2018年08月31日

惜しむ余裕のないままに過ぎ去りゆく夏

今日は母の85回目の誕生日。夏休みが父の誕生日とともに始まり、母の誕生日とともに終わる、そんな小中学校時代のことをなつかしく思い起こす。高校野球が終わってからあとの8月の残りの一週間余りといえば、宿題に追われた記憶ばかりが鮮明で、母の誕生日を無事に迎えられない年さえもあった。
しかし、夏は否が応でも母の誕生日でお終い。これは有無を言わさぬものだった。翌日からは学校が始まるのである。夏を惜しんでいることなど許されないのだった。それをメリハリということはできるかも知れないが、季節のうつろを味わっている余裕など到底なかった。
その点、勤めてからこの方は、夏休みもなにもない日々ではあるけれど、季節の微妙なうつろいを肌で感じることはできた。ことにここ10年ほどは、暑さに鈍感になったせいもあってか、行く夏を惜しむ気分になることが増えてきた。

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南海上を台風が西進している。来週にかけて北上する予報が出ていて、かなり危ないコースを辿りつつある。915ヘクトパスカルまで中心気圧を下げており、今後どの程度の勢力を保って北上してくるか、注意深く見守らねばならない。向きを北に変えた後に速度を上げる気配もあり、あまり弱まらずに列島に近づく可能性も充分ある。列島接近は、今のところ、火曜日の午後から夜にかけてというところか。どうか平穏に通過してくれることを祈りたい。
台風は夏を連れてくることもあれば、秋を連れてくることもある。9月の残暑はそれほど長くは続かないだろうという。今度の台風はどうやら秋を呼び込む季節の節目の台風ということになりそうだ。
惜しむ余裕のないままに、今年の夏が過ぎ去ろうとしている。
ラベル:季節 記憶 日常
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2018年08月25日

ブラームスの第4を聴きたくなる時

一週間が終わった。充実した日々を過ごせたけれど、行事の実施と来客の対応がそれぞれ2日ずつあって、その間を縫うようにさまざまな予期せぬことも出来した。全部を片付けることはできず、来週送りになってしまったものあったが、とにもかくにもまあものすごい一週間ではあった。
ここのところ平穏無事に一週間を過ごせることの方がむしろ稀で、疲れの蓄積が半端ではない。今週末は山に一週間分の疲れを癒やしに出かけるはずだった。ところが、今週を彩った類い稀なるアベック台風(日本と韓国に台風がほぼ同時に上陸などという前代未聞のことが今後も発生するとは到底思えない)はの一つ、20号の影響で、楽しみにしていた山行きが中止になってしまった。お蔭で何倍にも膨れあがった疲労に襲われる結果となった。
けっして体調が悪い訣ではないのだけれど、油が切れてきているというか、歯車が擦り減ってきているというか、肉体的な疲労感に襲われている。なんとかこうしていられるのは、肉体的な面を精神的な面で辛うじてカヴァーできているからなのだろう。長じてからこの方、あまり物事を深く考え込むことがなくなったのが、唯一ぼくの長所であるようにさえ思う。
もっとも、こういう心で身体を支えているというような状況に陥った時に、きまって聴きたくなる曲がある。その曲の、しかもいつかまた聴きたいとずっと思いながらこれまで買わずにきた演奏を、今週とうとう入手した。別に入手が難しかった訣でも、また逆に敢えて買うのを控えてきた訣でもないのだけれど、大切な曲の大切な演奏を、心の中にそっとしまっておきたいという思いがあったのかも知れない。

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曲はブラームスの第4交響曲ホ短調作品98、演奏はブルーノ・ヴァルター晩年のコロンビア交響楽団を振ったステレオ盤である。40年前に聴いていたのは、夕映えの山々のオレンジ色の写真が印象的なジャケットのLPだった。
ヴァルターのブラームス第4のジャケット(今もSONYのCDに使われている).jpg
〔今も使われているヴァルターのブラームス第4のジャケット(現行のSONYのCDのもの)〕
ブラームスというと、分厚いハーモニーの重厚な曲というイメージが強くて、実際同じブルーノ・ヴァルターでもニューヨークPOを振ったモノラル盤は、まさにそういう方向で成功した名盤だった。ことに2番はそうで、特に怒濤のような終楽章は圧巻で、これを超える演奏は今後も出ることはないだろう。
しかし、コロンビアSOを振ったステレオ版は、全くその正反対の方向を行く演奏で、モーツァルト的というとちょっと語弊があるかも知れないが、コロンビアSOの響きの薄さを逆手にとって、ロマンティックでありながら、途轍もなく精緻で透明なブラームスができあがったのである。
CD時代になってから、LPで愛聴したヴァルターのステレオ盤のCDを随分買った。しかし、ヴァルターの演奏になつかしさを覚えながらも、CDの音質がどれも今ひとつで、LPで聴き慣れた演奏のイメージが壊れていくのが怖くなった。先程も書いたけれど、ブラームスの4番のCDを買わずに来てしまったのは、ひとえにそうした事情によるのである。

