2016年08月27日

憧れの釈迦ヶ岳を訪れる

大峰奥駈道の釈迦ヶ岳(1,799m)に登った。待望の山頂である。大峰・台高の山々を訪れるようになって以来、その名は親しいものにはなっていた。しかし、その風貌を意識し始めるようになったのは2年前の冬、小峠山から見た雪を頂く神々しいまでの山容に魅せられてからのことである。又剱山から、和佐又山から、清水ヶ峰から、ヒバンダーラから、小橡山から、涅槃岳から、そしてこの5月の南奥駈縦走路から、先日の日出ヶ岳から……、幾度あの山頂に立ちたいと思ってきたことか。
標高は1,800mに僅かに足りず、大峰の最高峰1,915mの八経ヶ岳、1,895mの弥山や1,894mの明星ヶ岳、あるいは1,805mの仏生ヶ岳など、奥駈道の他の山々にその席を譲る。しかし、その端正な風貌という点では大峰随一というのが大方の見方だろう。

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十津川側の旭口から旭ダムをめざし、さらに木屋谷林道を登り詰め、新登山口まで上がる。ここが既に1,300m近いので、山頂までの標高差は500m余りとなる。大峰の秀峰への日帰りを可能にするこの林道の効用は計り知れない。
初め暫く急登が続くが、尾根に出て左に曲がると傾斜が緩み、明るく眺望に恵まれた稜線歩きとなる。右手前方には、大日岳の鋭鋒が望まれるようになる。独特の明るさをもつ稜線である。この稜線の雰囲気はどう表現したらよいのだろう。この5月に歩いた南奥駈の稜線がまさにこうだった。修行の道としての奥駈のイメージとはおよそかけ離れた、強いていうなら、天上の楽園といってよい雰囲気をもつのである。人々を寄せ付けぬ峨々たる山々の奥に広がる別天地といえようか(これとよく似た雰囲気をもつところに、鉄山直下の草原がある)。
奥深い南奥駈の稜線はそう簡単には味わえない。その意味で、この新登山口から古田の森を経て釈迦ヶ岳に至る稜線は、南奥駈そっくりのこの別世界を味わいながら、かつ日帰りで釈迦ヶ岳に達することのできる、まさに奥駈道のよさがギュッと詰まったきわめて優れたコースといってよいだろう。千丈平から山頂までは結構なアルバイトのはずだが、思いの外に気持ちよく登ることができる。
奥駈道の稜線伝い以外に釈迦ヶ岳に至るコースとしては、東側の前鬼から太古の辻に登り、ここから大日岳を越えて稜線を辿るコースがあるが、これは日帰りは無理だろう。前鬼口からの長い林道歩きと、太古の辻の別天地に抜けるまでの深く険しい登りも待っている。それに比べると、新登山口からのコースは、一気に別天地の少し下まで連れて行ってくれ、いきなり奥駈けの核心から歩き始められるという、まことに至れり尽くせりの道なのである。
幸い今回は天気にも恵まれた。釈迦ヶ岳山頂からの展望は無論のことだが、左手に弥山・八経、七面山の岩壁、右手に大日岳から南奥駈の峰々の眺望に恵まれつつ、ちょっと傾いだ姿を見せる正面の釈迦ヶ岳をめざす往路の軽快な稜線歩き、そしてこれらの大展望を眼下に望みつつ降る帰路の爽快さは、まさになにものにも代え難い。
同行した家内にとっては今回は二度目のコースだったが、家内には一度荒天と強風のために登頂を断念し、古田の森から引き返した経験がある。高木が育たないほどに、風当たりもまた強いのである。それを思えば初めての登頂で宿願を果たせたのはまことに幸運で、安定した夏空のもと、これ以上の贅沢な山旅はないといえる、山の日の一日を送ることができたのだった。
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〔釈迦ヶ岳をめざす〕

釈迦ヶ岳山頂の釈迦如来像と弥山・八経ヶ岳.jpg
〔釈迦ヶ岳山頂の釈迦如来像と弥山・八経ヶ岳〕

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〔釈迦ヶ岳から北側の展望(パノラマ)〕

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〔釈迦ヶ岳から南側の展望(パノラマ)〕

展望の稜線を下る(左上に台形の山容が特徴的な南奥駈の笠捨山が見える).jpg
〔展望の稜線を下る(左上に台形の山容が特徴的な南奥駈の笠捨山が見える)〕

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〔釈迦ヶ岳・大日岳を振り返る〕
タグ:季節 奈良
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2016年08月21日

永井龍男の作品を読む

永井龍男という作家の名は、学生時代から知っていた。永年の業績に対しさまざまな賞を受け、多くはないが文庫本もそこそこ刊行されていた。講談社から全集が刊行されたのが80年代の初めであるから、まさにぼくの学生時代ということになる。
しかし、ぼくの場合、そういう世間的に注目を集めている作家に対する関心は、今もそうだが当時も驚くほど低く、著作を手に取ることもなかった。短編の名手であるということもあるいは関係していたかも知れない。
結局この年になるまでその作品は一編も読まずに来た訣だが、ふとしたきっかけでその世界に目を開かれることになった。それはIBooksでダウンロードした堀辰雄の「絵本」という、永井龍男の短編集『絵本』に因んだ作品である。
「絵本」の由来も知らずに斜め読みして、永井(龍男)と呼び捨てにされて登場する作家が、ぼくの学生時代に晩年の円熟の境地を迎えていた前述の永井龍男であるとは、俄に思い浮かばなかった。
それというのも堀辰雄といえば戦後まもなく亡くなったいわば歴史上の作家であり、かたや永井龍男はぼく自身も30年程度の生をともにした現代の作家だという認識があったからである。
ところが、実は永井龍男は堀辰雄と同じ1904年の生まれであり、しかも12月生まれの堀に対し、永井は5月生まれ。著作デビューもむしろ永井の方が早いのである。その後同じ同人誌で活躍するようになって親交が生まれたようだが、永井龍男は職業としての編集者の道を歩んだため、作家としての大成はずっと遅れることになる。しかも契機は敗戦後の公職追放であった。文筆で生きることを余儀なくされたのである。戦争中に鎌倉に移りそこで生を終えたので鎌倉文士と称されたが、生まれは東京・神田である。

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今その作品に手軽に触れようと思うなら、新潮文庫の『青梅雨』しかない。講談社文芸文庫で出た作品集のうちには、『一個 秋 その他』のようにまだ在庫があるものもあり、遺稿集となった『東京の横丁』の刊行も計画されているようだが、1,000円を超す文庫をそうおいそれとはお勧めできない(でも、是非多くの方に読んで頂きたいという思いはある。講談社文芸文庫は値段が高いのが難点だが、収録作品は充実しており、また解説が読みごたえのあるのもうれしい)。
晩年は身辺に題材を取る作品が多くなり、私小説とも随筆ともつかない作品が多くなる(もちろんそんな区別など永井龍男の作品を読むにはどうでもいいことである)が、その真骨頂は人生の断面を切り取ってきたようなフィクションにあろう。飄々としたというとやや語弊があろうし、淡々としたというのとも違う。示された一つの断面から、人生全体をまるで3Dを見ているように立体的に俯瞰できるといったらよいだろうか。もうこれしかあり得ないという言葉を用い、かつ極度に切り詰めて綴られた気風の良い文章ともいえようか。

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代表作は、入手しやすい『青梅雨』所収の作品でいえば、例えば「冬の日」。この作品の手触りは、他の作家のどんな作品にも味わえぬものである。淡々とした叙述の中に折り込まれるすさまじい情念には畏怖すら覚える。同じ畏怖でも「青梅雨」や「青電車」、それに遺作集に収められた「冬の梢」の場合は、いずれも死を題材にした作品であるだけにもっと直接的で、永井龍男を考えるキーになる作品だとは思うが、むしろ恐怖をさえ覚えてしまう。
それよりは、連作短編といってよい「コチャバンバ行き」や「皿皿皿と皿」の飄々とした味わいには、本当に捨てがたい愛着を感じる。中でも「皿皿皿と皿」の味わいは秀逸で、「作者(わたし)」が2回も作中に登場するのには驚いた。その登場の仕方、役回りが読者の裏をかいているときているから、なおさらである。突拍子もないといってしまえばそれまでだが、全く違和感を感ぜずに読めてしまい、読者はいつのまにやら作者の術中にはめられてしまうのである。
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〔新潮文庫版『青梅雨』のカヴァー。山に持っていって夕立に遭い、悲惨なことになってしまった……〕

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永井龍男の作品には、鎌倉を中心とする湘南と並んで、彼が生まれ育った昔の東京の姿が描かれているものが多い。1904年生まれと言えば、ほぼぼくの祖父母の世代である。同じ永井でも、もうひと世代上の(1879年生まれ)永井荷風の描く東京(例えば『日和下駄』など)は、言葉では理解できても、なかなか実感できない部分がある。それに比べると、永井龍男の描く東京には共感する部分が多い。場所がぼくの育った地域により近いということもあるが、子どもの頃に言い聞かされて育った、祖父母が見聞してきた世界と時代的に重なるものがあるからなのだろう。
世界、ないし世相と並んで、作品の中味についても共感を覚える(実感の湧く)のは、やはりこの二世代上くらいまでが限度なのではあるまいか。恐らくそれは、生きた時間が確実にオーヴァーラップしており、しかもその間にさまざまな経験が情報として伝えられるからなのだろう。その意味でいえば、核家族化が進行して以後の世代にとっては、こうした小説の読み方にも、大きな変化が生じているのかも知れない。善し悪しではなくて、文化の継受という点で、これは見逃せない観点だろう。

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最後に、随筆の中に見つけた恐ろしい言葉。
「……その人の思想、感情を出来るだけ正確に表現するのが文章の役目である。また文章は、文章自体でなり立つのではなく、その人の思想、感情の表現として、はじめて形をなすのである。」
「……うまい文章を書こうと努力するのはまちがっている。正確な文章を書こうとすることこそ、根本だと、私は思う。/それならば、正確な文章を書く秘訣とはなにかということになる。/秘訣は文章にあるのではなく、表現したい思想なり感情を、しっかりとつかむことにある。……」
(いずれも「正確な文章」〈「身辺即時」所収。『へっぽこ先生 その他』講談社文芸文庫〉)
言い表したいものがうちにあり、それを正確に伝えようとするところから、文章の修練は始まるというのである。伝えたいものもないのに、うまい文章を書こうとしてもできる訣がないではないかという、なんとまあグサリと突き刺さる、身に覚えのある言葉ではないか。
タグ:読書
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2016年08月14日

BWV187の大合唱を聴く─バッハの円環─

バッハのカンタータは始まり方にもいろいろあって、そのヴァリエーションも楽しみの一つだが、大合唱で始まるものはちょっと居住まいを正して聴かなくてはという気になる。中でも短調で滔々と始まる曲想のものは、ミサの冒頭のキリエを聴くような厳粛な気持ちにさせられる。
ここのところ心に染みついて離れないBWV187もその一例だろう。1726年に作曲された三位一体節後第七日曜日のためのカンタータで、今年は7月10日だったから、もうかれこれひと月前のことになる。

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出だしはヴァイオリンとヴィオラだけだが、これを受けて2小節目でオーボエの重奏がもう忙しく動き始める。けっして荘重というのではないけれど、何が起きるのだろうと不安をかき立てられる開始だ。
合唱が始まってこれが一段落し、再度合唱が導かれると、Wenn du ihnen gibest, so sammlen sie, wenn du deine Hand auftustの歌詞を乗せたメロディーが、バスから順に次第に高い方へ、テノール、アルト、ソプラノへとそれぞれ3小節遅れで導かれて行く。いずれもWenn du ihnen gibest, so sammlen sieまで歌われたところで、次のパートが始まるので、一つ前のパートのwenn du deine Hand auftustと次のパートのWenn du ihnen gibest, so sammlen sieが重なって進むことになる。ソプラノまで受け継がれると、今度はこのメロディーがいわばさらに展開されていくことになり、少しずつのヴァリエーションを含みつつどこかのパートでいつもこの主題が鳴っているという状況で曲はどんどん高揚していく。
この主題が現れるまで、実は結構長いのである。それまでが本当に待ち遠しいのだが、この道のりがさほどの長さには感じられない。気持ちを充分高めさせた上でちょうど全体の真ん中辺りで満を持してこの主題をさらりと繰り出してくるのである。主題が登場したあとは、この大河のようなフーガの流れにどっぷりとはまってしまう。もう本当にめくるめくという感じだが、流れに翻弄されるというのではなくて、聴き手を優しく包み込んで運んでくれるという印象だ。
楽譜を見ながら聴いていると、展開過程では、バス、テノール、ソプラノ、アルト、テノール、バス、ソプラノ(ここのソプラノは少し主題の入り方が違う)、アルト、テノール、バスと受け継がれていくのがわかる。テノールにはヴィオラが、アルトには第2ヴァイオリンが寄り添うことが多い。展開過程では主題が特に強調されることはなくて、音だけ聴いていると、主題を核としつつも全体が渾然一体となって昇華していく、それこそ薫香となって立ち上って行くという表現が相応しいようにさえ思える。まもなく、その余香を慈しむかのように最初のメロディーが戻って来たあと、曲は意外とあっさりと閉じられる。しかしそれだからかえって、その深い余韻はいつまでも消えずに残るのである。

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このBWV187の第1曲の演奏時間は、カンタータ巡礼のガーディナーで6'41"ほどで、これもしっとりとした演奏だが、例によってリリングはこれを7'29"かけてたっぷりと慈しむように演奏している。逆に、鈴木雅明・BCJはこれを5'44"で駈け抜ける。未聴だが、コープマンは5'33"、リヒターは5'17"とさらに快速である。これまた未聴だが、レオンハルトの7'10"というのは意外だ。レオンハルト晩年の突き抜けたような演奏に通じるようなものなのだろうか。これは是非聴いてみたい演奏だ。
ただ、このくらいの曲になると、どのようなテンポで演奏しようが、どれもみな素晴らしく聞こえるように思う。個人的にはリリングの演奏を好むけれど、テンポの影響をあまり受けないようにも思うのである。バッハ自身はこれをどのようなテンポで演奏したのだろうか。もっとも、リリングを聴いてしまうと、ガーディナーの場合テンポは比較的ゆったりしているのに、リズムの強調がちょっと耳に付く感じがする。鈴木雅明・BCJはリズムは自然だがいかにも快速に過ぎる気がしないでもない。
こうした点と関連して興味深かったのが、BWV187の多くの曲を転用して作られたミサ曲BWV235である。
 第1曲キリエ BWV102の第1曲
 第2曲グローリア BWV172の第1曲
 第3曲グラティアス BWV187の第4曲
 第4曲ドミネ・フィリ BWV187の第3曲
 第5曲クイ・トリス BWV187の第5曲
 第6曲クム・サンクト BWV187の第1曲
という具合に、BWV187の7曲のうち4曲までもが転用され、BWV235の6曲のうち三分の二を占めるに至っているのである。
ただ、順序は大きく入れ替わっていて、件の第1曲は、BWV235では締めの第6曲の母体となっている。そこで、早速小ミサ曲集のCDを求めて聴いてみた。この時も随分悩んだ。誰のどの演奏を選ぶべきかである。リリングにも2種類あるのだ。散々悩んだ挙句に選んだのが、リリングの新しい方の録音だった。パロディの原曲のBWV187第1曲ではリリングの全集に伴う演奏に最も親近性を感じていたからかも知れない。
聴いてみて驚いた。同じリリングの演奏なのだが、BWV235の終曲の方は、快速も快速の演奏だった。もちろんパロディなのでそのままに比較はできない。パロディはいわば再創造であるので比較は無意味なのかも知れない。リリングの解釈という限定付きではあるが、バッハ自身がかなり違う意味づけを与えて作曲し直していることを示しているのだろう。
リリングのBWV187を含むアルバムと小ミサ曲第2集.jpg
〔リリングのBWV187を含むアルバムと小ミサ曲第2集〕

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ついでながら、リリングのミサ曲集でBWV235の次に収録されているBWV236の第2曲グローリアを聴いてこれまたびっくりした。耳に馴染んだ曲なのだが、颯爽とした演奏で曲としてツボにはまっているのである。BWV236は初めて聴く曲だったはずなのにいったいこれはどうしたことなのか。
調べてみて納得した。これもカンタータのパロディだったのである。原曲はBWV79の第1曲、宗教改革記念日のための輝かしきカンタータ冒頭の曲だった。これも昨年聴いていた曲のはずである。その時には特別気に入った形跡はないのだけれど、いつの間にか耳に焼き付いていたのだろう。なんとも不思議なことである。
ロ短調ミサを考えれば何の不思議もないことではあるが、パロディ恐るべしである。かつて自分が作曲した曲を存分に生かして最高のミサを作る、それはまさに作曲家冥利に尽きることだったのであろう。とすれば、先程書いたように、やはりむしろパロディの方にこそ、バッハ自身の行き着いた境地が示されているはずである。ぼくにはまだまだ困難な道だけが、そんな目(耳)でカンタータとミサ曲を聴き比べられたらいいなと少しだけ思った。
バッハの円環の中をグルグルと回っている、いや回らされているだけなのだが、至福の経験の一つである。

【追記】
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2016年08月08日

奥高野の名峰と山村を訪ねる

今夏の天候もようやく定まってきた感がある。35℃を超える気温を記録する日も出始めた。ただ、梅雨明けが変則的だったこともあってか、梅雨明け十日の安定というわけにはいかず、ここ一週間は毎日全国どこかが大夕立に見舞われような状況が続いている。先日博多から新幹線で帰ってきた日は広島県内で山陽線がストップしていたし、月曜日は新幹線が愛知県内で運転を見合わせた時間帯があった。ここ数日も、奈良市内はほとんど一滴も降っていないが、10㎞と離れていない大和郡山では連日大雷雨だったようだ。
ようだ、というのは、最近は雨雲レーダーをリアルに確認できるからで、1時間に何十㎜という雨を降らせるような、中心に真っ赤に塗られた部分をもつ雷雲の消長・移動の過程を居ながらにして見ることができる。雷雲がどこで発達してどう動いていくかが手に取るようにわかるのである。直近の落雷情報を細かく知らせてくれるサイトもある。いつどこからやって来るかもわからなかった昔の状態に比べたら、夕立の予測は格段に精度が上がったといえる。
そうはいっても、痛ましい落雷の事故は今年も後を絶たない。雨も降っていない、しかも比較的明るい状況でいきなり落雷では本当にひとたまりもない。開けた雷の落ちやすいところでは、早目に避難するしか避ける手立てはないだろう。

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今回の山は、そんなわけで夕立は覚悟の上であった。雨の山も装備さえしっかり調えておけば、雨そのものはけっして怖くはない。もちろん落雷は恐ろしいが、樹林帯にいる限り直撃ということはまずない。しかし、あそこまで降られると、もういかんともしがたく、その意味ではむしろまたとない経験だったともいえる。
目指したのは奥高野の名峰と言われる七霞山(891.2m)と、そこから東南に延びる尾根の突端にある小粒山(716.9m)。尾根の南側の丹生川沿いにある上筒香という集落から登り、西隣の中筒香の集落に降るコースである。
ここは和歌山県伊都郡高野町に含まれるが、北は五条市、南は野迫川村でいずれも奈良県である。つまり和歌山県側から奈良県に向けて出っ張った部分にあたる。一つ東は十津川に向かう天辻峠を越える国道168号線のルート、一つ西側は東から高野山に向かうルートで、これらに挟まれたのが東ノ川沿いに遡るルートである。西富貴集落と東富貴集落の間で分水嶺を越えると、今度は道は丹生川沿いに初めは南に、そして今回登った小粒山から七霞山への尾根を回り込むように西にゆるやかに降るようになる。
その山懐に一つひとつ優しく抱かれように位置しているのが、東(上流)から上筒香、中筒香、下筒香の集落である。標高450mほどでけっして山深くはないけれど、別天地といってよい趣の山村である。三集落あわせて人口は65人ほど、水田とミョウガが特産の村である。中筒香にあった小学校の跡を地域の拠点「筒香よりより広場」として活用し、積極的に地域外との交流を図っていると伺った。
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〔丹生川沿いの折り重なる山塊を望む〕

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筒香には、五条方面から来ると、前述のように分水嶺を越えて丹生川の上流から入る形になり、上筒香の集落で道路は直角に左(南)に曲がって丹生川を渡る。今日の山道は、この橋の右岸のたもとから橋とは反対に北へまっすぐ向かう細い道に始まる。
道はまもなく右に尾根に取り付くようになる。筒香峠を越えるこの道は、丹生川沿いに自動車道路ができるまでは筒香と富貴を結ぶ生活道路として使われていた道で、今では倒木もあってかなり荒れてはいるが、幅もかなりあって荷車くらいは通行していたのかも知れない。元々よく踏まれた道だったようだ。
とはいえ、500m程度の標高のこの季節だから、出発準備の間だけでも橋の上で随分と干されたし、風の通らない森林帯の中もそれなりのアルバイトであって、結構な汗をかかされる。途中伐採されて日当たりの良い箇所があり、直射日光がすさまじかった。真冬ならこの日射しをありがたがるのになあと、ふと自分の身勝手を思ってみたりもする。
40分ほど登った筒香峠の手前で峠への道から一端離れ、右に戻る形で小粒山に向かう。分岐点だけは登りだが、あとはほぼ水平に山腹を行く道で、その後若干の上下を繰り返して約20分、最後は鉄塔を目指してひと登りすれば三角点のある小粒山に着く。出屋敷峠を挟んで、唐笠山や白六山方面と覚しき山々が鉄塔の行く手に見渡せる。鉄塔の西にわずかに足を運べば、これから向かう七霞山の特徴的なピークがよく見える。確かに名峰と呼ぶに相応しい風貌の山である。
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〔小粒山から七霞山を望む〕

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〔小粒山から出屋敷峠方面を望む〕

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来た道を戻り、今度は筒香峠に向かい、峠で富貴に向かう峠越えの道と分かれて左に細い尾根道に入る。アカマツの多い自然林を行く道は所々不明瞭だが、ともかく尾根筋を外さないように細かな上下を繰り返しながら辿る。尾根筋を横切るいろんな道が錯綜していて、うっかりするとそれらに引き込まれてしまいそうになる。
小粒山から小一時間の870mのピークに登る手前の鞍部でお昼。ここは風が通ってとても気持ちがよい。このころにはもう日射しがなくなり、歩きよいのは助かるが、夕立の心配が頭をもたげてくる。一瞬ゴロゴロいっているのを聞いたような気がしたのは、このあたりだっただろうか。
870mのピークへの登りは、食後すぐのこともあって結構こたえる。そのあと840mほどの細長いピークを越えると、帰路辿ることになる中筒香からの道を左から合わせ、昼食の鞍部から約50分で突然林道に飛び出した。アスファルトではなく、コンクリートの舗装のしっかりした道である。いったい何のための道かと思いつつ、山頂までこの道かと諦めていると、七霞山方面を指示する標識があった。左に山道に入り、鉄塔の所から少し藪漕ぎがあったものの、山頂への有終の美を飾れることになった。
展望は利かないものの、静かな趣のある頂だった。七霞山とはいったいどのような由来のある命名なのだろう。きっと何か謂われのある名に違いない。高野山が近いことにも関係しているのだろうか。ただそれにしてはあまり抹香臭い感じはない山域だ。
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〔七霞山の山頂〕

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林道に出た辺りからゴロゴロは言い出していたような気がするけれど、山頂をあとにし、林道を辿ろうとする直前にいよいよ夕立がやって来た。上だけカッパを着用する。冬の雪催いの時に着た記憶があるが、雨でまともに着るのでは初めてではないだろうか。林道に出た頃にはそれこそ車軸を流すような雨になり、道路端は一瞬にして川になっている。雷鳴もかなり近い。25分ほどで林道から森林帯に入り、中筒香への山腹をトラヴァースする道を辿る間、ずっと雷雨が続く。時折、金属音のつんざくような雷鳴にも見舞われたが、多人数のこともあり、森林帯の通過でもあって、さほど恐怖感がなかったのが幸いだった。とはいえ鉄塔に近づくところが何ヵ所かあって、少々冷や冷やした。
道端に三角点のある鉄塔のところまで35分、ここから細い尾根道で高圧線の下を潜る。この細尾根は降ってきた七霞山からの尾根道を遠望するまたとない地点で、雲に彩られたさまはまことに絵になっていたが、いかんせん雨粒に遮られてカメラを構えるどころではなく、頭の中に焼き付けるだけとなった。
あとはひたすら中筒香の集落をめざす降り道で、約40分の道のり。まだ集落が見えないうちから激しい川音が聞こえてきて集落が近いことを知る。お墓の傍を通る頃には雨もようやくあがり、中筒香の集落は雨に洗われた緑がことのほか美しかった。降りきって朝方の穏やかな表情とは一変した丹生川の流れを目の当たりにすると、1時間半に及んだ夕立のすさまじさを今さらのように実感した。
それにしても最後にこんな風景が待っていてくれたのである。暖かいのは夕立で生き返った景色だけでなかった。旧筒香小学校の「筒香よりより広場」では、わざわざカギあけてくださって用を足すことができた。靴を脱いで逆さまにすれば水が流れ出るし、脱いだ靴下はしぼれるほど。リュックにも水が入って悲惨なことになってはいたけれど、もうそんなことはどうでもよかった。かもきみの湯の充実したラインナップで疲れを癒やすまでの1時間余り、この得難い体験の山旅の余韻にタップリと浸りながら、船を漕ぎ続けたのだった。
雨上がりの中筒香集落.jpg
〔雨上がりの中筒香集落〕
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2016年08月02日

関門橋をめぐる錯覚ふたたび

自分の記憶、いや学習とは、ここまでいい加減なものなのか、呆れ返ってしまった。学習したつもりでいたことをきれいさっぱりと忘れてしまっているのである。修正したつもりでいた間違った理解がいつの間にか復活し、確固として生き続けている。一度染みついてしまった理解が、それを拭い去ったつもりでいても、気付かぬうちにいつのまにかまた復活してきている。頑迷なことこの上ない。

関門橋の夜明け.jpg
〔関門橋の夜明け〕
どこかで見たような写真である。このブログに似た風景を掲載した記憶はあった。そして自分の誤った方向感覚を修正したこともよく覚えていた。しかし、いつのまにやら振り出しに戻ってしまっていたのである。
場所は壇ノ浦パーキングエリア。関門海峡にを望む絶景に恵まれた所である。壇ノ浦が本州、つまり下関側の地名だということに気付けば全然難しいことはない。向こうが九州、つまり門司側だということが、理屈で理解できたはずである。しかし、どういうわけかわからないが、向こう側が下関側で、今海峡を渡ってきたところだと思い込んでいたのである。
それが間違いであることに気付き、その経緯をかつて紹介したのだった。それにかかわらずである。思い違いをして理解を修正した記憶まであるにもかかわらず、再び向こう側が下関だと思い込んでしまっていたのである。
どうしてだろうかと、つらつら考えてみた。多分こういうことなのだろう。九州は本州の西に位置しているから、海を西に渡った位置に九州はあるはずだ、そんな頑固な思い込みから逃れられないのではないか。実際には、関門橋は実は海を東から西に横断するのではなかった。なんと北西から南東に向かって海を渡り、門司側に到達するのである。ここに120度以上の方位感覚のずれがあるのである。つまり、逆方向といってもよいくらいに、感覚と実際が乖離していることになる。
これに加えて今回は、ここに写っているように見事な朝日が見えていることが、こうした頑迷な錯覚の復活にどうも深く与っていたらしい。朝日の方向は真夏だということを考慮に入れると、東ないし北東であることは動かない。つまり、向かって左が東ないし北なのである。そうすると、東から西に海峡を渡るという思い込みがあるわけだから、向こう側が東の本州側と考えざるを得ないことになる。
修正したはずの方向感覚が再び狂わせた要因は、むしろこの太陽の方向にあったのではないだろうか。錯覚の助長どころではなく、錯覚の復活を導いた根本要因はこの太陽にあったのかも知れない。熟睡の余韻の中のまだ朦朧とした状態にある脳が、まんまとこの太陽にしてやられた、文字通り目を眩ませられてしまったということなのだろう。それがいつからおかしくなっていたのかを認識することさえできないほどに、突然の方向感覚の攪乱受けたのである。それほどにこの朝日の印象は強烈なのだった。
呆れたことが実はもう一つあった。今回のことで以前の記事を探してみた。自分の位置情報の攪乱を同じ壇ノ浦PAで経験したのは、去年のことではないにしても、せいぜい一昨年あたりのことだったのではないかと思い込んでいた。ところが、調べてみるとなかなか見つからない。最後は記事検索で検索をかけてみると、あろうことか2012年のことではないか!(2012/7/23壇ノ浦PAの位置と記憶の連鎖) 4年も前の経験だったということで、何とも複雑な衝撃を味わったのである。
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〔折尾名物かしわめし。帰路は新幹線。関門海峡はトンネルで抜けるから、方向感覚も何もあったものではなく、博多で買った駅弁を食べて過ごす〕
タグ: 記憶
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