2016年08月14日

BWV187の大合唱を聴く─バッハの円環─

バッハのカンタータは始まり方にもいろいろあって、そのヴァリエーションも楽しみの一つだが、大合唱で始まるものはちょっと居住まいを正して聴かなくてはという気になる。中でも短調で滔々と始まる曲想のものは、ミサの冒頭のキリエを聴くような厳粛な気持ちにさせられる。
ここのところ心に染みついて離れないBWV187もその一例だろう。1726年に作曲された三位一体節後第七日曜日のためのカンタータで、今年は7月10日だったから、もうかれこれひと月前のことになる。

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出だしはヴァイオリンとヴィオラだけだが、これを受けて2小節目でオーボエの重奏がもう忙しく動き始める。けっして荘重というのではないけれど、何が起きるのだろうと不安をかき立てられる開始だ。
合唱が始まってこれが一段落し、再度合唱が導かれると、Wenn du ihnen gibest, so sammlen sie, wenn du deine Hand auftustの歌詞を乗せたメロディーが、バスから順に次第に高い方へ、テノール、アルト、ソプラノへとそれぞれ3小節遅れで導かれて行く。いずれもWenn du ihnen gibest, so sammlen sieまで歌われたところで、次のパートが始まるので、一つ前のパートのwenn du deine Hand auftustと次のパートのWenn du ihnen gibest, so sammlen sieが重なって進むことになる。ソプラノまで受け継がれると、今度はこのメロディーがいわばさらに展開されていくことになり、少しずつのヴァリエーションを含みつつどこかのパートでいつもこの主題が鳴っているという状況で曲はどんどん高揚していく。
この主題が現れるまで、実は結構長いのである。それまでが本当に待ち遠しいのだが、この道のりがさほどの長さには感じられない。気持ちを充分高めさせた上でちょうど全体の真ん中辺りで満を持してこの主題をさらりと繰り出してくるのである。主題が登場したあとは、この大河のようなフーガの流れにどっぷりとはまってしまう。もう本当にめくるめくという感じだが、流れに翻弄されるというのではなくて、聴き手を優しく包み込んで運んでくれるという印象だ。
楽譜を見ながら聴いていると、展開過程では、バス、テノール、ソプラノ、アルト、テノール、バス、ソプラノ(ここのソプラノは少し主題の入り方が違う)、アルト、テノール、バスと受け継がれていくのがわかる。テノールにはヴィオラが、アルトには第2ヴァイオリンが寄り添うことが多い。展開過程では主題が特に強調されることはなくて、音だけ聴いていると、主題を核としつつも全体が渾然一体となって昇華していく、それこそ薫香となって立ち上って行くという表現が相応しいようにさえ思える。まもなく、その余香を慈しむかのように最初のメロディーが戻って来たあと、曲は意外とあっさりと閉じられる。しかしそれだからかえって、その深い余韻はいつまでも消えずに残るのである。

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このBWV187の第1曲の演奏時間は、カンタータ巡礼のガーディナーで6'41"ほどで、これもしっとりとした演奏だが、例によってリリングはこれを7'29"かけてたっぷりと慈しむように演奏している。逆に、鈴木雅明・BCJはこれを5'44"で駈け抜ける。未聴だが、コープマンは5'33"、リヒターは5'17"とさらに快速である。これまた未聴だが、レオンハルトの7'10"というのは意外だ。レオンハルト晩年の突き抜けたような演奏に通じるようなものなのだろうか。これは是非聴いてみたい演奏だ。
ただ、このくらいの曲になると、どのようなテンポで演奏しようが、どれもみな素晴らしく聞こえるように思う。個人的にはリリングの演奏を好むけれど、テンポの影響をあまり受けないようにも思うのである。バッハ自身はこれをどのようなテンポで演奏したのだろうか。もっとも、リリングを聴いてしまうと、ガーディナーの場合テンポは比較的ゆったりしているのに、リズムの強調がちょっと耳に付く感じがする。鈴木雅明・BCJはリズムは自然だがいかにも快速に過ぎる気がしないでもない。
こうした点と関連して興味深かったのが、BWV187の多くの曲を転用して作られたミサ曲BWV235である。
 第1曲キリエ BWV102の第1曲
 第2曲グローリア BWV172の第1曲
 第3曲グラティアス BWV187の第4曲
 第4曲ドミネ・フィリ BWV187の第3曲
 第5曲クイ・トリス BWV187の第5曲
 第6曲クム・サンクト BWV187の第1曲
という具合に、BWV187の7曲のうち4曲までもが転用され、BWV235の6曲のうち三分の二を占めるに至っているのである。
ただ、順序は大きく入れ替わっていて、件の第1曲は、BWV235では締めの第6曲の母体となっている。そこで、早速小ミサ曲集のCDを求めて聴いてみた。この時も随分悩んだ。誰のどの演奏を選ぶべきかである。リリングにも2種類あるのだ。散々悩んだ挙句に選んだのが、リリングの新しい方の録音だった。パロディの原曲のBWV187第1曲ではリリングの全集に伴う演奏に最も親近性を感じていたからかも知れない。
聴いてみて驚いた。同じリリングの演奏なのだが、BWV235の終曲の方は、快速も快速の演奏だった。もちろんパロディなのでそのままに比較はできない。パロディはいわば再創造であるので比較は無意味なのかも知れない。リリングの解釈という限定付きではあるが、バッハ自身がかなり違う意味づけを与えて作曲し直していることを示しているのだろう。
リリングのBWV187を含むアルバムと小ミサ曲第2集.jpg
〔リリングのBWV187を含むアルバムと小ミサ曲第2集〕

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ついでながら、リリングのミサ曲集でBWV235の次に収録されているBWV236の第2曲グローリアを聴いてこれまたびっくりした。耳に馴染んだ曲なのだが、颯爽とした演奏で曲としてツボにはまっているのである。BWV236は初めて聴く曲だったはずなのにいったいこれはどうしたことなのか。
調べてみて納得した。これもカンタータのパロディだったのである。原曲はBWV79の第1曲、宗教改革記念日のための輝かしきカンタータ冒頭の曲だった。これも昨年聴いていた曲のはずである。その時には特別気に入った形跡はないのだけれど、いつの間にか耳に焼き付いていたのだろう。なんとも不思議なことである。
ロ短調ミサを考えれば何の不思議もないことではあるが、パロディ恐るべしである。かつて自分が作曲した曲を存分に生かして最高のミサを作る、それはまさに作曲家冥利に尽きることだったのであろう。とすれば、先程書いたように、やはりむしろパロディの方にこそ、バッハ自身の行き着いた境地が示されているはずである。ぼくにはまだまだ困難な道だけが、そんな目(耳)でカンタータとミサ曲を聴き比べられたらいいなと少しだけ思った。
バッハの円環の中をグルグルと回っている、いや回らされているだけなのだが、至福の経験の一つである。

【追記 2016/08/14】
You TubeにBWV187の第1曲だけの演奏があがっているのに気付いた(https://www.youtube.com/watch?v=e7OXhuQ5bi4)。シュトゥッツガルト・カンタータ・アンサンブルという団体をヴォルフガング・ハイネマンという人が振ったものだ。5'55"というからBCJほどではないにしても快速の部類に属するが、これがまたすごく説得のある生き生きとした演奏だ。こういう演奏を聴く(見る)と、リリングを聴いて感じた印象も再度考え直さなくてはいけないのかなという気にもなってしまう。快速テンポでも(「でも」なのか、「こそ」なのかは、なおまだ決めかねるが)生きる側面をこの曲がもっているのは確かなのだろう。曲のテンポは演奏の充実度とは関係ないのでは、とさえ思えてくる……。
ラベル:CD 音楽 バッハ
posted by あきちゃん at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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