2016年06月29日

バッハにモーツァルトの旋律を聴く

教会暦に従ってカンタータを聴き始めて2年めに入っている。融通無碍というか、あまり無理せずに聴いているので、曲ごとに聴き方には随分と精粗が出てしまうようになってしまった。
気に入った曲が見つかれば、暦の進行を無視して聴き続けることもあるし、逆にその犠牲になって今年はほとんど聴けずに済まされてしまった曲もある。レントに入ってカンタータが基本的にお休みの期間は、そんなお気に入りの曲を聴くにはもってこいだが、復活節を迎えたあと暦どおりに聴くのを復活させるのが、なにしろ名曲、大曲が目白押しだからたいへんで、未だに教会暦に充分復帰できているとは言い難い状況にある。
それにしても、バッハのカンタータたちは、いつ何度聴いても新鮮だ。去年から間が空いているせいもあってか、一度は耳にしているはずなのに、こんな曲があったのかと、しばしば感動を新たにする。
それと、よく経験するのが、よく似た曲を以前どこかで聴いたことがあるという感覚で、そういう時はたいていそれが何の曲かわからないものだから、結構なストレスにもなる。バッハのカンタータなら、一年聴いていればまたどこかでお耳にかかることもあろうからと、さしてこだわらずにも済むのだが、バッハ以外の人かも、と思い始めるとなかなかそうはいかない。それに、いざその曲にめでたくめぐり会えたとしても、これまでの経験からいうと、その場でそれと認識できることはまず滅多にない。いつも後の祭り状態で、気付いたときにはあれなんだったっけ、となる。メロディで引けるデータベースがあったらなあ、とつくづく思う。
そもそも曲の類似はどうやって客観的に判断できるのだろうか。旋律が同じでもリズムや和音によっては全然違う印象になるだろうし、同じ楽譜で演奏しても、テンポが変われば全く異なる曲に聞こえることもある。
不思議なのは、テンポの違いが曲の印象を変える曲とそうでない曲とがあることだ。なんについてもいえることだが、理詰めだけでは割り切れないものがある。それを超えた絶対的な何かがあるのは間違いないことだとは思う。そうでなければものごとの秩序がこうも保たれるわけはなく、偶然の中に必然を見出したいのだけれど、まああまり深入りはしないでおこう。

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さて、最近印象に残った曲、悩まされた曲に、BWV177がある。最初に大合唱、そのあとにアルト、ソプラノ、テノールと、アリアが3曲も続く贅沢なカンタータである。
アリアはもちろん素晴らしいのだけれど、一聴気になったのは、最初の大合唱である。オーボエの短い序奏のあと、細かく昇り降りするヴァイオリンに導かれて、螺旋状に下降する常套的な、しかしやはりついついホロリとさせられるメロディーが現われて合唱が現れる。それが一端途切れ、2回めに合唱が登場したあと出会ったのが、ソプラノについと現れる持続音を伴ったメロディーだったのである。あっ、と思ったあと、これはさて、と冷静になって考えてみると、どう考えてもこれはモーツァルトのレクイエム以外のなにものでもないではないか。
バッハがモーツァルトを、いやそんなことはあり得ない。BWV177は1732年に作曲された曲、レクイエムはモーツァルト最晩年の1791年の曲である。くだんの旋律はこのあともソプラノに何回か見え隠れして消えて行く。
これと同じことを感じたカンタータが実はもう1曲あったのを思い出した。それはBWV10のこれまた第1曲の大合唱である。そのときはあまり気にもとめなかったのだが、こう似たのがいくつも出てくるのはどうしてなのだろう。もしかしたらこの旋律はひどく著名なコラールで、バッハもモーツァルトも同じものを使ったということなのだろうか。
そこで、少し調べてみると、BWV10については川端純四郎先生のいわば絶筆になってしまったコラール辞典の貴重な原稿があり、歌詞は「ドイツ語マニフィカト」と呼ばれるもので、新約聖書ルカ福音書1;47-55(いわゆる「マリアの賛歌」)のドイツ語訳をそのまま使い最後に頌栄をつけたものであるということがわかった。BWV10は1724年7月2日のマリアのエリサベト訪問の日のために作曲されたコラール・カンタータであって、当たり前のことではあるけれども、まさにこのコラールにぴったりのカンタータなのである。
そして、肝心の旋律の方は、「巡礼者の旋律」(tonus peregrinus,Pilger-Ton)と呼ばれる詩編唱第9旋律であることが、たいへん丁寧に説明してあった。探していた旋律はまさにこれに違いない。BWV177については特にこの旋律を用いているとの説明はなかったけれど、大合唱でソプラノに現れるメロディーも、この「巡礼者の旋律」に似ている(とぼくが感じた)ということなのであろう。
BWV177、Meine Seel erhebt den Herren(私の魂は救い主である主をあがめ)は、三位一体節後第4日曜日のためのカンタータであるから、マリアのエリサベト訪問の日のためのカンタータであるBWV10とはごく近接した時期の曲である。もしかしたら、そうしたことも、このコラールが歌われるメロディーである巡礼者の旋律が、BWV177に登場する理由なのかも知れない。
川端先生が挙げておられるこのメロディーを使った他のバッハの作品としては、BWV648(シューブラーコラール集)、BWV324(四声コラール)、BWV323(四声コラールだが歌詞は別) がある。手許にあるニコル・マットのコラール集のCDにはこれらは入っていないので、残念ながら聴き比べることはできなかった。
ここでぼくがくだくだ書いているようなことは、ただぼくが知らなかっただけで、詳しい方には既に自明のことなのかも知れず、本当にお恥ずかしい限りではあるけれど、このことを知ったということはぼくにとっては言わば大きな事件でもあったので、書きとめておくことにした。
バッハにモーツァルトを聴いたと思ったのは、60年近い時を超えて、同じ音楽の潮流が脈々と流れ続けていたからなのだった。考えてみればこれはものすごいことである。

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なお、BWV177の演奏としては、手許にガーディナー、鈴木雅明さんとBCJ、リリングの3種類があり、テンポがかなり異なる。第1曲の演奏時間は次のようになっている。
 ガーディナー 7'01"
 リリング 7'18"
 鈴木雅明・BCJ 6'15"
今年最初に耳にしたのはガーディナーで、テンポ的には中庸の演奏といってよいだろう。これに対し、次に聴いたリリングは演奏時間からいうとそれほどガーディナーと違いはないのに、曲の出だしからしてずいぶんとゆったりとした印象を受ける。ヴァイオリンがレガートしてつないでいるからかも知れない。音もガーディナーに比べると随分と分厚くしっとりと聞こえる。これと好対照なのが鈴木雅明さんとBCJの演奏で、ガーディナーに比べると約1割早い訣だが、聴いた印象はもっと速い感じがする。
ただ、なぜだろうか、以前書いたことのあるBWV95やBWV184がテンポによって全く別の曲に聞こえたのに対し、BWV177の大合唱では、テンポの早い遅いが曲の全体としての印象にそれほど大きく影響していないのである。最初は随分せせこましく感じた鈴木雅明さんとBCJの演奏も、何度か聴きこむうちに、あまり気にならなくなってくるから不思議だ。ヴァイオリンの細かな昇り降りがちょっと悪魔的な感じさえしてきて、曲に適度の緊張感を与えてくれるように思う。ただどれが一番好きかと問われれば、しっとりとしたしかも分厚い合唱の印象的なリリングの情緒を取りたいというのが本音のところだ。
例によってナクソスのミュージック・ライブラリーでこの他の指揮者の演奏を聴いてみた。
 クイケン 6'30"
 コープマン 7'38"
 アーノンクール 6'30"
 ヤーコプス 7'17"
コープマンはリリングよりもさらに遅いが、響きが透明なせいか、リリングのような重厚感はなく、むしろ悪くいえばやや間延びした感じになっている(ように聞こえる)。ただ、いずれにしてもテンポの差異による曲の全体的な印象の違いは、さほど顕著には感じられなかった。
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2016年06月22日

寝過ごした訣ではないのに……

今日は年に一度の恒例の命の洗濯の日。大阪まで半日のコースの人間ドックに出かけてきた。昨晩の段階では、こともあろうにちょうど出掛けの時間帯に大雨が降る時間予報が出ていて、今年は行けるのか知らんと心配していたのだが、なかなか降り出さずやきもきしていたのだった。
夜中に結構な降りだった微かな記憶があるが、今朝起きると雨はもうほとんど上がりかけていた。それなりの降りではあったようだが、雨雲は短時間に駈け抜けて行ってしまったらしい。大阪に着いた時には傘はもう無用の長物という天気になっていた。心配して損したという感じの回復の早さである。
しかしまあ、そう単純には事は運ばないとみえて、今朝もまたひとしくじりしてしまった。上本町で谷町線に乗り換えて3つめ、というのが頭にインプットしてあるのだが、さて次の駅だ、降りよう、と準備を始めていると、何だかいつもと様子が違う。こんなに駅の間隔があったかしらんと思うくらい、なかなか降りる駅に着かない。
不安は的中し、次の駅に着くと全く聞いたことのない駅名のアナウンスが流れた。ここはどこ?、と思って車内の案内図をみるのだが、慌てていることもあって、そんな駅はどこにも見当たらない。自分はいったいどこにいるのか、またしても位置座標を見失ってしまった。確かに谷町線に乗り換え、目的地に向かう方向の電車には乗ったはずなのだが……。それとも……?、一瞬不安が過ぎる。
ドアが閉まり、次の駅に向かう地下鉄の中で、自分が今どこにいるのか、やっと位置座標を取り戻した。その駅は降りる予定の駅の次の駅だったのである。つまり二つ乗り越してしまっていた訣だった。
いったいどうしてこういうことになったのか。乗り換えてから3つ駅を数えるのに、一つ停車駅を数え忘れたとしか考えられない。比較的混んでいて、一つずつ駅名を確認していけたわけではないのも気付くのが遅れた原因になっているのだろう。
結局二つ先の駅から折り返して事なきを得た訣だが、この間の新大阪までの寝過ごしと言い今度の乗り過ごしといい、ちょっと我ながら最近どうかしている感がある。でも、寝過ごすならともかく目覚めていてこうなるのは自覚がないだけに不安が大きい。二度あることは、にならないよう少し気を引き締めていかねばとは思うが、気持ちの引き締めだけですめばよいのだけれど……。
雨上がりの大阪城西の丸.jpg
〔雨上がりの大阪城西の丸〕
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2016年06月19日

新幹線を寝過ごす

考えてみれば、品川で乗ったときからして普通ではなかったのかも知れない。3人がけ窓側のA席にすわり、帰路の新幹線で片付けようと思っていた仕事を始めていた。B・C席は空いたままである。新横浜を過ぎて暫くした頃、通路を女性が3人行ったり来たりしている。何だろうとは思ったものの気にせずにいたら、どうも近づいてくる気配。席を間違える訣などないと思い込んでいるので。1人があのう……、と声を掛けてきた時も、全く悪びれずに顔を上げたのである。はっきりは言わなかったけれど、自分たちの席だということらしい。5号車のこの席と確認して乗ったので、自信をもって切符を取り出して見せ、間違えありませんと説明しようとしたのだった。
切符を見せてほらこれ、と言おうとして、目を疑った。番号は合っているのだが、号車が6号車とプリントしてあるではないか! 目の前が真っ白になった。あ、間違えた、6号車でした、みたいなことを口走ったことは覚えている。あるはずのないことが起きてしまった、いや、やるはずのないことをやってしまっていた。呆然として、急いで移動をと思っても、お店を広げた状態だからそう簡単には事が運ばない。網棚にも荷物が2つ、カバンとお土産の紙袋が上げてある。それらを降ろし、広げた荷物をともかくどこでもいいからと詰め込んで、脱いでかけてあった上衣を急いで羽織り、すみませんと謝ってそそくさと5号車をあとにした。自動ドアまでの通路の長かったことったらなかった。
それはそうである。若い(と決めてしまっているけれど、恥ずかしくてまともに顔を見た訣ではない)女性が3人連れで取ってあったはずの一列の席の一つに座っている男がいたとしたら、困り果ててしまうことだろう。これがまた、なによあんた、ここあたし達の席よ、風に言われたとしたら、こうまで恥ずかしくはなかったのかも知れないが、気の毒なくらい申し訣なさそうにしてくれていたのが、かえってこたえたのだった。
でもあのシチュエーションで忘れ物をせずに所定の席に移動できたのは、不幸中の幸いだった。直前まで使っていた5本入りのコレトが見つからなくて、ああこれはてっきりあの席に忘れてきたと思い、彼女たちが届けなくてはと探してくれてたりしていたら申し訣ないことだなどと本気で思っていたのだから、上着のポケットのあらぬところに詰め込んでるのを見つけた時には、、全くおめでたい奴だと自分でも呆れるばかりだった。

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とまあ長くなってしまったが、実はここまでが前置きである。本命はこれからだ。名古屋の手前くらいまでボツボツと仕事を続けていたが、急に睡魔に襲われてやむなく作業を中断した。あと10分で名古屋のアナウンスを聞いた記憶はあるが、名古屋に着いたのは全く覚えていない。アナウンスからだいぶん経ってから、駅に着いたような微かな記憶があり、随分長い10分だったなあと感じたことをあとから思い出したが、ここからあとは完全に記憶が飛んでいる。意識を取り戻したのは、列車が減速を初めて駅に近づいた雰囲気を感じた時で、暗くてよくわからないが、どうもいつもと様子が違う。京都の手前には大津から逢坂山と山科の長いトンネルが2つあり、降車準備のよい目安になるのだが、もう山科トンネルを抜けたのだろうか、それにしては景色がおかしい。渡るはずの鴨川の橋がないのだ。自分がどこにいるのかわからない、自分の位置座標がつかめないというのは本当に不安なものである。この宙ぶらりんの状態は、長かったように思うがもしかしたらほんのちょっとだったのかも知れない。アナウンスが入る。まもなく新大阪に着きます! 位置座標がわかった安堵感を味わうまもなく、一瞬で事態を飲み込んでいた。乗り越したのである。なんていうことだ。でも新大阪でよかったと思えるだけの余裕はあったし、パニクることもなく奈良へ帰る算段をもうその時考え始めていたから、まあ優秀というべきか。
初め新大阪で降りて御堂筋線経由で難波に出るルートも考えたが、結局新幹線で京都で戻るのが一番早いとふんで、上りホームへ急ぐことにした。5分ほどで上りのぞみが来るとわかり、自由席へ急ぐ。アナウンスがあり、これが今日の上り最終だとわかり、一瞬汗が引いた。当然まだ列車があるつもりでこのホームへ来た訣で、綱渡りさ加減に自分でも呆れてしまった。
3人がけの通路側に何とか座れたが、A席には飲み食いの跡が散乱している。帰って来る雰囲気がなく、酔っ払いがそのまま新大阪で降りて行ったに違いない。だらしなさにも程がある感じだが、切羽詰まった感じにある者にとっては、妙にホッとするものがあった。京都まで何分かかるのだったか。何時に帰れるのだろうと調べると、所要15分。ということは、と近鉄の乗り継ぎを調べる。なるようにしかならないとは思うのだが、京都までの15分は長かった。
結局新大阪まで正味30分の往復をした訣だが、当初乗るつもりでいた特急の30分あとの特急に余裕で乗ることができた。ほとんど奇跡的といってもよい。あと少し気付くのが遅れたら少なくとも新神戸までは行っていたわけだから、その日のうちに帰り着けなかった可能性が高い。以前、京都から乗った特急で八木まで行ってしまったことがあったけれど、あの時は西大寺を発車した時にすぐ気付いた。しかし今回は次の駅に近づく直前まで気が付かずにいた。しかも新幹線である。よくまああのタイミングで気付くことができたものという思いを禁じ得ない。
自分の不注意とはいえ、いろんな事が起きるものである。でも、最終的には大事に至らず、思わぬ旅のおまけをいただいたと思うならこれはこれでまた一興。感謝の気持ちをもって受け入れることができたのは、ありがたいことであった。
タグ:鉄道 日常
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2016年06月06日

iPhoneの使い方あれこれ

ガラケーからスマホに乗り換えて1年半になる。そもそもケータイを持つようになったのが2009年のことで、それも父の入院を機に母に促されて仕方なくのことだった。父が逝ったのはそれから半年後のことで、海外出張中だったぼくは、ケータイにかかってきた母の電話で父の死を知ったのだった。死に目に会えなかったのだから、緊急連絡用としては当初の目的を果たしたとは必ずしも言えないだろう。
結局5年半使ったガラケーで一番役に立ったのはLISMOで、音楽プレーヤー、いわばウォークマンの代用だった。その次がカメラとしての機能で、比較的高画質の写真の撮れるカメラを備えた機種だったのが幸いだった。三番手がオルゴール音楽をダウンロードしての目覚まし機能であって、ケータイとして機能を終えた今でも、毎朝亡き王女のためのパヴァーヌを鳴らして、目覚ましとして活躍してくれている。
スマホへの乗り換えを思い立ったのも、実はインターネットへの接続が目的ではなく、ガラケーのLISMOが容量いっぱいになってしまい、新しいCDを買っても一部を削除しないと聴けなくなってしまったからだった。ならばiPodでもよかったようなものだが、5年半も使ったガラケーの更新時期であったのと、iPhone6の発売時期が重なったことで、意外とあっさりと決断を下したのだった。

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それから1年半が経ち、思った通りiPhone6Plusは音楽プレーヤーとして大活躍している。今250枚以上のアルバムが入っているから、バッハのカンタータ全集でいえば、5組は充分入れられるのである。今のところはガーディナーのカンタータ巡礼シリーズ全集のほか、リリングと鈴木雅明=BCJの演奏の8割方が入っていて、ヴェルナー、ロッチュ、ヘレヴェッヘ、そしてリヒターを含めていろいろ取り合わせた状態になっている。
ただ、もうそろそろ満杯で、64GBでは不足するようになってきてしまった。128GBにしておけばよかったとつくづく思う。そうなった原因はといえば、カメラとしての機能が思っていた以上に優秀かつ便利で、思いの外たくさんの写真を撮るようになったことだろう。メモリ不足で写真が撮れなくなって、iPhone上から古い写真を削除しながら写真を撮るようなことがしばしば起きるようになってしまったのである。そのためにはiCloud経由でPCに写真をダウンロードしておけばよい訣だが、これが結構手間ではある。先月5日間ほどPCを持たずに旅行に出た際には、仕方なく音楽を大々的に消去してメモリを空けなくてはならなくなってしまった。
カメラについて言えば、まだ充分に使いこなせてはいないが、ビデオ撮影機能も優秀である。車窓の風景などの撮影にはもってこいで、先日はこれにはまってしまった。もう一つはパノラマ撮影。ガラケーのカメラのつもりでいたら、iPhoneのパノラマ撮影は自動的につないでパノラマ写真を作ってくれることを恥ずかしながらこの間初めて知った。前回に紹介した山のパノラマ写真3枚はいずれもこうやって撮影したものである。iCloud経由の写真の共有も便利な機能だ。そんなこんなで、最近は小型のデジカメを持って出かけることがほとんどなくなってしまった。

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最近重宝している機能に、メモがある。思い付いたことや思考のかけらを書きとめたり、忘れてはいけないことを思い出したときにメモしておくのに、紙と鉛筆を持っていればもちろんそれでもよいのだが、メモした紙をなくしたりメモした場所を忘れたりすることがしばしば起きる。メモしたこと自体を忘れてしまうことさえある。
その点iPhoneのメモ機能を使えば、テキストは勿論、手書きで何色も使って書くことができる。これまではメモ書き程度の利用が専らだったが、拠ん所ない事情で作文が必要になって、通勤途上のバスの中でiPhoneをワープロ代わりに使うことになって以来、メモ機能が手放せなくなってしまった。これはあるいはぼくが最初に手にしたスマホが6Plusであったことによるのかもしれない。ぼくにとってはPlusが普通の大きさで、通常の6は小さく感じる。Plusであればこその入力のしやすさもあるのだろう。なお、Wi-Fiが飛んでいるところであれば、iCloud経由でたちどころにテキストデータが得られるのも便利なことこの上ない。
この他iBooksやiTunes Storeもありがたい。ダウンロードの購入は勿論なのだが、著作権が切れた作品のダウンロードや、曲のさわり部分(結構長く聴け)の試聴などでも重宝している。あとはさまざまなアプリ。これは一期一会的なところもあるけれど、目的に合ったアプリが見つかればこれほど便利なことはない。
例えば、今使っているものに山歩きの記録に使うFieldAccessというアプリ(400円)がある。行程の記録が取れ、写真をヒモ付けられ、断面図もたちどころに描いてくれるという優れものである。2日の山になると充電器が必要になるが、日帰りの山ならば写真を撮りながらこのアプリを動かし続けても、バッテリーは充分もつ。きっとこのほかにも便利なアプリがたくさんあるに違いない。
やや地味なところでは、これもアプリのうちに入るが、LINEによる家族内のやりとりも見逃せない。ガラケーのときはいわゆるCメールが普通だったが、ぼくがスマホを持つようになってからは、LINEが基本になった。電話をかけるほどでもないようなとき、気軽な意思疎通には欠かせないアイテムとなった。思い思いのスタンプも楽しい。

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家族で話してみると、iPhoneの使い方は微妙に違っていて、話を聞いてみて初めて気付く使い方も結構多い。また、自分で使ううちに偶然気付く機能もある。ぼくが便利だと思っている機能は、iPhoneの機能の本道ではないのだろうし、まだまだ充分に使いこなせているとは到底言えない状況だけれど、使い方次第で本当に無限といってよい威力を発揮することは間違いない。
タグ:音楽 日常
posted by あきちゃん at 00:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする