2015年10月31日

教会暦で聴くカンタータ─BWV95の第1曲─

バッハのカンタータを、ガーディナーのカンタータ巡礼のCDによって教会暦順に聴き始めて10ヶ月、ようやくゴールは見えてきた。しかし、楽しいけれど難儀な作業ではある。平均して1週間に3曲ずつ、特別の行事が入ったりするとこれが2倍にも3倍にもなる。聴いたことのある曲が出てくることはむしろ少なく、1から聴く曲が多い。一聴しただけで心に響く曲も多いけれども、繰り返し聴いて初めて目からウロコという曲も中にはある。通勤の往復で1回ずつ聴ければよい方だから、1週間あるとはいっても、がんばって5回というのが標準的なところだろう。お気に入りの曲が出てくると、逆にその割を食って、充分聴き込む前に記憶の彼方に追いやられてしまう曲も出てきてしまう(寝るときにも子守歌代わりに聴いているけれど、これは基本お気に入り曲の役割だ)。結局のところ、1年で充分聴けたと納得できるところまでは到底いけず、もう1年、いや1年で終わる保証は全然ないけれども、同じ事を繰り返してみようかと思っている。
当時これらのカンタータを聴いた人々はどうだったのだろうか。再演したとしても、何年かあとということが多かっただろう。記憶に焼き付いた曲が仮にあったとしても、サロンやコンサートホールで演奏される曲ではないから、特別の機会でもなければ、それがもう一度演奏されるのを聴くのはやはり稀な経験だったのだろう。一度聴けばそれで焼き付けられるほどに耳が越えていたのだろうか。当時の人々の常識として、それこそ血となり肉となっていたコラールに基づく旋律や歌詞が、縦横にはりめぐらされていた事とも関係してくるのだろうか。あるいは評判のよかった曲の主要部分だけでも、教会内で再演されることがあったのだろうか。なんといっても、一度きりの演奏の機会だけで歴史の彼方にやってしまうのではあまりに勿体ない曲たちばかりであるのは、いまさらいうまでもないことである。
気に入った、というか、心に残った曲があると、カンタータごとではなくて、カンタータを構成する曲ごとにお気に入りのカンタータに入れておくことにしている。順序まで考慮して並べられればよいのだが、そこまではまだできない。でも、ともかく何らかの形でピックアップしておかないと、何番のカンタータだったかさえ探し出すのが容易でなくなる。メロディーは思い出せるのに、それがいったいどのカンタータの何番目の曲だったかがわからなくて歯がゆい思いを何度させられたことか。
歯がゆい思いと言えばもう一つ、せっかく心にとまった曲があっても、その音楽を書きとめる言葉を持ち合わせていないという、素人の悲しさがある。いい曲であることを伝えよう、記憶に残るように書きとめたいと思っても、言葉として表現できなければ如何ともしがたいのである。これまた何度もどかしい思いをさせられてきたことか。
というわけでどの程度言葉にできるか皆目自信はないけれど、最近印象に残っているカンタータについて、久しぶりに書いてみたいと思う。暫く書かなかったのは、けっしてお気に入りのカンタータがなかったからではなく、そういう事情から書くに書けなかったのいうのが本当のところなのである。とまあ、前置きが長い割には、肝心の部分はあまり言葉にできないかも知れないが……。

          §           §           §

まずは、三位一体節後第十六日曜(今年は9月2日)のカンタータBWV95「キリストこそわがいのち」の第1曲のコラール。これは自由というか、奔放というか、2つのコラールがレチタティーヴォをはさんで結び合わされた、なんとも個性的な組み立てで作られている曲である。出だしはごく何気ない付点をもつリズムで始まるが、これこそがこの曲の背骨をなすといっても過言ではない。しかも、それがオーボエと弦の掛け合いでもって進行してゆく。初めはオーボエが先導し、弦が答えてゆく。これが3回繰り返されたあと、両者が美しく絡み合って上昇、下降し、カンタータ自体のタイトルにもなっているChristus, der ist mein Leben と歌うコラールの合唱が満を持して導びき出される。付点のリズムは合唱の中でもオーボエによって歌われているが、Christus, der ist mein Lebenと合唱が歌いきると、今度は順序を入れ替えて弦が先導してオーボエが答える形で冒頭と同じ掛け合いが続く。そして今度は短調の色彩でオーボエと弦が音を紡いでゆき、次のSterben ist mein GewinnのSterbenの部分がソプラノから順に時間差で歌い出される。
ところが、驚くことに、全部のパートが揃ってSterbenと歌い終わったところで、曲はなぜか失速してフェルマータで止まってしまう。折角始まって流れ始めた曲が一旦停止してしまうのである。付点をもつ3拍子の長調ながらどこか憂いを帯びたメロディーが、短調にたゆたいがちに進んでいっていたのだが、何だか躊躇うように歩みを止めてしまうのである。
ist mein Gewinnと再開したあともすんなりとは進んで行かず、再びオーボエと弦の掛け合いから合奏へという最初と同じ動きをこれも短調で繰り返して終息したあと、合唱がdem tu ich mich ergebenと長調で歌う。そうすると、さらにオーボエと弦の対話があって、第1節の最後のmit Freud fahr ich dahinが合唱が導かれ、最後は長調で閉じられる。オーボエと弦の対話部分はそれ自体が合唱のコラール部分と対話するという二重の構造になっているのである。
第1節が終わると、テノールの独唱が加わる一方、その背景では相変わらずオーボエと弦が対話を繰り返している。そしてそのまま躊躇いがちにレチタティーヴォに移行してしまう。これ以降最初のコラールはもうお終いなのかというと、そうではない。レチタティーヴォの合いの手の形で、あの付点付きリズムが繰り返されるのである。レチタティーヴォがコラールに続く部分であることが暗示されている。進んでは立ち止まり、立ち止まってはまた進む。そんな躊躇いがちな、ゆき悩むがごとき曲の進行である。
レチタティーヴォが閉じられると、ホルンとオーボエ・ダモーレに導かれた新しいコラールが合唱で登場し、盛り上がりを見せてゆく。Mit Fried und Freud ich fahr dahin (平安と歓喜もてわれは往く)というルターにコラールである。これは第1のコラールに比べると、もっと荘重で深刻な表情の短調の曲で、速度は変わらないのに、切迫した感じのする音楽である。ところが流れはけっしてよくない。合奏とそれに続く合唱でコラールの第1節が1行ずつ歌われてゆくが、4行目のsanft und stilleのところで、第1のコラールのときと同じように、再びフェルマータで止まってしまう。同じことが2度起きてしまうのである。知らずに聴いていると、全く裏をかかれた気がするけれども、第1曲が終わって振り返ると、これはもうこうあらねばならなかったという感じで、ぴたっとはまっている。不思議な音楽である。

          §           §           §

この曲を最初はガーディナーの演奏で聴いた。4分50秒余りという颯爽とした演奏である。最初に聴いた演奏のもつインパクトというのはことに大きいもので、えてして他の演奏を受け入れなくなってしまうものである。その点、ガーディナーの演奏はこの曲の標準的な演奏としてぼくの耳に焼き付いていたはずである。
その後、リリングの全集でこの曲を聴き比べてみようと思った。正直言って、曲が始まった瞬間、全く別の曲かと思った。ゆったりとしたテンポ、分厚いハーモニー、レガートで音をつなぎながら、慈しむように音楽が紡がれてゆく。まるで一音一音をかみしめているかのようだ。重厚だけれども各パートがすみずみまでよく聞こえ、細部まで繊細に響きわたる。最初に感じた遅さが、何度か聴き込むうちに全く気にならなくなってきたから不思議だ。音の微妙なたゆたいが、このテンポだからこそ生きてくる。調べてみると、リリングのタイムは7分と少し。ガーディナーに比べるとほとんど5割増しなのである。これはやはり尋常なことではない。
もちろん、ガーディナーの颯爽と駈け抜ける演奏それ自体はたいへん魅力的で、最初はこの演奏でこの曲にのめり込んだのである。疾走するからこそ湧き上がる情感というものは当然ある。さらさらとこぼれていってしまいそうな音の儚さは速度がないと生まれてこない。多分、このテンポの方が本来の曲の意図には近いのだろうし、当時もこんな風に演奏されていたのかも知れない。しかし、リリングを聴いてしまうと、ガーディナーのテンポはいかにせん速すぎるという印象を、私個人的には免れ得ないのである。
他の指揮者はこの曲をどんなテンポ設定で演奏しているのだろうか。手許にはこれ以外にBWV95はないけれども気になったので、無料で曲の出だしの30秒分だけ聴けるNaxos Music Library(NML)で鈴木雅明さんとBCJの演奏を聴いてみた。30秒だと曲によっては核心に至る前に終わってしまって何のことかわからない場合も多いけれど、この曲は初っ端だけでも違いがよくわかる。で、BCJはどうだったかといえば、ガーディナーと同じテンポ設定だった。リリングの演奏はやはり際立って特異なのかも知れないが、慈しみながら一つひとつ紡ぎ出されてゆく音に、ついつい涙腺も緩みがちになってしまう。
それからもう一つ、リリングを聴いて印象深いのは、最初のコラールで合唱が出てくる直前のチェロの上昇音型である。他の楽器が休符で合奏の登場を待っている時、チェロが駈け上がってそのまま合唱を導くのである。全体に低弦が分厚いのが、それがバッハ的であるかかどうかは別として、演奏の奥行きを増しているのはいうまでもないだろう。

          §           §           §

この曲について書いておきたくて聴き返してみようと思った結果、今週は教会暦を無視してほとんどBWV95の第1曲ばかり聴き続けることになってしまった。今週は三位一体節後第二十一日曜(10/25)のBWV109・BWV38・BWV98・BWV188を聴く予定のはずだったが、そんなこんなでほとんど聴けずじまい。しかも月末の10/31は宗教改革記念日で、BWV80・BWV79という飛び入りがある。11/1には三位一体節後第二十二日曜のカンタータたちが待っている。さあ、どうしようか……。
posted by あきちゃん at 02:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2015年10月23日

40年ぶりの奥多摩大岳山(前編)

奥多摩には名峰が多い。高さでいったら2000mを越える東京都の最高峰雲取山が一番だし、高さこそないものの名山の名に恥じない高水三山も奥多摩を代表する山といってよいだろう。ケーブルカーで簡単に登れるとはいえ、七代ノ滝や綾広ノ滝をはじめ変化に富んだ周遊コースを組める御岳山、百尋の滝を擁する孤高の名峰川苔山、その前衛に位置するためちょっと損をしがちな本仁田山、かつては東京のチベットとも言われた数馬の奥に聳える文字通り奥深き奥多摩の名峰三頭山、ワサビ田を見ながら稲村岩尾根を登り詰める1700mを越す鷹ノ巣山、あけっぴろげなカヤトの尾根の美しい六ツ石山、奥多摩湖の南に四方にドッシリと根を張った御前山、明るく優しい展望の尾根歩きの楽しめる浅間嶺、地味ながらボリュームのあるしっとりとした山旅の楽しめる戸倉三山、御岳山のそばにありながら静かな展望の楽しめる日ノ出山、埼玉県境に聳える名峰棒ノ折山など、急登の続く石灰岩の山天祖山など、まさに枚挙に暇がない。
しかし、どこから見てもそれと名指せる山としての風貌という点で、大岳山に勝る山はないだろう。馬の鞍に似た独特の形は、温和な風貌の奥多摩の山々にあってはかなり特異だし、岩の露出したゴツゴツした登山道もこの山ならではのものだ。高さこそ1300mに満たないけれども、奥多摩を代表する山といっても過言ではないと思う。その大岳山に本当に久しぶりに登った。同行は今年82歳になった母である。

          §           §           §

ぼく自身の大岳山登山の経験は、父と2人で歩いた高明山・馬頭刈山からの縦走コースが最初。そのあと高校時代だったと思うが、御岳山から奥の院経由で登り、帰路は鋸山経由で氷川に抜けた。かなり快調なペースで歩けたのを覚えている。今回はそれ以来だから、もうかれこれ40年ぶり近いことになる。どのコースを辿るか、初めは馬頭刈尾根からの思い出のコースを考えたが、話をしたら母も行くというので、それならばと無難な御岳山からの往復コースを選ぶことにした。
母は父とは何度か御岳山までは来ているらしく、歩きながら聞かされた話だと、最初はぼくがまだ歩き始めてまもなくの頃、だっこして連れてきたのだそうである。しかし、なぜか大岳までは一度も足を延ばした記憶はないとのことで、今回が初めてということになるらしい。
母は若い頃はそこそこ歩いたようだし、最近でも町中は結構よく歩いているようだが、まともな山歩きは以前ここでも少し書いたけれど、父が亡くなったあとに、高水三山に出かけたのが一番最近のことで、その後膝を悪くしたりしたこともあって、本人はもう山靴を履くことはあるまいと思っていたという。
それが今回ひょんな事から久しぶりに出かけることになった。ともかく無理せずゆっくりを心がけ、少しでも怪しければ引き返すつもりで出かけたのだった。車の運転を引退し、最近は自転車に乗るのも止めた母ではあるけれど、平地だと一緒に歩くこちらの方が、もう少しゆっくり歩いてくれないものかと内心悲鳴を上げるくらい達者に歩く。そうであるからまだきっと歩けるに違いないという思いはあったのだが、何といっても82歳という年齢である。不安はあった。

          §           §           §

御嶽駅からバスでケーブル下まで行く。歩くと30分はかかるし、先もあることなので今回は迷わずバスを利用し、さらにケーブルカーで登る。30分に1本のバスは超満員、ケーブルカーもほぼ満員。老若男女取り混ぜて、さすが色付き始めた季節の日曜日だけのことはある。昔父と御岳山だけを目的に初めて来たときはバスを横目にケーブル下まで歩き、そのまま表参道をひたすら登ったものだ。
登山道は途中ケーブルカーの下を横切る。満員のケーブルカーで下はよく見えなかったけれど、当時の記憶が鮮明に甦ってきた。登山道の途中でシートを広げてお昼を食べた思い出も付いてきた。おにぎりを食べているところを父に撮ってもらった写真の記憶までも……。
最大斜度25度という急傾斜のケーブルは僅か6分で山上に連れて行ってくれる。山上駅は神社の門前からすればかなりはずれた位置にある上に、大ケヤキから店の並ぶあたりまではかなりの傾斜だ。そんな山上の楽園のような所なので、ケーブルを降りて門前に向かう道で、自転車のベルの音を聞いたときは耳を疑った。空耳かと思い始めた頃、小学生くらいのこどもたちの乗ったのが2台走ってくるではないか。東京にこんなところがあったのだ。

          §           §           §

御岳神社からは大岳山まではいくつかのルートがある。父と馬頭刈尾根を縦走して大岳に登ったとき、もう縦走もほとんど終わったつもりになって、御岳までは尾根通しに少し行けばよいのかと思っていたら、谷筋を抜ける鬱蒼とした道が続き、しかもいろんな道が錯綜していて、どれがどれやらわからず、大岳に登って力を使い果たした小学生にとって御岳までの道はひたすら遠かった。
今回は一番楽な方法で大岳山を目指すのが目的だったから、谷筋には降りずに、しかも奥の院の尾根通しでもなく、真ん中の山腹を巻く道を行くつもりだった。ところが、奥の院方面を指示する導標にだまされた格好でこれを避けたものだから、結局七代ノ滝方面の谷筋に入り込んでしまい。気付いたらたくさんの人たちが歓声を上げている天狗岩の前に辿り着いてしまっていた。
谷筋の緑陰の道.jpg
〔谷筋の緑陰の道〕

ここまできたらあとは谷筋を詰めて行くしかない。幸い川沿いの道は大きな石を用いてよく整備されていて歩きやすく、色付き始めた自然林の風情は何物にも代えがたく美しい。七代ノ滝はかなり下って行かねばならないので今回はパスしたが、谷筋を詰めていった先の登山道沿いにある綾広ノ滝を満喫することができた。団体さんも含め登山客はかなり多い。
綾広ノ滝を望む.jpg
〔綾広ノ滝を望む〕

          §           §           §

滝の直上で御岳神社から水平に巻いてきた道と合流する。そうなのだ、初めはこの道をめざしていたのである。振り返れば岩石園の入口の表示に気付いた。父と来たとき反対向きに歩いてきたわけだが、ここでどちらに行こうか迷った記憶がある。あの時はこのあたりはまだ整備中だったように思う。ロックガーデンという表示があって、自然の景観をそう称しているものやら、人工の手を加えて整備したものやら趣旨がよくわからなかった。あの時はここからどの道を通って御岳神社へ抜けたのだったろう。心細さもあったのだろうか、夕暮れが迫ってきた薄暗さの印象が強く焼き付いている。
岩石園入口付近.jpg
〔岩石園入口付近(帰路撮影)〕

ここからはさらに沢を詰めて行く。橋を右岸側へ渡り、少しの間ジグザクに高度をかせぎながら、高岩山から来るサルギ尾根に取り付いて行く。あとはそこそこの傾斜の一本道をまっすぐに上ると、奥の院からの尾根が近づいてきたと思った頃、高岩山からの尾根道に飛び出した。奥の院からの道はまだ先らしい。
12時半を回っていて、おなかがすいたという母の言葉に従ってここで昼食とし、握っていないおにぎりをほおばる。静かな山である。いつのまにか沢音はもう聞こえなくなっている。尾根の南側には植林もあるが、登ってきた北側は自然林で、優しく色づいている。気持ちのよい広場状の場所だ。(後編につづく)
タグ: 記憶 季節
posted by あきちゃん at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2015年10月10日

「冬」を読む2─『風立ちぬ』断章7─と、咲きなずむ金木犀

暫くたゆたっていた季節が、漸く進み始めようなそんな週末である。9月の半ばに金木犀の香りを嗅いだ気がし、ずいぶん季節の足取りが早いと驚いたものだが、そのあと香りは立ち消えになってしまい、咲いたのか咲いていないのかわからない状態だった。散っているわけではないが、花芽が白くなってほしけてしまったようにみえ、これはもう咲き終わったあとの名残なのか、でもそれにしてはいつまでも付いたままでいるなあと思って見てきていた。
ところが、2、3日前から例の香りとともに、白さの中に少しずつオレンジ味が加わってきたかも? と思い始めていたら、今日辺り、一斉に香りが強くなり、花の様子も漸くいつもの金木犀になってきていた。いったいこの3週間は何だったのだろう……。今日はもう10日だから、これだと例年よりも今度は逆に10日ほども遅い満開ということになる。時ならぬサクラが咲いたり、金木犀が咲きなずんだりと、今年の秋は花の様子だけからみるとちょっとどうかしている。体感的にはそんなに違和感はないのだけれども……。
さて、今回もずいぶんと間があいてしまったが、「冬」を読む2を記していくこととする。今回もまた途中までである。

(承前)
Ⅴ 版画 11月10日
冬が来る。その到来を告げるのは、山の上方にじっと止まっている雪雲と、それに追われるようにバルコンに集まってくる小鳥たち。その雪雲が消え去ったあとには、雪化粧した山々が顔を出すのである。それを何度か繰り返すうち、その雪は次第に白さを増して行く。そうして冬が到来し深まっていく様が、ほんの数行で的確に描き上げられる。美しくも凜とした文章である。
冬の過酷な自然の中での病身の娘との二人きりでの生活、それは「春」の初めの部分でも語られている、数年前の私が夢に思い描いていた生活そのものだった。それが今実現している。私はしばしその追憶─どこにもありそうもない版画じみた冬景色─に浸る……。
しかし、気が付くとそんな景色はばらばらになってぼやけて消えていき、「ただ私の目の前には、夢からそれだけが現実にはみ出しでもしたように」、雪の積もった山々と裸になった木立と、冷たい空気だけが残っていたのだった。このへんの描写もまるで動画を見ているようだ。
そして私は再び不安に襲われるのである。自分の夢が節子をこんな所に連れてきたのではないか(この述懐は「春」でも語られている)、しかも節子を犠牲にして私だけがのうのうと夢に時間を潰している。「風立ちぬ」の最終節でも頭をもたげ、そこでは節子の言葉でもって解決したはずの疑念、つまり自分の気紛れが節子にこんな生活を強いることになってしまったのではないかという、一種の自己嫌悪に陥るのである。
そんな私の不安を節子は敏感に感じ取って私を真面目に見つめている。そうやってお互いを締め付け合うようにじっと見つめ合っているのが習慣になってきているのを感じるのだった。

          §           §           §

Ⅵ 痙攣 11月17日
私たちの幸福に形を与える作業が終わりに近づきつつある。不安に苛まれながらとにかくも書いて来た。書き終えるためには結末を付けなければならないが、現にこうやって生活している以上、どんな結末も与えたくはない。現在あるがままの姿で終えられたら……。
私が思い出すのは、「幸福の思い出ほど幸福を妨げるものはない」という言葉。そういえば、現に私たちが与え合っているものは、幸福に似ているけれどもそれとはかなり異なった、もっともっと胸が締め付けられるような切ないものになってきている。幸福に敵意をもっているようなものが先に潜んでいるのではないか、そんな不安が私を襲うのである。
そんな落ち着かない気持ちで、暗がりの中にほの白く浮いている彼女の寝顔を見守ると、時々目のまわりが痙攣れるように見える。何物かに脅かされているのか、それとも私の不安な気持ちがそんな風に感じさせるだけなのか……。

          §           §           §

Ⅶ 月夜 11月20日
ノオトの完成が近づいて、それをすっかり読み返してみる。これなら私の意図はまあ私を満足させる程度には書けているように思う。しかし、それと同時に私は、物語の主題をなしている幸福をもう味わえなくなっている自分、物語そのもの、つまり節子との生活そのものから離れていく自分を感じるのである。
いったいここで顔を出す私は、いつの私なのだろう。「冬」の物語では、この時点で「風立ちぬ」の物語を書いていることになっている。しかし、そこにはどうしても「風立ちぬ」を書き終えた時点での堀辰雄自身が見え隠れしてしまうのである。自己の経験に基づいて客観的な物語を書こうとして始まったこの小説が、堀辰雄にとってその経験があまりにも強烈なものであったために、そういう視点で書こうとすればするほどかえって主観的なものとならざるを得なくなってきてしまうのである。
月明かりの山や丘、森を見ても、私の目に浮かぶのは、そのまま私たちの幸福を最後まで持って行けそうな気になって眺めた初夏の夕暮れの風景だった(「風立ちぬ」Ⅳ)。切ないほどの同情をもって眺めたあの風景は、いつのまにか私たちの存在の一部分となっていたので、季節とともに変化してゆく現実の光景をほとんど見えなくさせてしまったのだった。
あのような幸福な瞬間をもてたということは、それだけでもう自分たちが生きるに値したということなのか?、と私は自問する。そんな私を見て、節子が「何を考えているの?」と口を切る。それは1935年11月20日の物語なのであるけれども、既に亡くなった節子と対話しているように思えてならない。本当に幸福だったのか、それは節子の死が目前にある私よりもむしろ、「風立ちぬ」を書き終え現に「冬」を書いている1936年11月の時点での、節子の死が前提にある作者堀辰雄の問いだったようにも思われるのである。
富士見のサナトリウムで堀辰雄が構想を練っていたのは、『物語の女』の続編だったから、ノオトとはいえ「風立ちぬ」の物語を富士見で書いたというのは、『風立ちぬ』におけるフィクションである。既に彼岸にある節子と対話しながら、富士見でのこととしてノオトを書き綴っていっているように思えるのである。それはまさに、死者を静かに死なせておくことができなかったリルケの鎮魂曲の世界そのものであろう。そうであるなら、「冬」では、この日記とノオトは別物であるように書かれているけれど、「風立ちぬ」から「冬」に入ると、実は日記がノオトそのものにもなってきているようにも感じられる。
可哀想な節子、それは生ける節子への眼差しであると同時に、死者への眼差しでもあった。私たちが無駄に生きていたようには終わらせたくない。そのためには物語にどんな結末を与えたらよいのか。それはフィクションであるはずの「冬」の私の命題であると同時に、今これを書いている堀辰雄自身の命題でもあった。
ベットの縁に腰かけながら、暗の中で節子の手を取って黙り合っている、自分の裡の何かの働きと一心になろうとしている節子、森から絶えず音を引き捥いでいる風に怯えでもしているようなそんな節子の助けが、私には是非とも必要だったのである。

          §           §           §

Ⅷ 曙 11月26日
期待と不安、焦燥と自己嫌悪、そんなさまざまな感情が入り交じって、自分でも何を考えているのかわからないような状態に苛まれ始める。八ヶ岳の山頂を離れたばかりの日にあんなにも美しく赤あかと赫き始めていた空が、いつのまにか暗い雲に鎖されて赫きを失っている。それに気付いたことで、自分が曙の光が地上に届くのを心待ちにしていたような気がしてくる。自分が自分でなくなり始めている。
足早に立ち戻った私を認めても、節子は物憂げに目を上げたきりで、私が額に接吻しようとするのを弱々しく拒むだけだった。そして拒まれた私の悲しみを見まいとするかのように空を見入るのである。前の晩、節子は喀血していたのだった。何も知らずにいたのは私だけだったのだ。私は空いている隣の病室に移る。今までいた病室と何か何まで同じだが、数時間前から座っていても全然見知らない感じのする空虚なへや。私の前にはこの日記が開かれている。明かりさえも冷たく光っている。
ちなみにこの部分は、普通用いられることのないかなり異常とも言える割り付けでもって効果的に書かれている。節子がぼんやりとして眼付きで空を見入る描写のあと、一行空けて、かつ一字落としで、「夜」、そして改行一字下げで「何も知らずにいたのは私だけだったのだ。」と続くのである。
「夜」で始まる文章、実は「冬」には結構ある。
「夜、一つの明かりが私達を近づけ合っている。」(11月2日〈Ⅳ〉の書き出し)
「夜、私は遅くまで何もしないで机に向かったまま、……」(11月28日〈Ⅸ〉の最終段落)
「夜、そんな蛾がどこからともなく飛んできて、……」(12月1日〈Ⅹ〉の第2段落)
どうしたことか、
これは「死のかげの谷」にも受け継がれてゆく。
「夜、すっかりもう寝るばかりの支度をして置いてから、私は暖炉の傍で、風の音をときどき気にしながら、リルケの「レクヰエム」を読み始めた。」(12月14日の最終段落)
「夜、村の娘の家に招ばれて行って、寂しいクリスマスを送った。」(12月24日の書き出し)
しかし、句読点も付けずにしかも即改行して続けるのは例がない。「夜」、はあたかも見出しのような役割を担い、読者は節子が喀血した事実を、当然の事実として否応なく投げつけられるのである。
(つづく)

続きを読む
タグ:読書 季節
posted by あきちゃん at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2015年10月06日

鉄山に憩う

大峰山系の鉄山に登った。鉄山(てっせん、1563m)は、地理的にいうと大峰の名峰弥山(みせん。高さでは八経ヶ岳に一歩譲るものの、風格、懐の深さという点では大峰随一と言っても過言ではない)から北に延びる尾根上の一岩峰に過ぎない。しかも、周囲には、弥山以外にも、行者還岳、大普賢岳、稲村ヶ岳などの名峰がひしめいているため、とかく霞みがちなのは否めない。その特異な風貌はどこから見ても一目でわかるのに、これらの名峰に目を奪われて、景色としてもどうしてもおまけ的な存在になってしまっていた。少なくともぼくにはそうであった。
弥山や稲村ヶ岳に登った際の写真を見てみても、鉄山が写っているのはあっても、鉄山が主役の写真というのはほとんどなかった。主役は弥山であり稲村ヶ岳だ。鉄山はその前衛の山として映り込んでいるだけだ。でもあとで紹介する鉄山の鉄山たる所以ともいえるとっておきの場所はちゃんと写り込んでいた。行者還岳に出かけたときの写真に辛うじて鉄山が主役の1枚を見つけたが、行者還からだと尾根の方向から望む位置関係になるので、知っていて見ればわかるけれども、逆にそれはあまり明瞭には写っていなかった。

弥山山頂直下から見下ろす鉄山.jpg
〔弥山山頂直下から見下ろす鉄山(中央が鉄山、右の木の影に少し見えている草地が山上の別天地。2012年)〕

稲村ヶ岳から望む鉄山.jpg
〔稲村ヶ岳から望む鉄山(2列目の尾根筋左よりの3つのピーク真ん中。雲を頂く奥の山は弥山。2012年)〕

行者還岳方面から見た鉄山(2012年秋).JPG
〔行者還岳方面から見た鉄山(2012年秋)〕

さて、それだけどこからでも見えるというなら、逆に鉄山からはそれらを一望に収めることができるはずである。高さだって、実は行者還岳よりも僅かだが高いのである。弥山へ、あるいは弥山からの単なる通過点ではなく、単独で登るのに充分な価値のある山に違いない。鉄山を目指すルートはいくつかあるものの、一般向けの道ということになると、行者還トンネルへ登る林道の大川口からのものだけ。しかし、これは地図を見ただけでわかる直登の急坂で、これはかなり手強そうだ。しかもこれを往復するとなると……。少なくとも車で行かないと日帰りは無理である。というわけで、ちょっと二の足を踏んでしまうコースだった。今回は幸い団体行動でもあるので、有無を言わずに登れるとあって、一も二もなく参加することにした。なかなか自分で登山口まで車で乗り付けて登ろうという決断が付くものではないので、こういう機会でもないと登ることもなかったかも知れない。

          §           §           §

結果は……、大正解だった。お天気に恵まれたことも勿論ある。手が届くほど近くに見える弥山が早くも色づき始めているなど、偶然の要素もある。しかし、この大川口から弥山を目指して往復するコースは面白かった。確かに想像していた以上の傾斜で、川迫川の橋を渡ってすぐの取り付きからしていきなりの急登が始まり、最初の1時間余りで400mを稼ぐ。そのあと傾斜が少し緩んで尾根沿いに200mほど上がり、最後に間に一つのピークを挟んで頂上への文字通りの急登を登り詰めれば、歩き出しからの標高差約700mで鉄山山頂に辿り着く。
傾斜がきついわりにがんばれたのは、単調なジグザク道ではないことが大きいように思う。適度に露岩や木の根があり、程よい段差を両手両足を使いながら登って行ける。下部は植林帯だが密集しているのではなく、ほどなく自然林となって、明るい林の山歩きを楽しめる。暗いジメジメした樹林帯のジグザグ道、例えば小峠山への水尻バス停からすぐの直登などを思い出すが、ああいったきつさはない。小峠山では傾斜地で自分を支えているのが辛かった記憶があるが、鉄山への急登は一歩一歩自分を確保しながら登っていけるのがありがたい。いろいろ神経を使う場所があるので、適度に目先が変わっていて、いわば飽きが来ないという訣だ。
その上、傾斜が少し緩む頃からは、先程書いた周囲の山々が文字通り応接に暇ない状況になる。まずは北にバリゴヤの頭。これがまたなかなかの風格で、いったいどこの名山か、と思ってしまうほどである。
1000m付近でひときわ存在感の大きいバリゴヤの頭.jpg
〔1000m付近でひときわ存在感の大きいバリゴヤの頭〕
そのうちに右肩に大日山らしきにょきっとした突起が見えだし稲村ヶ岳も区別できるようになる。東には傾いた姿がユーモラスな行者還岳、その左にはいつもとはちょっと違った雰囲気の大普賢岳。大普賢と稲村の間には平らな山容を見せる山上ヶ岳が遠望できる。一方南が開けるようになると、一の垰から弥山の巨大な山容に連なる稜線が指呼の間に見え始める。自然林の隙間からの景色なので、不安定な足下ばかり見ていると一瞬を捉え損なうのだが、景色を捉えられた時のうれしさといったらない。

          §           §           §

鉄山の山頂は狭いので、手前で昼食の予定とのことだったが、いい加減くたびれてきた頃、今までの急登の果てにこんなところがあるとは思ってもみなかった、山上の別天地のような(必ずしもぴったりした感じではないのだが、他に適当な語彙が思い浮かばない)鞍部に飛び出した。初め北側が開けたところに出て感激していたら、そこを少し行くと今度は南側も完全に遮るもののない草地に飛び出した。道の正面には岩のピークが2つ重なるように聳えている。二重に見える左奥のピークこそが、めざす鉄山らしい。
鉄山直下の別天地.jpg
〔鉄山直下の別天地と鉄山(二重に見える左奥のピークがめざす鉄山)〕
帰宅してから案内書を繙いてみると、この気持ちのよい鞍部が案外さらりとしか触れられていなかった。曰く、「小さな鞍部」。そんなことはない、この文字通り山上の別天地から、南に弥山、北に稲村・山上の景色を堪能しながら昼ご飯を食べられるなら、ただもうそれだけで鉄山に登ったかいはあるというものだ。此処へ来られただけで、今日の山歩きの価値は充分にある。帰路、写真は撮り損ねたけれど、この草原でヤマリンドウのかわいらしい莟を2つ見つけた。別の場所で見つけた真紅の実を結ぶ花だと教わった。
どちらを向いておにぎりを食べようかとずいぶん悩んだが、もうそんなに紫外線を感じない秋の爽やかな太陽光を浴びながら、南の弥山の秀峰を仰ぐことにした。稲村・バリゴヤの方が景色に変化があって面白いのは面白いのだが、でも弥山の神々しさに背を向ける気にはなれなかったのである。よく見れば、山頂付近から結構下の方までもう木々が色づき始めているではないか。逆光なのが惜しいけれど、手前にひと株ススキが揺れていた。
鉄山直下の別天地から弥山を望む.jpg
〔鉄山直下の別天地から弥山を望む〕


          §           §           §

この別天地からは短いが、露出した岩に木の根が複雑に絡み合った急登が続く。恐怖感はないものの、傾斜がきついのと、足場の確保の難しい部分があり、慎重に高度を稼いでいく。ちょうど大普賢の山頂直下のような感じだが、あれをもっと複雑にした感じだ。一旦鞍部に降り、再度岩と木の根としばしの格闘をすれば、程なくごく狭い山頂に飛び出す。展望は北側から東側にかけてが開けている。ここで展望を満喫しているとつい時間の経過を忘れてしまう。5人も立てばもういっぱい狭い山頂には、「鐵山」と書いたプレートがあった。南へさらに道が続いている。別天地の鞍部で見た弥山本体へ尾根上を突き上げていく道だ。こちらへ足を踏み入れたら日帰りはもう無理だろうが、一度歩いてみたいという思いに駆られる。
鉄山からナリゴヤの頭・大日山・稲村ヶ岳・山上ヶ岳・大普賢岳などを望む.jpg
〔鉄山からナリゴヤの頭・大日山・稲村ヶ岳・山上ヶ岳・大普賢岳などを望む〕
大普賢岳と行者還岳(鉄山山頂から).jpg
〔鉄山から大普賢岳と行者還岳を望む〕
帰途は来た道を忠実に辿る。今回のように乾いた状態でも結構滑りやすい。よくまあこんな傾斜の所を登ってきたものと思うが、逆に登りだからこそ着実に足を運べば歩けるのである。往路撮り損ねた景色を写真に補いつつ大川口を目指す。川迫川の川音がかなり上からでも意外と大きく聞こえてきたのと、橋を渡りながら見ると川底まではっきりと見え水がキラキラと輝いているのがとても印象的だった。川迫ダムには砂利がうずたかく積んであってどうしたかと思ったら、天川村でも大きな被害をもたらした数年前の台風の際に、流れてきたこれらの砂利でダムがすっかり埋まってしまったのだそうだ。それを掘り返している訣だが、一定の深さがあったはずのダムが、ごく普通の清冽な川になってしまっている。自然の猛威のすさまじさを思い知った。今年は思いの外モミジが早そうだ(と書いて確認したら、最初に紹介した弥山・八経ヶ岳に登ったのは2012年の10月初めだった。あの時もし鉄山から眺めたとしたら、今回以上に紅葉して見えたのかも知れない)。
きつかったけれど、身も心も癒やしてくれるそんな山旅だった。鉄山に憩うと題したのはそんな思いからである。
タグ: 季節 奈良
posted by あきちゃん at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2015年10月01日

今年の金木犀の香りの気付き方

10月1日というと、毎年判で押したように金木犀の香りが漂い始める日である。ところが、今秋は前回書いた彼岸花だけでなく、金木犀の開花も早い。歩いていて香りに気付いたのは、もうかれこれ2週間ほど前になるだろうか。もっとも家の金木犀がほころび始めているのに気付いたのはついこないだの土曜日で、庭でジャックラッセルのPPと遊んでいるときだった。こんな形で金木犀の開花を味わうことになろうとは、全く思ってもみなかった。

          §           §           §

以前は犬たちと庭でボールでよく遊んだ。投げてやると、ボールとどちらが速いかというくらいに飛んで行って、くわえた途端にもうぼくの所まで勇んで運んで来る。いやその速いこと速いこと! そしてぼくの目の前でボールをぽとんと落とす。投げて!、という催促だ。それでボールを掴もうと手を伸ばすと、ぼくをおちょくるかのように、ボールをくわえて離さない。これもまた遊んでいるのである。無理に取ろうとすると、逆にムキになって是が非でも離すまいとして力が入る。ぼくがボールを持ち上げると、地面から足が離れそうになるが、それでも絶対に離さない。投げてほしいくせして、素直にはボールをよこさないのだからおかしなものである。ちょっとフェイントをかけたりして何とかボールを口から外し、また投げてやる。あとはこの繰り返しである。
そんなこんなでボールはボロボロ、何代か交替があったが、なかには真っ二つに割れてもなお、ボールとしての役を果たしていたのもあった。一番最初のはサッカーボールだった。半分空気の抜けたものを、完全に壊れるまで遊び尽くしたものだった。今はダンベル状のボールを2つ組み合わせたような形のゴムのおもちゃを使っていて、これだと少し不規則な転がり方をするので、予想が付けにくいところもあって、なおお気に入りの様子。最近はもうそうでもなくなったが、元は空気の出入りとともにピーピー音が出る構造になっていたので、いやはやその騒々しいことといったらなかった。でもその音をまた犬は大喜びなのである。
ジャックラッセルというのは運動量の大きな犬で、もとがキツネ狩り用に改良された犬であるから、とにかくじっとしていない。何にでも興味を示し突進していく。身体は大きめのネコくらいしかなく、すばしこいといったらない。突然こちらの思わぬ行動にでて慌てさせられることもしばしば。飽きるということを知らない犬なのである。
これがわが家には今3匹いる。2年前の夏に他界したBの忘れ形見の3姉妹である。といってもこの子たちももう8歳になるからそれなりの年で、それを感じさせられることもないではないが、今もってジャックラッセル本来の性格は全くもって衰えるということを知らない。これはオスもメスも関係ないようである(オスのジャックはわが家にはいないのでわからないけれども)。
もっとも面白いのは、これも何度か書いたことではあるけれど、3匹が3匹まるで性格が違うことである。お茶目で甘ったれで、なぜかほこりフェチ(動くものだけでなくほんの小さなゴミでも見つけようものなら猛然と吠える)のAC、自意識が強く何でも自分の思うとおりでないと気が済まない(とくに他の2匹に対してこの傾向が強いものだから仲良くできない)孤高の犬AG、そして長女でおっとりしているけれども気は優しくて力持ち、一番体格がよくただ一人長毛のPP。よくもまあ、これだけ性格の違う犬が一度に生まれたものである。
このうちACは腰を悪くしてほとんど家の中で暮らす毎日。外に出たくて仕方ないのだが、ジャック本来の性格が出てか無理に走り回ってしまい、あとで動けなくなってしまうくらい、むちゃくちゃなはしゃぎ方をするのである。特にACとPPは水が大好きで、庭に子供用のビニールプールを出して水を入れてやると、水が溜まる前から大はしゃぎで、ホースの先に飛びついてくるわ、泥足で飛び込んでくるわで、やっと水が溜まった頃にはもう泥水と化している始末。しかし、ACにとってはこのプールにピョーンと飛び込むのがどうもよくなかったらしい。
そういうわけで、庭を走り回れるのは最近はPPとAGだけなのだが、一緒に出て遊んでくれたら世話はないのに(もとはお母さんのBも含めて4匹でみんな仲良く遊んでいた)、AGがすぐ他の犬にちょっかいを出すので(PPはおかげで去年大怪我を負った)、交替で出してやる。その順番がまたややこしいのである。
ここで話がやっと初めの金木犀とつながってくるのである。そういってもなんのことやらと思われてしまいそうだが、こういう次第である。庭に出す順序としては、AG→PPがよい。AGがあとだと焼き餅を焼くというのもあるけれど、それは別にたいしたことではない。困るのは、PPが交替しようといっても容易には捕まってくれないことなのである。AGはその点わけなく捕まってくれて家に入るのだが、PPは余程庭で遊んでいたいと見えて、とんでもない捕物帖が始まる。庭の隅っこに追い詰めて捕まえるのが簡単なのだが、ここで障害になるのがくだんの金木犀なのである。
庭の南東の隅に植えてある金木犀の向こう側、つまり庭の本当の南東隅は、PPにとって絶好の逃げ場となる。どちらから捕まえようとしても、反対側に逃げていってしまう。金木犀の両側(東側はプリペットの生け垣、南側は隣家との境界の低い塀)の逃げ道を一人で一度に塞ぐのは、難しいのである。
これと最近成長し過ぎて庭に日陰を作るようになって芝生が一気に元気をなくしてしまった元凶のケヤキの木(のはずだったが、咲く花を見ると、どうもエゴノキという木であるらしい。しかも株立ちのをといって頼んだのに全然株立ちではなく、白花のはずが紅花の花を咲かせて引き抜かれてしまったサルスベリとともに、いかにいい加減な植木屋だったかがよくわかる)の回りも、PPと恰好の逃げ場となる。この木のところに来られると、いかに追いかけても決して捕まえられない。それこそチビクロサンボのトラのバターみたいなものである。端から見ていたらきっと、あそこの家のお父さんはいったいいい年をして何やってるんだかといわれそうな為体だろうが、こっちはそれでも必死なのである。
いったいPPには何度痛い目にあわされたことか。無理に捕まえて家の中に入れたことがあるわけではないのに、持久戦が続くことになる。要は犬に甘く見られている訣である。食べ物で釣ったこともある。ドッグフードではなく少し目先の変わったパンであるとか果物であるとか、うまくいくことも勿論あったが、これもじき見抜かれてしまう。頭も良いのである。先週などブドウを持って行ったら、あろう事か食い逃げされてしまう始末で、ほとほと情けなくなってしまった。家内や娘だったら容易くいうことを聞くというのに……。
こうなるとあとは知恵ではいかんともしがたいので、強行突破しかないというわけで、掃除をして少しきれいになった金木犀の根方に潜って両方の逃げ道を塞いでみることにした。最初はやはり無理のようだったが、隙間に無理に顔を突っ込んで手を伸ばす。お蔭で顔をはともかく、腕は擦り傷だらけとあいなったけれど、辛うじてPPの首根っこを押さえることに成功。捕まってしまえば素直なもので、全く抵抗することもなく洗面所に直行し、手足を洗ってAGと交替ということになった。もう夕方近くはあったが、これが土曜日のこと。まさか、金木犀の根元に潜り込むことになろうとは思わなかった。でも、ほころび始めた花の香りがせめてもの救いということではあった。

          §           §           §

ところで、明日は先日の台風21号崩れの低気圧が北日本で猛烈に発達するという予報が出ている。まさに腐ってもタイ(台)というわけである。あまりニュースになっていないが、心配していた石垣島はその前の台風の時ほどではなかったようだが、先島の一番西にある与那国島では、80mを越える最大瞬間風速を記録したという。半分の40mだってたいへんな数字である。80mは尋常ではない。幸い人命にかかわるようなニュースは聞こえてこないけれど、多くの方々が家屋の倒壊などの大きな被害に遭われたという。心からお見舞い申し上げたい。そのあとで直撃を受けた台湾も心配だ。
台湾上陸直前の925ヘクトパスカルという数字は、室戸や伊勢湾などの本州に接近・上陸した過去の巨大台風と比べてとんでもなく強烈というわけではないのだが、以前に比べると、地球温暖化の影響こうした巨大台風ができやすくなっているという。ほんのちょっとした台風のコースのずれで、被害は何倍もの違いが出てくる。今回も、与那国島の方が石垣島よりも少しだが北に位置するのである。しかし、台風が少しではあるが北上成分を持って動いた関係で、石垣島より西にある与那国島の方が、より近くを台風が通過する結果になったのだろう。この台風はその後台湾上陸の直前には、少し南にぶれるなど複雑な動きをしているらしい。仮に人間は避難できたとしても、生活基盤である土地や家屋は避難できない。本州だって他人事ではけっしてない。減災という考え方が現実的ではあると思うが、いったい、人間はどうやってこれに対処していったらよいのだろうか。
今日平城宮跡で、時ならぬサクラの開花を見てしまった。目を疑うばかり、まさに一木全部が満開だった。秋にサクラが咲くのは先祖返りでもあるらしいし、原因もさまざまあるらしいので一概にはいえないけれど、今年の天候が例年とだいぶ様子が違うのが一因ではあるのだろう。それにしても身近でこんなことが起きたのには驚くばかりだ。続きを読む
タグ: 日常 季節
posted by あきちゃん at 03:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする