2019年02月02日

イチゴのパンとモーツァルトのコンチェルト

元々甘いものには目がなくて、パンを選ぶのにも、おかず系のパンよりは菓子パンに手が伸びる方の口だ。弁当がないときの昼ごはんはパンですませてしまうことが多いが、おかず系のパンを選ぶのは、10回に1回あるかないかの頻度だろう。甘いパンを2つというのが一番普通の選択で、そのうち一つはたいてい何かのクリームが入っているパンかデニッシュ系であることが多い。
パン屋さんのパンを買いに行く時間があればよいのだけれど、通勤時間に開いているところはあまりなくて、かといって昼にわざわざ買いに出るのも億劫で、たいていは近鉄の駅構内のファミマで買っていくことになってしまう。コンビニのパンというとお決まりのものしかないのが普通な中で、ファミマのパンだけは種類も豊富。しかもいろいろと工夫を凝らした新手のパンが結構な頻度で投入され、ついつい何か目新しいものはないかと楽しみにしてしまう。

そんなものの一つに、年末に発売されて以来まさにはまってしまっているパンがある。「サックリとしたイチゴジャムとチーズクリームのパン」という商品である。
ファミマのサックリとしたいちごジャムとチーズクリームのパン.jpg
〔ファミマのサックリとしたいちごジャムとチーズクリームのパン〕


ゼリーのような食感のイチゴジャムと、酸味のあるレアチーズ風の白いチーズクリームを挟んだパンに、ザクッとしたイチゴクッキーを細かくしたようなトッピングを施し、さらにホワイトチョコをライン状にあしらっている。パンも普通のパンよりはむしろケーキに近いが辛うじてパンにとどまっているという感じが絶妙。しかも、トッピングの乗せ方も少し凝っていて、側面中程まですっぽりかぶるような感じでしっかりと乗せてあって、パンとの一体感が強いので、かじったときの食感がすごく新鮮だ。程よい甘さの食感も爽やかで、しつこさを全く感じない。味だけではなく、程よい大きさの丸い形のかわいらしさも印象的で、その中にこれだけの要素をギュッと詰め込んでいるのが高評価につながっているのだと思う。
年末に初めて食して以来、見つけるたびに買っている始末。数日食べないと妙に寂しい感じを抱くほどになってしまった。元々、気に入ると同じものを食べ続ける習性があるのだけれども、ここまで続くことは滅多にない。実は一緒に並んでいるイチゴ系のパンがあと2種類あって、一つは「エクレアみたいなパン(いちご&ホイップ)」、もう一つは「いちごのクロワッサン」というもので、これらも結構いけるのだけれど(特に前者。イチゴジャムとチーズクリームのパンがなければこちらにはまっていたに違いない)、イチゴジャムとチーズクリームのパンはやはり別格というしかない。税込み145円というのは値段は菓子パンの中ではやや高めだが、満足感からすれば充分なコスパというべきだろう。
先日など3、4日店頭で見かけない日が続いて(乗車駅・降車駅のファミマのどちらにもなかった)、もう販売終了かと臍を噛む思いを味わったのだが、その後また見かけるようになってホッと安堵したのも束の間、今度は週末を迎えてしまった。一週間の過ぎるのが何とはやいことか。ファミマの店舗は近鉄駅構内以外には少ないので、週明けが待ち遠しい(!?)。

§           §           §

モーツァルトのピアノ・コンチェルトといえば、20番以降が話題になることが多く、それはそこに名曲中の名曲というべき曲が集中しているからいたしかたないことではあるのだけれど、だからといって、10番台のコンチェルトの価値が損なわれるものではない。11番(K.413)であっても四百番台の番号をもつ円熟期の曲であることを思い起こせば、それは納得のいくことであろう。
シンフォニーで後期6曲の入口にあたる35番ハフナー・シンフォニーはK.385、36番リンツ・シンフォニーはK.425である。ピアノ・コンチェルトの11番、12番、13番がこの間にあたり、次の38番プラハ・シンフォニーが少し飛んでK.504であるから、リンツとプラハの間には、実に14番から25番までの12曲のピアノ・コンチェルトが所狭しと位置しているのである。
これらは1784年から1786年までの3年間に集中して作曲されている。単に番号が10番台だからというだけで、軽く見られているとしたら、それはこれらのピアノ・コンチェルトにとっては不当な扱いというしかない。いわゆる後期6大シンフォニーの前半3曲に対応する時期のものなのである。後半3曲に対応する時期のピアノ・コンチェルトはニ長調K.537だけであるから(変ロ長調K.595は晩年スタイルに入ったさらにあとの時期のもの)、14番から25番まで12曲こそが、豊穣の時期のピアノ・コンチェルトというべきなのだろう。
しかし、19番までと20番以降とでは、録音の数がはっきりと違い、コンサートで聴く機会にしてもそうである。ぼく自身は19番までも比較的よく聴いてきた方だとは思うが、それでもあまり積極的には聴いてこなかった曲がいくつかある。へ長調K.459もその一つである。ハスキルの名盤もあるのにどうしてだろう。いや、ハスキルの名盤をもってしてもあまり心に響かなかったというべきなのかも知れない。それは、この曲との最初の出会いに関わっているように思う。
K.459を最初に聴いたのは、晩年に異常な人気を誇った(もちろん偉大な指揮者ではあったけれども、アンチ・カラヤンと高齢のアーティストへの憧憬が絡んだ商業ベースの宣伝は、今にして思えばやはり異常だったと思う)カール・ベームが当時人気絶頂だったマウリツィオ・ポリーニと組んで入れたレコードであった。当時ぼくの回りにはポリーニを評価しない人が多く、なんでまたベームがよりによってポリーニと、という思いが強かった。まあ、今にして思えば、これはベームを聴くべき演奏だったのだと思うが、根が天邪鬼なものだから、いっぺんに食指がK.459から離れてしまったのである。
ハスキルが響かなかったのも、そんなこの曲との最初の出会いが不幸な形であったことと深く影響しているのかも知れない。カップリングされていたイ長調K.488がそうならなかったのは、この曲は既にカザドシュとセルの演奏でイメージができあがってしまっていたからである。なんと頭の固いことよ、と思うのだけれど、何度か書いても来たことだが、最初の出会い、つまり第一印象が心に刻むものの大きさを改めて思い知るのである。

前置きが長くなったが、こんな事を書くのは、最近ある演奏を聴いたことで、この曲が頭から離れなくなってしまったからである。ようやくにしてK.459に開眼したというべき状況なのである。イチゴジャムとチーズクリームのパンに凝り始めたのとほぼ並行しての出来事であり、同様に現在進行形である
その演奏とは、ルドルフ・ゼルキンがジョージ・セルのバックで入れたステレオ初期の演奏である(Sony Classical *cl* 88985468092 DISK2。元々のカップリングはK.466)。ゼルキンのK.459には晩年のアバドとの演奏もあって、それは聴いていたのに、あまり印象に残った記憶がなかった。それなのにどうしてこの演奏が心に止まることになったのか。
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〔ゼルキンとセルの協演になるK.459を含むSONYのゼルキン・モーツァルトピアノ。コンチェルト集〕

正直言って、うまくは説明できないが、印象に残ったところを一つだけ挙げるとすれば、第一楽章のオーケストラの導入が終わって最初にピアノが入ってくる第一主題の出だしに、あれ?と思ったことだろう。タータッタターター、タ、タ、タというたいへん印象的なリズムが刻まれるのだが、ここは最初の一音からリズミカルに目立つ感じで入ってくるのが普通だ。ところが、満を持してピアノの音を待っていると、一瞬あっと肩透かしを食らうのである。いったい何が起きたのだろうと耳を疑ううちに、リズムが自然と湧き上がってきて、演奏が進んでいく。なんだか魔法を掛けられたような得もいわれぬ感じを味わうのである。すぐあとで次にこのリズムが現れるときには普通に弾かれているから、これはまさに一度きり、一期一会なのである。
これにはオーケストラを担当するのセルの清潔なリズムも大きく寄与しているように思う。曲想とリズムとテンポがピタリとマッチしているのだろう。ゼルキンもすごいし、バックを支えているセルもまたすごい。感動的な箇所をもう一つだけ挙げるならば、第一楽章の展開部が終わって主題が戻ってくるところで、たゆたう調性に躊躇いがちにテンポを落とし、行く手が定まるとみるや溢れる歓びを隠しきれないように駈け出してピアノの再現につなげていくところの絶妙なコントロールなど、聴いていて泣けてくる思いすらする。この曲が20番台のコンチェルトに勝るとも劣らない、まさにモーツァルトというべき名曲であることに、いまさらのように気付かせてくれた演奏であった。まさに巨匠の「協演」と呼ぶに相応しい超弩級の名演であろう。
そうなると、晩年のゼルキンの演奏はどうだったかと聴き直してみたくなるのが人情で、早速久し振りにアバドとの演奏に耳を傾けてみた。正直言って驚いた。ゼルキン晩年のアバドとの協奏曲集は、ゆったりめのテンポの演奏が多く、ゼルキンの技術的な問題とも関係しているといわれることあるようだし、ぼく自身若い頃に聴いた時は、聴いていて疲れる思いを味わったこともある。その後何度か聴き返すうちに、それが全くの誤りであって、自分の耳の不明を恥じることになったが、K.459については何故か別段の印象はなかったのである。

さて、何に驚いたかといえば、晩年のアバドとの演奏の方が圧倒的に快速なのである。いや、セルとの演奏に慣れてから聴いたものだからかも知れないが、これはもうどう考えても速すぎるのではないかというくらいのテンポなのだ。このテンポがゼルキンのものなのか、アバドのものなのかはよくわからない。しかし、普通に考えたら、アバドがゼルキンに合わせているとしか考えられないだろう。
これはよい意味で晩年のゼルキンのモーツァルトのコンチェルトに対する評価を根本的に改めるに益する大きな発見だった。ゼルキン晩年のモーツァルトは改めて本気でもう一度聴き直さなければならない。また、翻って考えるならば、一般的には清潔なリズムで颯爽としたテンポの印象が強いセルが、ゼルキンとゆったりとしたテンポで演奏していたのは、不思議といえば不思議なことである。しかも参考までにタイムを記すと、
ゼルキン・セル  Ⅰ13′26″、Ⅱ8′01″、Ⅲ7′41″
ゼルキン・アバド Ⅰ12′40、Ⅱ8′13″、Ⅲ7′34″
のようで、第三楽章もアバド盤の方が僅かに速いが、第二楽章はセル盤の方が僅かに速く、結局大幅に異なるのは第一楽章だけなのである。ますますもって不思議なことになっているのだ。
音楽とは、演奏とは、本当に不思議なものである。考えてみれば、K.459のCDは他にもいろいろもっている。クララ・ハスキル、マリア=ジョアン・ピリス、ゲザ・アンダ、リリー・クラウス、マレイ・ペライア、考えてみれば結構あった。しかし、くだんのマウリツィオ・ポリーニはどうだったかは、CDがあったかどうかさえ記憶が怪しい。ともあれこれらのCDを総動員して、K.459を聴き直してみようと思う。
イチゴジャムとチーズクリームのパンといい、K.459といい、この性格は一生直りそうにない。


【追記】ゼルキン・アバドのK.459について、以前にも簡単に触れたことがあることに気付いた。2012年の年末の記事(http://akcertravel.seesaa.net/article/304945055.html)に、やはり気にはなっていたようで、晩年のゆったりとしたスタイルの演奏ばかりではないことの例証として、意外と颯爽としているというニュアンスで紹介している。
それから、バレンボイムの名高い弾き振りの全種があるのを失念していた。これは感心して聴いた記憶が微かにだが残っている。いずれ折をみて、また聴き比べをしてみられたらなぁと思う。(2019/2/2夜記す)
posted by あきちゃん at 15:27| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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