2019年02月13日

原田康子『挽歌』のあらすじ13─再開とその意味、新たな旅立ちへ2─

原田康子『挽歌』のあらすじ12─再開とその意味、新たな旅立ちへ1─よりつづく)
第16章 夏そして8月最後の土曜日(つづき)
桂木さんは本館と別館の真ん中あたりの地点の林道にジープを入れた。2人は湖の少し手前で車を降りる。蝉の鳴く森の中に明るい木洩れ日が縞のように落ち、樹液が強く匂う。槲の大木の根元にならんで腰を下ろした。
桂木さんはタバコをくわえ、怜子にも差し出す。そして、眼を細めて湖の方を見つめるのだった。純白のモーターボートが飛沫を上げて一隻走る。この森のひそやかさを少し怖れ、少し笑いながら怜子は言った。わたしね、そのうちメトロポリスに行くかも知れない。そうだってね、という彼のこたえに怜子はすっかり愕く。パパが教えたのね? お父さん心配そうだった。平気よ、と怜子は笑い、父がわたしの東京行きを少しも喜んでいないことをはっきり悟るのだった。可哀想な父は、わたしと桂木さんの結婚にかすかな期待をかけていたかも知れない。君には無理じゃないのか、桂木さんは怜子の変形した左の肱に目を落とす。怜子は、平気、と強い声で言い、パパ11月にお嫁さんをもらうのよ。わたしもうどこにいたっておんなしことだわ。ぼくも東京に行く。ひょっとすると外国に行くかも知れない。桂木さんは、怜子の矢継ぎ早の質問に中央アジアの小国をあげた。何時行くの? 怜子はこの思いがけない話に衝撃を受けて、稚げな声でおずおずと訊ねた。ぼくが行くかどうかはまだはっきりしない、と桂木さんは穏やかに答える。自分に関係ないことを告げるように淡々とした口調で。怜子は彼が確実に外国に行ってしまうような気がした。建築家として有利に仕事ができる首都よりも、羊の群れている亜熱帯の国で一人で仕事がしたいのかも知れない。静かに暮らしたいと札幌のデパートの屋上で言った彼の言葉を思い出した。彼は今その願いを失い、単身外国に行くことを願っている。怜子はあやうく涙をこぼしそうになった。しかしそのままきつく樹間をみつめるのだった。
赤い野葡萄の蔓がかすかに風になる森の奧を小さな獣が毛並みを光らせながら走っていく。縞栗鼠だった。帰って来るんでしょ?、リスが見えなくなってから低い声で訊いた。いいわね、ハギア・ソフィアも見られるわ。私も行きたい。もし行けたらわたしは涙を流しながら祭壇の前に額づくだろう、怜子はそう思い、ついてこうかな、とおどけながら言う。桂木さんはそれには応えずに、お父さんに聞いていたしね。二、三度アイリスで見かけたんだが。そう言い澱むと、初めて苦痛を湛えた眼で怜子を見据えた。怜子はたじろいで彼の傍からからだを離した。怜子は彼の言葉と痛みを滲ませた眼差しに、自分への愛を見た。それを見た瞬間、月日がもたらしたと信じた平静さが他愛なくくずれかかるのを感じるのだった。そして、今夜同じホテルを取ったことを告げた。それを知らせずに帰るなど、くだらない感傷か思わせぶりなふるまいでしかないだろうし。自分が言わなくても根本さんに教えられるだろう。じゃ一緒に食事しようか、ぼくの部屋で。怜子は咄嗟に、桂木さんは外国に行きわたしもこの土地を離れるのだから、今夜同じ食卓を囲んでなぜ悪いと考えた。桂木さんに惹かれる怜子自身へのいい訣である。
しかしこの時突然、桂木夫人のデス・マスクが鮮やかに甦った。怜子は蒼くなり、5月の日から確かに堕落している自分を憎んだ。
精悍さが戻った桂木さんの横顔に蒼白くなりながらなおはげしくひかれた。少し遅くなるが待っていなさい。いくぶん強いるような彼の口調に思わず子どものように頷く怜子だった。

          §           §           §

2人の微妙な会話がなんとも切ない。それぞれの気持ちが痛いくらいに浮き彫りになる。2人が4ヶ月をどう過ごしたかが見えるようだ。別れを決意した怜子と、怜子に一途な思いを抱き続ける桂木さん。しかし、桂木さんは、いつでも怜子を受け入れる用意はあるのだが、けっして無理を通そうとはしないのである。書かれてはいないが、桂木さんにとっても夫人の死は乗り越えられないものとなっていたのだろう。2人が再出発することがあり得たのかどうか。最初に読んだときは、そんな風に読んでしまったのだが、繰り返し読むうちに、原田さんはそんなつもりで、この後日譚ともいうべき章を書いたのではないのではないかと思うようになってきた。よく縒りを戻すというけれど、怜子と桂木さんには戻すべき縒りなど初めから存在しないのである。それほどに2人の気持ちはしっかりと結び合っている。それなのに、夫人がいなくなった今となっては、2人はもう結ばれ得ないのだ。
ではなぜ、こんな酷な体験をさせるのだろうか。そんな疑問が次には湧くのだったが、確かに辛いかもしれないけれど、それはこれからそれぞれの道を歩んで行こうとしている2人への餞とは考えられないだろうか。新たな出発にあたっての餞別、祝福である。
ただ、原田さんはあまりはっきりとは書いていないのでよくわからないのだが、桂木さんの気持ちはどうだったのだろうか。東京ならまだしも、中央アジアにまで怜子が付いて来てくれることへの期待はあったのだろうか。無理にでも怜子をさらっていくだけの気持ちがあったようには思えないのである。

          §           §           §

桂木さんにジープ送られて怜子はホテルに戻った。車の中で怜子は温和しくし、桂木さんと過ごす夕食を挟んだホテルでの時間を考え続けた。怜子は今すぐにでも桂木さんの胸の中に顔を埋めたい衝動を感じた。その衝動を彼と一室に向かい合って耐えきれる自信はなかった、辛うじてそれを抑え続けても、ふいに彼が自分を抱き寄せでもしたら、その腕を払いのけるのは不可能だろう。怜子はそんなことを思い続けたが、桂木夫人のデス・マスクは怜子の心に貼り付いたままだった。しかし、それでも怜子は桂木さんとの夜の食事の約束を取り消すことはできなかった。
そんな自分を見て、怜子は自分の明日を漠然と見た気がした。自分が桂木さんに魅かれ桂木さんを慕い続ける限り、夫人の白い顔はわたしの眼から離れないに違いない。わたしと桂木さんが一緒にいても離れた土地にいても、それは同じことかも知れない。むしろ桂木さんの傍にいればいるだけわたしの痛みは濃いのかも知れないのだ。
それはそうなのである。痛みは桂木さんへの愛に他ならないのであるから。でも、ここのところの「むしろ」だけはよくわからない。桂木さんと離れていても桂木夫人の白い顔がつきまとう、それはよくわかる。桂木さんのそばにいれば無論のこと、離れていたら忘れそうなものなのに、離れていてもつきまとう、という訣である。
ただ、痛みすなわち愛は、当然のことながら桂木さんのそばにいれば、つまり桂木さんとの距離が減れば減るほど濃くなるはずである。言い換えれば、桂木さんとの距離にそれは反比例するのである。「桂木さんの傍にいればいるだけわたしの痛みは濃い」のは至極当然のことであって、「むしろ」ではないであろう。この一文は文脈からいって、桂木さんと離れていても夫人の影が消えない理由として挿入されているはずである。それならば、桂木さんからの距離が遠くなっても、痛みすなわち愛が減らない、減るはずなのに減らない、という内容であるべきだろう。
桂木夫人の白い顔を思い出す度合は、桂木さんへの愛の濃さと比例するのであるから、桂木さんのとの距離が遠くなれば、痛みすなわち愛が減り、夫人のことも忘れるはずである。それなのにそうならずに、桂木さんとの距離が離れても痛みすなわち愛が減らず、従って夫人の白い顔に付きまとわれてしまう、という筋であるべきだろう。
くだくだと書いたけれど、要するに、もしも「むしろ」を生かすなら、桂木さんのそばから離れれば離れるだけ痛みが強くなる、とあるべきなのではないか。
「むしろ桂木さんの傍にいればいるだけわたしの痛みは濃いのかも知れないのだ。」ではなく、「むしろ桂木さんの傍から離れれば離れるだけわたしの痛みは濃いのかも知れないのだ。」としたいところだがどうだろうか。原田さんに楯突くつもりは毛頭ないけれど、何度読み返してもすっといかないので、敢えて少し突っ込んだところを書いてみた。

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ジープがホテルの前に着いた時、怜子はすっかり疲れ心に悲しみがあふれていた。ホテルの車寄せをぼんやり眺めてから、4、50m離れた白樺の林のなかにいるみみずく座の仲間を見付けた。あの連中よ、車から降りて怜子は桂木さんに笑いながら教えた。わたしを待ってんのよ、一緒に帰らないことを断らなくちゃね。桂木さんは口許に微笑を浮かべて怜子の仲間たちを見る、久田君もいるの?、いるわ。じゃあ、桂木さんは怜子に優しげな視線を注ぎ、ギアを入れて遠ざかって行った。
怜子はホテルの前に突っ立って、車を見送った。夜にホテルで逢おうとしていながら、怜子は自分を愛おしげに見た桂木さんがもう帰ってこないことをなお願わずにはいられなかった、そう願うと、怜子の眼に、あるイマージュが閃いた、桂木さんの運転するジープが遠のいていく道は、針葉樹の森に囲まれた道ではなく、羊の群れと、駱駝の隊列と、石油の送油管と、回教寺院の石の丸屋根と、ひねこびた蘇鉄のしげみと、ベールを纏った遊牧民の女たちが散らばる砂漠と岩山の続く道だ。太陽が空しいほど明るく輝き、聖者たちの血を吸った河が流れている土地の乾いた道だ。
怜子は唇を噛み、その想像が一刻も早く現実になることを願ったのである。怜子は少し髪をゆすり、林に向かって歩き出した。彼らのくちずさむ歌が夕靄のなかにしみいるように流れていた。怜子は靴ずれの足を引きずりながら彼らに近づいて行った。すると、須山さんが飛び上がって手を振った。

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これが『挽歌』の幕切れである。みみずく座の彼らと行動を仲間たち近付いてゆく怜子に対する須山さんの反応で終わるのである。怜子が再び彼らと行動を共にする場面は敢えて描かれていない。中途半端な終わり方だという見方もあるかも知れない。ぼくも初めは文庫本の残された厚さを見やりながら、最後をどうまとめるのだろうかとやや不安になりながら読み進めたものだった、
しかし、この幕切れは、意外感はあるかもしれないけれど、やはり鮮やかというしかない。桂木さんが帰って来るのならば、自分がここを去ればいいんだ。そんな単純なことにどうして今まで気が付かなかったんだろうか。怜子の心にもう迷いはなかったのである。
2人が縒りを戻す可能性がなかったとはいえないだろう。読者は、ぼくむ含めてそこに手に汗握る訣である。しかし、結果的にかも知れないけれど、この恋の終わりの恋は、2人に対する餞としての役割を果たすことになったのである。
最後の場面で、原田さんは怜子の行動を明確には描いていない。怜子は一緒に帰ったのか、それとも再び桂木さんと時間を共にしたのか? ふとそんな問いを立ててみたくさえなる。原田さんが結論を読者に委ねたという見方である。でも、何度も読み返すうち、怜子が須山さんや久田幹雄たちと一緒に帰ったのは確かだと思えるようになった。それは現場から戻って怜子がいないことを知るであろう桂木さんのことを考えると、あまりにも切ない。しかし、桂木さんはどこかそうなることを知っていたような気がしてならない。知っていて怜子の意思を尊重する桂木さんの優しさ! もはや自己犠牲といってもよいかも知れないが、でも桂木さんとはそういう人なのだ。
身勝手な怜子、優し過ぎる桂木さん、そういう評価もあり得るだろうし、むしろそれが一般的かも知れない。しかし。ぼくは原田さんの描いたあるがままの2人をそのまま受け入れたい。粗筋の紹介の形で2人の心の軌跡をトレースしてきてそれをようやく終えようとしている今、それほどに2人がぼくは愛おしく、ぼくの心の中でしっかりと生き始めている。2人の旅立ちを祝福したい思いに駆られている。原田さんも恐らくはそういう意識でこの幕切れを描いたのではないだろうか。

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この稿の最初は、昨年5月26日付けとなっている(原田康子『挽歌』のあらすじ1)。それからもう8ヵ月近くになろうとしているし、まさか13回にもなるとは思っていなかった。感慨もまた一入である。
調べてみると、これのもとになった原稿が一応に形になったのは、ファイルの日付からいうと、2015年のちょうど今頃のことだった。2回目までそうしていたように、初めは各章の節の切れ目にA、B、C……と記号を付け、プロットを辿るだけのごく簡単なものだったが、章を追うたびに特に第9章以降はことに細かくなってゆき、最後は書き初めに比べると数倍の密度になるようになってしまった。
堀辰雄の小説について書いた時のようなつもりで始めたのだったが、詩のように凝縮された堀辰雄の世界に比べると、原田さんの世界は言葉の量に圧倒されてしまう感じが強く、しかも一つひとつの言葉が詩と同じようにみな生命をもって輝いていて、どれもこれも拾わずにはいられなくなって、こういう結果になってしまうのである。
世に出てから60年にもなるのに、繰り返し読めば読むほどに、登場人物がますます生き生きと存在感を増してくる。それは時代を超越した普遍的な人間を描いているからに他なるまい。挽歌はそんな稀有な小説である。(終)
ラベル:読書
posted by あきちゃん at 02:02| Comment(2) | 日記 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
秋ちゃんさん、お疲れさまでした。
原田康子さんの小説は、宝石のような言葉がちりばめられていて、掬い始めたら切りがなく・・・
今、手元にあるはずの挽歌が見つからず、読んで確かめることができないのが残念です。
傍にいたら痛いのではないかな、怜子は。
桂木さんもきっと痛いのでしょう。
中央アジアへ旅立とうと決めたのは、怜子とともに過ごすことはできないと悟ったからではないかな。
ホテルに戻ったとき怜子がいないさんことも、きっと桂木さんは分かっていたのではと思います。会いたいと思う気持ちとは別のところで。
4月になったら、家じゅうの整理を始めますので、必ずや見つけて再読します。
Posted by 聖母の鏡 at 2019年03月02日 01:44
聖母の鏡さん、お久しぶりです。コメントいただきありがとうございました! ネタバレのしかもこんな拙い紹介に最後までお付き合いくださり恐縮です。
掬い始めたら切りがない宝石のような言葉、ほんとうにおっしゃる通りだと思います。
桂木さんにはホテルに戻ったとき怜子がいないことがわかっていた、なるほどそういうことなのですね……
原田さんの作品はみなそうなのですが、ことに挽歌は何度読んでもそのたびに新しい発見があり、ワクワクというか、じわーっとした感動が湧き上がってきます。たいてい小説は1回読んだらお終いという場合が多いのですが、気が付いたら何度も読み返してしまっていました。
Posted by あきちゃん at 2019年03月04日 00:34
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