2016年12月30日

漆黒の海岸で見た冬の花火─夢の記憶39

片側一車線の道路の、海とは反対側の車線を走っていた。そちらが海側であるのはあとからわかったのだが、その向かって右側にはいろんな店が並んでいる。歩道にはそこそこ歩行者の姿も見える。店には灯りが点り、夜であるらしい。季節は夏、そう思い込んでいる。
今車を走らせている方の車線は、40㎞/hくらいの早くも遅くないスピードで、スムーズに流れている。一方、対向車線は渋滞気味みで、車が途切れずに連なっている。何か行事があるようで、歩行者が多いのもそれと無関係ではなさそうだ。

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そのうちにふと、今日が花火大会の日であったことが思い出されてくる。以前、ちょうどこんな感じの道路をこんなふうに走った記憶がある。そうだ、木津川の花火大会の日、木津の駅の方に向かう対向車線の渋滞を尻目に、反対側をすいすいと西に走っていたのだった。そうすると、車からは見えないけれど、渋滞している車線の少し向こうには、木津川が今ぼくが走っている方向に流れているはずだ。
でも、夢の中で今そこにあるのは川ではなく、海だという確信があった。海沿いで行われる花火大会の日なのだ。花火の上がる場所からどんどん離れて行ってしまうけれど、これでいいんだろうか、と自問している。行けば行くだけ、この渋滞だもの、戻るのが面倒になるはずだ。そうわかっていながらぼくは、なおも車を走らせ続けていた。なぜだったのだろう?
助手席かどうかはわからないが、この車にぼくはもう20年以上前に亡くなった祖父と一緒に乗っていた。祖父だという確信はあるのだが、顔が祖父であることを確認できたかというと、なぜだかひどく曖昧だ。祖父だという確証はないのに、祖父だと確信していたといってよい。覚めたあとで思い出すと、どうも顔が違っていたような気がしてならないのだが……。
そうこうするうちに、このまま走り続けたら、花火を打ち上げる場所に打ち上げ時間までに戻ってくることは難しくなるだろうという切迫した気持ちが湧いてきて、Uターンしなければと思い付いたらしい。ならば、ぼくと祖父は花火を見るためにここへ来ていてことになるのだが……。

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どこに止めたらよいのだろうと悩んだ記憶はあるが、もう次の場面では、ぼくは車から降りて歩いていた。Uターンして戻るのは諦めたのだろうか。歩いて道路を横切った記憶はないから、駐車スペースを右側に見つけて右折して駐めたのかも知れない。一緒に乗っていたはずの祖父も車から降りたのを見たが、本当に祖父だったのかどうか、最初の自信とは裏腹に、確信がもてない。でも、逆に言えば、祖父のことをずっと気にしていたのがこの記憶からわかるのでもある。
そのまま道路から直角に進み、道路に面して建つコンクリート塀の間に開いた、門のようなところを潜る。すると、門の外は砂浜だった。真っ暗で何も見えないけれど、その向こうには真っ黒な海が広がっているのを知っていた。
ここから先はずっと一人。海に向かって歩くぼくがいる。真っ暗なのに、先に海があるのを確信して足下も気にせず歩く。足下がどうなっているかもわからないし、第一どこから海が始まるかもわからない、危ないじゃないかと内心思いつつ、身体の方は躊躇うことなくずんずん先に動いている。

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気が付くと海に面した堤に腰を下ろしていた。堤といっても、コンクリートの平場の先の海に面した部分が50㎝程の幅だけ一段高くなっている、その30㎝程の高まりに、ぼくは足を平場の方に向けて揃え、海に斜に背を向けて座っていた。
遙か彼方、地平線と水平線の境目付近で花火が上がった。打ち上げ花火の場所からこんなに遠くに来てしまっていたことに気付いて愕然とするが、でもその一方で、まだ花火の見える場所にいたことに安堵している自分もいる。
明るい道路を走った記憶と、今いる漆黒の海岸のコントラストの中に、忘れたように時折はじける花火。いったいどれが現実で、どれが夢なのか。花火の上がる空間はどちらに属する空間なのか、考えれば考えるほど訣がわからなくなる。そして、混沌とした中にいる自分をひとごとのように眺めている自分を見出すうちに、目が覚めてしまったのであった。目覚めたこの自分の意識は、先程までのどの自分とつながっているのだろうか……。
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2016年12月26日

剪定をして過ごしたクリスマス

いよいよ今年もあと一週間というところまで来てしまった。例年この時期に入っている仕事が今年はなくて、珍しく休日の恩恵にあずかることになった。
三連休の初日は今年納めの山、あとの二日は朝寝を決め込み、夏以来うっちゃっておいた庭掃除に費やした。伸び放題になってなっていた生垣のプリペットの剪定である。
多い年には5、6月頃、8月頃、10月頃という具合に年3回刈り込んたこともあったけれど(過去の記事を調べてみると、「例年5月末、梅雨明け後、そして10月頃の3回剪定している」と書いているので、それが当たり前だったらしい。もう記憶の彼方の日々……)、ここ数年はもうそれだけの余裕が体力的にも時間的にもなくなってきて、年2回で済ませることが多くなってきていた。
それが、今年は確か8月頃だったと思うが1回刈り込んだだけで、見苦しく伸びた枝を見ながらついに初冬まで来てしまっていた。さすがにこのまま年を越すのもどうかと思い、ようやく思い立って2回めの剪定にとりかかることができたという訣である。
年3回刈り込んでいた頃は、たいてい大掃除の日に、裏の遊歩道の草引きを終えたあと、午後いっぱいをかけて、表と裏の生垣を一気に刈り込んだものだが、よく1日でできたものだと感心するくらい、今ではとても無理な相談となってしまった。今年はしかも、大掃除に参加できない月が多かったため、1度しか剪定にも取りかかれないまま年末を迎えてしまったのだった。
考えてみれば、今年は庭の芝刈りも1度しかやれなかった。芝刈りも多い年には年に何回どころか、夏には月に2回くらいのペースで刈り込んだことあった。芝は刈り込めば刈り込むだけ旺盛に生育するようで、逆にこちらが手を抜くと、それなりにしか伸びてくれない。庭のケヤキ(と思っていたのが実はそうではなく、エゴノキだったのだが)が伸びてきたここ数年は、かつて一番緑が濃かった西側半分が日陰になってめっきり元気がなくなってきた。そのため土が見えてきて刈り込める部分が減ってきたのも、芝刈りの頻度が落ちた原因だろう。
連休中日は家の裏、最終日は表の剪定をそれぞれ1日かけて行い、どちらの日も片付けを終えてホッと息をつくと、もう日が陰り始めていた。最近は暮れも正月も特段のことをせずに過ごすことが普通になって、生活にメリハリがなくなってきてしまった気がするが、とにもかくにも家の周りだけでも少しはスッキリとした状態で年を越せるようになった。
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〔今年2度目の剪定を終えた生垣〕

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せめて年賀状だけでも早めに、とは思うのだけれど、この分だとまた仕事納めを終えてからになるのだろう。まだ今のところ年賀状くらいは書かねばという気持ちがあるからいいけれど、そのうちに年賀状も書かなくなって、年末年始も単なる休暇に過ぎなくなってしまうのではないか、そんな心配が現実のものとなりつつあるようで怖ろしくもある。
今年の冬は穏やかではあるけれど、当初の予報とは正反対の天気分布になっているようである。確か、長期予報では南日本はそこそこ寒く、北日本は暖かいと言っていたように思うが、ここまで北海道、ことに札幌の大雪が報じられ、一方本州はそこそこの寒気は来るものの根雪を積もらせるようなところまでは長続きせず、年末年始を控えてスキー場の悲鳴が聞こえてきそうな陽気が続いている。
何にせよ世の中、極端に走りがちな傾向にある。普通の冬を普通に過ごしたい、切にそう思わずにはいられない年の瀬である。
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〔教会のクリスマス〕
ラベル:日常 季節
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2016年12月24日

穏やかな初冬の山旅

ほぼひと月半ぶりに山に出かけた。十津川村の風屋ダムの南側を限る尾根にある法主尾山(1,024.4m)である。大峰山系というよりは、むしろ果無山系の東端といった方がよいかも知れない。
風屋ダムの堰堤がスタート地点。風屋は、奈良県の天気予報で、奈良県南部の代表としてお馴染みの地名である。堰堤に降り立つと、途中山々を覆っていた霧も晴れて、ダムの南岸に穏やかに連なる山々が見える。ここから山頂までの標高差は700mを超えるのだが、本当にそれだけあるのだろうかと思うくらい、なだらかな山容である。
法主尾山は、案内書をくると、「ぼうずおやま」とルビが振ってある。坊さんが迷ったから「ぼうずやま」ともいうと聞いた。ただ、この表記なら、「ほうずお」と読んでもいいはずで、それだと耳には「ほうぞう」とも聞こえる。「ほうぞう」ならば宝蔵かも知れない。いずれにしても、仏教的な銘名であるのは確かだろう。
堰堤を南に渡ってすぐのところの鉄梯子から尾根に取り付く。似たようなシチュエーションの登山道としては、上北山村の水尻バス停から始まる小峠山が思い浮かぶ。標高も1,099.9mと似たような高さで、釈迦ヶ岳の神々しいばかりの冬景色を望んだ山としても印象深いが、何よりも尾根の平坦部に出る間での直登のきつかったことが焼き付いている。それで今回も尾根道への直登を覚悟していたのだが、風屋ダムから見上げる景色は見るからに穏やかで、実際登ってみての感じでも、標高差がある割には登りやすかった。
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〔法主尾山の山頂〕

優しい自然林に覆われた部分が多く、途中北のダム側が植林帯となる部分があるものの、気持ちのよい尾根道が続く。基本的に展望にはあまり恵まれないが、ダム側(北側)は葉を落とした木の間越しに山々を望める箇所がそこかしこにある。
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〔冬枯れのブナ平〕


中でも法主尾山頂の少し手前の、ブナ平と呼ばれているという疎林の広がる平地の前後は展望がよく、木々を外した写真の撮れる部分もある。対岸に高時山とブナ山が大きく、その右手奥に雪を頂く近畿の最高峰八経ヶ岳と弥山の神々しい姿が望める。そしてそこから右に釈迦ヶ岳、さらには南奥駈に至る大峰の山々が一望できる。八経ヶ岳から釈迦ヶ岳は、かなり縦方向になるけれど、その分この大峰の核心部を、圧縮された形で手に取るように一望できる。
ことに、今年の夏初めて頂上を極めた釈迦ヶ岳の鋭峰は印象的だった。眺める方角はあの時とほぼ同じで、お馴染みのやや右に傾いだずんぐりもっくりした感じの姿を見せている。ほんの少しの標高の差と、緯度の差なのだろうか、弥山・八経に比べると見た目にはあまり白くなってはいないが、あれでもそこそこの積雪にはなっているのだろう。釈迦ヶ岳の左には、七面山と覚しき三角峰が主脈から浮き上がって重なる形で見え、右手には稜線上の大日岳の三角峰がはっきりと望めた。
大峰の稜線(左:雪を頂く弥山・八経ヶ岳、中央:釈迦ヶ岳).jpg
〔大峰の稜線(左:雪を頂く弥山・八経ヶ岳、中央:釈迦ヶ岳)〕

大峰山の西側からの展望はぼく自身あまり経験がなく、しかもあまり展望を期待せずに出かけたこともあって、これは予想外の収穫だった。しかも北東方向に展望が広がるため、午後の順光で望めたのも幸いだった。連休に前鬼から太古の辻を経て南奥駈を縦走し、真夏に初めて釈迦ヶ岳を訪れたこの一年を総括するのに相応しい眺望に恵まれた初冬の一日の穏やかな山旅は、感激一入のものがあった。
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〔歩いた稜線を振り返る〕

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〔根方の雪(法主尾山の山頂にて)〕

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〔明け行く奈良盆地─近鉄電車から─。思えば、この景色にこの日の穏やかな山旅は約束されていたようなものだった〕
ラベル:季節 奈良
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2016年12月21日

ノドに引っ掛かったレタス

食べ物を飲み込むなどということを意識することは、普段まず滅多にないことである。食べることは、すなわち胃に入ることであり、食道の存在を自覚することはない。慌てさえしなければ、飲食物は自然に食道へと導かれ、胃に落下してゆく。
普段、飲食物は食道へ、呼気は気管へ、という区分けを、無意識のうちにやっているのだけれども、考えてみればそれはなかなかに高度な技術なのかも知れない。7年前に亡くなった父の直接の死因も誤嚥だった。なんでそんな、と思うようなことが、身体の弱っている病人には起きてしまう。誤嚥による窒息という直接の原因にならなくても、誤嚥が原因で肺炎を誘発して死に至ることはよくある。それは老人だけではなく子どもの場合もよく起きる。
ぼく自身慌てて食べてむせるという経験は滅多にないことだが、アッと思ったときにはもう気管に入りかけていて、ひとしきり苦しい思いをさせられることはない訣ではない。そんな時は、気管に入ったなどということを暢気に考えている余裕などなく、ただただむせって苦しい思いをするのが常である。そして、無事に事なきを得れば、緊急事態の発生に際して人間の身体というものは実にうまくできたものだ、と感心してそれで済んでしまう。

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ところがこの間、思ってもみなかったことが起きた。特に苦しんだ訣でもないので、まあ別にどうということもないといえばそれまでなのだが。普通に食事をしていて、当たり前に生野菜のサラダを食べていた。レタスを主体にして、ピーマン、パプリカ、トマト、タマネギ、ブロッコリー、カイワレなど、さまざまな野菜が入っていてように思う。シャキシャキと噛み切って普通に飲み込む、それを繰り返していた。
そのうち何かおかしい。のどに引っ掛かりが残る。むせりもしないし、痛くもない。気管に入ったわけでもないらしい。なのに、のどに妙な違和感がある。何かが引っ掛かって食道に落ちていかないでいる。のどに骨を引っ掛けたときにはごはんを丸呑みするといいという。ともかく何かを飲み込んでみよう。一緒に食道に落ちてくれるに違いない。
しかし、何回飲み込んでも、何を飲み込んでみても、一向に違和感はなくならない。それならばとコップの水を飲んでみる。軽く咳もしてみる。それでも改善されない。いったい何がどうなっているのだろう。
回りに人がいなければ、指でノドを探ることもできたのだろうが、この時は会食の場であったから、そう不作法なこともできない。また、普通の人なら痰を出す要領で吐き出すこともできただろうが、悲しいかな、ぼくは痰を出すということができない(所構わず痰を吐くことに嫌悪感を覚えるだけでなく、そもそもそうする技術がない)。
そうこうするうちに、やっと事態だけは飲み込めるようになってきた。大半が食道に落ちかかっているレタス(なぜかこの段階でそう確信できた)の一切れが、器用にも食道の入口に後ろ半分を残したまま落ちきらずにいるようなのである。レタスの折れ目が食堂の入口の壁にかかる形で、ブランコをしている。そしてのどに残っている後ろ半分が、ノドにへばりつくような感じでビクともしないのである。
レタスがそんな形で折れたのも偶然なら、それがちょうどその折れ目で食道の入口に引っ掛かったのも偶然、それが徐々にへばりついて剥がれなくなったのも偶然。偶然に偶然が重なって起きた事態は、それはそれで美しいといえるのかも知れない。但し、それがひとごとでさえあるならば!
もっとも不幸中の幸いだったのは、痛みがまるでなかったことである。同じ引っ掛かるでも、気管支の方であったらこうはいかなかったであろうが、食道方面だけで完結していたらしいのが幸いだった。それに多分、取り出してみるならごくごく小さなレタスであったに違いない。
最後はどうやって恢復したのか記憶が定かでないのだが、一旦食道からノドに出てきたものを、再び飲み込んだようだった。あるいは、その際に舌の上でレタスであることを確認したのかも知れない。会食中でなければ、それを指にとって確認できたはずなのだけれど……。

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それにしても、なぜ全く痛みを感じなかったのだろう。いつもはないものがノドにある違和感はあるが、ただそれだけなのである。ものがノドに引っ掛かるのは、たいていは風邪の引き始めのように、ノドに何らかの炎症が起き始めているときである。引っ掛けた結果炎症が起きるのか、炎症が起きているから引っ掛かるのか、それは卵が先か鶏が先かの議論であって、その前後関係はよくわからないけれど、ともかくこれらが連動しているのは確かなところである。
ところが今回はその後特に風邪の兆候も起きないし、再度引っ掛けることもない。偶然何かが起きてしまったとしかいいようがないのである。それはちょうど、しゃっくりのように、であった。自分の意識とは別のところで始まって、止めようにも止まらない。止めようという努力を諦めると、いつのまにか止まっている……。自分の身体が制御不能になる、これも老化の一つの表れなのだろうか。
ラベル:日常
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2016年12月15日

大江健三郎さんの世界へ─最近の読書から

気が付けば師走ももう半ばを過ぎようとしている。いったい何をどうやって過ごしてきたのかというくらい、全く余裕のないままに過ぎ去ってしまった晩秋であった。まだ、ゆっくりしている訣にはいかないけれど、それでもどうにかこうにか一息はつける……

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そんな中ではあるが、いやそんな状況であればこそ、通勤のバスと電車に揺られる時間は貴重だ。充分目覚めぬまま寝ていったり、やむなくiPhoneのメモ帳で作文しながら過ごしたりしたこともあったが、この僅かな時間こそが、音楽を聴ける時間であり、本を読める時間でもあるのだ。まさに至高のひとときである。
夏以来、暫く永井龍男さんに作品に凝った時期があった。瀟洒な装幀が気に入っていた遺作の『東京の横丁』が、この9月に講談社学芸文庫に収められ、単行本を読んでいるというのに、ついついうれしくなって買ってしまったりもした。
いよいよ首が回らなくなり始めたのはちょうどそのころからで、読書の時間が遠のくとともに、折角古本で買ってあった永井さんの晩年の作品集の数々も未だ手つかずのままになっている。その代わりというわけではないけれど、細々と読み始めたのが、梨木香歩さんの『エストニア紀行』だった。何故、久し振りに梨木さんに戻ろうという気になったのか。
梨木さんの世界にはまり始めた頃、まだこの本は文庫になっていなかった。それで確か東京出張の折、八重洲のブックセンターで買ってきた記憶がある。しかし、単行本は往復の読書にはかさばって、手許にあってもどうしてもなかなか通勤の友としては手が出ない。そのうち梨木さんの世界からふっと離れてしまい、折角の本が積ん読になってしまっていた。それが夏前に、漸く文庫化されていたのをたまたま書店で見かけたのだろう、単行本があるにもかかわらずこれを求め、梨木さんの世界がまた恋しくなって、読み始めたのだった。
恥ずかしい話しだが、この本を読むまでぼくはエストニアがどこにあるのか、明確な知識を持ち合わせていなかった。夏の終わりにアムステルダム経由でロンドンに出かけた折、帰路のアムステルダム発の飛行機からバルト海越しにスウェーデンやフィンランドを眺め、あのあたりがレニングラードかと地図を眺めながら写真を撮ったのだったが、レニングラードに差し掛かる少し手前で横切ったのが、他ならぬエストニアだったのである。撮った写真にエストニアが写ったものがないか調べてみたが、レニングラードの町を俯瞰するのに気を取られていて、その手前ではシャッターを切っていなかった。ああ、ロンドンに行く前に梨木さんの本を読んでいたなら、と悔やまれたが後の祭りである。
この梨木さんの不思議の国エストニアの旅行記については、ああいつもの梨木さんだなあと思う反面、自然だけでなく中世の世界がそのまま生きているような国の何かが、梨木さんをいつになく昂揚させていて、ハッとさせられる部分があって、本当に一緒に旅をしているような気分になってくる。この国が独立を成し遂げたのが、ごく最近の話であり、強国の支配に翻弄され続けた長い長い歴史があること、そしてそれが今でもほんのちょっとした世界のバランスの変化で敏感な影響を受けかねない状況にあることを、今さらのように思い知らされる。読み終えてからまだ何ヵ月も経っているわけではないのだけれども、めまぐるしい世事に紛れて、その記憶が遙か彼方に持ち去られてしまったのが悔しい。是非また再読して記憶を甦らせておきたい書物だ。
『エストニア紀行』の中で梨木さんに教えていただいた本がある。『ながいながい旅─エストニアからのがれた少女─』である。リンドグレーンの本の挿絵で親しい、画家のイロン・ヴィークランドの自伝といってよい絵本である。絵はまさにロッタちゃんの世界なのであるけれども、そこにこんな歴史があったなんて……。
梨木さんの的確な紹介によって、この本の真実の重みが痛いほど伝わってくる。もし、梨木さんの文に出会わなければ、仮に書店でこの絵本にお目にかかる機会があったとしても、そこからこれほどの感動、というよりはむしろショックを受けることがあっただろうか。心の扉を開いてくれたことを、梨木さんに感謝しなくてはならない。

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梨木さんの本の後、ぼくが読んだのは、大江健三郎さんの『M/Tと森のフシギの物語』である。今思い出そうとしても、なぜそういう選択になったのかはうまく説明できない。この本は遙か昔、まだぼくが大学にいた時分に刊行され、その後岩波同時代ライブラリーに収録された版を買って持っていた。しかし、その独特の文体に馴染めず、結局読破を放棄してしまった本なのだった。どの程度食いつこうとしたかも定かでないが、あまり積極的に読もうとはしなかったのではないかと思う。それは多分、文体もさることながら(文体は大江さんの小説としては、例外的に読みやすい(もっとも、そういえるほど大江さんの小説の積極的な読者ではまだないけれど)から、むしろその民俗的な世界に馴染めなかったのではないだろうか。
今回も初めはなかなか馴染めなかった。そもそも著者には自明なことなのだが、Mとは何か、Tとは何かがわからないまま読み進めていくのは苦痛以外の何物でもない。壊す人、オーバー、オシコメ、銘助さん、その生まれ変わりの童子、といった具合に繰り出される風変わりな人物たちに、翻弄され続ける。でもその辺は気にせずに、とにかく食らい付いて読んでいくと、じきにMとは何か、Tとは何かが明かされる。そして気が付けばいつの間にか、著者が選ばれて祖母から聞かされた谷間と「在」、森の言い伝えの物語に一心に聞き入っているぼく自身を見出すのである。
しかし、それだけであったなら、それはそれで不思議な物語だったで済んでしまうことだろう。物語を真に感動的なものにしているのは、やはり第五章の「森のフシギ」の音楽の存在である。この章で、物語は一転して谷間の言い伝えを聞かされてきた「僕」の身の上に落ちる。そして、なぜその物語を「僕」が選ばれて聞かされたかが母を介して解き明かされ、老いた母親と生まれた時から脳に障害のある息子との二人というM/Tによって、「僕」は生の意味を再確認するに至るのである。
それは「僕」の母の物語でもある。タイトルだけ見ていたのでは想像できないが、『M/Tと森のフシギの物語』の本当の主題は、「僕」の人生の地図のいろいろな場面で現れてきたM/Tの記号を担う組み合わせとしての母親(M)と息子光さん(T)の交流であり、それによって大江さんがさまざまな語り方で表してきた谷間の村の物語の真の意味を悟ることになるのである。「森のフシギ」の音楽について語るために、それに相応しい語り方、祖母の口を通して「僕」が聞かされた本来のあり方で、物語が再構成、再提示されている訣である。
第五章を読んでいて、ふと思ったのは、漱石の『心』の最後の章「先生の遺書」に入る部分だった。「両親と私」の末尾で、先生から届いた分厚い手紙(遺書)を懐に列車に飛び乗った私は、それが衝撃的な一言で始まるのを見出す。急激な転調とアッチェレランドがかかったまま、外界の音がプツンと切れたような状態で「先生の遺書」は始まる。中隊長の縊死でクライマックスを迎えた五十日戦争の余韻をプツンと断ち切って、話者の「僕」が静かに語り始める「「森のフシギ」の音楽」。急激な転調のあとの静謐な時間、その落差というか、対照に唸らされるのである。
そして、唸らされると言えば、一生のほとんどの時間を谷間で過ごしてきた「僕」の母親の豊かな人間性である。谷間の物語の語り手としての祖母の影で、そんな谷間の物語の外にいるかのようであった母親が、実は谷間の物語そのもの生きてきたことが明かされるのである。祖母が単なる語り手だったのに対し、母親はその体現者として、「僕」に接してきていたのであった。また産んであげるから大丈夫、と言ったのは、銘助さんの母親ではなくて、「僕」の母親だったのである。

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Tすなわちトリックスターとしての息子の光さんは、「森のフシギ」の音楽を聴き取ることができる。本文に挿入された光さんの「壊す人」と題された曲が「森のフシギ」の音楽に他ならない。残念ながらこれをそのまま録音したものはないけれども、光さんが聴き取った「森のフシギ」がどんなものだったか知りたくて、光さんがこれまでにまとめた4枚のCDを全部聴いてみた。
「大江光の音楽」(1992年)、「大江光 ふたたび」(1994年)、「新しい大江光」(1998年)、「もう一度 大江光」(2005年)の4枚である。1994年の大江健三郎さんのノーベル賞受賞も重なって、発売当時それぞれ話題になったCDだそうだけれど、ぼくには全く記憶がない。でも、今回そういったこととは全く無縁に、いわば純粋に音楽だけを聴くことができたのは幸せだった。美しいというよりはむしろなつかしい、心に響くメロディである。それでいてけっして情緒に走らず、きわめて構成のしっかりした、いってみれば論理的な音楽である。
特に印象に残った曲を強いて挙げるなら、「大江光の音楽」の第1曲、光さんの音楽の記念すべき始まりの曲である、人気のワルツ。昔の言葉で言うなら、針を落として音楽が鳴り出した瞬間に、ビーンと電気が走った。聴いてよかった、と真底思った。次に2枚めのCD「大江光 ふたたび」のバロック・ワルツ。明るい色調ながら本当に懐かしくてなつかしくてたまらない思いの湧き起こる、じんと心に迫る曲。4枚めのCD「もう一度 大江光」は名曲揃いというか、音楽が一層深く立体的になっていて唸らされる。愛惜措く能わざるというのがピッタリの1枚。その中でも、たいせつな風、そして、最後の、海のアダージオ。永遠にリピートさせて聴き続けたいと思ってしまう曲である。
光さんの曲を聴くのに、ちょうどクリスマス前の、カンタータの作品の手薄な時期であることが幸いしている。ライプツィッヒでカンタータの演奏が禁じられていた季節にあたるのである。もっともこの季節には何年に一度しか廻ってこないような祝日のための特別なカンタータもある。あの大名曲BWV140、そして今年の正月に季節から遅れてそのすばらしさを見出したBWV132などが含まれているから、全く油断がならない。
光さんの音楽を、父健三郎さんの存在に絡めて聴くのは多分間違っている。光さんの音楽はそれだけとして聴くべきものだろう。しかし、逆に健三郎さんの小説を光さんの存在を抜きにして読むのは、間違っているだろう。誤解を恐れずにいうなら、光さんの存在がなければ、健三郎さんの作品があの方向性を見出し、かつあそこまで深まることはなかったかも知れない。

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実は、M/T以来、大江健三郎さんの作品を少しずつ読んでいる。そこには、なぜもっとも早くに大江さんの作品を読まなかったのかという後悔がつきまとっている。M/T、しかり。ただ、この年になってからであるからこそ、大江さんの作品に共感するという側面もまた見出さずにはいられないのである。
例えば、『万延元年のフットボール』。中学生の頃、そのタイトルに引かれて読んで見ようとしたことがあったのを記憶している。結局買うこともなくやり過ごしてしまったのだが、もし10代のぼくがこの作品を読んでいたら、と考えるだけで怖ろしくなる。充分理解できずに終わっただけかも知れないけれども、それでこの作品と真実に向き合うことなく一生を終わることになったとしたら、こんなに悔やまれることはないはずである。
読書にもやはり適齢期というものがあるようである。どんなに遠回りしても、出会うべき本には人生のどこかで出会える、そしてそれが適齢期なのだと思いたいけれども、もっと若い頃にこの本に出会えていたなら、人生が変わったかも知れないという本があるのもまた事実なのである。
いずれにしても、大江健三郎さんというひとに、辛うじてまだ間に合ううちで出会えて、本当によかったと思う。この年になって大江さんの作品を読んだとて、ぼくに何ができるかはまた別問題だし、どこまでこの巨人の作品を読みこなせるかどうか心許ないが、大江さんの書物の世界をもっともっと知りたいと切に願うこの頃である。
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