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それでも、この曲を聴きたくなることはあって、そんなときに聴いたのは、シベリウスの7番を目当てで買った、メロディアから出ていたムラヴィンスキーがレニングラードPOを振ったライヴの演奏(VICC-2033)だった。これは不思議なカップリングのCDで、しかもブラームスをメインにするなら、普通はブラームスを1から4トラックとし、余白に5トラックとしてシベリウスを入れるだろうに、このCDは逆にシベリウスの第7が先だった。ムラヴィンスキーにとってシベリウスの第7は特別の曲であったらしいが、そうであったからこそぼくはこのCDを入手したのであって、普通なら巡り会うことのなかったブラームスの第4だった。
演奏は、分厚く精密で、機械のように生硬な、完成度の非常に高い演奏だった。優れた演奏には違いない。ただ、心が折れて聴こうとしている者にとっては、言ってみれば取り付く島のない演奏だったともいえる。人生そんなに甘くはないと、冷たく突き放され、ハッとする思いを味わわされたのだった。
それから、ブラームスの第4とは随分長いこと疎遠だったが、再び時が廻って聴きたくなった時に買ったのは、エードリアン・ボールトの全集だった。元はEMIの原盤だが、ライセンス契約で出ていたDisky盤(Disky HR705412)を入手した。その頃ボールトの演奏をいくつか聴いていて、またこの3枚組のCDがかなり安価だったこともあって、実はあまり期待もせずに買ったのだった。
しかし、これは一応は正解だった。ヴァルター・コロンビア盤のイメージとさほど齟齬はなく、至極精神的に勇気づけられる演奏だった。凜とした演奏だが、突き放される冷たさはなく、むしろ背中からじわじわと心の中が伝わってくるような、そんなイメージをもった。「ほのかに甘く、あくまで渋い、男のブラームス」といったキャッチだったかと思うが、まさに言い得て妙だと思ったのを覚えている。ただ、最終的にはやはりこの男臭さが鼻をつき、落ち込んだ気分にはそぐわなかったのである(このあたりまでの経緯は昨年「ブラームスな正月休み」でも書いたことがある)。

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今回ヴァルター・コロンビアの演奏を買う気持ちが動いたのは、音に期待できないSONYの版ではなく、オープンリールテープから復刻した版(平林直哉氏の復刻によるもの。GS-2160)ならば、もしかしたら失望もさほどではないかも、という淡い思いを抱いたからである。失望さえなければ、せめてLPで聴いていたのに少しでも近い演奏を聴けるならば、それでよいのではないか。裏返せば、それほどにヴァルター・コロンビアSOのブラームスの第4が聴きたくなったということなのである。
ヴァルター・コロンビアSO、ブラームス第4(平林直哉氏復刻)のジャケット.jpg
〔ヴァルター・コロンビアSO、ブラームス第4(平林直哉氏復刻)のジャケット。GS-2150〕
結果はどうだったか。聞こえてきたのはまさに心の中で暖めてきたヴァルターの第4そのものだった。言葉ではうまく表現できないけれど、LPで聴いていた時に聴き逃していた音とその広がりも伝わってくる、ある意味ものすごく自然で作為のない演奏という印象をもった。何よりも音が柔らかい。SONYのCDはヴァイオリンがキンキンして聴くに堪えない場合が多いが、それがないだけでも(もしかしたらそれが一番大事なことかも知れないけれど)、この復刻は成功していると思う。

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実は今回、ヴァルター・コロンビアとともに、これも世評の高いバルビローリがヴィーンPOを振った全集が今ならまだ安価で入手できるので、買えなくならないうちにと思い、合わせて購入した(WARNER CLASSICS 0825646767717)。以前、買うのを迷っているうちに廃盤になってしまい、買い逃した苦い経験がある)。
左から、ムラヴィンスキー、ボールト、バルビローリのジャケット.jpg
〔左から、ムラヴィンスキー、ボールト、バルビローリのジャケット〕
バルビローリの4番は、ゆったりとしたテンポで、かつタメを活かしながら歌わせる独特の演奏で、文句なく美しい。ただ、美し過ぎるといったら言い過ぎかも知れないけれど、やはりちょっと情緒的に過ぎる。甘さが過重なのである。甘さで比較するなら、ヴァルターは情緒的で甘味はあるけれど、けっして甘くない。透き通った甘さである。ボールトは、甘さはあるけれど、なんというか、塩羊羹のような甘さといったらよかろうか。良し悪しではないことを強調したうえで、敢えて誤解を恐れず換言すれば、バルビローリのブラームスの第4は、此岸の現世にどっぷり浸かった音楽、ボールトのブラームスの第4は此岸から三途の川を渡ろうとして振り返っているような音楽だと思う。それに対し、ヴァルター・コロンビアのブラームスの第4は、まさに彼岸の音楽としか言いようがないだろう。ヴァルター晩年のステレオ録音、その全てがかけがえのない人類の遺産であるけれども、その中でも特に傑出した演奏の一つであるのは確かだろう。
ラベル:CD 音楽 日常
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2018年08月18日

猛暑の夏にも秋風が立つ

災害級の猛暑が続いている今年の夏だが、今朝の奈良は何と気温が17℃台まで下がり、昨日感じた秋の気配がをさらに深まった。日中は日射しがまだまだ強く、最高気温は30℃を超えはしたものの、からりとした晴天で過ごしやすかった。
一昨日、天気図で寒冷前線が下がってきているのを見て、雷のことを心配していたが、そのうしろから秋の移動性高気圧第一号を連れてきてくれていたのだった。昨日は、一昨日までとは空気が完全に入れ替わったのを実感した。調べてみると昨日の奈良の最高気温は30.1℃。日中の湿度も30%台まで下がっているのである。ここまで明瞭な変化があると、いかに鈍感なぼくでも体感できたという訣である。
もちろんこのまま秋になってくれるはずはなく、来週は暑さがぶり返すという。しかも台風が絡んでややこしい天気になりそうだ。ここのところ日本の南から沖縄にかけてが赤道低圧帯になった感があり、台風が量産体制に入っている。先日九州に上陸した18号をはじめ、幸いこれまではたいして発達せずにいてくれたからよかったようなものだが、来週日本をうかがっている19号は、既に965ヘクトパスカルまで気圧を下げているから、そこそこの勢力にはなりそうだ。今のところ九州の西まで大回りしそうな予報が出ているけれど、これもひとえに太平洋高気圧の強さ次第で、どこで北に転じるかは予断を許さない。

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こんな年は特に9月、10月に注意しないといけない。ことに9月後半に本土をうかがう台風は怖い。強さ、大きさ、スピードのいずれにも卓越した真打ちといってよい台風は、たいていこの頃に訪れる。
例えば、大型台風の上陸が相次いだ、ぼくの生まれた前後の時期の台風は、1958年の狩野川台風(9/26-27)、1959年の伊勢湾台風(9/26)、1961年の第2室戸台風(9/16)といった具合である。そして、これ以来60年になろうとしているが、この間これらに匹敵する台風は日本を訪れていないのである(狩野川台風と伊勢湾台風についてはコースを含めて「台風北上」もご参照ください)。
このうち狩野川台風は、発達時の最低気圧が877ヘクトパスカル(当然当時はまだミリバールを単位として用いていた)で、その後最低気圧の記録1位を保ったが、上陸時の気圧は960ヘクトパスカルで、特別に強かった訣ではない。被害の多くは前線との競合による大雨で、東京でも1日で400㎜近い大雨が降った。日本気象協会の「天気図日記」で、雨だけものすごく風はたいしたことがなかった、という記述を読んだ記憶がある。
第2室戸台風は、室戸岬上陸時の気圧が918ヘクトパスカルで、これは上陸時の気圧としてはいまだに1位の記録である(上陸時の1位は、その後1977年の沖永良部台風の907.3ヘクトパスカルに更新されている)。
伊勢湾台風は、上陸時の気圧は930ヘクトパスカルで第2室戸台風よりは高いが、この930ヘクトパスカルという気圧もすさまじいものである。気圧の低さによる吸い上げ現象などによって伊勢湾に大規模な高潮が発生し、多くの犠牲者が出てしまったのである。紀伊半島の大雨の被害も甚大だった。
1960年前後に上陸した3つの大型台風はこのようにそれぞれに個性的だけれど、何よりも怖ろしいのは、それ以来、このクラスの台風には見舞われていないという事実である。ぼく自身960ヘクトパスカル台の台風の経験までしかない。温暖化の影響からか、台風の勢力自体が強まりやすくなっているといい、いつ日本が狩野川・伊勢湾・第2室戸クラスの台風に襲われてもおかしくないのである。
もっとも、大地震と違って、台風は突然やってきたりはしない。伊勢湾台風の時でさえ、進路予想はほぼ的中し、前日朝には既に厳戒態勢がとられてはいたのである。翻って現代の気象技術の進歩を考えるなら、進路予想、雨風の状況予想はほぼ充分なものが期待できよう。そうなると、あとはぼくら自身がどれだけそれに的確に備えられるか、だけである。
天気図に凝って何千枚も天気図を書き続けていた中学・高校時代、台風が北上の気配を見せると、色めき立ったものである。台風のいる天気図には、普通の天気図にはない何かがあるのである。まして日本に台風がいるとなれば、これを書き逃す手はない。しかし、あの頃、そんな「期待」に反して大型台風が北上することなく(いや、普通程度の台風も余り北上はしなかった)、みな西にフィリピンを目指して行くのが常だった(狩野川台風の記録を更新した875ヘクトパスカルの最低気圧を記録した1973年の15号台風もそうだった〈この記録はその後1979年の台風20号の870ヘクトパスカルに破られている〉)。
あの頃、21世紀に入ると大型台風が北上しやすくなると聞いたことがある。確かにその傾向はあると思うが、幸いなことに伊勢湾クラスの台風には遭遇することなく済んでいる、どうか、今年の秋も平穏に過ぎ行くように!
ラベル:季節 日常
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2018年08月16日

原田康子『挽歌』のあらすじ4─痛みの正体─

原田康子さんの『挽歌』のあらすじの4回め。今回も前回(原田康子『挽歌』のあらすじ3)のスタイルを踏襲し、少しは感想めいたことも書けたらと思う。但し、今回は第9章の1章のみである。

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9章 2月に入ったある夕暮れと翌日、2月の半ばの5回目の訪問の日
ダフネに待ちに待った桂木夫人と古瀬達巳が現れる。怜子は桂木夫人と古瀬達巳の2人に接近する。それは、愉しさのためであり、さらに息を詰めるような喜びを得るためだった。
夫人と視線があって頰を熱くした怜子は、彼女の夫の自分に対する優しさと、愛されていない悔しさを同時に思い出す。でも顔の赤らんだのは、しおらしい娘だと思わせるのに都合が良いと自分を納得させ、久田の恋人だと思わせておくことに思い至る。そして、見事な嘘をついて、明日久田幹雄と訪問することを夫人に強引に認めさせる。ただ、夫人もけっして嫌がってはいない。このあたり、怜子の自己分析の描写が相変わらず見事だ。
バスで山手に向かう2人を、怜子はタクシーで尾行する。危険なスポーツを楽しむように、怜子はそれを面白がる。戦慄、緊張、期待、それを愉しむだけで充分だったが。二人がロッテ屋敷に入るのをみて、痛みが過ぎる。
怜子は自分では愉しさを得るためというけれど、根底には桂木さんへの愛があるのは自明のことと思う。それを彼女は必死に隠そうとする。愛からの行動ではないと、無理に自身を納得させようとしている。夢からの逸脱を必死に押しとどめようとしているかのようだ。
翌日、怜子は久田とともに桂木家を訪ねる。あたかも初めての訪問であるかのように。怜子は桂木夫人の身体の線の陰影に富んだ美しさに見惚れ、その美しさを与えたのが桂木さんだと思い当たって、蒼ざめる。しかし、愉しさを求めてやって来たのだ、蒼い顔をしてはいられない。
夫人を執拗に包んでいる懶い影の原因を考えるうち、夫人の夫と私が結びついたのは、くみちゃんの放ったゴムマリにあるのではなく、夫人の不貞にあるのでもなく、私の不遜な好奇心にあったことに怜子は気付く。
桂木さんの部屋に入った怜子は、隣室を気にしながら、書棚の本に桂木さんへの懐かしさを募らせ、抜き取った力学の本の皮表紙に唇を押し当てる。自身の気持ちを如何ともし難いのである。
桂木さんの蔵書への愛撫、怜子は疼きに似た快感を覚える。これでさっき夫人の身体の線を見て受けた苦しみは帳消し。夫人はこうして知らないところで辱しめを受けるがいい。怜子はますます動悸を募らせる。
抑制された何気ない描写だけれど、それだけにかえって美しく、切ないほどのエロティシズムを感じさせる。怜子の微妙な心の襞の描写とともに、著者の力量が遺憾なく発揮されている稀有な場面だ。
怜子の桂木夫人への感情は複雑である。既に夫人への愛が芽生えている。風蓮湖の白鳥が話題になった時、怜子は夫人を白鳥に見立て、白鳥に見惚れ、捕まえ、そして父譲りのランカスターの引き金を引く。湖も氷も真紅に染まる。怜子は獲物を仕留めた喜びに浸る一方で、血濡れた白鳥に頬ずりする自分を夢見るのである。怜子の夫人への感情を余すところなく描き切っている。
こうして、喜び、怖れ、憂い、怯え、快感、疼き、怜子はそれらに取り囲まれ翻弄されているが、そうした自分に怜子は実は満足している。
そんな怜子を真剣に観察している者がいた。久田幹夫である。久田は怜子を愛しているが故に、怜子の心の動きが痛いようにわかる。そして苦しむ。彼は桂木夫人だけではなく、怜子をも描いていた。怜子は久田にそれを言われるまで全くそれに気付いていなかった。
それが何を意味するか、怜子はようやく理解する。久田は怜子だけを愛していることを知るのである。いま、2人の視線があったら収拾のつかないことになると思い、怜子は桂木さんと出会った丘の方に眼をそむけて考える。久田はわたしを愛している。わたしも彼を嫌っていない。むしろ以前よりも身近に感じている。しかし、怜子にはもうどうすることもできないのだった。

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ところで、『挽歌』には、怜子が「痛み」(「疼き」と表現される場合もある)を感じる場面がよく出て来る。怜子が感じる痛みとはなんなのだろう? 「痛み」は『挽歌』のキーワードの一つであるように思う。
例えば、9章においては、次のような具合である。

まずは、ロッテ屋敷に入って行く桂木夫人と古瀬達巳を石塀の陰から見送る場面。
「半透明のひかりがちらばる雪の斜面を、ためらいの気配もなく、歓びの気配もなく、二人はゆっくり歩いてゆく。わたしは、その傾斜した情景をみることに熱中した。しかしこのとき、わたしの心に鈍い痛みがよぎったのだ。だがわたしは、痛みを感じるとまったく同時に、わたしがいま桂木さんのことを思いだしてはいけないと素早く考えたのである、/わたしは低い笑い声をたてた。」(新潮文庫版197・198頁)
次は、デッサンを終えて桂木家を出て、久田幹生と肩を並べて帰る道すがら、久田の自分だけへの愛に気付いた怜子が気付いた場面。
「わたしは丘のほうをみつづけた。薄い茄子色の夕空を背に、丘の疎林が影絵のようにくっきりと浮いていた。秋、わたしが寝転んでいたのは、あの疎林のあたりだったか。/ふいにかすかな痛みを感じて、わたしはひどく低い声で訊いた。/「わたしとおくさんと同じ絵にするの?」(同215頁)
​「痛み」は『挽歌』のあちこちに登場するが、ここでもそうだが、「低い声」を伴うことが多い。実は、この「痛み」の正体については、玲子自身が自分の気持ちを素直に述懐している箇所がある。既に紹介した第5章末尾の、桂木さんとジープでK温泉に向かう場面。
「わたしは、桂木さんと丘の上ではじめて遭った日を思いだした。彼はあのとき、柔和ともひややかともつかぬ眼差しで、凹地の自分の家を見降し、腕に抱いている娘が、母親ではない少女をママンと呼ぶのを黙ってきいていた。彼はいまあのときと同じ表情をしている。/わたしのからだに、ほとんど鮮烈な痛みが走った。疼きはわたしの左腕の関節にも蘇ったように思われた。わたしの唇はふるえ、歯がカチカチと音をたてて鳴った。そしてわたしはふいに、桂木さんへの愛を感じたのである。痛みは愛そのものではないのか。わたしが目的地もきかずにジープに乗ったのも、彼を愛しているからではないのか。」(同132頁)
痛みは、桂木さんへの愛に他ならないのである。痛みを感じる場面で低い声を伴うことが多いのは、痛みに自分の桂木さんへの愛の正直な吐露を感じた怜子が、その気持ちを外に表わすまい、他人に気取られまいとして、咄嗟に取る行動なのだろう。

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物語はいよいよ佳境に入って行く。続く第10章では、桂木さんのいる札幌への怜子の旅立ちの場面を迎えることになる。
ラベル:読書
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2018年08月05日

猛暑の中のBWV136とBWV45の聴き比べ

東から西へ日本を横断するという稀有なルートの台風が去って、再び猛暑がやって来た。猛暑などというのが生易しく感じられるほど、今年の暑さは度を超している。夏といえば雄大な積乱雲が付きものだが、今年は全くそんな気配はなく、快晴の青空が朝から夕方まで持続するのである。湿気は比較的少ないのでじめじめ感やベトベト感は乏しいものの、気温が高いからまるでオーブントースターに入っているようなもので、肌に直に焼き付くような感じがする。
通常南東方向の太平洋上から日本をおおう夏の太平洋高気圧が、今年は日本の真上というか、大陸から朝鮮半島、日本海へ張り出す感じで居座り、チベット高気圧と一体になっているのが、暑さの原因であるらしい。上空の風の流れを見ると。南西よりではなく北西の乾いた風が吹いていて、これが夏雲がわかずにいる要因でもあるだろう。
最高気温37℃、38℃はざら、名古屋ではとうとう40℃を超えた。もいうすぐ立秋を迎えようとしているけれど、例年お盆までは暑さが続く。そのあと残暑がいつまで続くかは年によってまちまちで、9月半ばまで30℃を超える残暑が続く日もあれば、8月末にはもう秋風が立つ年もある。さて、今年はいかがだろうか?

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今年は7月22日だった三位一体節後第 8日曜日のカンタータを少しまとめて聴いてみた。BWV136とBWV45の2曲である。BWV178には今回は残念ながら手が回らなかった。
BWV136「 神よ、願わくばわれを探りて」は、1723年7月18日の三位一体節後第 8日曜日曜日のために作曲されたカンタータである。レチタティーヴォとアリアが2回繰り返され(テノールのレチタティーヴォとアルトのアリア、バスのレチタティーヴォとテノールとバスのデュエット・アリア)、これを合唱とコラールが挟む構造をとる。
まずは、ヘルムート・リリングから。
1 合唱 3′54 金管が活躍。優しく開始し、たゆたいながら快速に進み、最後は長調に戻ってテンポを落として終える。
2 テノールのレチタティーヴォ 1′16 ″ チェンバロに乗った歯切れの良い感じの透明な語りかけ。
3 アルトのアリア 4′59″ オーボエ、チェンバロと通奏低音に乗って、アルトが憂えげに語りかける。中間はオーボエが休んでテンポが上がる。下降音型が印象的。
4 バスのレチタティーヴォ 1′12″ ゆったりめの優しい語りかけ。チェンバロが活躍。
5 テノールとバスのデュエット・アリア 3′50″ 弦の印象的な前奏に導かれ、テノールとバスが音を引きずりながら切迫した二重唱を繰り広げる。弦が刻む8分の12拍子のリズムが心に残る。
6 コラール合唱 1′02″ 弦に乗って重厚に歌われる。
16′13″
特徴を端的に二言で整理してみると、素朴、明晰といったところか。

続いて、鈴木雅明BCJ。
1 合唱 3′47″ 爽やかなチェンバロの流れに乗った澱みのない合唱が美しい。
2 テノールのレチタティーヴォ 1′07″ やや畳み掛ける感じでやや強い語りかけ。
3 アルトのアリア 4′22″ オーボエの優しいオブリガートに乗ってアルトが優しく流れるように歌う。しっとりとした印象。
4 バスのレチタティーヴォ 1′02″ バスのゆったりとした語りかけ。
5 テノールとバスのデュエット・アリア 3′43″ 優しく絡み合いながら進む。切迫感はないが、速く、チェンバロの刻むリズムが印象的に響く。
6 コラール合唱 1′10″ 比較的ゆったりと、確認しながら進む。起伏の大きな演奏。
15′11″
二言整理は、端正、古雅。

最後は、ジョン・エリオット・ガーディナーの演奏。
1 合唱 4′12″ 軽やかにゆったりと優しく歌われる。各パートがよく聞こえる。金管はあまり目立たない。
2 テノールのレチタティーヴォ 1′16 伴奏はチェンバロではなくオルガン。テノールの美しい抑制された語りかけが印象的。最後もオルガンが締め括る。
3 カウンターテナーのアリア 4′09″ オーボエの軽やかなオブリガートに乗って、カウンターテナーが、翳りのある響きでさらりと駈け抜ける。
4 バスのレチタティーヴォ 1′05″ バスのやわらかなレチタティーヴォ。伴奏はやはりオルガン。
5 テノールとバスのデュエット・アリア 4′11″ 砂つぶがさらさらと崩れて行くような清潔なデュエット。さほど遅い感じはない。テノールの歌声が美しい。
6 コラール合唱 0′58″ 早めのテンポでやや切迫した感じで歌われるコラール。
15′51″
二言整理は、清楚、明澄。

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三者の演奏による違いはさほど感じない。しかしそれでもタイム的には1分以上の開きがあり、それぞれに結構個性的である。ガーディナーと鈴木は流れの良い演奏、これに対し、リリングの情感重視の演奏、という普通にこれらにみられる対比が出てはいる。
前者の中では、最初の合唱とデュエット・アリアでテンポを落とすかどうかが大きく違い、ガーディナーはこれらをタップリと歌うが鈴木はこれらも駈け抜ける。これに対し、第3曲のアルトのアリアや最終曲のコラール合唱では逆にガーディナーの方が幾分速くなっていて、これも両者の違いをよく表している。
リリングもけっして一筋縄ではなく、デュエット・アリアの速度はむしろガーディナーよりも鈴木に近いし、コラールは重厚だが速度はむしろ鈴木よりも速くガーディナーに近い。これは鈴木のコラールの遅さが際立つといってもよいだろう。
デュエット・アリアは、それぞれに美しく、いずれも出色の演奏。ことにガーディナーとリリングは対極の演奏で、全く別の曲のようだ。ガーディナーの優しく抑えた情緒には、いつまでも浸っていたくなるし、リリングのアグレッシブでさえある演奏は、リリングが時として見せる前のめりで突き進む演奏の典型だが、その真面目な切迫感は心に迫る。

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BWV45「人よ、汝はさきに告げられたり、善きことの何なるか」は、1726年8月12日の三位一体節後第 8日曜日のために作曲されたカンタータである。中央にバスのアリオーソ、その前後にアリア、レチタティーヴォを並べ(テノールのレチタティーヴォとアリア、バスのアリオーソ、アルトまたはカウンターテナーのアリアとレチタティーヴォの順)、さらに合唱で固めた対称構造をとる。テノールとアルトが主役という地味だが特徴的なカンタータである。
但し、楽譜を見ると、1-3が第1部、4-7が第2部となっている。BWV39やBWV187も、中央がアリオーソではなくアリアであるが、同じ7曲からなり、3曲目までと4曲目以降の2部構成とされている。もっと曲数が多い場合には2部構成のカンタータも多いが、逆にもっと曲数の多い場合でも、1部構成のカンタータは結構ある。7曲でしかも全体が均整の取れた構造になっているのに、敢えて2分割されている理由は、よくわからない。あるいは、説教の前後に演奏される関係で二分割になっている(こちらが大前提)が、全体構造を重視して対称構造にしたということなのかも知れない。まだまだ勉強しなければならないことがたくさんあることを痛感させられる。
聴き比べは5種。
まずは、ジョン・エリオット・ガーディナーから。
1 合唱 4′58″ 軽やかでかつ爽やかな前奏曲
2 テノールのレチタティーヴォ 0′45″ 流れるような美しいレチタティーヴォ。格段に速い。
3 テノールのアリア 3′40″
4 バスのアリオーソ 2′43″ 軽やかさが持続
5 カウンターテナーのアリア 3′44″ 流れの美しいアリア
6 カウンターテナーのレチタティーヴォ 0′50″ テノールとアルトの中間の不思議な声でサラサラと奏でる
7 コラール合唱 1′08″ 明るい響きで美しく閉じる
総計18′08″
軽さ重さの点でリヒターの対極にあるの演奏。
清楚、流麗と整理してみた。

2番目は、カール・リヒター
1 合唱 5′47″ スタッカート気味に刻むリズム乗って丁寧に楷書風に合唱が歌う。タイムの割にはせかせかした感じもある。
2 テノールのレチタティーヴォ 1′28″ 朗々と歌い上げる重厚なレチタティーヴォ。異次元の語り。
3 テノールのアリア 3′47″ 重厚な弦の伴奏に乗ってテノールが絶唱する。
4 バスのアリオーソ 3′24″ オルガンも響く劇的なアリオーソ、たっぷりと歌う。
5 アルトのアリア 3′48″ アルト タイムはやや速いが、速度よりはむしろ丁寧な歌が目立つ。フルートも活躍。
6 アルトのレチタティーヴォ 1′33″ アルト 2曲目のレチタティーヴォに対応する朗々とした歌
7 コラール合唱 1′19″ 明るい響きのたっぷりとした締め括りの大合唱
総計21′06″
壮麗、雄渾でどうだろうか。

3番目は、グスタフ・レオンハルト。
1 合唱 5′47″ ゆったりと明るく透明で優しい響きの合唱
2 テノールのレチタティーヴォ 0′56″ 率直な強めの語りかけが印象的。
3 テノールのアリア 3′50″ ここまでタイム的にはリヒターに似る。レチタティーヴォは違う。
4 バスのアリオーソ 3′02″ 劇的でリズミカルなアリオーソ。しかし、しっとりと落ち着いた感じが濃厚、
5 アルトのアリア 4′07″ アルトのゆったりとした噛みしめるような語りが印象的。フルートのオブリガードが美しい。
6 アルトのレチタティーヴォ 0′53″ 引き続きアルトの率直な語りが美しい。
7 コラール合唱 0′55″ 意外や意外な快速の締め括り
総計19′30″
端正、典雅と特徴をまとめてみた。。

4番目はヘルムート・リリング。
1 合唱 7′11″ たっぷりと歌うが、けっして重くない。牧歌的な優しい響きが印象的。
2 テノールのレチタティーヴォ 1′01″ ややゆったりめな、優しいが厳しさもある演奏。
3 3′34″ かなり快速な印象。荒く突き進む時のリリング。テノールがアグレッシブに歌い上げる。チェンバロ響く。
4 バスのアリオーソ 2′56″ 初めさほど速くは感じないが、チェンバロとともにややせかせかと急ぐ感じ。バスもかなり力強い
5 アルトのアリア 3′55″ アルト チェンバロとフルートに乗って、アルトが憂い顔に美しく歌う。適度の速さがある感じ。アルトの歌声が、次のレチタティーヴォとともに美しい。
6 アルトのレチタティーヴォ 1′11″ かなりゆったりとアルトが語りかける
7 コラール合唱 1′18″ ゆったりと間合いを取ったしっとりと優しいコラール
総計21′06″
素朴、雅美と括ってみた。

最後の5番目は鈴木雅明BCJ。
1 合唱 5′23″ 早い感じはない。自然な合唱
2 テノールのレチタティーヴォ 0′58″ レオンハルトに似たタイム。優しく落ち着いた語りかけ。
3 テノールのアリア 3′28″ 速度はあるが、優しく抑えたいアリア。
4 バスのアリオーソ 2′41″ 優しく軽快な印象。ビバルディのヴァイオリン協奏曲みたい。
5 カウンターテナーのアリア 3′14″ 引き続き軽快で優しい。ただ、軽くはない。しっかりしている
6 カウンターテナーのレチタティーヴォ 0′56″ レオンハルトによく似たタイム。優しい語りかけが印象的。
7 コラール合唱 1′11″ ガーディナーよりは速いが、最後は速度を落とし、ゆったりと締め括る
総計17′54″
優美、端正とまとめた。

          §           §           §

タイム的には、流れ重視のガーディナーと鈴木、情緒重視のリリングとリヒター、及びその中間のレオンハルトとなるが、レオンハルトはなかなか一言では括り難い面がある。なかでは、リヒターの重厚さが際立ち、それは合奏の分厚さ、そしてなによりも、第2曲と第6曲のレチタティーヴォの歌わせ方に端的に現れていると思う。
リリングはリヒターと総合タイムが同じであることに示されているように、リヒターと同傾向の演奏だが、第3曲にはその個性が鮮やか。ぐいぐい進む粗野でさえある大胆な推進力は、リリングが時として見せる大きな特徴である。
ガーディナーと鈴木は同路線だが、アリア、アリオーソは鈴木のほうが速い。しかし、冒頭合唱だけは、鈴木はたっぷりと歌う。
レオンハルトは、リヒターばりのタイムだが、第5曲のアルトのアリアはさらにたっぷり歌わせている。ただコラール合唱のテンポは意外性の極致であろう。
posted by あきちゃん at 23:50| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする