2019年03月30日

梨木香歩さんの『海うそ』を読む(その3)

梨木香歩さんの『海うそ』を読む(その2)よりつづく)
龍目蓋─波音─森肩 ミツガシワ/カモシカ カギ家
ウネさんの手配で、秋野は黒森を越え、波音(はと)の梶井家を訪ねることになる。山の中の土地に、波音という地名が付いた由来を尋ねる何気ない会話がすてきだ。ステさんはいう、昔からそういいよるからじゃなかね。まさにそうなのだ。多くの人生を育んできた土地の名のもつ重みは、何ものにも代え難いのである。そこにはさまざまなひとの営為が厚く積み重なっている。
霧の湧く黒森で、秋野はカモシカに出会う。カモシカは、その物怖じしない純粋な眼で、秋野の心の奥まで見定めようとするかのように見つめてくるのだった。哀愁が漂う瞳と時間が止まったように見合っていると、物悲しさとしかいいようのないものが、ひたひたとあたりを満たしていく。
そしてそんなカモシカの瞳に、秋野は亡くした許嫁の瞳を重ね合わせるのである。段落を代えかつ行をあけ、突如「許嫁は」と始まる2行だけの効果的な一文に、まさにハッとさせられる。あの何もかも見透かすような瞳では、この世を渡って行くのは無理だったのだろうか? 許嫁が亡くなったわけに、今ようやく思い至るのだった。
その後、秋野はそんなカモシカに導かれるように沼地に至り、リュウキュウベニイトトンボが羽を休めるミツガシワに出会う。氷河期の生き残りの植物に、まさかこんな南の島で出会うとは! そんな感嘆とともに、霧の分子一つひとつにしっとりと反響し合うようなアカショウビンのさえずりを聞くのである。ここはいったいどこなのか? そんな時空を超えてたゆたう空間に彷徨い出るような感覚を、読者も秋野とともに味わわされるのである。

          §           §           §

波音の梶井家はこの島で初めて見るカギ家で、梶井家の兄(あにい、と呼び、兄貴とか、息子さんといったニュアンス)と威厳を感じさせるその母刀自に対し、ふと懐かしさを感じる秋野であった。
そのためか、自分の境遇についての秋野の一人語りも挟まれる。昨年両親を相次いで亡くしていた秋野は、梶井家の母刀自を見ているうちに、父の後を追うように亡くなった母にいろいろと無理をさせてしまったことが悔やまれてきて、なかなか脳裏を離れなくなってしまう。
その後、梶井家のカギ家の間取りを見せてもらい、平家の落人伝説を思い遣る。ダイドコロに何かを祀っていたあとがあるのに気付く。それは、今は表面的には消されてしまった、モノミミに関わる信仰の残滓であった。

          §           §           §

森肩では山根さん宅を訪ねた。内廊下の突き当たりの、夕日の射し込む海の見える窓際で山根さんの歓待を受ける。ステさんがトビウオが飛ぶのを見た話を聞くうちに、岩本氏が明かりをつけると、急に外が昏くなる。そんな何気ない言われてみればなるほどと思う、しかし普通には気付かない情景描写に、思わず息を飲む。
カギ屋を見てきた話を始めると、山根氏が興味をもってくれているのがわかって、秋野は心が軽くなる。そして、この島の民家の構造のあり方が南北の接点にあたり非常に面白いということを山根氏に紹介する。
すると山根氏は思いがけず、二つ家について、南方文化が北上してきて融合型に変わる過渡期と捉える秋野の持論を正しくトレースしたあとで、北上してきた南方文化が無理な融合を諦め、今まさに分離を試みているがまだ完全には分離していない姿ではないかという、秋野とは全く正反対の考え方を、暫く考えた末に語り出したのだった。
全く思いもよらない事の成り行き。しかも、それまで自分が学者として考えてきたことの根元が崩されかねない鮮やかな指摘に接し、秋野は愕然とした。この山根さんとはいったい何者なのか?
しかも、そうした学問的混乱に陥った自分を山根さんが気遣ってくれているのが感じられ、秋野は立つ瀬がない。かといって、軽い話題に転じることもできず、仕方なく、この島を襲った廃仏毀釈のことを尋ねると、山根さんは微妙な反応を示す。全く興味がないか、さもなければのっぴきならないものを感じているか、どちらかであろうと、秋野は察する。
山根さんはこの島を襲った廃仏毀釈の嵐の中で、仏教以上に標的にされたモノミミたちの話を静かに語り始めるのだった。なぜ山根さんがそんなに詳しいのか訝る秋野に対し、山根さんは自分が、その騒ぎの中で還俗を余儀なくされこの島を後にした僧侶の子であることを(この紹介文の中では早まって書いてしまったことだけれど)、ここで初めて穏やかに告げるのである

          §           §           §

秋野は、山根さんから読んでよいと示された、山根さんの父が寺院を出るときに持ち出した文書類に没頭する。寺院の見取図を含む遅島の地図に見入るうち、獺越などの地名とともに、山根さんの二階屋のあたりに、海うそと記されているのが目に止まる。この小説のタイトルの思わぬところからの出現である。海うそはニホンアシカのことだったはず、なぜこんな山の上に…。うそとは何なのか?
朝食後、秋野が山根さんにそう尋ねると、蜃気楼のことだという。いや、本当にそうなのだろうか?
秋野が気付いて気にしていた獺越の記述についても、山根さんはそんな秋野の気持ちをフォローするように話題にし、父がうそ越えの話をするときの物思いに囚われた感じについて触れるのだった。
秋野は恩師の佐伯教授が獺越に興味を持ったのは、この遅島でのことではなかったかと思い至る。そして、山根さんのいう海うそは蜃気楼のことだという説について、そればかりではないのではないか、海うそには別の意味があるのではないかと秋野は直感するのだった。
ウソがカワウソになったのなら、海ウソとはいったいなんなのか? こうして、 この小説のタイトルに関わる核心的な問いの提示に、秋野だけでなく読者も戸惑いを隠せないままに、この章は閉じられてしまうのである。

この章に登場する生き物たち
シイ/アブラゼミ/クマゼミ/カラ類/メジロ/モミ/ツガ/イネ科の植物/ガマ/リュウキュウベニイトトンボ/ミツガシワ/アカショウビン/アカガシ/シイ/栴檀/シイタケ/茶/サトイモ/ナス/ニワトリ/トビウオ

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今日はもう3月30日である。週が明ければもう4月の声を聞くというのが俄には信じられない思いだ。2月30日といわれた方がむしろまだ気分的には違和感がなく、ひと月暦を間違えているのではないか、そんな気さえする。無論2月に30日がある訣もなく、2月28日からあとは、そのまま暦が空回りしてしまっている、そんな印象という方があたっていようか。
このまま新年度に突入、年度初めのバタバタが過ぎ去れば(それとて乗り切れるだけの自信はないけれど、自分の意思に拘わらず、暦だけはどんどん先へ先へと進んでいくことだろう)、10連休、ふと気が付けばもう入梅、というのが目に見えている。物事にじっくり取り組めるのは、毎年夏休み前までというのが経験的にわかっているので、今年がどんなスピードで過ぎてゆくか、もう思い描くことができてしまう。
辛いのは、現実の暦と体感する暦の乖離が著しくなるときである。たいていは、いつの間にか、体感の方を現実に合わせているのだけれど、年齢を重ねるにつれ、この乖離、言い換えれるならいわば違和感を感じている期間が長くなってきているように思う。今回もそうだ。次第に身体がついて行けなくなってきているということなのだと思うが、現実に振り回されるうちに違和感を感じなくなるというこれまでのあり方が、それはそれでよいのかどうか、というのも確かにある。
まあ、いろんな意味で転機を迎えているのは事実なのだろう。あれこれ思い悩んでいても仕方がない。気楽に歩んでいくしかないと腹を括ることにしよう。
ラベル:読書 日常
posted by あきちゃん at 11:40| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする