2015年11月24日

秋の夜長をバッハで過ごせたら……

正倉院展が閉幕すれば奈良はもう晩秋を迎え、日に日に朝晩の冷え込みが強まっていくのが常であるのに、今年はどうも様子がおかしい。木々は型通りに色づいて葉を落としつつあるものの、一向に気温が下がる気配がなく、あたかも季節がまどろんでいるかのような趣がある。もみじもどうも鮮やかさに欠けるように思う。朝晩冷え込んでこその小春日和だと思うのだが、冷えこみが甘いものだから、日中はむしろ汗ばむくらいの陽気にさえなる。エルニーニョの影響も取り沙汰されているけれど、今年の冬はいったいどうなってしまうのだろうかと、心配にさえなってしまう。

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そんなわけで今年は季節感がいまいちなのだか、教会暦順に聴いてきたバッハのカンタータも文字通り晩秋を迎えており、もう待降節を目の前に迎えつつある。三位一体節後はひたすら日曜日を重ねて第25日曜日まで来た。大きな行事もなく淡々と歩んできた感じだが、秋から晩秋にかけてのカンタータには心に残る曲が多かった。先日はその中の一つのBWV95について少し書いてみたけれど、BWV95の第1曲は聴き込めば聴き込むほど味わいが深くなる曲だった。これに対して、一聴して刷り込まれてしまう感じで頭から離れなくなってしまった曲がある。BWV162の第1曲である。
BWV162は三位一体節後第20日曜日(今年は10/18だった)のカンタータの一つで、ヴァイマール時代の作、「Ach! ich sehe, itzt, da ich zur Hochzeit gehe」(ああ、我は見ん、今や婚礼に赴くとき)というタイトルをもつ。その第1曲はバスのアリア。晩秋の冷たい雨に降り込められているような憂愁を帯びた曲だが、迫り来る木枯らしに背中を押されているような切迫感を感じさせる。今まさに始まろうとしている何か大きなドラマの開始を予感させる趣がある。その意味ではメロドラマのテーマ曲にでもなりそうな、どちらかといえば通俗的なメロディといえなくもないけれど、その分聴く者をグイグイ引っ張り込む力をもっている曲だ。いわゆる名曲ではないのかも知れないが、紛う方なきバッハである。

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初めは例によってガーディナーのカンタータ巡礼の演奏で聴いた。それによってああいい曲だなあと感銘したのだが、リリングの演奏を聴いてみて、さらにこの曲が好きになってしまった。ガーディナーの演奏は、サラサラと落葉を撫でるように進んでいく。ことさらに憂愁を強調したりはしない。ひたすら淡々と深まり行く秋を見つめている感がある。
これに対し、リリングの演奏は全く別の曲の趣がある。といっても、BWV95の第1曲はテンポ自体が大きく違っていたが、BWV162の第1曲の場合はテンポはガーディナーとさほど大きくは変わらない。モダン楽器の演奏だからでもあるが、分厚い合奏が憂愁をことさらに深く抉り出す。しかもテンポが前へ前へとつんのめりがちで、いやが上にも緊張感が高められてゆく。このつんのめりそうな、今にも走り出してしまいそうになるテンポを辛うじて抑えている感じはまさに絶品だ。先程書いたメロドラマのテーマ曲というイメージは、リリングの演奏から受けたものだ。ガーディナーではそんな印象は全く浮かんでこない。この違いはいったいどこに秘密があるのだろうか。
こうしたテンポ感というのは演奏としてはどうなのか。インテンポで進んでいくのが本当は望ましいのかも知れない。しかし、演奏者の呼吸のようなものを感じさせる演奏こそ、生きた演奏なのではないか。この手の今にも崩れそうな瀬戸際で進んでいく汗握る感じのテンポ感、そこにこそ音楽を聴く醍醐味があるように思う(こうした感覚を経験できる演奏というのはそうざらにあるものではない。今でもよく覚えているのは、オイゲン・ヨッフムのハイドンのロンドンセット。前にも書いたような気がするけれど、この12曲はこれはもう人類の至宝ともいうべき演奏だと思う。)。

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BWV162と並んで、もう一つ大きなめぐりあいがあった。BWV163のソプラノとアルトのデュエットである。このカンタータもヴァイマール時代の作で、「Nur jedem das Seine」(人それぞれに相応のものを)という三位一体節後第23日曜日のカンタータの一曲である。このカンタータもいわゆる名曲の類いではないのかも知れないけれど、チェロ2本によるオブリガート付きのバスのアリアの第3曲のように、他に例を見ない特別の曲も含まれているし、第4曲のレティタティーボから第5曲のアリアへと続くソプラノとアルトのデュエットの美しさには息をのむ。
ここで書きたいのはしかし、そうした曲そのものではない。あるソプラノ歌手との出会いである。最初にこの曲を聴いたのは、BWV162との関係もあって、実はリリングの演奏だった。リリングの全集は現在BWVの番号順に収録されているので、BWV162を聴くと必然的にそのまま耳に飛び込んでくることになる。それで所定の日曜日よりも前に耳にしていたという事情もあってか、第3曲のアリアの重厚な演奏は記憶に残っていたのだが、デュエットの方はさほど印象になかった。リリング版も多くの名歌手を揃えていて、例えば、ソプラノのアーリン・オジェーの歌唱には深い感動を呼び起こされることも多い。例えば、件のBWV95の第1曲のあとのレティタティーボと、そして第3曲のアリア。ガーディナー版ではそれほど記憶になかったこの部分が、リリング版では朗々と歌われていて、ことにアリアの絶唱は心に響く。
さて、話をBWV163に戻すと、ガーディナーの演奏はカンタータ巡礼のDISK51にBWV139、BWV52、それにBWV140と一緒に収録されている。そんな事情もあり、さほど期待せずに聴いたのである。バスのアリアが終わり第4曲に入って、一瞬あれ、と思ってしまった。曲の響きが記憶していたのとまるで違うのである。何度か繰り返し聴くうちに、それがソプラノの声質によるものであることが飲み込めてきた。こんなに楚々としたソプラノがいたのである。よく注意しないで聴いていたら、ボーイソプラノかと聴き間違えてしまいかねないほどの歌声だが、声のつやはソプラノ以外のなにものでもない。マリア・シュターダーをさらに純粋にしたような、まるで天使の歌声かと思わせるような清楚で可憐な声質。これには本当にまいってしまった。こんなにすばらしいソプラノに出会えるとは思ってもいなかった。

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ガーディナーのBWV163のデュエットでソプラノ・ソロを担当しているこの人は、スーザン・ハミルトンというスコットランド出身の歌手とのこと。ガーディナー版ではモンテヴェルディ合唱団の一員としても歌っていて、一部でソロも担当しているらしい。DISK51に収められた2000/11/26の演奏では、ソロをもう一人のソプラノの分担しているらしく、彼女はあとBWV140のソロを歌っている。あのBWV140である! 
CDを順番に聴いていって彼女のソロはBWV163だけなのかと半分諦めていたら、一番終わりに収録されたBWV140で第3曲の短調のデュエットで紛れもないスーザン・ハミルトンの声を聴き、深い感動を覚えたのである。最後のコラールの直前に歌われる第6曲のソプラノとバスのデュエットにはもう言葉はいらなかった。この曲を彼女に担当させたガーディナーの見識の高さはどんな讃えても過ぎるということはないだろう。まさに神に感謝するしかない(ガーディナーのBWV140、ことに第1曲はリヒターでこの曲を聴き慣れた者の耳には最初はまことに異様に響く。けれどもスーザン・ハミルトン歌声に惹かれて聴き込むほどに、この演奏のすばらしさが身に滲みてくるようになった。それはけっして彼女の歌声が聴けるからだけではないが、彼女の声自体が曲の一部として生き生きと息づいているのを感じる。ガーディナーの解釈にはどうしても彼女の声が必要だった)。
スーザン・ハミルトンが聴けるBWV163・BWV140を含むガーディナーのCD(SDG171).jpg
〔スーザン・ハミルトンが聴けるBWV163・BWV140を含むガーディナーのCD(SDG171)〕
調べてみても彼女のディスコグラフィーはさほど多くない。しかし、YouTubeに思わぬプレゼントが上がっていた。彼女の歌う様子がそのままアップされていたのである。
「PBO in rehearsal with Susan Hamilton」というタイトルで、ヴィヴァルディの曲を歌う姿をわずか2分10秒だけ(いや2分10秒も!)堪能できるのである(他にもいくつかの映像がアップされているようである)。
いや、ほんとうにすばらしい時代になったものである。ちょっと前までなら、これだけの情報を調べるのでさえ、厖大な時間と労力を要したはずである。いや、ここまでわかったかどうかさえあやしい。まして映像など見たくても見られるものではなかった。今やこの文章を、ロ短調ミサの演奏を聴きながら(見ながら)書くことさえできるのである。上記のハミルトンの映像を調べるついでに聴き始めて、サヴァルの演奏に行き当たり、途中で止めるに止められなくなってしまった次第……。
随分前に書いたように、秋の夜長をバッハで過ごす、本気でそうできたらなあ、と思う。でも、スーザン・ハミルトンという歌手と出会えたことだけでもう充分という気さえする。それはフリッチャイの振るハ短調ミサでマリア・シュターダーを初めて聴いたときに勝るとも劣らぬかけがえのない出来事であった。
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2015年11月18日

「冬」を読む3完─『風立ちぬ』断章8

(承前)
Ⅸ 闇 11月28日
仕事のノオトは机の上に放り出したまま。今のような不安な気持ちのままで、それに描いたような幸福そうな気持ちに、私一人で入っていく気にはなれない。私一人ではなく節子と一緒であれば、何とかその助けを借りて入っていくことができたのに、別々に暮らさざるを得なくなってからはそれもかなわない。そうであるのに、節子にはノオトを仕上げるためにも暫く別々に暮らした方がよいのだと説明しなくてはならない私の辛さ……。
節子はしかもそんな私の言葉を信じ切っているのである。私は毎日二三時間おきぐらいに隣の病室に行き、病人の枕元にしばらく坐って過ごす。黙って手を取り合ったまま、たまに目が合うと、きまり悪そうな微笑み方をしてみせる。しかし、仕事がそんなに捗っていないことを知ると、もう何も訊かなくなる。「そして一日は、他の日に似て、まるで何事もないかのように、物静かに過ぎる。」
このフレーズは、『楡の家』第一部(つまり「物語の女」)と、『菜穗子』にも使われる印象的なもので、後者は富士見のサナトリウムで菜穗子が健康を恢復して行く淡々とした日々の描写で、こんな具合である。「一日は他の日のように徐かに過ぎて行った。」
夜、私は何もしないで机に向かっている。バルコンに落ちている明かりの影が、窓を離れるにつれてだんだん幽かになって闇に包まれて行くのを、自分の心の裡さながらのように見入っている。空間軸上で明るさが徐々に闇に変わって行く、いわばグラデーション効果の描写は、「死のかげの谷」の私の小屋の明かりにも通じるもので、『風立ちぬ』の一つの重要な心象風景といってよいだろう。

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Ⅹ 朽ち葉 12月1日
物静かに過ぎて行く日々に、突然グロテスクにも思える蛾の描写が挿入される。蛾の描写の白眉ともいえるこの節は、最終節を導くための大きな転調であって、節子の死の伏線でもあるが、この蛾は何よりも私自身の象徴でもある。最終節が静謐な描写に終止するだけに、この節はまことに効果的だ。
明かりを慕って何度も何度も窓硝子にはげしくぶつかり、生を求めてやまないようなその打撃で傷つき衰えて行き、翌朝一枚の朽ち葉みたいになって窓の下に横たわる生き物。結果的に死を招くことにはなっても、そこにはまだ生への執着があるといえなくもない。
しかし、室内に飛び込んできてしまった蛾の行動、ひとしきり明かりの回りを物狂わしくくるくると飛び回ったかと思うと、やがてばさりと紙の上に落ち、その姿勢のままいつまでもじっとしている。そうかと思うと、今度は自分が生きていることをやっと思い出したかのように急に飛び立って行く。自分でももう何をしているのだかわからないとしか言いようがないようなそんな蛾の行動、それはまさに私そのものなのだった。
異様な恐れを抱いた私は、もう何もなすすべもなく、紙の上にそれが死ぬままに任せておくしかないのだった。運命の予感といってもよいであろう。静謐ではあるが、大きな緊張感をはらんだ深い余韻を残したまま、いよいよ最終節が導かれることになる。

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Ⅺ 残影 12月5日
最終節は何事もなかったかのように静かに何気なく淡々と始まる。底冷えのし始めた病室。西方の山の背に入りかけている冬の夕陽。沈む直前の夕陽の斜行が室内をよぎり、ほんの一瞬明るくなったように見える。これがあるばかりに、沈んだあとの暗さと底冷えが一層こたえるのであって、それがもう直前に迫っているのが見えるようだ。見ている間にも夕陽が少しずつ山の背に吸い込まれていく。
そんな短い序奏、短く終わってしまうことを誰しも覚悟して読むであろう序奏の静謐を破るように、節子が不意にかすかに叫ぶ。「あら、お父様」そんなはずはないと思った私は、節子が幻影を見ているか、精神に異常を来したのではないかと、一瞬たじろいで、節子を見上げる。その目は彼女が正気であることをはっきり示すように、いつにない赫きをもっていた。私は聞こえないふりをするしかなかった。私は、節子が父に対して、私に対する以上に従順であることをよく知っていた。自身の具合が良くなくても、節子は私が父に手紙を出すことをさえ拒んできた。その節子が父を求めているとしたら……。変調の予感を私は何としてでも打ち消したかったのである。
しかし、そんな私の期待は無残にも打ち砕かれる。できれば、「いえ、なんでもないの。」とでも否定してほしかったのに、節子は必死で山の端に浮かぶ父の横顔の影を説明するのである。夕陽が刻々と沈みつつある。それに連れて目に見えて消えて行く父の影を、節子は必死に追い求める。「もう消えて行くわ……ああ、まだ額のところだけ残っている……」節子が、私ではなく、心の裡で父を求めているのを私は認めざるを得なかった。私が心の中で呟いたことが、「こんな影にまで、こいつは心の裡で父を求めていたのだろうか? ああ、こいつはまだ全身で父を感じている。父を呼んでいる……」というように、ここではカギ括弧で括られて示されている。これも他にはなかった特別の表現だ。私の叫びは真に悲壮である。
そうしている間にも闇は急激に拡がっていく。私は節子のそんな切迫した思いに引きずられるかのように、「お前、家へ帰りたいのだろう?」と、つい心に浮かんだ最初の言葉を飲み込むことなく口に出してしまう。それは2人が必死に作り上げてきた、行き止まりから始まるような幸福な生活を否定してしまいかねない言葉だった。できれば節子に私の問を否定してもらいたいという思いがなかったとはいえない。
だが節子は、聞こえる聞こえないくらいのかすれた声で、それを正直に肯定する。唇を噛んで目立たないようにベットの側を離れた私の異変に気付いた節子は、そのあと、顫える声でそれがほんの一瞬の気持ちに過ぎないだろうことを言い、私に謝るのである。
しかし、恐らく私にはもうそれはどうでもよいことだった。闇がかたまる山麓と幽かな光が漂う山頂の対比。もう流れは押しとどめることはできない。やがて全てを闇が覆うだろう。私は自分たちから何もかもが失われて行きつつあることを悟って、喉を締め付けられるような恐怖におののき、彼女に擦り寄ろうとする。
節子はそんな私に全く抗うことなく、いつもと少しも変わらず、もっともっと犯し難いような気品でもって接するのである。急に力が抜けてしまったようにベットの縁に顔を埋める私の髪を、節子の手が軽く撫で始めていた。室内はもう完全に闇が支配し始めていた。

こうして、落日とそれに伴う暗黒・冷涼な世界への移行を背景に、二人の微妙な心の交流を描きながら、二人の生活が終わりに近づいていることが切々と語られるのである。節子の直接の死の瞬間を描いている訣ではないけれど、この描写のあとにさらに付け加えるべき何があろう。節子の運命を切々と描き切った最終節は、『風立ちぬ』の中でも、特に傑出した一節であると思う。
前にも書いたことであるが、この節が、矢野綾子が亡くなった1935年12月6日の1日前である12月5日という日にちを与えられているのは、偶然ではあるまい。以前にも書いたことだが、「冬」は、堀辰雄が1936年の執筆段階における矢野綾子との魂の対話を、渾身の力と心を込めて結晶させた、矢野綾子への挽歌とも呼ぶべき文章なのである。
ラベル:読書
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2015年11月16日

定期券紛失顛末記

去年も書いた言葉だけれど、先週は怒濤の一週間だった。明けて日曜日の今日、朝一つのことが片付いて、やっとそれも一段落した。とはいってもお昼前まで雨が残って、気が付けばわが家の庭の芝生は、ケヤキ(実はエゴノキ)の茶色くなった重たい落葉で埋もれていた。洗濯をし、落葉掃きをし、駅まで往復し、2匹のイヌと散歩に行き、と、結局日中は動いてばかりいた。身体は休む暇もなかったけれど、気持ちとしてはふっと気の息まる1日ではあった。そして今、ようやく文章を綴る物理的、精神的余裕が戻ってきた。

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またやってしまったのである。昨日、怒濤の一週間が終わってホッとして、さて家に帰ろうと思って西大寺駅の改札を通ろうとすると、あろうことか定期が見当たらない。入れる場所を間違えたかと、改札の前で財布をひっくり返してみる。たいていはどこかに紛れ込んでいてすぐに見つかるものだが、昨日に限っていくら探しても出てこない。これは普通じゃあない、探してもダメだと諦めて、20円だけ残っていたスルッと関西カード(あとで書くようにこの日に買った掘り出しもの)で改札を通り抜けることにした。
2駅だけ乗る電車の中で、最後に定期を出したのはどこかを思い出してみる。すると、金曜日に近鉄奈良で改札を出た22時半過ぎだったことに思い当たった。そうだ、あの時は改札を出て定期をしまうときに、バスに乗るのに備えて、バスカードを取り出したんだったっけ。あの時に入れ替わりにスルリと落ちたに違いない。それならば近鉄奈良駅に届いているはずだ。
そう確信し、近鉄奈良の改札で尋ねてみた。いつですか? 昨日ですが。それなら駅長室で聞いてみてください。というわけで、反対側の改札の向こうにある駅長室を訪れた。すると、ぼくが駅長室のインタホン近づく直前、母娘連れに先を越されてしまった。女子高生と思しき娘さんが忘れ物をしたらしい。中がどうなっているのかわからないから、仕方なくその子が出てくるのを待つ。
入れ替わりにインタホンを押して開けてもらい、ようやく中に入る。長い廊下が続く。これなら続けてインタホンを押してもよかったのだ。それはともかく、ああそれならありますよと今にも言われるだろうと期待して、その時にはもう確信になっていた定期を落とした顛末を駅員さんに話し始めた。ところが、反応があまり芳しくない。少しお待ちくださいと待たされて言われたのは、昨晩から今までこの駅で定期の落とし物はありません、だった。
そんなバカなとは思うとともに、買ってまだ10日ほどにしかならない、来年のこどもの日まで有効な定期券を落としたショックがじわじわと襲ってきた。出てこなかったら買い直しですか、と恐る恐る聞いてみる。磁気定期券ですね、それなら再発行はできません。IC定期なら別ですが、とこともなげにいわれてしまった。もうこうなったら退散するしかなく、駅長室をあとにした。

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バス停に向かいながら考える。落としたのでなければ……。そうだ、昨日は紙袋と買い物袋を持っていたではないか! それらを持ったまま左手に持つ財布に定期をしまいバスカードを出そうとしたのなら、きっと袋の中にすっと滑り込んだに違いない。家に戻って袋を探せば出てくるだろう、なーんだ、そういうことだったんだと、またしてもそう確信してホッとして、間もなくやって来たバスに乗り込んで家へと向かったのだった。
家に戻って鍵を開けるのももどかしく、まっすぐにその袋に向かう。さりげなく出てくるに違いない、見つかる場面も頭に浮かばせつつ探してみると……。
袋には何も入っていなかった。探し方が悪いのかと、一緒に入ってた本や書類の間も全部めくってみたけれど、定期のての字も出てこなかった。こうなると一巻の終わりである。諦めるしかない。いつものぼくならば、ここできっと大きな後悔に苛まれていたに違いない。世の中そううまく行くわけがないではないか。いったいなんていうことだ。
ところが昨日のぼくは今思っても不思議なくらい冷静でいられた。なくしてしまったものは仕方がないではないか。自分がだらしないからいけないのだ。もう買い直す決心が固まりつつあった。以外にサバサバした気持ちだった。

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一週間に一度だけ寝坊のできる日曜日の今日、朝9時にかけた目覚ましが鳴る直前に目が覚め、セットした目覚ましが鳴るのを3回聞いていた。今はもはや電話には接続していない古いガラケーが今のぼくの目覚まし代わりで、まだケータイとして機能していた時に入れたオルゴールのメロディー、ラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌが流れるのである。5分おきのスヌーズ機能なので、9時10分に3回目を聞いたあと、目覚ましを止め、起き上がる。
するとふと記憶が甦ってきた。最後に定期を使ったのは、金曜日の夜でない! 昨日土曜日の朝に京都で降りるとき、精算機で精算して降りたではないか! 定期を精算機に入れたのは間違いない。改札をちゃんと出ているのだから、精算自体は無事済んで、精算した切符を通しているはずだ。じゃあ、定期はどうしたか。ちゃんと受け取っていれば財布にしまっているはず。それがないということは……。そう、精算機から取り忘れたのではないか!何でそんなことに気付かなかったのだろうか。
朝ごはんの心配をする前に、急いで電話番号を調べて京都駅に問い合わせてみた。間違いなかった。届いているという。奈良であれば送ることもできますよ、いつ受け取りに来ますか? 逆に、いつ届きますか? お昼でも大丈夫ですよ。そうなのだ、電車でつながっているのだから送るといっても郵送などではない、電車を使って運ぶのだ、そんなことにも気が付かないなんて……。というわけで、夕方受け取りに行くことにしてそれまで近鉄奈良駅に届けてもらう段取りとなったのである。冒頭にいた近鉄奈良駅への往復というのは、その定期を受け取りに行くためだった。

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こんなばからしいことを長々と書いてと言われてしまいそうだが、それだけ見つかった事への感謝の気持ちが大きいのである。きっと次に精算した人が気付いて届けてくださったに違いないのだが、見つけてくださった方、それを受け取って保管しておいてくださった駅員の方、電話の対応をされた駅員の方、奈良まで運んでくれた方、多くの方々のお手を煩わせつつ、今こうしてぼくの手許に定期は戻ってきた。またやってしまったと思う気持ちと、これだけ多くの方々に支えられて危機をくぐり抜けられた事への感謝の気持ちを書きとめておきたかった。
それともう一つ、なくした定期が出てくるという確信を持ち続けていたのかどうかは自分でもよくわからないけれど、こうして戻ってくるまでぼく自身が不思議なくらい平静な気持ちでいられたことがとても不思議で、気持ちの動きも含めて書きとめておきたかったのだ。出てくるだろうという期待を何度も裏切られても、そこで落ち込むことなく次のことを考えられた。一旦諦めかけていたのに、一晩寝たら記憶が向こうの方から甦ってきた。
最後に使ったのが昨日の朝だったことを何故今朝になって突然思い出したのか、逆に言えば昨日どうしてそれに気付かなかったのか。いろいろと考えれば考えるほどわからないことだらけだが、今回の経験の最大の教訓は、ものをなくしたときになすべきことは、それを最後に見たのが、あるいは使ったのが、いつ、どこでだったか、それを冷静に思い出してみることに尽きるということだ。至極当たり前のことではあるが、これがいかに難しいかを思い知らされた。

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それにしてもなぜ、精算機に定期を取り忘れるなどということになったのか。そもそも昨日は朝の目覚めからして普通ではなかった。6時47分のバスの乗って行く必要があって、5時50分にさっきも書いた亡き王女のためのパヴァーヌのオルゴールの目覚ましをかけて寝たのだが、朝ふっと目覚めたとき(娘が出掛けた気配があった)、妙に明るくて変だと思ったら、なんと6時46分! そんなバカなと思いつつ、着替えて(出掛ける用意はこの日に限って何故か前の晩に全部整えてあった。これもまた不思議)、ヒゲもそらずに出掛けようとすると、イヌたちがどうもまだ朝ごはんがまだらしく、娘が出掛けたのならぼくがやらなければ彼女たちは食べはぐれてしまうので、慌ててみんなの朝ごはんを準備して、そうして家を飛び出して、傘を忘れて一旦戻りバス停に走ったら、運良くバスがちょうど来るところだった。時間を見ると、57分。起きてからわずか10分余りだ。乗るはずの電車は6時13分の京都行き急行。調べてみると、仮にこれに乗れなかったとしても、次の特急に乗れれば、ほとんど急行と違わない時間に京都が着ける。それがわかって、大きくため息が出た。それなら遅刻しないで済む。ほとんど奇跡に近かった。土曜のこの時間は道も空いていて、近鉄奈良に着いたのは11分、予定の急行に間に合ったではないか。大げさかも知れないけれど、思わず感謝の祈りを捧げてしまった。
さあそれからが京都までの50分ほど、ほとんど爆睡に近かった。ギリギリに飛び乗ったので、座れはしたもののいつもの端の席ではなかったが、船を漕ぎながらほとんど正体もなく寝てしまい、気が付けば電車は京都のホームに停車しつつあった。あれあれと思って急いで身体にエンジンをかけて降りる準備をして立ち上がり、改札に向かう。そして、数台ある精算機に一つに定期を入れ精算をする。そして、その瞬間を迎えたというわけなのである。急行の到着が少し遅れたらしく、乗り換えのJRの方はいつもの電車に乗れず1本あとになってしまい、下車して次に乗るバスは長蛇の列で、仕方なく降りてから20分歩くのを覚悟で地下鉄に乗る。そうしてとにもかくにも最終目的地に間に合ったのだった。
いつもそのバスに乗る前に1000円のスルッと関西のカードを買うのだが、どうせ買うなら少しでもきれいな図柄のがよいので、いつも地下鉄の券売機まで行って買うことにしている。券売機ごとに買えるカードの図柄が示されているのだが、昨日に限って表示のない券売機にお金を入れてしまい、しまったと思ってあまり期待せず出てきたカードを見ると、これまで見たことのない、高山寺の鳥獣戯画のカードだった。こんなこともあるのである。

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こうしてついてるのだかついてないのだかわからない、いったいどうしちゃったんだろうというようなことが朝から続いていた。もうその時には忘れ物をしでかす決定的瞬間は過ぎてしまっていたのだけれども、まさかこの日の帰りにあんなことが待ち受けていようとは、気が付く術もなかったのである。朝の目覚めが全ての始まりだったのである。あとから娘に聞いたら、ぼくが出かけて行くのを聞いていたという。一旦出掛けてからすぐに戻って来たでしょう? そこまで知っている。そう、ぼくを眠りから呼び覚まして出かけて行ったのは、家内だったのである。だったら、犬たちのごはんは娘が準備できたはずなのである。てっきり家内はもっと早くに出掛け、娘にも後れを取ったと思い込んでしまっていたのだった。間に合ったからよかったようなものの……。いや待てよ、あの時家内が出掛けなければ、ぼくはまず間違いなくさらに寝過ごしていたはずなのである。そうすればまず大幅な遅刻をしでかしていたに違いない。定期を忘れることはなかったかも知れないけれど、もっと取り返しの付かないことになっていたに違いないのである。
自分のだらしなさに原因があるのだし、終わりよければ全てよしとまでは言わないけれど、なにか全部歯車が噛み合ってこうなっているように思えてならない。たった一つでも歯車の噛み合いがうまくいかなければ、こうはいかないのである。そう思うと、人知を越えたものを思わずにはいられない。怒濤の一週間の締めくくりとして、こんなによくできた筋書きは拵えようと思っても拵えることはできないだろう。
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2015年11月03日

晩秋の大台ヶ原を楽しむ─堂倉山から地池高へ─

久方ぶりの大台ヶ原を堪能する機会を得た。子どもたちがまだ小さかった頃、八木から奈良交通のツアーバスに乗って大台へ出かけたことがある。積雪があった記憶があるけれど、冬期は通行止めのはずだから、晩秋のことだったのだろうか。駐車場から日出ヶ岳に登り、正木ヶ原、尾鷲辻と回って駐車場に戻る周回コースで、時間の関係もあってか、大蛇嵓へは行かなかった。
川上村さえずいぶんと遠かったような気がするし、ましてまだループ橋もなかった頃のことだから、和佐又方面への新伯母峰トンネル手前の大台への分岐に着く頃にはもうくたびれていて、よくぞこんな遠くまでと思ったものである。ここから右へ今度はよくもまあバスが通れるものよ、と思える狭い道をくねくねと高度をかせぎつつトンネルの上を通って大台方面に向かう。伯母峰峠のトンネルを抜けたあとは、大台ヶ原の駐車場まで20㎞ほど山上のドライブを楽しめたはずなのだが、記憶がない。
その後伯母ヶ峰に登ったことはあったが、もっぱら大峰方面から展望するだけだった大台ヶ原の核心部へドライヴウェーを終点まで行くのは本当に久しぶりだ。目指すは地池高という、標高1,398.8mのピークである。最初は一体どこにある山だろうと思っていたくらいだったが、紅葉のシーズンで混雑する日出ヶ岳の近くに、こんなに静かな趣のある山があったのである。

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大台ヶ原の駐車場へは、紅葉シーズンということもあって少し難儀した。駐車場に降りたって最初に驚いたのは、明るく快晴の天候の割に強風が吹き荒れていることで、まるで冬の季節風のようだ、気温はさほど下がっていないけれど、偏西風帯が一気に南下して寒気が流れ込み始めている、そんな感じの風の体感だ。
さて、大台ヶ原の駐車場が既に1,575mの標高があるわけだから、今回の山旅は実は相対的に見ると下って山頂を極めるのである。尾鷲辻までは整備の行き届いた石敷きの舗装といってもよい道が続く。足慣らしにはちょうどよく、大台特有の明るい森が展開する。休憩所のある尾鷲辻からは、やっと山道らしくなって、一旦少し下ったあと、尾根の南側の山腹を水平に進むようになる。行く手には、雑木林の間から堂倉山らしい丸い頂も望めるようになる。このあたりは自然林の気持ちのよい道が続く。
尾鷲辻から堂倉山への道で.jpg
〔尾鷲辻から堂倉山への道で〕

やがて広場状の所から右に回り込むような感じで少し許り高度をかせぐと、ほどなく堂倉山の小広い山頂に着く。ここの登りは明瞭な道があるわけではないけれども、何処をどう登っても高い方に歩めば行けるという感じの道だ。堂倉山は優しい自然林に囲まれた頂で、南側に少し下ると僅かだが展望もある。ここで、昼食をとる。今日の強い風をほとんど感じさせない、憩うにはちょうどよい山頂だった。
堂倉山の山頂にて.jpg
〔堂倉山の山頂にて〕

堂倉山からは、今日の行程では最も傾斜のある場所、しかも下りで、帰路が思いやられる急さ加減である。左手には、正木ヶ原方面が高く望め、じきに明るく開けた谷筋の源流という感じの鞍部に着く。ここは、日出ヶ岳から東に伸びる尾根の南側を詰めてくる谷筋の一部が南に分かれて上がってくるところで、ちょっと不思議な感じのする開けた鞍部となっている。日出ヶ岳から伸びる上記の尾根が北に高く望め、たいへん気持ちの良い地点だ。谷筋を駈け上る風の強さが、大台ヶ原の駐車場で最初に感じた今日の印象を思い起こさせる。
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〔堂倉山を振り返る〕

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〔堂倉山から地池高への鞍部(左に直角に曲がる地点)〕

ここから一旦左に90度折れる感じで尾根上を行く道は、ところどころ露岩を左に巻いて進むようになり、徐々に高度を上げて行く。林の中の道ではあるのだが、本当に優しく穏やかな光景が続き、大峰山系とはまた違う、他ではちょっと味わえないような独特な雰囲気が漂う。
そうこうするうちにさほどの疲れも感じることなく、明るく南側の展望の開けた、申し訳程度の山名板の置かれた地池高の山頂に着く。何だかこう懐かしくなる感じの、大台特有の明るい林が特徴的な頂で、いつまでものんびりと寝転がっていたら気持ちいいだろうなと、心から来て好かったと感じさせる、心を解きほぐしてくれるような場所だ。
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〔明るく気持ちの良い地池高の山頂〕

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〔地池高山頂にて〕

山名が特定できないのが残念だが、南から南西にかけてはさらに山々が連なっている。少し東を望むと、青い水面が見える。ダム? と思って地図を対照すると、あれはダムではない、尾鷲方面の太平洋ではないか! ちょうど湾状に海が回り込んでいる部分が、あたかも湖のように見えていたのだった。奥深い紀伊半島を横切って太平洋が望める地点まで来ていたのである。頂の明るく開けた印象は、そんな環境の反映なのかも知れない。もっとも、尾鷲も大台ヶ原も雨の多さで名高いところである。太平洋を渡ってくる気流の影響を受けやすいわけで、両者がこんな感じにつながっていたことがいまさらのようによくわかる。この辺りも降り出したらちょっと想像を絶するような雨になるに違いない。
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〔地池高山頂からの展望〕

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〔地池高から尾鷲湾を望む〕

足下の茶色い落葉の間に赤いものが目に入る。よく見ると、それは紅葉した葉っぱ2枚だけの今年芽吹いたばかりの広葉樹だった。こんな小さくても立派に紅葉するのである。太平洋の眺望ととともに、大きな感銘を受けた地池高山頂での一頁だった。
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〔小さなモミジ(こんなに小さくても紅葉している)〕

帰路は往路をそのまま戻ることになるが、方向が変わると同じ道とは思えない新しい発見もある。往路に日出ヶ岳かと思って見ていた丸い頂は、実は正木ヶ原で、日出ヶ岳はそのさらに右手奥にある展望台のある頂であることがわかった。
でも、先程紹介した鞍部まで来ると、もう日出ヶ岳は隠れてしまって見えなくなっているのだ。それにしてもここからの展望は素敵だ。日出ヶ岳へと登り詰めていく北側の尾根は、是非一度歩いてみたいという気持ちにかられる絶好の眺望を見せている。
さて、ここから堂倉山へは往路に下りながら危惧していたように、ひと汗かかされる登りだったが、地池高の山頂で癒やされた心と身体にとってはどうということもなく登り切ることができた。堂倉山からは一旦少し下って左に尾根の南側に回り込み、あとはダラダラ登りという感じで、少しの高度を上げれば、左から大蛇嵓からの道を併せる尾鷲辻の休憩所の地点に飛び出す。ここから大台ヶ原の駐車場までが長かったし、紅葉見物の人も結構いてもう下界に降りてきたという感じだが(実際には今日の行程では駐車場が一番高度があるのだから、何とも言えず不思議な感じがする)、心も身体も軽くなってわけなく辿り着くことができた。
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〔帰路堂倉山への登りで見かけたブナの巨木〕

今回の山旅では、最後にもう一つうれしいおまけがあった。それは大台ヶ原ドライブウェイからの大峰山の夕景の大展望である。往路も順光で山々ははっきりと見えたが、逆光にシルエットとして見える大峰山の眺望は圧巻だった。中でも、八経・弥山から行者還、大普賢へと続く至近の尾根道は神々しくさえあった。なにぶん動いているバスの車中からの眺望なので、じっくりというわけにはいかないけれど、逆にさまざまな地点からの眺望を連続的に楽しむことができ、逆光と諦めていた割には、思いの外の写真に収めることができた。一日の山旅の無事とともに、思わぬ収穫を得られたことを心から感謝したい。
逆光の八経ヶ岳・弥山・行者還岳・大普賢岳と手前に和佐又山.jpg
〔逆光の八経ヶ岳・弥山・行者還岳・大普賢岳と手前に和佐又山〕

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〔大峰山夕景〕


          §           §           §

実は今日は大峰の山旅を楽しんできたばかりなのである。そんな日に大台の話をアップするのもどうかとは思うけれど、季節はずれになってしまわないうちに、書いておくことにする。大台・大峰というそれぞれ独特の特徴をもつ巨大な山塊に、お互いの展望を楽しみながら登れるというのはなんと恵まれたことか。又剣山からの大峰山、逆に和佐又山からの大台ヶ原の眺望は忘れられない。こうした巨大な山塊どうしを、縦に望み合うことができるというのはまさに稀有のことであるように思う。そうした地の利があるとはいっても、だからといって普通はそう気軽に日帰りで登れる地域はそう多くない。案内してくださる先達があって初めて訪れることのできる山塊なのである。さまざまな条件が重なって、自分自身もそこに身を置けている奇縁を思わずにいられない。
今日登った山からは、まだ登ったことのない、いつかはきっと登りたいと思っている釈迦ヶ岳が望めた。奥駈道の一つとして縦にみると単なるピークに見えてしまうのだが、それでもその風貌からは、以前真冬の小峠山から見た、神々しいばかりにどっしりと根を張って雪を頂く釈迦ヶ岳の姿を思い起こすことができた。
ラベル:奈良 季節
posted by あきちゃん at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2015年11月01日

40年ぶりの奥多摩大岳山(後編)

(承前)秋の奥多摩大岳山に向かう道、サルギ尾根からの道との合流点で、腹ごしらえを充分にして出発。まもなく奥の院からの尾根道をどうということのない形で併せる。道はむしろ今歩いている道がメインで、尾根道が横から申し訳程度に合流してくる感じだ。ここからなら周回コースとして戻ることはできる。これより先に足を踏み入れたら、あとは行った道を戻ることになる。母の体調をはどうだろう。弁当を食べる直前は少し弱気なことも言っていたが、分岐でどうするか母に相談すると、迷うことなくここまで来たら大岳まで行くという返事。それならよし、行けるところまで行こう。こちらも腹を括ることにする。
サルギ尾根・高岩山方面への分岐(芥場峠)と奥の院方面からの道との合流点.jpg
〔サルギ尾根・高岩山方面への分岐(芥場峠)(左)と奥の院方面からの道との合流点(右)(いずれも帰路撮影)〕

ここからは、暫くはごく快調な水平の美しい尾根道を行く。そのうち次第に露岩で現れてきて滑落注意の表示が出始め、右側には鎖やひものかかったところもある。左側は結構な傾斜で落ちている。大岳が近づき始めているのがわかる。高校時代、一人で大岳へ向かった折の記憶が甦ってきた。あの時も露岩は確かに多かった印象だが、単調な尾根道にアクセントが加わって、かえって快調に距離をかせげたように思う。今日はなかなかそうはいかないけれども、母も岩の上り下りを楽しんでいる様子。結構な段差も厭うことなく登っている。木々の合間から大岳の大きな姿がちらりとのぞく。あと少し、がんばれ。
ほどなく、大岳山荘の前に飛び出す。以前の山荘は今はもう使っていないようで、廃屋同然になっている。鳥居の前にはここもたくさんの人が休憩していた。馬頭刈尾根へ降るパーティーの話も聞こえてくる。休憩を含めて4時間はかかりそうだからそろそろ行かないと暗くなるよなどという声も小耳に挟む。もう14時少し前だ。
大岳山頂直下から馬頭刈尾根方面を望む.jpg
〔山頂直下から馬頭刈尾根方面を望む。登頂後に撮影した写真。父と歩いたとき、本当にあんなところから登ってきたのだろうか?〕

          §           §           §

さあ、いよいよあとひと登り、100mの標高差。ここは結構急で、岩を掴みながら登った記憶もあるが記憶は明瞭でない。往復30分というからなんとかなるだろう。足が届かない程度の段差もある露岩もあったが、結構手がかり足がかりはあって、母も特に手助けを必要とすることなく登ることができ、思っていたよりも楽に南側が広く開けた山頂に着いた。
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〔小広い大岳山頂〕
御前山方面を中心に、かなり雲が沸き立っているけれど、よくみていると雲の動きがかなり速い。見えないと思っていると、急に遠方の峰が顔を出したりする。御前山の山頂はなかなか顔を出してくれなかったが、南から南東方向遙か彼方にかなりの高さを感じる峰が時折見え隠れしている。方角的には裏高尾だ。その端に一つ離れた鋭峰は、あれは高尾山に違いない。そうすると、あのあたりは陣馬山!、和田峠までが林道に切り開かれていてがっかりしたものの、これも父母と歩いたことがあるなつかしの山だ。
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〔雲湧く御前山〕
北側は雑木が伸びてほとんど展望が利かない。40年前はどうだったのだろう。この程度の雑木なら、結構な勢いでの伸びるに違いない、、今見ているこの景色も、今度来るときにはどうなっていることだろう。そんなことを考えながら母と展望を楽しんだ。母もiPadで写真を撮っている。結構大きくてがさばるであろうに、おなかの部分に大事に詰め込んでここまで持ってきたのだ。
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〔山頂の秋景色(鋸山方面への道)〕

岩場の下りを心配したけれど、岩場部分は案外どうということもなく降れた。むしろ往路には気付かなかった湿った砂利道の方が滑って怖い。岩場では阿弥陀岳の登りなどの思い出話をしながら降った。あれは高度感も出て怖かった、あのときの思いからしたら、このくらいどうということはなく降りられる。大岳山荘の前には展望台風の場所があり、なぜか立ち入り禁止にはなっていたが、ここからは山頂で見えた裏高尾方面の山並みが、くっきりと鮮明に望めた。
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〔大岳山荘付近から高尾山・裏高尾方面を望む〕

          §           §           §

山頂をきわめた余韻からか、岩場の続く道も快適にゆける。下りの苦手な母は、ストックをフル活用して、膝への負担をできるだけ減らして歩けたようで、昔はなかったストックの効果は抜群だった。あとで聞いたら、足よりもむしろ腕から肩にかけての疲れの方が大きかったという。それだけ膝への負担は軽減されたということなのだろう。ぼく自身はストックを使って歩いた経験がないものだから何とも言えないけれど。
奥の院への尾根通しの道を左に分け、高岩山への尾根道を少し行ったところで綾広ノ滝へ降る分岐を左に入る。往路に昼ご飯を食べたところだ。斜めにまっすぐ降ったあとジグザクに高度を落とし、橋で谷を左岸に渡ればあずまやのある岩石園の入口。綾広ノ滝への道を分け、ここからは水平に御岳神社へ向かう道に入る。歩いてみて驚いた。この道はほぼ水平で歩きやすく、しかも舗装こそされていないものの凸凹も少ない。いったいなんのためにこのような道を整備したのだろう。地図を見ながら行くと、どんどん距離をかせいでいるのがよくわかる。
そのうち右下に並行して走る山道が見えだした。あれは……。まもなく奥の院からの道を左から併せ(鳥居がある)少し行くと、先程の道が右手から上がってきて合流する。見覚えのある導標がある。そう、往路は奥の院へは行かないからと、ここを左に入ったのだった。振り返れば、奥の院への入口の鳥居がよく見える。ぼくらはそこをその左手からやってきたのだった。御岳神社から来るなら、確かに右方向が奥の院への道ではあるのだけれど、山腹を巻く道も鳥居の所までは一緒だったのである。地図で確認すればわかりそうなものを、これには完璧にだまされた。
岩石園入口までの行程を考えるなら、天狗岩・綾広ノ滝経由に比べたら、復路の道の方が格段に楽である。でも、どちらがおもしろいかといえば、逆にそれは比べものにならないだろう。谷筋の探勝路は、今日の行程の中でも特別の位置を占めている。大岳への足慣らしとしての意味も大きかったように思う。何事もなく帰途に就けたこと今では、むしろ災い転じての感が強い。何事も結果オーライなのである。

          §           §           §

今回の行程は、母には大きな自信になったようである。普段から平地も結構歩いていることのたまものなのだろう。かなり突然の行程ではあったものの、数日してから足が痛くなったりというような大きな後遺症もなく過ごせているようだ。翻って思うのは、仮に27年後まで生きられたとして、果たしてぼくが母の年になったとき、あれ程に達者に歩けるかという疑問である。まあ、無理だろうなというのが率直な感想だが、いつか開けるであろう山頂の展望が一つの目標になっていることは間違いない。今展望があるに越したことはないが、仮に今展望がなくても、いつかきっと展望の山旅ができるという思い、それがあればこそ足が前を向くのだ、そんな気がする。これは何故山に登るのかという問いに対するぼくなりの答えのような気もする。展望という目標に向かって前を向いて歩けること、そこにまた登ろうという思いが湧いてくる秘密があるように思う。そんなことまでふと考えさせられた山旅であった。
ラベル: 記憶 季節
posted by あきちゃん at 12:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする