2015年02月23日

BCJのバッハ・カンタータ体験

初めてバッハのカンタータの実演に接する機会に恵まれた。2月21日(土)に行われた、鈴木雅明さん率いるバッハ・コレギウム・ジャパンの第233回神戸松蔭チャペルコンサートである。
一昨年完結した教会カンタータシリーズがここで行われてきたことは知っていたけれど、まだバッハのカンタータを聴きかじり始めたばかりでもあり、古今の多くの名演をCDで聴けることもあって、随分長いことご無沙汰しているコンサートにわざわざ神戸まで出かけて来ようという気にもならずにいたのだった。それが、急に背中を押されるご縁があって、居ても立っておられなくなってチケットを求め、遙々出かけてきたのだった。
世俗カンタータシリーズの第5回、汝の死を憶えよ─追悼のカンタータ集、と題されたBWV198をメインに据えたコンサートで、前半には鈴木優人さんのオルガンによるプレリュードとフーガBWV534、オルガン・コラールBWV641・639があり、続いてBWV106、後半には初めに偽作の「義しきものは滅ぶとも」とBWV53が併せて演奏された。
後半の最初に、阪神淡路大震災から20年、終戦から70年、そしてバッハ・コレギウム・ジャパン25周年にあたると、マイクを持った鈴木雅明さんご自身から説明があった。世俗カンタータとしてのBWV198の演奏が核になっているわけだけれども、それをこの記念の年に行うことになったのはやはり何かの導きであろう。そしてそれを聴く機会に恵まれたことも……。
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〔開演前のチャペル〕

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それにして、ぼくは途轍もないコンサートに居合わせることができたようだ。聴き終わってぼくはなんだか虚けたようになって、六甲駅への坂を下ってきたのだったが、終わって家に戻り何時間も経ってようやくその実感が湧いて来るのを感じ始めたのだった。
あのチャペルにあふれていた、あの音はいったい何だったのだろう。あれがほんとうに人間の技だったのだろうか。神を見たなどというと本当の烏滸がましいけれども、言葉では言い表せないものに心を震わされた、いや言葉にしようとする段階で、全てウソになってしまっているのを感じてしまう、すばらしいなどという言葉が空しく響く程の体験であった。そう、それはコンサートなどというものとは次元が違うものだったように思う。聴くなどというようななまやさしいものではなくて、それはまさに体験だったとしかいいようがない。
特にBWV198は厳しい、ほんとうに厳しい音楽だった。事前に聴いていたリリングやロッチュの演奏で作っていたイメージ、もちろんそれらの演奏、特にロッチュの演奏はすばらしく大好きなのだが、それらのイメージを完全に打ち壊す程の厳しく深い演奏だった。出だしからしてそうだった。この厳しさで進んでいったら、あの水晶宮のアリアはいったいどうなるのだろうと心配になるくらいの峻厳な響き、リズム、テンポで進んでゆくのである。もしかして、これでこそ逆に水晶宮のアリアの救いが、真に美しく優しく輝くのかも知れない、初めはそう思って聴いていた。いや聴いていたなどという暢気なものではない。ぐいぐいと引っ張り込まれているというか、もう何が何だかわからなくなるくらい金縛りに遭ったような状態だった。
水晶宮のアリアが始まる。なんだか別の曲が始まったかと思った。予測は見事に裏切られたのである。いっさいテンポを落とさずに厳しく厳しく進んで行く。そう、これはこういう音楽なのだ。ロマンとか優しさとか癒やしとか、そういう音楽ではないのだ。死者を懐かしんだり、追慕したりというようなそんな情緒的なことで死者と向かい合うのではなく、もっと心から死者と対話する、真正面から向き合う音楽なのだった。
最後の合唱。一切の感傷を排除したまま緩みなく音楽は突き進む。あくまで厳しい厳しい音楽である。でも、その先に光がある。一条の光……。BWV106の最初の合唱でぐっときてしまってからは、どちらかといえば冷めた眼で感情を排して聴いて来れたのだけれど(何度も言うけれどもけっして感傷的な気分に浸れる演奏ではなかった!)、涙でぐしゃぐしゃになって最後はもうステージを見ることもできなくなってしまっていた。曲が終わって、何もかも忘れて拍手している自分がいた。コンサートを聴いたというより、やはり何かを体験したいうべきなのだろう。心の震えをどう表現してよいのかぼくにはまだわからない。

