2013年07月03日

村井康彦『出雲と大和』を読む

岩波新書といえば、かつては超一流の著者が学問の神髄を堪能させてくれる、ずっしりとした手応えのある名著揃いで、そう気軽に読めるものではなかった。井上光貞『日本国家の起源』、桑原万寿太郎『動物の体内時計』、吉田洋一『零の発見』、斎藤茂吉『万葉秀歌』、宮地伝三郎『アユの話』、アインシュタイン・インフェルト・石原純『物理学はいかに創られたか』、E.H.カー『歴史とは何か』など、挙げればきりがないが、著者が精魂傾けた文章をじっくり読み学ぶことができた。一般向けとはいえ、読者にいたずらにおもねることなくあくまで格調高く、少し背伸びをして学問の最先端に触れられたことから受ける喜びは、たとえようもなかった。規模の大きな新書としては、ほかに中央公論社の中公新書がある程度で、こちらにも名著は多かったが(例えば、森浩一『古墳の発掘』などは、他のどの新書よりも好きだった)、なんといっても新書としての格が違い過ぎた。
思えば岩波新書がそうした格へのこだわりを失い始めたのは、黄版が出始めた頃からではなかったろうか。もちろん黄版以降にも名著は多い。しかし、いかにも岩波新書、と思わせるような作品はけっして多くはない。時代の趨勢でもあろうし、新書を書ける人が増えたということもあるだろう。それにこれはあまりいわれないことかも知れないけれど、編集者の力量もあるのではないか。一流の著者を相手にある意味丁々発止とやっていける編集者の存在、これが大きかったのではないだろうか。
そんなわけで、最近の新書には、岩波新書も含めて読み応えのあるものはあまり見かけなくなった。充実した読後感の残るもの、まして再読、三読せずにはいられないようなものには滅多にお目に掛からなくなって久しい。ぼく自身の意識の中で2、3時間で読み切れる程度の軽い雑学の読み物、といった存在に、新書は成り下がってしまっているのである。

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最近再読を終えた村井康彦さんの『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて―』(岩波新書新赤版1405)は、そんな永年の鬱積した思いを吹き飛ばしてくれる作品だった。村井さんといえば、やはり岩波新書の『茶の文化史』がある。堀口捨巳、中村昌生といった建築史の分野からの茶室・茶の湯研究に惹かれながら、それに飽き足らなかったぼくの眼を開いてくれた、歴史の分野から中世茶の湯の文化を究めたすばらしい作品として記憶に残っている。村井さんが、同じ岩波書店から『古代国家解体過程の研究』という研究書を出しておられ、実は日本古代史の研究者として出発された方だということを知ったのは、だいぶんあとのことである。そのことを最初に知った時、まさか同じ人だとは信じられない思いだったことをよく覚えている。
その村井康彦さんが、本書で日本古代史の難題中の難題に挑まれた。いや、それをまとめて片付けられたといっても過言ではない。古代史の研究者であるならば、別段邪馬台国論に口を出したところで何も不思議はないはずだけれども、村井さんのご専門は平安時代以降が主であるようだから、この新書のタイトルは少々意外でもあった。だから今年1月に刊行されて本屋で見かけた時も、へぇーとは思ったけれども、それほど食指は動かなかったのである。それが先日来出雲とご縁ができて、そういえばそんな新書が刊行されていたっけとふと思い出し、遅まきながら入手したのである。

いやなんでこの本をもっと早くに読まなかったのかと、悔やまれてならないが、それ以上にこれほどの書物にめぐりあえた幸せを今、ひしひしとかみしめているところである。内容の面白さと格調の高さ、読者を引きつけて止まない確かな構成力と文章のうまさ、全く間然とするところがない。カメラを担いで足で稼いだ数々の知見、その説得力の高さは見事というほかない。旅行記としての面白さにも溢れ、本書を道案内として出雲路を訪ねることをもう夢みている。
邪馬台国の所在地について、これまで長い間、畿内説と北九州説がしのぎを削ってきた。しかし、最近では誰の眼から見ても畿内説の優勢は揺るがない。纏向遺跡発見の衝撃はそれほどに大きかったといってよいだろう。それを期待して本書を読んでいくと、読者の期待はひらりとかわされてしまう。邪馬台国は畿内にあった、しかし纏向ではなく、唐古い・鍵遺跡の周辺、田原本町にあるのだというのである(田原本に大字のない地域があることはぼくも知っていた、田原本町***番地という住所をみたとき、大字名を書き落とした誤植だと思い込んでしまったのだった)。しかも、それは日本海沿岸から丹後・丹波を通って山背から大和にやってきた出雲勢力の連合体が作り上げた国だというのである。そしてそれは大和朝廷とは直接はつながらず、大和朝廷は西方から大和に侵攻した勢力が打ち立てた国であって、その投影が神武東征であるというのである。日本書紀や古事記は大和朝廷の創始を邪馬台国以前の時代にまで古く遡らせるようと不自然な時代配分を行っているが(欠史八代などがそのための作為であることは認めてよいのだろう)、絶対年代は別として、事実としては認めてよいと考えているようである。
いつも疑問に思っていたのは、日本書紀や古事記の編者たちが、ワカタケル大王や、邪馬台国の時代についての記憶が曖昧なのはどうしてなのだろう、ということだった。しかし、村井さんにいわせれば、彼らはそれを百も承知だったのである。承知の上で、現在の王権と直接関係のない邪馬台国の歴史をいわば抹消しようと図ったのであった。
奈良時代、出雲国造が天皇の代替わりなどに行う神賀詞(かむよごと)奏状という儀式がある。普通、服属儀礼と説明されるけれども、村井さんによれば、これは意宇郡の郡司を兼ねることにより政治的な発言力を増した出雲国造が、時の国司と語らって実現させた、いわば出雲のアイデンティティ表明のための儀式ということになる。だからこそ、都が出雲系の神々の鎮座する大和盆地を離れた時、それは意味を失って廃絶に向かうのだという。また、733年に完成した『出雲国風土記』は、出雲国造が心血を注いでまとめあげた出雲ナショナリズム昂揚の書であるという。諸国の風土記の多くが散逸した中で、出雲国風土記が完全な形で残ったことにはそんな背景があったわけである。いずれもなるほどと思う。
それにも増して目からウロコの思いを味わったのは、出雲大社創建についての新しい仮説の提示であった。村井さんはそれを、飛鳥の巨大な石造物や、たぶれ心の溝の掘削に代表される大土木工事で名高い斉明天皇の行った事業とみる。それは全くの空想などではない。659年の『日本書紀』の記事に、「出雲国造に命じて、神宮を修厳せしむ」とあるのである。村井さんの論を読んでいると、なぜこの明確な記事を出雲大社の創建と解してこなかったのかが不思議にさえ思える。
いわゆる国譲りの際、ヤマト王権が大国主命の願いである大きな社殿を建造するという約束をしながらこれを果たさなかったため、垂仁天皇の皇子本牟智和気命がものを言えなくなってしまったという伝説がある。斉明は、天智の子で本来だったら皇位を約束される星の下にあるはずの孫、建皇子が、「ものいわぬ皇子」であることを不憫に思う一方、そこに本牟智和気命の伝説を重ねたのであった。
村井さんはいう。「「もの言わぬ皇子」の物語は、虚が実を生み、神話が歴史を編み出した典型的な事例であったといえよう。」けだし名言である。

私には村井さんが本書で展開した仮説の当否を論じることは到底できない。しかし、東征勢力の実態など、なお論じ足りない部分をあげつらってみても始まるまい。壮大、かつ魅力的、そして蓋然性の高い仮説であることは間違いないだろう。『宮都の風景』というタイトルで書き出したという本書が、このような形で公刊されることになったことを、心から喜びたい。岩波新書の新たな名著の誕生である。
ラベル:読書
posted by あきちゃん at 01:55| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
失礼します。が、逆に村井氏に失礼なのが気になったもので・・・。
ウィキペディア(?)を100%信用してはいけません。
『律令国家解体過程の研究』→阿部猛
『古代国家解体過程の研究』→村井康彦

恐れ入ります。m(_ _)m
『古代国家解体過程の研究』もそうですが、『出雲と大和』面白かったですね!
Posted by mkt99 at 2013年08月09日 00:37
たびたびすみません。
確か博士論文の後、岩波出版時に書名を変えられたのではなかったかと・・・。
とするとWikiは正しいですね!

いずれにしても余計な話ですので、両コメントとも削除願います。m(_ _)m
Posted by mkt99 at 2013年08月09日 00:59
mkt99さん、ご指摘ありがとうございます。村井康彦さんのご著書はご指摘の通り『古代国家解体過程の研究』です。思い込みとは恐ろしいもので、ご指摘を受ければすぐに、あっ! と思うものの、それまでは気付かずじまい、全くお恥ずかしいことです。村井さんにお詫び申し上げるとともに、mkt99さんには重ねて感謝申し上げます。
なお、コメント2本削除するようにとのご指示ですが、折角のコメントを削除するのは勿体ないですし、私自身への警鐘でもありますので、経緯を残す意味で、差し支えなければこのままにさせていただけないでしょうか?
本文は修正を加えさせていただきます。
どうもありがとうございました。
Posted by あきちゃん at 2013年08月09日 23:50
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