2015年09月26日

彼岸過ぎの彼岸花

5連休のあと、2日出勤してもう週末を迎えている。来週半ばには早くも10月の声を聞く。何とも慌ただしくひと月が過ぎようとしている。9月ってこんなに短かったかしら、というのが今年の正直な思いだ。最初の月曜日が7日だったというのも、気分的に大きく影響しているのかも知れないが、何よりも今月はいろんな事があり過ぎた。
秋の訪れが早かった割には深まりは今ひとつで、季節の進みは停滞している感がある。9月末というのは大型台風が一番列島にやって来やすい時期で、この時期を過ぎないと夏の太平洋高気圧の退場とはいかないわけである(実は理屈は逆で、太平洋高気圧が弱まってくるから台風が列島を直撃しなくなるのだが、逆に捉える方が感覚的にはわかりやすい)。折しも台風21号が発生し、その位置が列島を襲った多くの大型台風に近い場所だったのと、当初は北よりに進む予報も出ていたから、週明けが危ないと大きく身構えていたものだが、予想に反して暫く方向が定まらずにもたついている間に、北上の流れに乗り損ねたらしく、今のところ西に台湾方面を目指しているらしい。これから発達しかけているところだから、先島地方、特に石垣島は先日も大きな被害が出たばかりでもあるので、無事通過してくれることを祈らずにはいられない。

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ところで、月半ばに山に出かけたとき咲いている彼岸花を見て、今年の秋の到来の早さを目で実感した。彼岸の時期からすれば、10日近くも早かったわけである。随分南に位置するから単純な比較はできないけれども、去年は9月末の鹿児島で彼岸花にお目にかかった。30℃近い気温ではあったが、彼岸を少し過ぎていたとはいえ、ちゃんと季節には季節の花が咲くのである。
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〔9月末の鹿児島で見た彼岸花〕

そんな早い開花に気が付きはしたものの、いつのまにか彼岸も過ぎてしまい、気が付くと例年でも彼岸花が終わってしまう時期になっていた。やれやれ今年も彼岸花をじっくり見る機会を逸してしまったとほぞをかんだのである。というのも、彼岸花には昔から変な愛着があった。葉もない状態で花茎だけが伸びて咲き、しかも真紅のあの独特の反り返った姿態をしている繊細な花だし、普通墓地などによく見られ、咲く時期も時期なので、あまり縁起のいい花とは見られていない。しかし、植物図鑑でこれを見て、子どもながらにいっぺんに魅せられてしまったのである。曼珠沙華(マンジュシャゲ)という本名にもどこか異国風の響きがあって、そのツンとしたどこか超然とした風貌にぴったりだ。
ところがである、悲しいことにわが家の周辺で彼岸花を見かけられるところはどこにもなかったのである。探せど探せどお目にかかれない。花茎が伸びて花を付けるよく似たのを見つけて喜んでいたら、キツネノカミソリという別の花でがっかりしたこともある。そうこうするうちに、彼岸花探しにも飽きて忘れ去ること10年余り、二十歳になった頃だったと思うが、わが家に彼岸花が忽然とたった1本だけ現れたのである。植えたわけでもなく、球根で増えるわけだから、飛んできたとも考えにくいので、あるいは何かの花の土にくっついてきたものが、永年かけて成長して花を付けるようになったのかも知れない。まさに紛れもない曼珠沙華であった。ちょうどその時分には色鉛筆による花のスケッチに凝っていたので、早速画帳に描きとめたのはいうまでもない。その絵はしばらくぼくの宝物だった(何でそんなことを始めたのかといえば、木下杢太郎の『百花譜』に魅入られたのである)。
もう30年以上も前の思い出だが、奈良に来てから、畑や田んぼの畦道には、注意して見ていると、結構彼岸花がたくさん群をなして咲くのに気付くようになった。平城宮跡にもその昔の水田時代の名残か、結構な数の花が咲くことがわかった。いつか写真を撮りたいと思いながら、なかなか果たせずに来てしまった。気が付くともう秋が深まってとっくに彼岸花の季節が終わっているということの繰り返しだった。
そこで、咲き始めが早かったから、彼岸過ぎまで咲き残っていないかも知れないとは思いつつも、咲き残りが少しはあるのではないかと期待して、平城宮跡を横切って、新大宮まで歩いてみることにした。案の定、まとまった花にはお目にかかれなかったが、何とか遅咲きの花や、やや干からび始めた感のある群落に遭遇することもできた。土筆もそうだけれど、彼岸花は本当に季節のもので、旬が短い。ともかくも永年の懸案を果たすことができて、心が安まったことであった。
平城宮跡で見つけた彼岸花.JPG
〔平城宮跡で見つけた彼岸花〕

平城宮跡のはずれの彼岸花.JPG
〔平城宮跡のはずれの彼岸花〕
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2015年09月24日

「冬」を読む1─『風立ちぬ』断章6

時ならぬ秋の5連休に戸惑うことも多かったが、幸いお天気にも恵まれて、終わってみれば夏以来サボってきた家の周りの日課をまとめてこなすことができた。今年2度めの生け垣のプリペットの剪定、何とまあ今年初めての庭の芝刈り、そして来週日曜日の自治会の掃除でやるはずの家の裏側の遊歩道側の草引き。もっとも、以前はこれらを日曜1日でまとめて済ませたこともあった。しかし、もう体力が続かない。けっして暑くはなかった(結構汗はかかされたけれど)のに、剪定に2日、芝刈りに1日、草引きに1日と、4日に分けての実践となった。連休がなかったら、いったいどうなっていたのだろう。秋の5連休は、次は11年先だという。そんな先のことは知る由もないけれど、
連休直前に行われた暴挙については、今後も粘り強くたたかってゆくしかないが、老若男女こぞっての運動の盛り上がりには一筋の確かな光明を見る思いがする。子どもたちを、いや日本人を戦場に行かせないために、これからがまさに正念場だ。

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さて、堀辰雄の連作『風立ちぬ』の四作めに当たる作品「冬」については、ときの重層構造という視点から少し言及したみたことがあるけれど、「風立ちぬ」について書いたのと同じような方法で、自分なりに整理してみたいと思うようになった。重複する部分も出てこようし、以前書いたことと齟齬を来す部分があるかも知れないが、今の時点で感じることを思うままに書き綴ってみようと思うので、その点はどうかご容赦いただきたい。
以下、日付ごとにローマ数字で節番号を付け、「風立ちぬ」について試みたのと同様に、タイトルを付けてみることにする。

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Ⅰ 果実 1935年10月20日
午後私はサナトリウムに病人を残し、ひとり小さな谿流にかかる吊橋を渡り、対岸の栗の木の多い山に攀じ登る。そこで私は二人の物語の構想について思索に耽るのである。「風立ちぬ」の最終節における同じ対岸の森をさまよい続けた経験との関係は必ずしも明らかでないが、「いつものように」とあるから、仕事に取りかかる決心をしてからは、日課としてこの散歩を続けていたということなのだろう。
ただ、この最初の節に関する限り、漂い始めた死の影は微塵も感じられない。むしろ、一瞬『美しい村』の世界に戻ったかのような錯覚をさえ覚える。私の思索は、明るく、静かな気分に包まれており、水車や子どもたちという『美しい村』でおなじみのアイテムも登場する。サナトリウムで私の帰りをもじもじとしながら待っている節子の描写さえも、軽やかに見える。まさに、果実の収穫を前にした喜びの光景といってもよい。

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Ⅱ 朝明け 10月23日
しかし、それは一瞬の夢だったようだ。一見明るく聞こえる長調の方が、むしろ短調よりも哀しみの表現として切々と心に滲み入るのと同じかも知れない。一音加わることによって、長調は一瞬にして短調に変わる。同じ和音が次の動きによって長調にも短調にも連なり得るのをよく経験するが、あれと同じことだ。
明け方近く、すぐ身近でしたような異音に目を覚ました私は、その音があったばかりにかえって強調される静寂のなか、もう寝付かれなくなってしまう。そして「何をしようとしているのか自分でもわからないように」、隣室の節子のもとに駈け付ける。節子は既にその異音を何度も経験し、それが栗の実の落ちる音であることを知っていた。眠られぬ夜を毎晩過ごしていたのである。
怺えきれなくなった私は、病人の顔に自分の顔を押し付ける。私の顔の冷たさに一瞬たじろいだ節子の髪の毛が微かに匂う。二人はお互いのつく息を感じ合いながら頬ずりを続ける。センシュアルでありながら、美しくも悲しく切ない情景である。
しかし、その静寂を破ってまた栗が落ちる。我に返って節子から手を離し、窓辺によりかかって朝焼けの山を眺める私の頬を、いましがたどちらの眼から滲み出したのかもわからない熱いものが伝い落ちる。淡々としていながら、かえって読む者の心を激しく揺さぶらずにはいない核心に触れる描写である。
私を気遣う節子に気軽い言葉の一つもかけてやりたいと思いながら、私はついに言葉を出されずにいてしまう。畑では新しい一日が何事もなかったかのようにまた動き始める一方、私はいつも明け方にする抑えかねたような節子の激しい咳を、再び寝床に潜り込みながら何とも言われぬ不安な気持ちで聞くのだった。

          §           §           §

Ⅲ 残照 10月27日
「冬」の物語はここでいきなり核心に到達する。最終節とともに、「冬」のピークを形作る節である。ここでもまた『美しい村』の余韻がふとまた顔を出す。
いつものように、午後の山や森で物語の構想─真の婚約の主題、二人の人間がその余りにも短い一生の間をどれだけお互いに幸福にさせ合えるか─を練って過ごした私が、黄葉した落葉松林の縁を帰って来ると、サナトリウムの裏の雑木林のはずれに、夕方の斜行を浴びて髪を眩しいほど光らせながら立っている背の高い若い女性を認める。節子だった。私の心象風景なのか、現実の光景なのかわからない、まさに絵のような光景である。
ここで二人は初めて並んで八ヶ岳を眺める。節子はどちらかといえば八ヶ岳を無邪気に純真な気持ちで眺めているだけだが、私は二年前の夏を回顧する気持ちが強い。「序曲」のススキの茂る草原で秋風が立った日のこと、そして節子が東京に帰ったあとススキの間からほとんど悲しいくらいの気持ちで初めて八ヶ岳を眺めた秋の最後の日のことを懐かしく思い浮かべるのである。
最初の日々のような親わしい気持ちで肩を押し付け合って山々を眺めて佇む私たち。沈黙に落ちた私たちの上を音もなく横切って行く渡り鳥の群れ。影がだんだん長くなりながら草の上を這うがままに任せる私たち。できることならいつまでもそうしていたい……
雑木林の急なざわめきに時間の経過を覚えて、サナトリウムに戻ろうと雑木林に入る。私は節子を少し先に歩かせる。それは病身の節子を気遣ってのことだが、二年前の夏、彼女をよくみたいばかりに同じように彼女に二、三歩前を歩かせた頃の思い出(「序曲」に、「お前をすこし先きにやりながら」という描写がある)が、心臓を締め付けられるくらい私の胸にいっぱい溢れてくる。

          §           §           §

Ⅳ 明かり 11月2日
夜、私は病室の一つの明りの下で、私たちの生の幸福を主題にした物語をせっせと書き続けている。皆が行き止まりだと思っているところから始まっているような生の愉しさに形を与える作業─「風立ちぬ」の最後で私が決意した命題の実践である。時折目を上げると、いるのだかいないのだかわからないほど物静かに寝ていた節子が、じっと私を見つめ続けていたかのように私を見つめているのに気付くことがある。そうした愛情を込めた眼差しが、自分たちの幸福を信じさせ、それを物語に置き換える私の努力を助けてくれるのだった。節子と二人の共同作業である。
(つづく)
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2015年09月08日

成都・関空直行便の顛末

今回の中国行きは、往路は関空・北京便、復路は成都・関空の直行便を利用した。しかし、この直行便というのがなかなかのくせもので、いかにも中国的といってよいようなシステムだった。

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成都11:30が定刻なので、国際便ということもあり9時すぐには空港に入ったのに、チェックインが始まる気配がない。ようやく掲示が出たものの、10:20から10:50までだという。まるで国内線並みの時間、と思いつつチェックインを済ませると、10:50にまたここに集まれという。??という感じでそういうならしかたないなあと指定時刻に戻ると、さっきチェックインを担当した短髪の男性が20人ばかりのわれわれ乗客を引率して、港澳台(香港・澳門・台湾方面のカウンター)のさらに向こうにある16という搭乗口に連れて行ってくれた。
ここでまず手荷物のX線透視があり、別の便の人たちに続いて小室に入るとそこが検査場で、まずカウンターでパスポートとチケットのチェックの後(出国の押印はしない)、PCや金属製品を取り出す通常の手荷物検査とボディー・チェックを受けた。並んでいると小室の中の様子がわからないのと、すぐ脇で、手荷物検査で引っ掛かったらしい中国人の男の人が一人、警備担当者数人に取り囲まれていてやや険悪な雰囲気があり、先の様子がわからないのとで、なおさら不安と緊張を強いられた。
終わるとバスに乗せられ延々と移動。どうも位置からみて国際線でなく北に隣接する国内線の方に連れて行かれるらしい。そうとわかると、搭乗口番号に16と150が併記されていたことの謎がほぐれてきた。初めこれを見たとき、150はタラップ利用なのかなと思っていたのだが、実は国内線搭乗口の番号だったのである。出国手続きも南京なのであって、さっきのは国際線利用者に対する、国内線搭乗手続きだったのである。
バスを降りると、そのまま搭乗口に上がれるようになっていて、機内に入ると予想に反して中はほぼ満席。大阪まで行く国際線利用の人々の搭乗の前に、南京までの国内線を利用する乗客が既に搭乗を終えていた訣で、空席にあとから乗ったぼくらがすっぽり収まるという次第なのである。国際線カウンターでの乗客が余りに少なく、いったいこんなガラガラでどうするのだろう、南京で大挙して乗ってくるのだろうかと思ったりしていたのだったが、さすがにそんな無駄なことはしなかったという訣である。
つまり、成都・関空の直行便と銘打ってはいるものの、その実、成都・南京の国内便を延長する形で関空まで国際線として客を運ぶのである。成都・南京間の国内線利用か、南京・関空間の国際線利用の乗客が圧倒的に多く、ぼくらのような成都・関空の利用客はごく少ない。他にこういうのがあるのかどうかは知らないが、それを見越した上で、合理的で無駄のない運航を図るなかなか手の込んだ方法なのである。
そもそも国際線と国内線とでターミナルが異なっていて、どっちへ行けばいいのだろうと悩んだ末に、国際線の第一ターミナルに行ったのだった。その判断自体は正解だったものの、国内線としての大々的な利用までは見抜けなかった。ターミナルは、国際線として乗るか、国内線として乗るかという、客の実態に合わせた運用だったわけである。国内線として乗る客の中には、この飛行機が南京からさらに関空まで飛ぶことを知らぬまま(そんな不必要な情報を敢えて伝えることはしないかも知れないし)、純然たる国内線として乗っている人が多いのかも知れない。
と、ここまで謎は解けてきたものの、では南京ではいったいどんな動きをすればよいのだろう。機内のアナウンスに耳を傾けていると、どうも一旦全員降ろされるらしい。タラップを降りバスに乗って空港ビルに連れて行かれ、中に入ると、勝手知ったる人がいて、関空行きはここで待てばよいのだと教えてくれる。同行者には既にエスカレータで2階に上がってしまった人もいた。さてどうしたものかと思っていると、何と言うことはない、入口で待っている人も、同じエスカレーターで上に案内されるのである。下と上と2箇所で待ち構えているという次第なのだ。人がいるだけで、書いたものを掲げている訣でもなく、かといってよびかけている訣でもなく、国内線として乗った多くの乗客の流れに乗って出てしまうことだってあり得なくはない。そのへんは至っておおらかだ。案内に付いていくと、また手荷物の簡単なX線透視を受け、乗り継ぎ券を渡される。硬い紙のチケットである。日付だけ手書きで書き加えてある。
その先は道なり(途中で用を足す)で、いつのまにか出国検査場の脇に導かれていた。ここもなぜか団体用というゲートに並ばされ、ようやく正規の出国手続きを受ける。検査台の脇には簡単なものだが他では見たことのない自動で開く扉があり、また検査官(男性)が検査終了後、珍しく一人ひとりに笑顔が振りまいている。
手荷物検査では、PCやカギを元に戻そうとしていると、水はないかという。南京で出してきたばかりなので、自信を持って「ありません」と答えると、「ありません?」と哄笑され、あるはずだからリュックを開けろという。あるわけはないので、どうぞ気の済むまで開けてみてくださいと、中を探させると、一番底の方だといい、ゴソゴソやっていたが、まもなくあろうことか開封していない水のペットボトルが出てくるではないか! 思わずすみません、と誤ってしまったが、そういえば南京でも同じようなことを聞かれ、ないと答えたら何も言われず、そのまま通ってきてしまったのを思い出した。あれももしかしたら、ペットボトルの存在に気付いていたのかも知れないが、もしそうだとしたら、そのまま通すのは随分杜撰なことになる。実際はよくわからない。
やれやれと、これでやっと飛行機に戻れるかと思ってからからがまた長かった。延々と端まで歩かされたのである。一番端で1階に降り、ここからやっとバスに乗る。見覚えのある景色を逆に辿って、今度こそやっとさっきまで乗っていた飛行機に辿り着く。機材も入れ替え? でもそうなら荷物を仕分ける面倒はどうするんだろう? などと要らぬ心配までしていたのだったが、これで一応直行便の建前だけは崩さずに済んだことになる。
南京からの乗客はどのくらいいるのだろうと思いつつタラップを上がって機内に入ると、成都の時ほどではなく、たまたまぼくの席の隣は一つあいていたけれど、ほぼ満席状態。やっとこさでさっきまで座っていたなつかしい座席に戻れたのだった。
機材が変わらず荷物を預け直す必要はないという点では確かに直行便なのだが、乗客にとっては実質的には乗り継ぎに等しいものだった訣である。
出国手続きを終えて飛行機に戻る(南京空港にて).JPG
〔出国手続きを終えて飛行機に戻る(南京空港にて)〕

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こうした流れを初めから知っていれば別にどうということはないのかも知れない。しかし、次の自分がすべき行動を知らされぬまま、あちこち連れ回されるのは正直言ってくたびれるし、ストレスもたまる。機材を空っぽで無駄に飛ばさないという点ではとても合理的なシステムなのではあるにせよ、そのための人の動かし方、検査の仕方などには、いかにも中国というところもあって、もっと省力化できる部分もあるように思う。成都でのチェック・イン(10:20)から、関空で到着口から外に出る(18:40)まで、いや本当に長い旅であった。
なお、途中1回ずつ機内食が出た。昼にかかる成都・南京間では、ポーク焼きそばかチキンのあんかけ風のごはんが出て、そこそこのボリュームはあったが、国際線の南京・関空間は食事時を外れるためか、ベーコンの乗った味のないパンとモモ一切れ、それにお菓子が中心の軽いもので、国際線にしてはやや期待外れ。しかもコーヒーは甘いミルクコーヒーだし、コーラは気が抜けていて、アップルジュースが一番まともだった。
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〔鄭州発成都行の国内便の機内食。成都・南京間で出た機内食は、これと上記の焼きそば風の2種からの選択だった〕
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2015年09月06日

成都の印象と旅で出会った犬・列車

4年ぶりに中国を訪れた。久しぶりの訪問となる洛陽のほか、初めての成都も含まれ、充実した旅となった。成都は西安よりもさらに西の東経104度、大阪より経度にして約30度西に位置し、実質的には2時間のずれがある。
シルクロードの入口に相応しく乾燥した気候の西安に比べると、ほぼ30度線上にある成都は湿潤で雨も多い(それでも年間1000㎜ほどだから、日本の約3分の2)。標高は500m余りあるから大都会としては高い方だが、重慶も含めた大盆地の西北隅に位置し、ほぼ平坦であるという。こうした恵まれた自然環境にある成都は昔から物産豊かな地域として名高く、よく中華料理の店の名にもある天府の国とは成都のことをいうのだそうだ。
成都に入った晩、裏通りに面したホテルの周辺はかなり賑やかだったが、夜半前になって急に静かになったと思ったら雨が降り出していた。翌朝雨は上がっていて、外は結構ひんやりとした空気に覆われていた。適度な湿気がかえって心地よく、青空の見える日は珍しいという鄭州で汗ばむ好天に恵まれた直後の移動だったせいもあってか、この湿気の感覚にはホッとさせられた。20年前に年末の北京・洛陽・西安と回ったあと、上海を訪れて感じたあの安堵感の再現だ。
成都に来て、あれ?、というか、ホッとしたことがこの湿気の感覚の他にもいくつかある。一つは運転マナーのマイルドさである。洛陽の道路事情はすごかった。片側一車線の古い並木道を、少しでものろい車がいると、たとえ対向車があっても、ためらわずにセンターラインをはみ出して追い越して行く。そもそもセンターラインなどというものがないのである。新しい道は片側3、4車線の途轍もない規模なのだが、ここもまたあらゆる手段を尽くして、先を急ぐ車でごった返している。クラクションの洪水だ。当然(?)のことながら、ウィンカーなど無用の長物だ。ところが、成都の道路は静かで、ウィンカーもちゃんと機能している。しかも、歩いて横断していると、止まってくれる車さえあるのである。おかしな話だが、これには感激した。

成都の街角.JPG
〔成都の街角〕

町並みの印象も成都に来て感じた、北京や洛陽・西安とはちょっと異なる点の一つだろう。もちろん、この雑然とした感じは紛れもない中国だが、、高層ビルが建ち並ぶ中心街の景観を見ていると、日本にいるような錯覚を覚えてしまった。いやむしろ、日本の都会にはない近代的で垢抜けた感じといった方がいいかも知れない。北京でさえ(北京だからというべきなのかも知れないけれど)、日本の地方都市でよく感じるような違和感、近代的な町並みの中になにか調和しないものを感じるものだが、成都の町並みにはそれがない。町の全体的なまとめ方に無理を感じない。野暮ったさが少ないのである。さすがに裏通りに入れば、例えばホテルのある通りを室から見下ろすと、そこにはあの雑然とした中国が展開しているのだが、街路樹に寄りかかられているような蔦のからまったような古いビルに、不思議なぬくもりを感じる。これは20年前に初めて訪れた北京での、王府井でさえ、ホテルの裏側には日干レンガを積んだ昔ながらの家屋が展開していた中国の第一印象とは大いに異なる。むしろ上海のあのじんわりと心に滲み入ってくるものに近い。
蜀の都だったところだから、成都は漢民族が大半を占めてはいるのだが、四川省全体を見渡してみるなら、ここは彝族、羌族、蔵族、苗族を初めとする多くの異民族の居住地でもある。その点は陝西省も同じかも知れないが、西安はシルクロードの起点として、広く西方に開けている。一方、四川省の成都は西に8000m級にまで連なる山々が展開する。長江の本流は重慶から盆地を南回りで西方の山々へと遡ることになるが、いわば長江上流に展開する最後の平坦地、奥座敷といった面持ちの地域である。こうした環境の違いも、受ける印象の違いの原因なのかも知れない。

          §           §           §

2日めの昼食は龍抄手食府というところに出かけた。質・量ともに夕食でもよかったくらいの充実した料理で、適度の辛さが食欲をそそるが、ここでは食事の話ではなく、そこへ行く前に見かけた犬の話を少しだけ。

成都龍抄手食府へ向く道で見かけた犬.JPG
〔成都龍抄手食府へ向く道で見かけた犬〕
どこかに食事に行っているのだろうか、ハッチバックを開けたままの車が止まっていて、そこになんと大きなワンコが寝そべっていたのである。人が通っても、ワンとも言わず、のんびりとご主人の帰りを待っている風情。優しい眼が印象的なその子に魅かれ、このまま通り過ぎてしまうことに後ろ髪を引かれつつも、食事に向かう足は立ち止まってシャッターを押すことなく店へと向かってしまった。
食事を終えた道すがら、実は大満足でさっきの犬のことなどすっかり忘れていたのだし、それ以前に小一時間もずっとそのまま車が駐まっていて同じ犬に会えるとは思ってもみなかったのだが、さっきのワンコがまだほとんど同じ姿勢で佇んでいるではないか。これはもう何かの縁である。早速そのワンコにカメラを向けさせてもらった。その子はそれでも大人しくしていて、被写体になってくれる。本当に優しい犬であった。
そういえば龍抄手食府への道では他にも何匹かの犬にすれ違った。1匹はネコかと見紛うような小型の雑種、もう1匹はもっと大きな、写真の犬に近い大きさの種類のわからない子。この子も結構なスピードですれ違い、反対方向に走って行った。ノラとは思えない。
この子たちは残念ながら肖像はない。

洛陽含嘉倉で出会った犬.JPG
〔洛陽含嘉倉で出会った犬〕
次は洛陽で出会った犬。含嘉倉(がんかそう)という宮廷の穴蔵(発掘したままの状態で保存されている160号という穴は、直径約11m、深さ約6mもある大きくて深い穴で、ここに米を貯蔵するのである。湿気が回ってこないのかと心配になるけれど、水位が低いためこれでいいらしい。高床の倉庫を造るよりも合理的な保管方法なのだという。こんなのが全部で300近くも密集して掘られていたという)の遺跡で見かけた子。これはどう見ても完全にノラであろうが野性的な風貌ではなく、人になついているのかも知れない。やはり優しい眼が印象的だった。
振り返る犬(洛陽含嘉倉脇の旧線路にて).JPG
〔振り返る犬(洛陽含嘉倉脇の旧線路にて)〕

洛陽から鄭州方向に向かう列車(先頭部).JPG
〔洛陽から鄭州方向に向かう列車(先頭部)〕
最後はお決まりの鉄道写真。漢魏洛陽城を眺めるために車から降りた橋の上で偶々見かけた東(洛陽から鄭州へ向かう方向)へ向かう列車。20年前、この線路を逆に辿って、ここからほど近い洛陽まで、北京から夜行寝台で向かったことを昨日のように思い出す。

洛陽龍門まで乗った西安西行きの新幹線.JPG
〔洛陽龍門まで乗った西安西行きの新幹線〕
今回は、北京西駅から新幹線を利用した。一晩かけて辿り着いた洛陽まで、北京からわずか約4時間の旅だった。車内の速度表示によると、基本は時速300㎞ないし301㎞での走行だったが、実際にそうかは保証の限りではない。停車駅も結構多く、ホームの手前で数分止まっているなど無駄もないわけではない。北京から洛陽までは800㎞程度はあり、体感としては、日本の新幹線と同程度からやや遅いような印象だから、まあこんなものだろう。
北京西駅は入場するのにもチェックがあり、改札(指定券には氏名が印刷されている。最近のことだそうだが、そこまでやる国なのである)も、発車時刻の30分前頃からおもむろに始まる。乗ってしまえば鉄道だが、手続き的には飛行機の搭乗にそっくりだ。発車間際に飛び乗るなんていう芸当はできそうもない。降りる際も入口と出口は別で、洛陽龍門駅の場合、降りる客はホームの端まで延々と歩かされる。合理的といえば合理的なのかも知れないけれど、もう少し何とかならないかなあとは思う。
さらに、いかにも中国だなあ、と思ったのは、日本では新幹線だろうとましてや飛行機ではちょっと考えられないことだが、洛陽に着くまで2回、掃除のおばさんが濡れモップで通路を拭いていったこと。まあ、それをちぐはぐと思うかどうかも、一つの価値観に過ぎないのではあるけれど。
タグ: 鉄道
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