2013年10月31日

心の山旅―秋の伯母ヶ峰をゆく

秋晴れの一日、久し振りの山を満喫した。去年もちょうど今頃2度大峰に出かけ、行者還岳と弥山・八経ヶ岳に登った。それに比べれば今日のコースはずっと楽で、急な登降もないし、距離も短い。その分自然林が残る秋の山の空気をたっぷり吸ってリフレッシュすることができたように思う。
今日の目的地は、伯母ヶ峰。大台ヶ原ドライヴウェイがその南側を通る不遇な山である。地図で見ると、一見ドライヴウェイのすぐ北側の、どうということのない峰のように見える。しかし、北側の大迫ダム側から見ると、600mの比高差で立ち上げる雄峰、というかこれはもう巨大な山脈である。ドライヴウェイがなければ、ここに登るのはさぞやたいへんなことだっただろう。
伯母峰峠のトンネルの先でバスを降り、早速とんでもない傾斜と長さの鉄の階段を登って尾根上に出てトンネルの上を横切る。目指すは伯母ヶ峰本峰、そして、北に大迫ダムに向かって突き出る尾根上にある北峰。全行程4時間余りである。
快晴である。しかも、伯母峰峠でバスを降りた一行を迎えてくれたのは、大普賢岳の遠望。早速の歓待にあって、幸先の良いスタートを切る。去年行者還岳の時は、立ち止まると尾根上を吹き抜ける風が冷たくて、晩秋の風情が濃厚だった。一方今日は、標高が低いせいもあるが、風もなくて、日射しもたっぷりとあって、この時期にしては暖かく、寒さを感じない。木によっては真っ赤や黄色に色付いているものもあり、枝だけになった木や、黄緑や緑色のままの木々とのコントラストが何とも言えず美しい。紅葉しきってしまうよりも、かえって山々が合奏しているようで、生き生きとした風情がある。
伯母峰峠からの大普賢岳(左)と明るい自然林の尾根をゆく(右).jpg
〔伯母峰峠からの大普賢岳(左)と明るい自然林の尾根をゆく(右)〕
行程はほとんど尾根上のルートだが、そんなに密ではないものの木々に縁取られ、木の間から時折遠望が効く。それがまたなんともしとやかで心を魅く。前日の雨で散り敷く落ち葉はかなり湿っているが、かえって足にしっとりと馴染む。瘠せ尾根を行くところもあるが、落ち葉が優しく道をカヴァーしてくれている。

          §          §          §

若い頃は往路と同じ道を戻る行程が嫌いで、一筆書きルートを好んで歩いたものだ。同じ時間かけるのなら、往復同じ道を歩くのはもったいないというか、無駄のような気がしたものだった。けれどもこの年になって感じるようになってきたのは、同じ道でも、往路と復路とでは全く違う顔を見せてくれるということである。同じ方向に歩いても、季節、時間、ひいては自分の心の持ちようによって、変幻自在の様相を見せてくれる。ましてや方向が逆なら、それはもう別の道である。往きに気付かなかった発見がいかに多いことか。登りと降り、往路と復路とでは景色がまるで異なるのである。漫然と歩いていたのでは、どこの道を歩いても同じことになってしまう。しっかり目と心を開いて歩くなら、どこを歩いても新しい発見があるものである。
そんなわけで、最近は往路を戻る行程も全く厭わなくなった。いやそれどころか、往きに、ああいいなと思ったところに、再び立ち止まれる、その喜びに満ち溢れるようになったのである。気に入ったところを見付けておく、そこが帰りにどんな姿でぼくを迎えてくれるか、それが密かな楽しみとなったのである。去年出かけた行者還トンネルからやっとの思いで登って、ほっこりと飛び出した奥駆道との交差点の峠。あのさやさやとした笹藪の景色がそうだった、今日でいえば、ひどくねじ曲がったヒノキの巨木があるピークがそうだった。幸いにもここで今日は昼食になったから、お気に入りに地点を満喫することができた。先を急いで歩くことよりも、どんな発見をしながらどう歩くかを考えて歩ける心の余裕が生まれてきたのかも知れない。
ねじ曲がったヒノキの古木.jpg
〔ねじ曲がったヒノキの古木〕

もっとも、これは心の余裕でもあり、一方で身体的な必然でもある。要は速く歩けなくなってきたのである。ことに降りがしんどい。膝の踏ん張りが利かなくなってきたのを痛感する。いや、踏ん張れはするのであるが、すぐ膝にくるのである。今日も、ああこれはやばいと思った時があった、幸いにも、終着点がすぐ到着したから事なきを得たが、あと少し降りが続いていたなら、さてどうなっていたか、自信がない。
あともう一つ、こうした心の余裕をもって歩ける原因として思いあたることがある。それは、これらがみなツアーであることである。集合場所に行きさえすれば、あとは身体さえついていけば、道を探す心配もなく、ペース配分を考える必要もない。弁当が付いて、さらには帰りの温泉入浴までがセットになっている、まことに至れり尽くせりの山旅なのである。若い頃だったら、多分他の参加者のペースに合わせて歩くのが苦痛だっただろう。しかし、いまのぼくにはそれは全く苦にならない。体力的に付いていけなくなったら別だが、中高年にはもってこいの企画だと思う。それに公共交通機関を使ったなら、まず日帰りなどできないようなところにも気軽に行って来られるのは、このツアーの魅力を何層倍も大きくしている。自家用車を使うなら、もっと効率よく動けるかも知れないし、行きたいところに行けるかも知れない。しかし、駐車スペースを探して車を駐め、歩いた後で運転して帰らなければならないということを考えたら、このツアーの簡便さは歴然であろう。

どうもこうしてつらつらと考えてみるならば、心の山旅を愉しめるようになったのには、この企画が大きく寄与しているような気がしてきた。でもこのツアー、なみたいていのものではない。採算は取れているのだろうかと、ちょっと心配してみたくなるほどに充実している。まさにスタッフのみなさんのお力あってこその企画である。ただただ感謝である。
伯母ヶ峰本峰(左)と大普賢岳のシルエット(北峰の帰途に).jpg
〔踏み来しし伯母ヶ峰本峰(左)と木の間越しの大普賢岳のシルエット(伯母ヶ峰北峰の帰途に)〕
ラベル: 季節
posted by あきちゃん at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2013年10月24日

深まる秋に思うこと

見本のようなコースを辿って次々と北上の機会を狙う台風。26号が秋の空気を引き入れてくれたかと思ったのに、また夏の高気圧が息を吹き返す。先週末に27号のコースを見た時にはゾッとした。急速に発達し始める兆候も見え、室戸や伊勢湾クラスの台風となって日本にやって来そうな気配を示し始めたからだ。たいへんなことになりそうな予感がしたのである。
だが、その後の週末以降の動きを見ていると、幸いなことに少し様子が変わってきた。920ヘクトパスカルまで下がった中心気圧が少し上がり始め、目もぼやけ始めている。また台風としての規模もさほど大きくならない。それに相変わらず動きが遅い。これなら大丈夫かも知れない、こうしてグズグズしている間にごく普通の台風に弱まってくれるのではないか……。
発生から一週間くらいの壮年期にかかる頃の台風が一番怖い。伊勢湾台風がその典型的な例だ。18号や26号はその傾向が強かった。あのようなスピードをもっていたら、とんでもないことになっていただろう。いくら海水温が高いとはいっても、やはりそこは10月の台風ということか。
おまけに続けて28号が発生して影響し合い始めている。藤原の効果などという懐かしい言葉さえ飛び出す。でもどう考えても10月のこの時期に話題になる言葉ではない。8月頃に日本の回りを3つも4つも台風がウロウロしたことがあったけれど、そんな頃に相応しい現象だ。そしていつのまにか28号の方が小粒ながら猛烈に発達している。こちらは小笠原が危ない。早くに東にむかってそれてくれないものか。
27号の方は相変わらずのノロノロで、徐々に弱まっては来ている。今日など雨の予報だったのに晴れ間さえ出る始末。まあしかし、まだまだ油断はならない。弱まったところで台風は台風である。明日から明後日にかけてが再接近である。前線が絡むと直接近付かなくても思わぬ大雨が降る。万全の体勢で襲来に備えなければならない。

