2013年11月24日

居眠りから覚めた夢―夢の記憶14

夢とはいえ全く困ったものである。毎年ぼくが裏方として切り回さねばならない2日間にわたる集まりがあり進行役をやるのだが、気が付くと2日めに入っていて、誰かが質問をしていた。それは1日めに行われた報告に関するものなのだが、ぼくはそれを聞いた記憶が全然ない。ぼくの隣にもう1人座っていて、彼がぼくの変わりに切り回してくれていたものとみえる。質問の声を水の中ででもあるかのように遠くにぼうっと聞きながら、ぼくは事態を飲み込もうと必死になる。いったい何が起こったのか。ぼくは今何をしているのか。
そうしてじたばたしているうちに朧気な記憶が甦ってくる。それを辿ると、どうもぼくは1日めの集まりに入る直前に居眠りをしてそのままだったような気がしてきた。それなら、今こうして座っているのはその時のままなのだろうか。ここでずっと居眠りを続けていたのだろうか。誰も起こしてくれなかったのだろうか。夢の中のぼくは、もしそうであるなら、ぼくが居眠りを始めたのが1日前であることに全く気付いていない。一晩そこでずっと眠り続けることなどあろうはずはないことを全然気にかけていないのだった。夢の中のぼくは、どこで眠りに落ちたと考えていたのだろうか。だれがぼくをここへ連れてきてくれたのだろうか、などと思案していた記憶がある。
あってはならぬことが起きてしまったという思いを、どうしようもない焦りとともに抱いている自分がいる一方で、その集まりは現にどこか遠くのような感じではあるが進行していて、その場にぼく自身が座っていることもまた事実なのである。ぼくがもしかしたら一晩眠り続けてしまったことを、今この場にいる人たちは知っているのだろうか。どう思っているのだろうか。それこそ穴があったら入りたい気持ちであったはずなのだが、妙に落ち着いたままぼくは壇上の端っこに用意された席に、それももう1人とともに正面を向いて座っているのである……。

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よくわからない夢であった。最近机に向かったまま居眠りしてしまい、気が付くと夜も更けていたなどということがよくある。1時半とかに気が付いても、3時には寝ないと翌日からだがもたないので、もうどうしようもない。眠りに1時間半(90分)というサイクルがあるのは確かのようで、起きる時間から逆算して就寝すると、いくらかでも寝起きがよい。低血圧の身には、起きるという行為は結構辛いものなのである。
しかし、この夜中の居眠りならばまだよいのである。平日朝は6時に起きるので、夜の11時過ぎに眠くなるのは自然の摂理といえばいえるだろう。困るのは、今日のように少し寝坊をした日曜日の午後、さあ今日こそはと机に向かったまま夕方まで眠ってしまうことがある。こんな時は気が付いた時、一瞬どころか随分長い間、自分がいる時間、場所が皆目見当が付かないままでいる。自分が今いる座標がわからぬまま、宙ぶらりんな状態に置かれてしまうのである。自分で自分の座標がわからぬときほど気持ちの悪いことはない。空間座標は大抵すぐ取り戻すものだが、時間座標を取り戻すのに、この昼間の居眠りは時間がかかる。そしてこうした経験をする時は、座標を回復したあと、どっと疲れを覚えるのである(この感覚については、以前にも「自己座標忘却の不安と忘却願望」の中でちょっと書いたことがある)。
今朝見た夢は、夢の中でこの居眠り体験をしてしまったもののようである。しかも普段のように机に向かってではなく、こともあろうに集まりの進行役をしながらという手の込んだ夢であった。そんな形で居眠りをしようなどとは考えたこともなかったけれど、突拍子もないことと打っちゃっておくこともできないひどく現実味のある夢だった。夢の中で、しまった!、と臍をかんでいたことを鮮明に思い出す。夢でよかった、とホットした思いを味わったのは夢から覚めてだいぶん経ってからであった。それだけよそ事ではない、身につまされる怖ろしい夢であった。
夢の中で居眠りから覚める、つまりは居眠りから覚めたあまりゾッとしない夢の記憶に苛まれたまま過ごした、今日も今日とて眠い午後であった。
ラベル:日常
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2013年11月23日

松山への列車の旅

先日、初めて松山を訪れた。岡山まで新幹線、岡山から特急しおかぜに乗る旅である。出雲へ岡山から特急やくもで出かけたのが記憶に新しいが、四国へも岡山が結節点の役割を果たしているわけである。実は、四国に渡るのは今回がまだ2度めである。この前はもう10年ほど経つだろうか、高知に行った。しかし、この時は往復とも伊丹から飛行機を利用したので、陸伝いに四国に渡るのは今回が生まれて初めてである。当然、愛媛県に足を踏み入れるのも人生最初の経験ということになる(松山は空港からの便がよいのだそうだが、飛行機で行こうという気は起きなかった。高知の時に列車の旅を思いつかなかったのが不思議なくらいだ)。
いくつになっても列車の旅の前は心が踊るものである。11時過ぎに着かねばならなかったので、朝は5時起きだったが、そこは待ち遠しい列車の旅のこと、全く苦にならない。新大阪駅のスタバでコーヒ-と若干の朝ごはんを仕入れて新幹線に乗り込む。折り返しとばかり思っていたので、直前まで入線しないのをやきもきしていたのだが、名古屋発のひかりのようである。
岡山までは小1時間しかからないので結構忙しない。山陽新幹線はトンネルが多くてあまり面白くないから、かえっていいのかも知れない。今回は仕事で行くため、食事を簡単に済ませると早速ノートPCに向かった。やくもの時もそうだったが、コーヒーは残りをそのまましおかぜにも持っていく。ここからは生まれて初めて乗る線ということで、PCは形ばかり。もうじっとしてはいられない。
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〔岡山駅で発車を待つ特急しおかぜ〕
岡山を発ってほどなく瀬戸大橋にさしかかる。いくつかの島をつなぐ巨大な橋を渡っていく。キラキラと輝く海面にとりどりに浮かぶ島々が美しい。幸い車内はガラガラだったので(半分が仕切られてグリーン車になった最後尾の車両だった。同じ号車にはぼくのほかにもう1人しか乗っていなかった)、反対側の窓へも行ったり来たりしながら景色を満喫した。ただ残念ながら、道路も兼ねた橋があまりにも巨大なものだから、橋脚が邪魔をして写真はいまいちだった。
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〔瀬戸大橋を渡る〕
高松から来る「いしづち」3両を前につないで8両となったあと、暫くは香川県を西に走り、程なく愛媛県に入る。岡山から松山までは2時間40分ほどだが、愛媛県に入ってから1時間半近くかかるのである。今回の目的地松山は愛媛県の中程であって、そこからさらに西予地域が広がっている。あとから伺ったところでは、今治・西条地域などの東予、松山などの中予、宇和島方面の西予に三分されるのだという。愛媛といえばポンジュースというくらい、ミカンのイメージが強いのだけれど(中予や東予の方には怒られそうだが)、おそらくはこれは西予のイメージなのだろう。実際には燧灘をはじめ瀬戸内海に面した部分がかなり広いのである。
それほど愛媛県は東西にというか北東から南西方向に長いのである。古くは伊予国であって歴史的に愛媛は馴染みが薄いような気がしたが、実際には『古事記』に出てくる由緒ある名なのだという。国名と同じ名の伊予郡は松山かた少し離れたところにあるし(松山はこのあたりの古くからの中心地である湯〈温泉〉郡にある)、国の役所(国府)は松山ではなく今治にあった。どうも複雑な事情がありそうである。愛媛はそうしたことをオブラートに包んでうまくまとめてくれる美しい命名なのであろう。
そんなことを考えながら、予讃線をひた走る。中国山地を振り子型で運行するやくも号と違い、平野を駆け抜けるしおかぜ号は揺れもさほどでなく、短時間だったが車内販売もあった(何も買わなくてすみません!)。ただ、もっと海岸沿いを走るのかと思ったら、意外と離れて通る部分が多い。南側には四国山地が迫るが、初めはまだ快晴だったこともあり逆光で今ひとつの迫力に欠ける。単線区間もあって、時折待ち合わせの停車もあった。至ってのんびりとした列車の旅である。ちいろば牧師こと、榎本保郎牧師がいられた教会のある今治を抜ける頃から急に曇りはじめ、松山で所用中には雨も結構降ったようだが、それがすんで松山駅まで赴く頃には雨も上がり、ちょっとだけだが、市内を回ってくることもできた。
四国山地のシルエット(予讃線のとある駅にて)2.jpg
〔四国山地のシルエット―予讃線のとある駅にて〕
残念ながら温泉につかる暇はなかったが、道後温泉の建物も、まさかあんなビルの真ん中にとは思ってもいなかったけれど、見てくることができた。結構平らな町だというのが松山の第一印象。それにしてもどうしてあんなところで、火山が近くにあるというわけでもないのに、天下の名湯道後が湧き出すのだろうか。逆にそれだからこそ、1400年前から広く知れわたったということなのだろう。「ゆ」は郡の名にまで用いられ、のちには「湯」ではなく、「温泉」という字を充てるようになったが、湯に対する愛着は捨てがたく、辛うじて「東温市」という市名にその名残を残したということも教わった。
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〔道後温泉。今日は外から眺めるだけ〕
日帰りは結構きつくはあったが、往復の列車の旅を思う時、思わぬ命の洗濯の1日であった。温泉に入ってこられなかったのが、唯一の心残りといえば心残りではある。いつか、捲土重来を期すとしよう

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〔松山駅のホームにて。改札口から直接行けるホームと、跨線橋を渡っていく島式のホームがあり、番線は全部で3つのようである。幹線の特急停車駅といえば、複雑な構造のたくさんのポイントを通過して入線するのが一つの醍醐味でもあるのだが、意外とあっさりとしたつくり。いつか特急乗り換えでホームに立ったことがある中央線の上松駅と基本は一緒である。県庁所在地の駅といっても、支線があるわけではないので、本線上の一駅に過ぎないとこんなものなのだろうか。暗くてピントが合っていません。ゴメンナサイ。〕
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〔再び特急しおかぜに乗って帰途につく〕
ラベル: 鉄道
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2013年11月20日

晩秋の稲村ヶ岳に登る

寒気の到来である。去年もそうだったが今年も冬の訪れが早い。先日の寒気の時は、まだ11月上旬というのに青森で38㎝も雪が積ったといってニュースになっていた。年に何度か青森に出かけていた10年ほど前、11月末に本格的な積雪に出会ったことはあるが、それよりも今年は半月は早い。

          §          §          §

ちょうど先日の寒波到来の折、稲村ヶ岳に登ってきた。昨年夏、母公堂から法力峠を経て往復するコースで登ったが、たっぷり汗をかかされてバテバテだった。今回はレンゲ辻から入る周遊コースである。季節が違えばまた山の風情も違うだろうと期待して出かけた。バスを降りて歩き出して、これから辿る谷筋の奥を見上げて目を疑った。山が白いのである。雨上がりに寒波が到来して寒くなることはある程度予測していた。去年10月に行者還岳に出かけた時、稜線歩きで結構寒い思いをしたので、今回はそれなりの装備はしてきたつもりだったが、まさか雪山に遭遇しようとは。見てあれだけ白ければ、結構積もっているに違いない……

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〔白く染まる山々〕

レンゲ辻へは明るい谷筋の道で、とても気持ちのよいコースだ。沢の音が心地よく、これなら夏も登りやすかろうと思いながら、しばし雪のことは忘れていた。こんな幅の広い沢を登り詰めていく道がどこかにあったような……。そう、茅野から美濃戸に入り赤岳鉱泉を目指す柳川北沢の雰囲気である。八ヶ岳を思い出しただけで何だか嬉しくなってくる。
だんだん源流の雰囲気が漂い始めた頃、足元に霜柱状のものがある。それからまもなく、真っ白になった木々が見え始めた。地面に雪はない。葉を落とした木々の枝に氷が付着している。針状に2、3㎝は伸びている。初めて見る霧氷、そうか、山が白く見えたのは、雪が積っているのではなく、湿った空気が枝に氷結して成長した霧氷だったのだ。氷の冷たさはなく、むしろ花が咲いたようにポッとうすピンク色に見える。そうこうするうちに足元に雪もちらつき始めたが、荒れているといわれた源頭部分もなんなく通り越し、レンゲ辻の稜線に出た。
ところがここで途端に天候が急変した。いや、急変したように見えたのは、谷筋から尾根に飛び出したからだったのだろう。急に風が募り始め、視界が聴かなくなってきて、白い物が舞い始めたではないか。目の前にあるはずの山上ヶ岳も全くわからない。この日カメラ代わりに使ってきたケータイの電源が落ちているのに気付いたのもここでだった。

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〔霧氷の尾根道から〕

ここから稲村小屋まではまさに冬山そのものだった。さほど多くはないものの、5㎝から10㎝程度は積っていただろう。レンゲ辻からしばらくは道が尾根上ないし北寄りを通っていて、また瘠せた部分もあって、結構緊張させられる。そしてなによりも風があるため、急激に寒さを感じ始めた。雨具を羽織り、帽子を被って襟元を引き締め寒さを耐え忍ぶ。いったい今は何月なのかと考えるうちに、ふと意識が遠のいていく。同じ尾根筋でも、道が南側に付いている部分では、風も弱く歩きやすい。雪の量も少ない。この調子だと稲村ヶ岳は一体どれほどの積雪になるのやらと、心配になる。奥武蔵の伊豆が岳で50㎝近い新雪を踏み分けて山頂に到達したことがあったが、ほとんどそれ以来の雪山登山となった。
稲村小屋が突然姿を現した時、正直言ってホットする思いだった。しかし、本当に辛かったのはそれからだった。小屋はちょうど鞍部にあって風の通り道になっている。それで、小屋陰に入ればよかったのだが、まあなんとかなるだろうと、道筋に腰を下ろして昼食にしたのがいけなかった。箸を持つために手袋を外していたものだから。食事を終える頃には冷えて指先がいうことをきかない。箸が持てないのである。持てても、箸先で物をつまむことができない。そして一番困ったのは、なんとか食事の後片付けをして、さて用を足そうと思ったとき、チャックを動かせないのである。これには本当に弱った。雪山で遭難する時はこんなものなのだろうかとふと思う。動いているときはよい。しかし、ちょっとでも動かずにいると急激に体温を奪われて、体力を消耗するに違いない。短時間とはいえ手袋を外したのは本当に迂闊なことだった。

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〔雪の稲村小屋〕

小屋から往復約1時間半かけて、稲村ヶ岳を往復する。山頂へは、南側から回り込むように道が付いているので、大日への分岐(キレット)までは風も強く難渋したが、山頂に近付くにつれかえって風が衰えて、穏やかに山頂を踏むことができた。もっともガスの中というわけではないものの、見通しはほとんどきかず、この方角に山上ヶ岳、こっちが大普賢という具合に想像して楽しむしかなかった。展望台に上がる鉄の階段が凍結していて、特に下る時は怖かった。夏に来た時は遠く生駒山までも遠望できたが、季節が違えばこうも違うものなのである。
電源が落ちてしまったケータイを、試みに電源を入れてみる。あ、うまくいくではないか。バッテリー残量が少ないとカメラが立ち上がらなくなるが、これも何とかクリア。山頂でなんとか数枚撮ることができた。諦めていただけにこれはうれしい誤算。でも最後は撮った写真が保存できないまま、充電して下さいの表示が出てダウン。ふたたびケータイはポケットの中へ。暫く歩いてから、また電源オンにするとまた立ち上がる。カメラを立ち上げると、保存出来ていない写真があるとの表示が出るのでこれを保存し、続けて1枚シャッターを切る。よしよしうまくいく、と思いきや、ここでまたまた充電してください……。これを何度繰り返したことか。バッテリーが弱り気味なのがわかっていたから、こないだ電池パックを交換したのだが、どうも古い電池を入れてしまったらしいのだ。なんたることか。
まあ、それはともかく、関東南部の山々は、真冬でもこうは荒れない。雪が積るのは、春先の南岸低気圧が通過する時である。関東平野の真冬には快晴の空っ風がつきものだ。これに対して奈良盆地では寒気が強まると、どんより曇ってときおり時雨れる。でもその程度である。冬の季節風はここ大峰山にまともに受け止められて、雪を降らせるのである。紀伊山地の山々は冬の季節風をまともに受けているのだということを実感する天候だった。そういえば、今はやっているのかどうか知らないが、洞川(どろがわ)温泉にはスキー場があったっけ。

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〔雪の稲村ヶ岳山頂展望台にて〕

山頂から稲村小屋に戻り、勝手知ったる道を法力峠に向かって下る。広葉樹の自然林の中を行く道が心地よい。気が付くといつの間にか今まであった雪が道から消えている。今まではいったい何だったのだろう。レンゲ辻の尾根筋から山頂までの間は、恐らく氷点下5℃近くはいっていただろう。下ってくればこの通りである。ちょっとした標高の違いがこれほどの差をもたらすのである。レンゲ辻での天候の急変、まことに山のダイナミズムを実感する行程であった。レンゲ辻という名はそうなのだ、仏教ゆかりの蓮華なのである。けっして「れんげのはーながひいらいた」のれんげ、つまりうまごやしの花ではないのだった。
なぜレンゲの花と思い込んでいたのだろうか。それはこういうことだった。西武池袋線の飯能の奧に高麗というところがある。高麗王若光を祀る高麗神社のあるところだ。そこに巾着田という場所がある。川が蛇行して巾着袋状になっているところで、中学の遠足でも行ったところだが、その頃そこはレンゲ田で有名だった。田植え前のゴールデンウィーク前後、そこはピンク色に染まるのである。ところが、ついこの間、最近巾着田はレンゲではなく彼岸花で有名になっていることをたまたま知った。レンゲ田がいつの間に、と時の経過を実感したのが強く記憶に刻まれていたのであった。それで、山上ヶ岳のすぐそばなのに、蓮華を思いつかなかったのである。もっとも、ふだんのレンゲ辻は、きっとのどかな楽園に違いないのだけれど。
ともあれこの思いがけない霧氷と雪の稲村ヶ岳を満喫できたことを心から感謝したい。ご案内いただいたN交通の方々と、山行をともにされたみなさん(ぼくらよりもずっと年輩の方々が多いがその健脚ぶりは驚くべきものがある)、どうもありがとうございました!
ラベル:記憶 奈良 季節
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2013年11月05日

木枯らし前のススキとコスモスの雨上がり

木枯らし1号が吹いたという。11月3日文化の日は晴れの特異日であるはずなのに、予報よりもさらに悪めに推移しでグズグズとしていたが、夜半になってさらに結構な降りになっていた。合わせると20㎜くらいの降水量にはなったようである。その雨も明け方までには上がって、さほど寒くもない。湿気はあるが少し風もあり、たまっていた洗濯物を片付けるには悪くない。干し終わる頃には、晴れ間も出てきて、まずまずの天気。この分ならまずまずの休日になりそうだとちょっと自転車で外出したのだが、どうも西の空が怪しい。ところどころ湿気を含んだ黒い雲も行き来している。予報を見ると、午後は俄雨があるという。途中で降られるのは傘があるからまあよいとして、陽の当たる庭に干してきてしまった洗濯物は……。

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〔木枯らしが吹く前の平城宮跡のススキ〕

用事を早々に済ませて家路を急ぐ。雲に追いかけられているような感じだ。湿気を含んだ風がかなり吹きつけてくる。そのうちポツっと顔に当たるものがある。まだそんなに降りそうな気配ではないのに、北西の風に乗って雨粒が飛んでくるらしい。明らかに寒冷前線の通過である。ザッと来るまでに戻れるかどうか。祈るような気持ちでペダルを踏む。犬たちも庭に出してやりたいけれど、これでは無理かな、などと今さらどうでもよいことが思い浮かんできたりする。
途中、ああこれはもうダメかと思うくらい雨粒が落ちてきた時もあったが、それ以上たいしたことにもならず、飛んで来る雨粒を感じはしながらだが、家に辿り着くことができた。早速庭の洗濯物を取り込んで、風呂場で乾燥させる。やはり既に結構乾いていたようで、それほど時間をかけずに、乾かすことができた。
どうもこのあたりはうまいこと雨雲の隙間に入っていたようである。レーダーを見ると、西も東も結構な雨雲が通過したようだが、ここらへんだけすっぽり雲のない領域になっていたらしい。夕方、AG1匹だけ庭に出し、少しボールで遊んでやる。思いがけぬことだったようで最初は半信半疑だったが、そのうち大はしゃぎで走り回っていた。こんなことなら、他の子たちも午前中の天気のよいうちにもっと遊ばせてやればよかった。

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〔木枯らし後のコスモス〕
雨上がり、植えたのが遅かったため今頃になって咲き始めた玄関前の鉢植えのコスモスが見事だった。ピンクのコスモスにはなぜか不思議と旅情を誘われるのである。前にも書いたような気がするけれど、結婚した年の9月、家内と佐久側から麦草峠を越えたことがある。茅野に下る道すがら、逆光にシルエットを写すコスモスの群生に眼を奪われたのだった。その時のことが忘れられずにいて、この夏の終わり、花屋で売れ残っていたのをふと買い求めて鉢に植えたのである。それが漸く花を付けたのだった。何とか間に合ったものの、木枯らしが吹くというのでは気の毒な限りだが、可憐に咲く晩秋のコスモスの美しさが際立つ雨上がりだった。
今夜はぐっと冷え込んできた。もう10℃を割っているだろう。さすがに木枯らしのあとだけのことはある。いよいよ晩秋である。最近通勤時間には思い立ってケンプのベートーヴェンのソナタを順番に聴いているのだが、秋の夜長にはやはりバッハの平均律がよく似合う。今はアファナシエフの平均律第2巻。心に滲み入るピアノだ。仕事をしながら聴くのは勿体ないけれど……。
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2013年11月02日

古いアルバムが呼び起こす山の記憶

晩秋の快晴で思い出すのは、今からもう35年以上も前に清里から飯盛山に登った時に見た、八ヶ岳の姿である。文化祭の代休の平日の早朝、清里駅から一旦谷に下って橋を渡り平沢の集落を左へ入る。霜柱を踏み踏み牧柵に沿って登って高度を上げていくうちに、振り返った視線に飛び込んできたのが、うっすらと雪を頂く八ヶ岳。赤岳も横岳も硫黄岳も、そして権現岳も、それぞれに特別の存在感で浮き上がっているのに、青空があまりにも広くて大きくて、そして雄大に裾野を引いているためか、八ヶ岳連邦全体がまるで箱庭のように見える。逆に八ヶ岳連峰が全部自分の懐に入ったような、そんな錯覚をさえ覚えた。夢にまで見た景色、いつかあの頂に立ちたい、八ヶ岳への想いは募っていくのだった。
無事に飯盛山の山頂を踏み、野辺山側へと下る。遮るものさえなければ、ずっと八ヶ岳を道連れにして歩ける幸せな山旅。最後は再び小海線のディーゼルカーの旅が締めてくれる。今度は逆光なので、朝のようなシャープさはないけれど、快晴の余韻を残して暮れていく八ヶ岳のシルエットに酔いしれる。そして夕闇迫る小淵沢で、中央線の列車を待つ。ホームで食べる立ち食い蕎麦の温かさが腹にしみ入る。

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このときも随分たくさんの景色をフィルムに収めたはずである。高校の入学祝いに買ってもらったPENTAXのSPFというカメラである。55ミリの標準に、あとから買った28ミリの広角と200ミリの望遠を携えていく。フィルムは、コダックのエクタクロームというASA200のリヴァーサル、つまり仕上がりはスライドである。プリントだと1枚50円くらいの焼き付け代がかかるが、スライドはマウント付きで現像代が1000円。発色が断然いい上に、かえってこちらの方が安上がりなのである(のちには、気に入った写真をネガにして引き伸ばしたりもするようになった)。
こうして撮りためたスライドが何十本もあったはずだが、残念無念ではあるが今はもう手許にはない。結婚して家を出る時に実家に置いてきたのだが、その実家が引っ越す際に、全部処分してしまったのである。数々の山の写真も、真夏の長崎も、一人歩きの真冬の京都も……、全てもう記憶で呼び起こすしかない。

考えてみれば、時間を切り取って絵として残す、写真とは不思議な手段である。それが発明される前、過去を甦らせる手段は記憶しかなかった。絵に描くなど、それを形にして残す手段はあったけれども、それは何重ものフィルターを通したものだった。ところが、写真の発明によって、記憶に頼らずに過去を記録することができるようになった。しかし、である。最近の記録技術の長足の進歩が、かえって折角の記録を活かすことを難しくしつつある。
ぼくが子どもの頃は、白黒写真の全盛期だった。写真と言えば、写真屋さんに出して焼き付けてもらうものだった。ぼくが物心つく時分は、いわゆるサービスサイズの引き延ばしが一般的だったかと思うけれど、父のアルバムなどを見ると、密着の焼き付けも結構あった。引き延ばし代の節約なのかも知れない。
小学校に入った頃から、つまり60年代後半には徐々にカラーフィルムが普及し始める。EXPO'70(大阪万博)に出かけた時の写真はカラーだったように思う。せっかく旅行に行くのだからと、普段は白黒なのに、奮発してカラーフィルムを持っていく、などという時期もあった。
そのあとの変化は、フィルムよりもむしろカメラだろう。ハーフサイズという倍の枚数撮影できるカメラもあったが、これは要するに半分の面積で撮影するのである。写真の精度は落ちてしまうあから、廃れたのも無理はない。変化したのは、自動セット、自動巻上げの機能だろう。中には、裏ぶたを閉じると一旦全部巻き上げて、お終いの方から撮影を始める機種もあった。どうしてあんなことを思いついたのだろう。何か利点があったのだろうか。職場では今でもフィルムを手でセットすることがあるのだが、若い人はほとんどフィルムのセットの仕方を知らない。うまく引っ掛けないと、フィルムが空回りしてしまう。まあ、言っても詮な無いことだが、それすらわからないのである。
高校時代から大学の入った頃にかけて、8ミリに凝ったこともあった。高校の文化祭では、2年、3年と続けて我が家の8ミリカメラと映写機が活躍した。両親と夏の飛鳥に出かけて8ミリを回したこともある。あのフィルムは今どうなっているのだろうか。
さて、そのうちに今度はビデオカメラが普及し始めた。90年代の前半頃からだろう。我が家でも2人めの誕生を機に20万もするハンディービデオを買うはめになり、SPFはぐっと出番が少なくなった。ビデオもずいぶんたくさん撮ったはずである。でもビデオは気軽には見ることができない。しかも見ればそれでお終いで、手許に記録が残せない。子どもたちのかけがえのない成長の記録が写っているはずなのだが、本当に宝の持ち腐れもいいところの状況だ。
ビデオを撮らなくなったのは、デジカメの普及に依るところが大きい。動く画像の魅力も大きいが、デジカメの簡便さにはかなわなかったのである。高機能のカメラを搭載したケータイの普及もこれに追い打ちをかけた感がある。簡単な動画なら、ケータイで充分撮影できるのだから。
デジカメのよいところは、何といってもすぐ写り具合を確認できることだろう。すぐに見られる、そしてもし気に入らなければ、気に入るのが撮れるまで何度でも撮り直しが効く。当然、撮影枚数も増える。
フィルムで撮影していた頃は、せいぜい1日1本36枚がいいところだった。もちろん撮ろうと思えばいくらでも撮れるのである。しかい、焼き付けを考えると、そう気軽にバシャバシャとは撮れない。1本36枚(撮りようにもよるが、普通は1、2枚は余計に撮れる)撮ったら、1,500円くらいはかかるのである。最初50円くらいだった焼き付け代も、だんだん下がってはきたが、それでも1枚25円くらいはしたものだった。これに比べて費用を気にしないで撮れるのはデジカメの強みで、下手な鉄砲も数打ちゃの感もあるが、どうも整理下手のぼくにはこれも苦手だ。
まあしかし、見たい時に見られるのは、ビデオよりはずいぶんマシではある。ただ、デジタルで怖いのは、データが壊れたり、データは無事でもその媒体を読み取る機械がなくなったり、といった事態だ。そのためには、打ち出して持っておく、という最も原始的な手段に頼るしかないのが人情なのである。
記録を残せるとはいっても、あの世にまでもっていけるわけではない。時折記憶を甦らせることによって、この世の生を充実したものにする、それが写真やビデオの役割なのであって、残すことが第一義的になってしまったらそれは本末転倒というものだろう。整理に追われるようでは、何のためなのかわからいことになる。写真を焼き付けで楽しんでいた頃、アルバムの整理が無上の楽しみではあった。無理せず整理できるくらいの分量にとどめておくのが利口なのかも知れないな、と少し思い始めている。昔もそんなことを考えたような気がするが。

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〔KEEPの森から赤岳・横岳を望む〈1999年8月〉〕

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〔雨池北岸から〈1999年8月〉〕
必要があって古いアルバムを探し出してきた。幸いネガも一緒に保管してあったので、一部スキャナーで取り込んでみた。もっと早くにこの作業を始めておくべきだったとやや後悔しているが、今からでも徐々に始めよう。
その中に、15年近く前にまだ小さかった子どもたちを連れて行った清里での写真があった。KEEPの森からの赤岳・横岳、そして憧れ北八ツの雨池。行くたびに異なる顔を見せてくれた池である。満々と水をたたえ、池岸の道を高巻きせねばならなかったかと思えば、干からびて歩いて横断できたりもする。出る水も入る水もない、文字通り雨水で生きている単なる水溜まりなのである。北岸に広がる笹藪は今もあのままだろうか。そして子どもたちは、この写真の風景を心のどこかにとどめてくれているだろうか。
ラベル:記憶 鉄道
posted by あきちゃん at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする