2013年12月31日

ありがとう、B!─昇天の記─

2013年を終えるにあたって、やはり書いておかなくてはならないだろう。ジャックラッセルテリアのBが逝ってから4ヶ月余り、月日の経過が早いのか遅いのか、よくわからない。ぼくが起きる気配を察知するやいなや朝ごはんが待ちきれなくて吠え始めるBが、今もまだそこにいるような気がするし、Bが逝ってしまったのはもう遙か昔のような気もする。2013年8月16日金曜日午後5時頃、娘と息子に看取られて天国に旅立ったBの最期のことを書き止めておくことは、Bに対するぼくの恩返しのように思うし、ぼく自身の気持ちの整理にもなるような気がする。そしてもし同じ病気に罹った犬を家族にもつ方々の参考になることが少しでもあれば、Bもきっと喜んでくれるに違いない。
Bが生まれたのは2004年5月だから、享年9歳3ヵ月余り。犬としては、けっして長命とはいえない一生だろう。8月の末に川崎のブリーダーさんのところからはるばるぼくの運転する車に揺られて我が家にやって来たから、ほぼ9年一緒に暮らしたことになる。最後は、ひと月余りの闘病生活の末の昇天だった。覚悟はしていたものの、まさかこんなに早く悪くなってしまうとは思ってもみなかった。
以下は、Bがなくなってすぐ、記憶の確かなうちに綴っておいた闘病記、いや看病記を推敲したものである。

          §           §           §

Bの症状が急激に悪化したのは7月半ばのことだった。最後の散歩となった7月12日の東京行きから戻って出勤した7月16日の夕方、家内から突然涙声の電話がかかってきた。Bが死んじゃいそう、水も飲まない……。18時53分に受けている。
急いで家路につき、西大寺で奈良行きの間隔があく時間帯だったので、特急に飛び乗った。動物病院は7時半までやってるから連れて行ったらと電話で言っておいたが、あの動顛した状態では行ったかどうかと思いつつ、来ないバスを苛々しながら待って帰宅すると、車がなく、ああ連れて行くだけの気持ちの余裕をもっていてくれたのだと深い歎息をついたのを覚えている。
だいぶん経って、点滴で少しは元気になった(といってもこの日はまだ何も食べない)Bを連れて家内が帰宅した。椎間板ヘルニアであることがわかったという。不安な一夜を過ごすが、一応小康状態ではありそうだ。せめて早く食べられるようになってくれたならば……。
翌日夕方、家内から今度は喜びの電話がかかる。Bがスイカを食べた! 恢復の兆しを見せたBについての一報だった。こうして毎日動物病院に電気をかけてもらいに行く通院が始まった。これが効果があって、次第に動けるようになっていった。
しかし、恢復してきたらしたで、左足に神経が行かないのに動き回るため、左足に傷が付く。気になって舐める、囓る。とにかくじっとしていないのがジャックの習性だからしかたがない。16日には何ともなかった左足の先が、数日後には赤く傷つき始め、それを守るために薬を塗って絆創膏をすると、かえって気になって舐める、囓るを繰り返し、あれよあれよという間に左足が無残な状態になっていってしまったのである。
そんなになる前に、がっちり絆創膏をして靴下をはかせてやっていたら、少なくとも壊死は防げたのではないか、もう少しゆっくり治療ができたのではないか。でも全てあとの祭りであるし、Bの命を奪ったのが最終的には腎不全であるならば、致命傷はクッシングだったのかも知れない。
ああ、でも、足の痛みが少しでも少なければ、内臓の方ももう少し正常に動き続けてくれたのではないか。何を言っても始まらないし、結果論である。14・15日と不在にした間にBに何が起きたのか、それもぼくにはわからないのである。ぼくがもし傍にいたなら、もう少し早く症状の悪化に気付けたのではないか、もう何を言っても始まらないこととはわかっているし、わかってどうなったものでもないかも知れないけれども、今となってはそのまま受け容れるしかないのだろうか。
ともかく、最初の危機は、その後の経過については悔いも残るが、家内の献身的な努力によって一旦はこうして潜り抜けることができたのである。そして、この奇妙な平衡状態が半年とか1年とか続くのだろうなという漠然とした思いを抱き始めたのだった。
Bも再びぼくの起床とともに朝吠えるようになり(流石にもうぴょんぴょんはねることはしなくなったが)、左足の痛々しさは募っていったけれども、このまま暫く安定しそうに思えたのである。現にリビングに出向いていくのが時折のBの楽しみにもなり、ACの家で過ごすこともあり、また一度など裏口から庭に出てしまいのんびり過ごしてしまったことさえあった(これがBが地面を歩いた最後の機会になった)。鶏肉犬などとからかわれながらも、Bは懸命に生きようとしていたのである。そのうちに動物病院でのリハビリにぼくも連れて行く機会が増えるようになり、いつでも前向きに前向きに過ごすBの偉さには、ぼく自身も励まされたものだった。だから、水も飲まなくなったのは、余程のことだったこともわかるだろう。それをBは切り抜けたのである。もう暫くは大丈夫だと、みんな思い始めていた。
8月初め、下の娘がイギリスに語学研修に出かけ、家内も上の娘と息子を呼んで安心して予定していた山行きに出かけたのである。一時はキャンセルも考えるというので、初め帰省しないと言っていた息子を説得して帰省してもらい、家内の外出を支えたのである。動物病院の盆休みと重なってしまったが、心配なことはただこの間靴下をはかせながら包帯を汚さずに傷を守ること、ただそれだけだと思っていた。そしてそれはほぼ守り通せたのでだった。
それなのに、なのである。Bの内臓が待ってくれなかったのである。

8月13日から15日までの3日間、動物病院がお盆休みで、12日(月)の夜、ガーゼ・包帯を交換してもらいに行った。3日間ガーゼを囓らずに保たせるのが至上命題だった。靴下を2枚重ねではかせると、1日に何回かの交換は必要になるけれども、食い破ってしまうことはまずない。それでお古を中心に5、6足分の靴下を用意した。右足はまだマシなので囓ることもなく靴下は要らない。しかし、左足は神経が麻痺しているとはいっても、自分で囓って骨が顔を出している状態だから、とんでもなく痛かったに違いない。放っておくとそんな骨をさらにまた自分で囓ってしまうのである。
どうしてこんな状態になったのか。最初はまだ少し赤くなっているくらいの状態だったのに、神経が届かないものだから、傷が付きやすい。傷ができればなめて治そうとする、でも治らない。どんどん傷が深くなっていく。B自身、おかしいですね、治りませんね、といううちに、あれよあれよという間に壊死が始まっていくのだった。いずれ切断は避けられないだろう。でもなんとか治って欲しい。治そうとして自分で傷を広げていってしまうのがなんとも不憫でやりきれなかった。それを救うための靴下だったわけである。
後から思えば、さっきも書いたけれども、最初からこの靴下をはかせてやっていたならここまでひどくならずに済んだのではないか……。全てあとの祭りである。先生の方も試行錯誤である。これなら大丈夫と思った絆創膏をBは執拗に食いちぎるのである。その執念たるやすさまじいものがあった。夜中に骨を囓る音を聞かされるのは辛かった。何を言っても止めないのである。
靴下作戦はともかく成功した。3日間破られずに済んだ。もちろん中から血が染み出してはくる。少しはなめて染みもできている。でも絆創膏はそのまま守られていた。おっしこをひっかけたり、ウンコが付いたりすることもあったけれど、予備の靴下に替えれば済むことだった。二重の靴下は大いに効果を発揮したのだった。でも、それが何だったのか。いったいBに何が起きたのか。

13日(火)は、朝ぼくが起きると普通にごはんを請求してワンワン言い出した。行かないでよ、とでもいうように、ぼくのパジャマの裾を引っ張るのもここのところずっと同じ仕種だ。夕方近所の量販店にエアコンの市場調査(?)に出かけた娘の帰りを待って、19時半過ぎにauに行って手続きをしてきた。夜は、タイカレーの缶詰ですませた(いや、これは前日で、もやしなど野菜をどっさり入れたラーメンがこの日だったか)。Bは特段変わった様子もなく、ぼくと娘がリビングで食事をしていると、時々ワンワン呼ぶ声も聞こえた。普通に元気にしているように思えた。ここのところ便が少し軟らかいのが気にならないではなかったが、このくらいの方がむしろいいんだという家内の話に、それならばとあまり気にせずにいた。おしっこも普通にしているようだった。

14日(水)は娘が朝早くに名古屋に出かけた。往きは近鉄特急(前日に特急券を買ってきた)、帰りは新幹線で、23時半頃に近鉄奈良。ぼくが机に向かって寝てしまったため少し遅くはなったが迎えに行き、その足でTSUTAYAに家内が借りていたビデオを返しに行く。一部を再度借り、それに娘が見たいというポニョなどを加えて5巻借りてくる。カードを忘れたので、娘のカードで借りると、なんと1枚50円見当で、全部で300円で済んで驚く。この日の晩は息子と夕飯を食べたはずだが何を食べただろうか、記憶がない。いやハヤシライスを作ったのだった。木曜日は帰りが遅くなるのでまとめて作っておこうとしたのである。
ポニョを娘と半分くらい見る。最初よくわからなかったが、筋が見えて来て、最後は一体どうなるのだろう? ハッピーエンドなのだろうかと気にしつつ、明日があるので途中で寝る。娘は最後まで見たという。今にして思えば、この時Bの身体は既に変調を来し始めていたのである。夕ご飯を少しだけ残して、あれっと思ったのだった。夜半に試しに大好きなキュウリをあげてみると、囓ってはみたものの、全部は食べられずにやはり残してしまった。

15日(木)、もう明日は動物病院も開く。何とか今日1日絆創膏が保ってくれればいい。朝Bはどうだっただろうか。パジャマの裾を囓って行かないでをするのは同じだったと思う。でもこの日の朝もやはりドックフードを半分しか食べられず残してしまった。口のそばに持っていくと、少し鼻を突っ込むのだけれど、ほんの少し囓るだけであとは食べられない。食欲は戻っていない。置いておくからお腹がすいて食べられるようになったら食べるんだよと言って、勤めに行く。
この日は遅くなる予定だったが思ったより帰宅は早かった。息子がごはんをあげてくれていたが、ほとんど手つかずで残っていた。Bの様子はさほど変わった風ではない。けれど、ベットの方ではなく、扉の裏の方に行き鼻を突っ込みたがるので、どうしたのというと、しきりにここ、こことせがむ。たった一粒落ちているドックフードを執念深く取ろうとしている姿を何度も見たことがあるから、そんなことではないかと思って探したのだが案の定そうだった。奥の方にふやけたドックフードが落ちているのである。それもかなりの数である。拾って食べさせてやるのだが、なかなか取り切れないし、あげても食べない。
それにしてもどうしてあんなところにドックフードがふやけて落ちていたのだろう。随分前のものだろうか。最初はカビているかとも思ったが、そうでもない。息子がごはんをあげるときに落としたのだろうか。それにしては全然方向が違う。戻したのだろうか。BはAGと違い、吐くことはほとんどなかった。今もってなぞである。ただ、ほとんどウナギのような格好になって首を突っ込んでドックフードを取ろうとしているのである。食欲のない犬のどこにこんな力、執念が隠れているのだろう。Bには可哀想だが、娘を呼んでそのおかしな姿を笑ったものだった。でもBには真剣そのものだったに違いない。
このエピソードは本当に15日の晩のことだったのだろうか。この日の晩のことを思うと、もしかしたら、14日の晩のことなのではないだろうか。記憶が混濁している。前日までは、動物病院が盆明けで再開する金曜日16日に、朝はきっと混むだろうから、夕方勤めから帰ってからにしようか、と考えるだけの余裕がまだあった。しかし、食欲をなくしているBを見ていると、せめて点滴を早く打ってもらわなければと思うようになり、金曜午前を休むことに決めていた。その確信は焦りに変わりつつあった。
この日の晩、Bは落ち着きなくあっちへ行きこっちへ行きを始め、ベットから離れたところで吐くようになった。Bが吐くなどただ事ではないと感じつつ、食べたものが入っているので、まあそのうち落ち着くに違いないと納得させていた。そうこうするうちに、何度か続けて吐くようになり、次第に吐く物がなくなって白い泡のようなものだけになっていった。加えてウンコを催して踏ん張るのだけれど、やわらかい。これも繰り返すうちにほとんど下痢の水状に変わっていった。
夜半近くだろうか。下痢が何となく赤い。もしかして血便? 戻して下痢をして、落ち着くと寝ようとはしている。靴下は大丈夫だから、何とか明日はやく出かけて点滴を打ってもらおう。7月に水も飲まなくなった時も、点滴で恢復し、翌日にはスイカを食べるようになったではないか。こんな事を繰り返していくのだろうか。そう思って寝た。

16日(金)、8時20分には動物病院に着く。朝やはりまた嘔吐と下痢。血便は間違いない。横になっていれば楽であろうに、ずっと立って踏ん張ろうとしている。それなのに力がないのだろうか、踏ん張る前足が前にずずっ、ずずっとずっていってしまう。そのたびに体勢を立て直そうとする。おしっこの体勢に入る。じゃあじゃあ出るのが普通なのに、ほんのちょびっとしか出ない。これはおかしい。
車の中でも温和しかったが、降りる時、ずって出ようとする。この日Bの前日以来の症状を先生に話すと早速レントゲンを撮られ、その間は一旦待合室に。現像後に再び呼ばれて点滴となったのだった。点滴を打ってもらっている間、横になってじっとしている。ひどく温和しい。犬は点滴液を皮膚に入れるらしい。レントゲンを見ながら先生が言うには、肝臓がこんなに大きくなっています。おしっこはそれほどでもありません。念のため血液を調べてみましょう。
結果は、クレアチンの数字が高い。これは腎不全を起こし始めていますね。でも点滴で大丈夫でしょう。B、よくがんばっていますよ。さあこれで大丈夫でしょう、明日また点滴に来てください。ごはんはどうしましょうか、点滴で大丈夫ですが、と聞くと、食べるようならあげてください。点滴の効果はあったようだが、Bは心なしかやはりぐったりしているように見えた。もうごはんなど食べられる状態ではなかったのに。せめて水を飲ませてみるのだった。
家に戻り娘に頼んで勤めに出る。夕方早くに戻るなら車で行った方がとも考えた。でもまあ今夜遅くには家内も戻るし、明日には下の娘も帰ってくる。明日また点滴と包帯交換に行くのだから、慌てずともよかろうと電車・バスで出かけた。そのうち点滴で落ち着いてくるに違いない。まさかこれがお別れになるなど誰が考えただろう。上の娘が7月に帰っていた時、玄関まで見送りに出たB。何だか不吉な予感がしたのだが、再び元気な姿を見られたのだし、今度も特に心配はないと思った。そう自分自身を納得させた。
12時12分、娘からCメール。B、血便? 娘も気が付いたんだ。でも大丈夫だよ。血が混じることもあるよ。
14時に再びCメール。B、少しマシになった。やっぱりね。ともかく気を付けてあげていて。仕事をしていても落ち着かない。やはり車で来ればよかった。
16時58分、今度は息子から電話。B、もうダメだよ! 死にそうだよ。引き続き娘に代わって、悲痛な、ほとんど泣き叫ぶ状態の声で、B、苦しそうだよ! 動物病院に聞いたら、スポーツ用品店にある酸素を吸わせればいいと言われたといい、息子が買いに行こうとしている。でもそれで治るわけではないから、とにかく傍にいて、よしよしをしてあげるように言われたのこと。手足を突っ張って苦しそうにしているよ! Bの死が目前に迫っているのは歴然だった。
慌てて帰路に就く。7月にBが水も飲まないと家内から電話があった時のように、本当はいけないのだが特急に飛び乗る。バスが15分近くも来ないので、タクシーに乗って帰ったが(越してきてから10年以上になるが、タクシーで帰宅した記憶はない)、間に合わなかった。Bは手足を突っ張った状態で亡くなっていた。身体に触るとまだ生きているように暖かかった。生きているとしか思えなかった。娘が傍で泣いていた。息子も呆然としていた。二人に看取られてBは亡くなったのだった。なぜ1日休まなかったかのか、悔やんでももう遅かった。でも、たとえ1日ぼくが休んだとしても、看取ることだけはできたかも知れないけれでも、Bが恢復したとは到底思えない。ぼくは間に合わなかったものの、子どもたちに看取られて逝くことができた。それは子どもたちにとってもよい経験だっただろうし、Bもそれで満足してくれるのではないか……。そう思うしかなかった。

          §           §           §

2013年8月16日午後5時過ぎ、Bは天に召された。享年9歳3ヵ月。天国でも持ち前の食いしん坊ぶりを発揮して楽しく暮らしているのだろうか? 犬を怖がる子どもだったぼくに、将来Bのような家族が与えられようとはだれが想像し得ただろうか。私たち家族にBとの9年間が与えられたことを、心から感謝したい。そしてBの召される時がこのような形で選ばれたことを素直に受け入れなければと、Bの面影をそれぞれにうつす3姉妹を見ながら、感謝の気持ちとともに今ようやく思い始めている。

Bとのこの世での別れはあったけれど、いろいろな人や本や音楽とのかけがえのない出会いに恵まれつつこの2013年を過ごして来られたことに感謝して、新しい年2014年を迎えることにしたい。ありがとう、B!!
ラベル: 日常
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2013年12月26日

鹿背山の大仏鉄道跡を歩く

今年もクリスマス・イヴを前に、寒波の到来となった。ホワイト・クリスマスになったところもあるだろうか。関東だと寒気が強ければ強いほど風は強くなるものの乾燥した晴天になるが、近畿では寒気を遮るには山地が低く、雪雲が流れ込んで来やすい。盆地北端は日本海から流れ込む雪雲が直接かかるし、盆地南端から紀伊山地にかけての地域も、再び山脈を駆け上がる寒気が雪雲を作るので、雪になることが多い。しかし、南山城から大和盆地の国中にかけての盆地中部では、風の向きや強さによって、雪雲の流れ込み方が微妙に変化する。四半世紀暮らしても未だにその法則性がよくわからない。もっとも一日中降り続くようなことはまずなく、降っても雪雲の塊が通過する間のせいぜい1、2時間に過ぎないから、ちょっと辛抱すればそれですむのである。ただ、降るのか降らないのかわからないままどんよりとした寒空がずっと続くのには、本当に気が滅入るばかりだ。
連休はじめがちょうどそうであった。ほんの少しだけ晴れ間が出たと思ってホッとしていると、突然ザッと降ってきたりするから油断がならない。洗濯物泣かせの天候である。23日もまた似たような天気かと思って諦めていたら、朝から久しぶりの青空が顔をのぞかせていた。午前中にいくつかの用事を済ませ軽く昼食をとると、連休最終日も家にじっとしているのが益々もったいなくなってきた。そこで、前から一度歩いてみたいと思っていた大仏鉄道の遺跡めぐりに出かけることにした。
大仏鉄道というのは、1898年から1908年まで、わずか9年間走っていた加茂と奈良を結ぶ鉄道である。橋梁を中心とするその遺構が各所に残されていて、近代化遺産として名高い。その存在はだいぶん前から知っていたが、なかなか訪れる機会もないままであった。2002年には大仏鉄道研究会という組織も発足し、HPも運営している。また、同研究会では『大仏鉄道物語』という冊子も刊行しており、大仏鉄道を知るにはまたとない資料集となっている。ぼくの手許にあるのは2009年に刊行された改訂版である。紙芝居「カッパの川太郎大仏鉄道にのる」や、「遺構めぐりマップ」が付いており、読んで、見て、とても楽しい。本屋で見かけて即買ってしまったのだが、残念ながらこれまで実際に歩く機会には恵まれなかった。それをこの日思い立ったというわけである。
加茂から奈良まで12㎞余り歩くのが最も一般的な行程であろう。しかし、午後からしかも奈良からということで、どこまでいけるものやら心許なかったのだが、奈良市北郊に住まいする地の利を生かして、ともかく加茂に向かってみることにした。行けるところまで行って、暗くなるまでに引き返して来ればよい……。

家から一番近いのは鹿川隧道である。国境食堂というわらじのようなトンカツを出すので有名なお店のすぐそばなのは知っていたが、どこにあるのかはよくわからない。近くであるのでいつでも行けるし、早く帰って来られたらいくことにしようというわけで、まずは梅谷口から県境を越えて京都府に入り梅美台を抜け、梅谷交差点へ。車ではよく通る道である。加茂へは車だと交差点を右折するが、ここを直進する。迂闊にも直進する道があることすら知らなかった。交差点の北西隅に梅谷バス停がある。バス停脇の趣のある建物は公民館。最初は少し傾斜があるものの、あとはゆったりとした登り道で、真っ赤に熟れた残り柿が日に映えて美しい、のどかな農村風景が続く。その先は左手に緩く傾斜した畑が遙か向こうまで続くようになる。茫洋とした光景に飲み込まれしまいそうになる。
ところがである。その先に広がっていたのは、やはりどこまでも続く、造成地であった。都市基盤整備公団による宅地造成である。そうなのである。大仏鉄道の代表的な遺構の一つ、梶ヶ谷隧道も、この造成工事に飲み込まれてしまいかねない運命にあったのだった。辛うじて保存の決断が下されたというニュースの記憶が甦ってきた。
赤橋へは右手に分かれる道を下って行く。しかし、立ちふさがったのは、この先全面通行止めの標識であった。下りきったところを左折し、今まで歩いてきた道を潜るところが赤橋だった。そこには通行止めの標識が生々しく、トンネルの向こうは、造成地の中に続く道として工事中であった。仕方なく、元来た道に戻り、赤橋の上を通る。
「遺構めぐりマップ」では、大仏線と今まで歩いてきた道を平行して描いているので紛らわしいが、この道は大仏鉄道の線路敷きそのものを生かして作られているのである。それで梶ヶ谷隧道も道の左手にあって造成地の中に位置して見られないものと決めつけてしまっていた。しかし、美加ノ原CCのところまで来て、この道が大仏鉄道の線路敷きであったならば、隧道はこの道の下にあるに違いないことに遅まきながら気付き、もしかしたらと戻ってみることにした。そうしたら、CCの手前に木津川市観光協会の立てた梶ヶ谷隧道への案内があるではないか。看板は加茂からの来訪だけを想定して立てられているので。梅谷からやってきたぼくは、気付かずに通り過ぎてしまったというわけである。ここを左折して、コの字形に下って、通ってきた道の下に構築されている梶ヶ谷隧道に導かれる。
梶ヶ谷隧道は、幸いなことに手前で封鎖することなく、西側の出口のところまで潜ることができた。かなり長さもあり立派なレンガ積みの構造である。赤橋は文字通り橋で、架けられた石材が下から見えていたが、梶ヶ谷隧道はまさにトンネルである。トンネルというと、大仏鉄道そのもののトンネルかと誤解しがちだけれど、そうではない。線路の障害となる道や川などが逆に線路を潜るために設けられたトンネルなのである。それにしても、これほどの遺構を壊す話が進んでいたとは何とも恐ろしいことである。
造成地は木津からの道が合流するところで終わる。この道の南側が深く切り下げられたようになっているのは、関西線の古い線路の跡で、ちょうど旧鹿背山トンネルの入口のあたるのだろう。ここを右に入り(合流点付近は一部迂回道が設けられていた)、グリーンハウス(一般名詞ではなく、固有名詞である)を左手にみてやや細くなる道を進む。木津は左との案内があり、直進は×とあるけれども、これは車の通行に関することである。
その先で道はS字に下って明るく開けたところに出る。そこで左手にそびえる石積みの立派な橋が鹿背山橋台である。宮脇俊三氏の著書の表紙も使われた遺構とのことである。線路は堤状の部分を通っていたのである(道と堤の間の柵に用いられているのは枕木としか思えない)。
その堤の下を通る道は再びS字になって今度は登りになるが、その手前左手にちょうど農作業に来た方のものと思われる車が駐まっていたが、その陰に小さな標識があった。橋梁が壊れているため通行できないので迂回してくださいとのこと。それなら仕方ないと思いつつ、どんな具合かと思って入っていくと、堤状の部分を越えるとすぐのところが橋で、確かに壊れかけていて下が見える。でも向こうで農作業をしている人も見えるし、行かれないこともあるまいと思い、おっかなびっくり渡っていく。「遺構めぐりマップ」には「橋の左右注意」と書かれているが意味がよくわからず、橋を渡ったところの左右が道がわからないので要注意なのかとなあと思っていた。しかし、よくよく考えてみると、あれは橋の両側に手すりがなく穴が開いているので要注意ということだったのだろう。暫くは道幅が狭い上に藪がひどく、やや不安な道だったが、まもなくマップにあるお墓と池が見え始め(ここは意外と近かった)、道もしっかりとしてくる。
ほどなく左から関西線の架線が見え始め、遮断機も何もない踏切の脇に出る。写真を撮ろうと踏切に入ると、踏切がある旨の声の案内が突然流れる。これには驚いた。こんなのは初めてだが、確かにここはこうでもしないとかなり危険であるだろう。ここからは線路と平行するようになる。次の遺構は観音寺小橋台だが、マップでは線路と平行するようになってすぐのように描かれているものの、ここはかなり距離があった。観音寺小橋台から観音寺橋台まではわずかの距離である。ここは現在の関西線の橋梁と平行していて、格好の写真ポイントである。下り電車の音が近づいてくるのがわかったが、撮り損ねてしまったので、ここで次の電車が来るまでしばし休憩を取る。15分くらい待ったであろうか、ようやく上り電車が通過しカメラに収めることができた。14時47分であった。それでも日はもうずいぶん傾いて、夕方の印象が強い。
時間的にここが限度であろう。先に行ってもあとはめぼしい遺構もない。それで、観音寺橋台から「遺構めぐりマップ」の里山コースをたどって戻ることにした。松谷川隧道と鹿川隧道に寄るにはちょうどよい時間である。ひたすら歩く。往きと違って復路は早い。松谷川隧道は以前遠目に眺めたことがあるのでわかっていたが、鹿川隧道のロケーションは意外であった。国境食堂の真下、いつも車やバスで通っている道の真下にあったとは驚きだった。ここからだと、梅谷口の交差点が谷を埋めて造られていることがよくわかる。奈良阪から木津へ向かう旧道は今の梅谷口交差点付近の谷を北に迂回していたが、鹿川隧道がこういう形で存在しているということは、大仏鉄道の線路敷きはここに大きな堤と橋を設けて抜けていたことになる。梅谷口交差点はそれを埋めて造成されたわけである。そもそも今住んでいる住宅地も田畑を埋めて造成されたところだが(近鉄奈良線の地下化の際の土砂捨て場だったという話を聞いたことがある)、住んで10年も経つのに近所のこともあまりに知らなさすぎたものである。
家路に就いたのは16時20分頃。全行程約3時間あまり。結構な強行軍ではあったけれども、日没までまだだいぶんの余裕をもってお目当ての遺構は全部見て回ることができた。寒さを感じることもなく、また汗もかかずにごく普通に歩けたのはなによりだった。車は結構通っていたが、人に関する限り、往きに木津南ソレイユのところであるいは加茂からやってきた団体と思しき一団とすれ違ったものの、それ以外は全く同行どころがすれ違う人もいない行程であった。造成地で測量や工事にあたる人々の黙々と動く姿が印象的だった。弁当をもって犬を連れた遠出にももってこいの行程である。今日は留守番をしてもらった3匹の犬たちと出かける日を期待することにしよう(本来ならば写真も併せてアップしたいところだが、整理が間に合わないので、取り敢えず文章だけ投稿しておくことにする)。
2013-12-28追記:「鹿背山の大仏鉄道跡を歩く」写真集
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2013年12月21日

年末の引っ越し

今年ももうあと10日余りを残すだけになってしまった。景色もいつのまにかすっかり冬の粧いとなり、出勤にも厚手のコートを着て行くようになっている。
今朝、下の娘が年末恒例のスキー合宿に出かけて行った。毎年のこととはいえ、初めての一人旅である。高校最後の冬も雪に恵まれ、充実したシーズンになることだろう。末っ子のことでもあり、長女に比べたら10分の1の面倒を見てやれなかったのではないか。3人めともなると、親としてもある意味手の抜き方を心得てしまっているので、可哀想といえば可哀想なのだが、その分いつの間にこんなに、と思うほど逞しく育ってくれた。この子と真ん中の子が学業を終えるまでは、がんばらねばならない。それが過ぎれば、ぼくもほどなく定年を迎える。

そんな時期ではあるが、勤務先がようやく建て替えの運びとなり、昨日の金曜日はいよいよぼくの通うへやの引っ越しだった。机の位置は変わっているものの、まる25年近く勤務してきたへやである。片付け下手では人後に落ちず、それはそれはたいへんなのものであった(いやまだ過去形ではない。これからの開梱が思いやられる……)。
書棚に収まっているものはまだよいのである。問題なのは書棚からはみ出している種々雑多な書類である。日頃から整理しておけばこんな時にもどうということはないはずなのだが、雑多な上に要るもの要らないものがごっちゃになっている。それらをより分けながら、いくつかの段ボール箱を用意して箱詰めしてゆく。とんでもないところからツレが出現したりする。ああ、これはどこかで見たなと思った時にはもうくだんのツレは行方知れずになっている。運良く仲間ができたものは、一括してファイリングしてゆく。
そんなこんなの荷造りであるから、いっこうに捗らない。捗らないどころか、一旦は荷物が増殖してゆく。それを何度か切り崩してゆくうちに、少しずつ山が低くなり始める。そうなったらしめたものである。あとは加速度的に減ってゆく。最後に残ったどうしても区分けが難しいものは、諦めてそのまま箱詰めする。今やらねば多分定年までこのままなのが目に見えているのだが、ここで悩んでいては引っ越しも覚束ない。決断せざるを得ない。

用意したダンボールの一つに「廃棄」箱がある。あまり考え込まずに振り分けているので、残すべきでありながら廃棄箱に放り込まれた書類も多かったに違いないのだけれど、いずれも10年近く見なかったものばかりである。後生大事にとっておいたところで、あの世まで持って行かれる訳でもない。後輩たちの今後の仕事の参考になるであろうわずかのものを除き、我ながらずいぶんと潔く捨てた。引っ越しのテンションでなければ捨てられなかったものばかりであっただろう。
いずれにしても定年の時には処分しなければならなかったものである。その片付けを前倒しでできたと思えばまだ心も安まるというものである。今回の引っ越しは、身辺整理にはまたとない機会となった。定年間際にこれをやっていたら、あるいは突然の異動が降ってわいてこれをやる羽目に陥ったら、などとと思うとゾッとする。

とはいえ、引っ越しとはいやなものである。「廃棄」の引導を渡された書類たちの運命を決してしまったことに、一抹の後悔を禁じ得ないのもまた事実である。勤務先の引っ越しは初めての経験だが、そもそも自宅の引っ越しではずいぶん苦労させられてきた。
今から思うと、ちょうどこれまでの人生の半ばの頃、生まれて初めての引っ越しをした。祖父母が敗戦後しばらくして建てた家を売り払って郊外に越した。築約35年の家だった。荷物を全部出してがらんどうになった家で、呆然としていたことを記憶している。ここに27年住んだのであるから、ぼくが生まれたとき、あの家はまだ築10年にもなっていなかったのである。今住んでいる家でさえ既に築12年めを迎えているのだが、あの古ぼけた印象しかない家がそんなに若かったとは、俄には信じられない思いである。まして、この引っ越しの際には祖父母はまだ健在であった。そのときには祖父母の気持ちには思いも及ばなかったけれど、どんな思いで引っ越しを迎えていたことだろうか。
新しい家が建つまでの仮住まいのマンションへの引っ越し、その新居への引っ越し、結婚後の新居への引っ越し(一時仮住まいのマンションをそのまま使ったので幾分かは楽だったが)、就職して勤務地への転居(これが距離的には一番遠く、しかも合同宿舎への転居で居住面積がぐっと狭くなるので一番辛い引っ越しだった)、宿舎が手狭になって賃貸へ、それから今の家までさらに2回の引っ越し……。さあ、いったい何回の引っ越しを経験してきたのであろう。もうこれで一生動かないで済むだろう(引っ越しはもうこりごり!)と思った前々回の引っ越しもあっけなく夢(?)破れ、12年前に今の住まいに越してきたのだった。
これまでの人生の半分を一つの家に暮らしてきたのに、残りの半分で7度の引っ越しを経験したことになる。7度目の正直といったところか。さらに今回は、こともあろうに勤務先の引っ越しである。これは建て替えが成ったあかつきには、確実にそこへの引っ越しが付いてくるから、異動にでもならない限り、9回目の引っ越しが約束されている。まあ、この片付け下手の人間に対して与えられた試練というか、いやむしろ恩恵と受け取るべきなのであろう。

荷造りをしていて思ったのだが、荷物や書類の整理は、PCのデータの保存と同じことなのだろう。ファイルの構成の方法には、個性が表れると思うが、使いやすさはファイル整理をいかに日頃からきちんとやっておけるか、それにかかっているといっても過言ではない。厳密に言うなら、ハードディスクの整理方法の要領は身辺整理と同じというのが筋なのだろうが、ぼくの場合は、全体を見渡せるハードディスクの整理にならって、身辺整理の方法を計画的に考えていかなくていけない、身辺を整理していく方法はハードディスクの中身と一緒だなとつくづく思った次第である。身辺整理では、ついつい全体を見渡せない状況になって、局部的な対応で整理方法を誤ってしまうことが多いのである。
ともあれ開梱に手間暇かけている余裕などない。連休明けには仕事に取りかかれる態勢を整えなければならない。
25年間暮らしてきたへや.jpg
[25年間暮らしてきたへや]


          §          §          §

最近の読書で印象に残った言葉たち。
ヒルティーと榎本保郎牧師の著作については以前にも少し紹介したが、金大中元大統領の自伝(まだ1冊目だけだが)と、市川和広さんの『浦上物語』からは、それぞれに感動的、印象的などという月並みな言葉では済ますことのできない深い読書体験を得ることができた。これらについてはまた機会を改めて書きたいと思う。

「「伝道の書3・11神のなされることは皆その時にかなって美しい。」私たちの時は神が支配しておられる。その神のみこころに自分を合わせていくところに信仰がある。信仰とは自分の思いに神を組み込むことではなく、神のみこころに自らを組み込まれていくことである。そのとき、私たちは心から神を賛美することができるのである。」(榎本保郎『ちいろば牧師の一日一章 旧約聖書篇』〈マナ・ブックス〉伝道の書3・11)

「この初めての空襲で、長崎の誰もが戦争の真の姿を実感したはずだった。不気味な爆音と共にどこからともなく降り注がれてくる爆弾。その頭上からの悪魔に、人々は壕の穴蔵に身を屈めて怯えた。その恐怖に覆い尽くされた空白の時間に、人々は唇を噛み、自分の皮膚のにおいを嗅ぐように戦争のにおいを生々しく嗅いだはずだった。互いの大義に名を借りて、そこに暮らす人々を無差別に殺し、かつ殺されてゆく果てしない不条理の連鎖。そして、日本が大陸で行ってきた武力による進攻が、憎しみを増幅させる侵略でもあったということに、ふと覚醒するように気づいた市民も少なくはなかったはずだが、理性を振りかざす余裕は誰にもなかった。非国民という名のレッテルは、敵に蹂躙される以上の恥辱と考えたからだ。また、すべてが統制され、戦時体制翼賛に仕組まれた社会にあっては、肯定する以外の選択肢はなかった。ただ、じっとりと汗ばんだシャツの襟元を緩めて歯形のついた唇を舐めると、次には無事に生き延びたという喜びを噛み締めることだけが許される、そういう時代だったのだ。」(市川和広『浦上物語』〈叢文社〉)

「人々は私のことを「忍冬草(すいかずら)」と呼んだ。忍冬草は秋に熟れた実が、冬、雪の中でいっそう赤くなった。かよわい忍冬草が冬を耐えるのは、遠からず春がくると信じているからではなかろうか。しかし、その姿はどこか悲しい。もの悲しげな美しさ、忍冬草には涙が宿っていた。そうだ。支持者たちが私を眺めて流した涙、その涙が集まって川をなし、私はその川を伝ってさかのぼり、ついに、大統領になった。
振り返ってみると、多くの人たちを泣かせた。私もまた、何度も泣いた。そんな私が涙ながらに大統領になった。これからは、私がみんなの涙をぬぐってやらなければならなかった。過ぎ去った冬が厳しかった分、あすの春は美しくあらねばならなかった。」(金大中『金大中自伝Ⅰ死刑囚から大統領へ―民主化への道』〈岩波書店〉第47章、)

「行動する時になって、自分が何をなしうるか、また何をしたいのかを、考慮しなければならないようでは、たいてい初めから失敗するにきまっている。現代では軍事上でも認められているように、行動に移る決定的瞬間には、「心理的要素」がきわめて大きな役割を演じる。それまでに十分に獲得された力と原理をもって、勇敢に事にあたる者は、決定的な勝利をおさめることができる。そしてこの勝利が、その後長い期間にわたって、その人の運命を決定する。これに反して、あやふやな態度で戦いにのぞむ者は、降伏するか、退却するかであって、前に向かって進むかわりに、人生のこの時期とその課題とを全部、初めからやり直さねばならない。」(ヒルティ『眠られぬ夜のために第一部』12月16日〈岩波文庫〉)

「人びとの感謝を決して期待してはならない。(中略)あなたは、人間として隣人に善いことをしても、それらすべてはみずからのため、また神のためになされたものであり、それで済んだものとして、ただちにあなたの記憶から消し去るがよい。」(ヒルティ『眠られぬ夜のために第二部』12月16日〈岩波文庫〉)

「ひとは自分にできることをしなければならないが、次には、他人の感謝をあきらめることができなくてならぬ。(中略)人間は、相手が賞賛を求めていると気づくやいなや、それをあたえなくなり、かえって、そのような讃美に無関心な他の人に対しては、それを山のように与えたがるものである。」(ヒルティ『眠られぬ夜のために第二部』12月21日〈岩波文庫〉)
ラベル:日常 読書
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2013年12月11日

踊る鮭の話―夢の記憶15

昨晩から今朝にかけて深い気圧の谷が通過し、日本海を進んだ方の低気圧は猛烈に発達しつつあり、うしろには寒気が控えているらしい。晩秋から初冬へと季節は着実な歩みを見せている。
この雨は紅葉してからなかなか散らずにいた家のもみじを散らす雨になった。未明にかけて結構な降りだった。2階にいるAGがドシンバタンやっていたのは、雨が強いせいだったのだろう。もしかしたら、発雷していたのかも知れない。犬の方が雷には敏感で、ことにAGは神経質なくらい反応する。
そんな雨も、娘を駅まで送って帰ってくる頃には東の空が急に明るくなって来て、ほとんど止んでいた。玄関先には雨に打たれたもみじとハナミズキとケヤキの落ち葉がかなりのカサで積もっている。今はまだ濡れているからいいけれど、天気が回復して乾いてくると、木枯らしに乗ってどこに飛んでいくかわからない。そこで、まだ湿っているうちに掃き集めておこうと思い立ち、出勤前の慌ただしい時間ではあったが、落ち葉掃除を始めた。
ものの15分程度でも、かなりきれいになった。近所に落ち葉が飛んでいくことを思えば、今のうちに片付けておいて少しでも飛ぶ量を減らしておくことができ、まずはホッとする。お孫さんをバス停まで送っていく近所の方が、雨でびしょびしょだからたいへんですねぇ、と声をかけていってくださる。今のうちに掃いてしまうのは、結構名案だと思ったのだけれど、なんだか少し自信がなくなって、そうですねぇ、でも乾くとどこへ飛んでっちゃうかわかりませんから、とまだ少し雨粒が落ちてくる中で掃除をしている言い訳をする。
例年紅くなったもみじ葉を木枯らしが木から直接もぎ取っていくことが多いので、乾いたままの葉ご近所に散乱して往生するのだけれど、今年はいつまでも梢にしがみついているもみじ葉を、雨が地面に貼り付けていくことになった。あとまだ少しの葉が残っているけれど、どんな落ち方をしていくのだろうか。

          §          §          §

そんな今朝の雨の頃に見た夢は、久し振りに突拍子もない夢だった。ガス・オーブンだろうか、電子レンジだろうか、大きさからいえば、オーブンのようではある。まわりの設えが全然記憶にないのだが、ぼくが開けたのだが自然に開いたのだかわからないがその器具が突然開いて、中から大きな1匹の鮭が飛び出してきた。丸々と太った鮭である。いや、鮭だと決めつけてそれを見ていたのだが、今思うと、正確に言えばあの青筋は、あれはむしろマグロとかカツオのようでもある。特に顔が見えたとか、擬人化された魚ではないけれど、笑いながら躍り出て来たというのがピッタリの印象だった。
オーブンは何種類かの料理をしたあとだから、かなりの高温のはずだ。それに耐え、焦げることもなくよく生きていたものだと感心して見ている。どうやってあの高温のなかで焼き魚にならずにすんだのだろうかと不思議に思いながら、その鮭がさらに室内を飛び跳ねているのを眺めている。熱かっただろうから冷ましてやらなくてはと思いつつ、水をかけたりして急に冷やすのも身体に良くないだろうななどと心配も始めている。でも、あの高音の中を平気だったのには、きっと生き延びるための何かの驚異的な生命維持機能をもっているに違いないと、自分で納得している。
それでもこの不思議な出来事を調べてもらおうと専門家に相談に行ったらしい。2人の白衣を着た研究者に今の鮭の話を説明している。信じてはもらえないかもしれないと思いながらも、ともかくも見たままのことを話してみると、意外にも話を納得して聞いてもらえた。専門家にはまともに取り合ってもらえないかも、という心配は無用だったわけである。話を聞いてくれたうちの年輩の方の人が、専門的な研究だけでなく一般の人への広報活動も大切なんだとある日わかったという話をされた。その人がハタとそう思ってうれしくなり、幸せな気持ちを味わった時のことを、とても印象に残る言葉(言い回し)で話してくれたのを記憶していて、ぼく自身もなるほどと思い、夢の中でそれをもう一度反芻して記憶に刻んだ覚えがあるのだが、そこまでしたのに、もどかしいことだがその言葉を今思い出せない。もう1人の人はぼくの鮭の話を半信半疑に聞いていたようだが、年輩の方の人の熱意に引き込まれているようだった。話を聞いてもらえて夢の中のぼくもうれしくなっている。
で、肝心の鮭の話だけれど、どうやってオーブンの中を生きられたか、これについては特に説明を聞けないまま、夢から覚めたのだったか、場面が動いていったのだかはわからないが、残念ながら記憶がない。いったいなにがどうなると、こんなへんてこりんな夢を見るのだろうか?
ラベル:日常 季節
posted by あきちゃん at 02:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2013年12月05日

中村洋子さんのチェロ組曲を聴く

ラヴェルのチェロ・ソナタを聴きたいと思ったのは(2013/12/01「朝バスを降りそこなった顛末」より続く)、先日ようやく入手した中村洋子さんの無伴奏チェロ組曲第4番・第5番・第6番のCDを、最近ずっと聴いていることに原因がある。中村さんのブログ「音楽の大福帳」は目からウロコの落ちるような新鮮な話題に満ち溢れていていつも楽しみにしているのだが、その中村さんの作曲された曲のCDが発売されたという(NYBACH06)。是非聴いてみたくて、最初は東京まで行かないと買えなさそうだったが、ネットでも買えるというので早速amazonに註文した。入荷に暫く時間がかかったが、先日やっと届いた。現代の作曲家が書いた曲ということでちょっと恐る恐る、でもバッハのアナリ-ゼのわかりやすさからすれば、きっと親しみやすい曲に違いないという期待と半々で、昔風に言えばそっと針を落としてみたのだった(LISMOに録音してケータイに移し、再生ボタン〈これももはや死語に近いか〉を押すのである)
一言で言って感激した。親しみやすさの中にも、一本ピント張り詰めたものが通ったメロディーを、ヴォルフガング・ベッチャーさんのチェロが朗々と奏でてゆく。ドッシリとした安定感があり、故郷に帰ったようななつかしさを感じさせる曲である。いずれも名曲である。

中村洋子無伴奏チェロ組曲第4番・第5番・第6番.JPG
〔中村洋子無伴奏チェロ組曲第4番・第5番・第6番〈NYBACH06〉のジャケット〕

第4番が春分、第5番が夏、そして第6番が季節にとらわれない喜びをそれぞれテーマにしているとのことで、曲ごとに性格がはっきりと異なるのだけれども、それでいてどこか共通した感触をもっていて、どの曲も聴き手を優しく包み込んでくれる。4番の第1楽章の心から涌き上がる喜び、第3楽章のそっと忍び寄る諦念、5番の夏の夜空を彩る星々の歌の和風の響きとそこはかとないはかなさ、6番の豊漁の歌と子供たちの生き生きとした歌、そしてそれに挟まれたアリアの静謐、組曲全体を締め括るフィナーレでもある第6楽章の簡潔な美しさ。曲とチェロが一体となって醸し出すこれらの得も言われぬ包容力に身を委ねるうちに、極上の時間が流れてゆく。第1番「春」、第2番「冬」、第3番「秋」もCDになっているという。今のところこれらはネットでの購入はできないようだが、是非聴いてみたい。
さて、ラヴェルのチェロ・ソナタを思い出させてくれたのは、組曲第6番第1楽章の冒頭のメロディーである。これは全体が沖縄音階の影響で書かれている曲だが、それを大きく越えた普遍的な音階が鳴り響く。ラヴェルを思い起こしたのは素人の勝手な妄想に過ぎないのだが、中村さんがラヴェルのことを「音楽の大福帳」で書いていたのを読んだ記憶が、どこかで影響しているのかも知れない。
ちなみに、久し振りに聴いたラヴェルはものすごく新鮮だった。中村さんの極太のスケッチに比べると、チェロ・ソナタであるのにラヴェルはあまりに繊細で、触っただけで壊れてしまう砂糖菓子のようだった。一見(聴)ふざけているように見えても(聞こえても)、実は大真面目に綿密な仕掛けが張り巡らされているのがラヴェルの音楽である。やはり、ぼくが愛してやまないト長調コンチェルトの第2楽章を書いた人なのである。

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中村洋子さんとラヴェルという脈絡のない取り合わせついでに、もう一人最近感心して聴いている曲を挙げておきたい。阿部真央という人の曲である。夏だったと思う。車の中で聴いていたラジオで流れた曲に、唖然としてしまった。「ストーカーの唄―貴方の家」という曲である。一目惚れした同級生の家を探し当てて通い詰めるという乙女の純情な恋心、片想いもいいところの止むに止まれぬ気持ちをそのままぶっきらぼうに歌い上げていく。
最初はなんじゃこれ、という印象で聴き始めた。「職員室の連絡網、盗んで知った番号にかけるのはこれで63回目」というフレーズに、ぼくらの子どもの頃には住所も電話番号も、はては親の職業まで書いた名簿が配られていたっけ、などと自分の小学生時代を思い起こし、「持つだけの情報網、駆使して知った貴方のおうちは3丁目」に、自分の好きな子がどこに住んでいるかって、そういえば気になったなあと思い出し、徐々に引き込まれていく。これは本当にひとごとではない……。そして3丁目、3丁目と何度も何度も声を張り上げ絶叫して歌うのを聴いているうちに、心にどんどん響き始めたのである。終わった時、ぼくは心のなかで涙して呆然としていた。
この曲は「素(す)」というアルバムに入っているのだが、このアルバムで「ストーカーの唄」のすぐあとに入っている、「光」というエンディングの曲がまた大きな感動を誘う曲だった。これが同じ人の声かと思うほど切々と響く。いい年をして、と言われるかも知れないけれど、いいものはいいのである。キマグレンの歌を聴いた時もそうだったが、こんなすばらしい曲たちに出会えたことを心から感謝しないではいられない。
ラベル:音楽 CD
posted by あきちゃん at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする