2017年02月26日

東吉野村のコサグラとコウベエ矢塚に登る

東吉野村のコサグラとコウベエ矢塚を訪れた。大台ヶ原から池木屋山を経て、高見山まで蜿蜒と続く台高の奥深き峰々の稜線にある伊勢辻山から西に、四郷川の北側を扼して派生する尾根上にある二つのピークである。台高の稜線に近いのがコウベエ矢塚(1,094.7m)、西にあるのがコサグラ(948.5m)。
こんがらかりそうで一度では覚えきれない、しかもともに謂われのありそうな山名だが、コウベエ矢塚は紅梅矢塚と書いた山名板が山頂にあった。コウバイがベランメエ調になって、コウベエ? これもなんだか宛字っぽい。矢塚もよくわからない。そもそも「矢」はどちらに付くのだろうか……。矢塚という熟語だとしたら、矢を埋めたといった武将に関わる伝承でもあったのだろうか。
コサグラは初めコザクラかと思った。でもそうではなくて、台高でクラといったら、大蛇嵓などの嵓(くら)を思い出す。嵓は岩のことだそうである。確かに、コサグラに登る植林帯の間にも、ところどころ岩が露出しているところがあり、あまり見かけないやや腐蝕気味の剥がれる感じに積み重なった岩が印象に残っている。ただ、この尾根は相対的に稜線が広く平らで、険しい岩の感じは皆無である。
地名の由来はいろいろだろうが、地元で呼び慣わされてきたものの中には、音でのみ伝わってきて文字で表記される機会の少なかったものもあって、前回登ったアンショウ山などもその手の銘名なのだろう。音は変化しやすいから、いつのまにか本来の謂われが忘れられてしまうことも起き得る。いろいろに想像してみるのも楽しい。

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さて、起点は大又林道に続く道にある、やはた温泉の少し手前にある大豆生(まめお)という珍しい名の集落である。「大豆生」という文字面で思い出したのは「大豆生田(おおまみゅうだ)」という珍しい苗字だが、「大豆」=まめ、なのだから、「大豆生」を「まめお」と読むのは、さほど驚くにはあたらないのかも知れない。でも、何か関係はあるのだろうか。
いきなりの脱線で恐縮だが、この大豆生の集落の民家の間から急傾斜の登りが始まる。登山者はあまりいないようで、専ら林業関係の方々の用に供されている道らしく、ずっとスギの植林帯が続く。倒木が結構あり、下枝もかなり落ちていてあまり歩きよくはないし、ところどころブッシュもある。傾斜が比較的リーズナブルなのはせめてもの救いである。
もちろん展望はない。しかし、1時間ほど登って350mほど標高をかせいだ730m付近の地点で、東側の展望が大きく開けるところがあり、それまでの登りの労苦は一気に吹っ飛んだ。今まで登ってきた道は初春の雰囲気を漂わせているのだが、そこから望めたのは、国見山から明神平へと続く台高の秀峰群の、雪を頂く神々しいばかりの姿だった。主脈からは外れるが、一番右手には薊岳がドッシリと大きい。あれだけ白く見えるのだから、相当量の雪が積もっているだろう。そして、山が白く光っているように見えるのは、きっと木々にキラキラと輝く霧氷が付いているからに違いない。
国見岳・明神平・薊岳.JPG
〔国見岳(画面左寄りの雲を頂くピーク)・明神平(中央やや右のたわみ。小屋が見える)・薊岳(画面右の山塊)〕
この展望に力をもらい、ここからさらに植林帯をひと登りすれば、あまりはっきりしないだだっ広い稜線に出る。そして左へ歩きにくい植林帯を少し辿れば、コサグラに登り着く。山頂は全く展望がないが、途中小広く切り払われたところがあって、南側の展望が開け、山頂を極めてからここで昼食。薊岳から東は遮られて見えないが、ちょうどその西側から流れ出る麦谷川を真っ直ぐに望める場所で、麦谷集落も指呼の間にある。
あの稜線を越えれば川上村だと教わった。大宇陀経由でここまでやって来たから、川上村の吉野川沿いとはイメージが全然つながらなかったのだが、考えてみれば台高山脈はその源流である大台ヶ原から連なってきているのである。土地勘はやはり地図を見ているだけでは養われようもないのだ。一箇所だけだが、その稜線越しに、大台の中心部と覚しき真っ白な山容を望める地点もあった。また、北東に高見山の尖峰を望める箇所もあった。
コサグラ山頂手前からの高見山.jpg
〔コサグラ山頂手前からの高見山〕

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コサグラの山頂直下まで、林道というか、作業用の道が作られていて、降りはこちらを辿る。稜線上はもしかしたらずっと林道歩きかと覚悟したが、林道は概ね稜線を外れた北側に設けられているようで、たまに林道を辿る部分もあったが、ほぼ山道を辿ることができた。道はあるようでないようだが、傾斜もほとんどなく、平地を行くような感じで植林帯を歩く。963m峰を越えて少し行った、帰路の降り道があるあたりで、右下(南側)に林道が見え始める。そこへ降りる道が見当たらない。どうもこのあたりは林道工事で大きく変化しているらしいとのこと、まあ帰りのことは帰りにと、コウベエ矢塚に向かう。
時折明るくなってきているのと、足下に散り敷く落葉で気付くのだが、右手を中心に優しい自然林が残っていた。左手はほぼスギの植林帯だが、葉を落とした広葉樹の林にはやはり癒やされる。今日はもうずっと植林帯かと半ば諦めていただけに、自然林との邂逅は大袈裟だが感動的でさえあった。
コウベエ矢塚山頂直下の自然林.jpg
〔コウベエ矢塚山頂直下の自然林〕
稜線の北側に林道が寄り添う形で伸びてきているが、あるかなきかの道をともかく高い方へ高い方へと辿る。徐々に雪が顔を出し、時折サクサクと雪の感触を楽しみながら最後の急傾斜を登り切ると、コウベエ矢塚に着く。同じ展望がないのでも、自然林に囲まれた山頂はやはりひと味もふた味も違う。見上げれば、松の枝間を埋める青空が美しい。足下は2、3㎝ばかりの積雪。三角点や木杭の回りだけ、丸く雪が消えている。

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コウベエ矢塚からの帰路は、障害物競走のような稜線歩きに疲れたこともあって、いったいこの道は何のために付けているだろうと訝りながら、北側の林道を辿る。途中、置き去りにされている(単に今日が休みというだけかもしれないが)重機にも出会った。林道は稜線から北へも下って行っているが、これは方向が違うので、稜線を南に乗り越し、往きに南側に見かけた林道に降りる。
ここからは林道を串刺しにする山道を期待していたのだが、この林道自体が山道を拡幅して設けられているようで、ほぼ地図上にある点線通りの位置の林道を辿り(取り付き部分だけは、人家との関係からか、少しルートが変えられている)、大豆生の集落に戻った。
正直言って、この最後の林道歩きだけはあまりいただけない。もっとも、思っていたよりも手強かった稜線歩きのあとでもあるから、時間的・体力的には助かった面も大きい。
途中、奈良女子大学共生科学センターの看板が何ヵ所かにあり、帰ってから調べてみたら、東吉野村の旧四郷小学校(丹生川上神社のそばらしい)に分室を置いて活動しているとのこと。夏休みには小中学生対象の体験学習も実施しているらしい。
やはた温泉で疲れを癒やし、橿原神宮前に戻ったのは18時半過ぎ。思いの外早い到着で、もちろん最近の道路事情の改善によるところが多いのだが、東吉野村が意外に近いのにも驚いたことであった。
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2017年02月25日

マリアの浄めの祝日のカンタータBWV82の聴き比べ(その1)


ついこの間年が明けたばかりと思っていたのに、もう2月も終わりに近づいている。ただでさえ逃げ足の速い月である。この分では年度末もバタバタと過ぎていきそうである。やるべき事に追いまくられて気が付いたらいつの間にか年度明け、という事態が見えるから怖ろしい。時間の進行も伸び縮みするのではないかと、本気で疑いたくなるほどの時の進行の速さ。全てはこちらの構え方次第、泰然としていればよいのだと思うのだけれど、そんなこちらを嘲るかのように、時は猛スピードで駈け抜けてゆく。ああ、もう何とかならないものだろうか……。
気を紛らわせてくれるものといえば、本と音楽。活字も音もこちらからの働きかけがなければ本当の感動は与えてくれないけれど、その働きかけを導いてくれるものをどちらももっている。本を開く、あるいはイヤホンを耳にセットする、そのほんの少しの手間をかけさえすれば、活字も音も自然に流れ込んで来て、こちらの頑なな心をすぐにかどうかはわからないが、少なくとも溶ける可能性を生み出してくれる。
その望みに賭けて、活字と音との間を行ったり来たりする。そうするうちに、たとえ目的の活字や音に出会えなかったとしても、それを探し求めたこと自体が、心に一定の平安が与えられる。問題はそのほんのちょっとの手間暇をかける気力がなくなったときだが、幸いそこまで追い詰められる前に、活字と音への逃避行(そうは思いたくないが、実際それ以外の何物でもないのだ)を実行できて来られたので、今こうしてある訣でもある。

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教会暦に沿って作られたバッハのカンタータを聴いてゆくことは、季節の移ろいを身をもって体感することでもある。時の経過に身体がついていけなくなるような時には、カンタータにも置いてけぼりを喰らっているような気分を味わわないでもないが、そこはある意味割り切って聴くことで、自身の立ち位置(時間的座標)を確認するための指標として、かけがえのない存在となっている。
聴けば聴くだけ発見がある。特にこの季節のカンタータは復活節の高みに向けて、ノラさんがブログ「♪バッハ・カンタータ日記 ~カンタータのある生活~」で述べていられるように、一歩一歩高みに向かって上昇して行く。独立した秀峰の向こうに、さらなる壮麗な高まりが聳えているのを目の当たりにする、それの繰り返しが続く。
2月2日のマリアの浄めの祝日のカンタータBWV82は、そんな秀峰の一つである。第3曲にアンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳にも収められている著名なメロディーのバスのアリアをもつ1727年作曲のカンタータで、第1曲の深沈たる趣の短調のアリアと、レチタティーヴォに導かれたこの第3曲の心を洗われるような長調のアリアとの対比がたいへんに美しい。これをさらにレチタティーヴォに導かれた短調のアリアが締め括る。全部で5曲しかないが、簡潔に書かれた何とも贅沢なカンタータである。
昨年気付いたのだが、このカンタータには元々のバス用のヴァージョンと、ソプラノ用に編曲されたヴァージョンとがある。というのも、鈴木雅明さんの全集に、両方が収録されていたからである。第38集に収める通常のバス・ヴァージョンとは別に、第41集でソプラノ・ヴァージョンを聴くことができる。随分違う印象だと思っていたのだが、今年よくよく聴き比べてみて、その疑問が氷解した。1727年の本来のバス・ヴァージョンがハ短調であるのに対し、1731年の作られたソプラノ・ヴァージョンはホ短調に移調してあり、しかもオブリガート楽器がオーボエからフルートに書き直されているのである。
ソプラノ・ヴァージョンの存在が気になっていたのは、その美しさに抗しがたいものがあったからである。鈴木雅明・BCJの全集の第41集でソプラノを歌っているのは、キャロリン・サンプソンという人で、特に第3曲は絶品である。これを聴いてしまうと、昨年はバス・ヴァージョンが耳に馴染まなくなってしまったのだった。
迂闊なことに、両ヴァージョンでオブリガートが異なることに気付いたのは今年その気で聴き比べてからのことで、マリナーの名盤で聴き、第1曲でいやにオーボエが目立つなあと思ったのがきっかけだった。実は自分で調べてみて驚いたのだが、ぼく自身9種類ものBWV82のCDを持っていた。指揮者・独唱者、録音年、そして各曲の演奏時間を順に列記する。
 1、マリナー(B:カーク)1964
   9:43, 1:28, 11:13, 0:59, 4:16─27:39
 2、ヴェルナー(B:マクダニエル)1964
   7:53, 1:32, 9:59, 1:01, 4:25─24:50
 3、リリング(B:フィッシャー・ディースカウ)1983
   7:39, 1:35, 9:18, 0:54, 3:56─23:22
 4、ヘレヴェッヘ(B:コーイ)1991
   7:26, 1:02, 9:39, 0;43, 3:43─22:33
 5、ガーディナー(B:ハーヴェイ)2000
   6:56, 1:06, 11:11, 0:44, 3:40─23:37
 6、ビオンディ(T:ボストリッジ)2000
   7:41, 0:55, 10:07, 0:45, 3:34─23:02
 7、クスマウル(B:クヴァストホフ)2004
   6:48, 1:16, 9:07, 0:49, 3:19─21:19
 8、鈴木(B:コーイ)2006
   6:55, 1:08, 9:55, 0:51, 3:40─22:29
 9、鈴木(S:サンプソン)2007
   6:39, 1:06, 9:31, 0:48, 3:30─21:34
​そしてさらに、第3曲のアリアについては、最近少しずつ増え始めたアリア集のCDに、第2曲とともに収められているものがあった。ヌリア・リアルのバッハのアリア集である。
 少し時間はかかってしまったが、これらをいろいろ聴き比べてみて感じたことを、筆の赴くままに記してみることにする。録音年代順に並べることとするが、必ずしもこれは聴いた順番を意味しない。聴く順序に印象が左右される場合も当然あるであろう。そして何よりも、これには歯がゆさをさえ覚えてしまったけれど、音を言葉で表現するぼく自身の語彙の乏しさばかりは如何ともしがたい。細かなニュアンスを伝えきれるものでは到底ないことを、初めにお詫びしておかねばならない。
また、是非とも聴いてみたい演奏のいくつかをまだ聴けていない点もお断りしておく必要がある。アーノンクール、コープマン、そしてリヒター、これら全集(選集)に含まれる演奏については、今後何とか聴く機会を見つけ、書き加えていってみたいと思っている。文字通り素人の戯言を書き連ねることをお許しいただければと思う。

          §           §           §

1、マリナー(B:カーク) 9:43,1:28,11:13,0:59,4:16
第1曲はゆっくりと始まってすぐ、オーボエの響きにハッとする。オブリガードがオーボエだったことを再認識させてくれたのがこの演奏だ。たっぷりとした情緒を漂わせて進む、いやこの演奏は進むのを拒んでいるかのようだ。極めて遅い。でも、けっして暗く落ち込んだりはしない。だから、安心して身を委ねられる演奏だ。ゆったりとしているが、ベタつかない、清潔な演奏でもある。ただ、その分深くはないともいえる。また、最近のいろんな演奏、特に古楽系のを聴いてしまうと、モダン楽器のオーボエの音はやや下品に聞こえて仕方ない。
レチタティーヴォも極めて遅い。ヴェルナーよりも遅く感じるくらいだ。そしてアリア。初めはあれというくらい何気無く始まる。けして遅くない。ところがタップリと歌うバスが登場すると、一転進まなくなる。永遠に続く歌! 終わらせたくない歌。チェロが要所を締めながら進む。このアリアにいつまでも浸っていられる類い稀な演奏だろう。
レチタティーヴォも同じ気分が持続するが、第5曲は意外なほど淡々とした演奏である。テンポは遅いが粘らない。ブツ、ブツいった感じてさらりと進む。第4曲までとは似ても似つかない印象だか、逆にそれらを受けるものとしては相応しいのかもしれない。逆にこれに至るための歩みだったのかも知れない。
【詠嘆】(一言で表現するのは勿論無理なのだけれど、演奏を特徴付ける言葉を、以下それぞれに添えてみることとする)

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2、ヴェルナー(B:マクダニエル) 7:53,1:32,9:59,1:01,4:25
チェンバロも聞こえつつ、静かにゆったりと始まる。慈しむように進行を確かめるように進む。遅すぎることなくしつこくならない。ごく自然な詠嘆が聞こえる。オーボエも心なしか寂しげ。
レチタティーヴォにもこの気分が引き継がれる。最後のオルガンの和音も長く延ばされる。
アリアは、待ってましたかのごとく、満を持してはじまる。優しく懐かしい響き。適度のスピード感があり、あまり引きずらないのが心地よい。飛び跳ねるのではないが、深い喜びが歌われる。転調後、バスのモノローグで弦が隠れる部分ではややテンポがあがり、穏やかに高揚してゆく。繰り返されるたゆたいが美しい。僅かに聞こえるオルガンの響きが妙になつかしい。ああ、よく聞こえてくるなとおもうともう最後で、弦の合奏でゆったりと閉じられる。
オーボエとチェンバロが豊かに響く。ゆったりと噛みしめるように進む。中間部はバスが引っ張る。バスとオーボエの掛け合いが美しい。最後は今までの歩みを確かめるように静かに閉じる。
【温雅】

          §           §           §

3、リリング(B:フィッシャー・ディースカウ) 7:39,1:35,9:18,0:54,3:56
ゆったりと始まるが極めて自然に美しい。オーボエと弦の対話がしんみりと溶け込んでいる。バスがまたとても雄弁でうまい。早過ぎず遅過ぎず、しかししっとりと清潔な音が奏でられて、最後は静かに消えてゆく。
レチタティーヴォはバスの独壇場。メリハリの効いたうまさが際立つ。遅いという感じはないが、タップリと時間をかける。
アリアは比較的あっさりと始まる。さらりと流れを重視した歌が美しい。テンポはかなり速いが、要所をしっかりとおさえ、時々リタルダントをかけて立ち止まりつつ歌う、そのたゆたいがなんともいえない。弦はしっかりとバスを支えるが、けして目立たない。オルガンのオブリガードが入ると、いくぶんテンポを上げつつ歌いに歌う。行進曲風でさえある。自在な歌が自然にいつまでも流れて行く。小川の清冽な流れを思わせる。歌のうまさは秀逸で、さすがはフィッシャーディースカウと唸らされるが、これがバッハ的かと言われれば、疑問符もなしとはしない。最後はあっさりと閉じる。
レチタティーヴォはバスはもちろんだが、低弦が雄弁。これは、第5曲にも受け継がれる。
最後は、締めくくりの鮮烈な舞曲。リリングは他の指揮者が粘るところをこうして駈けぬけることがある。オーボエの合いの手が、美しい。
【清冽】
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2017年02月19日

初春の十津川村アンショウ山

山頂からの展望が良いわけでもない、自然林が美しいわけでもない、聞いただけでは登る意欲をかき立てられる訣でもないような山でも、実際に登ってみると滋味に溢れた山歩きを楽しめるや山というのがあるものである。
今回連れて行っていただいた十津川村のアンショウ山(1,099m)もそんな山の一つであろう。十津川村役場の所から旧道を戻り、南の山腹へ急傾斜の道路を辿ることしばし。谷筋に思いがけずのどかな山村が展開する。武蔵集落である。きっと歴史のある集落に違いない。廃校になった小学校がそのまま残り、村おこしの観光拠点として活用されている。ここが今回の山歩きの出発地でもあり、まずは東に高く望む尾根上をめざす。
旧武蔵小学校校舎.jpg
〔旧武蔵小学校校舎〕

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道は初め、谷川に沿って石垣を高く積んで造られた、かつての水田の跡の植林帯を登って行く。石を2mを超える高さにまで堅固に積み上げて僅かずつの平場を築き田とする、その労力たるやいかばかりであっただろう50年くらい前には、ここに青々とした水田があったのである。石垣近くにまでスギは植えられているが、石垣はビクともしていない。
ここから先このスギの植林が尾根筋近くまでずっと続く。急傾斜で結構なアルバイトを強いられること、1時間と少し。自然林の落ち葉が足下に積もるようになると、まもなく焼峰峠で、尾根上に出る。登ってきた道は、東側の川筋の大野の集落までの生活の道だったようで、今でも峠から先にしっかりとした道が続いていた。
焼峰峠からは左へ、時折細くなる尾根筋をアンショウ山へと辿る。基本は尾根筋だが、一部尾根筋を外れるところがあり、急傾斜を切って付けられた細い道に落葉が積もり、しかも西側がスパッと落ちて高度感が出ていやなところがある。尾根筋を東にやや回り込んで東側から再び尾根に戻ると鉄塔の基部に出る。
木の間に望むアンショウ山.jpg
〔木の間に望むアンショウ山〕
植林帯を歩いているので全然気付かなかったのだが、歩いている尾根筋の西側に沿って近接した位置に送電線が通っていて、ここだけその鉄塔が尾根筋に乗っているのである。標高は878mほど。ここで昼食。南から北西方向にかけて、木が切り払われていて展望がよい。風も少しあるが日射しがあって思ったより寒くなく、この大展望を眺めながら食べる昼食はこの日の山旅の中でも出色だった。
鉄塔から南・西方の大展望.jpg
〔鉄塔から南・西方の大展望〕
南に山頂にピンのような鉄塔が見えるのが奥駈道の玉置山、その左に宝冠の森。そこから右へ、高野山までの大展望が展開する。眼下には武蔵集落が見え、目を凝らせば旧武蔵小学校もわかる。蛇行する十津川がキラキラと光りそこにかかる国道の橋が美しい。
そもそもこの日は寒くなる予報で、冬の重装備でやって来たのだったが、ここまで意外に穏やかでタップリ身体を温められていたせいか(少し汗もかいた)、適度の風がかえって心地よいくらいだった。

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腹ごしらえのあと、山頂をめざしてひたすら尾根筋を登る。標高差約220m。特に鉄塔からの出だしがきつかった。時折細くなる尾根筋をただひたすら登る。植林帯で展望はほとんどない。
時折自然林を交えるようになり、尾根筋が左へ曲がる地点を過ぎると、突然瀬音が聞こえてきた。こんな高い地点だし、もしかしたら風の音かも、と訝っていると、耳を澄ませば澄ますほど、あれは瀬音に違いない。木の間越しにすぐ東側に深い谷が見え、ここを流れ下る水音なのである。
疲れが一気に癒やされるのを感じているといつの間にか音も消え、左から右へ回り込むとそこがアンショウ山の頂であった。1,099m。スギの植林の中で、全く展望はないが、よくぞここまで登ってきたという充実感がふつふつと湧いてくる、不思議な頂であった。
アンショウ山の山頂.jpg
〔アンショウ山の山頂〕
アンショウ山はアンシュウネともいうそうで、ネは峰のことらしい。ではアンショウ、アンシュウとは? 特に仏教的な色彩はないし、山頂近くまで人工林が設けられ、元々人々の生活と密着した山のようでもある。大峰奥駈道と十津川の村との間には、中八人山とか石仏山とか、あるいは天竺山といった名も目に付く。この辺りのこと、ぼくはほとんどまだよく知らないけれど、なかなかに魅力的な山塊である。
木の間越しに大峰方面を望む(雪を頂くのは中八人山か).jpg
〔木の間越しに大峰方面を望む(雪を頂くのは中八人山か)〕

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帰路は焼峰峠まで戻らずに、途中780mの鞍部から右手(西)に降りる道を辿り、山頂から2時間足らずで武蔵集落に戻った。武蔵集落から直接アンショウ山方面をめざす短絡コースとして、林業関係で用いられた生活の道なのであろう。
天辻峠で除雪された雪の塊を見た時には、これはさてと思ったものだったが、アンショウ山自体には山頂近くにほんの少し名残の雪を見た程度で、持参したアイゼンは今回も空しく出番をみることもなく終わることとなった。初春の山といってもよい穏やかな山行を満喫できたアンショウ山であった。
アンショウ山の稜線を振り返る(武蔵集落から).jpg
〔アンショウ山への稜線を振り返る(武蔵集落から)〕
タグ: 奈良 季節
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2017年02月08日

台湾映画「湾生回家」を見る

台湾映画「湾生回家」を元町映画館で見た。3週間という上映期間は、この映画館としては比較的長い方で、実際10時半からという朝一番の上映にもかかわらず、ほぼ満席に近い盛況であった。
映画と行ってもフィクションではなく、ドキュメンタリー映画である。湾生とは、1945年までの日本統治下の台湾で生まれた日本人のこと。敗戦によって、生まれ故郷の台湾を追われ、日本に来ざるを得なくなった人々の、望郷の念を綴った記録である。
湾生が故郷台湾に生まれ育った場所を訪ね、幼馴染みの消息を尋ねる。そんな淡々とした映像から始まるのだが、次第に湾生の思いに深く寄り添うとともに、逆に台湾に残った人が、母の故郷日本に寄せる複雑な思いをも描くことで、湾生の方々の望郷の念は、さらに立体感をもって心に迫ってくることとなる。最後はスクリーン見ることができなくなってしまった……。

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湾生の方々の体験が台湾の人々にも広く共感を持って受け入れられたのには、台湾の人々自身が、台湾という土地にあって異邦人であった記憶を持っている場合が多いことも背景にあるのだろう。そしてそれはまた、日本になるよりも前の時期の台湾か、日本であった時期の台湾か、再び日本でなくなった後の台湾かによって、記憶の度合いは大きく異なるだろうから、さらに複雑な様相を呈することになるだろう。
そもそも台湾の方たちの日本への思いは一種独特なものがある。台湾にも朝鮮半島や中国同様、日本の植民地としての、いわば侵略の歴史が刻まれている。しかし、その後台湾が経験した2.28事件に代表されるようなさらに過酷な歴史が、それを目立たなくさせてしまっている側面がある。それはそう単純に一義的に括って理解することはできないのは確かだけれども、台湾の人々に親日的な傾向が強いことの要因になっているといわれている。ここでは歴史を繙くことが目的ではないので、これ以上は書かないが、これだけのことさえも、昨年台湾を何度か訪れるまで知らずにいたことは、本当に恥ずかしい思いがする。

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湾生の方々の辛い体験の背景には、映画では声高に叫ぶことはしていないが、台湾と日本の不幸な歴史がある。それに思いをいたすことは勿論大切なのことだが、より普遍的に、故郷から引き裂かれた人々の思いを描く物語として、大きく心を揺すぶられるものを感じた。そして、今故郷を追われる人々が多数生まれている世界の現実への、言うに止まれぬ怒りが湧いてくるのを覚えるのである。
ある女性の湾生が、私は永遠に異邦人なのだと思うことにした、と語っていた。病気がちだったのに、故郷の台湾に通ううちに、すっかり癒やされて元気を恢復したという。湾生の方々に、日本が永遠に異国であると認識させてしまっているとしたら、それはたいへん申し訣ないこととは思う。しかし、それはより普遍的な真実、つまり、ひとにとって生まれ育った土地─故郷─に根ざすもののもつ意味を、語っているようにも思うのである。

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ぼく自身のことを振り返るなら、生まれ育った町から離れて30年が経つ。望郷の念というと大袈裟だが、変貌著しいとはいえ育った町への愛着は、年を重ねるに従って募るばかりなのを感じている。そして実際何度かそこを訪れ、癒やされている自分を見出しもした。しかし、癒やされる一方で味わわされたのは、自分はもうここに住む人間ではないという、永年の不在を重ねた上での、いわば疎外感であった。一旦切り離されてしまったなら、仮にそこに戻ることができたとしても、異邦人たらざるを得ないのではないか。
自らの意思で故郷を離れたのであってもそうであるならば、意思に反して故郷を捨てねばならなくなったとしたら、その思いはいかばかりであろうか。永遠に異邦人だという湾生の方の言葉は、ずしりと重いのである。

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「湾生回家」は2/10金曜日まで、元町映画館で朝10:30から上映中、あと2日である。ぼく自身まだ充分消化できているとはいいがたいけれど、昨年夏に見た侯孝賢監督の映画とはまた別の意味で、見て良かったと心から思った映画である。
タグ:映画 記憶
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