2019年03月30日

梨木香歩さんの『海うそ』を読む(その3)

梨木香歩さんの『海うそ』を読む(その2)よりつづく)
龍目蓋─波音─森肩 ミツガシワ/カモシカ カギ家
ウネさんの手配で、秋野は黒森を越え、波音(はと)の梶井家を訪ねることになる。山の中の土地に、波音という地名が付いた由来を尋ねる何気ない会話がすてきだ。ステさんはいう、昔からそういいよるからじゃなかね。まさにそうなのだ。多くの人生を育んできた土地の名のもつ重みは、何ものにも代え難いのである。そこにはさまざまなひとの営為が厚く積み重なっている。
霧の湧く黒森で、秋野はカモシカに出会う。カモシカは、その物怖じしない純粋な眼で、秋野の心の奥まで見定めようとするかのように見つめてくるのだった。哀愁が漂う瞳と時間が止まったように見合っていると、物悲しさとしかいいようのないものが、ひたひたとあたりを満たしていく。
そしてそんなカモシカの瞳に、秋野は亡くした許嫁の瞳を重ね合わせるのである。段落を代えかつ行をあけ、突如「許嫁は」と始まる2行だけの効果的な一文に、まさにハッとさせられる。あの何もかも見透かすような瞳では、この世を渡って行くのは無理だったのだろうか? 許嫁が亡くなったわけに、今ようやく思い至るのだった。
その後、秋野はそんなカモシカに導かれるように沼地に至り、リュウキュウベニイトトンボが羽を休めるミツガシワに出会う。氷河期の生き残りの植物に、まさかこんな南の島で出会うとは! そんな感嘆とともに、霧の分子一つひとつにしっとりと反響し合うようなアカショウビンのさえずりを聞くのである。ここはいったいどこなのか? そんな時空を超えてたゆたう空間に彷徨い出るような感覚を、読者も秋野とともに味わわされるのである。

          §           §           §

波音の梶井家はこの島で初めて見るカギ家で、梶井家の兄(あにい、と呼び、兄貴とか、息子さんといったニュアンス)と威厳を感じさせるその母刀自に対し、ふと懐かしさを感じる秋野であった。
そのためか、自分の境遇についての秋野の一人語りも挟まれる。昨年両親を相次いで亡くしていた秋野は、梶井家の母刀自を見ているうちに、父の後を追うように亡くなった母にいろいろと無理をさせてしまったことが悔やまれてきて、なかなか脳裏を離れなくなってしまう。
その後、梶井家のカギ家の間取りを見せてもらい、平家の落人伝説を思い遣る。ダイドコロに何かを祀っていたあとがあるのに気付く。それは、今は表面的には消されてしまった、モノミミに関わる信仰の残滓であった。

          §           §           §

森肩では山根さん宅を訪ねた。内廊下の突き当たりの、夕日の射し込む海の見える窓際で山根さんの歓待を受ける。ステさんがトビウオが飛ぶのを見た話を聞くうちに、岩本氏が明かりをつけると、急に外が昏くなる。そんな何気ない言われてみればなるほどと思う、しかし普通には気付かない情景描写に、思わず息を飲む。
カギ屋を見てきた話を始めると、山根氏が興味をもってくれているのがわかって、秋野は心が軽くなる。そして、この島の民家の構造のあり方が南北の接点にあたり非常に面白いということを山根氏に紹介する。
すると山根氏は思いがけず、二つ家について、南方文化が北上してきて融合型に変わる過渡期と捉える秋野の持論を正しくトレースしたあとで、北上してきた南方文化が無理な融合を諦め、今まさに分離を試みているがまだ完全には分離していない姿ではないかという、秋野とは全く正反対の考え方を、暫く考えた末に語り出したのだった。
全く思いもよらない事の成り行き。しかも、それまで自分が学者として考えてきたことの根元が崩されかねない鮮やかな指摘に接し、秋野は愕然とした。この山根さんとはいったい何者なのか?
しかも、そうした学問的混乱に陥った自分を山根さんが気遣ってくれているのが感じられ、秋野は立つ瀬がない。かといって、軽い話題に転じることもできず、仕方なく、この島を襲った廃仏毀釈のことを尋ねると、山根さんは微妙な反応を示す。全く興味がないか、さもなければのっぴきならないものを感じているか、どちらかであろうと、秋野は察する。
山根さんはこの島を襲った廃仏毀釈の嵐の中で、仏教以上に標的にされたモノミミたちの話を静かに語り始めるのだった。なぜ山根さんがそんなに詳しいのか訝る秋野に対し、山根さんは自分が、その騒ぎの中で還俗を余儀なくされこの島を後にした僧侶の子であることを(この紹介文の中では早まって書いてしまったことだけれど)、ここで初めて穏やかに告げるのである

          §           §           §

秋野は、山根さんから読んでよいと示された、山根さんの父が寺院を出るときに持ち出した文書類に没頭する。寺院の見取図を含む遅島の地図に見入るうち、獺越などの地名とともに、山根さんの二階屋のあたりに、海うそと記されているのが目に止まる。この小説のタイトルの思わぬところからの出現である。海うそはニホンアシカのことだったはず、なぜこんな山の上に…。うそとは何なのか?
朝食後、秋野が山根さんにそう尋ねると、蜃気楼のことだという。いや、本当にそうなのだろうか?
秋野が気付いて気にしていた獺越の記述についても、山根さんはそんな秋野の気持ちをフォローするように話題にし、父がうそ越えの話をするときの物思いに囚われた感じについて触れるのだった。
秋野は恩師の佐伯教授が獺越に興味を持ったのは、この遅島でのことではなかったかと思い至る。そして、山根さんのいう海うそは蜃気楼のことだという説について、そればかりではないのではないか、海うそには別の意味があるのではないかと秋野は直感するのだった。
ウソがカワウソになったのなら、海ウソとはいったいなんなのか? こうして、 この小説のタイトルに関わる核心的な問いの提示に、秋野だけでなく読者も戸惑いを隠せないままに、この章は閉じられてしまうのである。

この章に登場する生き物たち
シイ/アブラゼミ/クマゼミ/カラ類/メジロ/モミ/ツガ/イネ科の植物/ガマ/リュウキュウベニイトトンボ/ミツガシワ/アカショウビン/アカガシ/シイ/栴檀/シイタケ/茶/サトイモ/ナス/ニワトリ/トビウオ

          §           §           §

今日はもう3月30日である。週が明ければもう4月の声を聞くというのが俄には信じられない思いだ。2月30日といわれた方がむしろまだ気分的には違和感がなく、ひと月暦を間違えているのではないか、そんな気さえする。無論2月に30日がある訣もなく、2月28日からあとは、そのまま暦が空回りしてしまっている、そんな印象という方があたっていようか。
このまま新年度に突入、年度初めのバタバタが過ぎ去れば(それとて乗り切れるだけの自信はないけれど、自分の意思に拘わらず、暦だけはどんどん先へ先へと進んでいくことだろう)、10連休、ふと気が付けばもう入梅、というのが目に見えている。物事にじっくり取り組めるのは、毎年夏休み前までというのが経験的にわかっているので、今年がどんなスピードで過ぎてゆくか、もう思い描くことができてしまう。
辛いのは、現実の暦と体感する暦の乖離が著しくなるときである。たいていは、いつの間にか、体感の方を現実に合わせているのだけれど、年齢を重ねるにつれ、この乖離、言い換えれるならいわば違和感を感じている期間が長くなってきているように思う。今回もそうだ。次第に身体がついて行けなくなってきているということなのだと思うが、現実に振り回されるうちに違和感を感じなくなるというこれまでのあり方が、それはそれでよいのかどうか、というのも確かにある。
まあ、いろんな意味で転機を迎えているのは事実なのだろう。あれこれ思い悩んでいても仕方がない。気楽に歩んでいくしかないと腹を括ることにしよう。
ラベル:読書 日常
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2019年03月21日

BWV22とスイセンのこと

今年は3月3日だった復活節前第七日曜(五旬節)のカンタータBWV22を聴いた。この曲は、BWV23とともに、セバスチャン・バッハがライプツィヒに赴任するにあたっての試験曲で、古風な力みのあるとっつきにくい曲という先入観が強く、これまでどちらかと言えば敬遠してきたのだが、今年リリングの演奏で聴き直してみると、何気にすごい曲であり、終曲のコラールでノックアウトの感があった。


今年最初に聴いたのは、いつものガーディナーのカンタータ巡礼の演奏。これが快速だった(2′02″)ので、初めさほどには思わなかったのだが、リリングで聴くと、たゆたう叙情が言いようもないほど美しく、ジーンとさせられた(2′21″)。行ったり来たりする弦のオブリガートが速いのだが遅いのだがわからない微妙なニュアンスで、その寄せては返す波に、心を揺さぶられたのかも知れない。


例によって他の演奏も聴いてみる。レオンハルトはちょうど中間だが、もう少しリズミカルなかつ透明な演奏(2′09″)。低弦の刻むリズムがはっきりしている。かつ引きずる感じのない清潔さが印象的だった。

ビラーはもう少しリリングに近い叙情的な演奏との印象をもった(2′15″)。1拍目のリズムの強調が顕著で、テンポが揺れる(リズムの強調のせいかも知れない)。リリングはアクセントがなく、音符がスラーでつながっていた。

鈴木雅明・BCJは、演奏タイムは実は一番遅い(2′23″)。しかし、低弦はレオンハルトほどではないまでもリズミカル。ただ、オブリガートの弦は滑らかに滑る感じがした。


これらをひと通り聴いたあとで、ガーディナーを聴いたらどんな感じに聴こえるだろうか? ふと気になって、念のため改めて聴いてみると、確かに速いのは速かった。しかし、ただ突っ走るのではなくて、軽やかな爽やかさが心に響いてくるのを感じた。

ガーディナーのこの曲における速さは、これは最初のテノールのアリアから一貫した印象で、敢えて重々しくせずに、曲の流れを重視している。これはこれで首尾一貫した演奏と改めて感じ入った。

恐らくこれはガーディナーもすごいが、セバスチャン・バッハの曲そのもののすごさが際立つからなだろう。演奏者を選ばない普遍性とでもいおうか、どう演奏しても素晴らしさが自然と滲み出てくるのだ。


この曲では、一つ前の第4曲のテノールのアリアも心に残った。演奏ごとの印象を簡単に書き留めておく。

リリング(3′23″)は、チェンバロがよく響く伸びやかな演奏。

レオンハルト(3′42″)は、足元を確かめながら陽だまり中を緩やかに歩むような穏やかな演奏。

ピラー(3′11″)は、タイムの割には速さは感じない軽やかな演奏。

ガーディナー(2′44″)は、最後のコラールの気分の先駆けと言って良い快速で軽快な演奏。

鈴木雅明・BCJ(2′49″)は、ガーディナーに近い快速な演奏。響きが殊の外美しい。先ほど書いたが、コラールの遅さを感じないのは、このアリアに導かれるからだろうか。


毎年聴くたびに新たな発見があるのがセバスチャン・バッハのカンタータである。自分が気付かないでいるだけのことではあるのだが、外れのない宝探しのようなもので、これほどの贅沢はなかろう。


前回書いたスイセンがいよいよ開花した。今年の花は6つ。不測の事態からすればよく回復してくれたものと思う。

よくよく前に書いたものを読むと、このスイセンは、2012年の秋に植え、2013年春に初めて咲いたとあるから、今年で7年めになるらしい。多い年は同じ鉢で10個も花芽をつけたことがあるようだ。

こんなことひとつ取ってもこのプログあればこそではある。なにせこの鉢にスイセンを植えてあることさえ忘れてしまうくらいなのだから。

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2019年03月09日

梨木香歩さんの『海うそ』を読む(その2)

龍目蓋-森肩 珊瑚樹/ミカドアゲハ 灘風
かつて遅島を襲った廃仏毀釈の嵐。秋野は自分の通っていた小学校の校舎が取り壊されるのを見た時の経験や、水害で流される自分の家を見て号泣していた男のことに思いを致す。自己の存在を根こそぎ否定されるに等しいものではなかったかと思いやると、底知れぬ地のあなに引きずりこまれるような切羽詰まった喪失感への共鳴が響いて止まない。人々がそうした精神的なものに対する暴力にどう立ち向かったのか、その辺りの葛藤をなんとしてでも知りたいと、秋野は思うのだった。取り縋るように、切実に思うのだった。それは当時彼が置かれていた精神の危機の大きさを暗示するものであろう。
ひとの根幹をなすこの自己の生まれ育った土地、空間、環境のもつ意味、そしてそこに与えられた名に込められた人々の思いについては、後年の秋野の言葉で本書の最終章でさらに深い考察がなされる。海うその物語の通奏低音といってよい。

          §           §           §

当たり前のように思っている、この自己の生育空間のもつ深い意味について、改めて考えさせられる。物理的に引き離そうと思えばけっして難しくはない人と土地との関係。しかし人は、最初に生まれる場所を自ら選ぶことはできない。親にはできても自分にはできない。その後の生育空間についてもほぼ似たような条件だろう。独立してからの生活空間ならば、本人の意思で決められそうだが、それとてもそこに住みたいという意志とは別の要素による部分がむしろ大きいのが普通だ。
そうした本人の意志に関わらずに結び付けられた特定の土地との関係が、その人の一生を物理的にも精神的にも左右する所与の要素となる。そのメリットやハンディキャップは措くとして、その呪縛から逃れるのは容易なことではない。それを呪縛と捉えるか、恩恵と考えるかで、その人の一生はまた大きく変わってこようが、いずれにせよ、たった一度きりの人生を、一からフリーハンドで描くことはできないのである。
それにしても、人の一生にとってそんなにも重要な働きをする土地とはいったい何なのだろうか? 土地の個性とはどうやって生まれるものなのか? つらつら考えてみるに、それはけっして人間の営為と無関係に生まれるものではないだろう。いや、それはむしろ人が生み出すものなのではないか? 結局のところそこに住む人の生活によって形作られるものでないかと思うのだ。土地の名も、そこに住む人が名付けるものだろう。そうであるならば、とどのつまりは、過去の人の生活が今の人の生活を作る、人が人を縛るということなのか?

          §           §           §

移動手段が徒歩しかない時代なら、それは人を土地に縛り付ける働きをしただろう。しかも為政者たちは支配の便宜のために、極力それを固定しようとした。
しかし、移動が格段に便利になった上に、ネット社会の到来によって、移動しなくてもたちどころに情報を交換、共有できるようになった結果、今の自らのありようを他者と比較できるようになって、今の自分をもしかしたら変えられるのではないかという希望の火を灯すことが可能になった。そして両者あいまって、人々に、その意志さえあれば、土地の呪縛から逃れ出られるという意識の変革をもたらしたのだった。
実際にそれが可能かどうかは別として、現在の我々が多分普通に持っているこの感覚は、近代以前の人にはなかったものだろう。
しかし、である。本当に土地の呪縛から解放されたのだろうか? 自分自身のことを振り返ってみる。27歳になるまで過ごした三番町の崖下の家。今では跡形もなくなって、よそよそしいマンションに変わってしまっているが、それでも時折無性に恋しくなって市ヶ谷で降り、随分と様変わりはしているものの、まだ当時の面影があちこちに残るなつかしい町並を辿り、幼い日の自分が飛び出して来てもおかしくない路地や横丁を訪ねる。
そんな心持ちが生まれたのは、てっきり年をとって幼年時代が懐かしくなった望郷の念の所為だと思っていた。しかし、本当にそうなのだろうか? 土地の呪縛から逃れられずにいるだけなのではないか? そう思うと、土地が急に怖ろしいものに思われて、自分はいったいどうしたらよいのかと、途方に暮れてしまうのである。

          §           §           §

話を海うそに戻そう。ウネさんの手配で、温泉仲間のステさんを通じて森肩に山根さんを訪ねる。実に久しぶりのコーヒーの香りを楽しむ。西に向かう広い窓を背に逆光に立つ山根氏に迎え入れられる。長身痩躯ながらがっしりとした印象の、絵に描いた仙人のような人。長い間外国航路暮らしをし、残りの人生を父の残した山の中の家で過ごしている。佐伯教授のことは父から聞いて知っているという。
足の悪い山根さんは、ステさんに言わせると、灘風に当たったせいだという。灘風とは、海で亡くなった人の死霊のこと。では灘風になるか雨坊主になるかは何によって決まるのだろう。
次の宿泊地にここを使って欲しいというありがたい申し出を山根さんから受けた秋野は、二階屋からの帰路、ミカドアゲハとアオスジアゲハ、それにモンキチョウに導かれて、一本の珊瑚樹に行き当たる。珊瑚樹の花房がぼうっと街灯のよう。気付けば霧が出て、深山の匂いがし始めていた。夢幻の世界を彷徨う。

この章に登場する生き物たち
イタビカズラ/ソテツ/カメムシ/ミカドアゲハ/アオスジアゲハ/モンキチョウ

          §           §           §

今回は思わぬ寄り道をしてしまったため、1章分だけになってしまった。
日射しはもう春だが、木曜日の晩から急に冷え込んで、春の装いだった奈良県南部の山々にも季節風の雪がもたらされたようだ。雪解けが進んでやきもきしていた信州のスキー場でも、これでなんとか月末まで営業できそうだと安堵しているとの話を聞いた。
庭では種で自然に増えていったクリスマスローズがあちこちでたわわな紫や白の花を付け、ワンコたちがねらっている黄色のスイセンもようやく花芽をもたげ始めている。あろうことか夏の間に空っぽの鉢と勘違いしたり、庭を飛び回るかのワンコたちに蹴散らされたりしてひっくり返されて、瀕死の重傷を負った球根たちだったが、なんとか植え直しが功を奏して息を吹き返してくれたようで、こちらも安堵することしきり。僅かでも花芽を付けてくれただけで、感謝の気持ちでいっぱいだ。行く冬を惜しみつつ、自然な気持ちで春の到来を喜びたい。
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〔今年も咲き始めたクリスマス・ローズ〕

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〔花芽を伸ばし始めたスイセン〕
ラベル:読書 日常 季節
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2019年03月06日

梨木香歩さんの『海うそ』を読む(その1)

龍目蓋─影吹 イタビカズラ/ヤギ 二階屋
十三夜の月が上がる静かな晩、本土の西に浮かぶタツノオトシゴの形をした島、遅島の、その眼の位置にあたる龍目池をたらい舟で渡り、湯浴みに行く爺さんと婆さん。彼らを見送った私は、1人池で水浴びをする。
そんなはっきりしていそうで、茫漠とした、夢のような場面からこの物語は始まる。月明かりの意外なまでの明るさと、それによってかえって暗さを増す闇とが、お互いを強調し合う静寂な世界。
翌朝の何気ないが、美しくも愛おしい情景描写。丸顔で、小芋をいつまでも土に埋けておいたようなシワの多い顔の婆さん、ウネさんとの会話。この絶妙なもうこれしかないといえる比喩にノックアウトされてしまう。ウネさんの、ほうよねえ、ほやけど、ほやねえ、という受け応えの、「そう」にあたる「ほ」の語感がなんとも言えずおっとりとして、ほんわかとしたのどかな気分にさせられる。
「きよはどっちへ」も同じ。「きよ」は名にあらず、今日のことだという口が挟まれるあたり、おやっと懐かしい気分が横溢してくる。
無節操な植生、という言い回しに関する註記などもそうだ。大真面目なのだか、とぼけているのだか、ふっと微笑みたくなるようなこの気分、どこかで味わったような…

影吹を目指して龍目蓋(たつのまぶた)の家を出て、坂を登りきると、木立の間から海が見えてくる。茫漠とした海と空の境界、その水平線附近をゆく外国周りの船、キノコのように湧く入道雲。次第に山に分け入るにつれ、さまざまなアイテムが引き続きごく自然に次々に登場し、読者は語り手の私とともにいいようもないメランコリックな気分に襲われる。そして知らず識らずのうちに、先ほども書いたどこか懐かしくなんとも心地よい世界に連れていかれているのを感じる。前日カモシカに出会ったくだりやノラヤギの話あたりから、それは確信に変わってゆく。家守綺譚や冬虫夏草の世界、そう、あの綿貫征四郎の語りを思い起こさせるものなのである。
影吹の近く、山を分入った先で、幻かと思うような西洋館(ウネさんをはじめ、平屋が当たり前の島の人たちは、二階屋と呼ぶ)に遭遇する。海うその物語の展開で重要な役割を果たすことになる、山根さんの住まいである。
ここで私はのちに、廃仏毀釈前の島の様子を伝える、善照さんの史料に出会う。善照さんこそは、二階屋の当主、山根さんの父君だった。善照さんは、廃仏毀釈の荒波にもまれ、修行の道を捨て島を出ることを余儀なくされたのだった。
最初に二階屋に遭遇した時、私はその門を叩くことはなかった。龍目蓋の嘉助さんとウネさんのところに戻ってから、じんわりと浮き上がってくるような記憶を聞かされるのである。嘉助さんに比べると、ウネさんの記憶の甦りは至ってゆっくりと穏やかでのんびりとしている。しかし、そこには付随するさまざまなものが絡みついて一緒に湧き上がってくるかのような感がある。

この章の終わりで、語り手の私がこの島にやってきた経緯が詳しく語られる。亡くなった恩師佐伯教授がやりかけていた仕事に興味を持ったのだ。そして、昭和に入ってあと数年で10年という、語られている時点の座標軸がようやく示される。しかし、それが語り手の私の立つときと同じかどうかはまだわからない。時の座標軸が明かされずに物語は始まっていたので、普通に今の話かと思い込んで読んできていると、ここで軽くいなされてしまい、これは一筋縄ではいかない物語らしいということを実感させられることになる。
海うその語り手の人文地理学の学徒、K大学の秋野は、あの大真面目だが能天気ともいえる味わいの綿貫とは本質的に異なる、もう一つ深い世界をもつことを余儀なくされた人間であることが、次第に明らかになってゆく。それは、少しずつさりげなく語られるので、うっかりすると読み飛ばしてしまいかねない。中編ながら、語りかける世界の奥行きは深く、パックリと口を開けた深淵ともいうべきありさまで迫ってくる。
秋野には、恩師のやり残した仕事の補完という以上に、島そのものに惹かれ、報告書に出てくる寺院を示す地名のついた風景の中に立ち、風に吹かれてみたい、決定的な何かが過ぎ去ったあとの、沈黙する光景の中にいたい、人の営みや時の本質が知りたい、そうしたそれこそいうにやまれぬ思いがあった。それらが静かに語られたあと、許嫁と両親を立て続けに亡くしたことがさらりと吐露されて、最初の章は閉じられる。亡くした、ではなく、亡くしていた、であり、物語の現在と語りの時点との隔たりが暗示されている。
秋野がこの島を訪れたのが、そうした身近な者の死と深く関係していることを確信するに至ると、冒頭の何気ない記述が深い意味をもって迫ってくる。それは、たらい舟に3人乗って池の真ん中でひっくり返りでもしたら、という記述の中の、私自身はそれでいいとしても、というひとことである。心に傷を抱いてこの島を訪れたことが述べられていたことに気付く。詳しくは語っていないけれど、彼がどんな気持ちを抱いてこの島を訪れていたか、想像するにあまりある。

海ウソってなに? 遅島という名の由来は? オソとウソは何か関係があるのか? 途中で明かされるものもあれば、茫漠としたままで終わる謎もある。しかし、そうしたなにか得体の知れないもの、雲をつかむようなもの、それでいてひどく懐かしく見覚えのあるもの、その周りをぐるぐると展開しながら物語は進められてゆく。

この章に登場するさまざまな生き物たち。ゴイサギ/雄鶏/ミンミンゼミ/トビウオ/サルトリイバラ/ヤブツバキ/ハマヒサカキ/トビ/カモシカ/ヤギ/ヤブツバキ/カシノキの仲間/カナクギノキ/ハイノキ/モッコク/イスノキ/スダジイ/ヘゴの木/アサギマダラ/カラスバト/ウバメガシ/イタビカズラ
イタビカズラで止まってしまうのは、それが山根さんの二階屋を飾るものだったからである。山根さんとの出会いがなければ、秋野が海うその物語を書き止めることはなかっただろう。

そう、忘れてはいけない、海うその各章付けられた梨木さんらしいタイトルに触れておかなくては。それは、家守奇譚や冬虫夏草の植物の名を冠した章名を思い起こさせるものだが、海うそではさらに凝っていて、例えば最初の章は、初めに書いたように、「龍目蓋-影吹 イタビカズラ/ヤギ 二階屋」というもの。
初めに、秋野が辿る道行きの始点と目的地、それにそれを導く植物と動物から代表的なものを一つずつ、そしてその章で話題になる遅島を特徴付ける事柄を一つ列記する形で命名されているようだ。その意味は、読み進めれば自ずと明らかになるだろうが、この章でいえば、イタビカズラは、二階屋を飾るもの、ヤギは、冗談のようなノラヤギの話に登場すらヤギである。ウネさんの独特の風貌とともに、この島の風土を象徴するものといってよいであろう。

          §           §           §

龍目蓋─角小御崎 アコウ/ニホンアシカ モノミミ
翌日は雨。いったい雨というものはこれくらい降ってもいいものかというくらいの降り方だが、嘉助さんもウネさんは一向に動じる気配さえない。昔からこうだったと達観した様子。ウンキの話、雨坊主の話などを聞く。
午後からはウソのように晴れ上がる。
角小御崎に向かい、船を借りる。ウネさんから聞かされた船霊に手を合わせる。櫓で海底を蹴るようにして沖合に進む。ふっとこのまま海と空の境界に連れ去られてしまいそうな感覚に襲われる。
沖合から島の植物相を観察する。アコウの大木に、人の作る社会の姿を見る。角小御崎には、ウネさんから聞いていたニホンアシカはいなかったが、突端に明らかな人工物の廃墟が見える。それはかつてこの島にいた沖縄のノロに似たモノミミと言われる者たちものだった。ウネさんに詳しく尋ねようとすると、沈黙が続いたあと、見事にはぐらかされてしまう。

この章に登場するさまざまな生き物たち、ヤギ/ウバメガシ/ヘゴの木/アコウ/ニホンアシカ/クロマツ/ビロウ

          §           §           §

ここのところずっと挽歌について考えていたこともあって、他の本が読めずにいたけれど、先月漸くひと区切り付けることができて、久し振りに新しい本を開くことができた。前からいつか読みたいと思っていた梨木香歩さんの『海うそ』である。タイトルからだけではどんな本だか見当が付かず、さほどの分量ではないので、いつでも読めるだろうという気持ちと、大切にとっておきたいという思いもあって、求めてからもう随分になるのに、ついついここまで読まずに来てしまった本である​。
ひと通り読み終えてみて、見かけのボリュームに比べて小説の世界の広がりの大きさに圧倒されてしまった。ただ、けっして言葉が少ない訣ではないのだけれど、もっともっと読みたいというところで終わってしまったという思いが残り、考えさせられたところを充分整理しきれないでいる。どこまで理解できるかわからないけれど、再読しながらまた少しずつ紹介していってみたいと思う。今回は取り敢えず最初の2章だけである。
ラベル:読書
posted by あきちゃん at 03:19| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2019年03月04日

春の足音を聴きながら

3月の声を聞いたばかりだというのに、ここのところ天気の変化が異常に速くなっている。春一番が吹く訣ではないが、短い周期で低気圧が通過してゆく。近年にない数で、もう今回で8つめになるのだという。
関東で積もるような雪が降るのはこんな時で、雪予報が出た時もあったが、ほとんど空振りだった。だいたい、通過する低気圧があまり発達しない。関東に大雪を降らせるような低気圧は、たいていその後千島付近で猛烈に発達し、一時的にせよ強い冬型をもたらす。いわゆる引きの季節風である。それが今年はない。多分、1月末に大陸の高気圧が強まって強い冬型になって以来、まともな冬型は現れていないのではないか?

          §           §           §

いっぺんに寒さが緩む訣ではないものの、通過する低気圧が湿った雪にせよ降らせていってくれたらまだましなものを、時に雨さえもたらすのでは、たまったものではない。じわりじわりと積雪は減ってゆく。昨年スキーを再開した身としては、気が気ではない。やっとまともな雪が降って安堵した正月休み明けの水準に戻ってしまっているのではないだろうか。雪質はこの季節だからもう度外視するとしても、量だけはなんとか維持してほしいと思う。できれば今月末まであと4週間もってくれないとなぁ。せめて連休までの3週間だけでも……
山は年末の油日岳で思わぬ雪山を体験した。その後、明神平と三峰山はそれなりの積雪で、ことに1月末の明神平では見事な霧氷に遭遇した。お天気にも恵まれて素晴らしい山旅となった。しかし、その後はアイゼンが活躍する場もなく、山は晩秋の様相というか、どうもこのまま春を迎えてしまうらしい。いや、山はもう春の装いだ。植林帯は花粉で黄色く染まっているに違いない。

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ここ一週間は3度も東京へ往復するハメになった。その終わりの今日の東京は、朝から冷たい雨だったが、雪になるほどではなかった。昨日が比較的暖かだったこともあるが、雪に降られるよりもかえってこたえた。暫く雨が続く気配だが、そういえば、実家のベランダでは、母が蒔いた菜の花が花盛りだった。菜種梅雨とはよく言ったものだ。
エルニーニョの発生で暖冬予報だったこの冬、予報は当たりだったようだが、1月から2月初めにそれなりに降ってくれただけでも、よしとしなければならないのだろうか。それではあまりにも寂しい。これから春はどのように推移してゆくのだろうか? ごく普通に季節がうつろうことを願うばかりだ。何度も書いたが、このごく普通というのが普通でなくなってきているのだ。
3月は、週明け以降も、海外を含めいろいろと出張が続く。今年は幸いにして一度も体調を崩さずここまでやってこられたので、なんとかこのまま年度末を過ごしていけたらありがたいと思う。そしていよいよ最後の1年を迎える。
ラベル:季節 日常
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