2018年02月25日

エフゲニー・コロリオフのバッハのこと

レントの期間に入って、教会暦に沿って聴いているカンタータも、3月4日に四旬節(復活節前)第三日曜のヴァイマール時代のカンタータBWV54が一曲あるきりで、今年は3月25日にあたる受胎告知の祝日(今年はしかも棕櫚の日曜日が重なって、BWV182が書かれた1714年や、BWV1が書かれた1725年と同じめぐりになっている)まで暫くはお休み。とかく季節の進み行きに置いてきぼりを食ってしまいがちでこれまで充分には聴けなかったカンタータを振り返ったり、カンタータ以外のバッハの曲、あるいはバッハから離れて他の作曲家の曲にまとめて聴くちょうどよい機会である。
とはいっても、なかなか他の作曲家には食指が伸びず、バッハの世界を逍遙することになる。例えば先日も少し書いたエフゲニー・コロリオフの演奏を聴けたのもその成果の一つ。ピアノのための編曲作品集・ピアノ・デュオのための編曲作品集と題されたCD(TACET192)は、これまで敬遠しがちだったオルガン曲を聴いてみようという気にさせてくれた。そしてそれ以上の大きな収穫は、コロリオフというピアニストとの出会いだろう。

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この1949年生まれのロシア出身のピアニストは、けっして華々しい経歴の持ち主という訣ではないし、ディスコグラフィーも枚数はそこそこあるものの、どちらかといえば堅実で地味なピアニストといってよいだろう。ヘンスラーの全集でインヴェンションとシンフォニアやゴルドベルク変奏曲を担当していて、単発で出ている前者が、これまでぼくの持っていたコロリオフのCDの唯一のものだった。
ただ、それこそうちの娘も練習しているような技術的には比較的易しい曲が、よくここまで弾けるものだと感心はしたものの(娘にそれを言ってこの演奏を聴かせたら、逆に娘を滅入らせてしまったのだが)、それ以上に心に響いたかといえば、曲のせいというよりかはむしろぼくの耳の問題なのだが、そこまででは必ずしもなかった。しかしである、上に書いたCDを聴くに及び、いっぺんにこのピアニストに魅入られてしまったのだった。
そんな訣で、以前から気になっていた平均律をまずは第1巻から入手して聴いてみることにした(TACET93)。世評の高いリヒテルの演奏(GD60949。第1巻・第2巻セットの4枚組。ぼく自身もこの演奏は好きで、平均律と言えばまずリヒテルを挙げるだろう)が1・2巻合わせて2,000円台で買えることさえある時代だから、1巻だけでどんなに安いときでも3,600円はするコロリオフの平均律は、けっして安い買い物ではない。しかも半信半疑の所もあったから、まずは第1巻を、ということになったのである。
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〔コロリオフの平均律第1巻〕

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平均律を聴き通すことは、一曲一曲は比較的短い曲ではあるけれど、けっして容易なことではない。ぼくのように通勤時間しか耳を傾ける余裕のない人間には、睡眠前というのがかけがえのないリスニングタイムになる。ただ、残念なことにこれは文字通り子守歌になってしまい、情けないことにどこまで聴いたのかの記憶も残らないまま、眠りに落ちてしまうのが普通である。CDを頭から再生していると、聴きたい曲に到達するまでに熟睡してしまっているというのが日常茶飯事となってしまっている訣である。当然音量も通勤時間に聴く際よりかはかなり落としているので、曲の細部まで聞き分けることもあまりできないことが多い。コロリオフの平均律の第1巻も、こうしてまずは子守歌としての試聴から始まった。
ところが、子守歌どころではなかったのである。2枚組であるから、プレリュードとフーガそれぞれ12曲分ということになるが、比較的遅い時間に床に就いたというのに、最後まで眠りに落ちることなく聴き通してしまったのだった。多旋律とはいってもどうしても主旋律だけを聴く(というよりもむしろ聞こえてくる)ことが多く、一緒に鳴っている別の旋律を聴くためには相当の努力をしなくてはならないのが普通なのだが、コロリオフの演奏では、そうした努力を敢えてしなくても、自然に複数の旋律が耳に飛び込んでくる。よく渾然一体というけれど、聞こえはよいが要するに音がダンゴになっているということでもある。コロリオフの場合は、渾然一体でありかつ部分が明瞭に聞き分けられ、しかもそれが全体に溶け込んでしまわずに、自立性を保っている。敢えて言うならば、旋律同士が立体的に絡み合っていて、3次元の広がりをもっているのである。
これに比べるとリヒテルの平均律は残響の多いたいへん美しい響きの演奏であるのにもかかわらず、もっと平面的でべたっとしている印象が強い。録音の時期や方式の違いなのかも知れないけれど、コロリオフの演奏では各声部が明確に分離し、しかも相互に絡み合っている様子が手に取るように聞こえるのである。主旋律以外の旋律が聞こえてくる場合、えてして極端に強調されている場合が多いものだが、コロリオフの弾く平均律では、各声部が完全に対等でかつそれぞれがその存在を明確に主張しながら、それらが絶妙に溶け合っているのだ。こんなピアノは聴いたことがない。気付いたらイヤホンの音が止んでいて、まだ目覚めている自分がいたのだった。まさに稀有の体験だった。

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どうしてこういう聞こえ方をするのか、演奏の秘密がどこにあるのかはぼくにはわからない。また1曲ごとにどうこう言えるほどの知識もないし、分析的な聴き方ができる訣でもない。上に書いたことが当たっているのかもどうかも本当のところはよくわからない。全体的な雰囲気を味わっての感想を書くのが関の山だけれど、自分勝手な聴き方であるにせよ、感動する演奏に出会えた(少なくともそう思えた)のは本当にうれしい。まさにかけがえのない体験を得させてくれたコロリオフのCDであった。
コロリオフについては、曲は平均律ではなくてゴルドベルク変奏曲(ライプツィヒにおけるバッハフェスティヴァルにおける演奏とのこと)だけれど、YouTubeに動画が上がっていて、全曲を視聴することができる(Bach Goldberg Variations Koroliov)。いったいなんという時代になったことだろう! ピアニストが曲を紡ぎ出していく様子を、居ながらにして間近に見ることができるのである。端正なピアニストである。1949年生まれという年齢の割にはかなり若く見える。しかし特別のカリスマ性を感じさせる風貌ではない。余計なものは何一つない。指も身体も動きは最小限である。無理な動きはもちろん、派手なパフォーマンスも一切ない。ただ淡々と清潔に鍵盤を叩いていく。だからこそ指先に全神経を集中させて、あれだけの演奏ができるのだろう。
もちろん音が全てではあると思う。しかし、聴くだけでなく、同時に視ることができると、情報量は桁違いとなる。コンサート会場の最前列の席にいたとしても、こういう聴き方、視方はけっしてできない。しかも最高の曲の最高の演奏が視聴できるのである。コロリオフの、しかもゴルドベルク変奏曲の動画は、大袈裟ではなくまさに人類の至宝といってよいと思う。
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2018年02月18日

例年になく寒いと感じた今年の誕生日

今年の冬は本当に寒い。寒くなるのが早かった分、春の到来が早ければよいのだけれど、そうは問屋が卸さずに、相も変わらず寒い毎日が続いている。ここ2、3日は最高気温が10℃を越え、ホッと一息付いた感じもするが、まだまだ春の足音は聞こえて来ない。
2月生まれのぼくにとって、誕生日が寒いのは当たり前のことのようでもあるが、今年ほど寒い誕生日はあまり記憶にない。冬型が緩んで春の気配を感じさせる陽気になったり、時として春一番が吹いたりして、寒さとは無縁な誕生日を迎えることもあったように思う。ところが58歳を迎えた今年の誕生日は、とっくに立春を過ぎているというのに、まさに寒中といってよい厳しい寒さの1日だった。

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今年の誕生日が本当に寒かったのか、少しデータを調べてみた。たいへん便利なことに、今では気象庁のホームページから、かなり細かなものまで過去の気象データをダウンロードできるのである(http://www.data.jma.go.jp/gmd/risk/obsdl/index.php
誕生日の最高気温、最低気温、それに平均気温、それにおよその天気を調べてみた。奈良の来てからの冬で、日中の最高気温が一番低かったのは1994年の4.3℃、一番高かったのは1998年の19.7℃で、平均すると約10.2℃だった。これは結構高いように思う。最低気温では、一番低かったのは2006年の-3.6℃、一番高かったのは一昨年2016年の8.3℃だった。平均は-0.1℃である。一日の平均気温では、最高は2016年の12.3℃、最低は2008年の0.1℃で、平均は2.2℃だった。
東京で誕生日を迎えた89年までの30年間の東京についてみると、最高気温、最低気温、平均気温いずれについても最も高かったのは1969年で、それぞれ19.1℃、7,3℃、12.2℃、最低がその2年前の1967年で、それぞれ3.0℃、-4.0℃、-0,2℃となっている。

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それでは寒い寒いといっている今年はどうだったかというと、最高気温6.0℃、最低気温-0.6℃、平均気温2.2℃というのが奈良の観測値である。これまで59回経験してきている(満58歳ということは誕生日の経験でいうと59回目にあたることに今さらのように気付いた。いわゆる数え年で、その意味ではむしろ数え年の方が理に適っているという気もしてくる)誕生日の気温でどのくらいの低さなのかをみるためにデータを並べ替えてみると、最高気温では低い方から8番目、最低気温では同じく18番目、平均気温では10番目だった。最低気温はさほどではないけれど、日中の気温としては低い方から2割くらいに入る数値なのである。
東京は観測地点が代わっているようだが、平年値は東京、奈良それぞれ次のようになっている。
 東京:最高気温10.5℃、最低気温1.7℃、平均気温5.5℃
 奈良:最高気温9.7℃、最低気温-0.1℃、平均気温4.4℃
ちなみに経験した59回の誕生日での単純な平均は、最高気温9.83℃、最低気温0.76℃、平均気温4.99℃である。今年の誕生日は、最高気温6.0℃、最低気温-0.6℃、平均気温2.2℃だったから、最高気温でいうと4℃近く低い訣である。今年の誕生日の寒さが理解できたように思う。そもそも最高気温でいうと10℃を超えた年が21回あり、さらに15℃超えが6回(約1割)もあって、20℃近くまで上がったことさえあった訣である。誕生日に真冬の寒さという印象が薄かったのも肯けた気がする。
それに今年の冬の場合は、誕生日当日はそれほどではなかったものの、寒くなるのが早かった(12月に既に真冬の寒さだった)上に、定期的に強い寒波が流れ込んで来ていて、2月に入ってからも、平均気温が1℃台以下という日がほぼ半数を占めていた。寒冬というイメージが焼き付いていてしまっていたのだろう。誕生日の方がまだ少しはマシであったものの、寒さが緩んだという印象をもつまでには至らなかったのである。
以上のデータを天気も含めて整理したのが下の表である。天気についても気象庁のデータが公開されているが、67年よりも前のデータがないので、それについては、国立情報学研究所の北本朝展氏の研究室のHPで公開されている「デジタル台風」の「100年天気図データベース─過去の天気図アーカイブと日本の気象観測の歴史─」掲載の天気図によって判断した。
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誕生日の天気に絡んで印象に残っているのは、中1の時のクラブ活動で教わって初めて描いた天気図が、その冬の誕生日のものだったことである。夜の気象通報は22時から20分間で、もちろん初めてだから直接記入できるはずもなく、天気図脇の表を埋めるのに精一杯。聞き終わってから図に描き込んでいく訣である。最後の難関の等圧線を引く作業まで何とか終えて完成させた頃には、23時を回っていたのではないだろうか。
浮かび上がったのは、冬型の気圧配置が緩み、大陸の高気圧の一部が日本付近で東に大きくした舌状に伸びて緩やかに覆い、日本海から東シナ海にかけてが気圧の谷になって移動性高気圧がちぎれようとしている、そんな様子の天気図だった。思うにこれがぼくの誕生日のごく標準的な天気図であるように思う。このあと低気圧が日本海で発達すれば春一番が吹いて気温が上昇するだろうし、いわゆる台湾坊主が発生して南岸を進めば、特に関東地方の太平洋側に冬の雪が降る典型的なパターンとなる。これらが今時分によく見られる天気パターンである。時として縦縞模様の冬型が現われることもあるけれど、そう長続きはしない。
今年もまあ大きく見れば、大陸の高気圧がちぎれようとしているパターンだった訣だけれど、東の低気圧は相当発達しており、前日までの強い冬型による寒気の流れ込みの影響がまだかなり残るという状況だった。
それにしても、居ながらにして自分が生きてきた期間の気象データが検索・活用できるとは、何ともまあ便利な時代になったものであろう。
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〔2018年2月13日9時の天気図。気象庁のHPによる〕
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2018年02月14日

初めての霧氷の高見山

高見山(1,248m)は、奈良県と三重県の県境をなす台高山脈北端に位置する名峰である。関西のマッターホルンの異名をもつといい、これは東西方向から見たときの美しい三角錐の形状に由来するらしい。しかし、南北方向から見るとどっしりと大きな山容が顕著で、東西方向とのギャップが著しい。
以前すぐ北側にある天狗山に登ったことがあり、南下して高見山近づくにつれ徐々に雪が増え、雲間からのぞき始めた高見山はすっかり雪化粧し、厳しい風貌を示していた。その悠揚迫らぬ出で立ちに深い感銘を受けた記憶がある。奈良交通が冬に霧氷号を出す山の一つとしても知られているが、これまであまり縁がなくて登る機会がなくきてしまった。
高見山とは本当によくいったものである。それほど標高が高い訣ではないのだが、周囲に高い山がないためにひときわ抜きん出て聳え、広大な眺望を提供してくれている。そしてその分逆にどこから見てもひときわ目立つ存在であり続けるのである。
新木津トンネルを出てすぐの所から高見山を望む.jpg
〔新木津トンネルを出てすぐの所から高見山を望む〕

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今回は元々木梶山に登る予定だった。しかし、今冬は雪が多く林道に入れないとのことで、予定が変更になり、予期せぬ高見山登山が実現することになった。霧氷バスと同じ高見山登山口のある杉谷まで運んでもらい、ここから山頂まで800m弱の標高を稼ぐことになる。初っ端からアイゼンを付けてのまたとない冬山トレッキングとなった。階段あり石畳ありで、雪のない季節だと結構なアルバイトを強いられる道だろうが、雪があるとそれがかなり緩和されてかえって登りやすい。
さすがにシーズン中の休日だけあって霧氷号でやって来た人も多いし、自家用車も結構な台数である。山の日に登った釈迦ヶ岳さながらの活況を呈している。高見山のよいところの一つには、アプローチの短さがある。榛原からの霧氷号は所要時間にして1時間もかからないのである。9時過ぎにはもう歩き出せていて、大峰や大台方面の山々と比べるとそれは顕著だろう。

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高見峠越えの旧道から来る林道に出る小峠まで1時間余り、徐々に存在感を増してゆく雪に覆われた道で、ちょうどよいウォーミングアップといった感じ。ここで小休止したあと尾根道に出るまでの30分余りがこの日の行程では一番きついところだった。この登りが東西方向から見た時の三角錐の南側の稜線部分にあたる。
稜線に出たあとは少し傾斜が緩くなった道が山頂へと続くが、木の間越しに南北に山々が望めるようになり、成長した霧氷が見られるようになる。積雪は少なくとも10㎝以上はありそうだ。そうこうするうちに、ふと気付くと、そこは霧氷の世界のまっただ中だった。ある一定以上の標高に達するということなのか、あるいは地形の影響なのか、それは突然に始まった。
かつて和佐又山の山頂で見た霧氷も美しかった。しかし、高見山の霧氷はその規模が特別で、エビのしっぽさながらに成長している。冬の季節風をまともに受ける独立峰ならではの光景なのだろう。ここまですさまじく発達するものなのだ。山頂にかけて応接の暇ないといった感じで続く霧氷の森にはただただ圧倒されるばかりだった。幸いだったのは、覚悟していた風が案外穏やかだったこと。これだけの霧氷を作る稜線であるから、相当の風は覚悟していたのに、まことにありがたい誤算だった。
霧氷越しに周辺の山々を望む(北側).jpg
〔霧氷越しに周辺の山々を望む(北側)〕

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〔激しく成長した霧氷(エビのしっぽ)〕

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山頂は予想通りの大混雑で、避難小屋や展望台を通り越して、東西の細長い山頂の東端まで行き、雪の上にシートを敷いて昼ご飯を食べた。時折日が射すと立春直前の日射しはやわらかく、身体の芯まで暖められる感触を味わった。ケータイの電源が急降下するような寒さなのだけれど、日射しのありがたさを実感した。
それと忘れてならないのは、この山からの大眺望である。廻りの山々は言わずもがな、奈良盆地とそれ越しに生駒山が望めるのには感激した。橿原線の電車で郡山から筒井にかけての高架を通過するとき、大和高原の低くなった所から高見山らしい三角錐が望めるのは知っていた。ちょうどその反対方向からの景色を今まさに見ているのである。当たり前のことなのだが、これには驚いた。また、ここから目を左に転ずると、盆地の眺望が一旦途切れたあと、今度は葛城山・金剛山が望める。この日は天候が下り坂でけっして視界は良くなかったが、湿気が高い分景色を引き寄せてくれていたのかも知れない。
奈良盆地と生駒・信貴山を望む.jpg
〔奈良盆地と生駒・信貴山を望む〕

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〔高見山山頂から台高の山々を望む〕
帰路は三角錐を左にたかすみ温泉に向かって下りる。こちらの道は至って単純。階段状の道は登りに使うならばかなりしんどいことだろう。適度に積もった雪が段差を和らげてくれていて歩きよいが、それでも単調の感じは否めない。途中高見杉の魁偉な姿が、よいアクセントになってくれる。予想通りたかすみ温泉は結構な混雑ではあったが、一日の疲れを癒やすにあまりある心地よさで、ついつい長湯をしてしまったことだった。
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〔高見杉の魁偉な姿〕
ラベル:奈良 季節
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2018年02月03日

大江健三郎さんの『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』を読み終える

大江健三郎さんの『晩年様式集』をついに読み終えてしまった。大江さんの作品は厖大で、とくに初期の短編を中心にまだまだ未読のものも多いが、『燃え上がる緑の木』以来、ここのところ「晩年」に至るそれ以降の新しい作品をずっと読んできた。
実は、『燃え上がる緑の木』三部作よりも先に、その後に書かれた『取り替え子』と、『憂い顔の童子』とを読んで、深い感銘を受けた。ともすれば難解と言われてきた大江さんの文章から、叙情さえ感じられたのが、ある意味驚きだった。
一旦筆を折られたあとの新しいスタイルなのだろうかと考えながら、さて次は何を読もうかと考えた時にめぐり合ったのが、随筆集の『言い難き嘆きもて』だった。そこには大江さん自身による作品分析があったりして、『燃え上がる緑の木』や、それ以後の作品に分け入る決断がついたのだった。
大江さんは同じ主題をずっとさまざまな形で扱ってきた作家である。大江さんほどいい意味で執拗ともいえる作家をぼくは知らない。勿論、作品はどれも独立した「人格」をもつものであり、どういう順序で読んでもよい訣だけれど、大江さんの場合前作が下敷きになっていることが多いから、書かれた順序で読む方が、理解が深まるのは間違いない。
なにせ作品の中に旧作が登場するのである。しかもそれを大江さんの分身と思しき登場人物が批判したりし始めるのである。作品名を少しアレンジしているうちはまだよかったのだが、そのうちいわば開き直った形で作品が実名で出てくるようになる。
私を語り手とする私小説風のつくりを離れ、長江古義人を主人公とする三人称の小説に移行したかに見えたが、そのうち気が付くと、長江古義人が私として振る舞っているのに気付く。徹底的に主人公に乗り移らずにはいられない、大江さんの圧政的体質と言えるかも知れない。
古義人の家族は長年そんな古義人の圧政に耐えてきた。「イン・レイト・スタイル」とルビの打たれた『晩年様式集』では、古義人の妹アサ、妻千樫、そして娘の真木の三人の女たちが、それぞれにその憤懣をぶちまけるという体裁で、晩年様式集+αを構成してゆく。劇中劇ではないけれども、小説の中で作品が作られていくのである。しかも、これまでにはなかったことだが、現に書いている小説がそれ自身を引用するのである。
連載であればこその様式といえようが、何重にも入り組んだというか、小説の中において、何が事実で何がフィクションなのか、訣がわからなくなるというのが正直なところだ。ここではごく一面的なことしか書けないので、いつかきちんと時間をかけて構造を読み解いてみたいと思う。物事を三次元で捉えるのが苦手で、これは苦労しそうだが面白そうだ。その面白そうだという感覚を、実際に読み解けなくても、全体として肌で味わうのが、小説を読む醍醐味といっていいだろう。読んだだけで立体的重層構造がイメージできる人が羨ましい。
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〔大江健三郎『晩年様式集』(講談社文庫)のカヴァー〕

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さて、『晩年様式集』は、3.11後の社会で書く意欲を失った古義人のカタストロフィの物語で、それは大江さん自身の姿でもある訣だが、現に大江さんは些か特殊な様式ではあるけれども、作中で『晩年様式集+α』を組み立てながら、実在の『晩年様式集』をまとめあげているのである。古義人に仮託しながら、大江さん自身の作品を完成させている訣である。
ここでの古義人は、それまでのどの作品の古義人よりも大江さん自身に近い、というか、大江さんが古義人に寄り添っているといってよいかも知れない。勿論プロットにフィクションは含まれているかも知れない。しかし、精神的には実感をそのまま表現するしかないほどに、3.11は切実な経験だったのである。
『晩年様式集』は、3.11後の片付け中に居眠りしてしまっ古義人が見た夢の話から始まる。余震が続く中で、息子のアカリをどこに隠すか思案に暮れる古義人を、アカリは逆に、ダイジョーブですよ、アグイーが助けてくれますから、と言って励ます。しかし、そうした古義人の受け止め方の中にも、既に実は微妙なズレが生じているのである。古義人はまだそれに気付いていない。3.11後の絶望感に苛まれた古義人は、階段の踊り場で一人ウーウーと涕泣する。アカリはそんな父親を心配しながら、それを鋭敏な耳で聞いていたのである。
ところが、古義人の親友エドワード・W・サイードの追悼に弾かれたベートーヴェンの第2番ソナタの楽譜、それは友人の配慮で古義人に届けられたサイード自身の書き込みがある古義人にとってかけがえのない楽譜だったのだが、そこにモーツァルトの旋律を見出したアカリはそれを古義人に示すために、K550と黒々と大書してしまう(第2番ソナタを改めて聴き直してみたが、ぼく貧しい耳では事実関係の確認はできなかった。いずれ楽譜を見ながら聴き確かめてみたいと思う)。怒りの収まらない古義人は、アカリに対し、おまえはバカだと罵ってしまう。これをきっかけに、古義人はアカリと意思の疎通を図れなくなってしまうのである。
そうした経緯もあって、アカリは真木とともに古義人の妹アサのいる四国の森で生活するようになり、古義人から離れることで自分を取り戻し始める。ところが、千樫の発病で真木を成城の家に呼び戻さねばならなくなり、替わりに古義人自身が四国に移り、アカリとの生活が始まる。

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さまざまな屈折を経ることにはなりここでは詳しくは書かないが、父子の和解への道は感動的である。わだかまりを持っていたのは、結局は古義人自身なのであって、アカリはあくまで純真なのである。パパを助けるのはアカリであって、アグイーにはパパを助けることはできない、そうアカリは思い詰めている。ひとたび原発に事故が起きれば、もう誰にも如何ともしがたい絶望的な状況の中で、アカリの純粋な決意がもしかしたら道を切り開いてくれるかも知れない。アカリのそうした姿は一縷の希望を抱かせる、いや人として生きるあるべき姿を考えさせてくれる。
古義人がアカリと四国の森に住むようになって和解の糸口が見え始めた矢先の朝、シューベルトの作品142の変ロ長調の即興曲を、アカリは自分でも驚くくらいの大音量で鳴り響かせる。しかしそれは古義人が思い込んでいたように彼が父親にバガだと言われたことを根に持っていたからではなく、自分のしたことや言ったことが本当にそれでよかったかのかどうか、ずっと気にしていることを伝えたかったからなのだった。自身の仲介でアカリと兄古義人との仲直りの道筋が見えてきた時、アサの眼から一筋の涙が流れ出る。それをアサは、振り払う。
三人の女性たちは古義人に対し自分の言葉で抗議ができる。しかし、アカリにはそれができない。この小説で古義人に最も強く抗議したのは、実は三人の女性たちの誰でもなく、他ならぬアカリだったのである。『晩年様式集』は、アカリと古義人との和解の物語でもあるのだ。
作中では、これまでの大江さんの作品で語られてきたさまざまなことが視点を変えて解き明かされていく。大江さんの作品に親しんできた人にとっては、故郷に帰ったようななつかしい物語であるだろう。特に古義人の身近に生きた人々、特に妻千樫の兄塙吾良、ギー兄さん、それに古義人自身の父の凄絶な死が中核をなしている。三人の女性たち、そしてギー兄さんの息子ギー・ジュニア、吾良晩年の恋人だったシマ浦ら、多彩な人々の協力によって、古義人は死者との静かな対話を繰り広げてゆく。そこには古義人自身が死の淵から妹アサによって救い出された物語までが語られるのである。
それは来たるべき古義人自身の死と結んでいる(この「結ぶ」の使い方は知る限り大江さん独特のものである。関係している、つながってる、結び付いているの意味をより短く端的に表現できる語彙だろう。しかし、このような「結ぶ」の使い方をしている人をぼくは大江さん以前には読んだことがなかったし、使ったこともなかった。だから、ここでの表現はぼくの初例で、漸く自身の語彙として自信をもてるところまできたということである)のは確かなのだが、それは自身のことというよりは、死後の家族、ことに自立できないアカリの将来への不安が中心をなしている。そのためにも家族とのわだかまりがあってはならないのである。『晩年様式集』はその意味でも家族との和解の物語なのである。
社会的にはひとたび原発が事故を起こせば壊滅的な事態から逃れられない絶望の淵にある。しかし、救いは古義人が、というより大江さん自身が、楽観的というのではないけれど、人類の未来にけっして希望、望みを捨てていないことである。「私は生き直すことができない、しかし私らは生き直すことができる。」一人ひとりの生は一回限りのものであるからやり直しは利かない、しかし魂は輪廻を繰り返すものであり、人間社会全体としてはいつでもやり直しが可能である。人間への篤い信頼がそこにはあるのである。大江さんの行動は、そうした信頼に裏打ちされたものなのである。

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『晩年様式集』を読み終えてしまった今、ずっと呆然としたままでいるのだが、私らとしての生き直すために、今自分にいったい何ができるだろうか。そのためにも、歯抜けになっている大江さんの作品で未読のもの、それらの世界に分け入っていかなければと思う。初期の作品や短編群はまだかなり手薄だし、長編では、同時代ゲーム、われらの狂気を生き延びる道を教えよ、みずから我が涙をぬぐいたまう日、「雨の木」を聞く女たち、キルプの軍団、治療塔、治療塔惑星、人生の親戚、河馬に噛まれる、そしてヒロシマ・ノート、沖縄ノートも忘れてはならないだろう。
今夏から待望の全小説が講談社より刊行の予定であるし、短編は分厚い自選選集が岩波文庫から既に出ている。文庫では品切れのものも多く、古本もあちこちかき集めながら読んできたけれど、大江さんの本を読む環境としては悪くないだろう。大江さんの本は今こそますます読まれるべきものと思う。世界的な賞をもらったことに幻惑されてしまいがちだが、もちろんそれはそれで素晴らしいことであるし、そのような評価は結果として当然のことと思うが、けっしてそこにのみ大江さんの作品の価値がある訣ではない。閉ざされた未来の扉が開くことを信じて、かけがえのない私の生を生きてきた大江さんの全てが注ぎ込まれているからこそ、私らとして生き直すための私の生き方の源泉をそこに読み取ることができるのである。
50年以上に及ぶ大江さんの仕事の総決算というべきこの作品を総括することなど土台無茶な話ではある。ただ、大家が過去の作品を懐かしむだけのありきたりの総決算になっていないところが大江さんのすごいところで、この期に及んでなお苦しみ抜いていられるのには心を打たれる。私らとして一緒に生き直そうという、それは読者への大いなる問いかけなのである。
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