2015年06月29日

『風立ちぬ』における「とき」の重層構造

堀辰雄の作品を再読して思いめぐらしたことを、、『楡の家』『菜穂子』『美しい村』と順に書きとめてきた。当然『風立ちぬ』も読んだのだけれど、なかなか考えがまとまらなくて、書くのが躊躇われた。昔から好きだった『美しい村』、今回新たに感銘を深くした三村夫人と菜穂子の物語、それらがぼくのうちで愛惜措く能わざる作品となるにつれ、『風立ちぬ』の魅力が一旦は下がるかに思えたのは事実だった。
しかし、何か心に引っかかるものがあって何度も読み返すうち、『風立ちぬ』は堀辰雄の作品の中でやはり別格との印象を強く持つようになった。昔はただ感傷的に読んできただけに過ぎなかったのではないか、今までの読みは『風立ちぬ』の表面をなでてきただけだったのではないか……、そんな思いさえ抱くようになった。

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一番気になったのは時間の感覚である。もちろん小説である以上、小説としての架空の、言い換えるなら、どこにおいてもよいという意味で普遍的な時間軸で読めば、それでよいのだと思う。「序曲」「春」「風立ちぬ」は確かにそれで読める。ところが、「冬」と「死のかげの谷」は年月日をもった日記風の体裁をとっていて、時間が特定された記述になっている。なぜ、この2つだけがそうなのか。作者の意図はどこにあるのか。
そこには「とき」の重層という問題があるように思う。つまりこういうことである。「風立ちぬ」の終わりの方で、私は節子とのFのサナトリウムでの生活を書き始める。そうしてできあがったのが、「序曲」と「風立ちぬ」だったことになっている(「春」は成立が遅れ、当初は「序曲」と「風立ちぬ」が一編の小説を成していた)。そこには、二つの「とき」の流れがある。a私と節子との主としてFのサナトリウムにおけるこれまでの生活という「とき」の流れと、b私が現に小説を書きながら節子と生活している「とき」、とである。節子との生活を過去から現在に向かって書き綴るうち、次第にそれは小説を書いている「いま」に近づいてきて、終いにはそれに追いついてしまう。そして二つの「とき」は同時に流れ始めるのである。
こうなると、もはや普遍的なときでは書き進められなくなる。「とき」に定点を与える必要が生じてくる。「冬」が年月日をもつ日記風の記載になる理由の一つはそこにあるのだろう。

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しかし、ずっとフィクションのまま書くこともできたはずである。作者はなぜここで二つの「とき」を敢えて一つにしようとしたのだろうか。一つ考えられるのは、小説全体の構想を練るうちに、節子の死という結末が浮かび上がってきたためとする見方である。節子との生活を実録風に書き進めながら死を迎えるという、小説の構成上の工夫とみるわけである。
ここでもう一つ忘れてならないのは、『風立ちぬ』が作者堀辰雄の実体験に基づいた小説だということである。フィクションとして構築されているのは間違いのない事実なのだけれど、そこには作者の意図するしないにかかわらず、事実の裏打ちがなされているのである。つまり、小説の中の私は別として、結末が死であることを少なくとも作者は既に知っていた。矢野綾子を実際に失った堀辰雄にとって、節子の死は厳然としてある事実だった。そうするとむしろ、節子の死をフィクションとして描くことができなかったという、実体験した者ならではの事情が浮かび上がってくるのである。
その場合、「とき」の重層という観点は、小説中のa・bに加えて、さらに複雑な様相を帯びてくることになる。つまり、c堀辰雄が矢野綾子と富士見のサナトリウムで綾子の死まで過ごした実際の「とき」がまずある。そして次に,d堀辰雄がこの作品を書いている「とき」が意味をもってくることになる。dは1936年10月で、cは1935年7月から12月まで。aは4月から12月までという設定で、前述のように10月から12月までについては1935年という特定の年代を与えなくてはいけないことになった。
死の床に向かう節子の描写が、堀辰雄の実体験に基づく限りなくノンフィクションに近い様相を帯びてきていることは、「冬」の真に感動的な幕切れが1935年12月5日であることに象徴的に示されていると思う。それは矢野綾子が亡くなった前日の日付なのである。

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確かに『風立ちぬ』に多くのフィクション性があるのは事実である。矢野綾子が富士見のサナトリウムに入ったのは、節子のように4月ではなくて、7月だった。堀辰雄が矢野綾子の生活の中で構想したのは、綾子との生活の一部始終ではなくて、「物語の女」の続編だった。だから、普通ならもう行き止まりだと思っているような所から始まる生活において、真に幸福を得ることができるのかという命題について考えたというのはフィクションであって、これはむしろ1936年にこれを執筆している時点での堀辰雄自身の命題なのである。
すなわち、矢野綾子との生活が真に幸福なものであったのかいうことに悩む堀辰雄自身の1936年段階の命題の解決の方途として、当初フィクションとして書き出された小説をノンフィクション性の高いものに変貌させてしまった、というよりも変貌させざるを得なかったとみるべきなのだと思う。
「冬」が実年代として時をもつようになるもう一つの理由は、このように読み取れると思う。そうであれば、「風立ちぬ」では辛うじて保たれていたフィクション性が、翌月に書かれてた「冬」に至って失われたのは、必然であったというべきなのだろう。
「冬」における私はまことに正直である。真に幸福だったといえるのかどうか、悩み惑う姿は痛々しいばかりだ。私=堀辰雄が、真に節子=綾子の死を受け入れられるようになるには、「死のかげの谷」を待たなくてはならなかったのである。
タグ:読書
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2015年06月16日

赤信号を平気で無視する人たち

梅雨に入って予報にも傘マークが並んでいるので、ジメジメとした梅雨になるかと思いきや、意外とさっぱりとした陽気が続いている。どちらかというと周期変化に近くて、前線がへばりつくような状況にはほど遠い。
陽気が落ち着いているというのに、世の中はどこか狂っているのではないかとしか思えないニュースばかりが流れてくる。北海道で家族4人がなくなった事故は、初め事情がよく飲み込めなくていたが、次第に情報が明らかになるにつれ、人間性のかけらもないとんでもない事故であることがわかってきた。飲酒、スピード違反、信号無視、そしてひき逃げ……、これが危険運転でなくていったい何か危険運転であろう、いやこれは紛う方なき殺人である。
犠牲になられた4人の家族の方々の無念はいかばかりであろう。ことに事故で車外に投げ出されたあと1,5㎞も引きずられたという息子さんの最期には言葉を失う。こんなことが現実にあっていいのだろうか。ニュースではもう言わなくなってしまったけれど、意識不明の重体だが一命を取りとめられた娘さんがいたはずである。なにがあっても生きてほしい。ただただ恢復を祈るばかりだ。

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この間久しぶりに車に乗って赤信号で止まっていたら、後ろからふらふらとやってきたバイクが右折レーンに入って行く。信号のかわりっぱなにさっと直進車の前を横切っていくのが多いから、これもその手かと思っていると、あろうことか、右折レーンから直進レーンにいるぼくの前に割り込み、そのまま交差点を直進して行ってしまった。T字路だから、左から来る車はいないのだが、あまりにあからさまな信号無視に開いた口が塞がらなかった。
信号無視をするバイクや車を時たま見かけるようになってもうどれくらいになるだろう。1989年に奈良に越してくるまで、生まれてからずっと東京暮らしだった。22歳の時に免許を取りそのあとずっと車を使う生活で、年間1万㎞程度は普通に乗っていただろう。でも、東京であからさまな信号無視は見かけたことがなかった。
関西に移ってもそれは別段変わりはなかった。もちろんこちらのルールには戸惑うことも多かった。さっきも書いたように信号の変わりっぱなはまず右折車が優先とばかりに直進車の前を横切って行く。何でも早い者勝ちで行儀も何もあったものではない。黄色で止まると思い切りクラクションを鳴らされ、つながって行く限りは、とっくに信号が赤になっていてもまだ青の続きと思われている節がある。それでもあからさまな信号無視だけはけっしてお目にかからなかった
そんな常識が崩れ始めたのはいつ頃からだったろうか。前世紀の終わり頃からだろうか。初めはバイク、それも若い人のミニバイクが多かったように思う。自転車の感覚で乗っているからかも知れないと思っていたら、そのうちに四輪でも赤信号を平気で突っ込む車を見かけるようになった。
もちろん人間の決めたことである。不合理な点がある場合もあるかも知れない。でも最低限の約束事を守らないのなら、決まりを作る意味はない。もし万一不合理な部分があってそれがまずいというのであれば、それを改めることをまず考えるべきだ。自分勝手によくないと決めつけて、それを改めようともしないまま、決まりを無視するのはやはりおかしい。よしと思って決めた以上、まずはそれを守らないでどうするというのだろうか。交通ルール一つにしたって、最低限守らねばならないと考える部分について、暗黙の了解があったはずである。赤信号で止まるというのは、その基本中の基本だったはずではないか。平気で一線を越えてしまい、それを何とも思わないでいる。しかも、赤信号を無視する人たちは、確信犯でそれを超えるのだから、もっと質が悪いのである。

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とまあここまで書いてきて、あれ、これってどこかで聞いた話ではないかとふと思い当たった。あまりこの手のことは書かないつもりできたけれど、書かずにはいられない(前回書いたのは去年の憲法記念日だったと思う)。それは10中8・9の学者が憲法違反だと批判する安全保障関連法案を提出して成立を狙う今の首相と政権のことだ。安全保障関連法案の成立に固執する政府の姿勢は、まさに赤信号を無視して渡ろうとしている車そのものだ。70年前を通り越して100年前を美化する、こんな稚拙な人に日本の政治を任せた覚えはない。
ぼくが子どもの頃、いつ終わるとも知れない自民党政権が続いていた。それでも当時は超えてはならぬ一線は堅持していたように思う。今の政治にはその歯止めが全くない。ある憲法学者が、憲法を無視した政治を行おうとしている以上独裁の始まりだと指摘したという。その通りだと思う。自分の先祖の夢を追いかけるのまで止めはしないが、お願いだから国民を巻き込まないでほしい。青信号だと詭弁をまくし立てて赤信号を無視し、多数の国民が犠牲にされたのではたまったものではない。青信号を盲進してただあとからついて信号を突っ切ろうとする人たち、はたまたあろうことか赤信号無視の車にすり寄ってこれに酒を飲ませようとしている人たちもいる。彼らには人間としての良心というものはないのだろうか。北海道の事故は、まさにそうした世の中の構図を象徴してあまりある事故にも思えてくる。的外れの比較の引き合いに出すのは亡くなったご家族の方々には非礼の謗りを免れないかも知れないが、今の状況を見るにつけ書かずにはいられなくなった。事故で亡くなったご家族のご冥福を心からお祈りするとともに、日本の国に痛ましい事故が起きないことを切に願うばかりだ。
タグ:日常 季節
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2015年06月07日

福岡でサザエさんに出会う

一瞬目を疑ってしまった。「サザエさん通り」の看板、そしてサザエさんのシルエット。いったいどうしてこんなところに……。場所は福岡、地下鉄の西新駅を出たところの、修猷館や西南学院方面へ曲がる交差点である。いつもは信号を渡らずに右折するのだけれど、今日は看板に引かれて交差点を横断し、いつもと反対側を行くことにした。
サザエさんといえば、ぼくなどどうしても世田谷の桜新町が思い浮かぶ。残念ながらまだ一度も訪ねる機会がないままなのだが、長谷川町子美術館イメージが大きいのである。そしてなによりも日曜日の夜6時半から30分の8チャンネルでのアニメのサザエさん。これとともに育ったと言ってもいいくらいの世代だ。もちろん朝日新聞の連載のサザエさんもあった訣だし、それを集めた姉妹社のサザエさんのシリーズもあった。特に、漫画のサザエさんは何巻か買って持っていたのでなつかしいけれど、新聞の方はわが家は読売だったものだから、連載にお目にかかることはなかった。朝日を取っている親戚の家が羨ましくはあったが、単行本で読むならともかく、4コマ漫画の本当のおもしろさはやはり小学生には無理というものだったろう。
それにテレビアニメのサザエさんは、キャラクターの顔一つとっても、新聞連載のサザエさんとはまた一つ進化を遂げたものだったと言えるかも知れない。あれはやはり別物のような気もする。ぼく自身にとってのサザエさんといえば、テレビのサザエさんなのかも知れない。子どもにとって、最初の印象は強烈であって、例えばかなり早い段階でマスオさんの声が近石真介(ラジオのパーソナリティーとして著名な人だった)から別の人に変わったのだが、この新しい声のマスオさんをぼくは受け付けられなくて、いつまでたっても違和感を感じないではいられなかった。
ついでながらこれもぼくが小学生の低学年だった頃だから60年代の後半のことだと思うが、ドラマの実写版のサザエさんが放映されたことがあった。ところがこれが確か9時からだったかで放送時間が遅くて、起きているのがたいへんだった。だいたい8時には寝かせられていた口だったから、7時半にはもう眠くなり始め、8時を越すのが一苦労。それから1時間もののドラマかなにかをどうにかこうにかやっとこさ持ちこたえたとしても、肝心のサザエさんが始まる頃にはもう船を漕いでいる始末で、筋も何もあったものではなかった。それにアニメの印象があまりにも強烈で、そう簡単に溶け込めるものでもなく、ドラマ自体が何回続いたのかも知らないけれど、そんなことを2、3回繰り返しただけで終わってしまった。
という訣でサザエさん自体はほとんど身体に染みついているようなものなのだが、福岡の方にはたいへん申し訳ない話だけれども、福岡とサザエさんがどうしても結び付かなかったのである。しかし、よくよく考えてみると、これまた一世を風靡した連続テレビ小説「マー姉ちゃん」で、長谷川家は元々福岡で暮らしていたのを見た記憶が微かにある。サザエさん通りを歩いていて見つけた「サザエさん発案の地」の案内板に、そこのところが詳しく説明してあった。サザエさんの新聞連載の始まりは、福岡の新聞「夕刊フクニチ」だったとのこと。それを読むと、なるほどサザエさん一家の命名の謎も解けたのだった。ここ百道(ももち)の浜の海岸が、文字通りサザエさん発祥の地だったのである。
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〔サザエさん発案の地のサイン〕

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〔磯野広場にて〕

根が単純なこともあり、福岡まで来て思わぬサザエさんの歓迎を受け、しかもこの季節にしてはからりとした過ごしやすい陽気だったこともあり、何だかとても得をした気分になってしまった。
それにしてもなぜこれまでこんなモニュメントに気付かなかったのだろうと思って調べてみたら、それもそのはず、案内サインの設置は今年の3月で、まだ2ヶ月あまりしか経っていないのである。案内サインは7カ所にあり、サザエさん通りの命名は3年前の2012年に遡るという。いろんなイベントも行われているらしく、出かける際の楽しみがまた一つ増えることになった。
タグ:記憶
posted by あきちゃん at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする