2014年05月25日

季節の虫たちと川端純四郎さんのバッハ

昨日の朝見た光景である。朝日が差し込むキッチンの窓の向こうで、裏の遊歩道の並木の枝がキラキラ輝いている。昨秋きれいに短く刈り込まれこぶのようになった部分から、新しい枝が勢いよく伸び出して葉が開いていたはずの、その枝である。その枝が棒のようになって、その先が朝日を受けて輝いているのである。見とれつつも、いったい何事かと、目を凝らしてみて驚いた。輝いていたのは毛虫だった。新芽を食い尽くし、枝先で呆然としている毛虫の毛の間を通ってくる朝日が、毛虫の細かい動きに合わせて、キラキラとプリズムのような効果を発揮していたのだった。ここ一週間ほどあちこちの道路でオレンジ色をした比較的毛足の短い毛虫が歩いているのを見かけたが、それとはまた種類の違う、毛足の長いというか、針のような毛をもつ比較的大きな毛虫がどうも群がっているらしいのだ。まったくなんということだろうか。呆れて目を背け(とはいえ、心底美しいと思った)、しばらくしてまたのぞいてみると、そこにはもう棒のような枝が、逆光のなかでシルエットを見せているだけだった。
毛虫だけではない。この季節はいろんな虫たちが活発に動き始める時期である。勤め先でもこんなことがあった。廊下でスプレーをもって右往左往している人たちがいる。聞けば、倉庫の中でクマバチに遭遇したのだそうな。刺されたら場合によっては命に関わることもあるという、あの背中がオレンジ色をした大きなハチである。確かにこの季節、まだ冷房をつけるほどでもない時期には、窓を開け放して気持ちの良い風を通すことがよくあるのだが、お呼びでないものまで紛れ込んでくることがある。その代表格がこの時期のクマバチだった。天井に止まって動かないのを、箒で追い払おうと大騒ぎなることがよくあった。それが倉庫の中に侵入しているらしいのである。しばらくして、またその倉庫の前を通ると、ハチに注意の貼り紙がしてある。どうも件のハチはまだ見つかっていないらしい。夕方までずっとその貼り紙はそのままだったようだが、たまたま夕闇迫る頃に再び倉庫の前を通りかかると、どうもそれらしいのが倉庫の前の廊下にへばりついているではないか。早速を人を呼んで、生きていることを確認すると、スプレー、そして最後は叩き潰されて万事休すとあいなった。ぼくが見つけたのがよかったのか悪かったのか、ハチはいったい何をしたというのだろうか……。
この季節にうごめく虫たちにはあと、たくさんの足のあるやつがいる。この間既に夢の中でお目にかかったので、現実の世界ではできることならお目にかかりたくないものだ。夢の中で、必死に見た記憶を消そうとしようとしてあがいていたのを思い出すが、どうしてあんなものが夢の中に登場したのだろうか。前後の場面ももう忘れてしまったが、夢から覚めてもうだいぶん経つというのに、出会った記憶だけは鮮明になるばかりだ。

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最近の読書から。川端純四郎さんの『J.S.バッハ─時代を超えたカントール─』(日本キリスト教団出版局、2006年刊)。
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〔川端純四郎著『J.S.バッハ─時代を超えたカントール─』(日本キリスト教団出版局)のカヴァー〕
ヨハン・セバスチァン・バッハの一生と作品を、その生きた時代の中で浮かび上がらせた、超一級の伝記である。作者のバッハへの深い愛と共感が満ちあふれた瑞々しく清潔な筆致によって、しかも客観的な人間バッハの像が新しく結ばれていく様はまさに圧巻である。それは、キリスト教神学の研究者であり、教会オルガニストといういわばバッハの同業者でもあった川端さんにして初めて描くことのできたものだが、そこにさらに永年平和運動にも関わってこられたというという川端さんの経験が加わって、歴史の流れにおける新鮮なバッハ像を多角的に描くことを可能にしている。ヨハン・セバスチァン・バッハという人間、そして彼が生み出した音楽のもつ、宗教と時代を超えた普遍性が明らかにされ、著者の言葉を借りれば、「見えぜる人類共同体のカントール」であったバッハの姿が強い説得力をもって紡ぎ出されていくのである。高度に学術的に裏付けられた厖大な量の情報を、ここまでわかりやすく整理して、面白く、しかも深い共感をもって読者に語りかけてくる川端さんの真摯な文章には、本当に心を打たれる(ちなみに、帯に書かれている推薦文のうち「ユーモラスな語り口で」というのだけはちょっと違うと思う)。元々は8年かけて『礼拝と音楽』誌に連載したものであるといい、本文はもとより、索引や註、参考文献一つとってみても、精魂込めて作られた本であることがよくわかる。
本書の記述で紹介したいことは山ほどある。しかし、それを書き出したら本書を全部引用しなくてはならなくなってしまうだろう。一つだけあげるなら、マタイ受難曲について、キリスト者であるなしにかかわらず同じ立場でバッハの問いかけの前に人間は立たされているのだという理解であろう。これは深くかみしめる必要がある。音楽・宗教・歴史への深い造詣と、そしてここが何よりも大事なところだと思うが、他のバッハ研究者には欠けているそれぞれの分野での広い実践に裏打ちされているところに、川端さんの描くセバスチァン像のもつ説得力の源泉はある。
どこをとっても愛おしくなるような本なのだが、バッハの遺族、ことに妻アンナ・マグダレーナへの暖かい視線も忘れられない。これは本書で川端さんがヨハン・セバスチァン・バッハを基本的にセバスチァンと呼んでいることにも通じる。そこには川端さんという人間の立ち位置が端的に表れているように思う。
こんな幸せな読書はそうそうあるものではない。

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こうした読書体験に比べると、日常生活は惨憺たるものである。火事場のなんとかというほどの力もないけれど、締め切り間際の集中力が持続するなら、どれだけ多くの仕事ができることだろう。喉元過ぎればなんとやらというわけで、当面の締め切りさえ何とかクリアしてしまえば、また元の怠惰な生活に逆戻りしてしまう。自分で目標を設定してそれを実行できればよいのだが、そこまで意志も強くない。人に何か頼まれるとなかなかいやとは言えない質で、いつも気楽に引き受けてはあとで痛い目に遭うのが常である。しかし、これまで何度痛い目に遭っても、引き受けなければよかったと思ったことは一度もない。断って気まずい思いをするくらいなら、快く引き受けて円満な関係でいたいと思うし、あてにされているうちが花であり、頼まれなくなったらお終いという気もする。結果的に他人との約束といういわば箍をはめることによって、惰性に陥るのを防げてきたともいえる。言ってみればそれは、自分を鍛えるために与えられた試練でもある、そう割り切れるようになった。ぼくのような人間は、一人で生きてゆけるほど強くはないのだ。まさに社会の中で生かされているのである。
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2014年05月13日

眼鏡がなくて眼鏡を探せないこと

近くのものが見づらくなって、対象を遠くに離さないと見えないようになるのが老眼の症状だと思っていた。眼の良い人ほど早く老眼になりやすいと聞いていたから、ぼくのように近眼でしかも乱視の混じっているような場合には、症状が出るのも遅いのだろうと高を括っていたのが間違いだった。
最初に眼の異常に気付いたのはもう15年以上も前、まだ30代終わりのことである。もう今となってはそれまでどうだったのかも記憶が定かではないけれども、近寄って目を凝らして観察する時にピントが合いにくくなってきたのである。少し離せば何とか焦点は合うのだが、その距離で焦点が合ったところで、仔細に見られる距離ではない。元々近眼なので、遠くでピントが合ってもどうしようもない。こうして眼鏡をかけたまま物を細かく観察するのが難しくなってきたのだった。
最初は戸惑うばかりだったが、そのうちわかってきたことがある。細かく見るためには、眼鏡を外せばいいのである。裸眼で見れば、手許でピントが合う。それまでは手許も普通に眼鏡をかけたまま見られて、眼鏡を外してものを見ることなどなかったから、老眼が始まるまでどうだったかはよく思い出せないけれど、近づいて観察するときでも、今裸眼でピントが合う距離よりは遠くで見ていたように思うし、それでも今よりももっとよく見えていたような気がする。
こうした症状は老眼一般にあてはまるのか、それとも近眼の場合の老眼の特徴なのかよくわからない。でもふだん眼鏡をかけていた人が、眼鏡を持ち上げて物を見ているのはよく見かける光景だ。眼の良かった人は老眼になると老眼鏡をかけて新聞を読んだりしている。しかし、ぼくを含めて近眼の人の場合は、どうもあまりそういうことはないように思う。むしろ新聞を読むときには眼鏡を外すだろう。
そんなわけで、40歳を迎える前から二重焦点レンズの境目のないのをかけているけれど、結局のところ文字を読むときは眼鏡を外して読むようになった。眼鏡をかけていては、ピントが合わなくて読書もできないのである。電車で本を読むとき(乗り物で読書がてきめん眼に良くないのは重々承知してはいるのだが、こればかりはやめられない。貴重な読書タイムなのである)、本を取り出して眼鏡を外すのが習慣になってしまった。
読書している間はそれで何も問題ないのである。しかし、駅に着いて降りるとき、眼鏡を外したままでは今度は危なくてしかたない。裸眼の視力が左右とも0.1未満の人間には。眼鏡なしでの身動きは無謀な冒険でしかないわけである。それでも勤務先でデスクワークから立ち上がるときなど、ついつい眼鏡を外したまま席を立つことが多くなってきたような気がする。なんだかよく見えないけれども、外したままいた方が、次の行動には便利というわけだ。
とはいえ最近困るのは、そうして外した眼鏡をどこに置いたかわからなくなってしまうことである。とんと物覚えが悪くなって、自分の行動が読めない。何をしようとしていたか思い出して、探すべき場所に気が付いても、悲しいかな0.05の視力ではそう容易に探し出すことができない。それこそ目を皿のようにして睨め回さないと見つからないのである。
この視力では眼鏡がなければ生活は困難だろう。昔の宣伝ではないけれども、眼鏡はもう身体の一部といってもよい。とはいうものの、スペアの眼鏡を持っているわけでもなく、考えてみれば日々随分と危険な橋を渡っているわけだ。車で通勤していた頃はそれでも切実感はあった。でも今では、単に焦点が合わないだけで見えていないわけではないので、それでもいいやと思うようになってしまった。この図々しさには我ながら呆れるばかりだ。
父方も母方も祖父は緑内障を患っていた。晩年はほとんど失明に近い状態だった。早晩ぼくもそうなる覚悟はできているのだが、さあて、そこまで長生きできるかどうかの方がむしろかなり怪しいような気がする。
タグ:記憶 日常
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2014年05月07日

初めての台高山脈-赤ゾレ山からと木梶山へ

奈良と三重の県境に連なる台高山脈にある赤ゾレ山という、あまり目立たない山に登った。高見山から明神岳に至る稜線上のピークだから、縦走だったら見過ごされてしまいかねない山である。しかし、一つの山として登るなら、なかなかどうして結構な存在感のある山である。今回はそれと、台高の尾根から外れる木梶山というピークを組み合わせるという、登るまではなかなか渋く思われた(?)山旅である。
高見トンネルを越えたところから高見峠への旧道に入り、木梶林道と高見林道が分岐するところまでバスで連れて行ってもらい、そこから木原谷に沿って林道を1時間余り辿ったあと、赤ゾレ山から北に派生する尾根にとりついた。3月に小峠山で経験したのと同じようなような直登である。しかし、それほどでもなく登れたのは、周囲のブナ林の優しさと、林道歩きでたっぷりをウォーミングアップを済ませていたことが大きいだろう。
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〔ほころび始めたシャクナゲ〕