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BWV198に先立つBWV106も感動的な演奏だった。BWV198の体験は、BWV106の延長線上にあるといっても過言ではない。古楽の演奏を生で聴くのは初めてなので、最初の一音からしてものすごく新鮮だったけれど、合唱が始まるといったいこれはと思わないではいられない、想像していた声とは全く違う響きだった。合唱の入る曲を聴いた経験に乏しく、しかも数で勝負という場合が多かったから、各パートソロの方を含めて4人ずつという構成は、いったいどういう歌声になるのだろうと思ってはいた。それは想像を絶するものだった。これが本当に人間の声かと思わずにはいられない圧倒的なそれは「音」だった。感傷的なものではけっしてない、しかも全然無機的なものとも違う、感情のこもった音だった。
中でもソロの4人の方々は圧倒的だった。ソロのパートを歌うときには、予め並んでいるオーケストラの向こう側から脇を通ってオーケストラの前に出てきて、観衆の目の前で語りかけてくれるのである。チャペルのような比較的狭い空間ならではの趣向で、空間の中央近くに出てきて歌うわけだから、チェペル全体を震わせるのにも大きな効果を発揮するのだろう。フラットな空間なので、ぼくの座った後方の席からだとオーケストラの方々は全くといっていいほど見えない。しかし、立って歌っている合唱の方々のお顔は、前の座席の人の影になりさえしない限り、ぼくも近視・乱視に老眼の入り混じった悪い眼でも、表情までよくわかる。
BWV106で最初に歩み出て来たテノールのゲルト・テュルク、続いて登場したバスのドミニク・ヴェルナー、アルトのパートを熱唱してくれたカウンター・テナー(ぼくにとっては全くの未知の経験)のロビン・ブレイズ、そして特にBWV106の第2曲の合唱最後の「イエスよ来たり給え!」の絶唱が印象に残るソプラノのジョアン・ランのソロのみなさん、どの方もチャペルを震わせるようなちょっと信じられないような「音」を聴かせてくださった。
BWV106では最後の合唱のスピードの印象的だった。最後のアーメンに至るたたみかけるような迫力、威厳はすさまじかった。考えてみれば、BWV198はこの延長上の演奏であったことが今にして振り返ってみればよくわかる。コンサート全体として統一性、主帳が、今更のように痛切に感ぜられてくる。
一つだけ残念なことがあったといえば、まあこれは仕方のないことなのだが、指揮される鈴木雅明さんが、ぼくの席からだとごくたまにその白髪の後ろ姿を望めるだけで、ほとんど見えなかったことだ。指揮されるお姿は比較的シンプルにお見受けしたが、どうやってあの音を生み出していられたのか、この眼で見られたらなおよかったのに、という思いがないわけではない。でも冷静に考えてみれば、合唱の方々以外には、指揮者の姿も、演奏者の姿もほとんど見えないような中で生み出される音楽に、あれほど心を揺さぶられたのである。空間に響き渡る音に身を浸してさえいれば、視覚は必要ないともいえるだろうし、視覚がない分、素直に響きに浸れたということができるのかも知れない。
それをいうなら、最初に聴いた鈴木優人さんのオルガンもまさにそうだろう。チャペルに入って正面の十字架を見上げて開演を待っていた時、オルガンはどこだろう、壁の中に隠れているのだろうかなどと、バカなことを考えていたので、1曲目が鳴り響いたとき、なんだか方向感覚がおかしくなってしまった。オルガンがチャペル入口の真上、十字架に正対する位置にあることに気付いたのは、2曲めのオルガン・コラールが響き始めてからだった。息遣いまで聞こえるオルガンの響きは初めての体験で、パイプオルガンといえばNHKホールのものしか聴いたことがなかったぼくには、オルガンの音そのものを認識し直すある意味衝撃的な音でもあった。
今にして思えば、そんな経験がいわば初っ端から用意されていたコンサートだったのである。20分の休憩を挟んで正味2時間のかけがえのない贅沢の時間を過ごさせていただいた。終わって出てきたチャペルの前で、鈴木雅明さんを初め、演奏者のみなさんや、会場で感動を共有した人たちが、満足げにくつろいでいられる姿がことに印象的だった。この会場ならではの光景であるだろう。
最後に小道具などと言っては失礼だが、BWV53に使われた鐘がまたいい響きだった。特注したのか、どこかから調達したのかはわからないけれど、少し割れた響きがかえって素朴で心に滲み入ってきた。
あと、休憩時間にチャペルの向かいのティーコーナーで、松蔭の学生さんが淹れてくださったコーヒーには感激した。BWV106を聴いた後の心と身体に暖かく浸透していく得も言われぬおいしさだった。残念だったのは、休憩時間が短いので折角の淹れたての熱いコーヒーをじっくりと味合う時間的余裕がなかったこと。それを考慮しても、あの場であれほどおいしいコーヒーを飲める贅沢はないだろう。

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それはともかく、もっと大切なことを書いておくのを忘れるところだった。このコンサートへとぼくの背中を押してくれた恩師の話である。今年の年賀状にバッハのカンタータの話を少し書いたところ、以前このブログでも書いたことがあるぼくの小学校時代の音楽担当の恩師から、思いがけなくもありがたいお便りをいただき、その中でBCJのコンサートの情報も教えていただいたのである。小学生にメサイアのハレルヤ・コーラスや天地創造の合唱を歌わせてくださった先生である。卒業以来であるからもう40年以上もお会いしていないのだが、憶えていてくださっていただけでもありがたいことなのに、そんなぼくの便りを喜んでくださったのだった。先生がいらっしゃらなければ、ぼくのBCJバッハ体験はあり得なかった。まさに神の導きとしか言いようがない。
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〔バッハ・コレギウム・ジャパン第233回神戸松蔭チャペルコンサートのプログラム〕
ラベル:音楽 バッハ
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2015年02月20日

飛行機とホテルの夢─夢の記憶26

何のためにそこにいたのかはよく思い出せないけれど、ホテルのロビーのようなところで知り合いたちとくつろいでいた。会話がはずむうちに、成り行きでそこから出発してどこかへ向かうことになる。ごく自然な流れである。
すると、いつのまにか四角いテーブルを囲んで先程のメンバーと今度は食事をしている。室内のようではあるが、窓からの景色を見ると明らかに空を飛んでいる。飛び立った飛行機の中にいることがわかって、驚愕する。地に足が着いていないことで震えている自分がいる。一方で他の人たちは至って平気で会話を続けながら食事を続けている。空を飛んでいることに気付いていないのだろうかといぶかしがっている。
どうも乗っている飛行機は先程までいたホテルに向かっているらしいことに気付く。ホテルは250m四方ほどの敷地に建っている。ヘリと違い飛行機である。滑走路を走って止めなくてはならない。そこにどうやって着陸するのだろうと、途方もないことを考えている。
ところが気付くともう到着し、しかも降りている。最初にいたホテルのロビー、しかも宴会場の扉の前に飛行機は止まっている。その扉の前はちょうど天井が低くなっているのだが、飛行機はそこにスレスレの高さで止まっていた。傍にはホテルの支配人らしき人がいて、ウン、これならこれからも使えるなと、いったい何がどう使えるというのかわからないけれど、納得している姿が目に止まる。
それにしてもよくもまあここまでどこにも擦らずに入って来れたものだ。第一、ホテルのガラスの入口をどうやって通り抜けてきたのだろうと考えている自分がいる一方、そんなのわけないさと別段不思議でもないと思い込んでいる自分もいる。建物の中に車を展示しているのはよく見かけるけれど、飛行機が室内にいる様子など、考えてみたこともなかったのに。
飛行機が止まっている宴会場の手前にはテーブルが並んでいて、むしろこちらの方が室内のようにも思えるくらいで、そこここに食事をしている人がいる。内と外とが逆転しているようにも思える。そのあたりを通り抜けて(もっと複雑な経過があったのだが全く思い出せない)2階に上がると、2階はいくぶん簡略なテーブルが並んでいて、そこでも食事ができるようになっている。
ぼくはさっきまではいなかった両親と並んでなぜかそこで食事をし、今まさにチェックアウトをしようとしている。どこへ行こうとしているのかわからない。さっきの飛行機はどこへ行ったのかもわからない。夢自体がどんどんスライドしていっているのだ。
朝起き抜けに見たただこれだけの夢なのだが、起きてすぐ記憶を掬うようにしながら書きとめたメモを元に書いていっているのに、今朝のメモがもうよくわからなくなっている部分がある。そもそも記憶を掬うときに、もうスルリとそれこそ穴あきお玉のように大事な夢の要素がこぼれて行ってしまっているのである。これではいかんともしがたい。辛うじて残ったものだけではそれらがいったいどう組み合わさっていたのか、見当も付かなくなっていることがしばしばなのだ。それを考え考え書いていくと思わぬ組み合わせの間違いもしでかしかねない。理屈では割り切れない夢なのだから、理屈で考えようったってどだい無理な話なのである。
どうしてこんな夢を見るのだろう。空を飛ぶ夢は確かによく見るのである。空中をふわりふわりと落下して行くこともあれば、真っ逆さまに転落して目が覚めることもある。でも今度のようなのは初めてだ。夢の舞台になったホテルは毎年一度は勤務先の歓送迎会で行くところだが日常出かけるところではない。考えられるとすれば、先月末に家内の兄と日曜の朝食に出かけたのが印象に残っているのかも知れないが、どうして飛行機と結び付くのだろう。
こんな些細な夢でもあるがままに記録にとどめてゆけば、なにか夢の法則性のようなものが見出されるかも知れない、まあそれが無理としても、放っておけばどうせ忘れてしまうことばかりなのだから、ほんのわずかでも掬い取っておいてやれたらそれでよい。所詮自己満足に過ぎないのかも知れないが……。
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2015年02月17日

雪の大普賢岳の大パノラマ再び

今年も和佐又山に登ってきた。昨年の大普賢岳の眺望が頭に焼き付いて離れなかったからである。その折に神々しいばかりの姿を見せてくれた大普賢岳の頂を、昨年7月には念願叶ってをきわめることができた。その山頂を再び和佐又山から眺めたい、そう思ったのである。先日の天和山とともに、敢えて2年続きの同じコースである。あとで触れるが、これにはもう一つ訳がある。
夏に大普賢岳を目指した際には和佐又山に寄る時間がなかったから、ちょうど1年ぶりとなる。コースは去年と全く同じで、伯母ヶ峰のトンネルを出たところから林道を少し辿り、右に沢道に入るルート。トンネルの手前までは雪が全然なくやや拍子抜けだったうえに、トンネルを抜けても銀世界にはならず、林道にも雪がない。しかし、この先ほどなく融けずに凍結しているところもあるとのことで、ここから歩くことになる。
直線部分は乾いて夏道と同じなのに、不思議とカーヴの部分は凍結してツルツルになっている。早速アイゼンをといきたいところだが、これの繰り返しなので、注意して道路の端の凍結していない雪のある部分をねらって歩く。まもなく沢道への分岐というところでいよいよアイゼンを付ける。去年はここで降りて最初からアイゼンを付けて登り始めたので、結局同じことになる。いきなり雪道よりは少しばかりウォーミングアップができてかえってよかったと思う(もっとも去年はバスもチェーンを付けてここまで登ってきたのだった)。
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〔沢道の入口〕

沢に入るとさすがにずっと積雪があり、土の見えるところはほとんどない。去年よりも少し多めのような気がする。一度石伝いに沢を渡り、左岸(北)側から尾根に取り付く。すると、俄に雪が増え始めた。途中まっすぐ尾根を目指したらしいトレースもあったが、無理せず本来のコースを辿る。山腹をトラヴァース気味に上って行くのだが、ラッセルされていないので、先頭の方はたいへんだっただろう。もっともラッセルしていただいた道を辿るとはいっても左側が急傾斜で落ちているところを斜めに登り詰めていくわけだから、トレースされた道も左に傾き加減で、うっかりしていると左足の足場が崩れて冷やっとさせられる。それさえ注意すれば思い切り雪道歩きを楽しめる。
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〔雪の雑木林〕

次第に日も射してくるようになった。これなら去年のようにはいかないものの、それなりの眺望が期待できるかも知れない……。期待に胸を膨らませて辿るうち、まもなく上にコテージが見え出し、ひょっこりと林道に飛び出す。林道のはずなのに、トレースがほとんどない。昨年に比べると格段に雪が深い。40-50㎝はあるだろう。
やや下って程なく和佐又ヒュッテの前に着く。振り返れば……、そう、大普賢の手前に並ぶ小普賢、日本岳、文殊岳の3つの丸いユーモラスでさえある山容が迎えてくれているではないか。今年もまた和佐又山からの絶景を望める! ようやく景色が実感となって湧いてくるのだった。
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〔和佐又ヒュッテ前のゲレンデ〕

昼食には、昨年はおまけだった豚汁が今年は和佐又ヒュッテ特製のメインディッシュ(?)となって豪勢に迎えてくれた。冬山でこんな昼ごはんをしかも暖かい室内でいただけるなんてこんな贅沢があってもいいのだろうか、思わずそう感ぜずにはいられない。豚汁がそれこそ心に身体にしみわたってゆく。このコースに続けて参加したもう一つの理由は、恥ずかしながらこの充実した昼食だったのである。
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〔待ちに待った昼ごはん〕

さて、いよいよ和佐又山に登る。30分後にはあの眺望が待っている。まずはヒュッテ裏の高台からヒュッテ越しに大台ヶ原を望む。見事に晴れ渡っている。今まで気付かなかったのは迂闊だったが、ここはヒュッテ前のそり滑りゲレンデの上部にあたるのだ。ヒュッテが見えるわけである。景色に見とれてばかりいると、前景はあたりまえになってしまい、何も考えなくなっているらしい。
少し先で今度は右手に大普賢岳を望む。ここからだと基本はヒュッテ前と同じ景色。主役は大普賢岳の白いピークではなく、手前に控える3つの丸い岩峰である。これがたいした高低差ではないと思うのに、和佐又山まで登り詰めると逆転するのだから不思議だ。
小普賢岳・日本岳・文殊岳の3つの丸いピークと大普賢岳(奥).jpg
〔和佐又ヒュッテの上から望む小普賢岳・日本岳・文殊岳の3つの丸いピークと大普賢岳(奥)〕

コルでひと休み。途中はかなりの雪だったがコル付近は雪が少ない。地面が出ているところさえある。今日はそうではないけれども、雪の降るときには風が強いらしいのである。さああともう一息。まだ眺望は望めない。和佐又山は元はあまり景色はよくなかったらしいが、伐採して眺望を確保したのだという。もちろん山登りに眺望は必須ではないけれど、あるに越したことはない。ことに大普賢岳をこれだけ至近距離から望める場所は和佐又山をおいて他にない。
昨年は気付かなかったけれど、振り返り振り返りしながら登ると、なかなか大普賢の眺望は開けてこないことがわかった。山頂直下の伐採された部分に飛び出して初めて丸い3つのピークを従えた大普賢岳が一気に顔を出すのである。しかも後ろを振り返って初めて気付く。それは劇的でさえある。
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〔和佐又山から大普賢岳を望む〕

無理をしてでも来て本当によかった。感激と感謝と安堵とが入り交じった感慨に浸る。昨年に比べると少し透明感は足りないけれども、見事に晴れわたっている。大普賢の雪も昨年よりもかなり多いのではないだろうか。透明感は少なめながら輪郭はくっきりしているように思う。昨年と違うとすれば、西側の弥山・八経方面が、日射しがある分だけ逆光となって霞み気味なのと、霧氷がないことだろう。しかしこれはまた時の運。欲張りはいうまい。
時間の経つの忘れて眺望を満喫したあと、山頂を後にする。昨年はヒュッテに直接下るルートへの踏み跡を辿ったが、今年はラッセルされていないようなので、来た道を辿る。でもサラサラの雪にひかれ、ついつい踏まれていないところを雪煙を上げて下ってみたくなる。しばし童心に返って斜面をみんな思い思いにかけ下り始める。雪はひとの心の中まで洗い流してくれるのかも知れない。
ヒュッテで小休止を取った後、まだ山頂の眺望の興奮が覚めやらぬ面持ちのまま往路を戻る。陰り始めた雪道だが、斜面の加減か、時折急な日射しに林が俄にわきかえって驚くことがある。わざと踏み跡を外しながら雪の感触を楽しむうちに林道に飛び出し、15時半にはバスの待つトンネルの入口に到着した。
この日の温泉は杉の湯である。30分とかからず着けるのだが、この日は到着して起こしてもらうまで不覚にも眠りこけてしまった。ループトンネルのところまではよく覚えているのだが、その後は全く記憶が途切れてしまっている。雪道は思いのほか体力を消耗するということかも知れない。もうずいぶんこのバスツアーには参加しているけれど、こんなのは初めてである。ご丁寧に夢まで見ていたくらいだから、もしも起こしていただかなかったらそのまま眠り続けていたに違いない。
考えてみるとこの日は結構ポカが多かった。まず朝出掛けに防寒着を羽織らぬまま飛び出そうとした。持ち歩いているデジカメの小さなネジが途中でなくなっているのに気付いた。なくなるまで緩んでいることに気付きさえしなかった……。しかし、とにもかくにも昨年同様眺望に恵まれた山旅を無事終えることができたのである。この事実は他のなにものにも代えがたい。この一日の充実した山旅を与えられたことにひたすら感謝である。
ラベル: 奈良 季節
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2015年02月14日

三村夫人と『楡の家』のことなど

今年の冬は長く厳しい。冬型が持続するわけでは必ずしもなく、結構頻繁に低気圧が通過し短い周期で変化している割には、春の気配にはまだほど遠い。立春も過ぎて、日射しが恢復してきている分、今までぬくもりを与えてくれていた太陽が雪雲に覆われてどんよりしてしまうと、一層北風が身に滲みる。考えてみれば真夏はせいぜいふた月である。それに比べると真冬は少なくとも3ヶ月には及ぶ。それだけ待ちに待った春がやって来たときの喜びもまたひとしおなのである。
さて、12月に三浦綾子さんの『ひつじが丘』を再読したあと、読書の方はどうもサボり気味である。元々通勤の往復だけなので、さほどの時間を充てられない上に、ここのところバスではバッハのカンタータを聴きながら半分うつらうつらしていることが多く、そうなると電車は片道僅か7分余りの電車の中だけでは、微々たる量しか読めない。せっかく本の世界に没入し始めたところで時間切れとなってしまうのである。

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そんな限られた条件下でふと再読したくなって読んだ小説が2冊ある。ひとつは『リトル・ドリット』である。イギリスの文豪ディケンズの名作だが、まだ4分冊の1冊めなので先は長いのだが、これは本当に読めば読むほどにいとおしくなるような小説である(結構辛口ではある)。
それはそうと外国文学は翻訳の良し悪しでどうにでもなるということだけは大書しておきたい。ちくま文庫で出ている小池滋さんの訳で読んでいるのだけれど、小池滋さんの翻訳は本当にすばらしい。小池滋さんの書くものには学生時代に『英国鉄道物語』で初めて触れて、なるほどと感服した記憶がある。装幀も瀟洒ですてきな本だった。元々英文学の方で、本業に触れるのは『リトル・ドリット』が最初だったが、翻訳の域を遙かに超えたこなれた文章であり、日本語として優れているのである。再読していてどこまでがディケンズでどこまでが小池さんかと見紛うばかりである。ひと手間もふた手間もかけた翻訳に違いない。同じちくま文庫からはディケンズの作品がいろんな方の翻訳で出ているけれど、『リトル・ドリット』はまさにピカ一で、これに並ぶものは他にない。翻訳がダメであるばかりに作品そのものの評価まで下がってしまうのではディケンズがまことに気の毒である。
『リトル・ドリット』は相当にきつい風刺が効いているので、ディケンズの作品の中では問題作のようである。しかし、社会に対する見方という点では、充分21世紀にも通用する作品といえ、とても150年以上も前に書かれた(1855年から1857年まで月刊誌に連載)小説とは思えない実在感がある。ディケンズその人の筆の底力を感じさせて余りあるものがあるのである。そしてその上でなお、それを十全な形で現代に甦らせた小池滋氏の名訳の果たした功績は大きい。小池氏あっての現代の日本におけるディケンズといってよいだろう。例えば「迂遠省」。ディケンズの原語が何なのかは調べていないけれど、現実にはあり得ない命名ながら、これほど簡明直截、かつ適切な訳はないだろう。まあ、今日のところはこれくらいにしておく。

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もう1冊は『楡の家』。『菜穂子』の序章ともいえる堀辰雄の名作である。かつて『菜穂子・楡の家』として編まれた新潮文庫本で読んだのは、もうかれこれ40年も前のことであろうか。しかし、高校生だったぼくは『風立ちぬ』と『美しい村』には魅かれたものの、『菜穂子』には素直に共感できないものを感じたのだった。釈迢空をして感嘆せしめた(堀辰雄の死に際し「菜穂子の後 なほ大作のありけりと そらごとをだに 我に聞かせよ」という弔歌を詠んだという)というロマンだというのだが、そもそもロマンとはなんぞやというとこからしてぼくは理解できていなかったのであろう。片側にだけ雪を付けた列車の記憶が鮮明に残ってはいるけれども、都築明にせよ黒川圭介にせよ、充分に理解できていたとは思えない。ましてや黒川(三村)菜穂子の心の襞に触れることなどできようはずもなかったのである。そして何よりもこれからというところで中途半端なまま終わってしまう小説との印象しかもてなかったように思う。(以前このブログの「金沢で出会った堀辰雄夫人」の記事で、「『菜穂子』の未完の美しさにも大いに惹かれた。」と書いたのはそういう意味である。要は片側にだけ雪を付けた列車とか、情緒的な面だけしか読み取れていなかったわけで、共感できないというよりも、難しかったというのが本当のところなのだろう〈2015/2/15追記〉)
印象的な場面のある『菜穂子』はともかく、その序曲にあたる『楡の家』はさらに印象の薄いものだった。『楡の家』、美しいタイトルなのだが、一連のものとして読んだかどうかさえ怪しいところがある。それをたまたま読むきっかけになったのは、著作権の切れた名作を、iBooksで無料でダウンロードできることを知ったからである。青空文庫などの存在は知っていたけれど、パソコンでダウンロードして読もうという気は起きなかった。それがiPad-miniを手に入れることになった母が小説を読むのに便利だと言うのを聞き、iPhone6でも充分大きな活字で読めるに違いないと、少しばかり食指が動いたのである。さて、何をダウンロード使用かと考えたとき、真っ先に思い浮かんだのが『美しい村』と『風立ちぬ』だった(そのくらいぼくにとって小説の原点でもあるのだ)。そのついでにダウンロードしたのが、『菜穂子』『楡の家』や『晩夏』だった。よくよくみてみると、『菜穂子』の冒頭にも『楡の家』があるではないか。あれ? というわけで、『楡の家』が『菜穂子』のいわば序曲であったことをようやくにして思い出すことになったわけである。そんなこんなでまず『楡の家』を読んでみようということになったのである(結局『菜穂子』本体を読み進むうち、文庫本の『菜穂子』も買うことになってしまった。家にも文庫本はあったはずなのだが出てこず、仕方なくではあるが……。そして電子版と文庫版を行ったり来たりしながら読み進むという何とも不可思議な読書体験をすることになる)。
さて、『楡の家』はいずれも三村夫人が記した日記風の記述である第一部と第二部からなる。いずれも文庫本で30頁余りの分量である。第一部は1926年9月7日、第二部は1928年9月23日の日付をもつ(第一部が大正末年、第二部が昭和初めという時間軸の設定も意味のないものとは思われない)。その日に記したという体裁をとりつつ、それよりも過去の時が回想される形式をとるが、そこには記述している時も感懐の形で現われる。いわば時が重層的に積み上げられていくのである。
例えば、物語は三村夫人が将来そっくりそのままの山の家で偶然菜穂子が見つけて読み、母としての自分を見直してくれることを期待して日記を書き付ける場面から始まる。そこには今自分が好んで本を読んだり編物をしたりしている楡の木陰の腰かけが登場する。楡の木がこの腰かけに作る陰の絶え間ない変化は、三村夫人の心の不安、落ち着かない心を象徴するものでもあった。そしてこの腰かけこそが、第二部の三村夫人の日記の結末で三村夫人が狭心症に発作に見舞われた場であり、またさらにそのあとの追記で菜穂子が日記を楡の木の下に埋める決意を促すのだが、この腰かけ(丸木のベンチ)が置かれたのは第一部の終わり近く、森於菟彦の再訪の数日前のことだった。自明として始まった物の存在が実はそうではなかったことがさりげなく述べられるのである。
第二部は、三村夫人が慚愧の余り焼いてしまおうと思った日記を再び取り上げて書き継ぐことになった出来事が綴られてゆく。三村夫人と菜穂子との暖炉の火を見守りながらの対話、最後の葛藤の場面である。そしてその翌朝、三村夫人が楡の木の下のベンチで狭心症の発作に倒れる場面で切れて終わるけれども、それはおようさんと出会うことで、菜穂子との心の葛藤の無意味さを悟った三村夫人が一旦手記を焼こうとしたものの、爺やがその日に限って暖炉に火を入れるのが遅れたばかりに火にくべ損なってしまい、突如山荘に現われた菜穂子との暖炉の前での葛藤の場面を余儀なくされ、その贖罪に似た気持ちから再び手帳を取り上げて手記を書く決意をして書き進めてゆくうち、ちょうどのその葛藤の翌日に楡の木の下で発作に見舞われた場面まで書いたところで、二度目の狭心症の発作で危篤に陥って亡くなったためだった。よく注意して読まないと、重層的というより時が循環しているような錯覚も覚えてしまう。いったい自分が時間の円環のどこにいるのかわからなくなる不思議な感覚を味わうことになるのである。
初め自分が捨てた自分の過去を振り返りたくなかった菜穂子は、母の残した日記を読もうとはしなかった。母の三村夫人が自らのうちで作り上げた悩める菜穂子の姿から逃れたいばかりに母から逃れようとしていた菜穂子に対し、母である三村夫人は森於菟彦に魅かれる自分自身のことを菜穂子が立ち入って考えているうちに、菜穂子自身が母と同化してしまっていると思い込んでいる。菜穂子はそんな三村夫人に我慢がならない。自分はそんなことで悩んだりしたことは一度もないのに……。しかし、母に対するなつかしさ、一種の悔恨からその日記を最後まで読み通してしまった菜穂子は、いつのまにか母が倒れた楡の木の下のベンチに来てしまう。そして半ば壊れかけたその腰掛けを認めた瞬間、母と同化している自分自身に気付く。母の心の内にしか存在しなかったはずの、あれほど憤懣やるかたなかった姿に今自分がなってしまっていることに菜穂子は気付いたのである。第一部冒頭で三村夫人が願っていたように、菜穂子は菜穂子のゆえに苦しんでいた母の姿を懐かしんでしまっているわけである。それ故に感じる嫌悪にさえ近いものが、菜穂子をして母の日記を楡の木の下に埋めてしまうことを決意させる。私の悲劇的な姿などはほんの気なぐれな仮象に過ぎないとして、一度は手記を焼こうとした三村夫人とそっくり同じ行動に菜穂子は駆り立てられるのである。
自分たちが知らぬ間に起こり何事もなかったかのように過ぎ去って行く悲劇。思い出すのはラヴェルのピアノコンチェルトの第2楽章の中間部である。いつの間にか忍び寄ってきた嵐が静かにかつ一挙に高まったかと思うと、次の瞬間にはもう消えてなくなってしまっていて、明るくなった中に得も言われぬ喪失感だけが残っている。それによって初めて何が起こったのかが感知されてくる……。第一部に、裏の雑木林に自動車で乗り入れて訪ねて来た(その様子の一部始終を三村夫人は楡の木の陰に隠される形で見ているのである)森於菟彦とともに夕立に降り込められた三村夫人が、雷鳴が止んで日に光り出した草の葉を眺めているとき、突如ぱらぱらと大きな音に驚く場面がある。それは楡の木の葉のしずくする音だった。この明るさの中にある、明るいからこそ感知されてくる悲しさ、暗さである。
ロマネスクなものを追い求め、必死に思いとどまった三村夫人は、自身の姿に悩む菜穂子の姿を作り上げ、さらにそれに悩まされるのである。それは自身を悲劇の主人公に作り上げようとする三村夫人自身のロマネスクな物の追求の行き着く先であったといえるかも知れない。一方菜穂子はそうした母の性向を敢然と拒否する。しかし、そこに立ち向かおうとすればするほど、知らず知らずのうちに菜穂子は母と同化してしまっていくのである。三村夫人のいうように、主として感情から入っていく三村夫人に対し、理性から来る菜穂子という違いはあるかも知れない。しかし、過程はどうあれ行き着く先は同じなのである。ただ、三村夫人は悲劇の主人公になり得ても、菜穂子はなり得ない。手記を結局菜穂子に残した三村夫人と、楡の木の下に埋めた菜穂子との違いである。そこに菜穂子の悲劇はあった。
もちろん堀辰雄の描くロマンにあって、真の主人公は菜穂子であって、三村夫人ではない。しかし、どうしてもぼくは三村夫人の方に魅かれてしまう。それは今のぼく自身が年齢的に三村夫人に近いからかも知れないけれど(三村夫人は40代前半だろうから、ちょっと離れてしまってはいるが、30前の菜穂子よりは近いだろう)、『菜穂子』の都築明にも共感するものを覚えるから(黒川圭介にはあまりシンパシーを覚えないが)、一概にはなんともいえない。要は気質的に三村夫人なだけなのだろう。それに過去を振り返りつつ重層的に時間を積み上げて行く叙述に(その最たるものは漱石の「心」である)弱いのである。
堀辰雄の本来の意図からいったら、『菜穂子』も合わせて感想を書くべきなのだか、『菜穂子』も最後まで読み通しはしたものの、結局『楡の家』に戻って再三読み返す羽目に陥ってしまった次第なのである。どうしても『楡の家』を一つの完結した小説として読んでしまいたいという欲求に駆られてしまう。ぼくにとって、母と娘の葛藤自体がロマネスク以外の何者でもない。『楡の家』第一部は元々『物語の女』として、第二部は『目覚め』として書かれ、のちに『楡の家』第一部・第二部に改作され、さらに『菜穂子』の序曲として位置付けられて新たに刊行されることになる。堀辰雄自身『物語の女』の続編の構想には随分悩んだらしく、最終的には『菜穂子』として実を結ぶわけだが、『楡の家』は充分単独の物語として完結した内容をもつ。『菜穂子』には『楡の家』を回想、概括しているような記述があり、『楡の家』と一体というよりそれを前提として書かれているような趣が濃い。『菜穂子』をどう読むかはぼく自身まだ充分な解決をみていない。
なお、今回新たに買い求めたのは小学館文庫版で、これは『風立ちぬ・菜穂子』として編まれていて『風立ちぬ』も収められている。宮崎駿監督の『風立ちぬ』を当て込んだ編集・刊行であるのは明らかで、なくもがなの解説とともにけっしていただけるものではない。ただ、この2編がまとめられているのはありがたく、菜穂子としてまとめた上で、楡の家→菜穂子の順で収録しているのも見識ではあろう。それならば『ふるさとびと』もというのは、文字通りないものねだりに過ぎないだろうが。書棚の奥にしまってある筑摩書房版の全集(実家の引っ越しの際に小説を収めた2冊だけ辛うじて救出(?)してきた)で、旧字・旧仮名の本当の堀辰雄の世界に触れる時間があればと思いつつ、それは夢のまた夢という現実に引き戻されるのである。
ラベル:読書 日常 季節
posted by あきちゃん at 21:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする