ところが、電車で1時間もかからぬ距離になった途端、逆にいつでも行かれるという気にもなり、また仕事にかまけて小まめに訪う余裕、ことに気持ちの余裕がなくなってしまった。これは何も京都だけではない。奈良自体だって同じことである。奈良の寺社を回ることは、奈良に住むようになってからほとんどなくなってしまった。一番甚だしいのは今年も始まっている正倉院展だろう。一年に一度の貴重な機会だから是非見に行くようにと人には勧めているにもかかわらず、勧めている本人は結局行けずじまいという年がいったい何年続いていることか。来寧この方28年、行けた年を数えた方がむしろ早いだろう。
しかし、50代半ばを過ぎていつまで奈良にいられるかもわからない状況が見え始めてくると、今のうちにという気にもなってくる。奈良については大きな変化はないのだけれども、こと京都に関しては思い立って行かないと行けないということもあって、行ったときには寄り道をしてでも、という気が起きるようになってきた。
以前もそうだったのかも知れないが、最近は公開される非公開施設の一覧がかなり前から公表されるようになっているので、事前にあたりを付けておくことできるようになってきた。加えて個別の報道もされるようになっていて、昔だったら公開が始まってから気付くようなことも多かったが、こちらに心の余裕がありさえすれば、いついつからと心構えしておくことも可能になった。
今年の秋の公開の場合、寺社以外としての初めての教会施設の公開される、京都ハリストス正教会の名がネットを賑わせていた。ハリストス正教会というのは、ロシア正教会のことで、その名を聞くと、日本にロシア正教を伝えた聖ニコライが建てたという神田のニコライ堂がまず頭に浮かぶ。多分それは、父に連れられて神田を歩き、初めてニコライ堂を見た時の強烈な印象が今も心を離れずにいるからだろう。緑色の屋根の巨大なドームが脳裏に刻印されているのである。後年ニコライ堂を遠望して、あれこんな大きさだったか知らんと、幼時の印象との違いに唖然としたことはあったが、ぼくにとってニコライ堂と言えば、父と見たあのニコライ堂なのである。その時撮った古いモノクロ写真が、まだ実家のアルバムには残っているはずだ(見るのはちょっと怖い気もするけれど)。
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そんなわけで、京都ハリストス正教会─正式には、京都正ハリストス正教会京都生神女福音大聖堂─だけは今度の公開中で是非拝観したいと思っていた。ちょうど昨日京都を通る機会があったので、ちょっと寄り道することにした。地下鉄東西線を市役所前で降り、市役所の西で寺町通りを右折する。市役所も間近で見るのは初めてで、今改装中のようだが、その壮大な建築には眼を瞠らされるものがあった。これもまた機会を改めてじっくり見に来たいと思わせるに充分なものがあった。
一応道筋は確認してきたものの途中でわからなくなって(地図に書いてある通りの名が、現地ではほとんど確認できないため。せめて○○通りの表示をしてほしい)、まあ碁盤目だから当てずっぽうでも行けるだろうとそれらしい方向を目指していくと、グランドの向こうにそれらしいドームが見えてきた。

〔京都ハリストス大聖堂(グランド越しに東から望む)〕
見えて来てから少し手こずったが、南側の公園を西に抜けて、何とか西の通りに面した京都ハリストス正教会に行き着くことができた。駐車場が確保してあるので少し開けてはいるものの、ほんとに周囲は普通の町中で、大聖堂はその中にこじんまりと鎮座していた。ニコライ堂のイメージとよく似た建築ではあるものの、そのミニチュアのようで本当にかわいらしいというのが最初の印象だった。
ただ、唖然としたのは拝観者の列。聖堂入口からまっすぐ道路まで延び、さらに敷地内を南に折れる。50mくらいはあるだろうか。駐車場の一角だが、拝観を終えて余韻に浸りつつ建物の写真を撮っている人も結構いる。まあ自分のその一員であるのだから、人の多さをとやかく言う資格はない。列に並んで、大勢の中の一人としてあとはちまっと自分の世界に浸るしかない。
中は撮影禁止との表示が見えたので、列が動くたびに新しい位置から建物の概観を撮る。別に入場制限をしている訣ではなく、要は受付の拝観料徴収の列で、思ったよりも早く中に入れる。土足禁止で、ビニール袋に靴を入れて上がるのは、いつも他の施設で経験している通りだ。
鐘楼のある玄関と、聖堂、そして奥の聖所をつなぐ構造になっていて、建物概観から想像していたよりは遙かに広がりがあり、多くの拝観者でごった返しているのをよそに、清澄な空間が展開していた。ふとここが京都であることを忘れて空間に浸ってしまう。
ここに足を踏み入れたとき既に視界に入っていたはずで、あまりにあたりまえにそこにあるので意識することがなかったのだと思うけれど、ふと見上げると、聖所東壁に設置されているイコノスタス(聖障)が、この部分だけ切り出す形で報道されていた通りの様子で、目に飛び込んできた。聖障の名の通り、聖造のはめ込まれた文字通りの障子状の構造物で、ロシアから運んできたものが大き過ぎて、両脇は折り込んで壁に沿わせてあるのだという。運搬の際の破損部分の補修は日本人が手がけて無事完了し、成聖式を1903年に行ったとのこと、100年を経過していることになる。
聖障から離れた所に、パイプ椅子がいくつか置いてあり、しばしここに座って聖堂の雰囲気に浸る。拝観者が多過ぎてここからだと聖障はかなり隠れてしまうけれども、そんなことはどうでもいい。聖障そのものも勿論大事なのだが、それを含み込んだ空間そのものに浸ることが、建物を味わうことなのだと思う。信仰者としてこの建物に入る人々の気持ちに少しでも近付けたらと考えて、暫しの時を過ごす。
帰途は烏丸線の丸太町駅まで歩く。こちらも西に行けば烏丸通りに行き当たるだろうという行き当たりばったりの歩き方で充分。何本か横切る南北の通りの右手を見晴るかすと、そこには御所の濃い緑が鮮やかだ。ほどなく烏丸通りにでて、わけなく丸太町駅に辿り着いた。
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ところで、拝観する方にとってはどうでもいいことだが、京都の非公開寺院の公開が季節を問わず行われているなとは思っていたが、主催団体が異なるようだ。今回の京都ハリストス正教会を含む11月の文化の日を中心とする秋の公開は、京都古文化保存協会というところが主体で、今年で52回め。5月の連休を中心とする春の公開もここが行っているらしい。一方、京の冬の旅と銘打つ冬の公開は、京都市観光協会が中心になって動いていて、来年2017年で51回めだという。夏の旅も担当しているようだ。
見る方にとっては見られさえすればよいことなのだとは思うが、両者の関係はてんでんバラバラで、もう少し何とかならぬものかとは思う。非公開の程度もさまざまで、これまで全く公開されことがなかったところが文字通り初公開される場合があるかと思えば、非公開寺院の公開とは別に特別公開と銘打って公開されることが比較的多い施設が、非公開寺院特別公開にも加わって公開されることもある。非公開寺院の公開の常連さんもあるように思う。
どこが公開されるかは開けてみなければわからず、全く当たり外れの世界に等しい。もちろん、信仰の対象がほとんどであって、参拝者の言い分を押し付けるのはどうかとは思うけれど、文化財としてみたときに、保存という観点を大前提として上で、いわばある程度需要に応える必要もあるだろう。例えば拝観したい非公開施設のアンケートなどは行われたことがあるのだろうか。本当に拝観したいと思っている寺社で、未だ一度も非公開寺院の公開対象になっていないところは山ほどある。これまで50回以上に及ぶ公開の中で、どこがいつ公開されたかのリストのようなものはあるのだろうか。
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そんなことを考えつつ、木枯らし1号の吹くどんよりとした京都をあとにして奈良に戻ったのだった。途中、くたびれて特急で帰ろうと思い京都駅で切符を求めようとした。以前だったら、00分、30分にあった奈良行きの特急が間引かれて、急行(奈良行き急行が減って橿原神宮前か天理行きばかりの時間帯がある)だけでなく特急までもが奈良への便がひどく不便になったことを知って唖然。15分刻みのダイヤが20分を単位とするようになったことによるものだが、奈良への便を軽視したダイヤに、今さらのように近鉄の無神経さに呆れたことであった。
ついでに思い出したが、先日も京都から特急に戻ろうとして、橿原神宮前行きに乗り西大寺まで来たものの、難波から来る奈良行きの乗り換えの接続が全くダメで、あとから来る急行で来ても乗れる奈良行きまで待たされる羽目になったことがあった。いったい何のための特急なのだか……。
もう一つ。西大寺から奈良に向かおうとすると、たいては5分も待てば電車が来るのだが、時折、10分以上待たされる時間帯がある。難波から来る電車がみな西大寺止まりで、一方京都や難波からの奈良行き特急が続けてやって来る。これも精神的に良くない。平面で主要幹線が交差する西大寺駅の電車の捌き方はまさに神業だとは思うが、もう少し均等にはならないものだろうか。
あと最後にもう一つ。これは車を運転する側からの言い分なのだが、西大寺・新大宮間の踏切にはいつもイライラさせられる。ことに奈良行き特急が回送で戻ってくる時。特急通過の際にはどうもはやめに踏切を降ろすようだが、挙句回送特急が悠然と(むしろノウノウと)通り過ぎるのはまことに腹立たしい(その分逆方向の奈良始発特急の回送が必要になるのだ)。ダイヤの都合もあるのだろうが、奈良には4本もホームがあるのだから、無駄な回送で踏切を塞ぐのはやめてほしい。
偽禁煙車に比べたら些細なことではあるけれども、折角の京都行きに後味の悪い思いが残り、ついつい余計な独り言まで書いてしまった。お聞き流しいただければと思う。
キンモクセイが散ってまだ一週間も経たないというのにもう10月末、家のモミジはもう色付き始めている。早いものあり遅いものありで、今年は季節の進みが滅茶苦茶な気がするけれど、今度の冬は寒くなりそうだという。まあ、当たらも予報、当たらぬも予報、くらいのつもりでいればどうということはないのだろうな。

〔散り敷くキンモクセイ、2016/10/26撮影〕