2019年03月06日

梨木香歩さんの『海うそ』を読む(その1)

龍目蓋─影吹 イタビカズラ/ヤギ 二階屋
十三夜の月が上がる静かな晩、本土の西に浮かぶタツノオトシゴの形をした島、遅島の、その眼の位置にあたる龍目池をたらい舟で渡り、湯浴みに行く爺さんと婆さん。彼らを見送った私は、1人池で水浴びをする。
そんなはっきりしていそうで、茫漠とした、夢のような場面からこの物語は始まる。月明かりの意外なまでの明るさと、それによってかえって暗さを増す闇とが、お互いを強調し合う静寂な世界。
翌朝の何気ないが、美しくも愛おしい情景描写。丸顔で、小芋をいつまでも土に埋けておいたようなシワの多い顔の婆さん、ウネさんとの会話。この絶妙なもうこれしかないといえる比喩にノックアウトされてしまう。ウネさんの、ほうよねえ、ほやけど、ほやねえ、という受け応えの、「そう」にあたる「ほ」の語感がなんとも言えずおっとりとして、ほんわかとしたのどかな気分にさせられる。
「きよはどっちへ」も同じ。「きよ」は名にあらず、今日のことだという口が挟まれるあたり、おやっと懐かしい気分が横溢してくる。
無節操な植生、という言い回しに関する註記などもそうだ。大真面目なのだか、とぼけているのだか、ふっと微笑みたくなるようなこの気分、どこかで味わったような…

影吹を目指して龍目蓋(たつのまぶた)の家を出て、坂を登りきると、木立の間から海が見えてくる。茫漠とした海と空の境界、その水平線附近をゆく外国周りの船、キノコのように湧く入道雲。次第に山に分け入るにつれ、さまざまなアイテムが引き続きごく自然に次々に登場し、読者は語り手の私とともにいいようもないメランコリックな気分に襲われる。そして知らず識らずのうちに、先ほども書いたどこか懐かしくなんとも心地よい世界に連れていかれているのを感じる。前日カモシカに出会ったくだりやノラヤギの話あたりから、それは確信に変わってゆく。家守綺譚や冬虫夏草の世界、そう、あの綿貫征四郎の語りを思い起こさせるものなのである。
影吹の近く、山を分入った先で、幻かと思うような西洋館(ウネさんをはじめ、平屋が当たり前の島の人たちは、二階屋と呼ぶ)に遭遇する。海うその物語の展開で重要な役割を果たすことになる、山根さんの住まいである。
ここで私はのちに、廃仏毀釈前の島の様子を伝える、善照さんの史料に出会う。善照さんこそは、二階屋の当主、山根さんの父君だった。善照さんは、廃仏毀釈の荒波にもまれ、修行の道を捨て島を出ることを余儀なくされたのだった。
最初に二階屋に遭遇した時、私はその門を叩くことはなかった。龍目蓋の嘉助さんとウネさんのところに戻ってから、じんわりと浮き上がってくるような記憶を聞かされるのである。嘉助さんに比べると、ウネさんの記憶の甦りは至ってゆっくりと穏やかでのんびりとしている。しかし、そこには付随するさまざまなものが絡みついて一緒に湧き上がってくるかのような感がある。

この章の終わりで、語り手の私がこの島にやってきた経緯が詳しく語られる。亡くなった恩師佐伯教授がやりかけていた仕事に興味を持ったのだ。そして、昭和に入ってあと数年で10年という、語られている時点の座標軸がようやく示される。しかし、それが語り手の私の立つときと同じかどうかはまだわからない。時の座標軸が明かされずに物語は始まっていたので、普通に今の話かと思い込んで読んできていると、ここで軽くいなされてしまい、これは一筋縄ではいかない物語らしいということを実感させられることになる。
海うその語り手の人文地理学の学徒、K大学の秋野は、あの大真面目だが能天気ともいえる味わいの綿貫とは本質的に異なる、もう一つ深い世界をもつことを余儀なくされた人間であることが、次第に明らかになってゆく。それは、少しずつさりげなく語られるので、うっかりすると読み飛ばしてしまいかねない。中編ながら、語りかける世界の奥行きは深く、パックリと口を開けた深淵ともいうべきありさまで迫ってくる。
秋野には、恩師のやり残した仕事の補完という以上に、島そのものに惹かれ、報告書に出てくる寺院を示す地名のついた風景の中に立ち、風に吹かれてみたい、決定的な何かが過ぎ去ったあとの、沈黙する光景の中にいたい、人の営みや時の本質が知りたい、そうしたそれこそいうにやまれぬ思いがあった。それらが静かに語られたあと、許嫁と両親を立て続けに亡くしたことがさらりと吐露されて、最初の章は閉じられる。亡くした、ではなく、亡くしていた、であり、物語の現在と語りの時点との隔たりが暗示されている。
秋野がこの島を訪れたのが、そうした身近な者の死と深く関係していることを確信するに至ると、冒頭の何気ない記述が深い意味をもって迫ってくる。それは、たらい舟に3人乗って池の真ん中でひっくり返りでもしたら、という記述の中の、私自身はそれでいいとしても、というひとことである。心に傷を抱いてこの島を訪れたことが述べられていたことに気付く。詳しくは語っていないけれど、彼がどんな気持ちを抱いてこの島を訪れていたか、想像するにあまりある。

海ウソってなに? 遅島という名の由来は? オソとウソは何か関係があるのか? 途中で明かされるものもあれば、茫漠としたままで終わる謎もある。しかし、そうしたなにか得体の知れないもの、雲をつかむようなもの、それでいてひどく懐かしく見覚えのあるもの、その周りをぐるぐると展開しながら物語は進められてゆく。

この章に登場するさまざまな生き物たち。ゴイサギ/雄鶏/ミンミンゼミ/トビウオ/サルトリイバラ/ヤブツバキ/ハマヒサカキ/トビ/カモシカ/ヤギ/ヤブツバキ/カシノキの仲間/カナクギノキ/ハイノキ/モッコク/イスノキ/スダジイ/ヘゴの木/アサギマダラ/カラスバト/ウバメガシ/イタビカズラ
イタビカズラで止まってしまうのは、それが山根さんの二階屋を飾るものだったからである。山根さんとの出会いがなければ、秋野が海うその物語を書き止めることはなかっただろう。

そう、忘れてはいけない、海うその各章付けられた梨木さんらしいタイトルに触れておかなくては。それは、家守奇譚や冬虫夏草の植物の名を冠した章名を思い起こさせるものだが、海うそではさらに凝っていて、例えば最初の章は、初めに書いたように、「龍目蓋-影吹 イタビカズラ/ヤギ 二階屋」というもの。
初めに、秋野が辿る道行きの始点と目的地、それにそれを導く植物と動物から代表的なものを一つずつ、そしてその章で話題になる遅島を特徴付ける事柄を一つ列記する形で命名されているようだ。その意味は、読み進めれば自ずと明らかになるだろうが、この章でいえば、イタビカズラは、二階屋を飾るもの、ヤギは、冗談のようなノラヤギの話に登場すらヤギである。ウネさんの独特の風貌とともに、この島の風土を象徴するものといってよいであろう。

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龍目蓋─角小御崎 アコウ/ニホンアシカ モノミミ
翌日は雨。いったい雨というものはこれくらい降ってもいいものかというくらいの降り方だが、嘉助さんもウネさんは一向に動じる気配さえない。昔からこうだったと達観した様子。ウンキの話、雨坊主の話などを聞く。
午後からはウソのように晴れ上がる。
角小御崎に向かい、船を借りる。ウネさんから聞かされた船霊に手を合わせる。櫓で海底を蹴るようにして沖合に進む。ふっとこのまま海と空の境界に連れ去られてしまいそうな感覚に襲われる。
沖合から島の植物相を観察する。アコウの大木に、人の作る社会の姿を見る。角小御崎には、ウネさんから聞いていたニホンアシカはいなかったが、突端に明らかな人工物の廃墟が見える。それはかつてこの島にいた沖縄のノロに似たモノミミと言われる者たちものだった。ウネさんに詳しく尋ねようとすると、沈黙が続いたあと、見事にはぐらかされてしまう。

この章に登場するさまざまな生き物たち、ヤギ/ウバメガシ/ヘゴの木/アコウ/ニホンアシカ/クロマツ/ビロウ

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ここのところずっと挽歌について考えていたこともあって、他の本が読めずにいたけれど、先月漸くひと区切り付けることができて、久し振りに新しい本を開くことができた。前からいつか読みたいと思っていた梨木香歩さんの『海うそ』である。タイトルからだけではどんな本だか見当が付かず、さほどの分量ではないので、いつでも読めるだろうという気持ちと、大切にとっておきたいという思いもあって、求めてからもう随分になるのに、ついついここまで読まずに来てしまった本である​。
ひと通り読み終えてみて、見かけのボリュームに比べて小説の世界の広がりの大きさに圧倒されてしまった。ただ、けっして言葉が少ない訣ではないのだけれど、もっともっと読みたいというところで終わってしまったという思いが残り、考えさせられたところを充分整理しきれないでいる。どこまで理解できるかわからないけれど、再読しながらまた少しずつ紹介していってみたいと思う。今回は取り敢えず最初の2章だけである。
ラベル:読書
posted by あきちゃん at 03:19| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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