毛虫だけではない。この季節はいろんな虫たちが活発に動き始める時期である。勤め先でもこんなことがあった。廊下でスプレーをもって右往左往している人たちがいる。聞けば、倉庫の中でクマバチに遭遇したのだそうな。刺されたら場合によっては命に関わることもあるという、あの背中がオレンジ色をした大きなハチである。確かにこの季節、まだ冷房をつけるほどでもない時期には、窓を開け放して気持ちの良い風を通すことがよくあるのだが、お呼びでないものまで紛れ込んでくることがある。その代表格がこの時期のクマバチだった。天井に止まって動かないのを、箒で追い払おうと大騒ぎなることがよくあった。それが倉庫の中に侵入しているらしいのである。しばらくして、またその倉庫の前を通ると、ハチに注意の貼り紙がしてある。どうも件のハチはまだ見つかっていないらしい。夕方までずっとその貼り紙はそのままだったようだが、たまたま夕闇迫る頃に再び倉庫の前を通りかかると、どうもそれらしいのが倉庫の前の廊下にへばりついているではないか。早速を人を呼んで、生きていることを確認すると、スプレー、そして最後は叩き潰されて万事休すとあいなった。ぼくが見つけたのがよかったのか悪かったのか、ハチはいったい何をしたというのだろうか……。
この季節にうごめく虫たちにはあと、たくさんの足のあるやつがいる。この間既に夢の中でお目にかかったので、現実の世界ではできることならお目にかかりたくないものだ。夢の中で、必死に見た記憶を消そうとしようとしてあがいていたのを思い出すが、どうしてあんなものが夢の中に登場したのだろうか。前後の場面ももう忘れてしまったが、夢から覚めてもうだいぶん経つというのに、出会った記憶だけは鮮明になるばかりだ。
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最近の読書から。川端純四郎さんの『J.S.バッハ─時代を超えたカントール─』(日本キリスト教団出版局、2006年刊)。

〔川端純四郎著『J.S.バッハ─時代を超えたカントール─』(日本キリスト教団出版局)のカヴァー〕
ヨハン・セバスチァン・バッハの一生と作品を、その生きた時代の中で浮かび上がらせた、超一級の伝記である。作者のバッハへの深い愛と共感が満ちあふれた瑞々しく清潔な筆致によって、しかも客観的な人間バッハの像が新しく結ばれていく様はまさに圧巻である。それは、キリスト教神学の研究者であり、教会オルガニストといういわばバッハの同業者でもあった川端さんにして初めて描くことのできたものだが、そこにさらに永年平和運動にも関わってこられたというという川端さんの経験が加わって、歴史の流れにおける新鮮なバッハ像を多角的に描くことを可能にしている。ヨハン・セバスチァン・バッハという人間、そして彼が生み出した音楽のもつ、宗教と時代を超えた普遍性が明らかにされ、著者の言葉を借りれば、「見えぜる人類共同体のカントール」であったバッハの姿が強い説得力をもって紡ぎ出されていくのである。高度に学術的に裏付けられた厖大な量の情報を、ここまでわかりやすく整理して、面白く、しかも深い共感をもって読者に語りかけてくる川端さんの真摯な文章には、本当に心を打たれる(ちなみに、帯に書かれている推薦文のうち「ユーモラスな語り口で」というのだけはちょっと違うと思う)。元々は8年かけて『礼拝と音楽』誌に連載したものであるといい、本文はもとより、索引や註、参考文献一つとってみても、精魂込めて作られた本であることがよくわかる。
本書の記述で紹介したいことは山ほどある。しかし、それを書き出したら本書を全部引用しなくてはならなくなってしまうだろう。一つだけあげるなら、マタイ受難曲について、キリスト者であるなしにかかわらず同じ立場でバッハの問いかけの前に人間は立たされているのだという理解であろう。これは深くかみしめる必要がある。音楽・宗教・歴史への深い造詣と、そしてここが何よりも大事なところだと思うが、他のバッハ研究者には欠けているそれぞれの分野での広い実践に裏打ちされているところに、川端さんの描くセバスチァン像のもつ説得力の源泉はある。
どこをとっても愛おしくなるような本なのだが、バッハの遺族、ことに妻アンナ・マグダレーナへの暖かい視線も忘れられない。これは本書で川端さんがヨハン・セバスチァン・バッハを基本的にセバスチァンと呼んでいることにも通じる。そこには川端さんという人間の立ち位置が端的に表れているように思う。
こんな幸せな読書はそうそうあるものではない。
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こうした読書体験に比べると、日常生活は惨憺たるものである。火事場のなんとかというほどの力もないけれど、締め切り間際の集中力が持続するなら、どれだけ多くの仕事ができることだろう。喉元過ぎればなんとやらというわけで、当面の締め切りさえ何とかクリアしてしまえば、また元の怠惰な生活に逆戻りしてしまう。自分で目標を設定してそれを実行できればよいのだが、そこまで意志も強くない。人に何か頼まれるとなかなかいやとは言えない質で、いつも気楽に引き受けてはあとで痛い目に遭うのが常である。しかし、これまで何度痛い目に遭っても、引き受けなければよかったと思ったことは一度もない。断って気まずい思いをするくらいなら、快く引き受けて円満な関係でいたいと思うし、あてにされているうちが花であり、頼まれなくなったらお終いという気もする。結果的に他人との約束といういわば箍をはめることによって、惰性に陥るのを防げてきたともいえる。言ってみればそれは、自分を鍛えるために与えられた試練でもある、そう割り切れるようになった。ぼくのような人間は、一人で生きてゆけるほど強くはないのだ。まさに社会の中で生かされているのである。