この赤ゾレ山をめざす直登コースは、山の案内地図にも載っていないようなコースだけれど、なかなかよい道だった。アセビやヤマザクラ、それにツツジ、そして時にはシャクナゲの混じる優しいブナの自然林を登り切ると、山頂の眺望のすばらしいこと! 大展望は苦労して登ってこそのものでもある。明神平から薊岳にかけての台高の尾根道が間近に見える一方、その彼方には大普賢岳が顔を出しているではないか! 大峰の山々はこんなにも近いのである。
赤ゾレ山からの薊岳(中央左の最高峰)と、遠く大峰山を望む(最奥の峰々).jpg
〔赤ゾレ山からの薊岳(中央左の最高峰)と、遠く大峰山を望む(最奥の峰々)〕
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〔赤ゾレ山から大峰山を遠望する〕
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〔馬駈けヶ場から明神平への冬枯れの稜線〕

縦走路の見晴らしのよいのは、景色を遮る低木が少ないことによるのだが、加えて意外にも縦走路近くの広葉樹はまだ芽吹いていないか、芽吹いたばかりというのが多く、基本的に冬枯れのままだったことが山を明るくしていた大きな原因と思われる。連休頃の山というと、奥多摩などでの経験からいうと、新緑に限りなく近いという印象がある。それが今回は全く予想に反して、麓では芽吹いた木々の黄緑が美しかったが、縦走路は完全に冬景色だった。そこにさらに意外なことにパッと明かりを灯したように突然ツツジの紅やピンクがのぞくのである。稜線のシャクナゲはまだ堅い蕾のものが多かったが、中には咲き始めているのもある。木々はそれほど密ではないから、山の輪郭と木々の輪郭が二重に見える一方、木々の間からは空が透けて見えるのである。一方、常緑のアセビは赤い新芽が美しく、尾根上では文字通り鈴なりの可憐な花が見事だった。いろんな春が賑やかに同居している、そんな風情であった。
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〔冬枯れを染めるツツジ〕
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〔アセビの群落と稜線〕

眺望に恵まれた縦走路歩きは文句なく楽しい。じっといつまでも見取れていたくなるような景色だ。道を左に取って木梶山への尾根に向かうと、一旦景色が途切れるが、最初の直登の終わりに望めた木の生えていない部分が実は気持ちのよい草原で、ここからは行く手には緩い鈍角の三角形を描く優美な高見山が、振り返れば辿ってきた赤ゾレ山から馬駈けヶ辻、そして今下ってきている木梶山へ向かう尾根の優しく雄大な景色が展開している。眼を左手下に転じれば、ところどころにヤマザクラのピンクを交えつつ、黄緑色に光り始めている木原谷の冬枯れの自然林がせり上がってきている。心優しい景色である。
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〔赤ゾレ山と稜線上の池塘〕
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〔木梶山に向かう稜線からの高見山(中央奥)〕
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〔ヤマザクラに彩られた木原谷〕

稜線を振り返ったときの大パノラマには大きく心を揺さぶられたが、なかなかここぞというビューポイントをつかみにくい。下り足りなくても、下り過ぎても、稜線に迫力がなくなるのである。優しさの中にも力強い尾根の広がりを撮りたいと思いつつ、あ、ここ、と思う地点ではシャッターを切れず、木梶山で何とかなるかもと思ったのは失敗だった。木梶山は冬枯れではあったが、木々に遮られ、思うような景色は見ることができなかった。眺望という点では、木梶山に着く手前までがこのコースの勝負といえる。
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〔木梶山の道標〕

木梶山からは次第に尾根がやせてきて、しかも急降下を始めるようになる。膝を効かせながらのやせ尾根の急降下に、膝がそろそろ悲鳴を上げそうになってきた頃、行く手にはるか下方に光るものが見える。林道のある木原谷である。木梶山からはあっけないくらいの下りだった。そうこうするうちに、今朝、赤ゾレ山の尾根に直登するために、谷を渡った地点の近くにポッと飛び出したのだった。
ちなみにここからの林道歩きはべらぼうに長かった、より正確にいうなら、距離以上に長く感じた。でも、今日の山旅の総仕上げには決して悪くない林道歩きではあった。たかすみ温泉が待ってくれているのである。温泉とセットになった山旅。こんなに贅沢なことはない。これまた木のぬくもりの感じられる浴槽につかりながら、今日一日の山旅を思ったことであった。
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〔たかすみ温泉〕

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なお、蛇足ながら、台高山脈の高見山は、日本のマッターホルンと呼ばれることもある。特に西から見ると、鋭角に天に突き上げる姿は確かによく似ている。今日も高見山登山口の手前では、この姿がはっきりとわかった。ところが、木梶山の手前からの眺望もそうだったが、どうも南北方向から見ると、かなり雄大に裾野を引く横幅のある山であることがわかる。南北方向に比べると東西方向がかなり広いということになる。これだけ見る方角によって姿が変わるのも珍しい。冬は霧氷の山として名高く、和佐又山と並び称される。
ただ、この山ちょっと損をしているなあという感を強くする。ぼくらの世代で高見山というなら、そう、それは圧倒的にあのハワイ出身の最初の外国人力士、ジェシーと結びつくのである。チャンスはあったのに惜しくも大関にはなれなかったが、2m近いしかも巨漢の力士で、かすれたハスキーな(?)声でも有名だった。ツボにはまったときの強さは半端ではない一方、どうしても腰高のために転がりっぷりがよく、そのアンバランスも魅力の一つではあった。全く考えたこともなかったけれど、台高の高見山とは何か関係があるのだろうか。ぼくは迂闊にもそういう名の秀峰があるのを知ったのがずっとあとのことだったので、山の方の高見山が損をしているなあという印象を抱くのだが、名としてはこちらの方がずっと古いのだろう。
まあ、そんな個人的な感懐はともかく、山としては非常に魅力に富んだ山であることは間違いなく、次のシーズンには是非訪れてみたいと思った次第。
タグ: 奈良 季節
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2014年05月04日

爪・カンタータ・憲法記念日

先日、爪を切る話を書いたあと、実際に爪を切っていて、あっと気が付いた。左手の小指から切ると書いたけれど、最初に爪切りをあてたのは、親指だった。左手の親指から小指へ、そして右手の方は書いた通りで、小指から親指へだった。ウソを書いてしまっていたので、訂正しておきたい。
ちょっと言い訳がましくなるけれど、なぜなのかはわからないのに、感覚的にあたりまえになり過ぎていて、いざ実際にどうかといわれると、はっきりとはわからない、そんなことってよくあるものだ。
その時わかったことがある。爪がどのくらいのスピードで伸びるのか、切るのは2週間に1度くらいだから、そんなものだろうとは思っていたが、初めてこの目で確かめることができた。というのも、1月の末に左手の親指の爪の右下の根元の部分を窓に挟んで血豆を作ってしまったのだが、それが徐々に爪先に上がってきたのである。もうすぐ爪の先の白い部分にかかり始めるところまできた。
ぼくの左手の親指の爪の長さは、血豆のある右端で8㎜ほどで、血豆の幅が1㎜ほどあるから、7㎜の長さをほぼ3ヶ月かけて上がってきたことになる。90日で7㎜というわけだから、ほぼ2週間で1㎜程度の割合になるだろう。1㎜は伸びないうちに切ると思うが、まあ日頃思っていた程度のスピードでは伸びていたことになる。髪よりはずいぶんゆっくりなのだなあと妙に感心したりしている。
ただ、それだけのことである。ついでながら、爪で思い出したことがある。ぼくの爪は人差し指の爪などほとんど真ん丸で、それが当たり前だと思っていた。親指に至っては横幅の方が格段に広い(母がぼくと全く同じ爪の形をしている。これも遺伝なのだろうか)。ところが、小学生の時、たまたま友達のY君の爪を見て驚いた。ぼくの親指の爪を90度回転させたような細長い爪だったのである。人それぞれ違うんだなあということを実感したそれが最初だった。子ども心にそれは貴重な経験だったのだと思う。その時のことは今でも鮮明に覚えている。Y君とは中学までは一緒だったが、その後は会っていない。Y君は今どうしているだろうか。そんな感慨に耽っているかと思いきや、突然、瓜に爪あり爪に爪なし、なんて諺(?)が突然浮かんできたりする。

          §           §           §

連休初日の昨日、朝は穏やかに晴れていたのに、その後昼にかけて大風が吹いて洗濯物が飛ばされたかと思うと、そのあとどんよりとしてしまい、いつ降り出してもおかしくないような雲行きになったが、午後にはまた晴れ間が出て、夕方には穏やかな快晴が戻ってくるという、結構めまぐるしく天気の変わる一日だった。
読書三昧の一日のつもりでいたが、眠気を催すので、そんなときには庭に出て草引きと犬の相手、これを何度か繰り返した。お蔭で芝の雑草を結構引き抜くことができたが、かがんでの仕事がこたえて今度は腰が痛み始めなかなか思うに任せない。
そこで、コーヒーで一服しながら、LISMOに入れ損ねたリヒターの108番と87番のカンタータを聴くことにした。復活節後第四・第五日曜日のためのカンタータで、ちょうどこれからの季節の曲であり、しかもともに第二年巻の充実しきった時期のもの。これを入れ損ねたのは返す返すも残念。とりわけ108番はあっさりと始まるのに響きがどんどん深くなり、第4曲のフーガに至ってはちょっと耳を疑いたくなるような近代的な響きで、いったいどう展開してゆくのかと身構えてしまうほどのすごい曲だった。ここ数日、67番と104番を聴きながら通勤していたので(片道で2曲いけるので、1日2回聴ける。その次に入っているのがモーツァルトのキリエ変ホ長調K.322で、このつながりが偶然ではあるもののまたなんとも不思議である)、104番ののびやかな春の響きとは好対照で、両者が共鳴し合ってバッハの世界の奥深さを垣間見たような気がする。
Noraさんのブログ「♪バッハ・カンタータ日記 ~カンタータのある生活~」に導かれながら、季節の歩みに従ってカンタータの森に分け入ろうとして、ちょうど今の時期の復活節関係のカンタータをリヒターのカンタータ集(10枚組〈480 3532〉の中の3枚)で聴き始めた。その先はあてがあるわけではなく、リヒターかヴェルナーか、あるいはいっそヘンスラーのリリング版全集か(これにもバッハ全集かカンタータ-全集かの選択肢がある)、あるいはガーディナーの全集かと思い悩んでいるのだが、決断できずにいる。1枚だけ註文しているガーディナーのカンタータ集がひと月以上経過しても入荷せず、それを聴いてからと思っているのだが、気長に待つしかない。もっとも決断して買ったとしても、LISMOには入れられないので、通勤時間に聴くことはままならず、iPodかWalkmanを買うか、いっそケータイをiPhoneに機種変更するか、悩みは尽きないが。まあしかし、この手の悩みは悩むことを楽しんでいるようなものなので、精神的にはむしろ命の洗濯に近いだろうな。先達があるというのは本当にありがたいことで、Noraさんには改めてお礼を申し上げたいが、その先達でも悩みは尽きないご様子、後塵を拝する者としては、ちょっと安心してしまった。

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蛇足を一言。一昨日の晩、突然息子からメールがあって、明日夜までには帰るからと、突然の帰省の知らせがあった。夏休みまで戻らないと言っていたので、どういう風の吹き回しやら、逆に心配にもなるが、全く突然とは思いながらも、じゃあ犬の顔でも見においでと返事をする。帰って来たからといってどうということもないものの、いればいたで結構うれしい。家内も帰るなら帰るでもっと早く言ってくれなくちゃとブーブー言ってはいるものの、いそいそと片付けを始めていた。月曜日にはまた戻るというので、何とも慌ただしいことであるけれど、こんな気持ちを味わうのは初めてのことだ。親バカだなあとは思いつつ、息子の迎えのあと京都から1時間遅れで帰って来る下の娘の迎えにも、いそいそと出向いたことであった。

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最後に、けっしてこれは蛇足ではない。大型連休初日ということで埋もれてしまいがちではあるけれど、昨日は憲法記念日であった。ぼく自身とりたてて日本国憲法がどうのこうの、などと考えたことはないのだが、これまで平和憲法はぼくにとっては空気みたいなものだった。けっして悪い意味ではない。あまりにもあたりまえで、それを否定することなど考えようもなかったということである。
敗戦後70年近く、とにもかくにも日本が戦場にならずにすんできたのは、誰が何と言おうと平和憲法のたまものだと思う。でも、過去は何であれ、全て美しくしてしまうのが人の常である。ぼくは祖父母から戦争中の思い出話を聞かされながら育ったが、祖父母にとって、疎開の話も戦争で家を焼かれた話も、また目の前に爆弾が落ちて命拾いをした話でさえ、なつかしい思い出だった。殺されていたかも知れないのというのに、戦争を否定するという発想が生まれないのである。ましてや、戦後生まれの今の政治家に平気で9条を踏みにじろうとする人が出てくるのは、無理もないことなのかも知れないとは思う。
でも、ぼくの子どもの頃、それは圧倒的な自民党政治の時代ではあったが、それでも政治家たちは言っていいことといけないことをきちんとわきまえていたように思う。一線を越えてしまった発言に対しては、世論が黙ってはいなかったし、マスコミもちゃんとたたいてくれていた。それが、今はあまりにも厚顔無恥としかいいようがない発言(それも与党からだけではなく、野党の一部からもである)が多過ぎ、しかもそれを容認する雰囲気が濃い。ほんとうに恐ろしいことである。
日本の民主政治も平和憲法も、それは勝ち取ったものではなく、与えられたものでしかないといわれる。結果的にはそうである。しかし、それはけっして無償で受け取ったものではない。戦争で亡くなったたくさんの人々の尊い命がその代償となっているのである。なんと言っても戦争に負けたのである。どうなっても文句の言えない立場であった。敗戦後の日本が今のような道を歩んだ(歩まされた)のには、当時の冷戦構造が背景にあるのだろうが、少なくとも平和憲法に関する限り、敗戦がなければ日本人はこれを永久に勝ち取ることはできなかったであろう。戦争がなければ亡くならずにすんだ人々の犠牲に報いるためにも、そうしたことが二度と起きない社会をめざすというのは、東日本大震災とその後の津波の犠牲になった人々に対するのと同じことだと思う。
それはけっして亡くなった人々のためにだけではない。その何倍もの方々が人生をねじ曲げられ、不自由な生活を強いられている。東日本大震災についていえば、その後の原発の事故により、首都東京がどうなるかわからないというような切迫した事態も出来したのである。それでもなお、脱原発は順調に進んでいるようには思えない。それどころかいまだに原発を推進していこうとする人々、海外にそれを輸出しようとする人々がいるのである。まあ、戦争を目指す人々にとって、そんなことは朝飯前のことなのかも知れないが、ごく普通の感覚からいったら信じがたいこととしかいいようがない。
平和憲法は空気のようなものであっていいし、そうあるべきだとは思うが、その空気がなければ生きていけないこと、そしてそのためにはそれを常に意識して守り育てていくべきことを、この年になって初めて自覚した一日であった。こんなことを書かなければならないというのはいろんな意味で情けないことなのだが。
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