2014年07月27日

真夏の夕陽を撮る

3日間の海外出張の間に、日本は一気に真夏になっていた。今日もほとんど快晴の1日だった。出先からの帰途ちょっと職場に立ち寄り、家路に就こう歩き出したとき、オレンジ色の夕陽が目に飛び込んできた。日没間近で、日中の炎暑もようやく少し収まって、空はだいぶん藍色に染まり始めていた。だから、まさかこんなところで夕陽が見られるとは考えてもいなかった。
少し遠くのビルとビルのほんのちょっとの隙間に太陽がいた。去年の夏を彷彿とさせる気温の上昇をもたらし、昼間地上の物を焼き尽くした太陽が、1日の仕事を終えて、しばし沈むのを躊躇っている、そんな風情だった。
ビルの隙間の夕日.jpg
〔ビルの隙間に沈む真夏の太陽〕
ビルとビルの隙間の幅は、太陽の直径とほぼ同じくらいしかない。ふだんそんな隙間を意識したことさえなかった。たまたまその方向に夕陽が沈むのは、多分今日1日だけだろう。明日でも昨日でもダメだっただろうし、また、時間が1分前後してもそこから夕陽が差し込むのを見られることはなかったに違いない。また、日にちと時刻が同じでも、ぼくの歩く方向・角度が少し違っていたら、また見上げるタイミングがほんのわずかでもずれていたら、やはり見られなかったはずである。さらにいえば、それをカメラに収められたのもたまたまデジカメを持っていたという偶然によるのだし、持っていたとしても、その偶然に心を動かされることがなければ、カバンからカメラを取り出すこともなかったに違いない。
でも。これは本当に偶然なのだろうか。さまざまな必然が絡み合った結果なのではないか。出来事の脈絡は、全て自分の意思による自発的な行動の積み重ねであるという人もいるだろうが、ぼくはそこまで尊大な気持ちにはなれない。こんな夕陽を見ていると、人知を越えたものを感じないではいられなくなる。月並みな言い方かも知れないけれど、自分がいかにちっぽけな存在であるかを思い知らされるのである。
そう思うと、矢も盾もたまらなくなって、今のこの景色を目に焼き付け、そして写真に残しておきたい、いや残しておかなければならない、そう思ってシャッターを切ったのだった。カメラを持っていたのも、偶然とは思えないのである。偶然を必然として生かせるかどうかは、自分の意思如何にかかっている。人間の意思がはたらかせられるとしたらそこだろう。それ次第では、単なる偶然に終わってしまうことになりかねない。単なる偶然で終わらせてしまってはいけない。全てを受け入れた上で、そこからどれだけの必然を掬い上げられるか、そこにこそ人間としての真価が問われているように思うのである。
タグ:日常 天気 季節
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2014年07月22日

剪定をして40年前を思い出す

海の日の休日だった今日は、久しぶりに朝寝坊ができたが、ゴミ出しの日であることをすっかり忘れてくつろいでいたら、犬たちが吠え出して清掃車の到来に気付きはしたものの、もう間に合わなかった。走り出そうとしている清掃車にゴミ袋を放り込んだりしたこともあったが、とてもそんな気力はわかず、端から諦めてしまっていた。
始まりがこんなであるから、折角の休日も鬱々として過ごすことになりそうだったので、意を決して午後からプリペットの剪定に精を出すことにした。早い年なら5月末、遅くとも6月末までの天気の良い時を見計らって切っているのだが、今年はうまく予定が合わず(家にいて、天気がよくても、雑事に追われてそれどころではない日が多かったのである)、今まで伸び放題伸ばしてきてしまっていた。年によったら夏までに2回剪定していた年も多かったと思う。今年は庭の芝刈りもまだで、梅雨前まで雑草引きはしていたのに、ちょっと手を抜くともうかなりのありさまになってしまっている。以前は剪定と芝刈りと1日で済ますこともあったように記憶するが、最近はとてもそこまでは体力(というよりもむしろ気力か)がもたない。それで、どちらを先にすべきかと考えた結果、まずはより手間がかかり、かつ外から見える生け垣の剪定を片付けようと奮起したのだった。
距離の短い表側と、その倍はある裏の遊歩道側と、何とか半日で剪定を終えることはできた。電動の剪定用カッターもあるのだが、手入れが行き届かず歯に錆が出ていて、少し太い枝を切ろうとするととんでもない音を立てて止まってしまう。それでも少しは楽なので、去年は電動カッターを使ったのだが、近所迷惑でもあるし、電動カッターの準備も面倒だったので、今回は剪定ばさみでいくことにした(以前、カッター自身でコードを断線してしまったことがある。あれは恐ろしかった)。
軍手(これを忘れると豆を作ってしまうほど柔な手なのである)と脚立ならぬ木製スツールを用意し、庭箒を携えて切って廻る。本当はもっと刈り込んでせめて1m位の高さにしたいところだが、目隠しになるようにしてほしいという家内の言を入れてかなり高めにしている。特に遊歩道側のリビングからの視線が届くところはさらに一段上げている。そのうえ表側は、駐車場と庭に1mからの段差があるので、ただでさえ外側はスツールがないと無理なのである。そんなわけで、庭側から切ったあと、外に出て反対側からも切って形を整えていくことになる。
このスツールの上り下りが結構たいへんなのである。足場がしっかりしているところばかりではない。裏の遊歩道の植え込みは蒲鉾状になっている上に結構凸凹があって、スツール自体の骨組みが少し緩んできていることも重なって、余程注意しないと足下がぐらつく。今日もずいぶん注意したつもりではあったが、あと少しというところにきて、乗った途端に傾いて。落ちてしまう羽目になった。転倒はせずに済んだものの、その瞬間、グキっとやってしまったのである。
実は先週の日曜日の昼間に家の片付けを手伝わされていて、不用意に荷物を持ち上げた際に、ギクっときてしまった左腰が、1週間かけてようやく普通に歩けるまでに恢復してきたところだったのである。腰はもう25年来の持病であり、いつやってもおかしくないので、どうしても重い物を持ち上げなければならないときは、必ず完全に腰を落とすように心がけてはいるのだけれど、ふとした油断がこんな悲惨な結果を招く。完全でない腰を抱えて剪定など始めたのがいけなかったといえばそれまでで、しかし今日やらねばこの先の予定を考えるとこのまま夏を越すことにもなりかねない。やむにやまれぬ決断だったのである。
痛めた腰では、切った枝を集めてゴミ袋に入れるのも容易ではなく、おまけに途中でゴミ袋が足りなくなるはで、散々な剪定となってしまったが、すっきりした庭を眺めていると、そんな思いもどこかへ飛んで行く。自己満足に過ぎないが、これはこれで有意義な一日だったのだろう。

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明日起きたときどうなっているかという不安は措くとして、このスツールにはちょっと複雑な思い出が詰まっている。これは、ぼくが中学2年の時(ということはちょうど今から40年 前になる!)、技術家庭の授業で製作した作品である。4本の足、上下でそれを支える2組の直交する十文字の部材(それぞれ真ん中でかみ合わせてあり、端はいずれも足のほぞ穴に差し込むようになっている)、そして化粧板を貼った天板、ごくシンプルな形状のスツールだが、これが我が家では踏み台として重宝され、ぼくから離れずここまで付いてきたのである。
材を自分で切り、穴をあけ、砥の粉をすり込み、ニスを塗り、天板を張り、と全て手作りで何時間もの授業時間を費やして完成させたそんな文字通り手作りの思い出の品なのだが、これが生み出された中2の技術家庭の時間には、実は苦い思い出しかない。ぼくは1学期の通知表を見て唖然とした。技術家庭に、2bという下から2番目の評価を喰らったのである。その時の技術の担当は専任ではなく非常勤講師の先生だったが、ぼくはどうもこの先生が好きになれず、そうした生徒側の態度が先生にも伝わったに違いないとそれを見た瞬間思ったものである。生徒の好き嫌いで成績を付けたりするんだなと、妙に達観していた。ところが、母が黙ってはいなかった。普段学校のやることに文句など言ったことのない母だったが、この時ばかりはどうもぼくの知らないところで、学校と掛け合ったらしい。たまたま1年の時の担任が技術家庭の専任で、同じ2年に持ち上がっていた。ところがこれも偶然なのだが、6クラスあった2年生を3クラスずつ専任と非常勤で分担していたため、ぼくのクラスはその非常勤の担当だったという訳なのである。結局、1学期の終わりに転校してきた子がいたために、成績がずれて記載されたという説明を受けて、5bに付け直してもらえることになったのだが、真相は今もってよくわからない。
今はどうか知らないが、当時の高校入試には内申点が大きなウエイトを占めていたから、もしこの時2bのままだったら、もしかするとその後のぼくの進路は変わっていたかも知れない。そう思うと母に感謝せねばならないところなのだが(母がぼくの学校に出張って行ったのは後にも先にもこの時限りである)、それ以上にぼくの学校不信を増大させる事件として心に刻まれることになった。
そんな苦い思い出に結び付くスツールが、40年にわたって苦楽をともにしているのかと思うと、これまた不思議な縁を感じないではいられない。腰の痛みとともにそんな由来をしみじみと思い出すのである。
タグ:記憶 日常
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2014年07月21日

夏の到来に思うこと

家に小中学生がいないとあまりそういう感覚はないけれど、世間は昨日から夏休みに入ったらしい。まだ宣言はないものの、感覚的にはもう既に梅雨は明けてしまっている感が強い。ここのところ、雷を伴った夕立が続いている。まさに梅雨明けを証するような雷鳴である。そもそも今年は梅雨などあったんだろうかという思いさえ抱く。前線による雨はほとんど記憶がないし、鳴り物入りで北上した台風にも、ほとんど肩透かしを食らわされるだけだった。エルニーニョの発生の可能性が大々的に報じられて、冷夏の可能性が危惧されていたのだが、結果的にあの台風がごく普通の夏を運んできてくれたらしい。

ここのところ目の前の仕事を、気分的に押し潰されそうになりながら、ひとつずつ片付けていっているという毎日が続いている。片付けても片付けても滞貨は減っていかない。ひと山越えれば、かえってその先の見通しがよくなって、この先越えるべきさらに多くのしかもさらに高い山々の存在が明らかになる。
こういう時期は以前にも確かにあった。しかし、ここのところ越えても越えてもという気がしてしかたがない。かつては、ふっと先が開けるタイミングというのがあったものだが、最近は全くそれがない。もうかれこれそんな状態が2年は続いているような気がする。このまま定年まで突っ走るのだろうか、ふとそんな恐ろし予感さえしてくる。

そうはいっても、お蔭でずいぶんといろんな仕事を、質はともかくとして、形にすることはできた。諦めが早くなったというのか、要領がよくなったというのか、若い頃だったらもう少し喰らいついていけただろうにと思う場面もないわけではなくて、満足のゆく成果には乏しいけれども、それだけの気力を与えられ続けていることには心から感謝するばかりだ。
それにしてもこの間に片付けた仕事の数と、新たに引き受けた数と、さあ果たして相殺で済んでいるのだろうか。最近恐ろしいのは、引き受けた仕事を忘れてしまっていることがないではないことである。幸い、締め切り間際まで思い出さなかったことはないので事なきを得てはいるけれど、考えるだけで恐ろしい事態が発生しかねない。それを避けるために、できるだけ記録することを心がけてはいるのに、記録する場所を決めていないものだから、ここだけ確認すれば安心というわけにいかない。挙げ句の果てには、記録用の手帳の所在がつかめなくなって、記録ができなくなる。文書をもらっている場合もそれで安心というわけではない。文書そのものの所在がつかめなくなることが大半だからである。
同じようなことは、こうしてパソコンで作成したファイルの記録場所についてもしょっちゅう起きる。複数の場所に記録・保存をという手立てもあるけれど、変更がある場合、それらを全て修正するのに気が回らないと、次に参照する際に変更済みの最新版を参照できるとは限らないという事態を招いてしまう。目的のファイルの最新版を見つけるのを優先させるか、多少の版の新旧はあっても、ともかく目的のファイルを見つけるのを優先させるかという選択であって、行方不明になるよりはまだマシと考えるかどうかが判断の分かれ目になるわけである。
いやはや、それにしても本当にだらしないにもほどがあるというべきではあるものの、全くもって困った事態ではある。整理など、癖にしてしまえばいつでもなんとかなるから、とうそぶいてはみるものの、とてもとても一朝一夕で改善されるはずもない。根本的な解決策は見出せないままでいる。似たようなことは以前にも書いたような気がしてきたが、万一重複していたらご容赦願うしかない。

