2019年01月16日

原田康子『挽歌』のあらすじ11─恋の終わりの恋─

原田康子『挽歌』のあらすじ10─桂木夫人の旅立ちと挽歌の意味─よりつづく)
第15章 4月後半から5月の連休最後の日まで
窪地の桂木家での夫人の通夜と葬儀に行けるはずもない怜子は、夫人の死から10日の間虚脱状態に置かれ、泣こうとさえしなかった。一切の表情を失って生前のどの瞬間よりも美しかった桂木夫人の貌を、怜子は生涯忘れることができないだろう。その白いデスマスクが思い浮かぶたびに、夫人は自分がいなくても恋に疲れて死を選んだに違いないと思い込もうとし、自分自身を納得させようとした。
少なくとも古瀬や桂木さんや怜子を憎んで死を選んだのではないことは確信できた。しかし、どう言い逃れてみても、死の直接の動機が自分の裏切りにあることを、怜子は知らねばならなかった。夫人のデスマスクが心に食い込んだ以上、もう桂木さんの接吻と愛撫を受けることはできない。こうして怜子は自分の恋の終わりを知るようになったのである。
恋が終わったと思い始めてから、怜子は自身の死を希い始めるようになった。桂木さんへの思いが消えた訣ではない。むしろ思いは募るばかりだった。それは、恋を失ったと思い始めてから一層桂木さんに心が傾いていく、と明確に語られていることから明らかだ。彼と会えない明日はどうなってもよいと考え、こんな終わりを拵えあげた自分に絶望を感じたのである。怜子の思考は至ってストレートだ。
しかし、怜子は自死を実行できなかった。その気持ちのあり方も明瞭に語られている。死の衝動に駆られるとき、心が空っぽになってどんな思いも湧かなくなったから死を怖れたのではない。次の瞬間にすぐ、あの湿原で見せた桂木さんの眼差し、夫人の死体を乗せて遠ざかる車を整然と見送っていたあの眼差しが甦ってくるからなのだった。
怜子は、今自分が死んだら、夫人が死んだばかりの桂木さんが、どんな衝撃を受けるかを考えて慄然としたのである。死への誘いが強ければ強いほど、その後の心の戦きが大きかった。桂木さんの愛を受けることはできない、しかし、かといってこれ以上彼を苦しめてよいはずはない。
こうした思考は、見方によっては桂木さんへの思いが強いからであって、桂木さんとの恋への執着の言い訣に過ぎないといえるかも知れない。しかし、それでは怜子に対しあまりに酷というものだろう。それは真に桂木さんのことを考えることができるようになった怜子の、偽りのない本心であったと思う。
それを端的に示すのが、怜子の次の述懐である。怜子は言う。わたしの生と死とどちらが彼にとって苦痛が少ないかと言えば、生の方であることは明らかだった。自分にとってではない。桂木さんにとって。それはこれまでの怜子にはなかった視点だ。怜子にとっては、生きる方がむしろ苦痛は多かったに違いない。しかし怜子は、桂木さんにとって苦痛が少ない、自分には辛いはずの生きる方の道を選んだのである。

          §           §           §

4月の末になって夫人の死後初めて桂木さんに逢う。逢うつもりではなくぼんやりと窪地まで行ってしまったのだった。桂木家は不気味なほど静まりかえっていた。建物の肌にも荒れた翳がにじみ、内側から錠が掛かっている。前庭の芝生に戻るとふいにネリが吠えた。全身で怜子を懐かしんでいるようだった。それは怜子の気持ちそのものでもあっただろう。
ネリを抱きしめる怜子の頬を他愛なく涙が伝った。他愛なく、である。意図せず無心に流れた涙は、純粋な怜子の感情の現われだった。そしてその天使の涙が、怜子の虚脱感をあまく洗い流してくれたのである。あまく洗い流すとは、それが怜子の糧になったことを示すと思われ、真に温かな怜子の心の誕生を意味しよう。
怜子の頭に、唐突にある考えが閃く。ネリにご飯をあげなければ。犬の餌の世話とか、家の掃除とか、そんなことを桂木さんにさせてはならない。もし怜子が家事をするとすれば、桂木さんの留守の間しかない、でもどうやって? ニンフのようにこっそり忍び込んで働けたらどんなにいいだろうと想像し、一旦は途方に暮れる怜子だったが、こういう時に実行力があるのも怜子だ。すぐにこのお伽話のようなことの実現に向けて行動を起こすのである。
それから1時間後、怜子は青草を付けたまま桂木さんの事務所の前に立っていた。用事以外の事は話し合ってはいけない、逢うのもこれが最後だ、そう固く誓って桂木さんの前に立つ怜子だった。
一瞬怜子を凝視する桂木さんに、怜子は眩暈を起こしそうになる。よく来たね、と微塵の崩れもなく迎え入れてくれる桂木さんの様子に、かえってその傷の深さを感じるのだった。ネリがお水飲みたがってたわ、とネリをだしに使って、怜子は桂木さんに合鍵を作ってもらうことを頼むのに成功するのである。
桂木さんの口許に優しげな微笑が走り、意思が通じたのを見るや、怜子は慌てて顔を背け、挨拶もせずに素早く事務所を飛び出した。
怜子の立場は明快だ。桂木さんとの恋が終わりであることを自覚している。一方の桂木さんはどうだろうか? 桂木さんの優しげな微笑は、これまでと全く変わりはない。いつでも怜子を受け入れる心の広さはいつもの桂木さんのものだ。2人の意思疎通は実にスムーズだ。怜子が慌てて顔を背けたのは、それ以上桂木さんの微笑を見ていたら、自分の決意が揺らぎかねないことを認めていたからだろう。怜子にとっても、恋の終わりは過去形ではなく、未然形なのである。ただ、自分の弱さを自覚していればこそ、終わりでなければならないという怜子の意思は強固だ。
それに対して桂木さんの方はどうだろうか。平静を装ってはいるが、夫人の死を乗り越えようとしている桂木さんの心中は想像するに余りある。桂木さんのことであるから、すぐに喜びを表したりはしない。でも、怜子への愛おしさが募らぬはずはないだろう。怜子の気持ちが純粋であるのは間違いないのだが、桂木さんにとっては、辛い結果がもたらされることになる。その点、怜子のお伽話のような計画は、実に罪作りなものでもあった。そのことを怜子自身も怖れてはいたけれど、再び桂木さんを翻弄することになるのである。
ただ、うまく書けないが、桂木さんがその誤解を乗り越えてくれことを怜子は信じていたのだと思う。怜子の計画が桂木さんのこれからにとって不可欠なものであることを信じて疑わなかったのである。

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翌日から怜子はハウスキーパーを務めるために、桂木家へ通うようになった。働いていると、自分がこの家の若い主婦になったような錯覚に陥る怜子だった。そんな瞬間に怜子を現実に連れ戻すのは、切れの長い薄い煙るような目で微笑みかける桂木夫人の微笑だった。それは怜子にとって怖ろしいことでもなんでもなく、辺りに染みこんだ桂木夫人の体臭を感じ、時には桂木夫人の懶げな笑い声を聞いたようにも思え、安心できる幸せな瞬間だったのだ。思わずママン、と呼ひかけてしまった怜子は、そんなあとで骨の鳴るような痛みを感じるのである。痛みはすなわち愛、夫人を愛おしく思う瞬間である。桂木さんを介在させなければ、デスマスクではない生身の桂木夫人が浮かび上がって来るのである。
もちろん、怜子に桂木さんへの思いが消えた訣ではない。芝生でネリと遊んだり、ぼんやりブランコを揺すったりして気を紛らわす怜子だった。でも、夕暮れに夕食と朝食の準備をして、灯りを点けて裏口から帰る時は辛かった。カギを置く手はいつも震え、桂木さんに逢いたくなる思いを懸命にこらえるのだった。
桂木さんに誤解を与えるのではないかという怖れは怜子自身も感じていた。2日目の朝、用意した食事のお皿は空で千円札が置いてあり、置き手紙があった。待っていてもらえないだろうか、と書かれた手紙を怜子は大急ぎで燃やしてしまった。そんな文字を見つめていたら何も手が付かなくなるに決まっているから。
3日目にも書き置きがあった。君の気持ちが落ち着くまでと思って連絡しなかった、君の方から来た以上放っておけない、今日こそ待っていなさい、言いたいことも聞くし、ぼくの話も聞いて欲しいから。
しかし、怜子の決意は揺るがなかった。誓いを破るわけにはいかない、毎日こんな紙片を見るならもう通うことはできない。4日目は食器だけ、5日目に月が変わっても同じ。5月初旬の休日も桂木さんは不在。そして通い出して9日目のゴールデンウィーク最後の、鯉のぼりの矢車があちこちで緩くまわるよく晴れた休日を迎える。
幾分心の弾みを覚えながら裏口の掛けがねを外した怜子は、3度目の桂木さんの手紙、それも3枚の便箋を使ったものを見付ける。怜子ははっとして食卓の前に立ちすくんだ。
もういいかげんぼくの言葉を聞いて欲しい、ショックを深めるようなことをしてはならない、2人で別の事を考えよう、今夜は是非待っていてほしい、ぼくは明日から札幌に行く、1週間ほどで帰って次は東京へ行く、向こうでの仕事や住宅のことをはっきり決める、ここを秋に引き上げる、ぼくは是非今夜君に逢っておきたい。
怜子は震えながらその手紙をポケットにしまう。明日から桂木さんは札幌に行くという。ハウスキーパーの務めはこれで終わった。桂木さんのためにすることが明日からなに何もなくなるということに、怜子はすっかりうちひしがれてしまうのだった。
逢わなかったのにお互いの気配を家の中に感じて過ごし、桂木さんとの間に心の繋がりをもてたこの9日間が甦る。苦しかったが、甘い歓びや愉しさもあった。一度死さえ希った自分が、この家に来られなくなるということだけで蒼白めている滑稽さに気付いた怜子は、机の引き出しから便箋を取り出して今夜待てない理由を手紙に書くのだった。暫く頬杖をついたり、床を蹴ったりしたあと書き出した手紙である。
こんな怖ろしい日を迎えたのは、わたしがママンを愛したからです、ママンを憎んだり嫉んだりしていればよかったのに、不義の恋がママンを一層美しくし、憎もうとしても嫉もうとしても私の心を捉えました、わたしはあなたとママンを一緒に愛したのです、恋から抜け出せなかったママンにとって、あなたとあなたの娘に尽くすことが唯一の生の支えだった、そして無邪気そうな若い私を愛おしむことが慰めだった、しかしわたしがあなたの愛人だと知ったとき、ママンは生の支えと慰めを同時に失った、つまりわたしがママンを愛したことが彼女を死に追いやった、お判りになったでしょう、いいえ、お判りになってください、これで馬鹿なニンフの仕事は終わりです。
美しくも悲しい恋文である。先程の桂木さんの手紙とともに、なんと切々と愛おしく心を打つ手紙であろう。小説の中の恋文として指折り数えるに足る名作である。
手紙をパンヤの下に挟んだあと、怜子はコルクの床に横座りし、ベットの縁に手をかけて泣き出すのだった。

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しかし、事態は急展開する。自分の手紙によって、かえって怜子が去って行こうとするのではないかと直感した桂木さんが、ふいに帰宅したのである。自動車の停まる音に、怜子は息を飲んで跳ね起きる。ネリが激しく吠えたてる。今彼に遭ってはならない。逢えばわたしの心は必ず崩れる、怜子はそう自覚してなんとか桂木さんから逃れようとする。手に汗握る場面だが、桂木さん、はやく! と思わずにはいられない。できることなら、2人を会わせてあげたい、そうすれば……
怜子は必死だった。裏庭に回り寝室の脇の躑躅の茂みに隠れ、さらに考えた挙句物置に隠れ、中から桂木さんの様子を窺う。桂木さんがネリに飛びつかれながら怜子の名を呼ぶ。その低い声を戸の隙間に聞いた瞬間、怜子の頬に涙が流れた。震える唇を噛みしめ、嗚咽をこらえて壁に頬を押しつける。怜子の心は戸を開けたくなる衝動と、それを必死に抑える苦しさのために引き裂かれるのである。
でも、怜子は必死に耐えた。決意を守り抜こうとする怜子の健気さが胸に沁みる。ネリが物置に向かって一声吠えれば、それで済んでいたかも知れない。2人の気持ちがそれぞれにわかるだけに、切なさが募る。
桂木さんが再び家の中に入った隙に、怜子は窪地の通りに逃げ出し、素足のままバスに飛び乗った。目抜き通りでバスを降りる。たくさんの旗が揺れアドバルーンが上がる歩道の端を、少し眼を細めポケットに片手を突っ込んだまま跣でこっそりと歩く。何処かで花火が続けざまになった。戦いに勝ってその歓びに酔っている街。一方でそれに滅ぼされた街もあるはずだ。その滅んだ街の昔を取り戻したいような切なさ。よろめきそうになりながらひたひたと歩く怜子だった。桂木さんとの恋を自ら滅ぼした自分をよくやったと褒める気持ちとともに、手の届かないところに押しやったそれを愛おしみつつなつかしむ怜子の心の内を鮮やかに示す比喩だ。
約1時間後、怜子はダフネのドアを押した。ダフネの小父さん見て、頬杖をつきながら怜子は初めてほんの少し笑う。小父さんもまるで笑わなければいけないというようにぎこちなく笑った。そして跣の怜子にサンダルを差し出し、さらにホットウイスキーを用意してくれた。街の賑わいが海の音のように店の中に滲み入る。小父さんの暖かさが怜子の心に滲み入る。怜子は黙って小父さんの仕事に目を注ぐ。1時間の葛藤を経て、桂木さんとの恋を乗り越えた怜子の姿だった。清々しくさえある情景だ。
ラベル:読書
posted by あきちゃん at 22:01| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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