2014年02月25日

積雪と霧氷の観音峰をゆく

天川村の観音峰に登った。家の近辺では先日の大雪も屋根から落ちた雪の塊が少し残る程度だったというのに、吉野川を渡って南に向かうほど徐々に雪が深くなってゆく。14日の降雪当日の奈良市内の風景そのままの雪景色が広がり始める。しかも、気温が低いため凍っている。とても同じ奈良県内とは思えないような(盆地から出ない限り冬もノーマルタイヤで過ごせるような大和盆地の方がむしろ特殊なのである)過酷な気象条件の地域である。数年前の台風の爪痕もまだ痛々しい。
トンネルを出てすぐの吊り橋のたもとの登山口で降り、早速アイゼンを付けて観音峰に向かう。初めから直登である。凹凸のある登山道は、多少の雪ならばかえって平らになって歩きやすい。気温が低く締まっていればなおさらである。初めのうちは、先日の天和山や和佐又山と同じように、比較的歩きやすかった。しかし、それも高度が上がるにつれて雪が深くなり、次第に状況が変わっていった。膝まではあるだろう、しかもさらさらの雪である。そんな中にトレースされた道が続いている。
第一展望台で弥山・頂仙岳方面を望む。青空はあるものの、山頂は灰色の雲をいただいて見えない。でも今日は好天の予報も出ている。あの雲の塊さえどこかに行ってくれたなら……。まんざら期待できない天気ではなさそうだ。
休憩所のある地点で再度休息する。ここから雪はさらに深くなる。雪で埋まった道をラッセルしてある部分が次第に増えてゆく。本来の道から外れている部分もあるに違いない。足跡を忠実に辿れば幾分楽ではあるが、雪がそれほど締まっていないので、ちょっと油断すると思わぬ深さまで雪を踏み抜くことになる。そうなると、足を引き抜くのも一苦労だ。しかし、先にはきっと大展望が待っているに違いない。時折、木漏れ日に雪が光る。
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〔雪道を行く〕

観音平展望台では遮るものない360℃の大展望が待っていた。このパノラマを見られただけでもここまで登ってきただけの甲斐はある。ただ、残念ながら弥山は山頂をまだ隠したままだし、稲村ヶ岳も同様である。どっしりと根を張って立ち上がる山容の大半は見えているのだが、肝心の山頂部分はまだ灰色の雲を乗せたままである。
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〔大日山と山頂を雲に隠す稲村ヶ岳〕

大展望に名残を残して出発する。しかし、この尾根はこれからもずっと展望に恵まれている。これから雲が取れることも期待できるに違いない。観音峰へは意外にまだ距離があった。眺望に恵まれた展望台のあまりの気持ちのよさに、ここで弁当にできたらよいのにという思いがなきにしもあらずだったけれど、確かにこれなら食べずに来て正解だった。しかもである。観音峰への道を辿るうちに、木の間越しに見え隠れしていた稲村ヶ岳が、次第にその山容を現わしてきたではないか。それがよくわかるのは、大日山のあの特徴のある尖峰が姿を見せたからで、そうなると稲村ヶ岳の雲が消えるのは意外に早かった。雲が取れてみると、隠れていた部分がほんのわずかだったのがよくわかるが、それだけで印象がこうも違うものなのか。谷を挟んですっくと立ち上がる全容を見せてくれた雪化粧の稲村ヶ岳は、まさに神々しいばかりだった。
大日山と姿を現した稲村ヶ岳(三ツ塚から).jpg
〔大日山と姿を現した稲村ヶ岳〕

12時15分過ぎに観音峰山頂に到着。山頂の道標は雪に埋もれていた。この埋まり方を見るなら、積雪は膝までどころではなく、深いところは腰までといってもよさそうだ。ここで雪に腰を下ろして待望の昼食。根方を掘って平坦地を作ろうとするが、雪がやわらくて固まらない。地面には到底到達しそうもない。弁当を取り出そうとすると、今掘ったさらさらの雪がナップザックにたまっていたが、全く溶ける気配もない。ふっと吹くと飛んで行ってしまう。山の食事はいつもなぜこんなにうまいのだろう。展望の約束された尾根道を前に、まさに心の弾む食事だった。山頂周辺の葉を落とした細枝は、霧氷でお化粧している。和佐又山では高い枝の霧氷を見たけれど、こんな手に取れるような位置で霧氷を見るのは初めだ。
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〔雪に埋もれた観音峰の山頂の道標〕
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〔観音峰の霧氷〕

12時40分出発。ここから先の法力峠までの尾根道は、雪上の踏み跡もぐっと細く、そして深くなる、一応トレールはあるのでラッセルの必要はないものの、踏み固められた道にはなっていないので、それなりに神経と体力と、そして時間を使う。でも、天候に恵まれて、時間の経つのを忘れた楽しい山道だった。右手には稲村ヶ岳が、左に大日山を従えつつ、刻々と姿を変えてついてきてくれる。次第に下がっていく関係で、大日山が向こう側にある稲村ヶ岳に比して次第にその存在感を増してゆく。大日山から視線を左手に辿れば、そこには低木が少ないためか、一段と白く輝く山上ヶ岳が次第に存在感を増してゆくのが印象的だ。
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〔刻々と形の変わる大日山と稲村ヶ岳〕

ふりかえれば、弥山もその山頂を現わしてくれていた。左に鉄山のジグザクの頭、右に清楚な頂仙岳の三角峰を従え、どっしりと座るその姿は王者に相応しい貫禄だ。弥山山頂から右手に続く斜面にぴょこんと飛び出しているのは大峰の(ということは近畿の)最高峰八経ヶ岳であろうか。観音平からだとこの稜線の上に明瞭な尖頭を望めたはずなのだが、だいぶん東に回り込んだ三ツ塚あたりまで来ると、弥山本体の尾根に隠されてしまうのだろう(行者還や和佐又方面からだと、右に弥山、その左に八経という景色に見慣れているので、左右逆転すると違和感を覚えるのだがこれは地図で確かめて納得した)。残念なのは、既に逆光気味の時間帯に入り、正面の稲村ヶ岳に比べてシャープさに欠ける点だ。和佐又山からの時もそうだったが、これは弥山自体のロケーションにも原因があり、大峰のこのあたりから見るには午前中でないと無理なのである。山頂に立つのが午後にかかる日帰り登山ではこれはいかんともしがたい。
弥山(中央)と鉄山(左)・頂仙岳(右).jpg
〔弥山(中央)と鉄山(左)・頂仙岳(右)〕
法力峠に下る道からの大日山と稲村ヶ岳.jpg
〔法力峠に下る道からの大日山と稲村ヶ岳〕

応接に暇のない景色に、まさに時間を忘れたと書いたけれど、雪の深い尾根道はやはり意外と時間を食った。法力峠を母公堂へと下り始めた時には、15時半を回っていた。三ツ塚から法力峠までは、厳冬期の降雪直後には50㎝のラッセルも珍しくないと案内書に書いてあるのを読んだが、一応トレールがついていてラッセルとまでは行かなくても、写真タイムを差し引いて2時間余りを尾根道に費やしたことになる。しかし、以前稲村ヶ岳に登ったときには、下山のサブルートくらいにしか考えていなかった観音峰の尾根道が、これほどの展望に恵まれたすばらしいコースであることを、今回歩いてみて改めて見直した。長い距離にわたって展望が持続し、しかも地点ごとに変化する大パノラマに恵まれたこのコースは、観音峰だけでなく、法力峠までの全行程を辿ってみて初めてその真価を理解することができるだろう。
なお、今回の山旅も、N交通のバスハイクによる。ご案内くださったみなさまと同行されたみなさまに心から感謝!
ラベル: 奈良 季節
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2014年02月20日

自転車で線路を走る夢─夢の記憶17

上司を乗せて同僚たちと車で出かけようとしている。目的地はわかっている。車は軽のワゴンの4人乗り。運転手を別として同僚が2人同行するらしい。それなら同僚にはうしろの座席に座ってもらい、上司に助手席に座ってもらおうと考えている。ぼくは車の右側に後方の位置にいる。運転席側の後部座席の外のあたりだ。誰かが上司を呼びに行っている。上司の体格を考えたら、ぼくが後ろの座席に座らざるを得ないな、と考えている。いつのまにやら、後ろに3人座るのが前提の話になっている。
上司がやって来た。ところが、座ってもらうつもりだった助手席に既に誰かが腰をかけている。上司の座る余地がない。そんなに大勢で出かけるんだっけ、と思いつつも、しかたないなあ、それなら別の車を用意して来なくちゃ、と思う。車のあるガレージは少し離れたところにある。それを頭に思い浮かべながら、夢の中で行動を起こそうとしている。ちょっと待っててください、今用意してきますから。念頭にあるのは、年代物の大型のハッチバック車である(実際に存在するもの)。取り敢えず先に行っててください、と軽ワゴンを先に行かせる。その間上司にはその場で待っていてもらうことにしたのだろうか、その辺が至極曖昧である。
その後どういうわけかわからないが、自転車に乗ってガレージに向かっている。自転車はどこから出てきたのだろう。そして踏み切りを横切ろうとしている。夢の中で思い描いていたガレージは、車と同様に現実に存在するもので、道路を横断した向こう側の敷地に建っている。それが夢の中では道路ではなくて線路になっているらしい。それを渡っていくのだが、なぜか、線路を横断していたはずが、2本の線路の間を走り始めている。横に並ぶ枕木を一つひとつ越えて走っているのである。
だから相当な結構な段差があったはずである。とんでもなくガタガタするはずなのだが、思いのほかスムーズに自転車は進んでいく。線路の間って、意外と走りやすいんだ、と納得している自分がいる。ちなみにこの線路は標準軌道、つまりJRではなく近鉄の幅である。正面にはどうも駅らしい施設が見えている。
と、駅から電車がこちらに向かって来るではないか。でも、ぶつかるという切迫感を全く感じない。ちょうどこちら側から線路がポイントで2方向に分岐していて、電車が向かってくる右方向から逸れて、左の線路の方に分かれてゆく。遠路の内側に沿って平らな道があり、そこを自転車は滑るように走ってゆく。前方で駅員がこちらを睨んでいる。それはそうである。線路に進入しているだから怒られても仕方ないはずなのだが、なぜ睨まれるのだか、夢の中で全く理解できないでいる。
駅に近づいてそこで自転車から降り、ぐるっと左向きにUターンする。なぜかわからないが(いったい駅まで何しに行ったのだろう。結果的には自転車を置きに行ったようなことになっている)、そこまで行って戻ってくるのが当然だと思っている。車を取りに行こうとしていたことと関係しているのだろうか。でもガレージは線路の向こうのはずである。
本来ならまた線路を戻るはずだったようである。ところが、さっきぼくを睨み付けていた駅員がなぜかまた前方にいてこっちを見ている。それで線路に入れず、怒られるのもいやなので、線路を戻るのは諦めて、線路の右側(踏切から見るなら左側)を通る道を歩いてい踏切に戻る。そうして車庫に向かう。

        §           §           §

あとのことは何も覚えていない。今こうして書いているのは、目覚めた直後に書き止めたメモに忠実に従っているのだが、大部分は覚えているのに、メモを見て初めて思い出した箇所がいくつかあった。上司がやって来たとき既に助手席が埋まっていたこと、駅で自転車を置いてきたことの2点だ。特にあとのことは全く忘れていて、駅からも自転車で戻ってきたのだとばかり思い込んでいた。
何が記憶にとどまっており、何が消えてゆくのか、何か法則性があるのだろうか。夢はほんとうに夢のような存在である……。夢を見ている自分と、夢の中で行動している自分、それはどういう関係にあるのだろうか。考えれば考えるほど訳がわからなくなってきてしまうし、夢の中で認識している現実とはいったいなに?
  
ラベル: 記憶 日常 鉄道
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2014年02月15日

大雪の狭間で見た奇跡的眺望

和佐又山頂の霧氷.jpg
〔和佐又山山頂の霧氷〕
大峰山の大普賢岳の足下にある、和佐又山を訪れた。どんよりとした早朝の奈良を発つ。予報は悪くなかったけれども、あまり期待はせずに出かけた。橿原神宮前からバスに乗り込む。川上村への谷に入ると、南に青空が開け始める。ああよかった、生まれ始めた淡い期待に答えるかのように、さらに南に向かうに従って、空が広がり始める。谷を横切る部分では、雪をかぶった大峰も望める。これはもしかしたらもしかして、と期待が高まる。
伯母が峰のトンネルを抜け、和佐又山への道に右折したところでチェーンを付ける。休日でもあるこの日は霧氷バスが運行されていて、出発を待つ間にちょうどその到着を迎えることになった。一方ぼくらの乗ったバスは、沢道への入口まで運んでくれる。道は除雪してあるものの、バスだとカーヴではタイヤが路肩に残る雪にかかる。
バスを降りたところはもう氷雪の世界だった。初っ端からアイゼンを付けて雪の積もった沢道を歩き始める。谷筋を登り詰める道だが、雪のお蔭で石のゴロゴロした道が難なく歩ける。青空の予感がますます濃くなってゆく。振り返るたびに、青色の領域が増えてゆく。時折山陰から日射しが差し込む。これは、きっと最高の山登りになるに違いない。
雪を踏みしめて登ること約1時間、突然和佐又ヒュッテのコテージ脇の広い道に飛び出した。雪のたっぷり積もった道を和佐又ヒュッテへと下ってゆく。気分はもう雪道を走り出していた。和佐又ヒュッテ前のゲレンデは家族連れで賑わう和やかな世界が広がっていた。時折子どもたちの歓声が響く。
アイゼンを外してヒュッテにお邪魔し、弁当と、思いがけなくもバスの引率の方々の心づくしの豚汁をいただく。身体がそれこそ心の底から暖まる。雪の上に敷物を敷いて昼食を取るのを覚悟していたので、こんなまるで天国のような昼食が待っていてくれるとは思いもよらず、幸せに浸る。ただただ感謝、感謝。
身支度を調えて、身も心も軽くなって雪道を和佐又山頂に向かう。途中、ヒュッテの裏で、雄大な雪の大台ヶ原の遠望を楽しむ。反対側には大普賢岳が徐々に形を変えつつ迎接に暇なく、次第に圧倒的な存在感を示し始める。程なく山頂である。昼過ぎのこの時間にもなお、霧氷を付けた木々が陽光にきらめき、そこには快晴の遮るもののない展望が待っていた。言葉では言い尽くせない景色だった。たとえ吹雪かれて全く景色が望まれなかったとしても、それはそれで山登りは楽しいものである。こんな景色まで見られて本当にいいのだろうかというくらい、勿体ないくらいの絶景だった。喜びをどう表現してよいかわからないよいうような雰囲気に浸りながら、しばし時間が過ぎるのを忘れてしまった。
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〔和佐又山から大普賢岳を望む〕

和佐又山から望む八経ヶ岳・弥山・行者還岳(左から順に).jpg
〔和佐又山から望む八経ヶ岳・弥山・行者還岳(左から順に)〕

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〔和佐又山から釈迦ヶ岳方面を望む〕

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〔和佐又山への道から和佐又山ヒュッテと大台ヶ原遠望〕

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昨日は先週とは違い本当に大雪になった。一時奈良の積雪は15㎝に到達した。夕方までに峠は越えたようで、駅前の道路ははほとんど雪が溶けていたが、ぼくの乗るバスはジャラジャラとチェーンを響かせてやってくるではないか。そうなのである、我が家の近辺は駅前に比べるとまさに山なのであって、30mは標高が高い。駅前で雨だと思って油断していたら、家の回りは積雪していて唖然としたことがあったが、昨日もまさにその通りで、バス道さえ積雪が残り、路線バスがチェーンを巻いてきたのもむべなるかな、深いところでは20㎝近い雪で、歩道はしっかり積雪して路面が見えないありさまだった。
夜に入り、甲府の積雪は70㎝近くに達していたし(今日にはなんと114㎝という驚異的な量に達している!)、横浜も20㎝に及んでいた(真夜中に28㎝を記録)。都心の8㎝もけっして小さい数字ではない(夜中過ぎに27㎝)。低気圧がかなり陸地に近いところを通りつつあるので、朝には平野部では雨になる予報だったが、結局雨にならずにしかの予想以上の降水があたっため、先日以上の記録的な大雪になった。
それにしても2週続きの大雪はたいへんなことであろう。前回書いたように、かつて東京で雪に閉じ込められた2月によく似ているように思う。いや、あのとき以上かもしれない。来週も当初予想の反して低気圧が南岸を通りそうな気配がある。あのときは確か3回まとまった雪が降ったように記憶しているが、今回はさてどうなることだろうか。凍らないように祈るばかりだ。

          §           §           §

それにしても和佐又山の絶景は全く奇跡的としかいいようがない。2回の大雪をもたらす低気圧の通過のちょうどど真ん中めがけて登ったということなのだろう。荒れがひどければ、逆に安定期の安定度もまた高くなるのである。
最後にちょっと筋が違うのは承知の上で、最近印象に残った言葉から。
「あなたの重荷のためにいらだってはならない。なぜなら、それは深いあわれみの来る前ぶれだからである。」(C.H.スポルジョン『朝ごとに』〈いのちのことば社、2000年〉2月12日)
「奇跡は奇跡的に訪れるものではない。」(直接には、韓国の民主化、特に憲政史上初の平和的政権交代が、韓国国民の血と汗によって実現した奇跡であることを述べているが、金大中氏の言葉として聞くとき、普遍的な重みをもって迫ってくるまさに至言である。)(金大中『金大中自伝Ⅱ歴史を信じて-平和的統一への道』〈波佐場清・康宗憲訳、岩波書店、2011年〉第6章。日本の国会における演説)
ラベル: 奈良 読書
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2014年02月08日

南岸低気圧のもたらす太平洋側の雪

関東南部が久しぶりに大雪に見舞われている。立春から3月半ばくらいまでが東京の雪のピーク(時には4月初めに積雪をみることもある)、つまり東京の雪は春の近いことを告げる使者でもあるのだが、くれぐれも転倒などの事故の起きないことを祈るばかりだ。
かつてと違い突然大雪が降って面喰らうこともなく、今回も事前にかなり綿密な予報が出されているから、それなりの心の用意はできるようになった。今回も昨日のうちちかなり大々的な報道がなされていたようだ。昨シーズン大雪の予報が空振りになったことあったが、それはそれでよかったのだと思う。むしろ積極的な注意喚起に乗り出してくれるようになった気象庁の努力に感謝すべきなのだろう。
もっとも、いくら早めに予報が出されても、なんと言っても雪に慣れていない地方のことである。実質的な準備はしたくてもなかなかできない。今回もぼく自身、母と息子に今のうちに食べ物を買い込んでおいた方がいいと昨日メールしたのだけれど、準備といってもその程度のことが関の山である。
一度に20㎝を超える積雪になったのは、東京に住んでいた25年前までの29年間でもあまり記憶がない。一度2月の降雪合計が70㎝近くになった年があり、この時は前に降った雪が溶けないうちに新たな雪が積もり、家の前の道路が根雪になって、2月いっぱい車が出せなくなってしまった。都心でそんな経験をすることはもうないと思うので、あれはあれで貴重な経験だったと思う。
当地奈良では昨日の降り始めこそ威勢がよく、夜中までに数㎝積もったものの、今朝起きてみて結構降ってはいるのにほとんど増えておらずがっかりした。関西では南岸低気圧で雪になることさえ珍しいのだ。だから、関東南部の雪は、実際に今雪に降り込められている方々には申し訳ないのだけれども、とても羨ましいのである。
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〔溶け残りの雪〕

関東南部に育った子どもにとって、春先の雪ほど心の躍るものはなかった。これは今でも多くの子どもたちに共通の心理ではないかと思う(ゲームに熱中してても、雪に心を躍らせるような子どもであり続けてほしいというのが切なる願いである)。数㎝でも積もれば、その雪をかき集めて雪だるまを作り、雪合戦が始まる。関東の雪はもともと水分が多いし、春先のことでもあり天気が回復すればすぐ気温が上がってしまうので、もたもたしていたらすぐ溶けてしまう。それでまだ雪がやむ前からもう雪だるま作りに余念がなかったものである。春の陽光の下で溶けかけた雪だるまがこの季節の風物詩でもあったのだ。
今夜遅くには回復に向かうというから、明日日曜日は絶好の雪遊び日和になることだろう。もっとも、欲をいえば平日に積もってほしい。雪だるまはクラスメートたちと校庭で作って遊んでこそ楽しいものなのである。授業時間を雪遊びに振り替えてくれるような先生が今でもいることを願うばかりだ。子どもたちには怪我のないよう注意しながら存分に雪を楽しんでほしい(小3だったぼくのように、校庭で雪遊び中に友達の振り上げたスコップにあたって瞼の上を切り、4針も縫うような羽目になる鈍くさいことだけはないように気を付けて……)
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2014年02月04日

李姫鎬女史の自伝を読む

李姫鎬女史は今、いくつになっていられるのだろうか? 韓国の元大統領(任期1998年2月から2003年2月)金大中氏の夫人で、1922年生まれというから夫よりも2歳上で、もう90歳を越えていることになる。金大中氏の政治活動を支え続けた韓国の元ファーストレディーとして名高い女史であるが、女史自身、実はアメリカに留学した経験のある才媛であり、若き日には女性運動家の闘士の一人であった。金大中氏と巡り会ってからは夫の政治活動を支え続けたのだが、意志に反して何度も生命の危機を経験させられた夫とともに生きたその歩みは、まさに万巻の重みがある。結婚相手の金大中氏は再婚で、先妻の残した二人の男子があり、ちょうど政治的に不遇の時代でもあったから、誰もが結婚に反対したという。
それにしても韓国現代史の凄まじさはどうだろう。韓国で民主主義が勝ち取られたのが、ごく最近のことであることを、ぼくは迂闊にも知らなかった。それは文字通り多くの犠牲を払って勝ち取られたものであり、気付いたらいつの間にか民主主義を附与されそれを謳歌している国とは次元が異なることを痛感させられる。
1971年に最初の大統領選に出馬した時、不正選挙さえなければ間違いなく金大中氏は朴正煕大統領に勝っていたという。しかし、結果は94万票差で敗れたのであった。もしこの時勝利していたなら、果たして金大中氏が韓国に今のような民主主義をもたらしていたかどうかはわからない。この敗北に始まる茨の道がむしろ、真の大統領としての金大中氏を生んだといっても過言ではない。
それは並大抵の苦難ではない。選挙中にトラックをぶつけられて交通事故を装った殺人未遂にあい(この時の怪我が股関節の障害となって残る)、翌72年股関節治療のため日本に滞在中に朴正煕大統領が維新クーデターを起こして終身執権制を確立した結果、活動の場をアメリカに移さざるを得なくなる、そして73年、東京からKCIAに拉致されてあわや水葬されそうになり(このとき氏はイエス・キリストとの邂逅を体験する)、76年には3.1民主救国宣言により緊急措置法違反で逮捕・拘留され、釈放後も自宅軟禁状態に置かれるのである。その後、朴正煕大統領が暗殺によって非業の死を遂げて訪れたいわゆるソウルの春も束の間、80年、今度は全斗煥将軍のクーデターによって逮捕され、光州事件の濡れ衣によって死刑を宣告される。何が何でも亡き者にされかけるのである。死刑を求刑され、拘留された中で書かれたのが、『金大中獄中書簡』である。まもなく無期懲役に減刑されるものの、82年末に刑執行停止によってアメリカに渡るまで、投獄され続けることになるのである。
しかし、文字通り死の淵に立たされた監獄での生活が、将来の大統領としての金大中氏の資質に磨きをかけたのだから不思議なものである。英語を独学で身につけたのも獄中であるという。災いを転じて福となした金大中氏の忍耐力というか精神力は、まことにすさまじいものがあるが、それを生み出したのは氏の信仰であり、夫人の李姫鎬女史の存在であった。女史は最高裁判決で死刑が確定していつ執行されてもおかしくない状況になるのを目前に控えた81年11月からは、ほとんど毎日のように手紙を書いて夫を励まし続けるのである。

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〔李姫鎬『夫金大中とともに─苦難と栄光の回り舞台』〕
李姫鎬女史の自伝『金大中夫人回想記 勇気ある女』(金貞淑訳、毎日新聞社、1994年)と『夫・金大中とともに 苦難と栄光の回り舞台』(米津篤八訳、朝日新聞出版、2009年)を続けて読んだ。淡々とした筆致が深い感懐を抱かせる金大中氏の2冊の自伝『金大中自伝Ⅰ―死刑囚から大統領へ―民主化への道』『金大中自伝Ⅱ―歴史を信じて―平和統一への道』(波佐場清・康宗憲訳、2011年、岩波書店刊)と比べて読むと、深い情熱を秘めた女史の率直な心情の吐露に心を打たれる。そして互いに相補う夫妻の「同志」としての二重唱を聴くようで、それは限りなく美しい。
81年、夫を死刑に処そうとし、いまなお無期懲役で清州の刑務所に収監し続ける体制側の責任者全斗煥大統領に面会した李姫鎬女史は、自伝の中でこのときの全大統領のことを、近所の不動産屋のおじさんが主婦に語りかけるような日常的な態度と評した。そしてさらに驚くべきことに、金大中大統領は、全斗煥元大統領を含めた大統領経験者をたびたび青瓦台に招き国政について説明し意見を聞くのである。金大中氏はもう亡くなったが、全斗煥はまだ生きているという話をある韓国の方が感慨を込めて語るのを聞いたことがある。韓国の方から見てもそうなのである。政治的な報復は一切行わないとした金大中氏であるとはいえ、自らを死刑に処したかも知れなかった責任者をわだかまりなく呼べるというのは普通にできることではない。全斗煥大統領という人も、釈放されアメリカで活動する金大中氏の次男に娘が嫁ぐことになって辞表を提出してきた青瓦台の職員の辞表を突き返した上、休暇を与えて渡米させ祝ってやったという。これは李姫鎬女史が自伝の中で語る全斗煥大統領のエピソ-ドなのである。
同伴者、同志、参謀として助言はするが、最終的な判断は全て夫に委ねるというのが女史のスタンスだった。南北首脳会談で休憩後再び会議場に向かう夫の背中に疲労を読み取り、重大な責任を負う人の決定的な瞬間の恐ろしいほどの孤独を見る女史の目には、長年連れ添って苦労を分かち合ってきた夫への限りない愛情が注がれている。
金大中・李姫鎬夫妻の生き方を、それぞれの目から読むことのできる二人の自伝は、現在は残念ながら古本でしか入手できないようであるが、韓国史の証言としてだけでなく、なによりもひと組の夫婦が真摯に生きた証しとして貴重である。
ラベル:読書
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