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こんな日々が続くと、通勤時間はますます貴重なオアシスタイムということになる。目からの読書と耳からの音楽鑑賞とである。せめてこの時間だけでも自分の時間をもちたいと思うが、気がつくと仕事の準備をしていたり、そこまでではなくても仕事がらみの本を読んでいたりいたりしていて、自分でも唖然としてしまうことがある。
まず、最近読んだもので心に残ったのは、川端純四郎さんの『CD案内 キリスト教音楽の歴史』(1999年、日本基督教団出版局刊)である。あとがきで音楽の専門家でない者の書いた音楽史まがいの本と謙遜していられるけれど、これほど筋の通った音楽史は他では到底読むことはできない。平明な語り口でありながら、ご自身の教会オルガニストとしての経験に裏打ちされた高い学識(そこには音楽史だけでなく社会史への透徹したまなざしも折り込まれている)に基づく内容であり、しかもここに一番心を打たれるのだけれど、川端さんの良心に満ちあふれた本である。ちょっとしたひと言にも、川端さんの思いが込められていて感動を誘う。単に音楽として聴くだけでなく、祈りとして実践してこられた方の言葉は本当に重たいものがある。それがごく自然に伝わってくるのである。
「クロムウェルの心を持ったパーセルがどこかにいないものでしょうか。」(第5章末尾)
「私たちもただ神にのみ従う信仰の自由の歌をこの日本において高らかに歌いたいと願います。」(第7章末尾)
「「音楽の献げ物」が感謝のしるしであったような時代は、もう二度と来ないのでしょうか。」(第8章末尾)
「こうして晩年のハイドンの手から、ヘンデルとモーツァルトのすべてを熟成させたかのような、あの六曲の交響的なミサ曲が生まれるのです。」(第9章)
「霊と賛美に満ちた礼拝を、しかし社会と現実への関心を失わずに、というのが私の願いです。」(第14章末尾)
刊行から15年を経て、紹介されているCD番号などには古くなっているものも多いだろうし、その後に刊行された大事なCDも多いことだろう。しかし、川端さんの叙述に導かれていくなら、それらを探し当てるのはけっして難しいことではない。その意味で、この書が色褪せることはけっしてないであろう。
ここで紹介されている音楽をまともに聴いていこうと思ったら、それこそこれから一生かかってもどこまで実践できるかわからないけれど、川端さんに導かれて広大な音楽史の海原を見渡すことができ、いつでもそこに漕ぎ出せるようになったことは、何物にも代えがたい大きな勇気を与えられた思いである。

次に、聴いたもので心に残っているものでは、相も変わらず季節外れながら、リヒター指揮のバッハのクリスマス・オラトリオを挙げておきたい。オラトリオとはいうものの、実質的にはクリスマスから新年にかけての6曲の連作カンタータである。第1部最初のティンパニ連打からして本当に心躍る曲であり、リズミカルで耳に心地よい、どこかで聴いたようなと思わせるなつかしいメロデイーが次から次へと繰り出されてくる。
その中で、個人的には思わぬ発見があった。ヤノヴィッツとルードヴィッヒの心にしみる清潔な歌声にめぐりあえたことである。シュターダーに通じるような清澄さをそこに聴き取ることができたのである。
このうちまず、ヤノヴィッツについては、独唱パートを誰が歌っているかなど特に気にせずに聴いていたのだが、クリスマス・オラトリオの第3部のバスとの2重唱「主よ、汝の思いやり、汝の憐れみは」の清明、可憐な歌声が心に滲み入って来て、あれこれはいったいだれだろうと調べてみると、グンドゥラ・ヤノヴィッツの名を見出して驚いたというわけなのである。
ヤノヴィッツには、カラヤンとのR.シュトラウスの4つの最後の歌という名盤があるけれど、これはどちらかというとカラヤンの振るオーケストラの印象の方が強くて(特に第4曲「夕映えの中で」の出だしなど)、オーケストラと一体になったヤノヴィッツの声の印象はあまり強くなかった(カラヤンは趣味ではないけれど、この演奏に関する限りは脱帽せざるを得ない)。それで名まえは知っていたが、まさかこの人の声だとはすぐには結び付かなかったのである。
もう一人のクリスタ・ルードヴィッヒ、この人も名アルトとして名高いけれど、ぼく自身はこれまで特別に心引かれることもなかった。アルトの深沈とした響きよりはソプラノの華やかな歌声に魅かれるということもあったのだろう。ところが、クリスマス・オラトリオ第5部のソプラノ・アルト・テノールの三重唱「ああその時はいつ現わるるや」のルードヴィッヒには、心の底から美しい歌声だと感銘を受けてしまった。テノールだって若くして他界した稀代の名テノール、フリッツ・ヴンダーリッヒの名歌唱が聴けるわけだし、ソプラノは他ならぬヤノヴィッツである。まことに贅沢きわまりない三重唱である。しかし、その中でもぼくの心に特別に滲み入って来たのは、クリスタ・ルードヴィッヒだった。息継ぎしながら駆け上がり駆け下る歌声の何と清澄な響き! 音域は異なるけれども、ヤノヴィッツの歌声に感じるのと同じ清明さに深い感銘を覚えたのである。

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通勤の短い時間はまとまった仕事タイムに充てるのは無理だから、こうしてオアシスタイムに充てられるのだが、出張などの移動時間となると、なまじ長時間であるだけに、ついつい仕事タイムに変じてしまうことが多い。新幹線だと景色がどうのこうのなどと言っていられないので、諦めも付くのだが、在来線の特急とか、ましてや普通列車となると、景色を見たいという思いとのせめぎ合いに悩むことになる(夜間なら諦めも付くというものだが)。
先日久しぶりに伯備線の「やくも」の乗る機会があったが、この時は新大阪─岡山の1時間にも満たない移動時間をも惜しんでPCに向かっていたものだから、10分足らずの乗り換えで「やくも」に乗り込んだあとも、この日はお天気が悪かったこともあって、景色は諦めてPCに向かい続けることになった。
いつのまにやら高梁、新見を過ぎて、気がついたらもう北に流れる川筋に沿って走っている。そのうちに根雨である。ここで現在地に気付くのは、見たい景色があることを身体が覚えているからなのかも知れない。他ならぬ大山の雄姿を左手の車窓に見られる唯一のビューポイントがあるのである。雲の中だろうと諦めていたのだけれど、それでも万一という期待がどこかにあったのだろうか、ちゃんと気付くのだから、我ながら見上げたものである。お蔭で頭は雲の中だったが、あの特徴的な左に下がる急傾斜の稜線を目に焼き付けることができた。カメラに収めることはできなくても、これを見られただけでも「やくも」に乗ったかいはあったというものである。
そんなこんなで慌ただしい日帰りではあったが、新大阪ではこんな写真も撮ることができた。ぼくの乗った「さくら」とレールスターの並ぶ姿である。興味のない人にはどうでもいい写真かも知れないけれど、こんな風景をみると思わずシャッターを切ってしまうのである。本質的に鉄道好きなのである。
さくらとレールスター.jpg
〔さくらとレールスター(新大阪駅にて)〕
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〔これから乗るさくら号(新大阪駅にて)〕

【追記あり】【さらに追記あり】
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2014年07月07日

夢の異次元空間─夢の記憶21

どういう場面かは覚えていない。もう四半世紀も前に亡くなったKさんのすぐそばにぼくがいた。直接お話しできたわけではなかったようだが、謦咳に接することのできる距離にいたのは確からしく、若い頃のKさんだと思って新鮮に驚いたのである。
ぼくにとってKさんは雲の上の存在だった。学生時代に一度お見かけしたことがあるだけで、直接お話したわけでもない。その時のKさんはもう定年間近だったはずである。ぼくの父よりも少し上の世代だから、ぼくが若い頃のKさんを知っているはずはないのである。ただ、ある本に若い頃のKさんの比較的著名な写真が載っていて、それが記憶にあったのかも知れない。
そうはいっても、その写真に写っているKさんもけっして若くはなく、30代後半にはなっていられたはずである。その写真の姿とも違った風貌だったと思うけれど、とにかくでもなぜかぼくには若い頃のKさんに会えたという強烈な印象が残されたものらしい。
それでぼくは、とっさにそばにいた家内に、若い頃のKさんじゃないか! そう興奮気味に伝えたのである。まさかこんなところでお目にかかれるとはねえ、といった一言二言も付け加えたかも知れない。もちろん家内が一緒に驚いてくれるのを期待しての物言いである。
ところがである。家内の返事は冷たいのを通り越していた。何言ってんのよ、Kさんなんてどこにいるのよ、どこにもいないじゃないの! 言われてぼくは左に振り向いたのだが、確かにさっきまでいたKさんと他の方々が影も形もなくなっている。夢を見ていたわけでもあるまいし(夢の中でそんなことを思っているのだから考えてみれば不思議なものである)、いったいこれは、と思ってみても、何が何だかわからず、急に空中に放り出されたような感じを味わうしかなかった。
でもぼくはその時確かに若い頃のKさんと、その周りにいた人たちとともに時間軸を共有していたのである。一方で家内とも同じ時間軸に乗っていた。だからぼくはてっきり家内とKさんも同じ時間軸に乗っているものだとばかり思っていた。自分という存在が二つに分解してしまったような、もっといえば二つの時間の間でとろけてしまったようなそんな感じを抱いたのである。一旦傾いた時間軸は直すことができるのだろうか。
それとも、ぼくの時間軸が傾いているのではなくて、ぼくは二つの時間軸の間を行ったり来たり、いや往復はしていないので一方通行ではあるが、要するにただ単にぼくがワープしただけなのだろうか……。いずれにせよ、時間の深淵をのぞき込んだような気分にさせられたのであった。
あるいはもしかすると、これは時間の問題ではなくて、空間の問題なのかも知れない……。A=B、B=Cなのに、A≠Cである。それぞれが直線であり3次元空間でのことならば、AとB、BとCはそれぞれ同一平面上にあるのに、AとCは同一平面上にはないということも起きうるだろう。昔懐かしいあの「ねじれの位置」にある直線の位置関係である。もしそうであるならば、Kさんと一緒にいるときも、家内と一緒にいるときも、ぼくはそれぞれ二次元空間(平面)にいたことになる。なんだか話がますますわからなくなってくる……

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これは全て夢の中での出来事である。だから強いて気にする必要はないのかも知れないけれど、夢であればこそかえって気にもなるのである。
空間を移動する夢は比較的よくみる。しかし、時間を移動する夢はどうだっただろうか。今回の夢で若いKさんに会ったとき、ぼくはいったいいくつのぼくだったのだろう。自分の風貌を夢の中で見られることは滅多にないから、自分がいくつであるかはわからないけれど、そういう時って、往々にして若くなっている自分と、それを端から眺めている今の年齢の自分が別々に存在していたりするものだ。夢の中での気付きをメモしておけると面白いのだが……。無理をして思い出しても、どうもあとから付けた理屈としか思えなくなってしまうのだ。
まして空間の問題でもあるとするならば、夢の中の4次元の問題ということになってくるのかも知れない。夢の中では、時間も空間も、自在に伸びたり縮んだりしているのだろうか? もうとっくにぼくの知恵の範囲を超えてしまっている。それならそれで諦めもつくというものだが……。
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2014年07月05日

梅雨の大普賢岳、花の山旅

2月に和佐又山から望んだ雪化粧姿が忘れられず、何とかその頂を踏みたいと思っていた大普賢岳に登る機会がこんなにはやく訪れようとは。梅雨の合間の大普賢岳は、5ヶ月前の稜線を白く縁取られた姿がウソのようで、オオヤマレンゲやシャクナゲこそ季節を過ぎていたものの、さまざまな木々や草が花を付け、まさに応接に暇ないありさま。変化に富んだ山旅を満喫できた1日だった。
前回は谷筋を登り詰めて辿り着いた和佐又山ヒュッテに、今回は難なくバスで乗り付ける。雪のゲレンデだったヒュッテ前の広場は、まさに緑の絨毯。アイゼンを付けて登った和佐又のコルまでの道の途中、大台ヶ原を望むヒュッテ上の展望台では、ツルアジサイが辛うじて花を残していた。振り返ればめざす大普賢岳本体はガスの中だが、小普賢岳や日本岳が特徴ある姿で佇んでいる。
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〔和佐又山ヒュッテ前の緑の絨毯〕
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〔和佐又山ヒュッテ前の雪のゲレンデ─冬はこんなだった─〕
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〔小普賢岳と日本岳〕
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〔大普賢岳冬景色─上の写真ではガスに隠れている大普賢岳がのぞいている〕
大普賢岳・小普賢岳というと、どこからみてもそれとわかる特異な風貌に、岩峰の山というイメージが強かった。確かに日本岳の南側の四つの窟(=いわや。シダンの窟、朝日の窟、笙の窟、鷲の窟)に代表される岩壁はそうなのだが、実際に登ってみると、岩が露出しているところはそれほど多くなくて、美しい緑の衣をまとった優しい岩峰という印象が濃い。登りも急峻な尾根を登り詰めるというのではなく、ハシゴや階段がうまく設けられていて、少ない労力で高度を稼げるようになっている。高度感が出て怖じ気付くような箇所はほとんどない。滑落事故は後を絶たないらしいが、天候を見計らいつつ慎重に行動すれば、滅多なことは起きないだろうというのが歩いてみての印象だった。
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〔日本岳と和佐又山(石ノ鼻から)〕
咲き残りのオオヤマレンゲ、サラサドウダン、ヤマボウシ、ツルアジサイをはじめ、名のわからないいろいろな花が咲き競う。中でも登山道に散り敷くサラサドウダンの小さな釣り鐘形の花は、最初どこから降ってきたのだろうと思わせられるほどの量で、群を抜いて多かった。登るうちに、咲いている状態のものがちらほらと目に付くようになり、大普賢岳の山頂には見事な咲きぶりを楽しませてくれる株があった。
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〔サラサドウダン(大普賢岳山頂にて)〕
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〔展望台のツルアジサイ〕
天気がもつのはこの日までとの予報で、たまに薄日が差すこともあったが、山頂に着く頃にはいつ降ってきてもおかしくない雲行きになっていた。それでも北側はガスることもなく、山上ヶ岳から稲村ヶ岳(その肩に大日山)、そしてバリゴヤの頭に至る尾根筋がくまなく見渡せる。
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〔稲村ヶ岳から山上ヶ岳への稜線を望む〕
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〔奥駈道の行者還岳から弥山方面を望む〕
西側は少し木立があって見にくいけれども、国見岳から行者還岳へと続く奥駈道の緑が美しい。その先の近畿の最高峰八経ヶ岳と弥山は、時折見えるような気がする程度で、基本は雲に隠れた状態。手前の鉄山の岩峰さえ、その気にならないと識別できない。さらに目を南に転じると、なかなかどれがどれという形で識別できる山が少ないのが残念だし、北側に比べるとクリアさ加減がだいぶん落ちて湿気た印象だったが、奥深く連なる山々の展望を楽しめた。
たっぷりとこの展望を満喫してから、弁当を広げる。山の食事はなんであれ胃の腑にしみいるものだが、この日の食事も特別に旨かった。山上ヶ岳から稲村ヶ岳の稜線の大展望をおかずにしながらの弁当である。これほどの贅沢はないだろう。
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〔大普賢岳から稲村ヶ岳・大日山を望む〕
予定よりも早く大普賢岳山頂を後にする。行く手には小普賢岳の丸い頭がなんとも不思議な雰囲気を醸し出している。コルへの下りでは、往きに見かけて写真を撮るのも忘れて見とれてしまったギンリョウソウの群落(最初は遠くの地面に白くシミのようなものが固まっているようにしか見えず、いったいなんだか見当も付かなかった)を、だいたいあたりをつけておいたのがうまく功を奏し、無事カメラに収めることができた。以前北八ヶ岳の麦草峠から白駒池に向かう道で、一つ寂しく咲いているのを見かけて以来の邂逅である。ましてやこんなにまとまって咲いているのをみるのは初めてだ。これだけまとまっていると、幽遠の趣はなく、むしろなんだかユーモラスでさえある。
群生するギンリョウソウ(大普賢岳への道端で).jpg
〔群生するギンリョウソウ(大普賢岳への道端で)〕
コルから小普賢岳への登りは、往きに覚悟したほどのこともなくあっけなく過ぎる。そこから日本岳南側の窟にかけてのハシゴや階段には下りの方が気を遣うけれども、ゆっくり慎重に下る分、余裕のある歩き方ができたせいか、意外にあっけなく感じた。日本岳から和佐又山のコルにかけても、ゆるやかな幅広の尾根道で、自然林がことのほか美しい。途中笙の窟で小休止をとり、文字通り笙の形をしていること(まっすぐな岩壁の下部に窟部分のオーヴァーハングがあって、それがちょうど笙の吹き口にあたるわけである)にその名の由来があることを妙に納得する。
そうこうするうちに、膝が笑うこともなく余力を残して和佐又山ヒュッテに下り着いた。これなら和佐又山の山頂を廻ってきてもよかったなというくらいの余裕をもっての帰着である。ヒュッテの犬が気配を察してかなり前から吠え出し歓迎してくれたのが微笑ましい。まさに命の洗濯日和の一日であった。
タグ: 奈良
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