2019年03月09日

梨木香歩さんの『海うそ』を読む(その2)

龍目蓋-森肩 珊瑚樹/ミカドアゲハ 灘風
かつて遅島を襲った廃仏毀釈の嵐。秋野は自分の通っていた小学校の校舎が取り壊されるのを見た時の経験や、水害で流される自分の家を見て号泣していた男のことに思いを致す。自己の存在を根こそぎ否定されるに等しいものではなかったかと思いやると、底知れぬ地のあなに引きずりこまれるような切羽詰まった喪失感への共鳴が響いて止まない。人々がそうした精神的なものに対する暴力にどう立ち向かったのか、その辺りの葛藤をなんとしてでも知りたいと、秋野は思うのだった。取り縋るように、切実に思うのだった。それは当時彼が置かれていた精神の危機の大きさを暗示するものであろう。
ひとの根幹をなすこの自己の生まれ育った土地、空間、環境のもつ意味、そしてそこに与えられた名に込められた人々の思いについては、後年の秋野の言葉で本書の最終章でさらに深い考察がなされる。海うその物語の通奏低音といってよい。

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当たり前のように思っている、この自己の生育空間のもつ深い意味について、改めて考えさせられる。物理的に引き離そうと思えばけっして難しくはない人と土地との関係。しかし人は、最初に生まれる場所を自ら選ぶことはできない。親にはできても自分にはできない。その後の生育空間についてもほぼ似たような条件だろう。独立してからの生活空間ならば、本人の意思で決められそうだが、それとてもそこに住みたいという意志とは別の要素による部分がむしろ大きいのが普通だ。
そうした本人の意志に関わらずに結び付けられた特定の土地との関係が、その人の一生を物理的にも精神的にも左右する所与の要素となる。そのメリットやハンディキャップは措くとして、その呪縛から逃れるのは容易なことではない。それを呪縛と捉えるか、恩恵と考えるかで、その人の一生はまた大きく変わってこようが、いずれにせよ、たった一度きりの人生を、一からフリーハンドで描くことはできないのである。
それにしても、人の一生にとってそんなにも重要な働きをする土地とはいったい何なのだろうか? 土地の個性とはどうやって生まれるものなのか? つらつら考えてみるに、それはけっして人間の営為と無関係に生まれるものではないだろう。いや、それはむしろ人が生み出すものなのではないか? 結局のところそこに住む人の生活によって形作られるものでないかと思うのだ。土地の名も、そこに住む人が名付けるものだろう。そうであるならば、とどのつまりは、過去の人の生活が今の人の生活を作る、人が人を縛るということなのか?

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移動手段が徒歩しかない時代なら、それは人を土地に縛り付ける働きをしただろう。しかも為政者たちは支配の便宜のために、極力それを固定しようとした。
しかし、移動が格段に便利になった上に、ネット社会の到来によって、移動しなくてもたちどころに情報を交換、共有できるようになった結果、今の自らのありようを他者と比較できるようになって、今の自分をもしかしたら変えられるのではないかという希望の火を灯すことが可能になった。そして両者あいまって、人々に、その意志さえあれば、土地の呪縛から逃れ出られるという意識の変革をもたらしたのだった。
実際にそれが可能かどうかは別として、現在の我々が多分普通に持っているこの感覚は、近代以前の人にはなかったものだろう。
しかし、である。本当に土地の呪縛から解放されたのだろうか? 自分自身のことを振り返ってみる。27歳になるまで過ごした三番町の崖下の家。今では跡形もなくなって、よそよそしいマンションに変わってしまっているが、それでも時折無性に恋しくなって市ヶ谷で降り、随分と様変わりはしているものの、まだ当時の面影があちこちに残るなつかしい町並を辿り、幼い日の自分が飛び出して来てもおかしくない路地や横丁を訪ねる。
そんな心持ちが生まれたのは、てっきり年をとって幼年時代が懐かしくなった望郷の念の所為だと思っていた。しかし、本当にそうなのだろうか? 土地の呪縛から逃れられずにいるだけなのではないか? そう思うと、土地が急に怖ろしいものに思われて、自分はいったいどうしたらよいのかと、途方に暮れてしまうのである。

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話を海うそに戻そう。ウネさんの手配で、温泉仲間のステさんを通じて森肩に山根さんを訪ねる。実に久しぶりのコーヒーの香りを楽しむ。西に向かう広い窓を背に逆光に立つ山根氏に迎え入れられる。長身痩躯ながらがっしりとした印象の、絵に描いた仙人のような人。長い間外国航路暮らしをし、残りの人生を父の残した山の中の家で過ごしている。佐伯教授のことは父から聞いて知っているという。
足の悪い山根さんは、ステさんに言わせると、灘風に当たったせいだという。灘風とは、海で亡くなった人の死霊のこと。では灘風になるか雨坊主になるかは何によって決まるのだろう。
次の宿泊地にここを使って欲しいというありがたい申し出を山根さんから受けた秋野は、二階屋からの帰路、ミカドアゲハとアオスジアゲハ、それにモンキチョウに導かれて、一本の珊瑚樹に行き当たる。珊瑚樹の花房がぼうっと街灯のよう。気付けば霧が出て、深山の匂いがし始めていた。夢幻の世界を彷徨う。

この章に登場する生き物たち
イタビカズラ/ソテツ/カメムシ/ミカドアゲハ/アオスジアゲハ/モンキチョウ

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今回は思わぬ寄り道をしてしまったため、1章分だけになってしまった。
日射しはもう春だが、木曜日の晩から急に冷え込んで、春の装いだった奈良県南部の山々にも季節風の雪がもたらされたようだ。雪解けが進んでやきもきしていた信州のスキー場でも、これでなんとか月末まで営業できそうだと安堵しているとの話を聞いた。
庭では種で自然に増えていったクリスマスローズがあちこちでたわわな紫や白の花を付け、ワンコたちがねらっている黄色のスイセンもようやく花芽をもたげ始めている。あろうことか夏の間に空っぽの鉢と勘違いしたり、庭を飛び回るかのワンコたちに蹴散らされたりしてひっくり返されて、瀕死の重傷を負った球根たちだったが、なんとか植え直しが功を奏して息を吹き返してくれたようで、こちらも安堵することしきり。僅かでも花芽を付けてくれただけで、感謝の気持ちでいっぱいだ。行く冬を惜しみつつ、自然な気持ちで春の到来を喜びたい。
今年も咲き始めたクリスマス・ローズ.jpeg
〔今年も咲き始めたクリスマス・ローズ〕

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〔花芽を伸ばし始めたスイセン〕
ラベル:読書 日常 季節
posted by あきちゃん at 22:52| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする