2019年02月22日

マリアの浄めの祝日のカンタータBWV82の聴き比べ(その4)

一昨年3回にわたってBWV82の聴き比べについて記す機会があった。今年も2月3日のこの祝日がめぐってきたけれど、じっくり聴かぬまま過ごしてしまっていた。しかし、ふとしたことからここ数日耳を傾けることができ、聴き比べ以後に入手した演奏で、まだ聴き比べの対象にしていない重要な演奏が残っていたことに気付いた、カール・リヒターの選集と、アーノンクールとレオンハルトの全集である。
前者は、言わでもがなの演奏なのだけれど、これまで何故か取り立てて聴く機会がないまま過ごしてきてしまっており、後者は、レオンハルト担当ではなかったこともあって、聴き逃してしまっていた。
聴いてみてまず思ったのは、どうしてこれらの演奏をちゃんと聴いてこなかったのだろうという後悔の念だったが、そこはやはり前向きに考えることにして、いまこうしてこれらの演奏に出会えた幸せをかみしめているところである。聴いた印象を以前からの要領で記しておく。

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11、リヒター(B:フィッシャー・ディースカウ)
8′10″, 1′43″, 9′44″, 1′11″, 3′47″
最初のアリアはゆったりと噛みしめるように進む。オーボエはバスとともにオーケストラの前に出た感じで主役を務める。バスとオーボエのためのコンチェルトといった趣がある。
レチタティーヴォはバスの語りかけがとにかくうまい。情感豊かで感動的だ。レチタティーヴォというとサッと聴き飛ばしてしまうことが多いが、途中からにアリオーソを挟むこともあってか、レチタティーヴォの魅力に気づかせてくれた貴重な演奏だ。
中間のアリアは、優しく包み込むようなバスの雄弁な歌を弦がしっかりと支え、時折聞こえてくるオルガンの響きも美しい。中間で短調に転じるあたり、走り出しそうになりながら、しっかりと抑えながら前進するは微妙なバランス、早いのだがゆっくりなのだがわからないニュアンス。遠くまで見晴るかす景色が開いたり閉じたりする感じ。そして、ごく自然に音楽に浸りこませてくれるなつかしさがある。やはりバスのうまさは際立つ。
続くレチタティーヴォもバスの独壇場。
終曲は、速めだが走り出さない。バスの語りのうまさがここでも生きている。
バスはリリング版と同じディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウで、指揮者の方向性も似通っているが、実はリヒター版は1968年の録音で、リリング版より15年も早い。フィッシャー・ディースカウの若々しいが溢れんばかりの魅力に満ちた素直な歌声が限りなく美しい。リリング版の壮年期に入った歌声とどちらを取るかは、好き好きというか、その時の気分次第だろう。これほどの演奏を聞き分けられるなんて、なんと贅沢なことであろう!
【峻冽】

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12、アーノンクール(B:フッテンホッファー)
6′47″, 0′57″, 8′47″, 0′42″, 3′26″
最初のアリアは比較的目立つオーボエに乗ってバスが美しく歌う。かなり速く、切迫感を感じさせる。オーボエがやや崩れた行書風の演奏を聴かせるので、その印象が一層強まる。
レチタティーヴォも引き続き速く、バスは雄弁で誠実な印象。最後はテンポを落としてアリアを導く。
中間のアリアはつんのめるような速めのテンポで始まる。しかもくぐもったボワーンとした響きに、あれっとなる。調べてみると、これはオーボエ・ダ・カッチャというオーボエよりもむしろホルンの親戚のような楽器で、これがヴァイオリンのパートを受け持っているらしい。
しかも、始まってまもなく、最初の小節の終わりで変ホ長調のレからドに下がるとき、なぜか楽譜にないレの八分音符が繰り返されてドに下がるのである。3連符になって次の休符が短くなるわけである。こんなのは他の演奏では聴いたことがなく、石にけつまづく感じでとてもユニークだ。同じことが、続く第5小節で、ドからレに上がる時にも起き、楽譜にないドの八分音符が1つ余分に繰り返される。この音型は何度も登場し、大抵はこの一音多い形で演奏されるが、ふつうに2連符で弾かれるところもあり、区別はよくわからなかった。
バスは声量を下げふっと入ってくるニュアンスが美しい。時折テンポを落とし足元を確かめながら進むところもあるが、中間部は一転次第に加速して駈けぬける。しかし、長調に戻ると、夢から覚めたように元のテンポに帰る。テンポの揺れが大きく、意外性に飛んだアリアだ。フェルマータの間合いにもハッとさせられる。全体のタイムとしては、聴き比べた中では最速の8分台で終わっている。テンポの揺れが大きいから、速い部分は数字に現れる以上に快速である。
二つめのレチタティーヴォも相変わらず速いが、終曲を見据えてぐっと絞った感じで進んでゆく。
終曲はテンポを上げ、キビキビとしたリズムで進むが、優しく節度ある構えの演奏で、訴えかけるものが強い。最後は一陣の風が駆け抜けたかのようにふっと終わる。
【秀麗】

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もう一つの演奏があったことに気付いた。BWV1の演奏で目からウロコの思いを味わったエリック・ミルンズとモントリオール・バロックの演奏である。BWV147・BWV82との組み合わせで、聴いていたはずなのだが、超有名曲に挟まれた真ん中に置かれていたためか、特別の印象を抱いた記憶が残っていない。そこで今回改めて集中的に聴いてみることにした。

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13、エリック・ミルンズ(B:ステファン・マクラウド)
7′04″, 1′07″, 10′00″, 0′50″, 3′30″
アリアはオーボエのしっとりと落ち着いた響きに導かれて淡々と進む。響きからいうと、普通のオーボエではなく、これもオーボエ・ダ・カッチャかも知れない。音色のせいもあってか、節回しがとても滑らかで、耳に心地よい。
レチタティーヴォもさらりと力まずに歌われる。それを支える低音の響きが美しい。
続くアリアもごくあっさりと始まる。各楽器が、バスも含めてそれぞれに存在感を示しながら、誰一人出しゃばらずアットホームな雰囲気を醸し出す。素朴で穏やかな音楽が淡々と進行する。なぜだろう、ふと中世の町角を思い浮かべてしまう。朴訥な感じなのだが、まさに洗練の極みなのだ。最後は優しく閉じられる。
レチタティーヴォは、神への強い問いかけで始まるが、まもなくそれを恥じるかのように穏やかさを取り戻す。楽器たちがバスをしっかりと支える合奏のスタイルは不変だ。
最後のアリアは快速である。バスがやや引いた位置から聞こえてくる感じがして、楽器たちがみんなでバスと一緒に歌い始める。みんなが主人公の演奏だ。
【純朴】

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実はもう一つ是非聴いてみたいと思っている演奏がある。イギリスの名歌手、ジャット・ベイカーが歌うアルト版のBWV82である。だいぶ前に註文したところ、品切れでキャンセルされてしまい、それっきりになってしまっている。ネット配信で買えるようになってはいるようだが、CDだと2枚組のこの演奏は昔のLP並みの値段が付けられているので、少し躊躇っているところだ。指揮はユーディ・メニューインである。
それともう一つ。普段あまり気にせず聴いているのだが、BWV82の「我は満ち足れり」の意味を川端純四郎先生の対訳(http://www.kantate.info/cantata_kawabata-82.pdf)で見てみたら、満ち足りた気持ちで神のみもとに行けるというもので、要は死の歓びを歌うものなのである。これはかなり意外なものであった。ただ、音楽と引き比べてみると、そう単純ではない。
「私は満ち足りています、……今や私の望みは、今日にでも喜びのうちにこの世を去ることです。」(以下、カギ括弧内はいずれも川端純四郎先生の上記の対訳による)と、満ち足りた気持ちを歌う最初のアリアが沈んだ短調であり、「私は私の死を喜び迎えよう。ああ、今日にでもそうなれば!」と、苦難から解放され死を歓び迎える気持ち歌う最後のアリアもかなり切羽詰まった深刻な短調で歌われる。これに対し、「まどろめ、疲れた目よ、おだやかに浄福のうちに閉じるがよい。」と歌う中間のアリアは、優しい長調である。恐らくこれは、死を恐れる人間の正直な気持ちと、死はけっして恐れるべきものではないという、神の立場からの祝福、語りかけとを歌い分けているのであろう。
中間のレチタティーボも、死に対する人間の恐れと憧れとをかなり率直に歌っている。ことに、「私の神よ、その美しい今はいつ来るのですか」と問いかける2つ目のレチタティーボは率直な問いかけを神に対して行っている。満ち足りた死にしては、最後が短調で終わっているのは意外な気がしないでもないが、勇気を奮い起こして死に立ち向かっていこうと鼓舞している、そんな感じなのであろう。
いずれにしても、音楽が全てだと強がってみても、歌詞を見ながら内容に即して聴いてみるとまた発見があるものと、いまさらのように当然のことを実感させられたのであった。
ラベル:バッハ 音楽 CD
posted by あきちゃん at 00:34| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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