2012年07月01日

『嵐吹く時も』を読む

天売・焼尻の二島を望む漁村苫幌(苫前を念頭に置いた架空の地名)と旭川を舞台に、明治・大正の社会を背景に展開する二つの家族の物語である。海岸の雑貨商カネナカの中津順平・ふじ乃夫婦と一人娘の志津代、同じ漁村の山手で旅館山形屋を営む長吉・キワ夫婦とその三人の息子、恭一、文治、哲三。ともにごく普通の家族として物語はスタートするが、実はともにそこに至るまでに大きな物語があった。
身売り寸前のところを買い取られる形で14歳も年上の順平に嫁いで佐渡から苫幌にわたったふじ乃、自由民権運動の活動家として投獄された監獄を脱走し、止宿した山形屋で西館長吉としてその娘キワとともに新しい人生を歩んだ佐藤文之助。そうした過去が、本書のスタートと同時に回転し始めた時の中に、大きくまた小さくさまざまな影を落としていく。
後に志津代が三人の娘たちを見ながらふともらした言葉、「三人の歳がいつまでの今の歳ならどんなにいいか」。時の回転はしかし、けっして止まらない。一人の人間の何気ない言動が歯車となって、思わぬところで別のさまざまな歯車を回転させてしまう。よかれと思ってしたことでも、それがどんな結果をもたらすかは誰も予測できない。ましてや罪を犯すことなくして生きて生きない人間のことである。三浦綾子さん自身があとがきで述べているように、ひとりの人間の生き方が、どんなに周囲の人々を幸福にしたり、不幸にしたりするかわからないのである。

三浦さんの小説には、二つの家族の関わりが描かれることが多いけれど、これはあくまで例示に過ぎないのではないかと思う。実際の社会では、歯車はいくつもの家族の間で複雑に絡み合って回転するのである。二つの家族の描写は、その一面をわかりやすく切り取って見せてくれている。しかし、単純化されている分だけなおさら、そこには家族の深淵が明確な形で提示されているともいえる。『嵐吹く時も』のキーポイントは、ふじ乃が順平の里帰りの間に苫幌に行商に来た増野録郎と、一夜の過ちを犯したことにあるが、より大事なのは、ちょうどそれと時を同じくして彼女が妊娠し、新太郎を産んだことにある。新太郎が不義の子である可能性を背負いながら、ふじ乃が生きていかねばならなくなったことこそが重要なのであって、新太郎の父親が誰であるかが問われているのではないのである。
哲三と同級生であった志津代はその兄文治に引かれるが、長兄恭一も志津代には好意を抱いていたし、文治を思う気持ちは志津代の同級生の医者の娘八重も同じだった。上巻は新太郎を増野の子だと思い込んだ順平の苦悩と、互いに引かれながらもなかなか結ばれるに至らない志津代と文治の心の葛藤を軸に展開する。
志津代が女性の身体について母ふじ乃から聞かされ、今夜のことを自分は一生忘れないだろうと志津代に思わせた風呂の場面は印象的だ。ふじ乃が家を飛び出し、その奔放な生き方を募らせることになったのが、まさにその晩だっただけになおさらだ。志津代はその後、母とともに結果的に父順平を死に追いやってしまう。一方文治は、志津代の気持ちを察してカネナカでの奉公を勧めた順平の申し出を断って東京に出て、体調を崩して苫幌に戻ったあと、八重の父の木村医師から八重との結婚を条件に出された進学援助の申し出を断る。最後は、志津代と文治が結ばれるが、これがまたまた思わぬ方向に物語を展開させ、下巻で舞台は旭川へと移っていくのである。

旭川に移ってからの物語の展開は、前半とはかなり違う印象を受けるが、途中で10年の時の経過が入っていることや、一気に時間を進めた上で、回想で物語を追う手法で書かれている部分があることも影響しているのだろう。物語全体の構成としては、ややバランスを欠く印象も感じられないではないけれども、そんなことお構いなしに読者をぐんぐん引っ張っていってくれる筆致は見事だ。
恭一の妻となり、旭川で八一旅館を営むことになった八重の生来の人なつこい性格が、恭一の心に疑心暗鬼を生み、その解消に一役買った文治が今度は妻志津代から八重との仲を疑われる羽目に陥る。善意の行動が全く思いもよらないところに思いもよらない結果をもたらす。しかし、三浦さんはそれをけっして否定的には描かない。増野録郎との再婚のために新太郎を連れて東京に出奔したふじ乃が増野の先妻の子どもたちから予想外に暖かく受け容れられること、新太郎が長吉の恩人でもある北上宏明の影響もあって、自分自身の存在を客観的に見つめることのできる人間に成長して描かれることなど、随所に人間を信頼する目が光っている。上巻における、長吉を助け、私生児となったいたその三人息子たちの認知を申し出る北上宏明の描き方もそうだ。
終わりの場面での新太郎の描き方は、不自然だと思う向きもあると思う。しかし、新太郎の言葉として語られていることをこそ三浦さんは描きたかったのだと思う。
「そして、ふっと思ったのは、お姉ちゃんも俺も、親父とおふくろが同じだってね。そう思ったら、喚きたいほどうれしくなってさ……うれしかったなあ。どうしてこんなにうれしいんだろう。妙なもんだねえ、お姉ちゃん。」
「人間って、弱いもんなんだよなあ。あやまちを犯さずには、生きていけないもんなんだよなあ。」
本書末尾の解説では、新太郎は脇役だとして片付けられてしまってるが、彼はけっして脇役ではない。描写自体はそれほど多くはないけれど、新太郎の存在そのものが、『嵐吹く時も』の根幹であることは間違いない。新太郎の存在がなければそもそも『嵐吹く時も』の物語は始まらなかったのであり、それを根底から太い幹として支え続けているのである。

それだけに、真野から去ろうとする志津代たちの回想の中で語られる結末は衝撃的かつ感動的だった。一読したときは、なにもここでという切ない思いを強くもった。しかし、よくよく考えてみると、新太郎の存在が『嵐吹く時も』も通奏低音であった。そうであるならば、それを終わらせるには、彼を神のもとに届けることが是非とも必要だったのだろうと思い直すに至った。志津代と文治夫婦、増野録郎とふじ乃夫婦、恭一と八重夫婦、そして夫婦になったであろう哲三と鈴、彼らが本書が終わったあともさらに新しい人生を歩んだこと、いわば回心した新太郎の他界はそのことを示唆しているのだろう。
こうした結末について、不自然だとか、強引だとか言う見方がもしかしたらあるかも知れない。筋の展開や全体構成についても、いろいろと突っ込みどころがある可能性もある。しかし、本書から受ける感銘はそうした点を補って余りある。
忘れてならないのは、舞台となった幌前のモデル幌内が、三浦さんの父祖の地であったことである。登場人物たちはいわば三浦さんの分身ばかりなのである。感情移入の避けられない登場人物で成り立っているところに感銘の一つの要因があるのだろう。そしてもう一つ、あとがきの三浦さんの言葉は象徴的である。
「いつも小説を書く度に思うことだが、人間は何と罪を犯さずには生きていけない存在であろう。誰もが罪を犯す存在であってみれば、誰もが許してもらわねば生きてゆけぬ存在でもあると言える。許すということは、聖書にあるとおりきわめて大きな人間の義務なのではないか。人の命をいとおしむということは、人を赦し、人を受け入れるという、実に重いことなのだと、私は思う。」こうあとがきに書かずにはいられなかった三浦さんの気持ちが、キリスト教信仰という枠組みを超えて、ひしひしとこちらに伝わってくる。そこのこそ本書の与える感動の大きな源泉があるといってよいだろう。
三浦綾子『嵐吹く時も』上・下(新潮文庫).jpg『嵐吹く時も』上・下(新潮文庫)
タグ:読書
posted by あきちゃん at 02:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
あらすじと丁寧な感想をありがとうございました.おかげで感慨を持って読み終えることができました.
Posted by 佐々 政孝 at 2015年04月14日 17:19
佐々政孝さま
三浦さんの本に心を動かされた方がいらっしゃるのが何よりもうれしいです。私の拙い説明がお役に立てたのならなおさらです。ありがとうございました!
Posted by あきちゃん at 2015年04月15日 01:25
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