2014年10月17日

浦上再訪(その3・結び)

(その2よりつづく)歩道橋を降り、少し南に歩き、案内に導かれつつ左手に平和公園への坂道を登る。駐車場への坂道である。芳江が登った道に違いない。クラクションが鳴ったと思ったら、観光バスが目の前を横切って駐車場に曲がって行く。坂を登り切り、被爆者の店を左手に見ながら平和公園に入る。
そこには平和祈念像が優しく屹立していた。10mを越えるあの巨大な像がどちらに向いて立っているのか、またそれをどの方角から見える道を歩んでいるのか、皆目見当が付かないまま、もうあの像の前に立っていた。さっきの観光バスで着いたらしい一団がやってくる。
夕方の光の中に外国語が飛び交う。でもこの像の前では日本語も中国語も英語もなかった。あるのはただ人間の心だけ。ここは刑務所の跡なのだという。刑務所の囚人たちも一瞬のうちに他界したのである。斜めにレンガ積みが多数その痕跡をとどめていた。
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〔平和公園から望む浦上天主堂〕
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〔平和公園にて〕
噴水の前を通ってエスカレータ脇の階段を下る。正面には稲佐山の鉄塔が光る。このまま浦上駅に向かうつもりだったが、まだ少しだけ時間がある。爆風で吹き飛んで半分だけ残った山王神社の二の鳥居の所まで行ってみよう。この著名な原爆遺産がどこにあるのか恥ずかしながら知らなかった。もっと南の長崎市街の山側にあるものだとばかり思っていた。しかし、浦上駅に向かう道を僅かに山手に回れば行けるということをこの日知った。
平和公園下の交差点からわけのない距離だった。鳥居の下の石段では子どもたちが無邪気な歓声を上げて遊んでいた。鳥居の足下にはいろいろなものが置いてある。子どもたちのものかと思いながら石段を登ると、子どもたちが、原爆がどうのこうのとしゃべっているのが聞こえる。
ガイトブックを抱えたジーンズ姿の女の子たちや、ぼくのような通りすがりのおじさんがしょっちゅうやって来るに違いない。原爆を学習している子どもたちはここがどんな場所なのかを知ってはいるのだろう。でも遊び場に平気でやって来る観光客をちょっといぶかしげに見ている風は見て取れる。
少し上の大クスを見て戻ってくると、もう子どもたちは帰ったあとだった。鳥居のところにはまだいろいろと置いてある。それは千羽鶴やお供え物など、犠牲者の方々に供えられたものなのだった。
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〔山王神社二の鳥居〕

          §           §           §

わずか2時間半の訪問ではあった。でも来てよかった。市川さんの『浦上物語』に引き寄せられたのかも知れない。白いかもめの車中の人となってから、資料館で求めた『改訂版浦上物語』の頁をめくっていった。
市川さんが描いた芳江の歩いた道を、ぼくは今日歩いたのだった。そこには今見てきたばかりの風景が躍動していた。とっぷりと暮れた車窓の黒い風景を見つめながら、今しがた、芳江とすれ違ってきたばかりのような、そんな錯覚をも覚えるのだった。
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〔帰途、浦上駅にて〕

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でも死ぬ勇気って何だろう。死ぬだけの勇気があるのなら、どんなことをしたって生きられる、生きる方が余程容易いだろう。生きるためには今日までやって来たことを愚直に続ければよい。しかし、死ぬためには新しく何かをやらねばならない。一見すると、生きるのには継続的な忍耐が必要であるのに対し、死ぬのは一瞬に思えるから、死ぬ勇気さえあればそれは一瞬で成し遂げられるように思えるのかも知れない。しかし、どういう過程を経て死に至るかを知っている人は─その過程を辿った人は既に死んでいるのだから─誰もいない。誰も死が一瞬のことであるとは断言できないのである。
そもそも生きるか死ぬかを人が選べると思うこと自体が間違っているのではないか。ありきたりの言葉かも知れないけれど、神の摂理への冒瀆だと言わざるを得ないと思う。人は生かされているのであって、自ら死を選ぶ権利などどこにもない。死ぬ勇気など勇気ではない。
さっき生きる方が余程容易いと書いたけれど、それは勇気が要らないというわけではない。生きている人は、死ぬ勇気がないから生きているなどと卑下する必要は全然ないのだ。生きることほど勇気のいることはないのだから。しかし、生きることを誇ることもできない。それは人としての義務であって権利ではないからである。
こんなことを言うと、それは死を選ぶほどの悩みを抱えたことがないからだときっと言われるだろう。確かにそれはそうかも知れない。死ぬ勇気をもってしまったことを責めることはできないだろう。それは生きる勇気をもっていることを誇ることができないのと同じことだと思う。どちらも人の営為であるのには違いはない。しかし、そうであるならば、いやそうであるからこそ、より義しい道を選ぶのが、人としてのつとめなのではなかろうか。やはり死ぬ勇気はやはり勇気などではない。それは覚悟にしか過ぎない。ぼくにはそれはないから、それより以下なのではあるけれど……。

          §           §           §

もっとも、キリスト教において、自殺を神の恩寵を絶つ行為として「罪」と見做すようになったのは、4世紀から5世紀にかけて生きた神学者アウグスティヌス以降なのだという(荒井献『ユダのいる風景』双書 時代のカルテ、岩波書店、2007年)。里美の死ぬ勇気を否定するつもりは全くない。けれど里美には生きてほしかった。芳江にもきっとその思いは強いのだと思う。
ここで、死ぬ勇気のことを書き加えようと思ったのは、実は別の理由によるのである。先日帰宅を急いで駅に着くと、見えているのに電車に乗り損ねてしまった。幸い次の電車がすぐ来てホッとしていると、なかなか電車が動かない。するとまもなく何気なく車内放送が入り、前の電車が踏切で人と接触したため、この電車はこのまま運転を打ち切るという。
最初何を言っているのかよくわからなかったのだが、そのうちどうもぼくが乗り損なったさっきの電車が踏切で人身事故を起こしたのだということが飲み込めてきた。次の駅までの踏切は全部頭に入っているから、候補は絞られる。頭を金槌で殴られたようなだった。
いつ動き出すのかわからない電車を諦めて勤務先まで戻り、自転車で帰宅することにした。勤務先の前の踏切ではなかった。とすればあとは絞られる。夜道を自転車をこいでいくと、彼方に回転する赤色灯の群がみえる。これでもう間違いない。ぼくもよく通る踏切である。帰宅にはそこを通ることはないのだが、暫くして何気なくその方角を見やると、いつもは真っ暗なあたりに、踏切を通り過ぎて停車しているらしい電車の明かりが、まるで銀河鉄道か何かのようにいやに明るく飛び込んできた。ぼくは逃げるように自転車を走らせるしかなかった。
ラベル: 日常
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2014年10月13日

眼の老化を切実に感じるとき

以前、眼鏡がなくて眼鏡を探せないと愚痴をこぼしたことがあるが、それも今にして思えばあの頃はまだよかった。それほど差し迫った感がなかったのは、外している時間がそれほど長くなかったことにもよるのだろう。比較的容易に見つかることが多く、至極楽観的に考えていた。
ところが先日遂にやってしまった。そろそろ帰宅しようと思って気が付いたら眼鏡をかけていないのである。かけていないことにさえ気付かずにいたくらいだから、いつ外したのかなど全然覚えていない。途方に暮れるしかなかった。
いつかこういうこともあるだろうなとは覚悟はしていたものの、こんなに早く現実になろうとは思ってもみなかった。ここ数ヵ月の老眼の進行はちょっと普通ではない。
一番それがよくわかるのは、背表紙を見て本を探すときである。眼鏡をかけたままでは本を探せないのである。仕方がないから眼鏡を外して目をぐっと近づけて背表紙を見る。目の高さから腰の高さくらいまでのところはこれで何とかなる。しかし、困るのはそれより高いところと低いところで、特に書棚や書庫の最下段の本を探すのにはほとほと苦労させられる。膝を突いた上で、顔を床にすりつけるほどにしないと背表紙を見ることすらできない。細かな文字の識別などほとんど絶望的に近い。
眼鏡をかけなければ遠くが見えないし、かけると今度は近くが見えないというこの症状は、全くもって不便、不快極まりない。
そんなこんなで舌打ちしていたら、一番無意識に眼鏡を外してしまいそうなところがあったことに気が付いたのだった。書庫である。そうだ、あそこにあるに違いない。書庫に行った記憶が微かによみがえってきた。
眼鏡は意外なところにあった。てっきり書庫の書棚の空きスペースかなにかにひょいと置いてあるに違いない、これは結構探すのに苦労するかも、と覚悟を決めて図書室に入ったのだが、入ってすぐの大机の上に、ぼくの眼鏡は置いてあった。記憶は不確かだが、どうも閲覧室の辞典類を調べるのに、何気なく外したらしいのである。
ともかくこの時はこれで事なきを得て、無事帰宅の途に就けたのであるが、それでも30分近くはロスをした。またいつ同じような事態が起きないとも限らない。しかし、どうすればよいのか皆目見当が付きかねる。身につけているのが一番なのだが、ぶら下げるのは抵抗があるし、ポケットに入れるのも物騒だ。まずは老眼鏡の作り直しが先決かも知れない。
年は取りたくないとはつくづく思うけれど、まさかこんな所から攻められるとは思ってもみないことであった。体力は確かに確実に衰えてきてはいるものの、ほかにそれほどガタがきているのを感じてこなかっただけに、この目の衰えは身にしみる。

日付が変わっていよいよ雨も降り出した。沖縄本島を横断して東シナ海に入った台風19号は、今日午前中に九州に上がり、その後、日本を縦断する最悪のコースを取るという。不幸中の幸いは、秋も深まってきた時期の台風ということもあって、勢力が比較的衰えてきていることだ。伊勢湾台風並みの930ヘクトパスカル台だったらたいへんなことになっていただろう。もっとも、10月20日頃に山手線を止めた79年の台風も通過時は970くらいだった。奈良の近鉄の架線に大きな被害が出た90年代の台風の時も960台だったように記憶している。図体はかなり大きな台風だから、雨風ともにまだまだ油断はできない。被害の出ないことを切に祈りたい。
ラベル:日常 天気
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2014年10月11日

浦上再訪(その2)

その1よりつづく)40年ぶりという気持ちの高ぶりを抑えながら、浦上天主堂に向かう。目星を付けておいた裏道をゆくが、ここにもホテルが並ぶ。いったいなんなのか。道は間違ってはいない。しかし、こんな道の先に浦上教会があるはずがない、道を誤っているに違いないという破られるに違いない希望(間違いであってほしいという祈りにも近い)を抱きながらであった。
こんなことなら素直にバス道を来ればよかったと思っていると、突然前方の通りの向こうに天主堂が見え出した。電線が絡み写真にはならないが、まぎれもない赤煉瓦の教会がそこに厳然としてあった。前回どの道を辿ってやってきたのかを全く思い出せない。かすかな記憶にあるのは、くすんだコンクート色の壁をむき出しにした天主堂の姿である。改装工事にとりかかっていたのだったかで、見学できなかったように記憶している。交差点に到達し、天主堂への坂道がはっきりと見えた。全然思っていたのと印象が違う。信号がかわって横断し坂道の歩道を登り始める。赤煉瓦の天主堂があっけらかんとなどといったら失礼かも知れないけれど、坂の上に圧倒的な量感で建っていた。厳かではあるが、前回の記憶にある門外漢を寄せ付けぬ冷たさはない。教皇ヨハネ・パウロ2世の訪日の機会に改装して被爆前と同じ赤煉瓦貼りにに戻したのだという。
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〔夕映えの浦上天主堂〕
右手の入口から入り、しばし祈りを捧げる。1000人も入る教会である。小教区としては日本最大の信徒を抱える教会だという。『浦上物語』の冒頭の場面を思い出す。59年目の8月9日の朝から物語は始まる。芳江は妹の里美の夢にうなされて目覚めたあと、大橋の鉄橋のそばを通って浦上天主堂の早朝のミサに向かう。そして天主堂下の交差点で幼馴染みの静代と会って、天主堂の坂を登るのである。ぼくは以前、平和公園への道行きとごっちゃにしながら読んでいたのだが、あれは紛れもなくここの坂道だった。夜の平和祈願のミサ、そしてそれに続く平和公園までの平和行進を終えての帰途、芳江は鶴子から1枚の写真を渡される。そこには芳江が二度と見られないと思っていた妹の里美が笑顔が写っていた……。

          §           §           §

名残の尽きない天主堂をあとにし、坂の途中にある原爆で被災した聖者の石像を見、また爆風で吹き飛んだ鐘楼を目の当たりにする。
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〔被爆した聖人石像と現在の浦上天主堂〕
坂下の交差点を渡って如己堂方面に緩やかに坂を登る。永井隆博士の如己堂は坂下の道にあったように記憶していたのだが、そこから坂を登って少し行ったあたりの比較的高いところにあった。小さな小さな図書館のようなところだったと記憶していたが、覚えているような靴を脱いで上がる小さな建物ではなく、全く面影もなく立派な記念館がある。残念ながら既に閉館して中には入れなかった。その敷地の一角の高いところに如己堂の建物があった。如己堂の前で写真を撮ってしばし佇む。縁側のガラス窓に、写真を撮るぼく自身が写り込んでいた。
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〔如己堂のたたずまい〕
永井博士について、ぼくは大きな誤解をしていた。中学生だったぼくは、多分博士という呼び名から老齢の医者を想像してしまったのだが、1908年生まれの永井隆博士は、敗戦時まだ37歳である。その活動は1951年に43歳で亡くなるまでの6年間に過ぎなかったのである。しかも博士は被爆の直前に白血病を発病していた。二重の苦しみに襲われる中で、平和を訴え続けたのだった。記念館を見られなかったのは痛恨だが、まあよい、もう一度長崎に来る目的ができたのだから……。

          §           §           §

如己堂のすぐ上の信号のところを、手前の案内板にしたがって左に曲がる。尾根上の道を辿るようだが、この先に平和公園があるようにも思えない。交差点を振り返ると今来た天主堂からの坂道が絵のように美しい。そばに地元の人も歩いていてちょっと恥ずかしかったけれど、今しか撮れないと思い直してシャッターを切る。
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〔如己堂前の坂道〕
暫く住宅街を行く。しかし、どうもそれらしくないので、如己堂の先の交差点をまっすぐに下って行った道に出会うであろう右手の坂道を下ってみることにする。万一違っていてもいずれ大通りには出るだろう。山里小学校の西南角のところで直進して降ってきた道と合流しそこを左に折れると、案の定大きな交差点に出た。
そこが大橋だった。長崎本線の鉄橋がある大橋、早朝のミサに向かう芳江が思わず妹の影を追いかけてしまい、涙の堰を切ってしまったところである。死ぬ勇気を選んでしまった妹里美が天国に旅立ったところであった。歩道橋に上がると市電が鉄橋を渡っていった。そして続いて長崎本線の列車も北へ向かって鉄橋を越えて行く……。全く予期しなかった場所にぼくは立っていた。『浦上物語』の核心に触れる場所である。何かに導かれてやってきた、としか思えなかった。もし高台をそのまま辿っていたら、そのまま平和公園に行き着いていたはずである。ふと時間を忘れてしまった。(つづく)
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〔大橋を渡る市電と長崎線〕
ラベル: 読書 建築 記憶
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2014年10月10日

皆既月食で過ごす新幹線

一昨日は皆既月食、じっくり眺める時間はなかったけれど、歩きながら月の輪郭がぼやけている様子を見ることができた。暫く歩いて再び建物の合間から月を見上げると、さっきはまだ半分くらい輝いていたのに、もう三日月状になっている。欠けていくスピードの意外な速さに驚いた。
日食と違い皆既月食は結構な頻度で起きるので、何度も見た記憶がある。最初はやはり小学生の頃のこと。欠け初めから欠け終わって元に戻るまで飽かず眺めたものだった。それこそ新月の頃から指折り数えて月食の起きる満月の日を心待ちにしたものである。
それがもうこの年になると、そういえば皆既月食があるといっていたなあ、と月食を思い出したのは、道端でたくさんの人が月を見上げているのに気付いてからだった。何でこんな時間にこんなにたくさんの人が出ているんだろうと思って、みんなの視線の追いかけると、そこに半分欠けた満月があったというわけなのだ。午後からは結構雲が出てきていたし、一日パットしないお天気だったから、今にして思えば、この天文ショーが無事見られたのはもしかしたら奇跡に近いように思う。

月食に気付いてうれしくなって思わずやったこと、それは月食が始まっているよ、というメールを子どもたちに送ることだった。3人3様の反応が面白く、長女からはなんと今月食を撮影しているのだという返事が即座に返って来た。長男は結局返事なしで夜中に全く違う用事でメールをよこした。二女はバイト中だったようだが外には出てみたという。その上で、なんだかよくわからなかったという、見る気があるのかないのかわからない返事が戻ってきた。
長女はボーナスで買ったデジカメで皆既月食の撮影に挑んだのだったが、やはり手持ち撮影では限界があり、三脚を買いに行くという。まあ次の月食には間に合うからじっくり練習しておくんだねと返したら、5分とかからぬところで入手できたとかで、早速挑戦してみているというメールが戻ってきて唖然。彼女もなかなかやるもんだねと思っていると、その後軽くしたデータがメールで届き、これが結構な出来映えで、わが娘の事ながら感心してしまった。
最初に子どもたちにメールしたのは品川駅に向かう途中のことで、写真が届いたのは名古屋を出た直後のこと、結局なんやかやで京都から奈良に向かう特急の中までずっと、娘と間歇的にメールのやりとりをしながら過ごしてしまった。長女が皆既月食を見ている間に京都まで行ってしまうのである。つくづく早いなあと思う。

今では新幹線も700系があたりまえになってしまったけれど、ぼくが一番頻繁に利用したのはもう引退してしまった2階建ての200系の新幹線だった。フットレストの着いた座席が心地よく、また側面に青い二重線の入った車体が格好良かった。300系のぞみが登場したときもあまり感心できなかったし、500系は配色が斬新でこれはと思ったものだが、700系はどうもあのカモノハシのような風貌があまりイカしているとは思えない(誤解のないようにいっておくと、カモノハシはけっして嫌いなわけではなく、むしろかわいいとさえ思う)。そういえば、1歳に満たなかった長女を連れて関西に移ったときに乗ったのが、2階建て新幹線ひかりの1階の個室だった。2階のグリーン席には普通車がいっぱいだったときに一度だけ乗った経験がある。
今やリニアモーターカーの実現も遠くない時代である。奈良か京都かのせめぎ合いも現実味を帯びて来つつある。本当に南アルプスをぶち抜けるのかという難題もあるようだが、ぼくは無理としても、子どもたちの世代は充分その恩恵を被る可能性が高い。寝台急行で東京から奈良に行ったなどという経験は、もはや歴史になってしまった。新幹線開業50年とのことだが、ちょうどその頃に物心がつき始めたぼくらの世代は、新幹線とともに歩んできたといっても過言ではない。同世代としてシンパシーを強く感じるのである。

それはそうと、車中無聊を託つ父親をずっとメールでかまってくれた長女はもちろんのこと、それぞれに個性的な返事をくれた子どもたちには、心から感謝しなくてはならない。
ラベル:記憶 日常 鉄道
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2014年10月04日

浦上再訪(その1)

2時間と少しだけではあったけれど、浦上を訪れた。できることなら長崎の中心部まで行きたがったが、限られた時間を有効に使うことを考え、是非とも行きたかった市川和広さんの『浦上物語』の世界を訪ねることにし、かもめ号の車中の人となった。
有明海沿岸の景色を見越して進行方向左側の座席を確保する。窓側の指定席が取れなかったので、入線より少し早めにホームに行くと、並ぶ人もなく、所定の位置にいても本当にここでいいのかと心配になるくらいだった。列車がホームに入り、ドアが開く頃にはさすがにそこそこの列にはなっていたが、難なく目的の左側の窓側の席に座ることができた。
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〔かもめ号(博多駅にて)〕
鳥栖、新鳥栖と停車し、佐賀平野に入って、佐賀、肥前山口、肥前鹿島と進んでも一向に有明海は見えてこない。40年前に真夏の長崎を訪れたときの有明海の景色が脳裏に焼き付いているのだが、あれは錯覚だったのかと思い始めた頃、車窓に青い海が見え始めた。けっして幻ではなかったのだ。でもあとで地図を見てようやく納得したのだが、有明海の西岸に沿ってこんなに南下するとは思ってもいなかった。ぼくの頭の中の地図はどうも90度曲がっていたようである。
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〔かもめの車窓から望む有明海〕
しだいに西に曲がって諫早湾岸を西に進み(諫早湾を堰き止める堤防がちらっと見えた)、海から離れてまもなく諫早に着く。ここからは新線経由で長崎まであと少し。40年ぶりの長崎に心が躍る(新線ができて長崎への所要時間が大幅に短縮されたのは、ちょうどこの頃ではなかっただろうか)。
すると車内にどこからともなく、なつかしいメロディーが流れてくる。これはなんの曲だっただろう。でもこんな曲が車内で流れるはずはないし、だれかの着メロか、なんて人を疑ってみたりもする……。
そうするうちにまもなく、あのなつかしい歌が流れ始めたではないか。「出会いはいつでも、偶然の風の中。きらめく君、ぼくの前に、ゆるやかに立ち止まる。なつかしい風景に、ふたたびめぐり会えた、そんな気がする、君の胸に、はるかな故郷の風。」
そう、さだまさしの「天までとどけ」であった。長崎出身のさだの、長崎へようこそのメッセ-ジの車内放送だったのである。今の若い世代は多分、天までとどけを知らない人も多いのではないか。しかし、ぼくらの世代にとって、いや少なくとも「夢供養」がさだのベストアルバムだと今でも思っているぼくにとって、これ以上のもてなしはなかった。

          §           §           §

さて、長いトンネルを抜けるとまもなく、かもめ号は浦上駅に滑り込んだ。期待して降り立った浦上駅は、どうということはない都会の駅で、しかも半分工事中である。連続高架工事をしているのだという。もしも次に訪れる機会があるとすれば、その時はもうあの風情のない高架の駅になり果てていることであろう。前回は南から市電で浦上に入ったので、実はぼくはこの駅は生まれて初めてなのである。
駅前の高架橋を登り線路を西に越える。多分この道でいいのだろう。まもなく川沿いの広い道に出る。少し行くと前方に高架へのスロープが見えてくる。この道が長崎本線を越えるための高架橋だ。人は高架橋を通れそうもないので、道路の向こう側に渡り、川沿いに北に歩く。川は二股に分かれ、右の川に沿って高架の側道を行く。ほとんど人通りはない。時折自転車に乗った女子学生とすれ違う。そのうちに思っていたように線路を潜って向こう側に出て、浦上駅前からの道に合流できた。松山町まで行き、平和公園側に渡る。そして平和公園に上がるエスカレーターを正面に見つつ、案内板に導かれて、少し戻る感じで爆心地を訪れた。
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〔浦上川沿いの道〕
ここは中学生だった真夏の長崎訪問の際には、訪ねた記憶がない。祈年祭直前の長崎はただひたすら暑かった。ずいぶんあちこち行ったように思うけれど、長崎にいたのは1日だけだった。眼鏡橋やグラバー邸、オランダ坂、それに大浦天主堂などを回ったあと、最後に市電に乗って浦上に向かったように記憶する。浦上ではなによりも暑さの記憶が優先している。
それに比べると、今回はいきなり核心に飛び込んだ感じである。浦上天主堂の残骸が移設してある。爆心の記念碑を含めてカメラに収めようとすると、あろうことかラブホテルが写り込んでしまう。これが現実なのか。これが人間というものなのか……。
当時の地層が見られるという川沿いに降り、再び登ってみどり橋をわたり、階段を上って原爆資料館を訪れる。17時まで入場できるとわかり、それならば行程を逆にすればよかったと思うが、いたしかたない。17時までしか見られない浦上天主堂に間にあうように見学するしかない。
長い円形をスロープを下り展示室に入る。そうだ、須賀敦子さんが書いていた、サンタンジェロ城のハドリアヌス廟の螺旋階段とちょうど逆だ。霊魂の闇を登ってゆくのではなく、地底に降って行く。原爆への行程としてこれ以上のエントランスはないだろう。ここは1日かけても見切れないというか、見るべきものがある。恐らくそうしないとわからない部分がある反面、来ることによって直感的に理解できる部分もある。熱線で泡が浮き出た瓦、溶けてくっついてしまったガラス瓶など、実際に触って実感できる展示がある。原爆の被害が単なる展示物になってはいけない。それを乗り越えるためのすばらしい工夫だと思う。
時間はいくらあっても足りない。被爆者の証言のコーナーには多くの人が立ち止まっていた。亡くなった子を木切れを組んで荼毘に付す場面の絵があった。市川和広さんの『浦上物語』で読んだ光景そのものだ。あれを読んだとき、漠然とした印象しかもてなかった場面が今目の前に像を結んでいる。衝撃的だった。言葉には言い表せない。
引き続き現代の核兵器の展示などもあったが、もはや逃げるようにして去るしかなかった。核廃絶への願いはもちろんなのだが、長崎の証言を前にすると、もはや蛇足に思えてくる。長崎・広島を経てなおこんなことにうつつを抜かしている人類とはいったいなんなのか。憤りを越えて空しくさえある。
売店で思いがけないめぐりあいがあった。先ほどちょっとふれた『浦上物語』の改訂版が置いてあるではないか。いつか読まねばと思いながら、入手していなかった本である。これはもう買うしかない。展示リーフレットと合わせて求め、持ち歩くこととなった。(つづく)
posted by あきちゃん at 20:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする