2019年07月31日

BWV76の聴き比べ(その2)

BWV76の聴き比べ(その1)よりつづく)今日で7月もおしまい。本格的な夏の到来に、ある意味ホッとしている日々である。でも、この暑さもここ数日がピークのようで、その先は予報によるとなにやら南海上が慌ただしい様相を呈してくるらしい。予断を許さない夏になりそうだ。
さて、暫く間が空いてしまったが、BWV76の聴き比べのつづきを記す。ヴェルナー、リヒター、リリング、アーノンクールの4種類の演奏である。

ヴェルナー
1: 5′42″ (但し始まりは0′05″から)おおらかなトランペットの響きが心なしか懐旧の念を催させるしっとりとした演奏。合唱が丁寧に優しく語り交わすフーガも心に響く。
3: 4′40″ 快速だが、レガートで音をつなぐため比較的穏やかで早さをほど感じない、ヴァイオリンのオブリガートがソプラノを引き立てて、出しゃばらないが限りなく美しい
7: 2′39″(2′34″)ゆったりとしたテンポで進む暖かな合唱が印象的。それを先導するトランペットの朗々とした響きが美しい。
8: 2′29″ 中庸の速度のオーボエとチェロの対話が印象的。
12: 3′52″ タイムはガーディナーや鈴木よりも速いが、アルトのしっとりとした語りかけが美しい。
14: 2′41″(2′28″) 第7曲よりも幾分速めのテンポで曲全体を締める。やはりトランペットが効いている。最後の合唱の盛り上がりはただごとではない。

リヒター
1: 4′32″ 速めのテンポで真っ直ぐに突き進む真摯な演奏。分厚いハーモニーの前進力に勇気をもらう思いがする。フーガの部分の独唱のはずのところが全て合唱で分厚く歌われている。
3: 6′36″ ソプラノのゆったりとした優しい語りかけが光る演奏。第1曲との緩急のバランスがガーディナー や鈴木・BCJとは正反対。これはよくあるパターン。なお、他の演奏では、オブリガートのヴァイオリンと通奏低音のチェロの掛け合いが雄弁に聞こえるが、リヒターではチェロの代わりにオルガンが微かにポロンポロンと響くだけ。この演奏の独特の静謐さの要因はここにあるようだ。
7: 2′34″(2′27″)テンポ感はヴェルナーに近いが、アクセントのある合唱が厳しい響きが印象的で、マタイを思い出してしまった。
8: 2′54″ しっとりと湿り気のあるゆったりした合奏が美しい。
12: 4′18″ タイム上は結構遅いが、ヴェルナーとほぼ似たような速さに感じる。あるいは気分の昂揚にしたがってだんだん速度が落ちていっているのかも知れない。
14: 2′39″(2′27″)基本は第7曲と同じだが、さらに大見得を切る感じに終わる。

リリング
1: 5′13″ 合唱・独唱・合奏の一体感の強い演奏。
3: 4′34″ 実際のタイムも印象的にも最も速い。ヴァイオリンが先へ先へと走る感じ。粘りそうな曲で突っ走る時のリリングの典型だが、メリハリは確かだ。
7: 2′28″(2′20″) 出だしの印象も途中の展開もガーディナーよりもむしろ速く、速めのテンポで前のめりに進むリリングらしい推進力を感じる演奏。最終的にガーディナーよりタイムが長いのは、終止の部分で大きくリタリダンドをかけるタメが大きいからだろう。ことに大見得を切る終わり方は感動的だ。
8: 2′41″ リヒターよりは幾分速いが、ゆったりとたゆたいながら奏でられるオーボエのしっとりとした響きがメロディーが心にしみる。
12: 2′55″ このアリアも速さが際立つ。まさに疾走する悲しみで、何かに急かされているような、悲しみにくれるのを避けるために立ち止まるのを恐れているような感じがする。古楽ではないリヒター・ヴェルナー・リリングのアプローチがそれぞれ違うのが面白い。
14: 2′23″(2′16″)第7曲よりさらに推進力のあるテンポで曲をまとめている。

アーノンクール
1: 4′49″ トランペットのややくぐもった響きが独特。タイムは速いが、さほど速い印象は受けない。
3: 4′49″ ボーイソプラノ、快速、オブリガートのヴァイオリンがリズミカルにスタッカートで技巧的に響く。
7: 1′56″(1′49″) 飛び抜けて快速な演奏だが、なぜこんなね急がねばならないのかよくわからない。非常に忙しなく、ヴァイオリンが、タタータのリズムのターの部分にアクセントつけるのもわざとらしくて、下品な感じを否めない。最後の気の抜けた終わり方もいただけない。
8: 2′26″ 疾走するくぐもったオーボエが美しい。
12: 3′14″ このオーボエもくぐもって聞こえる。タイムは快速だが、そんなに急いでいる感じはしない。楽器や独唱がしっとりと響くからだろうか。
14: 2′08″(1′54″)基本は第7曲と同じ、叩きつけるようにリズムをさらに強調しつつ驀進、最後はあっけなく終わる。

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アーノンクールにはちょっと違和感を覚える部分もあったが、どの演奏もそれぞれにすばらしいく、どれか一つを聴けばいいという訣にはいかない。しかしいつも6種類全部を聴く訣にもいかない。そこで、曲ごとにぼくのベストを選んだみた。
1: リリング
3: リヒター
7: リリング
8: 鈴木雅明・BCJ
12: ガーディナー
14: ヴェルナー
これもかなり無理をしてでの話である。どれもみな捨て難いのは明らかだ。速ければ速いで、遅ければまた遅いで、それぞれに味わいがある。曲自体が素晴らしければ、どう演奏してみたところで曲はは生きる、演奏を選ばないのだ。

今回で通し番号で483回めとなったようだ。ケッヘル番号でいうと変ホ長調コンチェルト(K.482)を越えて、イ長調コンチェルト(K.488)に向かうところ。どうでもいい比較ではあるけれど、数字の比較はこんなところにも愉しさが潜んでいる。
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2019年07月20日

BWV76の聴き比べ(その1)

教会暦に従ってカンタータを聴き始めてもうだいぶんになるけれど、ちょっと油断すると、暦はどんどん先に行ってしまい、取り残されて呆然としている自分に気付くことになってしまう。もう何度ほぞを噛む思いを味わったことだろうか。
しかし、最近はもう、聴けるときに聴けばいいや、といういわば開き直りの気持ちも芽生えてきて、随分と楽になったような気がしている。
これから紹介するBWV76も、今年は6月30日だった三位一体節後第2日曜日のカンタータである。もう3週間も聴いていることになる。

1723年6月6日の三位一体節後第2日曜日のために作られたカンタータBWV76「もろもろの天は神の栄光を語り」は、バッハがライプツィヒに移った直後の、いわゆる第1年巻冒頭を飾る記念すべきカンタータ群の一つである。
2部14曲から構成される大作で、それだけ力の入った曲で、ちょっと理屈っぽさを感じる部分もあるけれど、14曲もある割には比較的コンパクトにまとまっている。曲調も前の週の第1年巻冒頭のBWV75に比べると、ずっと親しみやすい感じがする。とはいえ、14曲はやはり骨がある。そう簡単にはいかない。

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第1部の第1曲はのびやかな大合唱。フーガの主題は、つぶやくような印象的な旋律で、法会の呪文を明るい長調にしたような感じで面白い。
第2曲はテノールのちょっと切迫した感じのレティタティーポ。最後は長調に転じてアリオーソとなる。
第3曲はソプラノのアリア。このカンタータの白眉といってよい長調の美しい曲。第2部の終わりから3曲め(第12曲)の短調のアルトのアリアとちょうど対になっている。
第4曲はバスの再び短調に戻ったレティタティーポ。最後は長調に転じて、第5曲に受け継がれる。
第5曲は続けてバスが輝かしいアリアを歌う。中間部は短調となり、一旦終始して長調に戻る。トランペットが大活躍する。
第6曲はアルトのしっとりとした短調のレティタティーポ。静かに閉じられ、その気分のままコラールへ。
第7曲はコラール、Es woll uns Gott genädig sein (願わくは神我らを恵みて)。トランペットに先導された激動のコラール。
第2部の始まり第1曲は心に残るシンフォニア。オーボエ・ダモーレとヴィオラ・ダ・ガンバが活躍する。コンチェルトのようだ。
第2曲はバスのレティタティーポ。
第3曲はオルガンの先導するちょっ怪しい感じのテノールの激しいアリア。
第4曲はアルトのレティタティーポ。
第5曲は続けてアルトの深沈とした趣のアリア。
第6曲はテノールのレティタティーポ。
第7曲はコラール。基本的に第1部第7曲と同じもので、同じコラールで閉じられるごとで、曲の一体性を強く印象付ける素晴らしい効果を発揮している。

今回は、レティタティーポ6曲、及び男声のアリア2曲(これらはいずれも難しい)を除いた、第1、3、7、8、12、14の6曲に焦点を絞って書いてみることにする。
聴いたのは、ガーディナーのカンタータ巡礼、鈴木雅明・BCJ、ヴェルナー、リヒター、リリング、アーノンクールの6種類の演奏である。

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ガーディナー
1: 3′50″ トランペットの軽快な導入によって軽やかに歌う。合唱の澄んだ響きが印象的。次第に速度を上げて驀進というか、飛翔せんばかりに駈けぬけるフーガも鮮やかだ。
3: 5′47″ レティタティーポで急ブレーキをかけた流れが継続する。リズミックだが、語りかけながら、確かめ確かめ歩むようなところがある
7: 2′24″(2′ 15″) タイムはリリングよりわずかに速いが、出だしの印象はむしろ遅い。それなのにタイムが短いのは、しだいに速めのテンポで前のめりに進む印象があることや、その一方で淡々としていて(リリングのような)タメがないこととも関係しよう。
なお、機械的なタイムを信用すると、思わぬ失敗をする。これまでにもそういう例はあったが、ガーディナーの第7曲では、曲の終わりに9秒近い余白がある。勿論、単なる余白ではなく、指揮者がタクトを降ろす前の演奏の継続している時間に属するとみられるが(ガーディナーのはライヴだから、それを重視したのかも知れない)、演奏のテンポを考えるには間違ったデータを与えるので、実タイムを括弧内に表記
8: 2′31″ 出だしはたっぷりと歌わせるが、主題に入った後は一気に駈けぬける。オーボエのくすんだ音色が心に響く。
12: 3′57″ アルトのしっとりとしたかつ澄んだ語りかけが美しい。
速い曲と遅い曲のメリハリのあるガーディナーらしい演奏。
14: 2′22″(2′16″) 基本は第7曲と同じだが、トランペットがより朗々と吹いているのと、終曲であるのを意識してか、合唱にメリハリを感じる。

鈴木雅明・BCJ
1: 4′15″ (但し始まりは0′05″から)速めだが、ガーディナーよりは厚みのある明晰な合唱の響きがことのほか美しい。
3: 5′35″ 弾むリズムの中で音を続ける以外はガーディナー に似る。粘らずサラサラとした印象があるが、じっくりと歌わせる美しい演奏
7: 2′37″(2′25″) 幾分速めのテンポで淡々と進む。金管の響きが独特で、合奏・合唱との調和が美しい。ただ、タタータのリズムのターの部分を伸ばして強調するヴァイオリンがやや違和感がある。
8: 2′31″ 出だしのオーボエの沈んだ響きが印象的。主題に入ってからも一貫して弱音で奏でられる響きが独特。
12: 3′57″ 雄弁なチェロやオーボエに乗って、アルトが淡々と清潔に歌う。
全体に比較的速めだが、速すぎることなく、良い意味で中庸な安心して聴ける演奏だ。
14: 2′52″(2′27″)基本は第7曲と同じ。最後は終曲らしくたっぷりとした余韻を残して終わる。
(以下、(その2)につづく)
ラベル:CD 音楽 バッハ
posted by あきちゃん at 20:02| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2019年07月18日

「誰よりも自分を信じて、疑え」

どうも最近、自分で自分が信用できなくなってきた。なんということはない、自分でやったつもりでいたことが、その通りには実行されていないという事態に、よく遭遇するようになったのだ。

あれはここにしまったはずだ、と思って探すのだが、いくら探しても見付からない。変だなぁと思いつつ、見落としもあるかもと淡い期待を抱きつつ、もう一度探す。

それでも出て来ず、半ば諦めて、ふとしまったはずのところの隣を探すと、あるはずのないところにそれがある。探している間に、たまたま移動した? いやそんなことがあるはずはない。初めからそこに片付けたのに違いないのだ。

そこにしまったのに、それとは違うところに片付けたつもりになっている。どの時点からなのかはよくわからない。でも、どこかに思い込みの始まりはあるはずなのである。それがまたよくわからない。

案外片付けた当初からなのではないかと、そんな気がしてならないのだが、まだ確証は得られない。まだ尻尾をつかませてくれてはいない。向こうもさるものではあるのだ。

ことは片付けだけではない。メモしたはずのところに書いてない、済ませたはずのものが中途半端なままになっている、一事が万事この調子なのだから、ほんとうに始末が悪い。

自分ほど信用できない者はいない、それはもう確信に近いものになってきたのである。それならそれでそういうものと思って付き合うしかない。そう覚悟を決めることにした。


「誰よりも自分を信じて、疑え」は、映画「新聞記者」の主人公吉岡エリカが亡くなった父から与えられた遺訓だ。ほんとうにそうか? 違うんじゃあないか? 第六感を大切にするのと同時に。一歩引いて問い直してみる、その繰り返しが基本だ。自分は信じられないと信じて、常に自らを疑ってかかるべきだと、ぼくの場合は読み替えなければいけないようだ。

それはそうと、「新聞記者」や「主戦場」のような映画を見ると、もう少し人を信じてみたい、そんな思いが湧いてくる。主戦場の徹底したリアリズムと、新聞記者のフィクションとから、どちらも今の日本の異常な姿がくっきりと浮かび上がる。

見ていて恥ずかしくなるような幼稚で短絡的な思考の人たちに、この世を牛耳られてなるものか。まだ手遅れではない! そんな確信と希望を抱かせる力作だ。

選挙前のこの時期に公開にこぎつけた良心がまだ残っていた、などという風には思いたくないが、そう思わされてしまうほど、今の状況は深刻だ。ごく当たり前のことに勇気が必要だなんておかしい。


呆れた記事を見た。韓国の文大統領が新聞記事を批判したのは、言論統制だというサンケイのネット記事だ。確かに、大統領の発言としては問題はあるかも知れない。しかし、それを取り上げるサンケイのまさに厚顔無恥! よその国のことをとやかくいう前に、自国の首相について言うべきことがあるだろうに! 御用新聞の本性丸出しの記事に、こちらがむしろ恥ずかしくなってしまったくらいだ。理性のかけらもないのだろうか? 臆面もないとはまさにこのこと。この手合いには、自分のことを棚にあげるという特性があるらしい。あの過度の自信はいったいどこから生まれるのか? まぁ、サンケイをジャーナリストの端くれだなどと思っていた方がどうかしていたのかも知れない。

自分に対してはともかくとして、他人に対しては、信じるべきものと疑うべきもの鑑識眼に、もっと自信をもっていいのかも知れない。

posted by あきちゃん at 20:54| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2019年07月15日

憂鬱な朝を過ごす

ここのところ、朝目覚めたときに憂鬱感に苛まれることが多い。起き上がってしまえば、もうそれまでなのだが、目覚めた直後の寝起きがよくないのだ。眠ったあとなのだから、スッキリ目覚めてほしいのに、気分よく床に就いたにもかかわらず、寝る前にはなかった気分の落ち込みを感じてしまうのである。
動き出してしまえば特別倦怠感を覚えることはないので、とにかく無理をしてでも跳ね起きるようにしている。家を出てバスや電車に乗り、出勤体制に入れば、もうそんな気分の悪さがぶり返すこともない。仕事を終えてくたびれて帰宅しても、一日の仕事を終えた満足感こそあれ、倦怠感に襲われることはない。しかし、眠ると翌朝またこれが頭をもたげているのだ。
そんな訣だから、平日はほぼ問題なく過ごせるのだが、困るのは休みの日である。少し寝坊を決め込んで。普段より長めの睡眠時間を確保できても、症状は同じ。しかも、そのあと仕事に出る訣ではないから、なかなか恢復のきっかけがつかめないのである。家に仕事を持ち帰ることもよくあるので、それに着手して気が紛れればよさそうなものだが、手を付ける気が起きない。こんなときはただ無為に時間をやり過ごすしかない。

今朝もそうだった。今朝の場合は、早くに出かける家人を駅に送り届けるために、平日よりも30分ほど早く起きた。帰宅したあと、二度寝する気もせず、かといって何かをする気も起きず、ワンコたちにごはんをあげたあと、自分も軽く朝食を済ませただけで、結局そのままぐたぐたと午前中を過ごすことになってしまった。
といってまたじっとしている気にもなれないのである。午後は少し雨が降り出す予報も出ていたから、AGを庭に出し、少し遊んでやったりしていたが、惨状を極めている芝生を放っておく気にもなれなくなって、とても全部に手が回らないことは目に見えていたが、雑草引きに精を出すことになった。
しかし、それも長く続ける気にはならずすぐ飽きて、少し引いてはまた家に入って休み、また暫くして庭に出て雑草を引くということを何度か繰り返すことになった。家に入っても特段何かをできる訣でもなく、PCやケータイに向かったり、ケータイで音楽を聴いたりといったことしかできず、結局生産的なことは何一つできないまま昼過ぎを迎えてしまった。

身体が思うように動くようになったのは、朝とほとんど変わらない昼食を終えて暫く経ってからで、もう彼此14時は回っていただろう。案の定雨が降り出したのでAGを家に入れ、暫く持ち帰っていた仕事を続けた。ただ、やはり気力が続かない。少しやってはコーヒ-を淹れ、またちょっと進めては今度はおやつにするといった塩梅で、まああまり効率はよくなかったけれども、夕方まで机に向かって時を過ごすことになった。
夕方までには雨も上がり、まだ路面は少し濡れていたが、朝からずっと室内で退屈していたPPとACを、いつもよりは短かったけれど散歩に連れて行き、ぼく自身も僅かの気晴らしをすることができた。最後にAGもと思って家を出たところでまた霧雨が降り出して、最初はすぐに止むだろうと高を括っていたが一向に止む気配がなく、そのうち服にしみこみ始めてきたので、近所を一回りしただけで戻らざるを得ないことになってしまった。

夕食後は何とか普通に過ごして、今これを書いているという一日だった訣だが、明日はまた海の日とやらのありがた迷惑の休日で、また今日と同じような一日が繰り返されるかと思うと、心なしか今からまた憂鬱になってくるのだ。こんなときは、お風呂に入って暖まり、早めに寝むに限るのだが、明日はゴミ収集日なので、それほどの寝坊ができない。
家人がいてくれれば、なんやかやと用事は言いつかるけれども、まだ気は紛れるのかも知れない。まもなく家人が駅に着く時間。そろそろ迎えに出かけるとするか……。
この朝の憂鬱感、理由がよくわからないままずっと過ごしてきたのだけれど、ちょっとググってみて、ああなるほどと思った。典型的な鬱の症状なのだという。ずぼらを決め込み、鬱とは無縁と思い込んできたのだけれど、気を付けないといけない。早めに芽を摘んでおかないとと思うけれど……
ラベル:日常
posted by あきちゃん at 01:30| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2019年07月01日

忘れることを忘れてみたい

今日から7月、これで2019年は半分が過ぎ、2019年度も4分の1が終わった。ここ数年の経験では、まともにじっくり仕事に取り組めるのは、夏前までである。夏にかかると、なぜか気忙しさが増し、秋口から年末に向けて、ほとんど自転車操業状態となって目も当てられなくなってゆく。年末年始の小休止を挟んで年明けからは、年度末の締めに向かって邁進せねばならなくなって、そのまま新年度に突入する、という経過を辿る。
前年度の残務処理は、以前なら新年度に入ってからのせいぜい連休明けまでで済んでいたものが、ここのところ長期化する傾向が強く、今年は結局6月末まで2018年度の始末に忙殺されることになってしまった。結果的に2019年度の新たな取り組みにかかれずじまいのまま、夏前まで来てしまうことになった。残された期間はもうあと2、3週間ほど。まさに惨状やる方なきありさまである。それに今年は、年度末に定年という事態も控えている。

結局目の前の課題を一つずつ片付けていくしかないのだが、最近気になるのは記憶力の減退だ。それも過去の記憶ではない。来客の予定を失念していて、当人が現れて慌てるなどという事態が日常茶飯事化していて、それはそれでたいへんお恥ずかしいことだが、最近困っているのは、直前の記憶がすっかり飛んでいるのをよく経験することである。何かしようと思って行動を起こす。ところが、その次の瞬間に、それが何のために起こした行動だったかわからなくなってしまっている。
例えば、メールを立ち上げる。誰かにメールを書こうとしたか、着信を確認しようとしたに違いないのだが、いざ次の作業に移ろうとすると、相手も要件も忘れている。あるいは、机から離れようと椅子から立ち上がる。調べるべき書類を思い出したのだったか、誰かに何かを頼みに行こうとしたのだったか。次の行動の脳への指令が全く白紙の状態になっていることに気付いて唖然とするのである。
もちろんこれは以前からよく経験することではあった。しかし、これまでと違うのは、それがいつまで経っても白紙のままで、記憶が甦らない場合が頻発するようになったことだ。以前なら、無理に思い出そうとしなくても、白紙だった記憶が、ほんの少し放っておけば、自然にあぶり出しのように浮かび上がってくるのが常だった。それがいつまで経っても音沙汰なく、沈黙したままなのである。

こういうときの秘訣は無理に思い出そうとしないことだ。必要ならばまた思い出すであろうし、最悪催促されてからでも遅くはない。行動を起こすには時期尚早であったのだ、そう思って自己を納得させるというのは、あまりにご都合主義だといわれればそれまでだが、そう思うしかないのが現実なのは、経験された方ならわかっていただけるかと思う。
こういう事態を少しでも回避するためには、何らかの形でメモを作っておくしかない。気付いたときに、カレンダーなりTo doリストなりに書き込んでおくのである。しかし、これにも伏兵はいる。どこにメモしたかを忘れる、メモを見ること忘れる、いやそもそもメモすることを忘れるという…… メモをしようとして鉛筆を手に持って、さて何を書こうとしたのか思い出せなくて茫然とする、なんていう、笑うに笑えないことも起きるのである。どうせ忙しいのなら、物事を忘れている暇もない、なんていうことになってくれればどんなにうれしいか、ふとそんな思いすら湧いてくる今日この頃だ。
ラベル:日常
posted by あきちゃん at 03:00| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする