一昨年完結した教会カンタータシリーズがここで行われてきたことは知っていたけれど、まだバッハのカンタータを聴きかじり始めたばかりでもあり、古今の多くの名演をCDで聴けることもあって、随分長いことご無沙汰しているコンサートにわざわざ神戸まで出かけて来ようという気にもならずにいたのだった。それが、急に背中を押されるご縁があって、居ても立っておられなくなってチケットを求め、遙々出かけてきたのだった。
世俗カンタータシリーズの第5回、汝の死を憶えよ─追悼のカンタータ集、と題されたBWV198をメインに据えたコンサートで、前半には鈴木優人さんのオルガンによるプレリュードとフーガBWV534、オルガン・コラールBWV641・639があり、続いてBWV106、後半には初めに偽作の「義しきものは滅ぶとも」とBWV53が併せて演奏された。
後半の最初に、阪神淡路大震災から20年、終戦から70年、そしてバッハ・コレギウム・ジャパン25周年にあたると、マイクを持った鈴木雅明さんご自身から説明があった。世俗カンタータとしてのBWV198の演奏が核になっているわけだけれども、それをこの記念の年に行うことになったのはやはり何かの導きであろう。そしてそれを聴く機会に恵まれたことも……。

〔開演前のチャペル〕
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それにして、ぼくは途轍もないコンサートに居合わせることができたようだ。聴き終わってぼくはなんだか虚けたようになって、六甲駅への坂を下ってきたのだったが、終わって家に戻り何時間も経ってようやくその実感が湧いて来るのを感じ始めたのだった。
あのチャペルにあふれていた、あの音はいったい何だったのだろう。あれがほんとうに人間の技だったのだろうか。神を見たなどというと本当の烏滸がましいけれども、言葉では言い表せないものに心を震わされた、いや言葉にしようとする段階で、全てウソになってしまっているのを感じてしまう、すばらしいなどという言葉が空しく響く程の体験であった。そう、それはコンサートなどというものとは次元が違うものだったように思う。聴くなどというようななまやさしいものではなくて、それはまさに体験だったとしかいいようがない。
特にBWV198は厳しい、ほんとうに厳しい音楽だった。事前に聴いていたリリングやロッチュの演奏で作っていたイメージ、もちろんそれらの演奏、特にロッチュの演奏はすばらしく大好きなのだが、それらのイメージを完全に打ち壊す程の厳しく深い演奏だった。出だしからしてそうだった。この厳しさで進んでいったら、あの水晶宮のアリアはいったいどうなるのだろうと心配になるくらいの峻厳な響き、リズム、テンポで進んでゆくのである。もしかして、これでこそ逆に水晶宮のアリアの救いが、真に美しく優しく輝くのかも知れない、初めはそう思って聴いていた。いや聴いていたなどという暢気なものではない。ぐいぐいと引っ張り込まれているというか、もう何が何だかわからなくなるくらい金縛りに遭ったような状態だった。
水晶宮のアリアが始まる。なんだか別の曲が始まったかと思った。予測は見事に裏切られたのである。いっさいテンポを落とさずに厳しく厳しく進んで行く。そう、これはこういう音楽なのだ。ロマンとか優しさとか癒やしとか、そういう音楽ではないのだ。死者を懐かしんだり、追慕したりというようなそんな情緒的なことで死者と向かい合うのではなく、もっと心から死者と対話する、真正面から向き合う音楽なのだった。
最後の合唱。一切の感傷を排除したまま緩みなく音楽は突き進む。あくまで厳しい厳しい音楽である。でも、その先に光がある。一条の光……。BWV106の最初の合唱でぐっときてしまってからは、どちらかといえば冷めた眼で感情を排して聴いて来れたのだけれど(何度も言うけれどもけっして感傷的な気分に浸れる演奏ではなかった!)、涙でぐしゃぐしゃになって最後はもうステージを見ることもできなくなってしまっていた。曲が終わって、何もかも忘れて拍手している自分がいた。コンサートを聴いたというより、やはり何かを体験したいうべきなのだろう。心の震えをどう表現してよいのかぼくにはまだわからない。
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BWV198に先立つBWV106も感動的な演奏だった。BWV198の体験は、BWV106の延長線上にあるといっても過言ではない。古楽の演奏を生で聴くのは初めてなので、最初の一音からしてものすごく新鮮だったけれど、合唱が始まるといったいこれはと思わないではいられない、想像していた声とは全く違う響きだった。合唱の入る曲を聴いた経験に乏しく、しかも数で勝負という場合が多かったから、各パートソロの方を含めて4人ずつという構成は、いったいどういう歌声になるのだろうと思ってはいた。それは想像を絶するものだった。これが本当に人間の声かと思わずにはいられない圧倒的なそれは「音」だった。感傷的なものではけっしてない、しかも全然無機的なものとも違う、感情のこもった音だった。
中でもソロの4人の方々は圧倒的だった。ソロのパートを歌うときには、予め並んでいるオーケストラの向こう側から脇を通ってオーケストラの前に出てきて、観衆の目の前で語りかけてくれるのである。チャペルのような比較的狭い空間ならではの趣向で、空間の中央近くに出てきて歌うわけだから、チェペル全体を震わせるのにも大きな効果を発揮するのだろう。フラットな空間なので、ぼくの座った後方の席からだとオーケストラの方々は全くといっていいほど見えない。しかし、立って歌っている合唱の方々のお顔は、前の座席の人の影になりさえしない限り、ぼくも近視・乱視に老眼の入り混じった悪い眼でも、表情までよくわかる。
BWV106で最初に歩み出て来たテノールのゲルト・テュルク、続いて登場したバスのドミニク・ヴェルナー、アルトのパートを熱唱してくれたカウンター・テナー(ぼくにとっては全くの未知の経験)のロビン・ブレイズ、そして特にBWV106の第2曲の合唱最後の「イエスよ来たり給え!」の絶唱が印象に残るソプラノのジョアン・ランのソロのみなさん、どの方もチャペルを震わせるようなちょっと信じられないような「音」を聴かせてくださった。
BWV106では最後の合唱のスピードの印象的だった。最後のアーメンに至るたたみかけるような迫力、威厳はすさまじかった。考えてみれば、BWV198はこの延長上の演奏であったことが今にして振り返ってみればよくわかる。コンサート全体として統一性、主帳が、今更のように痛切に感ぜられてくる。
一つだけ残念なことがあったといえば、まあこれは仕方のないことなのだが、指揮される鈴木雅明さんが、ぼくの席からだとごくたまにその白髪の後ろ姿を望めるだけで、ほとんど見えなかったことだ。指揮されるお姿は比較的シンプルにお見受けしたが、どうやってあの音を生み出していられたのか、この眼で見られたらなおよかったのに、という思いがないわけではない。でも冷静に考えてみれば、合唱の方々以外には、指揮者の姿も、演奏者の姿もほとんど見えないような中で生み出される音楽に、あれほど心を揺さぶられたのである。空間に響き渡る音に身を浸してさえいれば、視覚は必要ないともいえるだろうし、視覚がない分、素直に響きに浸れたということができるのかも知れない。
それをいうなら、最初に聴いた鈴木優人さんのオルガンもまさにそうだろう。チャペルに入って正面の十字架を見上げて開演を待っていた時、オルガンはどこだろう、壁の中に隠れているのだろうかなどと、バカなことを考えていたので、1曲目が鳴り響いたとき、なんだか方向感覚がおかしくなってしまった。オルガンがチャペル入口の真上、十字架に正対する位置にあることに気付いたのは、2曲めのオルガン・コラールが響き始めてからだった。息遣いまで聞こえるオルガンの響きは初めての体験で、パイプオルガンといえばNHKホールのものしか聴いたことがなかったぼくには、オルガンの音そのものを認識し直すある意味衝撃的な音でもあった。
今にして思えば、そんな経験がいわば初っ端から用意されていたコンサートだったのである。20分の休憩を挟んで正味2時間のかけがえのない贅沢の時間を過ごさせていただいた。終わって出てきたチャペルの前で、鈴木雅明さんを初め、演奏者のみなさんや、会場で感動を共有した人たちが、満足げにくつろいでいられる姿がことに印象的だった。この会場ならではの光景であるだろう。
最後に小道具などと言っては失礼だが、BWV53に使われた鐘がまたいい響きだった。特注したのか、どこかから調達したのかはわからないけれど、少し割れた響きがかえって素朴で心に滲み入ってきた。
あと、休憩時間にチャペルの向かいのティーコーナーで、松蔭の学生さんが淹れてくださったコーヒーには感激した。BWV106を聴いた後の心と身体に暖かく浸透していく得も言われぬおいしさだった。残念だったのは、休憩時間が短いので折角の淹れたての熱いコーヒーをじっくりと味合う時間的余裕がなかったこと。それを考慮しても、あの場であれほどおいしいコーヒーを飲める贅沢はないだろう。
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それはともかく、もっと大切なことを書いておくのを忘れるところだった。このコンサートへとぼくの背中を押してくれた恩師の話である。今年の年賀状にバッハのカンタータの話を少し書いたところ、以前このブログでも書いたことがあるぼくの小学校時代の音楽担当の恩師から、思いがけなくもありがたいお便りをいただき、その中でBCJのコンサートの情報も教えていただいたのである。小学生にメサイアのハレルヤ・コーラスや天地創造の合唱を歌わせてくださった先生である。卒業以来であるからもう40年以上もお会いしていないのだが、憶えていてくださっていただけでもありがたいことなのに、そんなぼくの便りを喜んでくださったのだった。先生がいらっしゃらなければ、ぼくのBCJバッハ体験はあり得なかった。まさに神の導きとしか言いようがない。

〔バッハ・コレギウム・ジャパン第233回神戸松蔭チャペルコンサートのプログラム〕