          §          §          §

朝同じ時刻のバスに乗っても、途中の道の状況によって駅に着く時間が微妙にずれるから、乗る電車もそれに応じて1、2本は前後する。それなのに不思議なことに、下車駅について階段を降り始めると、決まってぼくのすぐ前を降りていく特徴的な短く刈り込んだごま塩頭に出会うのである。ぼくと似たような年代の人だと思うが、正面から見たことがないので、どんな方なのかはわからない。でも階段を下り始めてその頭に出会うと、なぜかほっとする。いつも決まって出会う常連さん、ぼくが勝手に決めているだけなのだけれど、背筋を伸ばして真っ直ぐに降りていくいつも変わらないその姿は、一日の始まりに大きな安堵感を与えてくれるのである。この方がどこから乗ってくるのかいまだにわからない。見かけるのはいつもぼくが階段を下りかけた時、一足先に数段下を降りて行かれるのを目にするのだから。
学生時代、毎日同じ電車に乗り合わせる子がいた。どこの学校かも知らない。お互い(かどうかは勿論わからないけれど)気になりつつも、別に声をかけるわけでもない。でもその子がいるというだけで、なぜかうれしくなる。そんなことがあったのををふと思い出してしまう。たまに顔を見ない日があったりすると、一日どうも落ち着かない。忘れ物か何かをして1本乗り遅れただけなのかも知れない。でも、もしかしたら熱でも出して休んでいるのだろうか。1日気をもんだ翌日、何もなかったようにいつも通りの姿を見かける。あんなに心配したのにと、ちょっと憾みがましいことも言ってみたくなる。でもなぜか爽やかな1日が約束される。
また、駅までの道すがら、いつも朝顔を合わせる近所のおばさんがいた。最初はちょっと恥ずかしかったが、顔見知りでもあり、ある日勇気を出して、おはようございますを言った。恥ずかしげに通り過ぎようとすると、にこやかに挨拶を返してくれたではないか。挨拶がこんなに気持ちのよいことなのか。その次の日からそのおばさんの家の前を通るのが楽しくなった。自分が心を開けばちゃんとそれが返ってくる。当たり前のことである。でもその発見はぼくにとっては大発見なのだった。そんな初々しい年頃だったこともあったのだ。
ごま塩頭のおじさんに会って改札口を出る。すると、今度はいつも電車を眺めている男の子をよく見かける。高校生くらいの年齢らしいが、養護学級の生徒だろうか、ひたすら電車を見つめている。この子に最初に気付いたのは、突然声をあげて走っていくのを見かけたときだった。それはその子が電車を見て叫んだ喜びの声だったのだ。純真なまなざしで電車を見つめているその子を見ていると、心の中が洗われるような感じがする。自分の心にある不純なもの、汚れたものが、ちょうど炙り出されるように浮き上がってくる。自分ではわからない自分を映し出す鏡になってくれるのだ。他人と向かい合うことでしか見えてこない自分。絶対的な自分をもてない者ゆえの悲しさか。
オリオンの三つ星が真東から昇ること、それが縦に並んで水平線から顔を出すことは知っていた。そしてそれを何度も見たことがあるのに、迂闊であった。三つ星が水平線から顔を出す時、かのベテルギウスとリゲルがどんな位置関係にあるか。三つ星を挟んで左側(北側)にベテルギウス、右側(南側)にリゲルがちょうど一直線に対置するのである。両一等星を従えて垂直に昇る三つ星の雄姿に唖然とさせられたのだった。しかし、それもほんの一瞬のこと、まもなく東の空から涌き上がったらしい雲に包まれて星影を見失ってしまった。
このあいだ金木犀の香りを楽しんだばかりというのに、もう月末である。時間の推移についていけなくなっている自分を感じる。そういえば数日前、再び金木犀の香りをかいだような気がしたのは、幻に過ぎなかったのだろうか?
ラベル:記憶 日常 天気
posted by あきちゃん at 22:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2013年10月15日

穏やかな三連休と北上する台風

台風26号が北上している。大型で中心気圧も935ヘクトパスカルだが、もう25°Nライインに差し掛かろうとしているのに、その気配をほとんど感じない。風はいくらか出ているものの、上弦を過ぎた月が皓皓と照っている。予報のように明日昼には雨になるとは思えない穏やかさである。18号のときは、台風本体が大型だった上に前線が影響して大雨を降らせたけれども、今回は台風自体は大型ながら日本付近に前線がなく、台風本体の雲を待つ状況になっていることによるのだろう。このぶんだと、近畿地方にはたいした影響もなく過ぎ去ってくれるかもという期待が過ぎるが、そこは何と言っても大型の台風であり、覚悟はしておいた方がよい。3週間前だったら、もっともっと危険な台風になっていたことだろう。何事もなく通り過ぎてくれることを祈らずはいられない。

三連休は快晴が続き、日中こそ暑さを感じたものの、穏やかな行楽日和が続いた。結局どこにも出ずじまいではあったが、洗濯日和でもあり、布団もよくふくらんだ。
連休最終日の今日は、今年最後になるであろう庭の芝刈りに精を出した。ACとPPと遊ばせながら、芝刈り機を繰り出す。今年は夏の芝刈りをずいぶんサボってしまったが、芝の状態はそれほど悪くなっておらず、雑草も思ったほどではない。多い年は真夏には2週間に1度刈っていたのに、今年は記憶している限り1回だけで、前回からひと月半は経っているはずである。
時折2匹にボールを投げてやりながら、ざっと2時間くらいはかかっただろう。その後、隣家に伸びて行っている枝を切り払ったりしているうちに、もう日が傾いて来ている。時計を見るとまだ5時である。何といっても10月も半ばに差し掛かっているのを実感する。
東京で季節を一気に進める冷たい北東気流の雨が続いたりするのもこの頃である。神保町の本屋街に出かけ、店から出て冷たい雨と意外に早い夕闇の到来によく驚いたものである。わずか20分に相当するだけだが、関西と関東の5°の経度の違いはずいぶんと大きいのである。

夜は日中庭に出してもらえなかったAGを連れて散歩に出た。書いたことがあるかも知れないが、姉妹なのに以前AGはACにちょっかいを出して喧嘩をし、ACは耳の後ろを何針か縫う怪我をした。それ以来、AGとACは一緒にしておけなくなってしまった。それで庭に出る時も、誰とでも仲良くできるPPとAC、あるいはPPとAGということになる。だからPPは、いつでも外に出してもらえるわけである。とはいえPPもあるいはAGと一緒は内心迷惑なのかも知れないが、身体が大きくて力持ちのPPにはAGもかなわないのである(それでも性懲りもなく喧嘩を売って逆にPPに囓られるものだから、AGの顔はあちこち穴だらけである)。
AGはとても頭の良い犬で、一匹でいる分にはたいへんおとなしい。散歩も上手である。しかし他の犬(といってもACもPPも姉妹なのであるが。亡くなった母親のBに対してさえそうだった)がいると、自分の基準を他の犬にも守らせようとする。要するに余計なお世話を焼くのである。それでいつもぼくに怒られて、この子はこの子でずいぶん損をしているのは間違いない。だから、せめて散歩だけでも一人でのんびり歩かせてやりたい。明日の晩は雨に違いないし、今日の日中はACが庭に出る番だったので、外に出られなかったAGと夜の散歩ということになったわけである。

Bと歩いたコースは未だに封印したままである。3匹とは少し道を変えて歩くことにしている。Bとの思い出を大切にしたいという思いと、Bとの散歩コースにある階段登りがBの寿命を縮めたのだとしたらという危惧がそうさせている。寿命だったのだと自分を納得させながらも、悔いが残るのである。とはいえ、Bが亡くなるタイミングは、まるでぼくら家族の動きを見ているかのようだった。家族に見守られながら、しかも一番迷惑をかけない時期を選んだとしか思えないような旅立ちだった。
犬は人間に寄り添ってしか生きられないのだと聞かされた。そしてだからこそ、必ず天国に行けるのだという。Bは今、天国で何をしているのだろうか。今日、Bが亡くなる直前に娘が名古屋で買って来てくれたお菓子の残りが偶然出てきて、それを食べているうちにふとまたBへの思いがこみ上げてきてしまったのである。
今度こそ夏の終わりを告げる台風になってほしい。
ラベル:天気 日常 季節
posted by あきちゃん at 01:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2013年10月13日

秋の夜長のために―最近のCDと読書から

日曜日を迎え、ようやく秋本番の陽気が戻って来た。爽やかな快晴である。今年は金木犀の香りの到来後も季節が行きつ戻りつし、今週後半は半袖で過ごせる陽気が続き、東京のように最も遅い真夏日を記録したところもあった。金木犀はびっくりして散ってしまうし、ソメイヨシノが開花してしまったところもあるらしい。いやはやどうも季節の推移も品がないというか、なかなか穏やかに経過してくれない。
天気図を見ると、大陸には寒気が待ち構えている気配があり、季節のうつろい、などという言葉が死語になるのもそう遠くないと思わせられるほど、季節の変化が過激になってきている。春秋の過ごしやすい季節がますます短くなっていき、こうなると季節感などという言葉もなにもあったものではないという気がする。
昨日、日中は結構気温が上がったが、夕方になって一昨日の低気圧の通過で空気が入れ替わったことをようやく実感できる涼しさになってきた。南天に皓皓と輝く半月にもそれはよくうかがえた。さすがにもう釣瓶落としの季節である。

          §          §          §

ここのところ本もCDもなかなかじっくりというわけにはいかない日々が続いている。
先月久し振りに買い求めたCDも、まだあまり聴けていない。一つはヴィルヘルム・ケンプの協奏曲集(00289 479 1133)。発売直後から買おうと思いつつ、まあそのうちにと先延ばしにしているうちに、ソロ・レコーディング集の方はまだ売り切れる気配もないのに、協奏曲集のはいつの間にか完売になってしまっていた。それがようやく再プレスされ、思い立って購入したのである。

ケンプ協奏曲集(00289 479 1133).jpg
〔ヴィルヘルム・ケンプ協奏曲集のボックスセット(00289 479 1133)〕

お目当てはモーツァルトの協奏曲集である。フェルディナント・ライトナーとの8番・23番・24番・27番はLP時代からの愛聴版で、CDも持っているのだが、これがあろうことか針飛び(CDには相応しくない表現だろうが、要はあるところまで来ると音が飛んでしまったり、進まなくなったりするのである)を起こす不良版だった。ケンプにはベルンハルト・クレーと入れた21番・22番もあって、これも是非聴きたかったのだが、ライトナー版との中途半端な組み物しかななく、買い直すのも癪なので諦めていた。ところが、協奏曲集にはこれらが全て入っている上に、ミュンヒンガーとの9番・15番というのも含まれていて、これはもう買うしかないということになったわけである。
14枚組のセットだが、聴いたのはこれまでにミュンヒンガーとクレーとの4曲だけ。ミュンヒンガーとの2曲はモノラル録音ということと、どうもミュンヒンガー独特のおっとりとして柔らかな伴奏が物足りなくて(LPで聴いたフルートとハープのための協奏曲もそうだった)、曲の素晴らしさ以上の印象は残らなかった。これに対し、クレーとの演奏はいずれもすばらしく、ケンプという人はこんなに強い打鍵の持ち主だったのかと、女性的といわれるケンプの演奏を見直したのだった。
中でも感激したのは21番1楽章のカデンツァである。言葉で説明することができないのがもどかしいけれども、ケンプは作曲もする人だということを改めて実感させてくれる、味わい深く素敵なカデンツァで、これを聴けただけでもこのセットを買った甲斐があったと思うほど、全く予想外の、などといったら失礼かも知れないが、すばらしい曲であり演奏だった。22番も立派な演奏で申し分ない。これほどの名盤を埋もれさせておくのは本当に勿体ない。当時もうゼルキン=アバドのシリーズが進行中だったこともあるのだろうが、この組み合わせの演奏がさらに残されなかったのは本当に惜しまれる。ゼルキンのかけがえのないモーツァルトが残されたのは幸せなことだと思うけれども、クレーの立派な伴奏に比べると、アバドが聴き劣りするのはいかんともしがたい。ちなみにクレーはぼくがN響定期で最初に聴いた指揮者でもある。
もう一つは、アファナシエフの平均律である(COCO73080・1、COCO73109・10)。中村洋子さんのブログ「音楽の大福帳」で紹介されている、アファナシエフの『ピアニストのノート』(講談社選書メチエ540。これはなんと書き下ろしである)も少しずつ読んでいる。『ピアニストのノート』の方は、一読して面白いと感じる部分も多々あるのだけれども、どうもアファナシエフ独特の(というべきなのだろう)イロニーというか、持って回った言い回しというかが難しく、また音楽の素人にはわかりにくい部分があったり、かなり個人的な感想に終始している部分もあったりというわけで、苦労しながら読んでいるというのが正直なところだ。それに訳文もアファナシエフの複雑な思考を伝えるには十全なものとはいえないのではないかと思われる。ぼくの読解力が付いていけない面もあるのだろうが、日本語が充分に読み取れない部分がある。著者の真意を伝え切れていないようなもどかしさを訳文に感じるのである。
一方、平均律のCDの方は、リヒテルの演奏に慣れてきたぼくにも、違和感なくかつとても新鮮に響くものだった。リヒテルのようななめらかな感じではなく(比べてみてリヒテルの演奏がいかにロマンティックかがよくわかる)、一歩一歩考えながら歩むような、ゴツゴツした感じがあるが、それがけっして不自然ではなく、もうこれ以外にはないと思わせるほどの確固とした音楽が積み上げられ構築されていく。そう、文字通り積み上げられていく感じ、いわば石を積み上げていくような、そんな印象である。リヒテルでは聴き取れなかったメロディーが聞こえてくる部分、異なるリズムに聞こえる部分、別の曲かと思われる部分など、新しい発見の連続で最後まで耳が引きつけられる。まだ聴き始めたばかりだが、これまた宝物のようなCDに出会えたのを感じる。

          §          §          §

ヒルティ-『眠られぬ夜のために(第二部)』から。
人を愛したいと思うなら、――しかも、これはすべての人間教育に肝要なことだが――さばくことをやめなくてはならない。(十月九日)
人間の魂というものは、それが幼児の魂、あるいは犯罪者の魂でさえも、その人と神とだけのものである。われわれは無理やりに、または、押しつけがましく、人の魂を思いのままに扱ったり、魂のなかに押し入ったりしてはならない。(中略)ただ愛だけは、「あなたの心をわたしに与えなさい」と求めることが許される。けれどもそれは、こちらも自分の心を、しかも、こちらからまず最初に与えることによって、である。(十月十日)

そしてもう1冊。榎本保郎『ちいろば牧師の一日一章 旧約聖書篇』(マナブックス)。ちいろば牧師こと、榎本保郎牧師が、文字通り命を賭して書き遺した1000頁に及ぶ大著のリメイク版である。聖書を読まずにこの本を読むのがいいことなのかどうかはわからない。しかし、ちいろば先生が聖書から何を聴こうとしていたか、眠られぬ夜ならぬ、睡魔を追い払うために、歩みは遅々としたものではあるけれども、毎夜少しずつ読んでいる。
posted by あきちゃん at 12:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2013年10月06日

香りが知らせる1年の月日

10月は金木犀の香りとともにやって来る。今年は猛暑で少し遅れ気味かと思っていたけれど、さほど遅れることなくあの香りが漂よい始めている。姿よりもまず香りで季節の到来を知らせてくれるのはこの花ならではのこと。オレンジ色の花が開くよりも前に香りを届けてくれるのだろうか。
金木犀の香りとともに、今年も台風が続けてやって来そうな気配である。23号は中国大陸に向かいそうだが、これを追いかけている24号は、偏西風に乗り換えて日本にやって来そうだ。この乗り換えは本当に微妙なタイミングである。以前なら、10月の台風は偏西風に乗り換えたとしても、日本の南海上を北東に進んで直接影響を及ぼすことは少なかったものだが、近年は10月もまだ太平洋高気圧の勢力が強いためか油断がならない。24号の予想コースは常識的には9月半ばのコースだ。今年の台風は比較的発生位置が高緯度で、襲来する台風は勢力はさほど強くないのが幸いだけれども、先日渡月橋を冠水させた18号台風のように、大型の規模を保ったまま来襲し、とんでもない量の雨を降らせることもある。24号はこれに比べると小粒のようだが、注意を怠らないようにしたい。
一つ仕事が片付く目処がつき始めるともう次の仕事が舞い込んできている、というイタチごっごがずっと続いて、気が付いたらもう金木犀の季節迎えているというのが正直な感想である。去年11月に手掛けた仕事があって、来年また11月にということで、まあそれまでには一度じっくり考え直す機会もあるだろうと高を括っていたら、去年着手した時の一括りの荷物を開ける余裕もないまま、もう11月が近付いてきてしまっている。1年なんて本当にあっという間である。

幸いなことに10月に入って、ほんの少しだけれども新たな仕事の到来ペースが落ちてきたかなと思ってちょっとホットしていると、何処か気の緩みがで出たのだろうか、危ないところだった。
この夏以来、事情があって自転車で通勤している(通常より早めに出勤しなくてはならないため、駅までのバスが渋滞して時間が読めない電車通勤を暫く諦めているのである)。その帰途のこと、車が一台通れるだけの狭い尾根道があって、いつもならこんなところで車とすれ違うことは滅多にないのだけれども、たまたま結構な速度で対向車がやって来る。左に寄ってこれをやり過ごそうとしたところ、草むらで大丈夫だろうと思ったところが崖の傾斜に入っていて、あっと思う間もなく左手にスローモーションのように転落してしまったのである。
前進力があったせいか、左に倒れるだけで一回転はせずに済んだけれども、気が付いたら目の前に葉っぱが見える。ああメガネを飛ばされずにすんでよかったと思ってメガネを上げようとしたら、かけているはずのものがない。こんなところで落としたらとゾッとして、落ち着いて落ち着いてと暗示をかけながら、近くに落ちているに違いないと思って探してみると、目の前の笹にメガネが引っ掛かっているではないか。ああ救われたと思い、やっと起き上がる気力を取り戻したのだった。道はすぐ上にあってたいして落ちた訳でもなかったこともわかり、ともかく自転車を崖から引っ張り上げ、身支度を調えようとすると、あちこちヒリヒリするし、カバンにも髪にも笹枝や葉っぱが刺さっていて、振り払うとずいぶんといろいろ落ちてきた。前カゴに入れていた荷物は、この日はびっちり詰め込んでいたせいもあって、飛び出しもせずにきちんと収まったままであり、肩に掛けていたカバンもそのままだから、どうやら崖下に落としたものもなくて済んだらしい。ヒリヒリはするもののたいしたケガもなく、まさに不幸中の幸いだった。
今から30年近く前、初冬の丹沢縦走の帰り道、山を降りて地道を歩いていて左に道を踏み外し、沢に転落したことがあった。この時は一回転してメガネを吹っ飛ばしてしまい、幸いにもケガはなかったけれども、普通なら落ちるはずもないところで起こしてしまった不注意による事故であった。あの時といい、今回といい、よくぞケガ一つせずに済んだものである。

そして今日の日曜日、思い立って生け垣のプリペットの剪定を行った。例年なら5月頃と今時分の年2回刈り込むのだが、今年はどうにも手が回らず、暑くなってから表の方だけ1度剪定し、裏の方はだいぶん遅れて刈り込んだのだった。それで裏の方はさほどまだ延びていないのだけれども、表は不様に伸びてきてしまっていたので、何とかせねばと思っていたところだった。裏の刈り残していた部分(ということは今年まだ一度も刈っていないととろがあったわけだけれど)も含めて、ともかく刈り込むことができた。
こないだもし転落していなかったら、多分今日剪定する気にはならなかったかも知れない。いついかなることが起きないとも限らない。気になることはやはりいつまでも放っておいてはいけない。当たり前のことだけれども、明日のことを思い煩わないためには、今日思い煩うべき事は今日思い煩っておかなければ。なかなかわかっていて実行できないのが常なのだけれどもね。
我が家の金木犀は、ちょうど裏側の生け垣のすぐ内側にあるので、結構な暑さで汗をかかされたけれども、ずっと香りに癒されながら剪定を続けることができた。この1年忙しさにかまけている間、いろんなことがあった。中でもBの死は痛恨事であった。かわるがわるBの忘れ形見ともいえる3匹を庭で遊ばせながら剪定をしていると、金木犀の根方に佇んで、子犬たちの遊ぶ姿を見ているBの姿が浮かんでくるようだった。
ラベル:天気 季節 日常
posted by あきちゃん at 18:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする