいた家の前に車を駐めて右(東)方向に動き出そうとしている。ぼく自身の視線は車の外にあるのだけれど、何かを忘れていることを思い出し、今なら母に頼めばいいと思いつき、車に乗っていたのだか、車に乗ろうとしていたのだかわからないが、母に家から取ってきてくれるよう頼む。一つは「はさみ」、もう一つは何だったのだろう。何のためにその2つのものが必要なのか、それも一つずつきちんと頭の中で考えた上でのことだった。そのこと自体は鮮明に覚えているのだけれども、具体的なものが今は全く思い出せない。それはともかく母は家へ取りに帰るはずなのに、家とは反対の方向に歩いていく。どうしたことか、その母の帰りを待たずに車は走り出す。この場面は、かつて住んでいた家が念頭にあることは間違いない。

高台にある新居の2階。ここは前の場面と違って現実の世界には存在しない場所である。見晴らしの良い窓辺にいる。窓からは丘陵地帯の気持ちよい景色が望める。窓辺に本棚がしつらえてある。そんなものがあったら景色の障害になるのだが、2段くらいしかないからかも知れない。雰囲気は机上に置くスチール製の向こうが見える2段式書棚。でも本を並べているぼくには木枠のしっかりした本棚の印象がある。そこに持ってきた本を並べている。そばには家内がいる。引っ越してきたばかりで、荷物を広げている、そんな雰囲気で、回りはガランとしている。上の段に本を少しずつまとめて横に置く。それを縦にしながら並べていく。なぜか全て韓国語の本で、背表紙にハングルが踊っている。A5とB5の本が混在していてガチャガチャしているのを少しずつ入れ替えながら、ある程度大きさを揃えて並べ直している。窓は閉まっているけれども、風の心地よいへやだった。母も一緒にここへ来るはずだったように思うが、荷物を取りに帰ってもらったために置いてきてしまったことをちょっと後悔している。

一昨晩見た夢は、印象的な場面がいろいろあって、3つどころではなかった。次から次へと家族だけでなく、職場の同僚たち、古い友人たち、そのほかいろんな人が入れ替わり立ち替わり、といっても一応の夢の中では筋道立った順序で登場してきていた。けっしてきれぎれの場面のフラッシュではないのである。納得のいく(と夢の中では考えている)一つの物語になっているのだけれども、今となっては、そのごく一部を断片的覚えているに過ぎない。まさに夢のかけらたち、といった趣である。
それにしてもどうしてこのところこう夢ばかり見るのだろう。けっして睡眠不足とか眠りが浅くて翌日疲れるというわけではないし、見て不快な夢ではないので苦にはならない。ちょうど寝ながら読書したり、映画を見ているような、そんな感じである。自分が主体的に動いているのに、その自分を遠く突き放して客観的に眺めている自分もいる、そんな印象である。
何にせよもっと覚えていられるといいのだが、そこは夢の悲しさというか儚さというか、きっと10分の1も覚えていられないのである。夢を記録しておけたら面白いだろうにとも思うが、まあしかし、忘れてしまった方が幸せな夢もきっと多いに違いない。
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2013年09月21日

立て続けに変な夢を見る―夢の記憶12

アルコールは嫌いではないし、むしろおいしいお酒を少しずついろいろ飲むのは好きかも知れない。でも、大勢でわいわいがやがややるのはどうも苦手である。できることなら自分のペースで飲みたい。しかもある程度の話はしたいから、気のあった少数の人と語り合いながら飲むのがいい。一人で飲むのはつまらない。一人で飲むくらいなら、むしろコーヒーとお菓子の方がどれだけいいか知れない。
というわけで、気の置けない友と相対で飲むのは最高の贅沢なのだけれど、滅多にあることではない。それが夢で実現したのである。相手は、仕事でいつもお世話になっている某大学のN先生。そう堅苦しいお付き合いではなく、気さくな方ではあるのだが、ぼくより年上でもあり、相応の遠慮は必要な相手である。夕食を共にして生ビールの一杯程度は飲むことはあっても、居酒屋に出かけるなどと言う付き合いをする相手ではない。ところが、その夢の中ではどうしたことか相対で意気投合して飲んでいた。きっと最初はいつもお世話になっているので、現実の世界でもたいていそうなのだだけれど、食事でもということだったと思う。それがこの夢の中では、気が付いたら2人で意気投合して飲んでいた。
暫くして、どうもいつものN先生と様子が違うなあ、と思う。飲んでもあまり酔わない方なのだが、というより現実の世界では酔うほど一緒に飲んだことがないというべきなのだが、かなり酩酊していらっしゃる。ああ、いつもとちょっと違うなと思いながらも、楽しいひと時を過ごしていたのである。何を飲み何をを食べたかの記憶は飛んでしまっているけれど、洋風の居酒屋であったと思う。話の内容も最初はよく覚えていたが、今ではすっかり抜けてしまっている。
さて、そろそろ帰らなければと思いつつ、まだ送って行っても充分帰って来れるだろうなどと、N先生を家まで、いや宿泊先のホテルだったか、ともかく送っていく算段を考えていた。どうも麹町の近辺にいるようで、中央線や地下鉄を乗り継いで行くことを考えていた記憶がある。最初は大丈夫と思っていたが、酩酊した頭でもう一度時刻を入力し直すと、帰りが終電に間に合うか怪しくなってきた。これは困ったと思い、他に手立てはないものかと思案すると、ああ、地下鉄で行って麹町で降りて送っていけば、あとは家まで歩いて帰れると、どうも都合良く判断していた。夢の中で、基準というか、設定というかがどんどんぶれていって、うまく話が落ち着いてしまっているのである。それを不思議とも何とも思うないわけである。
そうこうして店を出て、なぜか螺旋階段を下り始めるところで、偶然同僚たちと出会した。ぼくが一緒に飲んでいたN先生を紹介すると、同僚達が怪訝な顔をする。そしてこの人はN先生ではないと言い出すのである。キツネにつままれたのはぼくの方だったが、そこもどうしてだか同僚の話に納得していて、今まで飲んでいた相手がN先生でないことを認めている。いつもと違ってかなり酩酊していらっしゃると感じたのもそのせいだったんだと、そこだけ妙に辻褄があっている。納得した根拠、筋道が全く思い出せなくて、論理のない夢とも思えるが、そう言われればN先生にしては顔がちょっと違うなあと思ったような記憶もあるし、あるいはそこで本物のN先生を同僚たちが連れていたからだったような気もする。思い出そうとすると辻褄の合わないところが多発して綻びがめだってくる。
ともあれ、それなら別に送って行って家に戻れるかどうかなんて心配する必要もなかった、と安心するところで夢から覚めたのである。
文章にするとたどたどしい夢だが、見ている時の印象からいうと、ドラマを見ているような流れがあり、最後はとんでもないどんでん返しで終わる、夢ならではの素っ頓狂な物語ではあった。こんなにおかしな夢は滅多に見ないが、でも全く現実離れしているわけでもないところが何とも言えない。それと、なぜかこの夢は、一部を除いて記憶の消え方が鈍いのが不思議である。

          §          §          §

とまあ、ここまで書いた次の晩、またしてもおかしな夢を見た。ホームから電車に乗ろうとしている。ドアは既に閉まっていて、電車は走り出そうとしている。ぼくも含めて数人が、電車の外のホーム上に置かれた箱形のものに乗っていて、走り出し初めて電車とともにホーム上を動き始めている。どうも電車の速度が一定速度に達したところで、その箱から電車に飛び乗ることになっているらしい。ぼく自身はかえって乗りにくいのでやらないけれども、ちょうどケンケンをしながら一方の側から自転車に乗るあの要領に近い。電車に飛び乗ろうとしていたのはぼくだけではないから、けっして無茶をやっているというわけでは。でもその乗り方が普通なのか、そうではなくてドアから出入りするのか普通なのか、そこらへんはなにぶんにも電車がもう動いてドアが閉まっているのだからわからない。
ところが、である、電車と一緒に速度が上がっていくべき箱形のものの速度が思うように上がらない。そのため、それに乗っていた人は、電車に乗れないといって騒ぎ出した。すると、異常を察したらしく、電車は非常停車をした。電車が止まると、箱形のものから電車に飛び移ろうとしていた人はやれやれとばかりにホームに降り、さてと次の動きを待っている。まあこういうこともあるからと、みんな割と平然としている、慌てた風はない。一人は結構な年配の女性だったが、困ったねえという割りには顔が微笑んでいて、あまり困った風にも感じられない。もっとも何事もなく電車と同じ速度で加速できたとしても、いったいどうやって電車に乗れるのかよくわからない、あるいはデッキにしがみつく要領かとも思うが、デッキがホーム側にあるわけもない。その後何事もなく目覚めてしまったが、その年配の女性の笑顔が妙に印象に残っている。

          §          §          §

次の日、今週に入ってどうもくしゃみが止まらず、時折頭痛もするので、意を決っしてI女史のところに出かけた。9月に花粉の症状が出ることが多いので、抗アレルギー剤をもらうためである。ちょうど最初の夢を見た晩、余っていたのを飲んで、翌日は全く症状がでなかったものの、安心して薗次の日は飲まずに寝たら、てきめん一日中ひどいことになってしまったのである。
I女史のところは8月末とは打って変わった混みようで、散々待たされる羽目になった。もっとも、今回は本も持たずに出かけたものだから何もすることがなくて、ひたすら待つことができた。このボウッとできる時間はある意味貴重である。いつも最初に熱を測るようにいわれるのだけれど、前回と違って今回は風邪でもないから特に必要もないのにと思いつつ、ピピッといった体温計を抜いたら、思いもよらぬことに37度5分もある。くしゃみ以外には目立った症状はないので、てっきり花粉だと思っていたのである。いったいどうしてと思っているうちに、熱があるといわれると、どうも具合が悪いような気がしてくる。でもお蔭で1時間休養に専念することができた。I女史の診断は、基本は風邪であった。38度近くありそうですよという。要は疲れなのである。知らぬ間に風邪を引いているとは、そしてそれに気も付かないでいるとは、全く迂闊なものである。診てもらって本当によかった。
そのときI女史がふといわれたことには、この抗アレルギー剤を熱のある時に飲むと、変な夢を見ることがあるから注意してくださいね、とのこと。変な夢が具体的にどんな夢かはわからないけれども、確かに2日も立て続けに現実は慣れした夢を見たのは、あるいはそのせいだったのか、などと思ったりしたものだった。まあこんな夢ならば、いくらみたところで別にどうということはないけれどもね。むしろ愉しめたといってよいかもしれない。夢をこれだけ覚えているのはやはり異常なのだろうか。
ラベル: 日常
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2013年09月16日

台風一過と印象深い言葉たち

先週後半は、ぶり返した残暑に消耗させられたが、昨日今日は台風18号に翻弄される日々だった。発生から僅か丸三日で豊橋付近に上陸し、関東から東北太平洋岸に駆け抜けていった。スピード上陸と海水温の高さのために、上陸直前まで発達を続けるという比較的珍しいタイプの台風で、大型で北側に大きな雨雲を伴っており、スピードが早かった割には広範囲に多くの雨を降らせた雨台風だったといってよいだろう。奈良市内でも、そんなにまとまった降雨のイメージはないにもかかわらず、降り出しから200㎜近くにはなったといい、上北山村では500㎜という。京都や滋賀、福井では、初めての特別警報も発令され、嵐山の渡月橋付近で桂川が氾濫するなど、大きな被害が出ている。一日も早い復旧を祈りたい。
この台風は、各地に多量の雨を降らせたのは確かだが、発生が比較的高緯度だったのと、安定したスピードで北上したために、上陸直前まで発達を続けたとはいえ、台風としては未発達の団塊で上陸したのがまだ不幸中の幸いであった。もしもあと5~10°南で発生し、あと2、3日発達する時間的余裕があったなら、雨、風ともに被害はこれではすまなかっただろう。1959年の伊勢湾台風に匹敵する勢力、コースで上陸していた可能性が充分に考えられ、ちょっとゾッとする。台風シーズンはまだまだこれからであり、18号のコースや動きを考えるなら、今年はなお充分な警戒が必要な年になりそうである。
夕方にはすっかり爽やかな空気に入れ替わり、夕焼けが見事だった。暫くは台風一過の、といっても日中はまだまだ残暑が厳しそうだが、秋晴れになるだろう。雨と秋を連れて来てくれた台風だった。

          §          §          §

最近、暫く中断していた金大中氏の獄中書簡を読んでいる。最初の5通と違って極限状況を越えたとはいえ、全く先の見えない無期懲役囚としての獄中生活の中で書かれた家族宛の手紙であるが、そんな状況を微塵も滲ませない愛と思索と敬虔な祈りの書簡集である。与えられる愛を求めてもおかしくない状況に置かれながら、家族に感謝しつつ優しく語りかける与える愛を実践した書簡の数々は、既に指摘されていることかも知れないけれども、それは新約のパウロ書簡にも匹敵する深さと広さを兼ね備えている。まさに聖書の世界が展開しているともいえるだろう。
金大中獄中書簡.JPG
〔『新装版 金大中獄中書簡』(岩波書店、2009年)のカヴァー〕

そのなかで、繰り返し書かれている印象的な言葉に出会った。
「六・二五以来。四度の死の峠を越え、苦難の道を歩いてきましたが、私は、私の一生がそれなりに価値あるものであったと信じています。何かになるということが私の人生の目標であったなら、私は徹底した敗北者でしょう。しかし、どのように生きるのかということが目標であったなら、それでも意味ある人生であった、と自ら慰めてみるのです。」(第二三信。和田春樹・金学鉉・高崎宗司訳『新装版 金大中獄中書簡』岩波書店刊、2009年より)
「すべての人が人生の事業で成功者となることはできない。しかし、すべての人が人生の生き方で成功者になることはできる。そのためには、何になるのかというところに目標を置かずどのように生きるのかに目標を置くことだ。」(第二三信、思考の断片。同上より)
「苦難の時節に、幸福な日がくるのを待って耐えよ、というのは間違いだ。幸福な日は来ないこともあるし、来るとしてもそれまでは不幸でなければならない。私たちは苦難の時節それ自体を幸福な日としなければならない。そのためには、何になるのかということよりも、どのように生きるか、ということに人生の目標を置かなければならない。(これはたいへん難しいことです。しかし、私は最近そのように努力しています。)」(第二四信、思考の断片。同上より)
どのように生きるかを目標としていれば苦難の日も幸福な日とできるとは、けだし至言である。苦難などと一言で片付けられないような日々を送らねばならなかった金大中氏の言葉は、まさしく限りなく重いものがある。
第二部も併読し始めているヒルティにも、偶然とは思えない言葉があった。
「幸福というものは主体的なものであり、自分自身の内に見出さねばならぬものだ。」
「もしあなたが、つねに活動的に、誠実に生き、神と和らぎながら、すべての人々に対してゆたかな愛をもって、生きようと決意するならば、そのために間違いなく得られる幸福の実感によって、あなたは困難な時にも、しっかり支えられるであろう。それどころか、しばしば、苦難の中においてさえ、あなたは非常に強い心の慰めを経験し、そのために、後になると、この苦しかった時期が、ただ幸福な時としてのみ思い出にのこるのである。」(ヒルティ『眠られぬ夜のために 第二部』九月十二日。岩波文庫より)
金大中氏はまさにこれを実践している。しかも最初に引用した第二三信の夫人に宛てた書簡の述懐は、次のような祈りの言葉に直接つづくのである。
「六月二十五日を迎えて、歴史を司られ、私たちを自由にし、正義と平和の道へ導かれる主に、国と国民の安全、自由と平和と正義の実現、祖国の平和的統一を成就することができますよう、わが国民に力と知恵を与えてくださるよう、切なる祈祷を捧げます。」
第二三信は、朝鮮戦争勃発から32年目にあたるの1982年6月25日に書かれたものであり、そこから始まる金大中氏自身の苛烈な運命を振り返るとともに、民俗の運命の過酷さを痛感する文脈の中で語られた言葉なのである。そしのこの書簡で金大中氏は、夫婦の絆を論ずる形で、与えられる愛よりも与える愛に徹するべきことを説き、その最大に実践者としてのイエス・キリストに行き着くのである。
第二四信はそれから約ひと月後の7月25日に書かれたもので、金大中氏は自分の信じることが間違いでないことを確かめるかのように、そしてかみしめるように、私は最近そのように努力していると記す。いかに生きるかを実践しているその姿は心を打つ。

          §          §          §

「どんな風にして神様が私たちを、会わせてくださるのかわかんないけどわたしが痛切に思うのは、神様はこの人とこの人を会わせようとしたら、どんな手立てを尽くしても会わしてくださると思うのね。出会いを大事するっていうことは、損するか得するかの問題ではなくて、その人と会わせてくださった神様のみこころを知るというかね。わたしの元の秘書がよくいうんですけどね、神様があなたの隣にこの人を置くよと、置いてくれたその隣人を愛します、ということを書いてくれたことがあるんですけれどもね、わたしはいい言葉だなと思うんです。明日誰に出会うかわかんないけど、出会った人をおまえは愛するかと神様はいつもね、呼びかけてくださっているような気がするんですね、このテープをね、聴く方が、何千人何万人いらっしゃるかわかんないけど、このテープに触れたことによってその人の人生がまたね、深く心の中に触れて、新しい人生が展開されていけば、どんなにすばらしいだろうとか、このテープが、どういう人からどういう人への、手に渡っていくかで、またテープ一つ一つの運命が違うわけですよね、そんなことを思うと、とっても楽しいですねぇ。」
「人を紹介するっていうことはね、どんなに大事なことかってことを。その人の人生にとってのすごいプレゼントですよね。人生が変わるってことありますね。わたしたちの一番紹介しなくちゃいけない方はイエス・キリストなんですけどね。」
これは「ウクレレ讃美歌 ガリラヤの風かおる丘で」(WLP-LK48274、いのちのことば社)と題されたウクレレによる讃美歌集で、三浦綾子さんが語っている言葉である。このCDのことを知ったのは、三浦さんの2代目の秘書だった宮嶋裕子さんの「三浦家の居間で 三浦綾子―その生き方にふれて」(マナブックス、2004年)との出会いである。この本も中古での入手だったが、その中でこのCDへの言及があった。三浦さんの小説『夕あり朝あり』(新潮文庫)の主人公で白洋舎の創業者である五十嵐健治氏の子息、五十嵐有爾氏のウクレレ伴奏により、五十嵐氏夫妻と宮嶋さん夫妻の合唱で録音された愛しむべきCDである。調べたところ既に完売しており入手困難で、一度は諦めていた。それが後日たまたまYahooのオークションで比較的安価で出ているのを、オークションに出たその日に見付け、運よく入手できたのである。これこそ出会いの不思議としかいいようがない。愛しむべきと形容したのは、入手後実際に聴いてみての感想である。讃美歌の美しさは勿論だけれども、五十嵐氏との対談で進められる三浦さんの飾らない語り口のコメントを聴けるのも、このCDの大きな魅力になっている。先程紹介した三浦さんの言葉は、その中の一つである。何とか復刻していただけないかと切に祈るばかりである。
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〔「ウクレレ讃美歌 ガリラヤの風かおる丘で」(いのちのことば社)のジャケット〕

ちなみに構成を掲げておく。
 1、ああ主はたがため 讃美歌138(4′2″、対談含む)
 2、心の中に主イエスを(2′13″、対談含む)
 3、シャロンの花 Ⅱ讃美歌192(2′33″)
 4、ささやかなるしずくすら 讃美歌463(3′7″、対談含む)
 5、メレエ メレエ ハワイ讃美歌94(1′34″)
 6、いつくしみ深き 讃美歌312(3′55″、対談含む)
 7、ナルドの壺 讃美歌391(2′16″)
 8、ガリラヤの風かおる丘で 讃美歌21 57(3′52″、対談含む)
 9、主はいま生きておられる リビングプレイズ16(1′49″)
 10、神の国と神の義を リビングプレイズ85(2′54″、対談含む)

          §          §          §

ヒルティの言葉の中に、別にそういうわけで書いているつもりはないのだけれども、ちょっと痛い言葉があった。
「自分自身のことは全く語らないのが、一番よろしい。口に出しても、手紙ででも、そうだが、日記の中では特にそうである。自讃にわたることは、嫌なあと味をもつし、また、自己非難は、われわれの存在と生命の根源である神のみ業に、ともすると触れることになるので、これもなすべきではない。他人はわれわれを大体において正しく評価するものである。われわれはそんなことを気にやむ必要はない。真に有為な人がながく軽んじられたたためしはいまだかつてない。多くに人びとがしっかりした頼りと支えとを必要としているために、おのずからそうなるわけだ。われわれ自身にとっては、あらゆる自己評価のかわりに、そういう他人の評価で十分である。」(『眠られぬ夜のために第二部』九月十日)
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2013年09月14日

一緒に星を見た犬の記憶2

赤く薄汚れた半月が西の空に傾いて出ていた。帰宅して遅い夕食をとったあと、PPとAGを順に散歩に連れて行った。PPとはBと歩いたコースのうち、階段を省き、かつ逆向きに歩いてみた。よく鹿と出会した川沿いにまでは降りずに、川沿いの道の終点から一気に駆け上がる幅広の階段、一名地獄の坂の上から、川より一つ上の道を行く。同じ道が反対向きであるというだけで、全く違った道に思える。AGとは、今度はPPの時の逆コース、つまりBと歩いたコースの簡略版を辿り、最後は遊歩道を下って家路につく。2匹とも嬉々としてぼくを引っ張って歩く。パパさん遅いですね、大丈夫ですか、とばかりに時折振り返ってぼくを見上げる。考えてみると、この2匹とこの界隈を歩くのは、正月以来かも知れない。途中、飛行機の点滅する姿は見えたものの、星は薄雲がかかっているのかよく見えない。
この間の日曜日の午後遅く、ふと思い立って二月堂まで同じ2匹を連れて家内と散歩に出かけた。鹿との出会いなどちょっと不安もあったが、2時間ほどでゆっくり行って来れた。でも一旦涼しくなって油断したためか、思いの他の暑さで、犬も人も結構バテてしまった。PPなど目的地に着く前から座り込んでしまい、これは帰りはだっこか、と覚悟したのだったが、水を買って飲ませてやる(飲み水をペットボトルを持って出なかったのは大失敗!)と俄然元気になって、結局最後まで歩き通した。それ以来の散歩である。


          §          §          §

昨年末から今年にかけて、仕事の関係もありBとの散歩はすっかりご無沙汰になってしまっていた。Bに申し訳ないと思いつつ、ぼくの体力、というより気力が主かも知れないけれども、それが許す限りは散歩に連れ出すように心がけてはいた。
最初にBの体調の異変に気付いたのはそれほど前のこととは思えず、5月の連休明け頃のことではなかっただろうか。いつもBは川沿い野道の終点、つまり地獄の坂の階段の下でいつもおしっこをして準備を整え、さて、とばかりにここを一気に駆け登る。そのBが登ろうとしないのである、いつもは先に立ってぼくを引っ張り上げてくれるのに、後ろを向いてしまう。B、どうした? とリードを引いても躊躇している。でも何度か促すうちに、しかたなくゆっくりと登り始める。ゆっくりでいいからね、と歩いて登る。でも、途中の踊り場まで来ると、また立ち止まってしまう。休んだらまた上がろうと、少しずつ登って行く。平らなところはごく普通に歩いていたから気が付かなかったのだけれど、今思えば、もうこのころから背骨に痛みを感じ始めていたのではないか。Bが動かなくなるというのは余程のことではなかったか。こんなことが何回か続くようになったのである。でもほかには特に違和感を感じることもなく、相変わらず食い意地のはった散歩を楽しんでいるとばかり思っていたのだった。
朝ぼくが目覚めて起き上がると、それを目敏くかぎつけたBは朝ごはんを催促して吠え始める。しかもケージの中をぴょんぴょん飛びはねるので、騒がしいこと限りがない。我が家の毎朝のお決まりの光景で、家じゅうの目覚ましにもなっていた。ぼくがゆっくり着替えてトイレに行っていたりしようものなら、その間じゅうこの目覚まし犬の催促が続くのである。こんなにまでごはんを待っていてくれていると思うと、やる方もやりがいがあるというものである。ともかく早くBにごはんをやって黙らせなくては。まさに目覚ましを止めるようなものだった。あとの3匹たちは事前に吠え出すことはないので、慌てることはない。PPだけは、ごはんを持って階段を上り始めると、あのだみ声ワンワン言って、全身を使ってごはんの喜びを表現するけれども、AGは吠えることは全くないし、ACも時折喜び勇んで催促するくらいのものである。それに比べると、Bの食に対する執念はすごかった。食べてしまえばそれで安心なのである。あとはゆっくり出すものを出して、ぼくが片付けるのを待つ。まったくよくできた犬だった。こうして4匹の食事と回りの片付けが朝一番のぼくの仕事だったが、よく考えてみると一番手間のかかったのがBに関わる事だったのは否めないだろう。でも世話の焼ける子ほどかわいいものである。
最後の散歩は7月12日金曜日の夜だった。13日の夜のバスで東京に行くことになっていたから、行ける時に散歩に連れて行ってやらなければと思い立って連れて行ったのでよく覚えている。家内が走りに行くのと重なって、玄関で家内に送られて散歩に出たと思う。Bはいつものように前へ前と進むのだけれど、後ろ脚を引きずるのである。こんな事は今までなかったことで、どうしたのだろうとは思った。でも、散歩に行きたくないという風でもなく、ゆっくり行けば大丈夫かと思っていつものコースで歩き始めた。家の裏の遊歩道に入ってもひどくなるばかり。それで、Bを抱き上げて、階段には行かずにバス通りに出たところで、つまり家の回りを一周しただけで家に戻ることにしたのだった。
今にして思えば、もうこの時には椎間板ヘルニアの症状で背骨が圧迫され、脚の神経がいうことを聞かなくなり始めていたのだろう。散歩は嫌です、といってくれたらよかったのに、などと思うのは人間の勝手に過ぎないだろうが、この時気付いて土曜日にでも動物病院に連れて行ってやっていたなら、もしかしたらこうまで急に悪化せずに済んだのではないか。そんな後悔が心を過ぎって、今なおやるせなくなるのである。

          §          §          §

Bとは二上山に登ったこともあるし、須摩の海岸を歩いたこともある。随分あちこち出かけたけれども、二月堂に出かけた記憶はない。あんなにたくさんの鹿に囲まれたら、夜の散歩で鹿の遠音だけで猟犬の本能をよみがえらせていたBなら、いったいどんな反応を示していただろうか。そんな心配も、Bも連れて来てやればよかったと、結局はそこに行き着いてしまうのである。

残暑の二月堂.jpg
〔残暑の二月堂。この画面のすぐ右下にPPとAGがいる〕
ラベル:日常 季節 奈良
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2013年09月11日

一緒に星を見た犬の記憶

9月に入っても日中はまだ30℃前後まで上がっているから、普通に言えば残暑ということになるのだろうが、今年の場合暑かった時期に比べれば10℃近くも気温が下がっているわけで、ひどくあっさりと秋が来てしまった感じがする。昨年の晩夏は結構夕立が多かったと記憶しているが、今年はそれもない。先週前半は台風も絡んで夏と秋のせめぎ合いということだったはずなのに、いやにさっぱりと終わってしまっていて、月曜日こそ1日振りはしたものの、火曜、水曜と降りそうで降らない日が続いた。また降っても基本は夕立タイプの雨で、前線の雨が続くという風ではない。春先以来の少雨傾向はまだ続いている。
昨年の記事を読んでいたら、9月にBの散歩のことにちらっと触れている部分があった。犬のタグを付けていない記事で、自分でも書いたことを忘れていたが、散歩中のBの変わらぬ足取りに感心したと書いてある。その頃にはもうBの体調はけっして万全ではなかったはずだけれど、それから1年後にもうBがいなくなっていようとは、今でも俄には信じられない。自分が忙しさにかまけている間に、Bの身体は徐々にしかし確実に蝕まれていっていたのだ。

          §          §          §

Bの体調がおかしいのに気付いたのはいつ頃だっただろうか。ACがAGと一緒に生活できなくなって(別になさぬ仲というわけでもなく、2匹ともBから生まれたれっきとした娘姉妹なのだが)階下のリビング暮らしを始め、2階ではBとPP、AGが一緒にいることになったわけだが、何事にも潔癖なAGがBにちょっかいを出すようになる。BはAGを嫌がって、斜めに立てかけたベットの材に上り、その斜面やてっぺんに陣取っている時間が長くなっていった。
そのころからであろう、2本セットしておいた飲み水の減り方がひどくなり始めた。最初は3匹のうち誰がそんなに水を飲むのか見当が付かなかったが、どうもBらしいということがわかり始める。1日に500ミリのペットボトル1本は軽く飲んでいるらしい。そしてやはりそのころからであろうか、出産後比較的太っていたBが少しずつ瘠せ始め、かわりにおなかが出始める。糖尿病を疑ってみたりはしたものの、特に医者に見せることもなく過ぎてしまった。毎年の狂犬病の予防注射とフィラリアの薬をもらう時には動物病院に連れて行くので、様子は話すのだが、もう少し経過を見ましょう、で済んでしまう。確かに状況が把握できていたとしても、どうしようもなかったのは事実なのだろう。
BをAGから離すことにし、ぼくのへやにケージを置いて過ごすようになったのはいつからだったか。階下で過ごすようになってBはずいぶん落ちついたような気がした。こんなことならもっと早くAGから離してやればよかった。Bを見ていて悔やまれもした。そのへんBはものすごくデリケートなところのある犬だった。
糖尿病だとしたら、将来さまざまな障害が発生する可能性がある。それならば適度の運動をすることがよいのではないか。そう考えて、ぼくのへやに住むようになった頃から、できるだけBを散歩の連れ出すように心がけた。ゆっくり歩いて25分程度の道程である。途中結構長い階段が2カ所あり、ぼく自身もこれを駆け上がるのは結構辛いのだが、Bはぼくを引っ張るようにしてよく登ったものである。パパさんしっかりしてください、とでも言いたげにBが振り向いてぼくを見ることもよくあった。喜んで登っているんだとばかり思っていた。しかし、はたしてこれが過重な負担になっていはしなかっただろうか。仕方なく登っていたのではなかったのだろうか。もしそうならBには本当に申し訳ない。
あとでわかることだが、クッシング症候群で弱ってきているBにとって、散歩が身体の悪化をかえってもたらす結果になっていたのだとしたら、悔やんでも悔やみきれない。でも、B自身が散歩に積極的だったのは間違いない。Bを散歩に駆り立てたもの、それはこの種の犬としての狩りの本能、端的にいえば食欲だった。飛んでいる虫、落ちている虫、道端にある食べられそうなものを何でも確かめながら歩くのがBの楽しみなのだった。もちろん拾い食いは厳禁だから、匂いは嗅いでも銜えてしまう前に引き離しはしたものの、どうしても夜の暗い道の散歩が主であったから、間に合わないこともあった。何を食べたのかわからぬまま、丸呑みしていることがなかったとはいえない。B自身にとって、この散歩は無上の楽しみであったのだと思う。でも、根が食いしん坊だったのは確かだと思うが、食欲の増加もまた、クッシング症候群の典型的な症状だったのである。
勤めから帰って10時近くの散歩はぼく自身けっして楽なものではなかったけれども、少しずつお腹の丸くなってゆくBを見ていると、少しでも長生きさせてやらなくてはという気持ちと、今連れて行ってやらなければきっと後悔するだろうという気持ちが入り交じって、夜の散歩の励行になっていったのである。B自身、ぼくを見て吠えたてて散歩を催促するようにもなっていった。Bと一緒に季節の星を楽しんだのはこの頃のことである。北斗七星の柄杓が季節変動の一番の目安になった。Bがどれだけ夜空を見上げていたかはわからない。見ていたのは地面に落ちている雑多な食べられそうなものだけなのかも知れない。それでも、Bに話しかけながら星を見ていると、ふっとぼくのを方を見上げてくれたものである。そんなときのBのしぐさが無性に愛おしくなる。もっともっと声をかけてやればよかった……。(つづく)
ラベル:日常 記憶
posted by あきちゃん at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする