2018年09月29日

京都からの帰路の怖しい経験

今日の京都からの帰り、特急に乗ろうかとも考えたが、別にたいして疲れを感じている訣でもないし、別段急ぐこともないので、次の急行に乗ることにして、1番線に停まっている特急を尻目に、3・4番線に向かった。しかし、特急が出てから20分以上も待たなければならないことに気付いて唖然とした。
数年前に近鉄京都線のダイヤが15分単位から20分単位に変わり、それまでだったら特急も急行も15分に1本はあったのに(だから時間も覚えやすかった)、20分以上も間があくことがしばしばになって、京都から奈良に向かうのが異常に不便になってしまったのである。しかも、きちんと調べた訣ではないけれど、奈良への直通急行が随分減ったように思う。
西大寺での乗り継ぎの悪さがこれまた異常で、目の前にいる奈良行きが待ってくれず、臍を噛むこともしょっちゅうである。わざとギリギリまで待っているフリをしているのかとさえ思いたくなる。西大寺からの奈良方面行きは、結構本数はあるのだが均等でなく、特急が続けて来るのに、来る電車来る電車がみな西大寺止まりで15分近くもイライラさせられる時間帯が随所にある。西大寺での乗り継ぎがうまくいったら余程運がよいのである。
さて、3番線で急行を待つものの、いつになっても折返し電車がやって来ない。やれやれ、と思っていると、4番線の各駅停車西大寺行きの発車アナウンスがあって、竹田で奈良行き急行に接続すると言っているではないか。ああ、そういうことか、奈良行き急行の間があくのは、竹田で京都市営地下鉄からの直通電車が乗り入れてくる関係なのかも知れない……
どのみち待ってみたところで来る急行は橿原神宮前行きだし、それを待つよりは、西大寺での乗り換えなしで奈良まで行ける急行の方がいい。という訣で、各駅で行って竹田で乗り継ぐことにした。ただ、乗り入れ電車なら、座れないことも覚悟しなくてはならない。これは失敗だったかなぁとも思ったが、まあ、大袈裟に言えば、運を天に任せることにした。
竹田で降りて、反対側で来る地下鉄からの電車を待つことしばし。緑色のラインの電車が到着する。さて、と思ったところで、放送が入り、当駅止まりの電車だという。あれあれ、接続するんじゃなかったの? と思い、回送になる電車をやり過ごす。暫くして、ようやくまた同じ色の地下鉄の電車がやってきた。どうなってるんだかと思いつつ、ドアが開いて乗り込もうとすると、これはどうみても竹田始発電車である。座れてホッとはしたものの、こんなダイヤになっているのかと、何だか狐につままれた思いを味わったのである。
あとからよくよく考えてみると、これは時刻表を調べればわかることかも知れないが、もしかすると、最初にやってきた地下鉄の電車が本来は近鉄線直通だったのが、何かの都合で運転打ち切りになって、代わりに新しい編成の電車を竹田駅から仕立てたというような事情があったのかも知れない。そういえば、列車遅延のお詫びのアナウンスを車内で盛んにしていたのを思い出した。また、竹田駅に着く直前、地下鉄の電車は一編成、すぐ下の線路に停まっていて、あれ?と思ったのも記憶している。

          §           §           §

そんな具合で奈良行き直通急行の車上の人となった訣であるが、安心したのか疲れが出たのか、爆睡してしまい、気が付いたら奈良に着いていた。ぼくの隣の隣の人が変な咳をしていて、ぼくの斜め前に座っていた人はそれを嫌がってか、さっと別の所に移っていったのを見たのを記憶しているが、その人の咳も間歇的に意識から遠のいていって、つまりは眠りに落ちていったのだった。
余程眠りが深かったのか、近鉄奈良に着いた時に、ここが近鉄奈良終点であることを意識するのにまず随分時間がかかってしまった。地下ホームのようだから、近鉄奈良以外にあり得ないので、確信のないまま降りたのだったが、方向がさっぱり定まらず、意識してこちらへ行かねばと行った方向の景色が、考えていた通りに展開せず、近鉄奈良のようではあるけれど、いったいどこに向かっているんだか、全くわからない。自分の座標を見失うあの瞬間であり、本気でパニクってしまったのである。
いつも出る西側の改札に向かっているつもりで動いたのに、目の前の景色が考えていたのと全然違う。そういう時は冷静さを失うもので、東側の改札に向かっている可能性を考えればいいのに、そういう頭は全く働かないもののようだ。もちろん、立ち止まって位置を確認する余裕など到底ない。頭が大混乱に陥ってしまったのは実際にはほんの一瞬であるようで、まもなく自分の位置を認識できたからよかったようなものの、真実怖ろしい経験だった。
竹田で座った位置はこうだったから、近鉄奈良にはこう言う向きで着いたいたはずだと、一つずつ理詰めで自分の動きを再現しようとしてみるのだけれど、考えれば考えるほどに、どれ一つとして絶対こうだったという自信がもてなくなってくるのである。定点となる記憶がないのだ。
結局あれこれ考えてみたところでも、どうして最終的にどうして自分の座標を見失うに至ったのか、その要因を分析できずにいる。自己座標を失った経験については何度か書いたこともあり、ぼくにとってけっして珍しいことではないのだけれど、今回ほど怖ろしいと感じたことはない。完璧に眠っていたからなのかも知れないが、怖ろしいやら情けないやら、何だか同じようなことが最近増えてきたような気もするし、もしかしたら痴呆の始まりなのか知らんと、落ち込むことしきりな経験だった。これからもっとこんなことが増えるのだろうか。ああ年は取りたくない。いや、単純に年のせいであるならば諦めも付くのだけれど……
ラベル:京都 鉄道 日常
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2018年09月23日

原田康子『挽歌』のあらすじ5─怯えと葛藤、旅立ち─

(「原田康子『挽歌』のあらすじ4─痛みの正体─」よりつづく)
第10章 2月半ば頃のある日と翌日、そしてその10日後
札幌へ発った桂木さんから、ひと月ほどして手紙が怜子のもとに届く。門の傍の山査子のしめった幹にもたれて怜子は封を切る。
建築、とくに設計の仕事を急ぐのは禁物で、時間と忍耐が必要。ぼくも時には夢を見るということを君に教えたいと、夢ばかり食べている怜子に、暗に一緒に良い夢を食べようと桂木さんは伝える。時間とゆとりと金があったら個性と意志の現れる建物を好きな場所に建てたい、それは桂木さんなりの誠実なプロポーズの言葉なのである。
虚飾や気取りのない桂木さんの誠実な言葉。怜子は、桂木さんの真心、恋よりも深い静かな愛情に触れる。しかし、うれしさは次第に狼狽に、そして怯えへと変わる。「怯え」はこの章のキーワードである。
桂木夫人に近づいてしまったのは、桂木さんのもつ濃い虚しさへの不安が原因だと怜子は自己弁護するけれど、怯えは消えない。歩いているうちに、桂木さんの手紙のブリュウ・ブラックの文字が、水色の空にふわふわと散らばって逃げ出していくような気がする。怜子は思わず二、三歩駈け出し、手を伸ばしそうになってはっとする。まことに美しくも悲しい絶妙な描写だ。手を伸ばしそうになってはっとしそうになったのは、むしろ読者であるぼくの方だった。

          §           §           §

怜子は無意識のうちに突き動かされ、怯えの原因である桂木夫人を訪ね、彼女を辱めることでそれを解消しようとする。ひどく意地悪な喜びを味わおうとするのである。しかし、純粋そのもののくみ子ちゃん、そして桂木夫人には、いささかの狼狽も非難もない。怜子は背に冷たい汗が滲むのを感じる。
そんな怜子をさらに打ちのめしたのは、くみ子ちゃんが見せてくれた夫人宛ての桂木さんの手紙だった。自分宛ての手紙と同時にポストに投函されたことに、はげしい疼きを感じるのである。
出鱈目のことを喋りながら、桂木さん宛てのハガキを書いて、シュークリームは食べずに怜子は桂木家を後にする。あなたのあまのじゃくより、と結ぶこの手紙は絶妙だ。返事を書いたことに怜子は満足するが、それと背中合わせに相変わらず山査子の幹を離れてから怯えが潜んでいる。満足感がかえって怯えを際立たせるのである。私の歩く通りは柔らかな冬の日射しに溢れたこんな美しい通りであってはならない。熱と悪寒から、怜子の精神は次第に錯雑としてくる。

          §           §           §

そんな状態の怜子の恰好の餌食になったのは古瀬達巳だった。桂木夫人に言えなかったことを怜子は古瀬にはっきりと言ってのける。
白昼、密通しちゃいけないわ。怯えに立ち向かうために、怜子は悪ぶっでみせるのである。古瀬は古瀬で、あき子さん(桂木夫人)への純粋な思いから、怜子の真意を探ろうと2時間もの間、怜子に付きまとう。同性愛か? 怜子を自分のライバルかとまで思ってしまう古瀬も哀れだ。
怜子は初めこそ古瀬を半分からかう気持ちもあったが、桂木さんに自分が夫人に近づいたことを知られてしまう可能性に気づいて愕然とする。が、それに対する怜子の対応は即妙だ。苦し紛れなのだけれど、目の前の青年を手ひどく欺かねば気がすまなくなった怜子は、苦しみが突き詰めた表情を与えていることを信じて言う。古瀬さんが好きなの、笑いたくなるが、それが怯えをさらに深いものにしてしまう。怜子の心の葛藤、矛盾は、桂木さんへの思いが募る分だけ、さらに強まっていく。怯えを和らげようとする行為が、ことごとく彼女の怯えを深いものにするのである。原田さんの怜子の心理分析の描写が冴える。

          §           §           §

お酒でも怯えを消せない怜子は、辛さをそうやって紛らわそうとした自分に腹を立てる。絶え間ない悪寒と眩暈、そして徐々に湧いてくる悲しみに、怜子は桂木さんのオフィスのビルの壁を撫でながら歩く。桂木さんに会いたい。しかし、今度会う時、桂木さんはもう優しくはないだろう。混乱した怜子が最後に駈け込んだのは、桂木夫人のところだった。
夫人は冷静さを失わず、怜子を静かに優しくなだめる。桂木夫妻のベッド寝かされ自制心を失った怜子は、来訪の理由を泣きじゃくりながら話すのだった。
ママンも好きだし古瀬さんも好きだし、わたしどうしたらいいの。嘘のつもりだったのに、けっして嘘を言っているのではないことに怜子は気付く。嘘は一つしかない。古瀬を桂木さんをすり替えればよい。わたしは桂木さんを愛している、だが桂木夫人の美しさに彼女の翳の多い美しさにも、怜子はすっかり捉えられていた。桂木さんだけでなく、桂木夫人を愛さないではいられなくなっている自分に気付く。
怖ろしくなって再びどうしたらいいのと叫ぶ。ママンが寝ずの番をしてあげますからね。怜子は初めて桂木夫人にはげしい憎しみを感じる。それは、夫人がわたしの愛している男の妻だからでも、桂木さんに苦しさを与えた女だからでもなかった。怜子の心を魅きつけずにはおかなかったから。愛の裏返しなのである。そして、半ば意識を失いかけつつ、夫人を欺きながら彼女の夫のベットに寝ていることは素晴らしいことだと考える。夫人を憎まなければいけないと繰り返しつつ、怜子は眠りに落ちるのだった。憎む気持ちを忘れてしまったら、桂木夫人を愛さないではいられなくなっている怜子だった。
桂木夫妻のベッドで、桂木夫人の寝ずの看病を受けながら、怜子は苦しい夢をみる。血に染まった白鳥を抱きしめていると黒い大きな鷲が舞い降りてくる夢。そして工事現場に立つ桂木さんに優しい言葉をかけようとすると音もなく崩れ去る夢。傷ついた白鳥は桂木夫人である。黒い大鷲はこのあとの夫人の運命の予兆だ。桂木夫妻への愛を失う予感に怜子はうなされるのである。

          §           §           §

翌朝、タクシーで夫人に家まで送ってもらった怜子は、家の煙突の烟に僅かの力もすっかり失ってしまう。桂木夫人は怜子の病気が彼女のせいであるかのように詫びる。娘を送って来てくれた女性が桂木さんの夫人と知って、狼狽・困惑・疑いが浮く父。多くは語らないが、父は全てを理解する。怜子は父の横顔を一瞬見つめて気を失うのだった。
結局怜子はそれから一週間寝込むことになる。ようやく恢復した怜子のもとに、次々に見舞客が訪れる。まず、谷岡夫人。夫人をネタにばあやに悪態をつく怜子のあまのじゃくぶりは健在だ。毒舌と言ったらちょっと違うが、諧謔味を添える絶妙のウィットは、作者の原田康子さんが顔を出しているように思えてしまう。
そして桂木夫人。怜子の長い髪を二つに分けて編んでくれる、怜子は夫人の優しさに喜びながら、引き出しに桂木さんの手紙や写真集が入っているのに冷やりとし、夫人を憎まなければならないという気持ち─それは戒律とまで表現される─を思い出す。そして、桂木夫人がなぜ優しいのか、理屈付けをしないではいられない怜子だった。なかなか自分の気持ちに素直になれないのである。
谷岡夫人に敵意を持ち始めたばあやも利害関係のない桂木夫人が気に入る。これは後段の重要な伏線となる。この人が、ばあやが暮れ以来恨み続けているわたしの相手の奥さんだと知ったら、七面鳥のように顔色を変えるに違いない、と考えて途方もなくおかしくなる。ばあやとのやりとりは絶妙だ。『満月』の野平貞子と孫娘まりの絶妙な会話を思い出す。どちらも原田さんの分身なのだろう。
続いてはダフネの小父さんと久田。ダフネの小父さんは、怜子のお気に入りの、背中を並べた2匹の白猫が半欠けの月を眺めている、青を基調とした6号の童画的な絵を持ってきてくれる。夢見る怜子の象徴だろう。
だが、怜子が一番逢いたかったのは桂木さんだった。手袋を投げ捨てビルをなでた時の桂木さんに逢いたいという思いは消えない、それは病気の気弱さだけからではない、桂木さんが夫人から怜子のことを聞く前に、彼に会いたかった。じぶんのことを夫人に口外しないように頼みたかったのだ。なぜなら夫人を騙す楽しみを持ち続けたかったから。しかし、これは本当だろうか。もはや桂木さんへの思いは隠しようがない。それを否定するための苦し紛れの言い訣に過ぎないように思う。とまれ、発病して10日後、怜子は札幌行きの決意を固める。

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旅行のための体力を整え、半月過ぎた午後、怜子は家を抜け出る、谷岡夫人の弱みに付け込んで借金し、自己嫌悪に陥った怜子は、交通公社で切符を手にして漸く落ち着くが、まだあと4時間、桂木夫人にも逢いたくなる。それは無条件に理屈抜きの気持ちだった。そのことに怜子は、桂木家の居間の明かりを見てから気付く、
憎まなければと言う心の掟を破ったことに驚く一方、夫人を見て安堵と狼狽を感じた怜子は札幌行きを喋ってしまう。夫人からもお金を借りた瞬間、快感と苦痛が怜子のからだを貫く。当然のことと思いながらもなお怯える怜子だったが、食卓に着くと快感も苦痛も薄れ、夫人にかすかな悲しみが滲み出るのを見る。夫人は、古瀬よりも桂木さんの方を愛しているのではないか。
7時近くに桂木家を辞した怜子は、駅の跨線橋を渡り終えた時、一人の乗客になろうとしていることを実感する。座ることができたが俄に疲労を覚える。駅の騒音に不安になる、苛立ちを覚え、桂木夫人とくみ子ちゃんと別れてきたことを思い出す、この町の全ての人を忘れようとする。明日、桂木さんと逢っている、私の知らない札幌というまちのどこかで桂木さんと確かに逢える! 眼の淵が急に熱くなった怜子は、さっき買ったアンデルセンの絵のない絵本を開く。あの人は生きている!、この清冽な最後の章をぼんやり涙ぐみながら読み終えた時、汽車はもう波が白く泡立つ夜の海岸を突っ走っていた。
10章の終わりから続く11章の初めにかけての怜子の旅立ちの描写は、絵のない絵本以上に清冽である。漱石の『こころ』における、先生の遺書を胸にした私の出発を彷彿とさせられる名場面だ。

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今回の紹介も1章分、第10章だけである。改めて読み進めるにつけ、その新鮮さは今から60年以上も前に書かれた小説とは到底思えない。心理描写の時代を超えた普遍性は、この小説が長く読み継がれてきている理由であるだろう。また、物語に登場するさまざまなアイテムにほとんど違和感がないのも大きな要素であるだろう。
気になるとすれば、タバコが重要なアイテムになっていることくらいだろうか。これは原田さんご自身がヘビースモ-カーだったこともあり、なによりも時代の反映であろう。今から20年くらい前までは、ぼく自身何度も辛い思いをしたごく当たり前の光景だった。
その点で言えば、10章に1ヵ所だけ登場する米穀通帳は、敗戦後間もない時代を伝える貴重なアイテムである。アミとか、チェイン・ストアとか、片仮名言葉には今ではあまり使わないものや表記もあるけれどもそれもごく僅かだ。想像するしかないけれそ、小説全体の語感から受ける印象は、当時としてはかなりハイカラなものだったのではないだろうか。どこかは明示できないが、今では当たり前になったラ抜き言葉に出会ったのも新鮮だった。
さて、次章では、札幌を訪れた怜子は、いよいよ桂木さんに再会する。物語は大きく転回し始める。(つづく)
ラベル:言葉 読書
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2018年09月14日

BWV33の聴き比べ

バッハのカンタータBWV33は、1724年の三位一体節後第13日曜日のために作曲されたカンタータである。ただ汝にのみ、主イエス・キリストよ(Allein zu dir, Herr Jesu Christ)という標題で、この名の、コンラート・フーベルトによる1540年のコラールによるコラールカンタータである。
第5曲のデュエット・アリアの魅力については前にも触れたことがあるが、またこの季節がめぐってきて久し振りに聴き、感動を新たにした。それでついつい全曲の聴き比べに及んでしまった。ガーディナーを皮切りに、リリング、リヒター、レオンハルト、鈴木雅明と5つの演奏を比べてみた。

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ガーディナー 22′45″
1、合唱 4′30″ 真夏のしかし乾燥した空気の中を吹き抜ける一陣の透明な風。
2、バスのレチタティーヴォ 1′03″ メリハリをつけながらも、合唱を受けそのまま駈けぬける感じ。
3、アルトのアリア 10′44″ 真夏の日射しの乾いた空気の中、東屋に休息しているような音楽。ただ、かなりもたれる印象は拭えない
4、テノールのレチタティーヴォ 1′01″ 速いテンポでさらりとしているようでいて緊迫感が漂う語り。
5、テノールとバスのデュエット・アリア 4′00″ オーボエの序奏に乗って歌い出される儚くも悲しい歌。微妙なたゆたいが美しくも悲しい。テノールのやや鼻にかかった美しさが印象的。
6、コラール合唱 1′27″
地中海の乾いた空気を連想させるのは鈴木雅明と同じだが、どこか儚く悲しく、繊細な美しさに溢れている。アルトなアリアの遅さとデュエット・アリアの速さの対比が他にはないユニークさ。特にアルトのアリアの歌わせ方は例を見ない。
例によって、一言で特徴を示してみると、「澄明」というところか(以下、同様に末尾に記す)。

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リリング 21′11″
1、5′08″ 抑制されたテンポで語りかけるように歌い上げる緊張感のある大合唱
2、1′12″ やはり抑制の効いたじっくりと優しい語りかけ。最後はテンポアップしてアリアにつなぐ
3、7′59″ 一転真夏の風が駈け抜けるような弱音の美しいアリア。あちこちに陽炎が立ち、思い思いに戯れているような無邪気な感じもある。
4、1′19″ 場面転換、嵐の前触れのよう。
5、3′55″ チェンバロと低音が豊かに響く中、オーボエのオブリガートで歌われるテノールとバスの儚き夢のデュエット。速めだが、軽くはなく、しっとりとした充実感がある。テーマを音を切らずにレガートで繋ぐのでだいぶん印象が柔らかい。
6、1′38″ 合唱の豊かな響きが印象的なコラール
合唱とアルトのアリアの関係はガーディナーと正反対。デュエット・アリアはテンポはガーディナーに、チェンバロか響くのは鈴木雅明に似るが、儚さよりも近いが、響きの濃さが印象的。チェンバロがよく響くのは鈴木雅明ともよく似る。アルトのアリアの美しさが際立つ。全体的にゆっくりめで分厚いが、2つのアリアは、ここぞと走る。
端正

          §           §           §

リヒター 23′30″
1、4′32″ 分厚くしっとりと豊かに歌い上げる大合唱。テンポは速いが、疾駆する感じはなく、どっしりと落ち着いている。
2、1′24″ トーンを落とし、かつメリハリをきかせてダイナミックにじっくり噛みしめるように語りかける。
3、9′34″ テンポは早くないのに、それほど重くない。アルトの美しい歌唱によるのだろう。弦の抑えたオブリガードとの掛け合いが印象的。
4、1′41″ 他にないテンポ感。丁寧な語りかけが否が応にも緊張感を孕む。次のデュエットへの伏線。
5、4′39″ たいへんゆっくりしたテンポで、オーボエの抑えた響きが意外。それにひきかえ、ソロは雄弁。リリングをさらに徹底させレガートで音を繋ぎ、かつゆったりて流れるのであまり他にはない印象。テンポ感は、レオンハルトとよく似る。
6、1′40″ 一転厳しい響きで突き進む重量感と推進力のあるコラール、フレーズごとに立ち止まる感じて次第にテンポ感が落ちて行く。
核になる2つのアリアを中心に、中間はじっくり歌わせるロマンティックな解釈。それらを速めで分厚い合唱と、一転して厳しく驀進するコラールとで締め括る。リヒターの真骨頂。
壮麗

          §           §           §

レオンハルト 21′29″
1、4′54″ 一歩ずつ 歩みを確かめつつ進むような抑制感のある大合唱。合唱な透明な響きとオーボエの悲しげな音色が印象的。季節を超越した絶対的な音楽。
2、1′05″ やはり抑え気味のつぶやくようなレチタティーヴォ
3、8′07″ 弦のオブリガードと雄弁でやや前のめりなアルトとの対話が美しい。
4、1′11″ 大仰にならずに優しく自然に語りかける。
5、4′37″ 2本の雄弁なオーボエのオブリガードに乗って、テノールとバスがゆったりと噛みしめるようなデュエットを繰り広げる。抑制された歩みが印象的。テンポ感だけはリヒターよく似る。最後、一瞬音を強調するのが線香花火の最後の一閃のよう。
6、1′35″ 優しい響きで締め括るコラール
早くなりがちな曲を遅く、遅くなりがちな曲は速く、敢えて逆を行き成功している。全体としては、急がず焦らずあえて ゆったりめのテンポを守るが、そのなかでは、アルトなアリアの速さが目立つ。
温雅

          §           §           §

鈴木雅明 19′29″
1、4′21″ オーボエとチェンバロが豊かに響く中を疾走する大合唱
2、1:02 引き続き快速。最後でテンポを上げ、チェンバロが響きアリアにつなぐ
3、7′24″ 引き続き快速だが、速過ぎる感じはない。アルトの表情が美しい
4、1:18 テノールがテンポを揺らしながら表情豊かに語りかける
5、3′46″ レチタティーヴォのためを活かしながらチェンバロの豊かな響きに乗って、テノールとバスが優しく駈けぬける。オーボエのたゆたいが効いている。最後はリタルダンドで夢を閉じる。
6、1′38″ 夏の夢を優しく閉じるコラール
全体的に速いテンポが印象的。儚さはなく、むしろ美しさの際立つ健康的な夢。地中海の乾いた日差しの中を一陣の風が連れて来た優しい夏の夢。アルトのアリアも含めてガーディナーをさらに徹底させた感じ。
淡麗

さて、以上個々に見てきたことを、速度と音の厚みのみに着目して、簡略に整理してみる。
       第1曲 第2曲 第3曲 第4曲 第5曲 第6曲
ガーディナー 速薄  速   最緩  速   速薄  速薄
リリング   中厚  中   速   中    速厚  中厚
リヒター   速厚  緩   緩   最緩  緩厚  速厚
レオンハルト 中薄  速   中   中   緩薄  中薄
鈴木雅明   速薄  速   速   中   速薄  中薄
ガーディナーは全体に快速だが、アルトのアリアだけは、じっくりと歌う。レオンハルトと正反対
リリングは中庸のテンポだが、2つのアリアをいずれも速めにかつ厚く歌う。
リヒターは両端は厳しく速めのテンポで締め、中間はじっくりと歌う
レオンハルトは全体に慌てずゆったりとしたテンポの中で、バスのレチタティーヴォだけはさらりと速めに歌い、逆にデュエット・アリアは速度を抑える。
鈴木雅明は、快速なテンポで一貫
曲全体のバランスは、一つとして全体が同じ傾向な演奏はない。どこかしらがが違っている。また、全体的に遅い、あるいは速いという演奏がないのも面白い。それに近いのは、速いものとしては鈴木雅明だが、テノールのレチタティーヴォとコラールだけは、中庸の速度を保つ。遅いのはレオンハルトだが、アルトのアリアだけはさらりと歌う。どこかしらにアクセントがつくのである。
リリングは全体としては中庸のテンポだが、アリアは2つとも速め。逆に言えば、アリア以外を抑えることで、アリアを引き立てているとも言える。
リヒターは内部がじっくりで両端を速くかつ重厚に締め括る。
これらに対し独特なのがガーディナー。全体が快速だが、アルトのアリアだけは異常に粘
る。全体の快速の印象が消えるくらいだ。速めの印象のガーディナーの全体のタイムが、中庸かゆったりめの印象のリリングやレオンハルトよりも長くなっているという逆転現象が起こっているのは、ひとえにこのアルトのアリアに起因するところである。
アルトのアリアとデュエット・アリアの関係だけに絞って比較するのも面白いかも知れない。両方速いのが鈴木雅明とリリング、両方遅いのがリヒター。これに対し、アルトのアリアが中庸なのにデュエット・アリアが快速なレオンハルト、逆にデュエット・アリアが速いのにアルトのアリアが極端にゆっくりなガーディナー、といった具合で、まさに百花繚乱、個性が際立っている。こうして比較してみたことで、それぞれの個性が再認識できたように思う。
個別の曲では特に引かれる演奏というのはあるけれど、全体としてどれがどうとはいいがたくそれぞれに魅力的である。これだけさまざまなアプローチがあって、しかもそれぞれに成功しているというのは、言わでもがな名曲の証なのだろう。
ラベル:CD 音楽 バッハ
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2018年09月11日

秋の到来と記憶が綯い交ぜになった夢─夢の記憶52─

午前中結構強い雨が降って昼過ぎには上がったけれど、そのあと空気がすっかり入れ替わったようで、ちょっと俄には信じられないような爽やかな陽気になった。調べてみると、今日の最高気温は25℃にも達していない。昨日は同じ雨でも結構ムシムシしていたから、雨上がりにまさか急にこんな秋を実感する陽気が訪れるとは思わなかった。確かに、もう10日なのである。それを考えれば、別段不思議はないのだけれど、まさに秋に不意打ちされたような思いだ。

          §           §           §

郊外の駅に集まっで地形の観察に出かけるのだという。最初は13時に駅に出かけ、すぐ家に戻るつもりだった。夕方には引き続き懇親会があるのはわかっていたが、一旦家に戻って少し仕事をする余裕はあるだろう、と思っていた。。だから、母にもそう伝えてあった。
駅に着くと、そこからも目指す地形が遠望できる。台地の端の崖地形だ。それを見てさあ帰ろうとしていたら、今日の案内人B氏が現れ、なぜかぼくがいるところより一段低いところに彼はいて、ぼくを見上げる格好。吹き抜けの建物の下から見上げられているような感じでいる。
彼が、じゃあ行きましょうか、夕方まではかかるでしょうと言って出発を促す。見ると、大人と子供10人ほどが集まっている。
え、じゃあ帰れないなぁと思いつつ、彼に付いていく。見学地はすぐそばから始まっていた。池や、その向こうの道路、それ沿いの素敵なお店。なかなか綺麗な風景だ、
彼が説明を始める。一緒に来た子供が足下に落ちているコースター状のものを蹴飛ばして何か言っている。よくわからないので、悪いけど適当に答える。その間もB氏は、説明を続けている。
夕方帰れなくなったことを母に伝えなくては、とケータイで連絡しようとしている。説明中に申し訳ないな、と思いながら、実際にはまだ電話している訣ではないのに、電話している自分が見えている不思議な感覚。学生時代の記憶が今とごっちゃになっているのも夢ならではだ。
なんだかもっとも複雑な夢を見ていたような気がするのだけれど、そのまま目覚めて妙に鮮明に刻みつけられていた夢なので、すぐにメモをとった。それが以上の内容だ。覚えていたことは全部書けたと思うのに、書いてみるとひどくあっさりと簡単な内容で唖然。手で水を掬うように、指の間からどんどんと記憶がこぼれて行ってしまっているのだろうか?

          §           §           §

この先は周期変化のようだけれど、まだ太平洋高気圧が力をもっているようで、週末の連休は天気がぐずつきそうだ。やって来ようとする秋の空気との間のせめぎ合いが、まだ暫くは続きそうな気配。それが終わると、また一歩季節が進むことになるのだろう。どうかもうこれ以上、災害だけは続くことのないように祈りたい。
ラベル:記憶 季節
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