2019年02月04日

原田康子『挽歌』のあらすじ12─再会とその意味、新たな旅立ちへ1─

原田康子『挽歌』のあらすじ11─恋の終わりの恋─よりつづく)
第16章 夏そして8月最後の土曜日
桂木夫人の死から三月、夏も終わろうとしていた。怜子は桂木さんと偶然にも会わなかった。桂木さんが自分に逢うまいとしているのかも知れないと感じていた。怜子の心の裡には悲しみが石のように沈んでいそうだったが、もうそれをおもてに出そうとはしなかった。
生活は一年前に戻っていた。変わったことといえば、怜子の父が谷岡夫人との結婚を決めたらしいことと、怜子自身がアイリスにときたま手伝いに行くようになったことくらい。怜子はお客の布地を選んだりデザインを取ることが面白くなっていた。
谷岡夫人は初めのうち喜んでいないようだったが、次第に安心し始め、東京の服飾研究所にも世話してくれた。新婚早々は怜子を遠ざけ、将来の助手を得るという一挙両得(怜子の観察は流石に鋭い)の夫人の申し出はありがたかった。豪華な夜会服を作れるようになって、女の素肌にタフタを巻き付けて布地にはさみを入れる快感を早く知りたいと怜子は思った。しかしデザイナアになりたいという野心はなかった。
みみずく座の仕事にも戻り、ギニョオルの練習を始め、戸村美術工藝社の工房で公演の準備を進めていた。人形の衣裳を作るのが怜子の仕事で、稚い日のメルヘンを現実の衣裳に移すこと愉しんでいた。戸村さんや須山さんは怜子の器用さに愕き、戸村さんには、怜ちゃんにも女らしい才能が備わっていたんだとさえいわれる。指先に器用さが潜んでいたことは、怜子自身にとっても発見だった。
7月下旬からみみずく座の公演旅行が始まっていた。人形と移動舞台とキャンプ用のテントをもって、深い渓間やヤチの彼方の奥地の部落を回る。子どもたちの食い入るような眼。例年にはない晴れた暑い日が続いた。この春学芸大学に入った須山さんがひどく元気にみんなをリードした。
何処かで休むと、久田幹夫はコンテでスケッチを始める。白鳥を題材にした3点の作品が新人賞を受けた。繊細な線がさらに繊細ななりに鋭さを増し、色調は非情な美しさを加え始めていた。久田は黙しがちで、だまって森や山や空を見る。そして悲しみを潜めた激しい眼差しを一瞬怜子に注ぐ。怜子が明るく笑い返すと彼も笑い、何事もなかった頃のように2人で話し始める。
久田はさりげなく古瀬達巳が東京の大学に帰ったことを怜子に告げた。怜子もさりげなく古瀬達巳の名を聞き、渓のふちに咲いているカンゾウの花をむしって捨てた。怜子は公演旅行を無心に愉しんだ。全てが愛おしかった。靴擦れさえ少しもつらくなかった。そこには桂木夫人の死を乗り越えた怜子の姿があった。その点むしろ久田幹夫の方が受けた傷がまだ癒えていなかったのだが、それも時間の問題だろう。久田の傷を癒せるのは、怜子をおいて他には誰もいないし、怜子ならばそれをやりおおせるだろう。

          §           §           §

8月下旬、最後の公演に阿寒国立公園に出かけた。出発の日、怜子の心はかすかに疼いた。悲しみを殺し続けてきた怜子も、桂木さんとK温泉に行った日を思い出さないではいられなかったからである。
8月の最後の土曜日の午後、S部落で公演をした。次の目的地のカルデラ湖の近くの部落に行くには、Kまで汽車を利用しなければならない。
高原の道を元気に歩いて1時間ほど経った頃、トラックが近づいて来た。住友建設の社名とマークが書かれたトラックに愕く。戸村さんがK迄乗せてもらう交渉をするのを聞きながら、怜子は怖ろしくぼんやりと車体の文字を見つめていた。
このトラックの行き先を考え、そこに桂木さんがいるかも知れないと思うと、怜子は軽い眩暈のようなものを覚えた。窪地の通りを素足で逃げ出して以来、桂木さんに繋がりのあるものに接したのはこれが初めてであることに気付く。
トラックに乗せてもらい、Kが近づくにつれ心の動揺が大きくなる。そんな自分が怜子は情けなかった。わたしの恋は終わったはずである。でもそう考えても顔が火照り動悸が速くなるのをどうすることもできない怜子だった。
30分後、土耳古玉のような真っ青な空に緩く烟を噴き上げるアトサヌプリの麓にさしかかった。怜子の裡に、その噴煙に怯えたクリスマス・イーヴのさまざまな時刻が鮮明に甦ってきた。
K温泉市街でトラックを降りる。トラックが針葉樹の森影に消えてから、怜子はふいに仲間と別行動を取る気になる。
お願いがあるんだけどな、ここに残りのたいわ、なんだか具合悪い。しかたねえなと戸村さんが久田幹夫の顔をうかがうと、いいさと久田が低い声で言う。怜子は久田を真っ直ぐ見つめた。久田も住友建設の名を見なかったはずはないし、彼が住友建設と桂木さんの関係を知らないはずはない。久田にも一抹の危惧があった。彼は怜子の気持ちが痛いほどわかるのだ。

          §           §           §

怜子はゆっくり温泉町の通りを歩き出し、市街の外れにあるホテルに向かった。別行動を取るといっても、どうするつもりなのか自分でもわからなかった。だからゆっくりとなのである。ただ、自分が休むとしたら、8ヶ月前に古城のように見えたそのホテルしかないように思った。
フロントには根本さんがいた。お元気?と聞かれ、どきっとして、咄嗟にお部屋いっぱい?と聞く。根本さんは全く怪しむことなく、普通に接してくれる。桂木さんいらしているのよ。怜子は息をつめ、次には身体の中の力が抜けていくような安心感を感じた。桂木さんがここから僅か3キロ先の湖岸にいる、夜は帰って来る、逢おうと思えばいくらでも逢える! ようやくこのときになって、桂木さんに逢えることを期待しながらこのホテルまで来た自分に怜子は気付いたのだった。
うろたえている自分を隠すようにふざけ気味に、ロビイのエトランジェ、アメリカ人?と聞いて、その場を取り繕う。根本さんはカナダの方です、と落ち着いて答える。終わったはずの恋に突き動かされるのを怜子はどうすることもできないのだった。ずっと悲しみを押し殺して耐えてきたのである。そのくらいのご褒美があってもいいではないか。でも、怜子はそれに耐えられるだろうか?
怜子は3階の小さな和室に案内された。窓を全部開け、ブラウスのスナップを外して畳の上に寝転ぶ。驟雨のごとく鳴く蝉、絶え間ないクラクション、遠くからのかすかな音楽。怜子は桂木さんに逢おうとしている自分自身の心を見つめていた。客観的に自分を見つめるだけの余裕が怜子にはあったのである。それは桂木さんとの恋が彼女に与えたものだった。
わたしが彼に遭うことは、わたし自身の誓いを破ることになる。でも、わたしの誓いとはなんなのか。桂木さんの愛を受けてはならないということではないのか。4ヶ月の間彼を避け通したのは、逢えば崩れるに違いないわたし自身を恐れたからだと怜子は思う。でも今は違う。月日がわたしに平静をもたらし、もう彼と逢ってもさほど動揺しないだろう。でも、それはもしかしたら、桂木さんに逢いたがっている自分のずるいごまかしではないかとも感じるのだった。それでもなお彼と逢いたいという思いを捨てることができなかったのである。なんと健気な、と思わずにはいられない。

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冷たいピーチジュースを飲み、2時近くなってから工事場に行くと断ってホテルを出た。表に出ると、怜子の逡巡は不思議なほど軽くなった。晩夏の午後の陽がその腕を灼いた。湖をわたってくる風が爽やかにしみるのだった。
しかし、三分の二ほど歩いたところで、靴擦れが痛くてビーチサンダルを脱いでしまう。みみずく座の仲間たちと一緒の時は平気だったのに。気もそぞろな怜子の様子をよく表す描写だ。この章のはじめの靴擦れの描写が伏線になっている訣である。また、裸足は桂木家からの逃亡から続くモティーフでもある。作者の細かな心配りを感じる。
さて、サンダルを脱いだ怜子は、片手にサンダルを提げて工事場に着く。ちょっと立ち止まって蝉の声の落ちる敷地に入ると、今朝乗ってきたトラックには古い材が積み上げられ、見慣れたオリーブ色のジープが椴松の木陰に駐車してあった。桂木さんは1階と2階の中途の踊り場にいた、グレイのズボンに薄茶色のワイシャツの袖をまくり上げ、踊り場で男と話していた。怜子の動悸はいくぶん速くなる。しかしためらわずに建物に近づき、階段の下から踊り場に手を振った。そして、上を見上げたまま手を振り続けた。
桂木さんは一瞬硝子に片手をかけゆっくり降りて来る。ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくり大股の緩い足取りで近づいて来た。怜子のからだはさすがに固くなる。桂木さんは一瞬やや鋭い眼差しで怜子をみつめた。また跣だねとサンダルに目を止めてちょっと笑う。スマートな建物ね、なかも素敵なんでしょ?、さあ若い人たちの利用を目的として建てたんでね。無造作な説明聴きながら、まじまじと彼をみつめる怜子であった。桂木さんは一見4ヶ月前と少しも変わっていない。しかし、怜子はそこに鋭利というよりもまだ硬質の精悍さを見た。それは彼が仕事だけを目標に生き始めたことを物語っているようだった。
怜子の胸にようやく痛みが湧いてきた。そして痛みを覚えながら硬い鋭さを滲ませている彼に、ほとんど賛嘆の眼差しで見惚れていたのだった。そのことに気付いて怜子はひどくうろたえ、素足の土を払いサンダルを突っかけた。今日来たの? 怜子は、ギニュオルを知ってる? といって、ここまで来たいきさつを知らせた。桂木さんは怜子をジープのそばまで連れて行った。

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『挽歌』のあらすじ紹介も、残りあと僅かになってきた。一気に最後まで書いてしまってもよいのだけれど、思いのほかの長さになったのと、まだ終わってしまいたくはないという思いが交錯して、先へ進めなくなってしまった。中途半端になってしまったが、今回はこれで終わらせていただくことにしたい。(つづく)
ラベル:読書
posted by あきちゃん at 01:29| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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