2015年07月29日

「風立ちぬ」を読む2─『風立ちぬ』断章4

少し間が空いてしまったが、堀辰雄の連作『風立ちぬ』の核心である「風立ちぬ」の自分なりの読み解きを続けていくことにする。前回Ⅲまで書いたので、引き続きⅣから。今回はⅥまで。つづきはまた。

Ⅳ 夕暮(岩波文庫103-108頁、新潮文庫122-127頁)
本節は「風立ちぬ」前半の山場ともいえる節である。ことに3つに分かれた真ん中の部分では、私と節子の生きた証の根源とも言える経験が語られる。あたりの山だの丘だの松林だの山畑だのの見慣れた景色が、向こうの山の背に沈んでまもない夕日を受けてまだ半ば鮮やかな茜色を帯びながら、半ばまだ不確かなような鼠色に徐々に侵食されてゆく瞬間の異様な美しさを、私はバルコンから、節子はベットの上から眺めている。
私はそこに幸福そのものの完全な姿を見出し、自分たちが長生きしてこの夕暮れが心に蘇ることがあったなら、どんなに美しいかと夢見ている。しかし、節子はそうではない。「自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだ」という私がかつて語った言葉を思い起こし、死の間際の美しさを思い浮かべているのである。茜色は生の、灰色は死の象徴なのである。
初め私はそのことに気付かずにいるが、その光景に一種の苛立たしさを感じ始め、その正体がわからずに苦しむ。節子はそんな私の気持ちを慮って「そんなにいつまでも生きていられたらいいわね」とかわすのであるが、その晩節子はそんなことを言ってしまったことを詫びて、今度こそ「つい」なのであるが、本心を語ってしまう。私はその言葉にハッとし羞恥する。
とはいえ作中の私は、節子の魂がおれの眼を通しておれの流儀で夢見ていたこと、美しいと思ったのがおれではなく、おれたちであったことを、一つの思想として理解する。それは一瞬時の異様な美しさの光景を、二人の幸福を最後まで持って行けそうな気がしながら眺めた経験として彼らの一部分となり、その存在の証として位置付けられるようになってゆくのである(「冬」11月20日の節)。
4節めにしていきなり「クライマックス」に達してしまったかとさえ思われる、「風立ちぬ」の中でも、特に印象的な節である。

ところで、「風立ちぬ」のこの光景の描写でいつも思い出す曲がある。それは、リヒャルト・シュトラウスの「四つの最後の歌」の中の終曲「夕映えの中で」。リヒャルト・シュトラウスが晩年に到達した境地を余すところなく伝える曲で、そこには本当に死の一歩手前というか、此岸なのか彼岸なのかもわからないような得も言われぬ世界が現出する。亡くなる前年の1948年の作で、アイヒェンドルフの諦観に満ちた詩に曲が付けられている。「風立ちぬ」が書かれ時にはまだ存在していなかった曲だし、シュトラウスが「風立ちぬ」を読んでいたはずもないのだけれど、そこには通じるものがある。しかし、85歳のシュトラウスの境地を32歳になる直前の堀辰雄が若々しい感覚で描いているというのが驚異的であるともいえる訣で、なにか不思議な感慨を覚えるのである。

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Ⅴ 夏(岩波文庫108-112頁、新潮文庫127-131頁)
前節の大きな山を越えたあと、物語はまことに淡々と進み始める。というか、物語そのものではなくその背景となっている季節がゆっくりと、しかし確実に動いていくといった方がいいかも知れない。Ⅳ節において、時間というものから全く抜け出してしまった感覚が語られていたが、まさにそうした日々が繰り返されるなかで、心臓の鼓動さえ共にしながら、季節だけが淡々とうつろってゆく。
ある日節子に顔色の悪さを指摘され、少しは散歩くらいなさらなくてはと言われた私は、病院の中を随分行ったり来たりしているんだがなあと言い訣をしつつ、もうそれ以上そんな話題を進めないために、病院の中で見た光景を語る。空を競馬場に、動いている雲をいろいろな動物に見立て合っている年少の患者たちのこと、いつも付き添い看護婦の腕にすがってあてもなしに廊下を往復している気味の悪いくらい背が高い神経衰弱の患者のこと、そして気持ちの悪いぞっとするような咳を耳にする例の17号室のサナトリウム中で一番重症の患者のこと……。
そこからも暗示されるように、そんな日々のなかで、着実に増してくるものがあった。死の匂いである。生の幸福にいくぶん含まれていた死の味は、徐々に濃さを増してゆく。それはサナトリウムの中を嵐のように暴れまわり始める。そしてそれは病人に神経的な咳をもたらす。真っ暗な中、一人で怯えてでもいたように、大きく眼を見開いて私を見つめる節子。季節は着実に節子の健康を蝕みつつ、いつの間にかふっと過ぎ去ってゆく。

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Ⅵ 棺(岩波文庫112-116頁、新潮文庫132-136頁)
急に衰える夏。九月に入ると、降ったり止んだりしていた荒れ模様の雨が、小止みなく降り続くようになる。木の葉を黄ばませるというよりは、一気に腐らせるかとみえる雨、これまた激烈な表現である。ここで間髪入れず登場するのが、裏の雑木林から音をひきもぐ風である。風のない日は終日雨が屋根伝いにバルコンの上に落ちる音を聞く。そして、雨がやっと霧に似出した日、中庭に咲き乱れる花々を摘む看護婦の姿に、17号室の重症患者の死を悟るのである。野菊やコスモスが死の象徴として語られる。
その日とうとう一日じゅう病人の顔をまともに見られなかった私は、不安や恐怖で二人が二人で別々に物事を考え出し始めているのを感じて苦しむ。そして今まですっかり記憶から遠のいていた、病人がサナトリウムに到着した雪の降る晩に見たという、死者となって棺に横たわり冬枯れの野原を横切る夢を、ひょっくりと思い出してしまう。聞き出したのはたぶんずっと前なのである。しかし、ここで初めて語られることによって、読者の脳裏にこの夢は何度も谺し始めることになる。
そんな霧のような雨が降り続くうち、季節は既にもう次へと動いている。17号室の患者の死が、戻り始めた夏前の寂しさを一層際立たせる。9月末のある日、霧深い裏の雑木林で栗の木を切り倒し始めているのを目撃する。重症患者の死から一週間と立たないうちに引き続いて起こった思いがけない死に、思わず私はホッとする。節子にまとわりつき始めた死のイメージを一時的にせよ払拭してくれたことで、その陰惨な死から受けたであろう気味悪さすら覚えずにいてしまうのである。縊死現場の栗の木を切り倒した跡は花壇に造り替えられる。ここでも死と花とが結びつけられてゆく。(つづく)
ラベル:読書 音楽
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2015年07月27日

夏の夜の夢─夢の記憶30

バスを降りてふと見上げると、天上に暮れ残る青空の中で、筋のような雲たちだけが赤く輝いている。その下側は青色が徐々に淡い水色に変化していっていて、水平線の直上に帯状に残るオレンジ色の夕焼けに隣り合う部分は、とろんととろけたクリームのような、えも言われぬ水色になっている。天上の赤と水平線のオレンジ色との対比がひときわ見事だ。こんな夕焼けもあるんだ、と思わずうならされてしまった。九州には台風12号が上陸したというのに、こんな夕焼けが見られるのは思ってもみなかった。真夏の入道雲を伴うような夕焼けとは似ても似つかないような光景で、ある意味台風の遠い影響なのかも知れない。
夏の夕焼け.jpg
〔夏の夕焼け〕
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立て続けに夢を見る。長女と電車に乗っている。JRではなくてどこかの私鉄の雰囲気である、降りるべき駅を乗り過ごしてしまい、さてどうしたものかと考えている。スマホで現在地を調べようとするのだが、うまく検索できない。隣に座っている小さな男の子がやってきて、なんだそんなのがわからない、というかのように、半分バカにしたような顔でのぞき込んでくる。持って行かれそうにあって慌ててスマホを引っ込める。
やっと次の駅で電車を降りて、仕方なく反対方向の電車で今来た方向に戻ろうとするのだが、乗り場が見当たらない。そんなはずはないと思ってホームを探すのだが、それがないのである。それもそのはずで、電車の線路はいつの間にか路面電車になっている。路面電車ならばと道沿いに戻ると、交差点の手前の角にバス停がある。さまざまな路線のバスが来るらしく、複雑な案内がある。どれでも乗って行けそうだな。降りてから結構歩かなくてはいけないかも知れない。ふと気付いて、あれ、電車はと、探すと、一応道路上に路面電車の線路はあるようで、納得はしている。その頃には最初一緒に電車に乗っていた長女がいつの間にか見当たらなくなっていた。
バスがやって来るようだ。もう電車から路面電車へ、そしてバスへとスライドしてしまっていて、それを変に思わなくなっていたらしい。「五反田」という行き先表示が見える。なんで突然東京の地名が、という詮索は抜きにするとして、ああこれなら乗って行けると安心して、乗る準備を始めていると、そのバスはスピードを緩めることもなくバス停を通り過ぎて交差点を直進して行ってしまった。バス停には他にも何人か待っていたが、誰もなんにも思っていないらしく、ぼくみたいに慌てている人はいない。止まらないのを知っているらしい。そのうち、電車が見えてきた。路面電車なのか、元のような電車なのか、記憶が掬えなくてわからない。果たしてそれに乗ったのかどうかも覚えていない。
これとつながる夢なのか別々の夢なのか、今となっては全くいかんともしがたいけれど、場面はいつの間にか、乾杯の場面に移っている。叔父がいたように思う。まさにビールを注いでいるところだが、大瓶5本があるきりである。これじゃあ足りるはずもないけどなあと思いつつ注いでいる。しかし、乾杯に至った記憶はないままで、そのまま目覚めたのだか、また別の眠りに就いたのだか、曖昧模糊としたままである。

          §           §           §

書いてみるとたったこれだけのことなのだが、目覚めた直後には、ずいぶんとまあ複雑に展開していくいつになく長い夢だったなあと感心したことだけは覚えている。しかし、その時点で記憶がどんどんこぼれ始めていて、本当にまるでザルで水を掬い上げているような気がする。掬い上げたつもりでいてもすぐに流れて行ってしまう。いつの間にか蒸発、あるいは揮発してしまっているといってもよい。なにかこう実態感すらなくなってしまうのだから。
でもその消え方が夢によって微妙に異なるのはどうしてだろう。夢を見たことすら忘れてしまう夢もある。大半の夢はそんななのかも知れないな、ふと思ったりもする。記憶に残らない方が幸せな夢もあるんだろうな。
ラベル: 日常 天気 季節
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2015年07月25日

記憶を掬い上げること─夢の記憶29

実家にいるらしい。夕方18時台の大阪行きの飛行機を、どういう訣だかわからないけれど、母が予約してくれたという。ありがたい、新幹線よりは随分と時間が節約できる。それに間に合うように家を出るには、羽田と思われるその空港まで概ね1時間。地下鉄に乗ってあそこでこう乗り換えれば充分間に合うだろう。でも、18時台といっても、18時何分かで、家を出るリミットは大幅に変わってくる。いったい何分発のどこの会社のを取ってくれたんだろう。調べようにも本数が多過ぎてわかりようがない。
それで早めに、そう17時半には着いているようすればいいということにはなるが、さっさと出発しようとしたつもりが、忘れ物をした風情で家に舞い戻ってきてしまっていた。そしてなぜかのんびりと風呂に浸かっていたりしている。しかもこれがまた昔風の木の風呂桶。ぼくの家にはまだ風呂がなく銭湯に通っていた頃、親戚の家で入ったことのある、小判型をして上がり湯の部分がついている、あの懐かしいお風呂である。いったい髪の毛は乾くのだろうかなどと心配しながら、悠長に身体を流している。母の姿は見当たらない。
それでも風呂はさっさと切り上げて、空港に向かい始めはしたようだ。電車に乗っている。しかし、なぜかまた寄り道をしている。今度は大学に来ているらしい。学部時代の同級生で、今も仕事上で付き合いのあるY君に、さっきどこかで開けていくつか食べてしまった箱詰めのお菓子を、そのまま箱ごと渡そうとしている。ふつうなら持って帰って自分遣いにするところだ。結構名のある銘菓だったような記憶があるからなおさらだ。ところが、どういう風の吹き回しか、Y君以外にもそこに残っている人たちみんなで食べてもらおうと、ひどく気前のよいことを考えたらしい。夢の中ではお菓子も特定できたのだが、今となってはどこのなんというお菓子だったか見当さえ付かないのが残念だ。

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記憶に掬い上げることができた夢は本当に久しぶりだ。それでもずいぶんと掬いこぼしてしまったような気がする。『風立ちぬ』で重層する時間について考えていると、そもそも時間とはなんなんだろうという、根本的な命題に突き当たる。その最たるものが夢だ。夢は理屈を超えたなんでもありの時間の世界を認識させてくれる。夢の中に、時間を読み解くカギが隠されているのではないか、夢を掬い上げてみようというのもそんな思いに端を発しているいってもよい。
最近偶然書店で見つけ、思わず買ってしまった夢の本を一つ。アントニオ・タブッキの『夢のなかの夢』(岩波文庫。和田忠彦訳)。歴史上の人物20人が見たかも知れない20の夢を、イタリア現代文学の鬼才タブッキが、縦横に浮かび上がらせる。初版は青土社1994年刊、岩波文庫としての刊行は2013年だが、これまで全く知らずにいた本だ。本文は120頁に満たず、しかも活字が大きい。さらっと読めるが……。深淵がぽっかりと口を開けているような夢ばかりである。まだまだタブッキのしかけた夢を読み解くにはほど遠い、そんな気がする。
なぜタブッキの名が目に飛び込んできたのか。それは聞き覚えのある名だったからなのだが、すぐにはどこでどう聞きかじったのかは思い出せなかった。まあ540円+税ならばいいか、というわけで、衝動買いもいいところなのだが、家に帰って調べるうちに、やはりそうだった。インド夜想曲、遠い水平線、供述によるとペレイラは、逆さまゲームなど、須賀敦子さんの翻訳による作品の数々が本棚を飾っていた(いずれも、白水Uブックス)。レクイエムなど須賀さん以外の訳者によるものもある。島とクジラと女をめぐる断想だけは、須賀さんの訳がありながら、入手しやすいものがなくて手許になく、読んでいない。
5年ほども前になるだろうか。須賀敦子さんの本を集中的に読んだことがあり、その時に須賀さんの翻訳ということで、タブッキの本も読みあさったのだった。悲しいかな、筋はほとんど記憶から飛んでいたけれど、お蔭でインド夜想曲を今も新鮮な驚きをもって読むことができたのだった。
そうしてインド夜想曲は、早速娘の元に旅立って行った。子どもたちのなかでは一番の読書家の長女がどんな感想を伝えてくるか、ちょっと楽しみでもある。まあ、半強制的にもたせたふうでもあるので、あまり期待はできないけれども、訳者のあとがきにある須賀さんの言葉ではないけれど、だまされたと思って読んでもらえたらいいな、と思う。
ラベル: 読書
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2015年07月19日

生まれて初めての経験

朝、どういう気まぐれからか珍しくパンではなく生卵をかけたご飯を食べようと思い、何気なく冷蔵庫から10個パックの卵の一つを取り出して割ったら、双子の卵だった。一瞬何が起きたのかわからず、割るのに失敗して黄身が潰れてしまったのかと思ってよくよく見てみると、明らかに黄身が2つ盛り上がっていて、初めて双子であることがわかった。
生まれてこの方あれこれ思い出してみても、こんな卵に遭遇した記憶は拾い上げることができない。当然鶏の卵にだって双子があっておかしくはないのに、これまで一度もお目にかからずに来た。恐らく1万のオーダーに達する数の卵は割ってきているだろう。その中に1つもなかったのがむしろ珍しいのか、そのへんはよくわからないけれど、何にせよこの年で生まれて初めての経験というのは心が躍りもし、またある意味不安を引き起こさなくもない。
とはいえ、朝の忙しい時間にそう悠長なことも言っておられず、そのままかき混ぜて食べてしまった。普通の卵より均一にかき混ぜるのに時間がかかったような気がするものの、味に特段変わったことはなく、何も知らなければそのまま食べてお終いだっただろう。
双子の卵.JPG
〔生まれて初めての双子の卵〕


          §           §           §

朝からこんな事に出会った日はいったいどうなるのだろうと、食べながら思っていた記憶はあるが、玄関を出る頃にはもうすっかり忘れてしまっているのだから、我ながら暢気なものである。1日過ごして別に目新しいことも置きず、そのまま双子の卵に遭遇したことを思い出すこともなく、夜まで過ごしてしまった。
土曜日も含めると3連休であることもあり、前の晩に連絡をよこし久しぶりに帰宅するといっていた長女が、予定より早くやって来るという。ホールのチーズケーキをぶら下げていくけど家にいるかというので、心配なくと返事し期待していたのだったが、1日はやくチーズケーキを食べられることになった。
4月以来の帰宅なので、あれこれ積もる会話をする中で、そうそう生まれて初めてっていう経験があってねという話になって、ええとあれ何だっけ、最近のことなんだけれど……。いつ、どんな経験だったのかが、全く思い出せないのである。一瞬の沈黙のあと、当の朝の現場に遭遇していた下の娘が事もなげに、双子の卵でしょ!、とフォローしてくれて事なきを得たのだった。
よもや今朝のことを忘れているとは思ってもみなかったので、恥ずかしいやら呆れるやら。健忘症の範疇ならまだマシだが、もうこうなると全く笑い事ではない。まあ、家族に笑いを提供できたことでよしとするか、と動揺する自分を納得させようとする。チーズケーキを満喫できたからよかったようなものの(?)、生まれて初めての経験がこんな終結を導こうとは。まあでもそんなものなのかも知れない。
娘持参のホールのチーズケーキ.JPG
〔娘持参のホールのチーズケーキ〕


          §           §           §

とここまで書いて来て、大きな間違いに気が付いた。これは土曜日の朝の経験でない。下の娘が目撃したのだから、これは台風の日の朝だったはずである。兵庫には暴風警報が出ているのに、奈良・京都・大阪は大雨だけで暴風警報が発令されておらず、休講かと思い込んでいてあてがはずれた娘と会話しながらのことだったのを思い出した。昔のことはよく覚えているのに、最近の記憶がみんな団子状になってしまっているのは、これは年を取った証拠だなと痛感する。
今回の台風11号は雨がものすごかった。神戸を初め、兵庫県の南部や和歌山では、24時間雨量の最大値を更新したところが多く出た。風はたいしたことなかったと娘に言ったら、神戸は朝方まではすごかったという。
それと、ぼくは近鉄しか使わないからそれほど感じたことはないが、荒天時の関西の私鉄の強さ、JRの弱さは今回も歴然だった。神戸から大阪に戻る上の娘は、JRが次の電車はいつ到着するかわかりませんとアナウンスしていたので、絶対の強さを誇る近鉄に連絡している阪神に乗ろうとしたら、たった4分で電車がやってきて、問題なく帰宅できたという。
土曜日になってもJRはかなりの路線で運転見合わせが続いていて、そのせいか並行する近鉄がいつにない混み方だった。もちろん安全が最優先なのはよいことだし、路床を盛り上げて通しているような場所が比較的多いなどの事情があるのかも知れないけれども、去年の台風でもそうだったように、止めてしまうのは簡単だが、大動脈としての責任を果たせるような努力は常に必要だとは思うのだが……。

          §           §           §

台風明けの今日は、午前中こそパットしない天気だったが、午後は次第に青空が広がり、犬と散歩に出かけた夕方には空の広さが印象的だった。どこかでまだウグイスがさえずっているかと思うと、アブラゼミに混じって夏の夕方の風物詩、ヒグラシの声が聞こえてくる。来週の予報には雨マークもなく、不自然な形ではあるが梅雨明けも間近なのだろう。昨日の朝など涼しくて、夏休み間近とは到底思えないほどだったが、やはり季節の辻褄どこかで一旦は合わさってくるかと見える。順調な夏の推移を祈るばかりだ。
ラベル:日常 天気 季節
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2015年07月16日

年に一度の命の洗濯(?)

昨日は年に1度の大仕事、とまではいかないけれど、身体の安全点検の日だった。まあ、半日コース程度であるから、これで何かひっかかったらおしまい、ともいわれているのだが、午前中だけとはいえ余計なことを忘れて自分と向き合えるはずの半日である。
病院が大阪の都心にあるので、年に1度通勤ラッシュに遭遇する日でもあるが、そこは始発に乗れる特権で座って行けるのだからありがたい。地下鉄の数駅だけ我慢すれば、それほどどうということなく病院に着けるのである。
ところが昨日はどうしたことか、上本町から谷町線に乗り換えようとすると、改札からして長蛇の列ができている。いったい何事かとともかく少しずつ前へ進むと、左右へは少しずつ人が流れていて、ホームの前後へは人の動きがある。それで先頭部分までくると、ホームの幅程度の列には収まっていた。
何でも信号機の故障があったのだそうである。盛んにアナウンスのお詫びが流れている。大幅な遅延が生じているのだというが、どうというもことなく電車が到着し、あれだけホームに人があふれかえっていたにしては、あっけなくドアが閉まって動き出した。とはいえ辛うじてドアに挟まれずにすむくらいの詰め込まれ方で、混み方が半端ではない。次の駅は反対側のドアが開いて、そのまま赤信号だとかで動き出さない。要するに次の電車との間隔が開くので、時間調整をしているのだろう。その次の駅は今へばりついている方のドアが開き、仕方なく一旦ホームに降りて再度電車に乗り込む。昔代々木と渋谷の間で行きも帰りも経験したあの殺人的な混雑を思い出してしまった。
そんなこんなで15分ほど遅刻はしたものの、滞りなく検査も済み、11時には病院を出ることができた。地下鉄の遅れの影響は結構あったようで、ぼくのあとにもまだ10人くらいの人が駆けつけていたようだ。
以前は逆コースを辿って勤務先に戻ったものだが、数年前から折角1年に1度のことでもあるし、大阪城を横切って環状線の駅まで歩くことにしている。ここ2、3年は天守閣の南側を回って森ノ宮へのルートが恒例だ。平日のこととて観光客はさほどでもないが、聞こえてくるのはほとんどが中国語だ。いったいはここはどこなのだろうかと錯覚を覚えながら大手門を潜る。

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〔大阪城西の丸庭園の芝生の広場〕
少し時間があるので、西ノ丸庭園に入ってみることにした。以前整備工事中とかで中に入れなかったので、いつか機会があればと思っていたところだ。200円の入園料を払う。正面に大阪迎賓館の建物が遠望され、そこまで広がる10,000坪という広大なカンカン照りの芝生が眩しい。元は北の政所の住まいで、後に家康が移り住み、その後は幕末までずっと大坂城代の屋敷として利用されたという。今でこそ開けっぴろげな空間だが、きっと多くの建物が建っていたに違いない。辛うじて、重要文化財に指定されている乾櫓・千貫櫓の2つと櫓と焔硝蔵が残り、往時の面影を留めている。
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〔千貫櫓への道〕

思い出すのは、ぼくが小学校3年の頃に公開されるようになった皇居東御苑である。武道館のある北の丸は比較的木々が多いし、皇居というと鬱蒼とした森という印象が強かったのだが、初めて東御苑に入ってみて、空の明るさに驚いた記憶がある。あの40年前以上の記憶が鮮やかに甦る。江戸城は天守台のみしか残らないけれど、ここ大阪城は西の丸を一周して芝生の広場を挟んで見上げる天守閣の、何ともあっけらかんとした景色が心地よい。西の濠に面して残る櫓の風情がまた素敵だ。
そう、大阪万博の年の真夏に訪れた大阪城天守閣の新鮮な驚きを思い出す。もう45年前の真夏の話である。あの時どこから入って天守閣に登ったのか、全然記憶がないけれど、とんでもなく大きな切石の石垣を見た覚えがあるから、やはり大手門からだったのだろうか。
石垣に懐かしさを覚えるのはなぜだろうか。それはやはり皇居のお濠や石垣を見て育ったからなのだろう。千鳥ヶ淵の首都高の工事現場へは祖父に手を引かれて足繁く通ったものだ。それは新見附の中央線沿いの濠端と並ぶ散歩コースだった。千鳥ヶ淵を南から望む堀端の道も懐かしい。近衛聯隊の荒れ果てたレンガの建物が目に浮かぶ。さらに北詰橋門から竹橋(毎日新聞社の丸いエレベータホールをもつ建物が目に浮かぶ)、清水濠、九段下を回って田安門へと周回する道……。北の丸公園で初めて自転車に乗れるようになったことなども……。とまあ、思い出せば切りがない年少の頃の思い出と結び付いているのだ。
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〔夏の大阪城と屋形船─西の丸庭園から─〕
ラベル:記憶 日常 建築
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